杭の章

第11話 史実の伝承

 静かなところは好きだ。朝の街、森の中、図書館、今のように教会とか。ホッとするし落ち着く。
 だから、そんな場所の静寂を乱す騒音は敵だ。
 よって隣でしつこく話しかけてくるコイツも敵だ。
「ねぇねぇ、シドゥ追っかけようとした時、邪魔した氷の針さ〜」
「………………」
「スゴかったねー!アレ、知らない魔法!」
「ってお前、魔術師のくせに知らねーのかよ?!」
 ゼルスはつい声を張り上げてから、額を押さえてうな垂れた。
 周囲から視線を感じる。静寂を乱す騒音は敵なのに、自ら敵に回ってしまった。

 今日は式典の日でもなく、教会の中には穏やかな時が流れていた。それでも何処となく漂う神聖さは、白壁に囲まれた祭壇に降り注ぐ、柔らかな陽の階のせいか。
 教会奥の正面にある祭壇の脇、木彫の小さな机に年配の牧師と一人の信者らしい二人が向き合って座り、何か話をしている。何かを相談をしに来た迷える子羊に道を示しているのだろう。
 整然と並ぶ長イスの前列で、ゼルスは隣に座るキルアを見た。爆弾発言をした彼女は、不思議そうに首をかしげている。
「……あれもお前が使ってる魔法と同じはずだぞ。筆記魔法
エンシェント
だっけ?派生魔法だけど」
「ゼルス詳しい~!筆記とか名唱とか言ってたけど~、ボク知らない☆」
「知らない魔法は全部非常識みたいな言い方すんな……」
 今日も元気に所構わずクッキーを食べていたりするキルアに、ゼルスは嘆息した。
 キルアの使う筆記式精霊魔術——通称<エンシェント>と呼ばれる魔法は最も古代からあるとされる魔法で、筆記と名唱という2段階から成る。
 まず筆記は、キルアが魔法を放つ際に行う、大気中に微量に含まれている魔力を使って空中に古クルナ語の呪文を刻む作業。これで大気中の精霊に干渉をする。そして名唱は、その魔法の引き金となる言葉だ。
 ……と。ゼルスは一応確認も兼ねてキルアに聞いてみた。
「ところでお前、筆記と名唱なしで魔法やるとどーなんの?」
「へ??」
「……お前、三流に格下げな」
「えぇぇっ!? ボク超一流だよ!?」
「どの口が言うんだどの口が!!」
 教会というのは音がよく響くように設計されており、そんなわけで二人の大声は盛大に反響した。

 筆記と名唱。通常、エンシェントの魔法はこれらの手順を踏むが、実はこの2段階は省略可能だ。
 筆記か名唱だけ、はたまた何もなくとも魔法は発動する。魔法は術者の意思によって発動するものだからだ。ただし、その段階を削るごとに威力は半減する。
 そして<エンシェント>は、火炎、水流、疾風、雷撃魔法の4つが基本だ。それらから派生した魔法が、爆砕、風巻、落雷、そして例の氷の針の氷結魔法。
 しかし魔法の筆記と名唱は口伝が基本だ。つまりそれらの魔法を知りたければ本物の魔術師を当たるしかない。魔術師なんて、ほとんどいないこのご時世で。

 ……というのを魔術師でもないゼルスが知っている以上、業界では常識だと思っていたが、ここに非常識がいた。
 嘆息して、光が差す四角い窓の下の祭壇、その隣の牧師と信者を見やった。
 自分達が待っているのはあの牧師が手すきになる頃だ。教会内には他に二人ほど信者がいたが、牧師に相談しに来たわけでもない様子なので、今の会話が終われば時間は空きそうだ。

