cathexis

Proud 02 剣の誇りと生きる者

 十字に重なり軋む刃と刃が、視界を埋めている。
 ああ、これは夢だ。
 幾度となく見た、忘れがたい、3年前のあの日の夢。

 上から押さえさつけられる格好になっている少女の腕から、急に負荷が消えた。
 相手が剣を引いたのだ。そのまま押し切っていたなら、間違いなく少女に勝っていたのに。
 ――侮られたのだ。少女相手に力で勝つのは当然。だからその土俵で勝つのは無意味だと!
 カッと、腹の底に怒りが噴きあがった。
「なぜ剣を引いたの!!手加減のつもり!?」
 噛み付く勢いで、甲高い声が響く。10歳のブリジッテが睨み据える相手は、何も言わず剣を鞘に収めた。
 ダークブルーの双眸が、くだらなさそうに彼女を捉えた。
 少女より、2、3歳上だろうか。まだ成長の余地を残す、細身の体格の少年だった。
 銀髪に縁取られている、幼いながらも将来は美青年になるだろう端正な顔立ち。しかし、ニコリともしない仏頂面と無感情な視線がそれを台無しにしていた。
 その気配も、手に持った剣のように鋭くて、うかつに近付くと切り捨てられかねない雰囲気だった。
 矛先を向けられた少年が、億劫そうに口を開いた。
「やかましい、勝敗も読めねぇのか。明らかにてめぇの負けだ」
「いいえ、まだ明確な決着はついていないわ!剣を抜きなさい!続きを……」
 苛立った口調の毒舌に、少女の怒りが増す。しかし少年は、少女の言葉にまったく耳を貸さず、身を翻した。立ち去るつもりだ。
「待ちなさいっ!!」
 プライドも忘れ、少女は彼の背に追いすがって剣を上段から下段に振り下ろした。
 激しい振動を伴い、剣の進路が止まる。おもむろに少年が抜き放った剣が、しっかり少女の剣を受け止めていた。
 2本の剣が離れ、すぐさま少女が振り上げる。少年が防ぐ。少女が突く。少年が身をそらしてかわし、少女はさらに追撃をかけようとして、硬直した。
「………………」
 彼女の喉元。少年の手元から飛び出した逆手の銀の刃が、触れるか触れないかのすれすれに添えられていた。
 懐に入られたせいで、今までにない至近距離で、少年の顔が見えた。
 勢いの余韻に横流れする銀の髪。その間から覗く暗青色の両目。そこに映り込む自分は、情けなく間の抜けた顔をしていた。
 深い青色が揺れ、意識が引き戻される。
 ――今、その双眸は侮蔑に揺れたのだ。
 それに気付いたのは、少年が剣を収め、解放された自分が腰から崩れ落ち、彼が改めて背を向けてからだった。

 

 

 

 /////////////////

 

 

 

 ………………

 

 

 

 /////////////////

 

 

 

