杭の章

第18話 ディアスとラグナ

 翌日、通称「迷いの森」に向かった。
 昨日と同じく樹海の中の「迷いの森」との境界に向かうと、そこに珍客がいた。推測が7割程度は当たっていると裏付けされて、ゼルスは溜息を吐いたのだった。

「はれっ?誰かいるよ?? あ、ゼドじゃーんっ!やっほーい☆」
 その正体がわかると、キルアは手を上げて元気に声をかけていた。
 陽気なキルアの声に反応して、大きな羽は静かに振り向いた。肩越しにこちらを一瞥しただけで、返答もなく目を戻す。
 森を注視するゼドの隣に並びながら、ゼルスは言った。
「何だ?お前も観光か?んなわけねーよな」
「お前は観光なのか」
「そりゃ昨日の話だな。どっかのガキンチョがオバケなんざ怖がるもんだから、すげーやりづらかったけど」
「はッ!! そ、そーだオバケ〜!」
 キルアは急にサーッと青くなり、慌ててウェンの後ろに隠れた。あれだけ怖がっていたのに一晩寝たら忘れていたらしい。

 ふと、ゼルスとは反対側のゼドの横にウェンが進み出た。
 それまで霧の森から外れなかったゼドの視線が少年に向く。翡翠の瞳が、少年のエメラルドの双眸と合う。
 ウェンは無表情のゼドににっこり微笑んだ。
「久しぶり。ここまで来てたんだね」

 —— 一瞬の間。

「え、えっ、えええぇぇっ!!?」
「ちょ……ちょっと待て。お前ら……知り合い?」
 キルアは盛大に声を張り上げ、ゼルスは混乱しすぎて痛い額を押さえ、かろうじてそれだけを問うた。
 計り知れない能力を持つ謎の鳥族と、本の虫なエルフの少年が知り合い?突拍子すぎてその関係性に皆目見当がつかない。
「面識の有無でならそうだ」
「そうですね、仲間です」
 簡潔に答えるゼドと、こくりと頷くウェン。二人の認識に差異はないようだ。
 何処から聞いたらいいのか頭を回転させているゼルスをよそ目に、キルアが問う。
「なかま?オトモダチとは違うの??」
「はい。キルアさんだって、ゼルスさんとは友達というより、仲間なんじゃないですか?」
「んー?? ん〜と、キライな知り合いかな!」
「そ、そうなんですか?」
 苦笑したウェンは歩き出し、霧に手を伸ばした。感触を確かめるように手を見つめてから、彼はゼルスを振り返った。
「ゼルスさん。先日、光と闇の力がぶつかって魔力が生まれたって話をしましたよね」
「……え、ああ……そうだな」
「その光の力をディアス、闇の力をラグナって呼ぶんです。アスフィロス、ドゥルーグが持つ独自の力です」
 光の力ディアス。闇の力ラグナ。
 それこそがアスナの予見を阻んだ力だろう。四大精霊で視る予見が別の力によって阻まれる。それは四大元素を上回る力——すなわち、光と闇だ。
 少し落ち着いてきたゼルスは、とりあえず二人の関係は置いといて、ウェンの話に乗った。
「……ディアスとラグナね。この場所には、ラグナが溢れ返ってるって?」
「そうですね、森の奥の方はラグナが強いみたいです。冥界の入り口だからでしょうね。でも、この霧に似たものは……ディアスで構成されています」
「……は?」
 予想もしなかった言葉がウェンの口から出て、ゼルスは素っ頓狂な声を上げていた。
 森の奥にはラグナ。森を覆う霧はディアス。始祖魔法で生み出されたその霧は、人を惑わせる効果を持つ。
 ——それは、まるで光が闇を守ろうとしているかのようじゃないか。

