杭の章

第17話 目と鼻の先の未来

昔々、世界は空虚な空間だった。
その頃、世界には、光をまとうアスターディアという女神と、闇をまとうルグラグという女神がおられた。
その女神二人が存在するだけで、天が生まれ、地が広がり、海が溢れ、そして命が、次々に萌芽していった。
互いに正反対の性格、属性を持つ二人であったが、とても気が合い、意気投合した。

 

ところが、世界に人という生物が増え始め、長き時を経た後。
光を崇高し、闇を邪険していた人々は、光をまとうアスターディアを崇め、闇をまとうルグラグを蔑んだ。
悲哀に暮れるルグラグのためにも、アスターディアは、ルグラグも受け入れてもらおうと、人々に幾度も説いた。
しかし人々は、一向にルグラグを認めることはなく、それからいくら歳月が流れようとも、それは変わることはなかった。

ルグラグはひどく悲しみ、洞穴を入口に闇の世界を創り、その世界に閉じこもってしまった。
その世界は、わずかでも光を有する者は、決して入れないという世界だった。
アスターディアもひどく悲しみ、湖を入口に光の世界を創り、その世界に閉じこもってしまった。
その世界は、わずかでも闇を有する者は、決して入れないという世界だった。
こうして、二人の女神の関係は、人々によって引き裂かれていった。

二人の女神の悲しみは、違う悲しみだった。
長き時を経て、ルグラグの悲しみは、アスターディアの悲しみは、それぞれ別のものへと変わってゆくだろう。

「………………」
 ウェンも言っていたが、イプラストの伝承では、アスフィロスをアスターディアという女神、ドゥルーグをルグラグという女神に置き換えているらしい。概略するとこんな感じだ。
「……この微妙な終わりなんだよ……」
 丸っこい文字で書かれた、堅苦しい文献の内容。キルアが古クルナ語から翻訳した伝承を読み終わり、ゼルスはついぼそりと呟いた。
 この消化不良な感覚は、前にも覚えたことがある。

  『そしてドゥルーグは、姿を消した』

 ルプエナの伝承は、文章自体も短く、他国に比べると簡略なものだ。あの最後の一文だけ、やけに頭に残っていた。
「読み終わったんですか?」
「おもしろかったー??」
「ん……まぁ」
 正面に座って本を開いているウェンと、イスに逆向きで座るキルアに声をかけられ、ゼルスは曖昧な返事をした。
 さっきから暇そうなキルアが、両手を出して言ってきた。
「じゃあ、ボクも読む!貸してっ♪」
「あー……お前、やめといた方がいーぞ」
「むっ、絵本の中身なら読めるもん!」
「いや威張るとこじゃねぇし……っておい!?」
 べーっと舌を出して言ったと思ったら、キルアはゼルスの手から伝承の紙片を奪い取っていた。
 反応が遅れたゼルスが制止をかけようとした頃には、キルアは紙を凝視していて。そして、ふわっと天井を仰いだと思うと……、

 ばったーんっ!!

 ……次の瞬間には、目を回して仰向けに倒れていた。
 イスの上に膝で立っていたから、ほぼ起立状態から倒れたことになる。……でもこいつは石頭だから頭は無事か。
「あ゛ーったく、だからやめとけっつったのに……翻訳中にぶっ倒れられたら困るから内容読むなって言ったけど、詰めが甘かった……」
 ゼルスは頭を掻いた。キルアが小難しい文献などを見ると、必ずこうなることをこれまでの付き合いで知っていた。多分、知恵熱の部類だ。
「だ、大丈夫ですか!? キルアさんっ?!」
「ふれはりほぇえ〜〜」
 ウェンが倒れたキルアに駆け寄る横にゼルスも近寄り、少女の手から伝承の紙を奪いとった。コイツにはこれは猛毒だ。
 それを、立ったままもう一度見やる。最後の文に目を留めると、再び考え込み始めた。
(……これで、4つの国の伝承がすべて出揃った)
 フィンの言う通りなら、それぞれ事実が隠されているはずだ。推測だが、恐らく……

 ルプエナは、ドゥルーグが現界の者に封印されかけたこと。
 リギストは、天界、冥界、現界の三界の存在について。
 カルファードは、従士の存在、現界が光と闇の世界であること。
 そして、イプラストは、光と闇が親友であったことだ。