  『アタシは、アンタ達が魔王と呼ぶドゥルーグサマの従士の一人、リラ。闇ラグナの《執行者》とも言うね。ざっくり言うと、普通の存在じゃないってコトだ』

 脳裏に横切ったセリフを思い出して、ゼルスはつくづく不思議だと思う。
 いまだに神だの魔王だのの存在は信じていないし、胡散臭いと思っている。
 しかし、あんな黒い羽を見せられてあんなこと言われたら知らないわけにはいかない。
 セルリアを禍根なくレナと再会させるには、その主ドゥルーグとの関係を、セルリアが納得できる形でどうにかする必要がある。
 しかし、その存在が何処にいるのか、会話が成立する相手なのか、どんな姿なのか、そもそもセルリアとはどういう関係なのか、分からないことだらけだ。
 リギストの王都イールスの端にある教会にて。二人は伝承について神官に直接話を聞こうとしていた。

 ふと、教会の扉が開かれる音がした。振り返ると、つかつかと入ってくる一人の若い男が見えた。
 また客かよ……とゼルスは面倒臭そうに何気なく目で追って、途中で違和感を覚えた。
 牧師と話していた信者が穏やかな顔で礼をして立ち去る。入れ替わるように、その若い男が牧師に近付いていく。
 ……その歩き方。随分と早足で力強い。敬虔な信者は、もっと穏やかに歩くのではないか?特にこの教会では。
 老いた牧師が近付いてきた男を笑顔で出迎える。
 その顔に恐怖が走ったのが見えた。

「動くな!!」

 思わずゼルスが腰を浮かせた瞬間、空気を震わせた男の大声。
 教会内にいた皆が硬直してそちらを見ると、男は羽交い絞めにした牧師の背後から首筋にナイフを突きつけていた。
 教会内に張りつめた空気が満ちる。息をするのも躊躇われるような緊迫感。
 誰もが動きを止めた中、恐れに染まった牧師に男が苛立った口調で問う。
「牧師さんよ……あんた、財宝隠したな!?」
「な、な、何のことだか……」
「あんた以外に考えられねぇんだよ!! アノーセル湖に金品が沈んでたってのに、朝来てみたらなくなってるじゃねぇか?あの湖はあんたらの管轄だろ?!」
 首筋のナイフを目だけで見て、老牧師が震える声で言った。
「ま、またその話か……いろんな者に言われるが、アノーセル湖はわしらの管轄でもなければ、そんな財宝なども眠っておらん……!」
「嘘吐くな!! 俺は昨日の夜、確かにこの目で……」

「———くだらない」

 興奮気味の男の語気の荒い声を遮ったのは、決して大きいとは言えない高音の声だった。
 声は同じ教会内からした。ゼルスが振り返ると、離れたところの隅で長イスに座る信者が一人いた。
 不思議な威圧感を内包した声の主は、すっと立ち上がった。勢いを殺されて胡散臭そうにこちらを見る男をその人物が振り向くと、顔が見えた。

 冷ややかな双眸だった。
 琥珀色の長髪といい、落ち着いた色合いのロングスカートといい、清楚に見えるそんな若い少女が、露骨な軽蔑の視線を男に向けている。まるで冷酷な指令を下しに来た天使のようだった。
「はぁ……?おいそこの女、今何て言った?」
「リギストではちゃんと教わるそうね。アノーセル湖は魔力が湧く現界の泉。魔力は、虹色に煌きながら大気中に溶けていくって」
 あからさまに不機嫌そうな男の問いに『頭の左右から伸びる長い耳』に髪をかけ、少女は溜息混じりに答えた。その一言で、ゼルスは彼女の言わんとしていることを理解した。
 しかし、男と、ついでにキルアも理解していないらしい。男は苛々した様子で先を促す。
「だから何だ?」
「まだわからないの?貴方が見たものは幻よ。夜に見たのなら、見間違えても仕方ないかもしれないけれど」
「そうか、お前もコイツとグルだな?! コイツをぶっ殺し」