「洞窟……もはや誰も覚えていませんが、ユマフィード洞穴といいます。そこに迷い込む旅人が後を絶たなかったから、ずっと昔にアスフィロスが隠してしまったんです」
「ま、迷い込んだらどーなるの!? オバケに食べられるのー?!」
「ユマフィード洞穴の奥に迷い込んだということは、冥界に足を踏み入れたってことになって……冥界も天界も、その力以外は存在できないんです。だから食べられるんじゃなくて、消されますね」
「じゃあオバケの仲間入り!? ……あれっ?そしたら同じオバケになったってコトだから……怖くないね!」
「あー無視しろ無視。……つまり、天界はディアス、冥界はラグナが純粋な奴じゃなきゃ存在できないってわけな」
 キルアが破綻している思考に終着するのを呆然と見るウェンに、ゼルスは話をまとめた。
 それからゼルスは、横に目を向けた。
「……で、聞いてた通り、俺らはそのユマフィード洞穴に用があるけど。ゼド、お前は?」
 無音のまま隣に立ち尽くしていたゼドに問うと、彼は霧のずっと奥を見て答えた。
「中に用がある」
「……お前もユマフィード洞穴か?」
「この霧の中だ」
「ざっくりしてんな……そこも含むってことな」
「じゃあじゃあ、ゼドも一緒に行こっ!」
 オバケの恐怖心から解放されたキルアが、満面の笑みで言う。ゼドも文句はないようだ。
「それじゃあ皆さん、行きますよ~」
 片手を上げたウェンは、旅行ガイドのようなセリフをのほほんと言って先頭を歩き出した。キルアが楽しげに応答し、ひょこひょこウェンの後を追う。

 ゼルスも踏み出しかけ、まったく動かないゼドを振り返った。
「どうした?行かないのか?」
「無用心すぎる」
「は?誰が?」
「お前達だ」
 ゼドは先を行くキルアとウェンの背を見て、それからゼルスを見た。
 この青年鳥族の目に訝しそうな色が浮いていて、彼に感情らしきものが垣間見えたのは初めてだなとぼんやり思った。
「未知の相手になぜ警戒しない」
「あぁ……お前が俺らを殺そうとしないって保証についてか。そういや、前は警戒してたもんな」
 前回の別れ際を思い出し、ゼルスは納得した。キルアはともかく、自分が警戒していない理由はある。
「ねーえーー!! はやく〜!追いてっちゃうぞ〜!」
「あーはいはい、今行く〜」
 キルアの呼び声に片手を上げて応え、ゼルスは歩き出しながら言った。
「そのつもりならもうやってるだろ?あと、お前が何者かは予想ついてる。隠す気もなさそうだもんな。俺は、お前らと戦う理由はないと思ってるけど。お前も、わざわざそんな無駄をする奴じゃない」
「………………」
「それに俺は、お前らじゃなくドゥルーグ勢に用がある」
 はっきり言い切ったゼルスの脳裏には、幼い少女の泣き顔が過ぎる。
 きっともう、セルリアには言葉は届かないのだろう。だから彼を殴り飛ばすか、主に直接意見しないといけない。
(どっちもしんどそうだな……)
「……お前たちでは相手にならない」
「だろうな」
 ゼドの端的な一言を聞いてなお退く気もない自分に、ゼルスは苦笑した。


 巨人の森の中、小高い丘のふもとにぽっかりと空いた空洞は、見事な鍾乳洞だった。直径4、5メートルはある穴が奥の暗がりへと伸びており、大ぶりの鍾乳石がいくつも天井からぶら下がっていた。
 その洞穴の入口を覗き込み、キルアが感嘆した。
「ひゃ〜っ、きれー☆」
「けど、なんか……マジでオバケ出てきそうだな」
「ひええッ!? ゼルス変なコト言わないでよぉ!ホントに出てくるデショ〜!!」
「忙しい奴だ……」
 鍾乳洞の美しさに感動していたと思ったら、慌ててウェンの後ろに隠れるキルア。ウェンの後ろより、絶対ゼドの後ろの方が安全だろうに。