 何度夢に見ようとも、その時の感情は色褪せることはない。
 寝覚めの悪さを胸に抱きつつ、ブリジッテは緩やかに覚醒した。
 瞳に映る茶色。ぼやけた視界がだんだんと明瞭になっていき、板張りの床だと気付いた。
 うつ伏せの状態から起き上がろうとして、妙な不自由さに眉をひそめる。後ろ手に手首、さらには足首も縛られ、転がされているようだった。
 少女はその体勢のまま、辺りに目を走らせた。
 ここは、何処かの民家の一室のようだった。しかし家具のひとつも配置されておらず、窓には目張りの白布が引かれている。打ち捨てられて久しいようで、部屋は埃っぽい空気に満たされていた。
 ――そんな部屋に、自分と、もう一人、いた。
「っ……!?」
 まるで透明のような気配だった。視界に姿が映りこんで初めて、その存在を認知する。
 無様に転がる少女とは違い、そいつは束縛もなく、壁に寄りかかって座っていた。
 ブリジッテより年上、10代半ばの少年だ。傍らにはどうやら剣が置かれている。
 少し長めの銀髪の隙間から、黒に近い青の双眸がこちらを見据えていた。
「貴方はっ……!!」
「静かにしろ」
 思わず声を上げた途端、ぴしゃりと返された。
 つい口をつぐんでから、ふと、隣の部屋に複数の人の気配が蠢いていることに気付く。しばらくすると、彼らの気配と話し声が遠ざかり、周辺には人気がなくなった。
「……彼らは?」
「留守を預けて手合わせしにいった」
 状況が飲み込めずにいると、少年が手短に説明した。
 留守を預けて?誰に?……この少年に!
「貴方っ……あいつらの仲間なの!?」
「やかましい」
 うつ伏せで叫んだことで、ブリジッテの声が床に跳ね返って響く。少年は無表情のまま、迷惑そうに言った。
 この横暴な態度、間違いない。こいつは、3年前に自分を負かしたあの少年だ。
 彼が傭兵たちの一員であると知って、ブリジッテの頭の中にあった謎が繋がれた。
「貴方ね!クロイツを呼び寄せたのは!」
 あの時追いかけた、気配なき人影。直感でまさかと思って探したが、目の前の少年のこの気配の薄さが答えだ。
 彼は自分を路地奥に誘き寄せ、陥れた。続いてクロイツに自分の居場所を告げ、自分だけでなく、弟も一網打尽にしようとしたのだ。
 少女は、己の弱さに歯噛みした。負けるはずがないと高をくくって、一般傭兵に遅れをとるなど、あってはならない敗北だった。
 クロイツの姿が見えないが、何処に連れていかれたのだろう?
 正しく状況を把握していないブリジッテを見かねて、少年が仕方なさそうに喋り出した。
「あのガキは捕まってねぇ。それにあいつは、傭兵全員が相手でも勝てる」
「……どういうこと?」
 ブリジッテは、その中の一人に負けてしまったのに、クロイツはむしろ殲滅できる?
 姉弟の実力の差は、父の見立てでもさほどないはずだ。手合わせでも交互に勝ち負けを積み重ねている。
「てめぇのプライドは傭兵と同レベルだ」
「わたくしが……傭兵と!?わたくしは剣の一族よ!あんな無法者たちと一緒に……」
「それがこの末路だ」
 さして強い口調でもないのに、ピンと張った声がブリジッテの声を遮った。思わず声を呑み込む。
 少年は、昔ブリジッテに向けたものと同じ、蔑んだ瞳で告げる。
「3年前、お前は暴れすぎた。自分のほとんどの剣筋を見せた」
「……あ……」
「たかが傭兵相手に手の内をすべて見せる三流が」
 言葉少なに淡々と言う少年。前回の編成試合の記憶が、ブリジッテの頭をよぎっていく。
 10歳の少女は、ただただ楽しくて、来る相手来る相手を全力で相手した。出し惜しみをするなど、欠片も考えていなかった。
 だから、目をつけられた。あれだけ剣技を披露すれば、いくら強くとも彼女に対する攻略法は考えつくだろう。
 ブリジッテは、浅はかだった過去の自分を省みて歯噛みした。
「……けれど、どうして?」
 それと同時に、あることに気が付いて少年に問い返した。
 そういえば、編成試合で手合わせに参加するなと言われていた。父はこの可能性を危惧していたのだろう。だが……
「貴族の子供を盾にして、当主からお金を要求するだけであれば、わたくしでなくともいいはずよ。でも傭兵達は、わたくしが剣の一族、ラフラッテ伯爵家の人間だと知っていたようだったわ。ラウマケールの者を一傭兵が相手にするなんて、普通はリスクの方が大きすぎるわ。それに……なぜ今なの?3年前のその場所ではいけなかったの?」
 不可解な謎が頭を巡る。
 なぜ、少女でなければならなかったのか?
 なぜ、3年待ったのか?
 なぜ、『今』なのか?
 あの時の傭兵の一言に、すべてが込められていた。