 それは一瞬だった。

 話を聞こうともしない男の頬に唐突に地面と水平に切り傷ができ、一滴の赤い雫が流れたのだ。
「……な……?」
 呆然と頬に手を当てる男。手のひらについた血を見て、顔を強張らせる。
 男の頬の横を抜け、その背後の白亜の壁に突き立ったのは……小さな氷の針だった。
「あ、氷の針……!?」
(今の、誰が……)
 さっきまで噂していた氷結魔法が突然現れて、キルアが目を見開いた。ゼルスはすぐに魔術師を探そうとしたが、それは無用だった。
「引きなさい。次は当てるわ」
 少女が冷淡な声音でそう告げた。
 ゼルスには動いた瞬間は見えなかった。キルアを振り向くと彼女も小さく首を振って、しかし小声で言ってきた。
「見えなかったけど……あのヒト、たぶん魔法使ったよ。精霊ちゃん集まってるもん」
「……有り得ねぇ……筆記と名唱なしか……」
 ぼそりと呟きながら状況を見ると、膠着状態だった。少女は男が牧師から離れるのを待っている。
 男はさすがに腰が引き気味だが、譲る気配はない。牧師は不安そうな顔でされるがまま。
 ——やがて、痺れを切らした少女が一歩踏み出した。
「うわぁぁああああ!!!!」
 男がやけを起こして叫び、ナイフを引いた。
 その切っ先が牧師の喉を突く一瞬前。
 光が爆ぜる音とともに男の体が大きく痙攣し、そのままふらりと背後にその体が傾いた。倒れこんだ男の手からナイフが滑り、硬い音を立てて壁にぶつかる。
 急に解放された牧師は、呆然とした表情でその場に座り込んだ。
 ……同じように、ゼルスとキルアも状況を理解できず。倒れた男とその傍に座り込む牧師、その向かいに屹立する少女という光景を、ぽかんと見つめていた。
「……な、何が起きた……?」
「今の……雷の魔法だった!雷撃魔法とちょっと違う!」
 何が起こったのかゼルスにはまったくわからなかったが、さすがキルアはあれだけの演出でどの魔法でどの程度か見切ったらしい。
 ということは雷撃魔法の上位、落雷魔法だろう。以前、ゼドが置き土産に放っていった魔法だ。
 キルアは見たことのない魔法に興奮し、ゼルスは一瞬の出来事に唖然としていた。

「……刺激が強すぎたかしら」
 やがて、少女の呟く声がした。
 少しだけ困った様子であごに手を当て、倒れ込んだ男を眺める少女。それからヒールの音を響かせ、唖然とした様子で座り込んでいる牧師の傍にしゃがみ込んだ。
 先ほどまでの態度が嘘のように、優しげな笑顔、口調で。
「大丈夫ですか?お怪我は……」
「え……?あ、あぁ……大丈夫です。ありがとうございます……」
 魔法自体を認知していない牧師にとって、たった今、少女に助けられたという実感は薄いだろう。牧師は首を傾げながら立ち上がり、おずおずと小さくお辞儀をする。
 いそいそと祭壇の方へ戻っていく牧師を見てから、少女はすっと背を向け……、

「ねぇねぇねぇねぇ!!!」

 ——きっと、突然視界に入り込んできた黒髪の少女に驚いたことだろう。
 少し驚いた顔をした少女にアタックをしたキルアは、彼女の瞳を覗き込み、キラキラ目を輝かせて言う。
「ねねね、魔法教えて!! さっきの針とか、雷の魔法とか!ボクも使いたーい!!」
 初対面で唐突に言われたら誰だって困惑するだろう。ゼルスはキルアの後ろに近寄り、呆然としている少女に助け舟を出した。
「おいキルア、初対面で言うセリフじゃねーだろ、それ。大分引くぞ」
「うー……そっか。ゴメンね!」
「いえ、大丈夫です」
 ぱんっと手を合わせて潔く謝るキルアに対し、少女はやっと呼吸ができたように微笑んだ。
 年齢は自分達よりやや上に見える。琥珀色のつややかな長髪と焦茶色の双眸から、落ち着きの漂う容貌。淡い色のワンピースと臙脂色のハイヒール姿は、清楚でいて上品な雰囲気だった。
 目の前の少女と、先ほどあの男を撃退した勇ましい少女とがすぐに一致しない。とても戦闘員には見えなかった。
 それと……彼女の長い両耳。
「……珍しいな。エルフか」
「ふふ、私も本物の飛族を見たのは初めてです」
 ゼルスがそのことに触れると、少女もこちらの種族に触れて返してきた。その際にふわりと浮かんだ笑みは大人っぽくて優しい。