 ゼルスは何気なく、鍾乳洞の奥を見つめた。ここからでは奥には光が届かず、先は真っ暗だ。
 ——ラグナの力なのか、誘い込まれそうな黒だ。
 目を合わせるだけで、それは自身の中の暗いところにするりと触れる。ぞっとするほど優しい気配が、抱擁するように出迎える。
「……なんか……ずっと見てるとおかしくなりそうだ。闇ってもっとこう……湿っぽいかと思ってた」
「闇の本質は、包み込むことですから。あるがままを肯定する属性。善も悪も、何もかも受け入れてしまうんですよ」
 横から答えるウェンの言葉を聞いて納得する。心の奥底、本当の姿。それはそれでいいと言われているような気がした。
 やっとのことで目を逸らし、ゼルスは息を吐いた。
「……とにかく行ってみるか」
「だ、ダイジョブなのっ?!」
「冥界の入口は洞穴の最深部みたいですから、少しは奥に進めると思います。でも、洞穴内はラグナが濃いので気を付けて下さい」
「オバケはダイジョブなのっ!?」
「ゼド、とりあえずお前もそれでいいか?ウェンがいないと歩き回れねーだろうし」
「あぁ」
「ねーえーッ!!! 無視しないでよー!!」
「あーはいはい大丈夫だオバケ出ない」
 棒読みで言い捨てると、ゼルスはひょいと洞穴内に飛び込んだ。

 上からの鍾乳石、下からの石筍で通路は狭い。低空飛行でゆっくり前に進んでいく。
 少し進んだだけで辺りが真っ暗になった。ウェンの言う通り、闇の力ラグナが濃いからだろうか。外からの光が伝わりづらいのかもしれない。
 すると、背後から不意に光があふれた。周囲を覆っていた闇がさっと奥へと退いていく。肩越しに振り返ると、ウェンの前に握りこぶしくらいの光球が浮いていた。
 風の精霊を操って浮遊しながら、ウェンは笑った。
「暗くなってきたので、光の精霊でちょっと灯りを作ってみました。前、見えますか?」
「……あぁ、十分見える。サンキュ」
 光球のおかげで、周囲はよく見えるようになった。背後のウェン、その後ろのキルア、最後尾のゼドもちゃんと見えるし、光量としては十分だ。

 洞穴内をさらに進むと、広い場所に出たらしく不意に頭上が開けた。光の範囲に壁は見当たらず、それはこの空間が広大なことを物語っていた。
「洞穴の中になんでこんな馬鹿でかい空間あるんだよ……山とかあったか?」
「地下だろう」
「そういや入口、ちょっと下向きだったかも」
 ゼドの短い言葉に、ゼルスは納得して頷いた。
「……ここが……最深部です。ラグナが凄く濃い……」
「ここが冥界の入口、ってわけだ」
「う〜、真っ暗で全然見えないよぉ」
「ウェン、全体を照らせるか?」
「あ、はい」
 正面奥を見つめて身を緊張させていたウェンは、ゼルスに指示に応じた。光球はふわりと上へ昇りながら大きくなり、真っ暗闇だった空間内が少しずつ明るくなってくる。
「……すみません、ラグナが濃いせいで、これ以上は明るくならないみたいです」
 そうウェンが申し訳なさそうに言ったのは、ちょうど地上で言う月明かりくらいの明るさになってからだった。
 真昼のはずなのに、突然夜の世界に来たようだ。視界の悪いこの空間内を見渡すと、地面から湧き上がるように、黒い火の粉のようなものが無数に舞っていた。ラグナの濃度が高すぎると、このように目に見えるものになるのだろうか。
 この薄暗い中に、闇を弾く白いものを発見した。
 ——正面に。

「……へ?? セウルっ?」
 キルアの驚いた声に、人影は答えた。
「いよ〜、ゼルス、キルア。オマエらも物好きやなぁ」
 ひょいと片手を上げて挨拶してくる懐っこい笑顔。水色がかった銀髪といい、背中に生える白い羽といい、この独特な口調といい、そこにいるのは間違いなくセウルだった。
 ——なるほど。だからゼドは、この中に入りたかったのか。セウルを捕まえるために。
 しかし、『おかしい』。
 ゼドは森の中に入れなかった。森の手前で考え込んでいた。
 『なぜ、セウルは森の中に入れたのか』?