 ――光と闇は、相反するもの。
 そんな固定観念のせいか、二人は仲が悪いのだと決めつけていた。
 アスフィロスとドゥルーグが親友であったなど、一体誰が思いつくだろう。

「あの、ゼルスさん、何処か寝かせられるところ作ってもらえませんか?運ぶのは僕でもできますけど、そういうものがなくて……」
「ほっとけ、どーせすぐ起きる」
「でも……」
「それより……ウェン、お前はこの、アスターディアが天界の入口にした『湖』って何のことだと思う?」
 足元のウェンにそう問うと、彼は手を休めて答えた。
「リギストのアノーセル湖ですね。あの周辺は魔力が豊富ですから」
「魔力?そういや、フィンがそんなこと言ってたな……それ、関係あるのか?」
 魔力といえば、キルアが魔法を使用する際に使っている力だ。文字を刻んでいる光がそれだ。
 確かにキルアは魔力を大気中から集めると言っていたが、アノーセル湖との関係性はよく分からない。
 ウェンは少し考えて。
「えっとまず……魔力は、現界に溶け込んでいます。現界と同じように、光と闇の力がぶつかりあって生まれた力です。光と闇の力にはそれぞれ性質がありますが、それらが打ち消されて、純粋な力だけが残ったのもが魔力……という感じです」
「ふーん……」
「魔力自体に意思はありませんが、光と闇に共鳴する性質があります。四大精霊も大本は光と闇ですから、その理屈で魔法は精霊に干渉しているわけです。それに気付いた人も凄いですけど……」
「ってことは、二人がいる頃は魔力が満ちていて、それが勝手に現界を創っていったってことだな。……で、真偽はともかく、お前は何でそんな詳しいわけ?」
「え?あはは……訳ありというか……精霊学……とかです」
 ゼルスが胡散臭そうに見やると、ウェンは困った顔で笑った。
 何やら裏があるのは分かるが、本気で騙そうとしている様子もないし、無邪気に意気揚々と話す様を見ているのでどうも調子が狂う。
 ウェンは真剣な顔に戻り、続ける。
「話を戻しますが……アノーセル湖に魔力があふれているのは、天界との接点だから……要は、光の力との接地点だから、と考えるとどうでしょう?」
「……確かに考えられるな」
 なら「洞穴」というのは、やはり迷いの森の洞窟ということになるだろう。天界を繋ぐアノーセル湖は実在するということは、冥界を繋ぐ洞穴も実在するということになる。
 つまり自分達は、冥界の入口を探している。
(……そういえば……)
 ふと、アスナで思い出したが、彼女が視たという予見は、ひどく抽象的なものだった。

 果てしない空。
 空を翔ける2つの影。
 黒い燐が、闇が溢れてくる。
 最後に、眩い閃光が覆い、それを黒が裂いて。
 ——そして、途切れる。

 光がアスフィロス、黒や闇がドゥルーグを指しているのだとしたら、それは恐らくひどく悪い暗示だ。

 改めて、イプラストの伝承の最後を見る。
 この先は、想像に任せるということだろう。ルプエナは遠回しでわかりにくいが、イプラストは想像を掻き立てられる文体になっている。
 ルプエナの伝承を読んだ時から、無意識のうちにずっと引っかかっていたのだろう。
(……この後、ドゥルーグはどうした?)
 いまだに冥界に引きこもっている?
 それは違う。なぜなら、ドゥルーグの従士を名乗る者がドゥルーグの名の下に暗躍している。
 闇の支配者は何をしようとしている?
 今、何処にいる?

  『長き時を経て、ルグラグの悲しみは、アスターディアの悲しみは、それぞれ別のものへと変わってゆくだろう』

 アスフィロスとドゥルーグの悲しみは、「同じ悲しみ」ではない。
 闇を恐れる人々に自身を否定されたドゥルーグの悲しみは、長い時を経てどうなるか?
 一人ぼっちでずっと悲しみを抱えたまま、長い時を経れば、どうなるのか?

