杭の章

第12話 伝承者

 リギスト伝承は、ゼルスが知るルプエナのものとは大きく違った。
 ルプエナでは魔王は人々に邪険されて姿を消す。
 しかしリギストでは、神が魔王を追い払ったと書かれていた。
 神を崇拝するリギストならではの、強烈な神への信仰心が浮き彫りになったものなのかもしれない。

 遥か昔、世界には何もなかったという。
 あったのは、万物の祖でもある大いなる存在――神アスフィロスと魔王ドゥルーグ。
 光と闇がいるだけで世界はその影響を受け、次第に変化していった。
 彼らによって天が生まれ、地が広がり、海が溢れ、そして命が次々に芽生えていった。
 それが今、自分達が生きる世界——「現界」。光と闇の融合世界。

 そして魔王は、ルプエナでは人々に、リギストでは神に追われる。ルプエナはそこで終わりだが、リギストではまだ続きがあった。
 ドゥルーグが逃げ込んだのは、自らが生み出した「冥界」という名の闇の世界。そして、そんな彼を追いやったアスフィロスも「天界」という名の光の世界に去ってしまう。
 現界、天界、冥界。
 世界が、3つあることになるのだ。

(キルアの言ってた伝承はこれか……)
 この三界の存在こそがリギスト伝承内の事実だろう。シドゥも認めていたし。
 ルプエナ伝承の事実は、これもシドゥが言っていたように、太古の人々がドゥルーグを封印しようとしたという下りだ。

 陽は傾き始め、すべてがオレンジ色に染まる頃。
 湖の水面も赤みを帯びた光を反射し、大きな鏡のように橙色に輝いていた。東側からは夕闇が忍び寄ってきて、物陰から西側の夕日の様子を窺っている。
 アノーセル湖のほとりに、木の生えていない草原の広場があった。木を伐採したわけではなく、どうやら自然が作り出したものらしい。
 その広場の縁、手近な木の根元にゼルスは寄りかかっていた。
 ふと思考の海から引き上がると、意識外に追いやっていた爆裂音やら電撃音やらが、無視できないほどの音量で鼓膜を叩く。よくこれを聞き流して今まで思考にふけっていたものだ。没頭すると周りが見えないのは昔からだ。
「えっとぉ……こーでこーで、コレでどーだぁッ!! 『氷結の刹那、イレイズ』!!」
 人差し指でしゅぱぱっと空に光の文字を書き、キルアが勇ましい顔つきで名唱を言い放つ。ゼルスが考え事を始める前から行っている動作だから、もう魔力の文字列を体が覚えてきたようだ。
 虹色に変化していた文字が蒼白に変わり、キルアの顔に喜色が浮かんだのは一瞬。
 それを裏切って文字は真っ黒く変色し、黒い雷が火花を散らしたかと思うと。
 文字列から、杖のような太さの氷の針がキルアに向かって突き出した。
 その蒼ざめた切っ先がキルアを貫く前に、その先に炎が現れ、氷の針を赤い舌で絡めとった。
 針は灼熱の炎に呑まれ、あっという間に湯気を吐き出しながら崩れていく。
「ううー!!! 何でならないの〜〜!?」
 筆記と同じく慣れたもので、針が生える寸前に手を引いたキルアは悔しげにだんだんと足踏みをした。何度目の失敗だろう。
 しかし最初は氷の針も丸太のような太さだった。そんなものが今のようにこちらに突き出してきていたので、腕に掠ったり、一歩間違えれば致命傷だったりと生傷も絶えなかった。しかし数を重ねるごとに、氷の針も少しずつ小規模になってきている。