「それ……」
 ゼルスの目は、少年鳥族の首からぶら下がっている物に釘付けになっていた。
 見覚えのある赤い石のペンダント。紛れもなくレナが持っていたものだ。
 当然のように身につけている少年は、それをひょいと持ち上げて言う。
「ああ、リラが回収してきたコレな?コイツにウチの大部分が封印されとってな。腹立つことに解除に時間かかるから、今は持ってへんとアカンけど」
 流暢に紡がれる言葉の意味を理解する間もなく、セウルは目をやって言った。
「ちゅーわけで、今のウチはフルパワーやで。覚悟できとるんやろな、アスフィロス・・・・・・
 少年の紫の双眸は、ゼルスとキルアには向けられていなかった。
 二人が息を呑んだ瞬間、強い意志のこもった高い声がその言葉に答えた。
「やっぱり意志は変わらないか、ドゥルーグ・・・・・
 声は、ゼルスの隣からした。

「へ……!?」
「……っ!!」
 二人が同時に振り向くと、『彼』は静かに目を閉じていた。
 肩で小さく息を吐き出すと双眸を開く。強い目付きのエメラルドの眼で正面のセウルをまっすぐ見据え、口を開いた。
「こんな形で再会したくなかったよ。でも、どうしても面と向かって意志を聞きたかった。……本当に……現界を潰すつもりなのか?」
 別人のように、強い口調、強い声で。
 ウェンは、セウルという名の魔王に問いかけた。

 対してセウルは、肩で大きく溜息を吐いた。
「せやから、従士づてに何度も言うてるやろ?そないやなかったら、現界になんか下りてこんわ」
「………………」
 ウェンは、何処か悲しげな眼で黙り込んだ。
 少年の髪が煌く。金髪が、淡い極彩色をまとう。それは、初めて会った時のセウルの髪色によく似ていた。
 ウェンの背に淡白光の粒が集まり、妖精のような白い光の羽となった。羽はこの暗闇を打ち消すように輝く。
「……だったら、手加減はしない。しようにもできないけど……」
「はは、やろな。それ抜きにしても、ハナからするつもりなんかコレっぽっちもあらへんのやろ?」
 セウルの背の羽が花びらのように抜け落ち、鳥の骨格のような黒い羽が左右に開く。気が付けば、その銀髪は以前のように極彩色に変わっていた。
 下げられた右手の先には黒い光が収束し、急速に細長いものを象っていく。杖のように地面をついたそれは漆黒の柄の長い斧だった。
「……せ、セウル……ウェン君……」
「おっと、スマンスマン。せやな、いきなり巻き込まれて、わけわからんやろ?」
 黒き羽を持つセウルを見て、ようやくキルアは何かがおかしいことに気付いてきたらしく、呆然とセウルを指差した。
 彼は変わらぬ陽気な口調で言った。
「ウチはドゥルーグ。オマエら現界の者が『魔王』っちゅー闇を統べる者や」
「やっぱりかよ……」
 気付いてはいたが、本人の口から放たれたその言葉は強い力を持っていた。
 なら、ウェンは——
 そう思った時、隣からウェンが前に進み出た。
 ゼルスは白い羽が開いたその背を見てから、下に目を向け、そして驚いた。
 ウェンの手には、いつの間にか白い大剣が握られていた。武術とは無縁だと思っていたウェンが、自身の身長の半分はある白い大剣を軽々と片手に持っていた。
 光の大剣と白き羽。その後姿は、さっきまで話せる間柄だったとは思えないほど、ひどく遠いものに見えて。