 ——エルフ。飛族と同じように長い耳を持ち、しかし翼を持たない種族。
 彼らは、世界の元素を支える不可視の存在「精霊」とともに生きている。成人後は成長がゆっくりになり、長命としても有名だ。
 エルフは、ほとんどがルプエナ西海に浮かぶ島イプラストに住んでいる。しかし一方で知的好奇心が強いため、魔法学や精霊学、考古学など研究者が多く、そういう者たちは大陸に渡ってくることが多いそうだ。それでも人里を避けて過ごしているので普通で、そう見ることはない。機械学の魅力に取り憑かれた研究者は、よりよい環境を求めてカルファードの都市に住んでいるらしい噂は聞くが、ここはリギストだ。

「何でエルフがこんな人里にいる?」
「では、なぜ飛族が人の街にいるのでしょう?飛族は、エルフに負けないくらい人前には出ないと聞きましたが?」
 少女は動揺することも機嫌を悪くすることもなく、間髪入れずにオウム返ししてきた。
 想定外の対応だったことに加え、その答えに渋ったゼルスは口を閉ざさざるを得なかった。少女は、試すような笑みを浮かべてこちらの様子を窺っている。
 少女は質問に答えなかった。つまり相手にはそれを言えない事情がある。
 それはこちらも然り。キルアに視線をやると、彼女も眉間にシワを寄せて悩み込んでいた。
「……エルフでも神を信仰するもんなのか?」
 一本とられたのがちょっと悔しかったので、今のやり取りはなかったことにした。
 大して興味もないが、教会にいたという連想から適当に話題を振ると、少女も深入りすることなく少し考え込んでから返答した。
「そうですね……信じています」
「神の存在を?」
「いえ、そのものを」
「……?」
 妙な言い回しに眉をひそめたゼルスの様子が見えているのか、見えていないのか。
 少女はすっと佇まいを正し、小さく一礼した。
「申し遅れました。私はフィンと申します」
「あ、ボクはキルアだよー!こっちはゼルス!」
「お前、勝手に……まぁいーか……」
 さっきの沈黙が嘘のように口を挟んでくるキルア。迂闊に名乗るのは軽率なような気がしたが、もう手遅れだし、ゼルスは諦めて嘆息した。
 エルフの少女フィンはキルアを見て微笑んだ。
「魔法を教えてほしい、とのことでしたね?」
「うん!ボクも魔法使うんだけど、キミが使ってる魔法、ボク初めて見たから教えて!!」
「いいですよ、私でお役に立てるなら」
「ホントっ!?! やったー!!」
 自身は裏があるくせに嬉しそうなキルアと違い、あっさり頷いてみせたフィンの言葉にゼルスは裏を探した。
 初対面の相手にそこまでする義理はないだろうに、なぜ?
「ただし、条件があります」
「……当然だな。何だ?」
 だから、その言葉が続けられて少し安心した。常に相手を疑っている自分に少し嫌気も差したが。性分だから仕方ない。
 バンザイをした格好のままで首を傾げるキルアと肩の力を抜いたゼルスとを見て。
 フィンは、二人にとってあまりにタイムリーな話題に触れた。