 ……というのも、魔法はもともと精霊を命令によって従える術だ。使い手が未熟だったり疲弊していたりして、命令する力が不十分だと判断された場合、精霊が使い手に逆に牙を剥く。
 今のキルアの状態がまさにそれで、精霊はキルアの魔法が未熟だと判断している。精霊の抵抗する力がゼロになって初めて、術者は自分の意思で魔法を扱うことができる。
 この精霊の判断によっては最悪死に至るケースもあるので、魔法の特訓には大抵もう一人、別の魔術師が付き添うものらしい。今のように、氷の針が術者を貫く前に、別の術者が傷を負わぬように援護したり。
「慣れてきたからですね、書き方が雑になってませんか?多分、導路の途中で精霊が迷ってしまっているんだと思います」
 だからキルアの向かいにはフィンがいた。
 横から夕日に照らされている彼女は、白い湯気が消える虚空を見て言う。
「氷結魔法は、風と水の精霊で別のものを作る魔法です。両方の精霊に指示を飛ばして混合して使役しますから、導路も繊細な作りをしています。他は綻びがあっていいですから、風の精霊の導路をもう少ししっかり作った方がいいと思います」
「あ、そーなの?ボク、かーさんがそーだったから、いっつも使役文の方を集中して作ってるんだー」
「ええ、基礎魔法は精霊も一種類だけですし、導路も大雑把でもどうにでもなりますから、それで十分ですよ」
「そっかーわかった!」
 不意にキルアがぽんっと手を打った。
「フィーちゃんはボクと違って導路をちゃーんと作ってるから、あんなキレイな魔法使うんだね!」
 すっきりした笑顔で言うキルアとは対称的に、フィンは少し唖然とした顔をした。
 それから、花が綻ぶようにはにかんだ微笑を浮かべた。これまでの親切そうなものとは違った笑みに自然と目が行く。
「あら……そうですか?そう言われたのは初めてです。ありがとうございます」
「ねー!ゼルス、フィーちゃんの魔法キレイだよねっ!?」
「いや、俺にはわからん」
「ぶーぶー!!」
 ゼルスにはさっぱりだ。魔術師同士にしかわからない世界なのだろう。
「話を戻しますが……爆砕と氷結の魔法はどうしても繊細な魔法なので、導路は丁寧に作った方がいいですよ」
「えー?? でもでも、それだったらとっさに使えないじゃんっ!」
「それは訓練次第ですよ。私が筆記なしで発動できるところ、見ましたよね?」
「う〜〜……」
 ぶーっとふて腐れた顔をするキルアの態度に、フィンはくすくす笑った。
 フィンは教え方も上手だし、何が原因なのかもしっかり見極めている。職業は聞いていないが、教師などに向いているのかもしれない。様になっているし。
 フィンがキルアに魔法を伝授し始めて一刻すぎ。やはり魔法に関しては天才なキルアは、あっという間に落雷、風巻、爆砕魔法を覚えてしまった。
 残るは氷結魔法だけなのだが、どうやら他の魔法と勝手が違うらしく上手く行かないようだ。

 的確な指導をするフィンを見ていたゼルスは、ふとずっと思っていた疑問を投げかけた。
「……しかし、エルフでも魔法って使えるもんなんだな?」
「ええ。そもそも魔法は、どの種族でも使うことができる可能性は秘めています。鳥族は最も魔術師の血が濃いというだけで」
「そういやそんなこと言ってたな……」
「エルフは精霊とともに生きるので、その延長で稀に魔法を使うことができる者がいます。魔法も精霊干渉の一種ですから。どちらも才能が必要ですけどね」
「へぇ、じゃあお前は才能あったわけな」
「ふふ」
 何気ない会話の中から、この得体の知れないエルフの実態を浮き彫りにしようとしてゼルスがかけた言葉は、フィンの曖昧な微笑で受け流された。
 こちらの手が完全に読まれている。面白くない。喋ることと喋らないこととを明確に線引き、いや強固な壁で隔たらせている。いくら殴ってもボロは出ない。
 ゼルスはふてくされた顔で、大人しく詮索するのをやめてキルアを見た。
 彼女はしぶしぶ、再び文字を刻み始めていた。今度は心持ち、慎重に丁寧に書いているように見えた。
(なんか俺も魔法の授業受けてる気分だな……)

 二人の練習風景を見ていてわかったが、魔法を使う際に書く文字列は二文から成っている。聞いてみたら、精霊を指名する使役文とその精霊を導く導路設定らしい。
 導路設定というのは、精霊を導く道を作る際の設定。道を通る速度やら数やらを設定する。
 そして肝心の導路は脳内のイメージで『作る』らしい。もちろん一瞬で。この段階が魔法が難しいと言われる所以でもあり、思念で扱う術だと言われる所以だという。
 道の設定は大雑把でもある程度は問題ないようだが、今の氷結魔法は二種類の精霊を導くのもあるが、フィン曰く「風と水の精霊で別のものを作る魔法」だから、かなり精密に作らなければいけないのだろう。