 ……と、その背が翻った。
 くるりとゼルスとキルアを振り返ったウェンは、さっきの強い目付きではなく、いつもの穏やかな表情だった。
 ウェンは申し訳なさそうな顔をして、小さく頭を下げた。
「ゼルスさん、キルアさん、巻き込んでしまってすみません。でも、誰かに知っていてほしかったんです」
「……知っていてほしかった?」
 ゼルスの問い返しに、ウェンは頭を上げて胸に手を当てた。
「『ウェン』は現界で名乗る名。……僕の真名はアスフィロス。光の支配者と呼ばれる存在です。黙っていてすみませんでした……」
「へ?ちょ、えっと、あうう……?」
 神だといわれる存在に頭を下げられ、キルアはうろたえてゼルスを見るが、彼は目を丸くして突っ立っていた。
「……いや、お前が人じゃないことは気付いてたけど……」
「あれ、そうだったんですか?」
 バレてないつもりだったらしい光の支配者は、きょとんとした。

 ウェンは精霊干渉を使えば迷いの森を突破できると言ったが、それなら別のエルフだって入れていたはずだ。
 先ほどさらりと光の精霊を従えていたし、何より彼はアスフィロスとドゥルーグの事情について詳しかった。知り得ない多くのことを語る口ぶりは、見てきたかのようだった。
 しかし、恐らく光の眷属だろうと予想したくらいで、まさかアスフィロス自身だと思っていなかった。いや予測はしたが、たぶん自分の中で勝手に否定してしまったんだろう。

 落ち着きを取り戻すのが早かったゼルスが、さっきの言葉を問うた。
「『知っていてほしかった』って、どういうことだ?」
「言葉通りです。誰かに、現在の僕とドゥルーグを知っていてほしかったんですよ」
 天上の存在は、切実な声で紡ぐ。
「今の現界の者たちは、僕らを想像上の存在、伝説の物語だと思ってます。僕らは、確かにここに存在しているのに。千年前、僕らが現界で、現界の者たちと過ごしていたというのは、間違いなく史実なのに」
「………………」
「そんな中、貴方達は従士と接触し、僕らの存在を確信していた。これはチャンスだと思ったんです」
 二人を真正面から見据え、彼は言った。

「――ゼルスさん、キルアさん。貴方がたに依頼します。どうか、今の僕らのことを覚えていてほしいんです」

 伝承者。
 光の支配者アスフィロスが選んだ、遠回りな楔。
「いつか……遠い遠い未来、また、僕らが故郷の現界で過ごせる日を夢見て」
 少年の姿をした神は、申し訳なさそうに微笑んだ。

「……おかしいよ!!」
 ウェンはアスフィロス。セウルはドゥルーグ。
 さっきのウェンの言葉はあまり理解していないが、それだけは押さえたキルアが声を上げた。
 皆の視線がキルアに集まる。彼女はこの緊迫した空気の理由がわからず、ただ悲しそうな顔で首を振った。
「それじゃあ、おかしいよ!キミ達ってオトモダチじゃないの!? なんでこーなってるのっ?!」
「それは……」
「それはなぁ、ウチが現界をブッ壊そうとしとるからや」
 答えかけたウェンの言葉を奪い取り、セウルが自分を親指で差して言った。
 もしかしたら魔王は復讐しようとしているかもしれないと予想していたゼルスが問う。
「……昔、蔑まれて現界を追われた復讐か?」
「復讐には違いあらへんけど、昔の話はしてへんで。ちっとくらい変わったかと思ったけど、やっぱ変わってへんな。現界の者は今でも、ウチが嫌いや」
 呆れ果てたように、やれやれと首を振る魔王。
 こちらに向けられる諦観めいた瞳は、これまでも度々向けられてきたものだ。
 人がいる場所に行くだけで、奇異や興味、好感、軽蔑など、さまざまな感情とともに向けられる目。
 その目には、「ゼルス」という個人は映らない。

