杭の章

第16話 気晴らしのとばっちり

 轟音とともに、すべてを押し流さんと真正面から迫る水流。
 ゼルスは跳躍し、回避。しかし、すぐ目の前から追撃が来る。
「くっらえーーッ!!☆」
 発動した水流の上にキルアが現れ、笑顔で殺人的な鉄拳を放つ。
 ゼルスは弓で受け、慣性に従って後退。宙返りし、三連射する。
「『風の神の加護、レイス』!!」
 すかさず筆記したキルアが疾風魔法を唱える。
 見えない風の刃は矢をすべて打ち落とした。
 勢いの衰えない風は、同じ直線上のゼルスに向かう。
 空中にいたゼルスがやっと木の幹に足をついた瞬間。
 疾風魔法が、まるでおもちゃのように幹を輪切りした。
 木の幹だけを。

「隙だらけだぜッ!!」
「へっ?!」
 キルアの目の前から声がした。
 風の刃とすれ違うように少女に肉薄したゼルスは、鉄級硬度の弓を握った手で殴りかかる。
 キルアが手のひらで受けると、足が地面についた。
 好機!
「とぉりゃあーーっ!!」
 キルアは彼の手首を掴み、背負い投げにすべての勢いをのせる。
 が、ゼルスはさらにそれを利用した。
「っとぉ!」
「ふえっ!?」
 ゼルスは、わざと体重を移動させた。キルアはバランスを崩され、彼を手離してしまう。
 竜族の少年は着地すると、背後に回し蹴りを放った。
 手応えなし。
 すぐ矢を抜き、キルアを見ると、彼女は文字を書いていた。
 その文字に赤い光が走ったのを見て、ゼルスは顔を青ざめさせた。
「『深紅のっ……」
「おいちょっ待て!! 火炎魔法それはやばい!!」
「あ、そっか!んじゃ、『怒り狂う……」
「いや雷撃魔法もやべぇよ!! あーったく……もう終わりにしとくか……」
 書き直し始めるキルアを注意していたら、一気にやる気が削がれた。二人の間に漂っていた熱気が霧散する。頭を掻いて、ゼルスは嘆息した。
 ここは森の中だ。こんなところで火炎魔法や雷撃魔法なんて使ったら……さすがに逃走するのは心苦しい。


 すべての始まりは、キルアの呟きからだった。
「なーんか、暴れ足りないなぁ〜」
「……そういやなんか物足りないな」
 その一言で、ゼルスはそういえば最近、まともに体を動かしてないということに気付いた。調査の方が忙しくて、戦闘する機会がしばらくなかったのだ。
 この調子だと体がなまりそうだ。飛族という戦闘種族であるせいか、気付いた途端、危機感とともに体がうずうずしてきた。
 軽い手合わせでもいい、そこそこの実力を持っている相手がいないかと考えて……、
「あ」
「あ!」
 二人同時に顔を見合わせていた。


 ——そして、現在に至る。
 ゼルスは矢を筒に戻し弓を掛けながら、キルアを見た。
 さっきの凛々しい雰囲気はいずこへ、何処からともなく取り出したアメを食べているキルア。……つい呆れた顔になった。
「……今更だけど……お前、強ぇな〜……普段そう見えないから最高にタチ悪い……」
「ホントっ?! わーい!でもでも、ゼルスも強いよ!速すぎるんだもん!楽しかった〜♪」
 確かに前から気付いていたが、純粋な素早さや反応の速さはゼルスの方が上らしい。威力としては、魔法を使うキルアの方がやはり上のようだが。
「速くても、筆記なしの魔法を上手く使えば対処できるんじゃねーか?なんでさっき使わなかったんだ?」
「あっ、忘れてた!」
「だろうと思った……」
 キルアにはまだ、魔法は筆記しなきゃいけないという刷り込みがあるらしい。これはしばらく、なおらないかもしれない。
「じゃ、んとね、多分ゼルスは、接近戦磨いた方がいーよ☆ 速いんだし絶対凄くなるよ!」
「うおっ、お前にアドバイスされる日が来ると思ってなかった……自分でもちょっと思ってたけど……」
 仕返しと言わんばかりのアドバイスに、ゼルスは考え込んでしまった。
 弓矢を使う以上、中遠距離からの攻撃が主になるが、さっきみたいに接近戦に持ち込まれたり持ち込んだりすることもある。しかしどう攻撃すれば効果的かいまいち把握していないので、防戦一方になってしまう。今一度、師を訪ねた方がいいかもしれない。