『前回は世話になったな。だがリベンジに来たわけじゃねぇ。お前を捕えれば報酬がもらえるってなぁ!!』

「――傭兵達には、雇い主がいる」
 ブリジッテの思考の先を、少年が静かに口にした。
「お前が目をつけられたのは、ラウマケールの者だったからだ」
 だから、「今」だったのだ。
 編成試合の最終日。新ラウマケールの座をかけて、頂上決戦が行われる大詰めの日だ。
 勝ち抜いてきた者をはじめ、現ラウマケールの当主たちは、必ず試合に参戦または見届けなければならない。
 裏を返せば、彼らは今日、身動きがとれないのだ。もちろん、父ルトも。
 遠くで些細なことが起きようが、街の法である彼らに届きはしない。
「お前は最初から、3年前に目星をつけられた」
 街の貴族は普通、現当主と、次期当主しか公には顔を晒さない。その家族の顔を知る外部の者は、限られる。
 そう、例えば――
(まさか……)
 少女が冷ややかな予感に身を凍らせると、唐突に両腕の戒めが消えた。かと思うと、足も自由になる。
 知らぬ間に、少年が傍らにいた。ブリジッテを拘束していた縄を断った彼は、剣を収めて立ち上がる。
「もうすぐ編成試合が終わる」
「……どうして解放するの?」
「用は済んだ。行くぞ」
「え?ちょっと、どういうこと?ちゃんと説明しなさい!」
 混乱するブリジッテに、少年は淡々と指示だけをして部屋のドアに足を向ける。
 彼の行動は不可解だが、解放されたのなら今のうちだ。ブリジッテも慌てて立ち上がり、部屋の隅にあった自分の剣を手にとって、彼の後を追った。
 少年の背に近付いた瞬間。
 凪いだ水面のようなその気配が、ざわりと波打った。
「っ!!」
「きゃっ!?」
 突如ブリジッテを横に突き飛ばし、少年が飛び退いた。
 直後、ドアから銀色の光が突き出した。
 勢いに流れた銀髪が、剣風に千切れて舞った。