  『鳥族はね、みんな竜族キライなんだ。でもゼルス見てると、竜族は鳥族のコト、何とも思ってないみたいー?それってひどいなーって』

 例えば、「竜族」という種族に初対面で攻撃してきたキルア。

  『薄情な現界の者。その調子じゃ、知ってるのは神話伝承の中だけで、アスフィロスサマのコトも忘れてるんだろ?ドゥルーグサマが怒るのも無理ないわ』

 例えば、「現界の者」という生き物にくだらなさそうに言い捨てたシドゥ。
 ——そして、魔王。
 かつて迫害され現界を追われた闇の支配者は、「現界」そのものを敵視する。

「現界の存在自体をブッ壊すんなら、現界を構成しとる土台を崩さんとアカン。その土台っちゅーんが、光と闇の力……ディアスとラグナなんや。そんで、ディアスとラグナは、ウチらそのものでもある」
「そのもの……?」
「例えば、ウチが消えたらすべてのラグナは消滅する。現界、ラグナで構成されとる冥界、ウチらラグナで構成されとる者もみーんな消える。残るんは、ディアスだけでつくられとる天界のみや」
「……じゃあ、セウルがやろうとしてるコトって……」
 珍しく想像がついたらしいキルアが言葉を失い、ウェンの背中を見つめた。
 セウルは人懐っこい笑顔で、淡々と語る。

「正義の味方立てるには、悪役が必要やからなぁ。けど、なんもしてへんのに悪役に仕立て上げられたコッチにしちゃあ、エライ迷惑や。おかげさまで、ウチは今じゃ現界で一番の嫌われモンや。わからへんやろーなぁ、世界中のすべての人に嫌われる気持ち。悲しいなんてモンやないで」

 ……ざわっと肌が粟立った。
 まるで気温自体が下がったような錯覚。体の芯が冷え込む。
 魔王の顔からすっと表情が消えた。
 焦点の合わない紫の双眸が、自分達を鏡のように映す。

「全部、光がおったから起こったコトや。おらへんかったらよかったのに。せやから、ウチは光を恨む。ブッ潰したる。そしたら、半分ディアスでできとる現界も消えて一石二鳥や」

 ——息苦しい。体が竦む。
 圧力の塊のようだった。自分たちに向けられたものではないだとわかっていても、冷淡な敵意がのせられた強大な存在感に息が詰まる。それに押し潰されないように意識を強く持つことで精一杯だった。
 あまりに深すぎる悲哀、憎悪。
 千年越しの傷はとうに膿んで、手の施しようがない。
 おののく二人。しかし、矛先を向けられた白き少年だけは、すっと顔を上げた。
「……僕は……君の口から答えが聞きたくて、このイプラストで君を待ってた。……でも」
 白い双羽が開く背。極彩色の長い金色の髪を、白き光の粒子が照らし上げる。
 大剣を握る手、エメラルドグリーンの瞳には、揺るがぬ決意。
 両手で剣を横に構え、少年は言った。