 ふとゼルスが顔を上げると、先ほどの疾風魔法で切断された木の辺りが目に入った。
 その根元。切り落とされた上部の幹が倒れている下に、青と黄色のものがある。見間違えでなければ……
「誰か下敷きになってんじゃねーか!」
「へっ?! あーーッ!!」
 慌てて飛んで近寄るゼルスを見てから、キルアもそれに気付いた。近付いてみると、やはり人だった。
「キルアそっち持て!」
「おっけー!行くよ!せ〜のっ!!」
 キルアと持ち上げるタイミングを合わせて、誰かを潰している太い木の幹をどかす。なぜ、人がいることに気付かなかったのだろう。
 木を脇に置くと、キルアがうつ伏せに倒れている人物を揺さ振った。
「ね、キミ!死んでるッ?? ダイジョブ!?」
「……今、さり気なく怖いこと言ったな……気絶してるだけみたいだな」
 反対側にしゃがみ込んだゼルスが、その血色のいい肌を見てホッと一息吐いた。
「う……あたた……」
 キルアの呼び声が届いたのか、その人物が気が付いた。
 うめきながら膝をついてゆっくり起き上がる。頭を振ると、高く結われた金髪も尻尾のように一緒に揺れた。
 やがて、エメラルドの瞳がうっすらと開かれた。


 世界には、いまだに解明がされておらず、不可思議なまま残された場所がいくつかある。
 ルプエナの西海に浮かぶ大きな島――イプラスト樹海もそのひとつだ。

 島には、遥か昔からエルフが住んでいる。大陸の人々は彼らの知識と頭脳、精霊干渉などの力を欲し、幾度も侵攻をかけた。
 だが、一度も島が蹂躙されたことはない。
 語り継がれる伝説では、島に敵船が近付くと見えない壁が現れ、何処からともなく波が立ち、敵船を丁寧に追い返したという。まるで天から俯瞰する者がいるかのような的確さに、エルフたちの神の怒りと恐れられた。
 そういうわけで大陸の人間たちはまったく攻略できず、だんだんと手を引いていった。
 島は手付かずの未開拓地のまま世界から取り残され、今もなお静穏を保っている。

 その中心となる集落ヴェランは、林の中に紛れるようにして存在していた。
 切り出された木材と藁で造られた家々が集う村を抜け、獣道が均されただけのような簡素な道を行った先に、二人が手合わせしていた敷地はある。
 ゼルスは、あちこちの木の陰から投げられる視線にうんざりしていた。どうやら爆発音やら木の枝が落ちる音やらを聞きつけた数名が、様子を窺っているらしい。
 集落を通り過ぎた時も、はしゃぎ回る子供たちはともかく、大人のエルフが向ける物珍しそうな視線がひどく不愉快だった。何処の国でも飛族はこんな視線を向けられるが、いくらなんでも無遠慮すぎる。
 あちら側が飛族に慣れる方が先か、こちら側がこの環境に慣れる方が先か。相手が慣れてくれるのを期待したい。

 それはそうと。
 下敷きにされて気絶していたのは、当然だがエルフだった。
 年は、二人より少し下くらいか。癖の強い金の前髪の下で、エメラルドの目がぼんやりキルアを見据えていた。
「キミ、ダイジョブだった?!」
「……あれ?飛族の方ですか。珍しいですね〜。僕、ウェンって言います。よろしくお願いします」
「……え、もしかしてお前……男?」
 爽やかな少年の声で、他のエルフとは大違いなセリフをのほほんと言ったその人物。ウェンは、「はい?」と小さく首を傾げた。
 空色の衣装はどちらかというと男物かもしれない。しかし、桃色の腰帯が後ろでリボン結びにされていたり、さらさらな金髪のポニーテールとパッチリした瞳に重ねて、その仕草は、女の子のようで可愛らしい。
 でも確かに、胸は平たいし女の子にしては少し体格がいい気もして、最初に見た時は少女だと思ったが、改めて見るとやはり少年にも見える。
 アスナの中性的な雰囲気とはまた違った、自然に愛らしい少年だった。

