棘の章

第10話 縦に広い世界

 空を飛翔しながらゼルスは頭をかきむしった。
「あー、スッキリしねぇ……」
「ン?じゃあゼルスも辛いお菓子食べる?クワッ!!って目が覚めるよ〜☆」
「怖ぇよ……」
 隣のキルアが確かに辛そうな赤いスナックらしきものを差し出してきたが、取らなかった。辛いものはあんまり好きじゃない。パッケージに書いてある激辛という文字が怖いし。そんなお菓子を平気な顔でパクパク食べているキルアが怖いし。
「最近、飛族とやけに会うなって思ってさ」
「そーだね!ボク、今まで一回しか会ったことなかったのになぁ〜!あ、ゼルスは2回目!」
「俺なんかお前が初めてだぞ……」
 それだけ飛族は人前に姿を現さない。それでも二人が人間達に紛れて過ごしているのは「訳あり」だからだが……、
「ゼドとラクスのことな。あいつらも訳ありなのはわかるけど、それ以上になんかこう……俺たちと何か違うような気配がする」
「ん〜〜たしかにー、なんかヘンな感じだなーって思ったけど、ヘンなのはゼルスもだし〜」
「お前に言われたくねぇわ……」
 お菓子をポリポリ食べながら、むーんと悩んだ表情で思考するキルア。かと思えば数秒後に「ま、いっか☆」と早くもリタイアした。

 ゼルスが地上を見下ろすと、こちらをのみ込まんとする真っ黒な闇がこちらを見つめていた。
 大陸南の荒野にある、南北に走る大きな谷――ザクス。
 大地にがばりと開いた巨大な闇に大きすぎて橋をかけることも、見えない底を行き来することもできず、千年そこに鎮座する不可思議な土地だ。草木も谷を避けるように離れて自生し、そんなところに人が近付く理由もなく近辺は死んでいるように人気がない。
 ルプエナとリギストの国境はこの大谷によって引かれており、通常人間は陸続きになっている北側を迂回する。
(飛族の俺らには関係ないけどな……)
 谷から吹き上げる風を全身に浴びながら思ってから、ゼルスは目を疑った。
 自分たちより低い高度で、自分たちと同じように、ザクスの上を飛ぶ人影があったのだ。


 シドゥはうーんと伸びをして、少し疲れた息を吐いた。
「……さすがにちょっと疲れたな。万全だったらもっと楽しいのにな~」
 ゼドといい《裁定者》といい、さすがに眷属から逃げるのは、楽しくはあるが命からがらだ。向こう一人相手に、こちらは二人以上はいないと退路すら見出だせない。
「いつまでもアタシらがバラバラなのは都合が悪いか。さっさと合流しないとな。……ああ、ちゃんと呼ばないと返事もできないんだっけ。独り言みたいで虚しいねえ」
 『ザクスの上にいた』シドゥは苦笑し、ふわりと対岸に降り立った。
 直後に、頭上の気配に気が付いて、二人の影が目の前に着地した。
 下り立った黒髪の少女が真っ先に駆け寄って……こようとしたその襟首を、一緒にいた茶髪の少年が引っ掴んだ。
「むうううーー!!! 進めなーい!ゼルス〜!? 何すんのー!」
「馬鹿!得体の知れない相手に無用心に近づく奴があるか!」
「へ?? 『えたいのしれ』ってなに?それがないと、どーなるの??」
 首を傾げる馬鹿は放っておいて、竜族の少年はシドゥを見た。その青い瞳に、今までにない警戒の色を滲ませて。