「それが君の答えなら、受けて立とう。僕は全力で君を止める」

 ——光の支配者アスフィロス。小さくも、気高きその姿よ。

 間髪入れずに、ぶはっとセウルが吹き出した。腹を抱えて、清々しいくらい笑い転げる。
「やられる気マンマンかと思っとったけど、ウチを止めるって?できるんか?光のオマエが圧倒的に不利なこのラグナのフィールドで!!」
「わかってるよ、それくらい。でも用心深い君のことだから、この場所以外じゃ僕の前には現れないと思ったんだ。ドゥルーグはそういう奴だ」
「ホンマにオマエは期待を裏切らへんなぁ!危険を省みずにノコノコやってくる、思った通りすぎて笑えるわ。オマエはそーゆー奴や。それでこそアスフィロスや!」
 高揚したセウルの声。お互いを熟知した仲でこその応酬。
 親友同士の殺し合いがこれから始まるなんて、誰が予想し得るだろう。
「……ウェン。勝算はあるのか?」
「勝算も何も、僕は、勝っても負けてもいけないんですよ」
 緊張する小さな背中に問いかけると、間髪入れず返ってきた。とても曖昧なのに、言い切るさまは迷いなく。
 それは、光と闇、どちらも現界を支える根幹であるからこその責任感。光が勝っても、闇が勝ってもいけない。そのように戦局を導かなければならないのだ。
 世界を守護する存在——人は、それを神と呼ぶ。
「現界のことは頼んだぜ、神様」
「当然です」
 はっきりと答えるウェンに、ゼルスは安堵を覚えた。
 ゼルスの脳裏には、ある気がかりが掠めていた。未来視の王女アスナに告げられた、ひとつの予見。
 光が闇に引き裂かれるような暗示。何度見ても終幕の途切れる予見。悪い予知であるという彼女の直感。
(……明確に視えないのが、逆に救いか)
 予見で視る運命は、世界の有り様によって変わるし、光と闇の運命は容易には観測できない。
 この暗闇の先に何があるのか、まだ誰にも見えない。

「いや〜あんなに楽しそうなドゥルーグサマ、ひっっさしぶりに見たなぁ」
 不意に、後ろの方から声がした。気配なんてしなかったのに。
 二人が猛然と振り返ると、ゼドはやはり気付いていたらしく、すでに後ろを振り向いていた。
 彼が見る先、土壁に寄りかかってひらひら手を振る赤髪の少女。その少女の影のように佇む蒼の青年。
 この薄暗がりでも見間違えようはない、シドゥとセルリアだった。
 ゼルスの確信した目と、セルリアの虚ろな目が合った。
「セルリア……!? どーして!?」
「……久しぶりだな」
「あれ?ルシス、アンタもあいつら知ってたんだ?」
「会ったのは一度だけだがな」
 そのことは知らなかったらしいシドゥが驚いた顔をすると、セルリアは手短に答える。その二人の背には、セウルほど大きくはない黒い羽。
 ドゥルーグ従士、リラとルシス。

 青年の姿を見た途端、ゼルスの脳裏に、あの日の声が響いた。
「おいセルリア、てめぇには用がある」
 ゼルスが低い声で呼びかけると、青年の眼がこちらを向いた。その瞳からは、以前会った時以上に、感情を読み取ることはできなかった。

  『……セルリア……なん、で……ひとりは、こわいよっ……』

 ――レナの嗚咽が、鼓膜に染みついて離れない。
 ゼルスは愛用の弓を持ち、臨戦態勢をとった。
「俺と勝負だ。てめぇは一回、殴っておかないと気が済まねぇ」
 ペンダントを取り戻してほしいという、レナの祖父オスティノの依頼。可能であればセルリアも捜してほしいと頼まれた。
 遠慮がちに付け加えられた捜索依頼。明言されなかったその真意こそが、オスティノ、そしてレナの本当の願いだ。
 対してセルリアは、不思議そうに問い返してきた。
「……僕と勝負?現界の者が?」
「あぁ」
「やめておけ。主人の邪魔や僕達に危害を加えない限りは、こちらからは手を出さない。主人からそう指示されている」
「そういうとこが気に食わねぇんだよ!! 主人主人って、全部主人のせいにしやがって!考えることから逃げてるだけだろうが!!」
 静かな水面のような青年の表情に、不意に荒波が駆け抜けた。だらんと下げた右手の先に、黒い光の粒が渦を巻き、一振りの漆黒の剣をつくりあげる。
 鋭利な気配がゼルスの全身に突き刺さる。鏡のようだった瞳は曇り、今や煮えたぎるような昏い怒りが滲んでいた。
「……気が合ったな。理想ばかり口にして、自身のことでもないのに知ったように言う……僕も、お前のそういうところに腹が立つ。確かに一度、殴らないとわからないようだ」
「そりゃ奇遇だな」
 確かに他人事だし、セルリアのことをよく知っているわけじゃない。
 でも――