 彼は後頭部に手を当て、不思議そうに呟いた。
「なんででしょう……頭が痛いです」
「あ、ゴメンね!キミの頭の上に枝落っことしちゃったんだ!気配に気付かなくて……」
「そういえば、本を読んでたら突然視界が揺れて……」
 ぼんやり呟くウェンの言葉通り、彼の傍らに開かれて伏せられた本があった。
 手のひらの倍ほどの大きさがあり、表紙に鮮やかな色彩で絵が描かれている、それは……、
「……絵本?」
「あ、興味ありますか?それはディズ・イラースっていう本なんですよ。面白くてつい読み込んじゃいました」
「あぁーーーっ!! ディズ・イラース知ってるよー!空と海の龍神サマの伝説だよねっ!」
「知ってるんですか?イプラストの伝説ですけど、よく知ってますね!」
「えへへ〜♪ かーさんがいろんな国の話、教えてくれたんだ〜!」
 大して興味もないゼルスは絵本を一瞥して聞き流したが、キルアの方はウェンの両手を掴んで喋るくらいには食いついた。驚きもせず、されるがままになっているウェンは、意外とキルアと相性がいいかもしれない。
「伝説が絵本になってんのか?子供が読むモンかよ……」
「えっと……逆ですね。伝説自体が絵本なんです。イプラストでは、伝説や伝承などはすべて童話形式で伝えられるんです。童話に一番合うのはやはり絵本だろうということで絵本の形をとっています。それから、エルフの子供は人間の子供より脳の発達が早いので、こういう本は平気で読みますよ」
「んーよくわかんないけど面白いんだよね!」
「お前ちょっとは考えろよ!?」
 考える気がまったくない様子のキルアに思わず声を上げて、ゼルスは眉をひそめた。
「……それって、神と魔王……あー、光と闇の支配者か。その伝承も絵本ってことか?」
 確かにイプラストにも伝承を調べに来たが、まさか今ここでその話が出ると思わなかった。
 するとウェンは、きょとんと目を瞬いた。
「ああ……もしかして、アスターディアとルグラグの伝承ですか?両支配者の呼び名が、イプラストと大陸とでは違うみたいで」
「そういう場合もあるのか……」
 ゼルスが謎の感心を覚えていると、ウェンは土を払いながら立ち上がった。
「他にも差異があるので、実際に読んでもらうのが一番ですけど……詳しく書いてる原本はエルフ語なんですよね。読めますか?大陸では、古クルナ語って呼ばれてる言語です」
「おいキルア、出番だぞ」
「ほいほーい!なになに??」
 なんとなく手を上げたキルアは、聞いていなかったらしく首を傾げた。
 古クルナ語は、普段キルアが魔法の時に使っている古い言語だ。もともとエルフの言語で、ゼルスはよく分からないが精霊との親和性が高いらしい。それが大陸にも広まり一時は世界共通語となったが、現在はエルフ達も現代語を話すし、今では古い書物や魔法学でしか扱われない。

「伝承に興味あるんですか?各国によって違いますもんね」
「……あぁ、まぁそーゆーとこだ」
「でも、わざわざ各国を巡って調べてるんですか?物好きですね……」
「んとね……ナイショ☆」
 人差し指を口の前に立てて笑うキルアを見て、上手いかわし方だとゼルスは内心で感心した。キルアならそういうことを言っても自然に見えるから不思議だ。
 そのキルアと同じくらい自然に、息をするように。
 ウェンは微笑みを浮かべたまま、尋ねてきた。

「もしかして、従士に会ったとか?」

 ——世界が氷結した。
 気を許した一瞬、とんっと懐に踏み込んできたような距離感。
 ゼルスは驚きを悟られないよう、ウェンを睨む目つきで見返したが、隣のコイツにそんな芸当はできるはずがなく。
 目を真ん丸に見開いたキルアの反応を見て、ウェンも驚いた顔をした。
「え……?あれ?本当ですか?従士に会ったんですか?実在の?」
「……つまり?」
「ちょっとした冗談のつもりだったんですが……会ったんですね?」
 心身ともに緊張させていたゼルスは、己の不覚さに呆れて息を吐いた。ウェンは申し訳なさそうに苦笑する。
 もう手遅れだが正直に答えるか少し考えた後、ゼルスは吐き出した。ウェンには関係ないし、これ以上、無防備に手札を晒すのは愚策だ。
「ノーコメントで。それより、伝承調べに行きたいから案内してくれ」
「ああ、残念です……分かりました、こっちです」
 笑顔でウェンが指し示した方向は……やはりヴェランの方角。
 またあの無遠慮な視線の中を歩くのかと、ゼルスは重々しい溜息を吐いた。