 ゼルスが口を開く前に、シドゥが「あ〜あぁ」とわざとらしく声を上げた。頭の後ろで手を組んで、にやにや笑いながら言う。
「見られちまったのはしょうがないねぇ……ああ、見られたからには死んでもらうとか言うつもりはないから安心しなよ。ほれ、頭のいいゼルス君。アンタはアタシをどう考える?」
「……その呼び方やめろ、気持ち悪ぃな」
 ぞぞっと腕に走った寒気を摩って黙らせ、ゼルスは低く返答した。
 ――赤い少女の背には羽があった。
 鳥族でも竜族でもない。
 ちょうど鳥の骨格のような、無骨な黒い羽だ。そんな見た目で飛べるとも思えないのに、先ほどシドゥは確かにザクスの上を飛んでいたのだ。
 今まで「黒」として認識していたどんな色よりも深い、吸い込まれそうな闇色。見た目だけならまだしも、奥深い色の気配が異質さを添えていた。
 探すのが困難だった彼女を偶然発見できた幸運に感謝しつつ、未知の存在を前に不気味さが拭えなかった。
(……人……なのか?)
「んん~……シドゥ、何なの?なんか……ヘンだね?」
 横で同じ気持ちだったキルアが問うと、シドゥは噴き出した。
「はは、変とはご挨拶じゃないか。じゃ、ひとつ教えようかな。アタシの真名……本名かな?本名はリラ」
「シドゥはシドゥじゃないの?」
「……らしいな」
 ゼルスもその名に心当たりがなかった。
 赤髪の少女は分かっていたように、呆れた顔で顔を覆った。
「期待してなかったけど、人はホントにすぐ忘れるね。そりゃ変わらないわけだ」
「……何の話だよ?」
「『千年前』の話さ。アンタ達が忘れた、ずっとずっと昔の話だ。仕方ないからちゃんと名乗ってあげるよ」
 漆黒の骨羽を持つ少女は、演劇者のように手を広げ大仰な素振りで告げた。

「アタシは、アンタ達が魔王と呼ぶドゥルーグサマの従士の一人、リラ。
ラグナ
の《執行者》とも言うね。ざっくり言うと、普通の存在じゃないってコトだ」

 そんな突拍子のない言葉を、すんなり受け入れられるはずがない。
 しかしこちらの感情をまるっきり無視して、彼女の黒羽は雄弁に語っていた。
 空気が停止していたゼルスとシドゥの間に声が転がった。
「魔王ドゥルーグサマジューシーな人?えっ!? 魔王サマってジューシーなの?!」
「………………」
「………………」
「……若いって意味でいいのかな?」
「いやスルーだスルー」
 キルアはキルアで混乱しているらしい。そのおかしな一言のおかげで、ゼルスは逆に冷静に認められた。
「……ドゥルーグ」
 思い出すのは、ポーチの中に入りっぱなしの本。裏の世界が云々ってことしか今は思い出せない。
 間を置かず受け入れた様子のゼルスに、シドゥは少し驚いた顔をした。
「へぇ、びっくりしないんだねぇ。つまんないの」
「いや……十分驚いてる。というか、のみこめてない。ちょっと待て」
 ゼルスは神も魔王も存在を信じていない。急にそんなこと言われても現実味もないし、だからあまり驚いていないのかもしれない。
 でも、シドゥの背に広がる羽は明らかに異質だ。
 これまで信じていた常識と、有り得ないという気持ち、眼前の現実とがごちゃ混ぜで混乱している。
 もう一度、シドゥが言った言葉を振り返って、気になった言葉があった。
「……従士、ってなんだ?」
「ジューシー?んとね、おいしそうってことだよ♪」
「みずみずしいことだっつの!いい加減、話を呑みこめ!……で、従士って?」
 驚きのせいかキルアはそこから思考が進んでいないらしい。反射的に言い返したことで、皮肉にも普段の平静が戻ってきた。
 シドゥは「空気が台無しだね」と笑ってから……冷えた双眸でゼルスを見据えた。
「それに答える義理はないね。『人はすぐ忘れる』からさ」
「………………」
「薄情な現界の者。その調子じゃ知ってるのは神話伝承だけで、アスフィロスサマのコトも忘れてるんだろ?ドゥルーグサマが怒るのも無理ないわ」
 嘲笑気味に言うシドゥはこちらを見ているが、『自分達は見ていない』。
 彼女が見ているのは、ゼルスとキルアという人ではない。
 彼女が言うところの「現界の者」として見ている。
 同胞が犯した罪を責める瞳。