「よーし行くよっ!『氷結の刹那、イレイズ』っ!!」
 オレンジ色の世界に、虹色から蒼白に浮かび上がる文字。虹色の変化する文字が一色に固定されたらそれは精霊の指名完了の証。
 次の段階がキルアが問題としている導路形成だが……、
 キルアの眼前に生えるように指定された氷の針が、何もない草原から天へ向け切っ先から尖塔の如く出現する——途中で。
 氷の柱に無数の亀裂が走り、氷の破片となって弾けて散った。
「……へっ?! えっ?ど、どーして!?」
「おい、今のおかしくねぇか?なんか今までと全然……」
 キルアの狼狽ぶりを見る限り、できたと思ったらしい。ゼルスも傍でずっと練習風景を見ていたから、何か妙だと感じた。とはいえ、やはり魔法学は全然わからないので自信はない。
 ゼルスが立ち上がりながら曖昧に突っ込んでみると、フィンは少し硬い表情をしていた。
 こちらを見た二人に声量を抑えた早口で言う。
「すみません、私がキルアさんの魔法を壊しました。ちゃんと成功はしていました。おめでとうございます。それはともかく……誰か来ます」
「何?」
「複数人います。もしかしたらアノーセル湖の管理団体かもしれません。見つかると厄介です。こちらに隠れましょう」
「お、おい……」
 言うなり、フィンは先陣を切り、木々の隙間を縫って森の奥の方へ早足で歩いていく。
 ただならぬ様子のフィンに、ゼルスもキルアも戸惑ってお互いを見た。二人にはこうしている今でさえ、近付いてくる気配などまったく感じられなかったからだ。
「と、とにかく追いかけよっ!」
「信じるのか?」
「だってホントみたいな顔だったデショっ!?」
「まぁな……仕方ねぇ」
 逡巡の後、ゼルスもキルアの言葉に乗った。
 地面を長方形に切り取る木々の影を飛び越えながら、彼女の背中を追いかける。
 樹の根元に佇むフィンは、近付いてくる二人を見てほっとしたように口元を緩めた。それから、すっと上を指差す。
 見上げると、青空の下では緑色に輝いていただろう枝葉が茂っていた。赤い陽を浴びている今は吹き抜ける風にそよぎ、まるで炎のようだった。この森で一際目立つ大木だ。
 そのまま木の上へと舞い上がった二人が、それぞれ太めの枝の上に着地する……のと同時に、ふわっとキルアの隣にフィンが着地した。
「ええぇ!?! と、跳んできたの??」
 キルアが自分より格段に実力のある相手に思わず言ってしまうほどには、フィンは戦闘員には見えない。木の上への跳躍などは、少し戦える者なら当然ではある。

 数分後、ゼルスとキルアの耳に確かに遠くから話し声が聞こえてきた。
 鷹目のゼルスが音の方向に目を凝らすと、枝々の間から人影が見えた。
 青い服を着た四名。よく見ればそれぞれ剣や槍など得物を持っている。
 木の上にいる三人が気配を殺し、その軍団の動向を見守る。
 四名は、先ほど三人が魔法の練習をしていた辺りで一度足を止めた。先頭の男が足元の氷の破片を指差し、仲間達と何事かと言葉を交わすが、距離があるせいで耳をそばだててもなかなか聞き取れない。
 やがて四人は、大きな口を開けて——溜息を吐いたらしい——こちらに背中を向け、奥の方へとどんどんと離れていった。小さくなる後ろ姿を見つめながら、フィンが小さく言う。
「……私達の声を聞きつけて来たみたいですね。今度は向こうに探しに行ったようです」
「あれ、リギストの軍人だな。騎士団だっけ?」
「そうなんですか?」
「『そうなんですか?』って……あの青い軍服がまさにそうだろ?」
 急に少女のようにきょとんとするフィンに、ゼルスが逆に目を丸くして、離れていく青い軍服を指差した。
 リギストは今のように青、ルプエナは黄土色、北の大国カルファードは赤と、大陸三国の軍服の色ははっきりと分かれている。見間違えるはずはない。
「んー?なんで、キシダンがココにいるの??」
「さぁな。様子を見る限りじゃ、不審者がいないかチェックしてるみたいだな。俺らとか」
「おかしいですね。民間団体が管理しているはずでは……」
 釈然としない様子のフィンの一言はもっともだ。
 ゼルスも知識でしか知らないが、リギスト王国は複雑な国家構造をしている。騎士団がいる理由を少し考えて、自分も整理しつつ説明した。
「……えーとまず、他の国だと王と軍部ってあるだろ。リギストでは王が教団、軍部が騎士団なのな」
「なるほど、はい」
「え、ここはさすがに知ってると思ったんだけど……まあいいや……で、教団と騎士団は管轄が綺麗に分かれてる。実際に国政をしてるのは教団で、リギストで国って言った時は教団を差すのが普通」
「はい」
「で、アノーセル湖の規制を出してるとこも当然教団。でも今見たら、警備していたのは騎士団だった」
「……つまり、教団は国家と呼べますが、騎士団は民間団体とも呼べる?」
「そう言い張ってるんじゃねーか?って推測だよ。一番信頼できる民間団体だろうしな。……というかキルアでも騎士団知ってたのに、お前は知らねぇのかよ……」
 フィンは「ええ、勉強になりました」と、少し困った顔で苦笑した。
 アノーセル湖は、表向きは本当の民間団体が観光案内しつつ、裏では騎士団が規約破りがいないか巡回しているようだった。