「……ほう、避けたか」

 決して薄くはない木製のドアを紙のように貫いたのは、太い長剣だった。その向こうで、男の声が感嘆する。
「目潰しを兼ねて頭を狙ったが、飛び退きながら頭も反らしたか。傭兵にしておくには惜しい人材だな」
 突き出ていた刃が引っ込む。反動で蝶番の外れたドアが、ゆっくりと部屋の中に倒れ込んだ。
 埃が舞い上がり、霞のように視界を覆った。
(そんな……まさか……っ)
 膝をつく少女は、霞の向こうに佇む影から目が離せなかった。
 剣を抜き放った少年。悠然とした態度だった彼が今、緊迫していた。鋭い目は、霞が晴れあらわになった人影の一挙一動を見逃すまいと凝視する。
 ブリジッテの震える唇から、驚愕がこぼれ落ちた。
「カルタス……おじさま……」
 別人のようだった。
 そこに佇んでいたのは、氷のような気配をまとう男。
 彼女が、弟が、懐いていたヴァイクス=カルタス子爵だった。
 カルタスは、蔑んだような目でブリジッテを一瞥した。
「……愚かな小娘だ。利用されるとも疑わず、口車に乗せられて父の言いつけを破り、あまつさえ自分の手の内をすべて見せるなど……ラウマケールの貴族が、聞いて呆れる」
 対する少女は、男を見つめ返すのが精一杯で、その言葉を聞き取れなかった。
 ブリジッテから目を離し、カルタスは少年を見やった。
「グループにいるにもかかわらず、まったく動かない傭兵が一人いると聞いていたが、お前だな?お前の目的はなんだ?見ず知らずの小娘を逃がして、正義の味方気取りか?」
「………………」
「口を割らぬか。利口な犬だな。どちらにせよ、不安因子は消すだけだ」
「……ま、待って!」
 剣を構えようとしたカルタスに、座り込んだままのブリジッテがやっと声を上げた。
 少女は、天に見放された敬虔な信者のような顔をしていた。しかし信者は、懲りもせず疑わない。縋るような声が、震えていた。
「おじさまは……わたくしを助けに来てくれたのでしょう?そうなんでしょう?だって、それなら、どうしてここに……」
「まだ状況が呑み込めないのか。つくづく呆れるな」
 対する男は、向けられる切実な感情をすべて切り捨てた。
「お前を利用して、お前の父ルトをラウマケールから引きずり下ろすためだ」
 ――思い返せば、父にも常々言われていた。
 お前はラウマケールに名を連ねる者。この街で、最も狙われやすい立場にいる一人。だからこそ、普段から振る舞いには隙を見せぬようにと。
 実力者の当主がターゲットになることは少ない。それでなくとも、当主には強力な護衛がついている。
 狙われやすいのはその子供だ。だからこそ貴族たちは当主以外、公の場では顔を明かさない。
 知る者は、わずかばかりの交流者のみ。
「そんな……嘘でしょう?おじさま……だって、おじさまは、お父様のお弟子で……」
「ああ、そして3年前の編成試合前に、剣への意識の違いから袂を分かった」
 カルタスが持つ太い長剣は、斬るということに、さらに棍棒のような効果を付与したものだ。鋭利な刃で切り裂く通常の剣と異なり、鉈(なた)のように力任せに叩き斬る。
 名のある貴族なら、優雅さや効率の面から持つことはない、力の武器。
「お前の父だけではない。この街の貴族たちは、口々に誇りと言う。誇りが何を解決する?誇りなどに縋っている者達がラウマケールでは、この街は守り切れぬ」
 それは、この街にはあまりにも不適合な思考。
 この男は、今の今まで、この侮蔑の瞳を腹の奥にしまっていたというのか。
「編成試合の裏から、私はお前達を間引いていく。誇りに縋る者どもを排除し、知略で街を支配するのだ」
「くだらねぇ。お前は第一位には勝てない」
「生意気な口を利く小僧が!」
 カルタスが踏み込むと同時に、剣を薙ぐ。かわした少年に再び男の重剣が襲来し、薄い銀の刃と噛み合った。
 膝をつく少女は、二人の剣戟をぼんやりと瞳に映していた。
 (……誇りに、縋る?)
 停止していたブリジッテの頭に、カルタスの放った言葉がやっと反芻される。
 信頼していた男は、蔑んだ目で言った。
 誇りに縋る者たちが街の頂点では、街を守り切れぬと。
「……違う」
 誰の言葉かと思って、自分の口から無意識に紡がれたものだと気付いた。

「違いますわ!!」

 次の瞬間、噴き上がる感情とともに、ブリジッテは立ち上がっていた。
 弾かれあい距離をとった二人が、少女を振り返った。
「剣は力となり、力は誇りに育ち、誇りは剣に宿る。我は剣の誇りと生きる者!」
 幼い頃から、父が説いてきた大切な言葉。
 契りのように、願いのように、放たれる一言一句。それらが、打ちのめされていた少女に活力を吹き込んで行く。
 両足で立ち上がった姿に、すでに悲しみの影はなかった。
「誇りを持っているからこそ、この街の頂点なのよ!それが理解できないおじさまは、この貴族の街の頂にはふさわしくないわ!!」
 カルタスの裏切りで折れそうになった心を繋ぎ止めたのは、骨の髄まで刻み込まれた剣の誇り。
 それこそが少女を鍛え、生かし、ここまで導いたのだから。
「……なぜわからない」
 対して、ブリジッテを見て眩しそうに目を細めた男は、うめくように返した。
「誇りとは、個人に依存する不安定なものだ。己の精神が弱まれば決して成り立たないものに、なぜ縋る?どんな時でも最大の力を使えなければ、力には意味がない。お前たちラウマケールは……この街の貴族は、誇りという甘言に惑わされているのだ。いつ折れるかもわからぬ誇りに、何万人が暮らすこの街を守れる保証があるというのか」
 平坦な口調で語るカルタスの目は、人の温かみを持たぬ冷淡なものだった。
 ……そういえば以前、カルタスが独り言を言っていたのを聞いたことがある。