 かつての従士の言葉が蘇る。

  『ドゥルーグサマだって、ずっと信じてたよ。けど、現界の者どもが最終的にあの人に叩きつけた答えは、コレだ』

 ああ、そのくらい噛み砕かれると理解できる。
 きっと魔王だって、一瞬でも思考にちらつくはずだ。

 ――自分を陥れたものすべてに「復讐」したいと。

 ……………………


 かつてないほどの屈辱だった。今でも両腕に鳥肌が立つ。
 それを擦って黙らせながら、ゼルスは森の中に立っていた。
 迷いの森という呼称のせいか、隔離された場所にそういう森が存在するのだと思い込んでいた。しかし、よく考えてみれば、イプラストは国全土が樹齢何百年という無数の巨木に覆われている島だった。よって、森同士の境界など存在しない。
 ……ということで、致し方なく、現地の者にその場所を尋ねたのだ。今まで遠くからしか見れなかった興味深い存在が間近にいることに興奮を隠せない、その時のエルフ達の様子を思い出して虫唾が走る。
 そのかいあって、彼は問題なくここに立っている。

 ――国の西側、霧深く、誰も立ち入らぬ地方があるという。
 その地方だけ局地的に霧が立ち込めており、入った者は目指した方向とはまったく違う方へ進んでいる。まるで森が人を拒んでいるかのように。
 いつしかそこは精霊の聖域とされ、近付くことがそもそもの身の程知らずとされた。
 その森の最奥に踏み入った者は、いない。

 すっと、手を差し出す。目の前に浮遊していた光の帯に触れると、霧特有の湿った感覚がした。
 確かに霧だと納得しているゼルスの横では、キルアが青い顔で震えていた。
「なな、なんかイヤーな感じぃ〜……」
 キルアがそう言うのも無理はなかった。
 イプラスト全土を覆っているのは、柔らかな木漏れ日と鳥のさえずりが響く、心地の良い森だ。
 しかし彼らが眼前にしている迷いの森は、その明るさとは真逆だった。

 鳥の鳴き声は皆無。死んだような静寂に満ちていた。奥へ奥へと果てしなく続く幹はまるで葬列のようだ。どっしりとした幹が、こちらでは重々しい圧迫感を与えている。
 背後の森から吹き抜けた爽やかな風が、こちらの森に入った瞬間、突風に姿を変える。空を覆い隠すように伸びた枝々がざわざわと不気味な音を出して揺れた。
 その木々の間を漂う霧は、冥府への誘いにも見えた。
「……こりゃ確かに、迷いそうだな」
「きっとオバケがジャマしてるんだよ!やややっつけなきゃ!!」
 ぐっと拳を握り締め、青白い顔とは裏腹にやけに張り切るキルア。
 さっきから様子が変な彼女を横目に見て、なんとなく見当がついたゼルスは、わざと言ってみた。
「へぇ。それじゃキルア大先生の腕前をオバケに見せつけなきゃな」
「ふえッ!?」
「やっつけなくても、脅せばビビって逃げてくんじゃねぇ?」
「そ、そんなわけないじゃん!だってオバケってスカっとすり抜けちゃうんだよっ!? 無敵なんだよー!?」
「あ、ほら後ろに……」
「ひやあぁああーーーッッ!!!?!?」
 悲鳴は予測していたので、完璧なタイミングで耳を塞いで受け流した。
 ベタな嘘に引っかかったキルアは、そこからゼルスの方に飛び退いた。ゼルスがひょいと横にずれて避けると、キルアは彼の横で仰向けに倒れ込んだ。
 ……そういえば、リギストでも怖がっていたようだし、キルアはオバケがダメらしい。なるほど、彼女曰く「無敵」だからか。ちなみにゼルスはオバケ……もとい、幽霊を信じていない。

「……っていうかお前、世界一周旅行したんだろ?その時にここにも来たんじゃねーの?そんな口振りで前話してただろ」
「初めて来たよ!オバケが出るなんてボク聞いてないよー?!」
「あぁそう……そりゃ残念だな。とりあえず、入ってみるか」
「ひえええーーーっ!!?!」
 ゼルスがちょっと買い物に行くような軽さで言うと、キルアが跳ね起きて泣きそうな声を上げた。
 こっちはちゃんと調べておきたいのに、こんなのが周囲をうろちょろされたらたまらない。ゼルスは耳を塞いでから嘆息し、涙目のキルアを見て言った。
「お前はここで待ってろ」
「ふええそれもやだぁ〜!! 一人にしないでよぉ!ボクも行く!」
「あーやめとけ、きっと中はオバケの巣窟だ」
「う、ううう〜……じゃあ待ってる……」
 思いついたデタラメを言ってみると、キルアは物凄く不安そうな顔をしつつも頷いた。
 どちらにせよ、入ったところに何か目印がないと戻ってきたこともわからない。この森の中では何処も似たような景色にしか見えないし、ちょうどいいからキルアで代用しよう。
「お前、絶対ここから動くなよ。オバケが襲ってきてもだ」
「えぇええッ!!? それじゃボク、食べられちゃうよぉーー!!!」
 冗談で言うと、キルアは真剣な目でそう返答してきて、ゼルスは気付かぬうちに沈黙していた。……オバケというものを根本的に誤って認識しているような気がする。
「……まぁ、そん時はオバケの腹から出してやるよ」
「で、できるの!? ゼルス、無敵のオバケに攻撃できるのー!?」
「あーできるできる。だからそっから動くなよ」
 キルアにとっては大問題らしいことをゼルスは適当にあしらい、霧に包まれた森へ向かって飛んでいった。