 ゼルスは枝を手でよけて、騎士団らの様子を窺った。遠くに豆粒くらいの大きさになった人影を確認する。これくらいなら動き始めてもいい頃だろう。
「さっさと立ち去った方が無難だな……アイツらに見つからねーうちにな」
「なんでー?? 見つかっても、キシダンなんてチョチョイのチョイッ!でしょっ??」
「国の正規兵を殴り倒したとか、後で追跡でもされたら面倒だろ」
 納得した様子でフィンが聞いてきた。
「そうですね。ここでお別れした方が良さそうですね?」
「そうだな。お前はその強さだし、充分逃げ切れるだろ」
「お二人はこれからどうされるんですか?」
「……誰だよ……各国の伝承集めてきてほしいって言ったの……」
「あ……そうでした」
 依頼者本人がまさかのど忘れしていたらしく、フィンは申し訳なさそうに淡く微笑んだ。

 木の枝を蹴り上げ、開かれた空に舞い上がる。
 西の空に逃げるように沈もうとする真っ赤な陽を、東の空から忍び寄る宵の紺色と星屑の瞬きが呑み込もうとしていた。
 ゼルスとキルアはそこからフィンを見下ろし、それぞれ挨拶代わりに片手を上げた。ブンブン腕を大きく振りながらキルアが笑う。
「じゃーねフィーちゃん!また会おーねっ!あ、会いたい時は何処行けばいーかなっ??」
「あ、そうですね……ですが恐らくお二人の方が目立つので、近くにいそうな時は私がお二人を探しますよ」
「そっか〜ボクら飛族だもんねー!わかった!」
「いやいやおかしいだろ!? そんなんでいーのか?!」
「ダイジョブダイジョブ〜♪ ほらほらさっさと行こーう!」
「ちょっ押すな!!」
 明らかに解決してないのに女子二人であっさり承諾しあう。何処にいるとかせめて国名で言ってもらわないと出会うも何もない。
 しかしキルアがどんどんと背中を押して、あっという間にフィンの姿は離れていってしまった。


 傍目からは仲良しにしか見えない二人の姿が、橙色と紺色の境界の空に飲み込まれて消えていく。
 木の枝を足場と腰掛けに、生い茂る緑に囲まれながらそれを見上げるフィンの姿は、彼女がエルフだということも相まって一枚の絵となっていた。今は夕刻でなければ、木漏れ日の輝きもあってもっと美しい絵になっていただろう。
 風が渡り、さわさわと揺れる木々。
 赤く染まる西の空には真っ赤な半円の太陽と、その光を受けて橙色に染まる棚引く雲。橙色から空色、紺色とだんだんと変わっていく空のグラデーション。
 太陽が沈む頃には、透明な宵色の天球に無数の粒が輝く。東からまた生まれ変わった太陽が現れれば、生きた色をした紫色の朝焼けが見られるだろう。
 時を刻み、変化し続ける景色。
 一度として同じ表情を持たない、”刹那”に満ち溢れたこの世界は、なんて美しいのだろう。
「……私たちも、変わる時が来ているのかも」
 ――千年凍てついた時が動き出している。
 きっと変わらないと、これ以上先には進めないのだろう。
 飛族の彼らとの関わりがまだ見ぬ先に導いてくれるのではないかと何処かで期待して、フィンは消え行く太陽を見つめていた。