 ひとりぼっちのつらさを知っているが、『ひとりぼっちにする』つらさも知っている。
 だから、その澄ました顔には心当たりがあるのだ。

「ボクもボクもー!! れーちゃんが泣いた分、殴りたい!!」
 なぜここにセルリアがいるのかすぐ飲み込めていなかったキルアが、やっと理解して動き始めた。手を上げながら物騒なことを言い、ゼルスの隣に並ぶ。
「セルリアもジューシーなヒトってコトだよね?じゃあゼルスだけじゃ無理だよー!ボクが手伝ってあげる☆」
「……まあな。そんじゃ頼むわ、相棒」
「まっかせなさーい!」
 少女は片足を引き、見慣れた戦闘態勢をとった。
 いつもの調子で返してくれたキルアに、ゼルスは少しホッとした。子供だしやかましいこの鳥族が、今は心強かった。

 楽しげに事を見守ってたシドゥが、わざとらしく肩をすくめた。
「あらら、戦闘勃発だね〜。となると、アタシもルシスに手を貸さないとね?」
「従士二人相手かよ……」
「お前らでは一人相手でも力不足だ」
 ゼルスがうめくように呟くと、二人の手前に立っていた青い背中が答えた。
 ゼドはいつの間にか、いつもの銀の大剣を握っていた。
「シドゥは俺が引き受ける。お前らは蒼い方の相手をしろ」
「おやおや、これは大物相手だね」
 ラグナから構成した紅の棍棒を持つシドゥは、ゼドの変化のない顔を見て面白そうに言った。
 予想外のように反応しているが、彼女はここまで推測の上、望んでこの状況を選んだのだろう。楽しそうに棍棒を構える姿が答えだ。
「存分に殴り合おうじゃないか。互いに譲歩しないなら、ぶつかるしかないんだからさ」
 戦場の指揮者のように、シドゥは手を広げて言った。
「おいキルア、手加減すんなよ」
「わかってるよ!ゼルスこそね!」
 手加減したら死ぬのはこちらだ。そんな短い会話で十分だった。
「そんじゃ行くよ!」
「頑張るぞぉ〜っ!!」
「力萎えるからやめろって!」
「……わけがわからないな」
「………………」
 シドゥの声を引き金に、なんとも緊張感のない声々とともに五人は一斉に跳んだ。


 従士達とゼルス達の戦いを一瞥し、セウルはウェンに目を向けた。
 この闇を切り裂くように開く光の羽。緑色の瞳は、月明かりのような光の下でも、なぜか不思議とよく映えた。
「えーこと教えたる。もしウチの奴らがアイツらに降参しよったら、ラグナの放出やめるよーに言ってあるんや。このラグナ200%の領域で勝てたご褒美っちゅーことで。したら、ちょいとラグナの濃度が下がって、不利すぎるオマエがちょいと楽になる」
「ご褒美、か。君が温情な奴でよかったよ。じゃ、みんなに頑張ってもらうためにも、僕が頑張らなきゃ」
 光の大剣を片手で持ち上げ、ウェンは刃を引く。セウルも倣って、斧の頭を地面に向けて持つ。
「楽になっても、うちの方が断然有利なんは変わらへんけどな」
「いいよ。ご褒美くれるだけで十分」
「大きく出たなぁ。うちの庭やで?ココ」
「わかってるってば」
 さっきから何度も突きつけられる状況。ウェンは苦笑して言った。

 ——不思議だ。
 今、自分と彼は敵対しているはずなのに。これから戦うはずなのに。
 変わらぬ口調。話し方。言葉。
 それに対する自分の口調。話し方。返答。
 久しぶりに会ったとは思えないくらい、変わらない。
 千年前に戻ったような、不思議な感覚を覚える。
 交わす言葉は、対立しているそれであったとしても。

 現界を守る。
 それ以上に、親友を守るために。

「———行くぞ、ドゥルーグ」
「あぁ……来いや、アスフィロス」