 ……同じだ。
 竜族を嫌う鳥族。
 現界の者を忌む魔王とその眷属。
 彼らが見ているのは「種族」という大きな括り。
 そこには個人の事情など介在しない。

「ドゥルーグサマだって、ずっと信じてたよ。けど、現界の者どもが最終的にあの人に叩きつけた答えは、コレだ」
 シドゥがコートのポケットから引っ張り出したのは、レナの赤い石のペンダントだった。
「お二人がまだこの現界にいた頃、アンタらの魔法は全盛期でね。馬鹿な現界の者どもは、魔法でドゥルーグサマをコレに封印しようとしたのさ。所詮は偽物の魔法だし、完全にはできなかったんだけどね。でも、ドゥルーグサマは力の大部分をコレに封印された」
「……それは、読んだな」
 伝道者が告げる内容は、ゼルスが読んだ神話伝承と符合する。
 人々はドゥルーグを恐れ封印しようとしたが、かの者の力が強大でできなかったと。
 しかし、その横でキルアが首を傾げた。
「魔王サマって……神サマに追い払われたんじゃないの?」
「……は?」
 振り向くと、キルアは難しい顔をして続ける。
「ボクが知ってる伝承、封印とかそんなの書いてなかったよ??」
「……俺はシドゥが言う内容で読んだぞ。表と裏の世界がそれぞれなんとかって」
「んん?ボクが知ってるのは、現界と天界と冥界って3つあったよ?」
「おや、そこはキルアの方が正しいね。確かにその三界は存在する。表と裏ってのは知らないねぇ」
 シドゥも少し驚いた様子で評価を添えた。混乱してきた二人は顔を見合わせた。
「どっちが合ってるの??」
「つーか、何で俺とお前が知ってる伝承が全然違うんだ?」
 しかし、ここでその理由を解明するには時間も調査も足りない。
 魔王の従士は鼻で笑うと、出しっぱなしだったペンダントをしまい、黒骨羽の背を向けた。
「歴史や史実ってのは人が都合よく作り変えるもんだろ?伝承と呼ばれてるけど、それだって史実だからね。そういうわけで、コイツにはもともとドゥルーグサマのモノが入ってるんだよ。コレを取り返したいんだろうけど無理だね」
「お、おい待てよ!」
「ええと、ドゥルーグサマのモノかもしれないけどっ、れーちゃんのペンダント返せーッ!!」
 はっとして追う体勢に入る二人を肩越しに見てから、シドゥは笑んだ。
「悪いけど、アタシはコイツを届けるまで捕まるわけにはいかないんでね」
 このペンダントには、ドゥルーグの力の大部分が封印されている。よって今、魔王は弱体化しており、比例して眷属である自分達も弱っている。これが本人の手に届くまでは自分はひ弱な現界の者同然だ。

 シドゥは前を向き、空を仰いだ。
「さてと、ノア!逃げる援護、頼んだよ?」
「むううっ、待てぇーっ!!」
 晴れた虚空に話しかけるなり、従士の少女は地を蹴り上げ、ルプエナ方面の空へ飛び立った。
 寸前になびいた長い髪の房をキルアが掴もうとしたが、するりと髪は手の内をすり抜ける。

≪また?本当に人使いが荒いなぁ……≫

 果てしなく木霊するように、天空からはっきりと響いてきたのは青年の声だ。
 何者?何処から?状況が読めずに警戒する二人をよそに、声の主は悠長に紡ぐ。
≪リラといいドゥルーグ様といい、もっと上手く立ち回れないの?毎度、付き合わされる俺の身にもなってよ……ああ、でも今回は眷属じゃないんだ。筆記も名唱もなしでいいか、楽でいいな≫
 呆れた吐息の後、澄んだ高音とともに、二人の目の前が陰った。
 ゼルスは直前で動きを殺して無理やり失速させ、キルアは腕をブンブン振り回して衝突する寸前で止まった。
 飛翔するシドゥは、後ろを一瞥して口笛を吹いた。
「さっすが、ナイスフォロー☆ タイミングが憎いねぇ。で、ルシスは何処だって?」
≪さっき呼ばれた辺りで
ディアス
の気配が暴れてるからそこじゃないかな。近いよ≫
「あー、そりゃご愁傷さま。助けに行ってやるか」
 シドゥはゆったりと地平線の彼方へ飛んでいった。