「お二人は、アスフィロスとドゥルーグを信じていますか?」

 聖なる教会の空気は、なんとなく冷ややかで穏やかだが、この瞬間は完全に凍りついたような気がした。
 二人の言葉を失わせるには十分な一言だった。
 つい最近、実在する……らしいと判明した存在。しかし迂闊に口に出せず、結果、二人は即答できず、ただ動揺を噛み殺していた。
 フィンは意味深な笑みを浮かべたまま、返答のない彼らに続ける。
「世間一般ではリギストの伝承が正確と言われていますが、実は違うんです」
「……んん??」
「……は?ちょ……どういうことだ?」
 早速、平穏に凄い爆弾を投下されて狼狽えた。伝承を調べに教会にやってきたのに、正確ではないという。
「各国に伝わる伝承は、光と闇が現れるのは同じですが、少しずつ内容が違うんですよ」
「ん~、そーいえば……ボクとゼルスの伝承、違ったねー?」
「あぁ……つーか国ごとに違うのかよ。お国柄とかで変化しただけじゃねーの?」
 方言や地域柄で生まれた童話みたいなものではないのか。ゼルスが言うと、フィンは答えた。
「世間でリギストの伝承が真実とされているなら、なぜ他国はそれに統一しないのでしょうか?」
「……確かに。……童話として存続させたかっただけとか?」
「変えるのめんどくさかったー!とか?」
「どちらの説もありますね。もうひとつ……国によって違うのは、各国の伝承が少しずつ事実を織り交ぜているから……という説があります」
 なんとなくフィンの言う「条件」を理解してきたゼルスの前で、フィンはすっと手を上げ、順に指を立てながら言った。
「リギスト、ルプエナ、カルファード、イプラスト。この4ヵ国の伝承を集めて事実を抜き出し、≪史実≫を伝えてほしいんです。いかがですか?」
「エッ?かんたんだね!ゼルス、良いよね?」
「……俺らも各国を回るつもりだったし、ちょうどいいな」
「あら、そうだったんですね。なら先に魔法を教えましょうか」
「なんか変な感じだな……」
 拍子抜けする二人に、フィンは微笑んだ。フィンは神を信じていると言ったし、信者の一人として真実が気になるのだろうか。
「魔法を教えるのは広い場所が良いですね。この近くで心当たりがあります。行き……あら」
 フィンは教会を出ようと踏み出しかけ、ふと上を見上げた。
「……すみません、少し用事を思い出しました。街の入口で待っていてもらえますか?また後で合流します」


 二人は訝しげ――特にゼルスは不審げに見ていたが、フィンは一度彼らと別れた。
 イールスの街の陰に隠れ、目を閉じた。もう一度開いた瞳には、ここではない別の景色が映っていた。
「……ゼティス。ジークの依頼を受けた飛族の二人組に出会ったわ」
≪確信があるのか≫
「ええ、聞いた名前も一致しているわ」
 自分の耳にだけ響く平坦な声に返事をし、フィンは二人を思い出した。
 ゼルスとキルア。同胞がR.A.Tに出した依頼を引き受けたのも、同じ名の二人だと聞いている。
「恐らく依頼を受けて、二人は闇の眷属……ルシスを探していたのね。そのせいか、なんだか……私達のことに勘付いている気がするわ」
 ――先ほど、アスフィロスとドゥルーグを信じているかと問うた時。
 彼らは明らかに動揺していた。まるで、それらが実在すると知っているかのように。
 蒼の青年が何かを話したのかもしれないが、彼は他二人と違って真面目で、余計なお喋りする性格ではない。
 フィンは釈然としない気持ちを抱えていると、ふと思い出したように相手が言った。
≪……そういえば≫
「え?」
≪シドゥ……リラと行動した時、飛族と会った。竜族と鳥族≫
「……それ、かなり重要よ」
 彼は無関心ゆえにわざわざ話題に上げなかったのだろう。フィンは思わず呆れた。
 リラと例のペンダントを奪取しに屋敷を襲撃したのは聞いている。リラが関わっていたということは、同胞のルシスも自ずと関連性がある件だったのだろうし、ルシスを探していた飛族の彼らがそこにいたなら辻褄は合う。
「……ならあの二人、ちゃんと知っているんだわ。私たち眷属のことも、天上のお二人のことも……。話したのはリラでしょうね」
 フィンの脳裏に過ぎるのは、迎えに行った際に主が言っていたことだ。