 この地方の森は、まるで巨人の世界に迷い込んだようなスケールだった。集落ひとつ軽く越えられる高度で飛んでいるのだが、木々の頂はそのもっと頭上にある。
 高く高く育った、力強い幹。五人くらいでやっと取り囲めそうな太さの幹が立ち並ぶ間を、ゼルスは一羽の鳥になったような気分で通り抜けていく。
 思ったより視界は良好だ。迷いの森という割には、普段見る霧と濃度は変わらない。いや、霧といっていいのか……少なくとも、自然現象ではないとゼルスは踏んでいるが、肌に触れる冷ややかでしっとりとした感覚はひどく本物の霧に近い。
(で、洞窟だっけ?見当たらなそうだな……このままだと地図上は海に出るけど……)
 きょろきょろ見渡しながら飛ぶが、目当てのものはない。当然だがオバケはいない。
 とにかく前へと進んで……少しして、木々が視界の真ん中から退き始めた。
 その正面に見えたのは——キルアの姿だった。さっきと変わらぬ位置に立っている。
 ただ、先ほどと違っていた点が1つだけ、あった。

 さっきまで自分が入っていた背後の森を振り返り、ゼルスはぞっとしたような顔……はせず、呆れたような顔をした。
「マジかよ……本当に戻ってきた……」
 不気味というより、こんな馬鹿げたことがあっていいのか?という気持ちの方が強かった結果の表情だった。
 何もそれらしい予兆はなかったのに、空間がねじ曲がっているとでも言うのだろうか。いまだに釈然としない気持ちで、ゼルスはキルアの傍に下り立つ。
「あっ、ゼルス!帰って来たんだ!」
「いや、俺はあくまでも前に進んだつもりなんだけどな……追い返されてきた」
 ゼルスは参ったように頭を掻き、やけに嬉しそうなキルアに言った。
 その嬉しさは、「オバケが襲ってくるかもしれない恐怖から解放された」が半分、「隣の『それ』の相手から解放された」が半分だろう。

 ゼルスは、キルアの隣に目を向けた。そこに、自分が迷いの森に突っ込む前と違う点があった。
 紫色の双眸が、ニカっと笑う。
「よぉ〜、久しぶりやなぁ、ゼルス」
「……セウル……」
 鳥族の少年が、ひょいと片手を上げて挨拶してきた。以前は極彩色の銀髪だったが、今は光の角度か、水色がかった銀に落ち着いて見える。
 自分を警戒した目で見返してくるゼルスに、セウルはけらけら笑って言った。
「おーおー、こっわーい顔やなぁ」
「……何の用だよ」
 明るいセウルの声とは真逆に、ゼルスは無意識に低く返した。キルアも注意深く、得体の知れない鳥族から目を離さない。当の本人は、その二人の視線を何食わぬ笑顔で受け止める。

  『境界ははっきりしとる。絶対に、交わることはあらへんのや』

 あの時の重厚な存在感を忘れはしない。忘れられなかった。
 あれは恐らく……久しぶりに覚えた恐怖。
 あの圧力がどういう意味だったのかはわからない。だが少なくとも、この少年には、底知れない裏がある。