 ウェンは、集落に図書館はないが、その代わりになっているという場所に案内してくれた。
 なるほど、確かに立派な「図書館」だった。壁を覆い尽くすほどの本棚が高い天井いっぱいに積まれていて、キルアなんかは楽しそうに本棚の上部の方を、飛んで・・・見に行っている。
 しかし——
「何で元首邸にこんだけ絵本あんだよ!? この規模、王立図書館だろ!」
 元首は絵本コレクターなのか?いや民衆の声を聞いたらこうなったのか?とかゼルスが思っていると、本から目を離したウェンが笑って振り返った。
「これ、全部元首が集めたんですよ。外国のもありますから、絵本ばかりでもないですよ」
「は!? マジで元首は絵本コレクターなのかよ?!」
「あはは……いろんな伝承が知りたくて世界中から集めた人なんですよ」
「つーかお前は元首と知り合いなのか!?」
「えっと、まぁ、はい」
「お前何者だよ?!」
「え?えっと……ウェンです?」
「………………」
 テンポよく突っ込んでいったが、最後の回答は、なんというか突っ込みどころが多すぎて、逆に何も言えなかった。

 イプラスト樹海は国家ではないため王はいない。代わりに皆の意見を取りまとめる者が存在し、その地位を簡潔に元首と呼ぶ。
 その元首が意見を反映させ、エルフたちを仕切っている。意味合いは違えども、元首は他の国家で言うところの「王」に相当する立場だ。
 そして恐らく、ヴェラン中央……木々が柱に絡みついていたり表面をコケが覆っていたり自然と一体化している遺跡のような建物は、元首の住まうところなのだろうというのは来た時から予想はしていた。しかしまさか、その中がこんな絵本図書館と化しているとは。

 ゼルスがどういう顔をすればいいのかわからないでいると、上の方の本棚を飛んで見てきたキルアが、「む〜」と難しい顔をしながら下りて来た。
「なんかよくわかんなかったよぉ〜」
「上の方は外国の本棚ですから、絵本は少ないですしね。下段の方がイプラストのものですよ」
「そーなのっ?? じゃあこの辺見よーっと♪」
 笑顔で説明してくれたウェンの隣に並んで、キルアはにこにこしながら本の背表紙を眺めた。
「ここにある本全部を読了するのが、ささやかですが僕の夢です」
「まぁ……こんだけの量、全部読んだら確かに凄いけどな……」
 ゼルスもつられて高い高い本棚を見上げた。
「イプラストの本棚は全部読みました。読み始めて、まだ1週間くらいなんですけどね」
「コレ全部読んだの〜!? すごいすごい!」
「そうだ、ゼルスさん、キルアさん。これがイプラストの伝承の原本です」
 ウェンはおもむろに本棚から一冊の本を抜き出し、差し出してきた。
 それを受け取りながら、ゼルスはさっきのウェンの言葉を思い出した。
(……イプラストの本棚、かなり数あるけど、これを全部読んだのか。まぁ絵本なら妥当か……)
 渡された伝承の絵本を何気なく開いてみて、ゼルスは思わず沈黙した。

 ……何だこの詐欺は。
 表紙には、色彩鮮やかな絵が描かれている。絵本だと一目でわかる。
 しかし、両面開いた中身は……表紙と同じ絵柄の挿絵が描かれた右側のページ、そしてびっしりと文字が羅列した左側のページ。軽くざっと斜め読みしてみるが、古クルナ語で書いてあるとはいえ、この情報量、どう考えたって絵本というより完全な文献だ。
 絶対キルアになんて読めるわけがない。これをエルフの子供たちは読んでいるというのか。
 こんな絵本が、目の前の本棚を埋め尽くすほどたくさんある。
 そして、このすべてを1週間で読了したというウェン。
「……お前……すげぇな、ウェン」
「え?そんなことないですよ?」
 賞賛なのか呆れなのか自分でもわからないまま、思わずポンっとウェンの肩に手を置いて言うと、彼はにっこり事も無げに言った。なんだかとんでもない読書家に出会ったらしい。
 絵本の中身がそんなものだとはつゆ知らず、キルアは読書家を振り返った。
「じゃあウェン君、上の方の本読むんだよねっ?取ってこよっか?」
「あ、大丈夫ですよ。自分で取れますから」
「自分で取れるって……」
 今度は上の本棚の本を読むんだろうと思って気を利かせたキルアに、ウェンは微笑んで言う。反射的に呆然と復唱してから、ゼルスは上を仰いだ。
 目の前のイプラスト本棚は、自分達の身長よりも大きい。その上に乗っかる本棚もまた同じサイズだ。
 つまり、上の本棚の最上段まで二倍以上も高さがある。どう考えたって、飛族じゃないウェンが届くような高さではなかった。
 何か仕掛けでもあるのか?と、上の本棚を見つめていると。