 一方、ゼルスとキルアは目の前のものを見上げていた。
 二人の前に立ちふさがったのは、彼らより一回り大きい高さの氷だ。向こうの景色がはっきりと見えるほどの透明度には驚くが、触れてみると予想通りの冷たさが手のひらにしみる。
 それが3本並んで、彼らの前にそびえ立っていた。
「氷結魔法……シドゥを逃がすことしか考えてねーな」
「ゼルス、シドゥ逃げちゃうよ!」
「あーそうだな……追わねー方がいい。お前のとばっちり食らうのはゴメンだぞ」
「へ?? お前のとバッチリ☆食らうのはゴメン?何を?」
「……あのなぁー」
 ゼルスは氷の針の陰から顔を出し、シドゥの小さくなっていく背中を見た。
 この距離でも二人はすぐに彼女に追いつけるだろう。速度自体はそれほど速くない。
「ねぇねぇ、何で追いかけないのっ?追いつけるじゃん!シドゥにもう会えないかもよ〜?」
「確かに、シドゥだけなら大したことねぇ。けど、援護してる奴との連携が厄介だ。どっから来るかもわかんねーし。お前と俺のボロボロな連携じゃ崩せない」
 追いかけたそうなキルアを手で制止しながら、ゼルスは言った。やれそうだとしても、労力に見合わなそうだ。
(あの空の声の奴……あいつも魔王の従士ってことか……)
 従士二人にとって、あのペンダントは主人のための重要アイテムなのだろう。
 レナが、セルリアと見つけた赤い石のペンダント。

  『……あれはもともと、僕の主人のものだ』
  『妙な言い方だな。その主人は、オスティノのじーさんじゃないな?』

「……そういうことかよ……」
 ゼルスは低い声でうなった。

 ペンダントも、セルリアも、同じところへ終着する。
 魔王ドゥルーグ。見果てぬ闇の支配者。
 笑えるほどスケールがデカイくせに、幻影のように姿がはっきりしない。

 ——どうやら、何か不満があるのならそいつに直談判しないとダメらしい。


 駆ける。駆ける。
 障害物のない平坦な地面では、明らかに今の自分の方が不利だ。だからあえて道を選ばす、木々の生い茂る中を駆ける。
 相手は『飛族』だ。枝ばかりある森の中では思うように飛べない。
「待てーーコラー!! はーなーしーきーけーーーっての〜!!!」
「………………」
 背後から響くあまりにも幼稚な言葉を聞いて、走りながら器用に呆れた息を吐く。待てと言われて待つ馬鹿はいない。なんて単純な。
(……一応、子供だから当然か)
 頭の片隅で淡くそう思いながら、セルリアは大地を走っていた。
「ったくー!しょーがねーッ!最終手段っ!どぉりゃぁあーーっ!!!」
 そんな気合の入った少年の声がすると、視界の隅を何かが飛び過ぎて手前の巨木の根元にぶつかった。
 大砲の玉が当たったかのような轟音が、大気を揺るがせた。
 飛んできたのは……見たこともないほど大きな巨剣。
 信じられない威力だった。巨木に大きなクレーターが穿たれ、自分を支えきれなくなった木は近くの木を巻き込みながら自分の前方に倒れ込む。
「っ……!」
 重なり合った木々達と舞い上がる土埃を前に、セルリアがほんの一瞬足を渋らせると。
「ちぇえっくめいとーーッ!!!」
 王手チェックメイト。楽しそうな声とともに真後ろから迫る風!
 が。
 セルリアは冷静にその場にしゃがみ込んだ。寸前でかわされた風——回転して飛んできた大剣は、彼の前の倒れた木に大きな穴を穿つ。
「えぇええーー!? か、かわされたっ?オレの、必殺☆竜巻大剣ブーメランアターック!が!?」
「………………」
 ……いろいろ突っ込みたいところはたくさんあったが、とりあえずそのセンスのないネーミングをどうにかしろと思っておいた。