 ……やがて、その緊張した空気に耐えかねたように、セウルが肩で大きく溜息を吐いた。
「まぁしゃーないけど……そうコワイ顔すんなや。別に、オマエらに用があって来たわけやあらへんし」
「へぇ、なら散歩か?こんなとこまで?」
「おう、せやで」
「………………」
 ゼルスの皮肉に気を悪くすることもなく、そもそも否定さえせず。少年は清々しいまでに肯定し、頭の後ろで手を組んでころころ笑う。一番有り得ないことを言ったはずのゼルスの方が、二の句が継げなくなる。
「ウチ今、各地回ってんねん。ンで、このイプラストで最後なんや。迷いの森でも見とこかと思ってなぁ」
「あ……ボクも昔、世界一周、したんだよっ」
「お、ホンマか!さっすが鳥族、同志やなぁ〜♪ なぁなぁ、世界一周って、ホンマに世界一周か?」
 セウルは興味津々に聞いてきた。
 この屈託ない笑顔とあの見下した嘲笑は、あまりに対照的だ。同じ人物の笑みだという事実が呑み込めない。
 目をキラキラと光らせるセウルに毒気を抜かれたキルアは、目をぱちくり瞬いて、そろそろと言葉を紡ぐ。
「う、うん……バルト牢獄とか、アノーセル湖とか……ルーセベルズとか、ザクスとか、いろんなもの見たんだよ!」
「は〜〜っ、端から端まで回ったんやなぁ……バルト牢獄ってメッチャ北やん。ちゅーか牢獄にわざわざ行くっちゅーのがモノ好きやな」
「うん、地面がずーーーっと真っ白でね、なんか違う世界みたいなんだよ!すっごく寒くてね、雪もキレイ!」
 だんだんと緊張がほどけたのか、最後にはキルアの顔にいつもの笑顔が戻っていて、ゼルスはなんとなく安堵した。キルアが警戒を緩めたことで、自分一人が傍で疑心していられる。

 ふと、セウルの紫瞳がゼルスに向けられた。
「ンで?お二人さんは迷いの森観光?」
「……まぁな。ずっと直進して今追い返されてきたところだ」
「わはは!ホンマに空間歪んどるんやなぁ~。さすがのゼルスもお手上げちゃう??」
「俺はミステリー解決探偵じゃねーからな」
 嘆息するゼルスに、少年は心底おかしそうに両肩を震わせて笑った。
 セウルはおもむろに森に近付き、霧にひょいっと手をくぐらせて問いかける。
「オマエら、コレ、どーゆー仕組みやと思う?まっさか自然物やとは思ってへんやろ??」
「そりゃな。キルア、お前の得意分野だぞ」
「ほえ??」
「……こんなんどう考えても魔法とか精霊とかそっち系の事象だろ!」
 今初めて知ったとばかりのキルアに、思わずゼルスはこめかみを押さえた。
 実際に体験してきたゼルスには、まったく何の気配も掴めなかった。種族ゆえの鋭い感覚はもとより、五感に関しては自信がある。その上で、物理的に曲がった曲がらされたなどの感覚はまったくなかった。
 となれば残るは専門外——魔法や精霊などによるものだろう。
「あっ確かに〜!なるほど〜!!」
 やっと理解したらしいキルアもポンっと手を打って、でも眉をひそめて首を傾げる。その様子に、ゼルスも違和感を覚えた。
 キルアは、特に魔法に関しては感覚だけで使いこなす天才肌だ。魔導具の気配や精霊の変化など、目視できないものも野性の勘で嗅ぎ分ける。それだけ魔法の気配には敏感だ。
 ——つまり今、ゼルスに言われるまで、キルアが『その気配に気付かなかった』ということ自体が不可解だ。
 案の定、キルアは困った顔で言う。
「でもでも……何もないよ〜?魔法も、精霊ちゃんも、なんにもない!すっごく普通!」
「キルアがそう言い切るなら、やっぱそういうことになるのか……」
 ここには、魔法や精霊などの形而上の力は働いていない。天才魔術師が断言するならそれが事実だ。
 その事実を、たった一言が撃ち抜いた。