 上の本棚に収まっていた一冊の本が、ひとりでに抜け出てきた。

「……は……?」
 ――そんな馬鹿な。
 本は平たい形をしている。中に何枚もの羽らしき紙を有しているとしても、それは情報を載せるためのもので飛ぶために発達したものじゃない。
 だから本が飛ぶわけないのだ。なのに今、一冊の本が、羽(かみ)も広げないで宙に浮いている。
 やがて本は流れるように舞い、ウェンの手元に下りて来た。その滑らかな動きを見て、常識がばきばきに壊れそうになっていたゼルスははっとした。
 その直感を、キルアの羨ましそうな声が確信へと導く。
「すっごーい!! ウェン君、精霊ちゃんと仲良しなんだ!いいな〜!」
「え?もしかしてキルアさん、精霊が視えるんですか?」
「ぼんやりだけど視えるよ☆ 今、風の精霊ちゃん達、喜んでキミの指示聞いたよね!ボクも仲良くなりた〜い!」
 少し驚いた顔をしたウェンにキルアは楽しげに言う。「ぼんやり」とは言っているが、そこまで視えているなら十分魔術師としては一流だ。
「ウェン……お前、精霊干渉できるんだな。初めて見たけど……」
「あ、はい。僕のは先天的なもの……というか」
 ゼルスが知っている言葉で表すと、ウェンは頬を掻いた。
 しかしそうなると、彼はとても稀有な存在だ。
 ――精霊干渉。自然とともに生きるエルフ族が得た一種の魔法だ。キルアが使うような魔法も精霊への干渉で行われるが、それとはまた別の概念だ。
 精霊干渉は、魔法よりももっと幅が広い。魔法は一定の型にはめて精霊を動かすので、ある程度用途が限られるが、精霊干渉は術者の指示によってさまざまなことを行う。
 この技術は、さしてエルフでは珍しいことではないが、修得者は人間でいうところの年配の人々である。だからウェンのような若い少年が使えるというのは、非常に珍しい——いや恐らく、誰一人として先例はいないだろう。

 ゼルスは、伝承の絵本をキルアに差し出して言った。
「この本の中身、現代語訳するの頼むわ。ただし内容は考えるな。一文一文をただ現代語に訳す勉強をしろ。じゃないとお前死ぬぞ」
「なにそれーー!? そんな危ないのやりたくないよ~!」
「後で1回だけメシ奢ってやる」
「ホントっ!? じゃあやるやるー!」
「命より一度のメシの方が大事なのかよっ!?」
 ご飯で多分釣れるとは思ったが、こんな息をするような気軽さでひっくり返ると思っていなかった。
 ゼルスがキルアに絵本を渡すと、ウェンが気を利かせて口を挟んだ。
「その辺のイスは好きに使っても大丈夫ですよ」
「お前はこの家の主かよ……」
 笑顔のウェンに突っ込みながら、ゼルスは部屋の隅にあった、細い木の枝で編まれたイスに座る。意外としなるイスで、座り心地がよかった。
 キルアは紙とペンを探して室内をきょろきょろ見渡して歩いていたが、それもウェンが教えて近くのイスに落ち着いた。
「さって〜!古クルナ語を現代語に直すおベンキョーするよ〜♪」
「おー頼んだ」
 キルアはニコニコ笑顔で、ゼルスには読めない古クルナ語の本を開いた。