 ――今の現界に、自分たちを知る者は誰もいない。
   崇める者も恐れる者もいなくなって、それは幸せなことかもしれない。
   でも……

「……ジークの言っていた二人だと気付いた時から、決めていたけど。それならあの二人には、ちゃんと真実を知ってもらいましょう」
「意味があるのか」
 ばさりと羽音が頭上からして、肉声が直接耳朶に触れた。フィンが目を開いて見上げると、大きな白羽を持つ鳥族が壁の上に立っていた。
 彼は、意思の疎通を図るために何の話か問うてくるが内容自体には興味がない。無感動な瞳を見返して、フィンは淡く微笑んだ。
「……あるわ。貴方には理解しがたいかもしれないけれど」
「監視は必要か」
 フィンが進捗を見ておきたいなら、という読みでゼドは聞く。確かに彼らは現界の者だから、誰か眷属が側にいないと見失うことだろう。
「ええ、でもジークにお願いするわ。二人の様子を見ながら、各地で
ラグナ
の勢力がいないか調べてもらうのが良いと思う。私は一度、ゼルスさんとキルアさんを待たせているから戻るわ。貴方は、今アスフィロス様の傍にいるジークと……、いえ待って」
 フィンが言葉を途切れさせると、ゼドも理解した。主の気配がいつの間にか西に移動していたのだった。
 待つように言っていたのに、相変わらずの自由さ。フィンは少し沈黙してから諦めた様子で言った。
「……貴方はひとまずジークに説明して交代して、アスフィロス様の傍にいて。後はもう、アスフィロス様にお任せするわ」


(急にいなくなって、なんだったんだろうな……)
 魔法を教えると言った直後、フィンが用事があるといなくなったことを、もちろんゼルスは不審に思った。
 待たせておいて立ち去る計画だった?
 だが前金を支払っていたわけでもなく、そうなったところで実被害はなかった。フィンはちゃんと帰ってきたし、プライベートな用事の内容を聞く気もなく、妙な違和感だけが残った。
 約束通りキルアは魔法を教えてもらうことになり、ちょうどいい場所を知っているからとフィンに導かれ、現在に至る。

 三人は王都から少し離れた森の中、道なき道を歩いていた。森の中を歩くような格好ではないのに、先頭のフィンは不思議とさくさくと進んでいく。
 木の枝にぶつかっているせいで羽や髪に葉をつけているキルアが、痺れを切らして問いかけてきた。
「ねーーっ、まだ着かないの〜?」
「ちょうど着きましたよ」
 そう言ってこちらを振り返るフィンが薄く陰る。ずっと木々が続いていた正面から光が差したからだ。
 光の下に出ると、思ったより眩しくて目を細めた。目が光に慣れてから、ゼルスは目の前をよく見て一瞬目がおかしくなったのかと思った。
 ここは、木が生えぬ開けた草原だった。その先で視界を埋め尽くす光。
 眩しすぎるくらい光を反射するのは、水面だった。視界いっぱいが水面だった。
 水平線の向こうには西に傾いてきた陽の下で鳥が飛んでおり、ここと同じように青々とした森が広がっていて、そしてどうやら、ちらほらと人がいる。
「おおおー!!?! 海だ〜!!」
「向こうの森と人間の存在無視すんな。ここは……」
「ええ、アノーセル湖です」
 頭を掠めた単語をフィンが先に口にする。そういえば昼間、男がお宝がどうのとか騒いでいたっけ。