「そりゃキルアにはわからへんわ。コレは『本当の魔法』やもん」

 引っかかる言い方をしたセウルは、キルアを一瞥して続ける。
「キルアが普段使っとるみたいな、一般的に魔法って呼ばれるモンは人工物なんや。せやから人工物のニオイがプンプンしよる。判別しやすいんや。もちろん魔導具もな」
「じんこうぶつ……??」
 専門外のゼルスに気を遣ったのか、セウルは順序立てて話し始めた。
「まず、みんなが知っとるその『魔法』っちゅーんは、人が魔法学を基盤に確立させた精霊干渉の手法のコトや。筆記と名唱、意思と魔力で精霊を使役し導く手法。ココまではえーな?」
「……あぁ」
「で、こっからが本題や。『本当の魔法』……ややこしいなあ、コッチは『始祖魔法』って呼ぶで。始祖魔法は、光と闇の支配者が、四大精霊と光と闇の精霊を操り、引き起こす現象のコトや。有り体にいえば精霊干渉やな。けど、エルフとかの精霊干渉とは全然規模が違うで。幅も広いしな。そいつらは精霊らの王みたいなモンやから、精霊干渉だけで今の魔法以上の現象を引き起こしとった」
「………………」
「それに、現界の者が目をつけた。自分たちでも似たような現象が起こせるように、始祖魔法をマネて、人工物の魔法を作ったんや。学問として、始祖魔法を理論的に分解してな」
 ……確かに、見聞としてゼルスが知っている限りでも、魔法は精緻な理論で成り立っている。ゼロから生み出されたとは考え難い。研究対象かつモデルが存在していたのだと考えるほうが自然だ。
 自分たちが知るのは、『魔法を再現した魔法』なのだ。
 そして迷いの森の事象は「始祖魔法」によるものだと、彼は言っている。
 支配者が使う魔法。この森には冥界の入り口と言われる洞窟があるそうだし、天上の二人が何らかの理由で始祖魔法を敷いた可能性は十分に有り得る。

 ——それより。
 一連の説明を終えたセウルを、ゼルスは注意深く見据えた。
 セウルの顔に先ほどまでの笑顔はなく、何の感情も映らない無表情があった。
 かと思えば、その紫瞳がこちらに向くなり、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「なんやゼルス、スッキリせん顔やなぁ〜?ウチがこんだけ詳しいのが引っかかるんやろ?」
「……まぁ……」
「ま、ちっとワケありでな」
「……いや。それもある。けど、それより……」
「ン??」
 言いたいことがまとまらず、二度も歯切れの悪い返事をしてしまった。調子よく話していたセウルもさすがに不審がって見てくるが、つい目が横に泳いだ。
 この複雑に絡み合った感覚は、いったん自分でもわかるように整理してからでなければ、新たな糸を撚ることができない。
 ……が、横から飛んできた言葉が、その工程をすっ飛ばしてくれた。

「セウルは、魔法、キライなの??」

 大きな瞳を瞬いて、少女は純粋に問いかける。
 その問いはゼルスの混乱をもほどいた。彼が感じていたのは、解説する少年の言葉の節々からかすかに漂う粘性の嫌悪。紫煙の残り香のようにまとわりつく気配に、ゼルスは息苦しさを覚えていたのだ。
 ……そしてその矛先は、一点に向いている。
「だってセウル、魔法キライみたいに言うから、ボクの魔法キライなのかな?って」
「………………」
「魔法学もキライ?でもたぶん、作った人たちがキライ……なのかな?」
 相変わらずの、順序も説明も稚拙なキルアの言葉。でも今のゼルスも似たようなものだった。

 それらに対してセウルは、笑った。
 これまでの無垢な笑顔とは違う、あの嘲るような笑みで、でも何処か仕方なさげに苦笑気味に。
「隠そうと思っても隠し切れてへんなぁ……ま、そーゆーコトや。……さってと、ウチはもう行こかな!またアイツに追っかけられる前に、さっさと移動せな〜」
「アイツ?ゼドのコト?」
 問い返すキルアの横でゼルスは嘆息した。またコイツは、セウルの話のペースに呑まれている。話をすり替えられたことにさえ気付いていないだろう。しかしゼルスは、わざわざ追及はしなかった。
 意外なことに、セウルの方もきょとんと目を丸くした。
「ン?ゼド?誰のコトや?」
「……は?お前を追ってる、羽が馬鹿デカイ鳥族だよ」
「おお〜、アイツかぁ!ゼドっちゅーんか〜。知らんかったなぁ」
「へ?? 知らなかったのっ?」
「まぁなー。イチイチ名乗る間柄でもあらへんしな〜。ゼドな、覚えとこ」
 苦笑いして頭を掻くセウル。嘘をついている様子はない。
「アイツが来る前に、はよ移動しとかな。っちゅーわけで、ゼルス、キルア、そんやーな!」
「へっ?? あ、うん……ばいば〜いっ」
 セウルは、二人の返事を聞くのもそこそこに、手を振りつつ宙に舞い、ぴゅーんと飛んで行ってしまった。
 彼が飛んでいった空の方向を見て、キルアが遅ればせながら小さく手を振った。
 念のためサイフがちゃんとあるか確認してから、ゼルスはやっと、先ほどのセウルの言動を信用した。
「なんかセウルって、いっつも忙しそーだねー。もっとお話したかったなぁ〜」
「へぇ……前の時は怖がってたのにか?」
「ん〜、それはそーなんだけど〜……今のセウル、全っ然怖くなかったし、話してるとなんか楽しいし☆ ふっしぎ〜!」
「まぁ……な」
 前の時は圧迫感だけを残して飛び去っていたが、今回は本心からの屈託ない笑顔を浮かべる、何処にでもいそうな少年という印象を残していった。ますます訳がわからない。
 信用に足らない相手を印象だけで肯定したくない主義のゼルスは、あのように掴みどころのない奴が苦手だ。
 セウルが自分たちと敵対したいのか、それとも友好的でいたいのか、これまでの言動では判断しかねる。本心がまったく見えない相手は警戒対象だ。
 けれど……