 ゼルスはイスの背にもたれると、広間をぼんやり見つめた。
 光を反射する白い石畳の床。蔵書量に目を奪われて気付きにくかった違和感が、ここからだとよく映えた。
(……そういえば、おかしい)
 元首が住まうというのに、警備兵の一人もいない。警備兵どころか使用人らしい人影もない。
 さらに言えば、遺跡全体に人の気配がないのだ。それなら廃墟同然かと言えばそうでもなく、部屋の中は埃っぽくもなく綺麗に掃除されている。
 明らかに人がいる痕跡はあるのに、気配はまるでなく、生活感は皆無。気持ち悪い矛盾。
 思い出したのは、王都イールスでのラクスの家だった。あちらは埃っぽかったが、印象は似ている。
「……なぁ、ここ、本当に人住んでんのか?」
「住んでますよ。元首は強い人なので、警備兵もいらないんです。皆に信頼されてますしね」
「へぇ……強いのか」
 貴族や王族なんて、ただ人を顎で使う存在だと思っていた。人の上に立つ者が強いと聞いて、ゼルスは少しだけ興味を持った。

 イプラスト元首・ノアについては、ほとんど知られていない。イプラスト自体がまだ未知のベールに包まれているから、至極当然ではあった。
 その元首と、目の前のこの少年は知り合いだというのだ。世の中はわからない。
(……そういえば、ドゥルーグ従士にも「ノア」っていたっけ。よくある名前だし、ただの偶然だろうけど……)
 そう思いながら、ゼルスはカルファードで読んだ伝承を思い出していた。


 ――ずっと頭の片隅で、棘のように引っかかっていることがある。
 そもそも、なぜ伝承は各国に散りばめられているのか?

  『国によって違うのは、各国の伝承が少しずつ事実を織り交ぜているから……という説があります』

 『真実が少しずつ分散するなんて偶然』が、あるだろうか。
 ――明らかに人為的だ。そんな偶然は発生しない。

 本当の伝承を分散させ、そのように伝えるようにさせた張本人がいるはずだ。
 しかしおかしなことに、「事実が少しずつ分散しているという事実」を知っている者、知り得た者は今までこの世界に誰一人いなかった。
 もし誰かがすでに知っていたなら、自分たちより前に各国の伝承を集め、完成させている者がいても不思議ではないはず。
 フィンの言うことが噂に過ぎない?
 否。ルプエナ、リギスト、カルファードの伝承を見てきたが、確かにそこには少しずつ、従士の口から語られたような真実が織り交ぜられていた。恐らくその説は本当だ。


 時は遡り。
 カルファード帝国、レイゼーク城下町の北区。
 今日も今日とて、カルファード帝都祭。人がゴミのように無節操に歩き回っている。
 王立図書館から出てきたゼルスは空を見上げ、今しがた読んできたカルファードの伝承を思い出していた。

 カルファード伝承は不思議だった。
 まず、アスフィロスとドゥルーグのことを神、魔王ではなく、光の支配者、闇の支配者と呼ぶ。
 この世界は彼らによって創造されたとされ、二柱の神としてまとめて崇められていた。
 ……とはいえ、闇の支配者ドゥルーグはやはり恐れられているのか、畏怖からの信仰のようだ。それでも、今まで見てきた伝承では邪険にされていたので明らかに扱いが違う。そういえば昨夜アスナも、「ドゥルーグ様」「お二人」とドゥルーグにも敬称を使っていた。
 確かにリギストの伝承曰く、現界は光と闇の融合世界だが、神と魔王は相反するものだ。彼らが手を取り合って創造したとは考えがたい。
 一体、何を根拠にそうなっているのか。そこまでは書いていなかった。

「あっ、ゼルス〜!! 終わったのー?」
 通りの方からキルアの声がして見ると、リンゴアメとわたあめを持ったキルアが手を振っていた。……リンゴアメを持った手を。今にもリンゴがすっぽ抜けそうで、隣のアスナがあわあわと焦った顔をしている。
「無事に従士のことは調べられた?」
「ジューシー!? 食べ物のコト調べてたの?! ずるーいゼルス〜!!」
「……はいはい。あぁ、1冊で足りた」
 変な横槍を入れてくるキルアを受け流して、ゼルスはアスナの問いに頷いた。
 ——従士。それは、アスフィロスとドゥルーグにそれぞれ仕える三人、計六人のことをそう呼ぶのだそうだ。
 否、仕えるというより、どちらかというと代役のようなものらしい。その存在は、それぞれの主たちにとても近い。
 アスフィロスには、ジーク、ウェルニア、ゼティス。
 ドゥルーグには、リラ、ルシス、ノアと、名前まではっきり明記されていた。
 ドゥルーグ従士を名乗るシドゥは、確か「リラ」と名乗っていた。それからあの空からの声は、「ノア」と呼ばれていたような。
(……セルリア……)
 顛末はどうであれ、セルリアは、ケテルフィール公爵家にはペンダントを探しに来たと言っていた。彼がドゥルーグ従士、ルシスで間違いないだろう。
 こんなに闇の眷属には出会っているのに、そういえばアスフィロス従士とはまだ邂逅していない。
 ふと、これまで出会った胡散臭い者たちの顔が過ぎって、ゼルスは溜め息を吐いた。
(……まさか、な……)