 ――アノーセル湖。自然豊かで眺望が美しいリギスト王国でも屈指の観光名所だ。
 だが、国教でもあるリギスト教の神アスフィロスがいると言われている神聖な湖ゆえに国家の管理下にある。正確には教団が提示した厳格な規制を遵守することを前提に、管理は民間団体に任されている。規制とは例えば、団体の管理者以外は昼しか訪れることができなかったり、観光ルートが決まっていたり、立入禁止区域があったり、さまざまだ。
 アノーセル湖はその噂に違わぬ美しさだった。美しいものを愛でる趣味はないゼルスでもつい見とれるほどに。
 淵を彩る新緑の木々は燃えるように輝き、かすかに風に揺れる水面は一様に淡いオレンジ色に染め上げられていた。その水底は不思議と、なんとなくほんのり白みがかっていて神々しい……というか……、
「なんかキラキラしてるー?む〜なんとなく見たコトある? ……はっ!もしかしてお宝!?」
「そうやって見間違えて牧師に詰め寄ったのがあの馬鹿男なんだろ……てゆーか俺ら、ルートを完全無視してねぇか」
「ええ、本来ならば通ってはいけない場所のようですね。ですが、この周辺の方が都合がよかったので」
「……何のだ?」
 キラキラ目を輝かせるキルアはよそに、「都合がよかった」という一言にゼルスはつい低い声で問い返していた。
 フィンは動じることなく微笑み、すっと湖を指す。ちょうどキルアが釘付けになっている、なんとなく白い光が見える辺りを。
「アノーセル湖の周辺は魔力の濃度が高いんです。湖の底から魔力があふれているので」
「あー!! あのキラ☆キラ、ボクが魔法で文字書いた時の光か〜!なるほどぉ!」
「夕方以降はアノーセル湖への道は閉鎖されますし、もう少しすれば人気は完全になくなります。思う存分、練習できると思いますよ」
「………………」
 こんなあからさまに不審な言葉を並べ立てられたことがないので、逆に驚いて何も言えなかった。
 ……フィンは、視認できない速度で魔法を発動させる技量を持っている。つまり自分たちに勝ち目はない。
 しかしフィンがこちらを攻撃する理由など見当たらない以上、今のところ大丈夫だと割り切っても問題ない……か。
「ふふ、そんなに怪しいですか?私」
 そんなことを考えていてつい口数が減ると、フィンのおかしそうな笑いが聞こえてきた。
 なんでもお見通しなご様子の彼女に、ゼルスは参ったように溜息を吐き顔を上げた。
「……いや。信じる理由もねーけど疑う理由もない」
「そこまで考えが至っているなら、私が言うことはありませんね。それで十分ですよ」
 エルフの少女は怒りもせず、穏やかにそう言った。もしかしたらフィンもゼルスと似たタイプかもしれない。
「もう少しして人気が少なくなったら、キルアさん、魔法を教えてあげますね」
「え!? ココ、灯りないよ?夜になっちゃったら真っ暗だよ!? おっ、オバケ出るよーー!!」
 最後の一言はともかく、キルアの心配はもっともだ。もう少しすれば夕方だし、それから日が暮れるのはあっという間だ。夜の森は真っ暗闇だろうし、一般的に、獰猛な獣が徘徊する時間帯で危険だと言われている。これだけ深い森は特に。
 魔法の練習以前に、その獣相手に朝が明けそうだ。大抵は、向こうの数の多さに音を上げることになる。
(……まさか、俺が蹴散らす係とか言わないだろうな)
 途端に青ざめた顔になったキルアと、嫌な想像をして嫌そうな顔をしているゼルスに、フィンは笑って。
「ふふふ、それはキルアさんの呑み込みの早さ次第です」
「オバケに会うか否かはお前にかかってるってよ」
「ボクがんばる!!!!」
 キルアは見たこともない真剣な顔で、ぐっと拳を握り締めた。