  『隠そうと思っても隠し切れてへんなぁ……ま、そーゆーコトや』

(……人が嫌い、か。同感だな)
 たったひとつ、それだけは確かな気がした。


 害か無害かグレーな相手には、相応の距離感を保つのが基本だ。
 その思考を遥かに越えて、彼は笑顔で目の前に立つ。
「ノア、これだけの本をよく集めたね。どれも面白いよ」
 数冊の本を両手で持つ少年。金髪のポニーテールと細身のせいで一見少女と見紛うが、空色の衣が包む体は少女のそれよりしっかりしている。
 微笑むエメラルドグリーンの双眸に見つめられ、ノアは怒る気力も失せて嘆息した。
「……それは、楽しんでもらってるようでよかったです」
 大体、なぜ自分が敵に怒らなくてはならないのか。なんとなく頭が痛くなってきて、ノアは額を押さえた。
 ――イプラストの元首邸。相変わらず、ウェンはそこで本を読みあさっていた。そして、なぜか自分は丸め込まれて協力させられている。

 居場所なさげに、ノアは草で編まれたイスに座り込んだ。この邸宅の主は自分のはずなのに、この居心地の悪さは何だ。言わずもがな、この少年のせいだ。
 緊張はいつでも張っていた。緩めたつもりはない。それなのに、いつの間にか懐に入り込んでいる、不思議な距離感を持つ少年。
「……前から言いたかったんですが」
「なに?」
「貴方は、昔から俺に気を許しすぎだ。俺は貴方の眷属じゃない。距離は隔てるべきでしょう。大体、俺が裏切るとは思わないんですか?」
「裏切る……とはまた違うと思うけど、心配してくれるんだ。ノアのそういうところ、気に入ってるよ」
「はぐらかさないでください」
「その時はその時かな。でも君はしないよ」
 断定されてノアは黙り込んだ。
「でももし君が裏切るなら、それは嬉しいことだよ。考えが決まったってことでしょ?」
「……そうですね。ないと思いますが」
「きっぱり言うなぁ」
 朗らかに笑うウェン。彼には何も言わずともすべてを見透かされているようで、どうも緊張する。
 ふと、ウェンの表情が曇った。悲哀と後悔、困惑が渦巻く横顔。
 ——聡明な少年にも、たったひとつ、見透かせない憂いがある。

「……ねぇノア。『あいつ』は……僕をどう思っているんだろう」
 伏せられた目線は、寂しそうに石造りの床を這う。掻き消えそうな小さな声が、虚空に細く漂った。
「僕は、何もできなかった。大事な親友が傷ついていたのに」
「………………」
 その人物をよく知っていたノアであっても、今回の事例では断言しづらい。
 しかし——
「……さあ、中立の俺からは何とも。ただ……」
「ただ?」
「あの人は、貴方を恨んだりしませんよ」
 たったひとつ、それだけは確かな気がした。