「さて、あとはイプラストだな」
 エルフの国イプラスト。海を挟んでいるので、あまり他国とは関わりを持たないが、唯一、海を隔てた隣国のルプエナとは友好関係にある。ルプエナの西側の地域では、エルフを見かけることも珍しくない。
「イプラストに行くの?」
「あぁ」
 アスナの興味本位の問いに、ゼルスは短く答えた。キルアがぴょこんと飛び出て自慢げに言う。
「あのねあのねっ、イプラストには迷いの森っていう不思議な森があるんだよ!入っても、気が付いたら入口に戻ってるんだよ!すごいよねー!ボク昔、一人で世界一周しててね……」
「はぁ?」
「迷いの森……?」
 一人で楽しそうに語り出そうとしたキルアに、ゼルスが面倒臭そうな顔をし、アスナが首を傾げて繰り返す。
 イプラストにある、旅人を惑わす森。
 その中には……

「……うッ!!」
 アスナがそう考えた途端、突き刺すような鋭い痛みが頭を縦断した。
「へっ?あっちゃん!?」
「どうした?!」
 突然、アスナが額を押さえてしゃがみ込んだ。
 急なことで二人も驚いて屈み込む。何事かと、周囲にいた人々も振り返るのがわかった。

 脳裏を、何かが灼いた。
 これは……

「……だ、大丈夫……」
 しばらく経った後。アスナが、掠れた小声でかろうじてそう返答した。
 彼女はゆっくり額から手を離し、ゆっくり立ち上がる。しかし、その言葉とは裏腹に、その表情は固く強張っていた。
「ホントにダイジョブっ?もう痛くないっ?!」
「うん、大丈夫。もう痛くないよ」
「……さっきの、何だったんだ?」
 心配して聞いてくるキルアに、固い表情をなんとかほぐし笑って答えるアスナ。それでも顔色がよくない。
 ゼルスが聞くと、アスナは深刻な顔で少し沈黙した。
「……予見だよ。こんなふうに、ぼくの予見は何かをきっかけにして、突然来るんだよね」
「神サマが教えてくれてるの?」
「昨夜も言ったけど、ぼくの場合は精霊だね。けれども、純粋な四大元素の予見なら痛みはないんだ」
「なら今のは、光と闇に関わる予見……か」
「……そういうこと」
 ゼルスが先読みして言った一言に、アスナは重い頷きをひとつ落とした。
「さっき、話に出た森だよ。正確には、その中にある場所……洞窟のようなものが視えた。風景なら、四大精霊で視えるはずなんだけれど……視れなかった。つまり、その場所は光か闇の力が強いということになる」
「なるほど」
「その洞窟に何があるのかはわからないけれど……そこには近付かない方が」
「む〜〜〜……ごめん、あっちゃん!!」
「……え?」
 アスナの声を遮るように、キルアがパンっと両手を合わせて突然頭を下げた。
 いきなり謝られて呆然としているアスナに、顔を上げたキルアは申し訳なさそうな顔で言う。
「ボクら、きっと、そこに行かなきゃいけないんだ。オトモダチの宝モノが悪いヒトに盗られちゃったから!そこ行かなきゃ、取り返せないと思うんだっ!だから、ごめんね!」
「……まぁ、超大雑把に概略するとそんな感じだ。だから行くことになると思う」
 説明が抜けすぎなキルアの言葉に、いろいろ付け加えて事がこじれても面倒臭い。とりあえずゼルスはそれで頷いた。

 光か闇の力が強いなら、そこは、光と闇の王に関係のある場所のはずだ。
 闇であったらペンダントを探す手間が省けるが、一体どちらか。

 ペンダントを返してもらえなかったら、どうしようか。
 セルリアを呼び戻すことができなかったら、どうしようか。
 依頼失敗は嫌だな。

 ——要するに。
 自分達は、魔王に喧嘩をふっかけようとしているのだ。