 蒼の青年は、ゆっくり立ち上がった。
 相手は『今の』自分より強い。一度、立ち止まった敵を逃がすはずがない。今のは手加減された一撃だったのだ。……ふざけてたし。
「まぁいーや、よーやく止まったし。でも追いかけるのだけでこんな時間かかるって相性が悪いかなぁ……?」
 木に突き刺さっていた大剣が目の前で透け、ふわりと消えていく。
 セルリアが背後を振り返ると、そこに立っていたのはツンツンした赤毛の髪を持つ竜族の少年——ラクスだった。
 彼は、有り得ないことに、先ほど投げた大剣を軽々と肩に担いで立っていた。剣の長さは彼の身長くらいあるし、太さも胴体くらいありそうだ。重力やら腕力やら、通常の視点で見るとねじ曲がって見える奇妙な光景だった。
「……何の用だ?」
 抜いた剣を右手にぶら下げたまま、すでに見当はついているセルリアが聞くと、ラクスはむっとした顔をした。
「戦うつもりないから、そんなコワイ顔すんなよ〜!」
「……戦う戦わないの問題以前に、敵同士なら仕方ないだろう」
「そーぉ?そっちはオレらと違って弱ってるから、警戒しなきゃやっていけないか〜」
「………………」
 ……この子供は、他人の神経を逆撫でするのが大得意だ。しかも本人は無自覚と来た。一番タチが悪い。
「ちょっと聞きたいコトあるんだー」
「断る」
「えー。つまんねーや。でも、いちおー聞くよ」
 少年が、担いでいた大剣の先を地面に下ろす。
 大きすぎるそれを片手一本で構え、ラクスは地を蹴った。

「おまえのご主人サマの居場所、教えてくんないッ!!?」

 その姿が掻き消え、一瞬でセルリアの目の前に現れた。
 セルリアが防御に掲げた黒剣が、巨人の剣の如き刃を噛む。
 が、その猛力に圧倒されて、決して小柄ではない青年の体が面白いくらい吹っ飛んだ。
 その彼をラクスは追撃する。
「全っ然、オレの《心界》でも探せないんだよね!おまえが全部、痕跡消してるんだろ?! どうりでおまえ、オレの監視網に引っかからないなって思った!同じ街の中にいたのに!!」
「っ……!!」
 セルリアの背に黒い骨羽が生え、空中で体勢を立て直す。
 木の幹に着地し、さらに上方に跳躍。
 さっきまでいた場所にラクスの斬撃が走る。
 真一文字に走った荒々しい銀閃は、樹齢数百年だろう太い木を一撃で切断した。
 鮮やかな切り口が重力に従ってズレていき、上半分が落下。派手な音と土埃が舞った。

「いやー、とんでもないねぇ!!」
「ん!?」
 ラクスがセルリアを追って空を見上げたら、後ろから声がした。
 戦意をまとった気配を振り返りざまに大剣で受け止める。
 交点の向こうに見えたのは、セルリアと同じく黒い羽を持った赤髪の少女だった。
 シドゥは、あっさりラクスから離れると声を張り上げた。
「ほいよ、ノア!!」
≪眷属相手にはフルセットじゃないとな……筆記して、『天からの断罪、ギア』≫
 青年の声が何処からか聞こえてきて、天が黒く渦を巻いた。
 雷が閃き、気が付いたら目の前が真っ白になった。
「うぐぐぅ……」
 全身に痛みを覚えながら地面に落ちたラクスは、チカチカする視界を瞬きして落ち着かせようとする。
 うつ伏せのまま上を見るが、すでに二人の姿はなかった。
「……あ〜あ、ちくしょー。逃げられたーー」
 むくりと起き上がってあぐらをかき、少年は肩で溜息を吐いた。背中の竜の翼も比例して力なく垂れる。
 ノアの落雷魔法をもろに浴びたが大した痛みじゃなかった。ノアの魔法がこんな弱いわけがない。やはり『向こう』は弱体化している。
「三人がかりでフルボッコなんてひでーや!どう思う!?」
「そうでなければ逃げられもしないようだな」
「ええ、三人がかりでもないと攻撃もできないでしょうね」
「えぇええーー!!? オレかわいそー!とかないの!?」
 ラクスの大きな独り言に答えたのは、彼の後ろに現れた2つの影だった。それぞれ青年、少女の声で返されて、ラクスはばっと彼らを振り返る。
 焦茶の瞳を呆れされた少女が答えた。
「大げさなんだから。大した怪我なんてしてないでしょう?我慢しなさい」
「だって痛いモンは痛いじゃんっ!ほら、オレ子供だし!」
「仮に15歳以下を子供とする場合、お前はそれには当てはまらない」
「……ぶー」
 平坦な青年の声が堅苦しい事実を突きつける。長身の銀髪の青年を見上げ、ラクスは膨れっ面をした。
 少女は少し目を閉じてから目を開けた。
「……駄目ね、見失ったわ。やっぱり気配がないと探しづらい。現界の者と変わりないもの」
「痕跡も《詠眼》がぜーんぶ消してるから、オレの《心界》でも探せないんだよねー」
「見つけたところで捕まえるのは難しい」
「さっきみたいにノアを呼びつけたら、二人相手ってことだもんねー。爆速のにーちゃんでも無理なら無理!詰んでる!」
 各々が所感を言う。三人とも、調査が行き詰まっていることを感じていた。