 迷いの森を後にし、ヴェランに戻ってきた二人が元首邸を覗いたら、まだウェンは本をあさっていた。もしかしたら、ここで寝泊りしているのかもしれない。
 ウェンは顔を上げ、本を閉じて微笑んだ。
「お二人とも、おかえりなさい。ちょうどいいのでお茶とお菓子を出しますね」
「……ただいま。いや、お前は邸宅の主かよ……」
「えっ、お菓子!? やったー!イプラストにお菓子なくて困ってたんだ~!!」
 邸宅の中がにわかに騒がしくなり、ウェンはなんとなく嬉しそうにお茶の準備をした。
 ティーカップに注がれた紅茶を差し出し、エルフの少年はのほほんと尋ねた。
「今日は何処まで行ってきたんですか?」
「迷いの森にちょっとな」
「このクッキーおいしい!ウェンくんが作ったの?」
「あ、それはルプエナから入ってきたものですね。エルフのお菓子はあまり美味しくないので……迷いの森、どうでした?」
「本当に中に入れないってこと以外、何の収穫もなかったな……」
 他愛ない会話をしながらお菓子を食べる。キルアではないが、確かに最近こういう時間がなかったので、なんとなくホッとした。
 ウェンはぐっと拳を握って、キラキラした目で言った。
「何で調べてるか知りませんが、また行きますか?次は僕もついていきたいです!」
「ン?!」
「ゴフッ」
 キルアはクッキーをくわえたまま目を見開き、ゼルスは思わず紅茶を噴き出しそうになって飲み込んだ。

 ——迷いの森の洞窟。アスナは、その中に『何か』を感じ取った。
 だからウェンについて来られると、今の自分達の行動……存在するとされる「魔王」に、かつ「そんな存在に喧嘩を売る」という二重の意味での非常識に巻き込むおそれがある。その辺は分かっていなくても、とりあえず危険だということはキルアも理解している。
 とはいえ追い払う理由を説明できず、ゼルスは沈黙してから口を開いた。
「……何で?」
「え?貴方達が何をするか、興味があるからですよ?」
 念のため聞くと、不思議そうな顔でそう言われた。確かにエルフ達は迷いの森には近付かないから、そんなところに外部の者が何をしにいくのか気になるのだろう。
「俺達は研究対象かよ……エルフにとって、迷いの森に近付くのは身の程知らずなんだろ?」
「あぁ、現地の人にとっては畏怖されてる場所ですもんね。でも、僕はこの地の者じゃないので」
「ん?? そーなの?ウェンくん、ココの人だと思ってた!」
「あれ、そうですか?自分で言うのもなんですが、結構違うと思ってましたよ?」
「……言われてみれば、服とか全然違うな」
 ゼルスは服には詳しくないが、明らかに素材や色合いが違うのはわかる。大陸で生まれ育ったエルフなのだろうか。

 ゼルスはさらに少し黙り込んでから、きっぱり言った。
「ダメだ」
「え?? どうしてですか?」
「そりゃーアブナイからだよッ!何が起きるかわっかんないんだよー?!」
 キルアは行儀悪く、イスの上に膝で立ち腰に手を当てて言う。
 対するウェンは、気が進まない二人の注目を集めるように胸に手を当てた。
「自分の身は守れますから大丈夫ですよ。それに多分、迷いの森の中に入りたいんですよね?なら僕の出番ですよ」
「どういうことだ?」
「あの森には人を惑わせる霧が立ち込めていますね。でも僕が精霊の運んでくる情報を見れ歩けば、なんとか入ることはできます。多分」
「……精霊干渉で?」
「はい」
「なっるほどー!ウェン君あったまいー!」
 とかパチパチ拍手するキルアは、完全にウェンに丸め込まれている。つまり、迷いの森の洞窟に行く手がかりが欲しいなら連れて行かなければならない。……ということを、ウェンはニッコリ笑顔の言外で訴えている。

 連れて行く気などさらさらなかったゼルスは、ここで初めて考え込んだ。
 魅力的な精霊干渉うんぬんは無論、かすかに感じた引っかかりも含め、どうするべきかをウェンを思案する。
「ねーゼルスっ、連れてこーよ!みんなで行った方が絶対楽しーよ☆」
「……あぁ、そーするか。ウェン、ある程度は援護するけど、安全保障は自分で頼むぜ」
「連れてってくれるんですか?」
「ダメっても、勝手についてきそうな気もするけどな」
「あはは、バレてました?」
「冗談だったんだけどマジかよ……」
 ゼルスが言うと、ウェンは頭に手を当てて笑った。
「じゃ、明日出発しましょう!」