 沈黙が下り――
 突如、現界に現れた強い光の気配に一斉に息を呑んだ。
 ラクスが驚き、少女は額を押さえ、ゼドは無言だった。
「えっ!? アスフィロスサマ、なんで下りてきたの!? オレたちの調査終わってないのに!」
「……誰かが戻るまで待つように言ったのに、あの人は……私が話して来るから、二人はそのまま闇の眷属たちを探して」
「は、は~い……うわー、ねーちゃん怒ってる……」
 少女は口早に指示を出すと立ち去った。姉のように慕っている少女が怒ると怖いのを知っているラクスは、反射的に震えながら見送った。
「でもさ、これ向こうも気付いてるよね?もっと隠れるんじゃない?探しづらくなりそ~」
「……いや。シドゥがペンダントを持っていったなら今後は探せる」
「ペンダントの封印が解けたら向こうに力が戻って、眷属の気配が分かるようになるってことね。にーちゃん、オレが思考読めるからって説明が雑すぎない?オレにしか伝わらないぞ!」
 言葉が少なすぎるゼドの思惑を確認を兼ねて口に出して、ラクスは困ったように空を仰いだ。
「それって、向こうも十分に戦えるようになるってことだし、大変そうだなぁ」


「いやいや、こりゃたまげたね?」
 現場から距離を置いた街の傍。
 地面に着地し、黒い羽を消したシドゥはニヤニヤしながら、隣に下り立ったセルリアを見る。街のすぐ傍だから目につかぬようにと彼も羽を消した。
「アンタ、協力する気なかったんじゃなかったっけ?どういう風の吹き回しかな?」
「……見つかって追われていただけだ」
「ふふん、でも聞いたよ?ドゥルーグサマの痕跡、消してたんだって?地味に仕事してたんだねぇ、《詠眼》のルシスさん?」
「………………」
 従士名で改めて呼ばれ、何とも言いがたい責任感、束縛感を覚える。今まで忘れていた重力が、再び自分の足を地面につける。
 シドゥはこほんとわざとらしく咳払いをして、目の前のセルリアと、この場所にはいないノアに向けて言い放った。
「改めて言っておこうか?アタシらは、闇の支配者ドゥルーグサマの従士だ。あの人とアタシらは一蓮托生。あの人が消えればアタシらも消える。ノアはそれで参加してるってコトでいいね?」
≪……俺だって消えたくないしね。本当は関わりたくないけど≫
「アンタはそれくらいでいいよ。……で、ルシス。アンタはどうすんの?」
 もともとペンダントを回収する役はセルリアだったが、途中でそれを放棄した彼に代わり、シドゥが送り込まれてきたのだった。
 同胞に問われ、セルリアも今一度、自分自身に問うていた。

 主人が嫌いなどとは思っていない。むしろ肯定的な感情を持っているのは確かだ。
 自分の存在理由。自分が剣を捧げた相手。最終的に自分が行き着く場所。
 主人なしなど考えられない。主人なしに自分は存在し得ない。
 ——でも。
 空洞だった自分に、別の生きる意味を教えてくれた少女の残像が消えないのだ。
 彼女は、逃げた自分をどう思っているだろう?

「ドゥルーグサマのトコに戻るか、それとも何もしないか。それとも……あの子のトコに戻る?ルシスさん?」

 くつくつ笑うシドゥの声は、何処となく、くだらなさそうだった。
 選択の余地などないとシドゥにもノアにもわかっていたのだ。もちろん、セルリア本人にも。
 悩む理由は何処にある?

 自分たちは、この現界では異端——人あらざる存在なのだから。