『このフェルシエラは、奇跡的な均衡の上に治安が保たれている……何らかのきっかけで瓦解する可能性は無いとは言えぬ……気高き砦は、決して落ちてはならない』

 その言葉の背景には、街のシステムを疑問視する彼の危機感があったのだと、今になって少女は知る。
 だから、不安定な要素を根底とする現況を看過できないというのも理解できた。
 それでも、カルタスのやり方は間違っている。こんな策謀のような強引なやり方では、誰もついて来ない。
 何より……、
「……おじさまは、この街を侮りすぎよ」
「なに?」
 ラウマケールの順列は、いわば意志の硬さ。
 剣術や技量、財力、人脈など、それぞれに特化し、編成試合という大舞台で間違いなく最大限の力を発揮する精神力が物を言う。
 それが研ぎ澄まされた誇りと表裏一体であることは、男にもわかるはずだ。
 ブリジッテは、大きく息を吸い込んだ。

「誰よりも屈強な誇りを持つラウマケールは、街の民の誇りよ。だからこそ皆がついていく。ラウマケールある限り、わたくし達は決して折れない!!」

 今まさに、一度くずおれた少女が、再び立ち上がったように。
「……くだらぬ。お前はそこで見ていろ」
 しかしカルタスは、ブリジッテの方を向き直ることもなく、再び少年に斬りかかった。少年が寸前で身をそらし、掠った服が裂ける。
 カルタス子爵は、ラウマケールに近い男と噂されながら、編成試合には参加しない変わり者だった。彼が単にラウマケールの座に興味がなかったからなのか、それともこの時のために隠していたからなのか。
 目の前で繰り出される卓越した剣術。その差に懸命に食らいつくことで、少年はかろうじて剣戟の形をとっていた。
(なら……!)
 ブリジッテの姿が霞んだ。少年がカルタスから距離をとった空隙に、一足で飛び込み、刃を薙ぐ。
 カルタスは一歩引いてかわし、がら空きの少女に間髪入れず重剣を振り抜いた。
 カルタスもブリジッテ本人も、避けきれないと判断した。防御するしかないが、彼女にはこの重剣を受け止められない。これまでの攻防からも把握されているブリジッテの弱点だ。
 勝利を確信した男を一瞥し、ブリジッテは、くすっと笑みをこぼした。
「甘いわっ!」
「!?」
 少女は、防御しなかった。
 刃が当たる寸前に、彼女はころんと前転した。小柄な体躯を捉えきれず、カルタスの剣が虚空を引っ掻く。
 そのままブリジッテは、カルタスの股下をくぐり抜けた。立ち上がりざま剣を振り上げつつ、少年の横に並ぶと、ぶっきらぼうな声がかかった。
「勝手に動くな、邪魔だ」
「苦戦しているから加勢に来たのに失礼ね!わたくしがすぐ攻略されるから足手まといだと?あれから腕も上がったのよ?古い情報で負けはしないわ」
「その情報で捕まったんだろうが三流剣士」
「あ、あの時は手癖で戦ってしまったのよ!ちょっと甘く見すぎただけ!剣を持つ者として恥ずかしいと反省してるわ!」
「足は引っ張るなよ……!」
 襲来するカルタスの重剣に、少年が反応した。ブリジッテでは耐えられない重さを、彼は力強く受け止める。
 その隙にブリジッテが、カルタス目掛け刃を薙いだ。男は飛びのいてかわすが、すかさず少年が肉薄する。その背後には、即座に体勢を立て直した少女が控える。
(……不思議)
 少年の一動、その間隙、その剣筋に、すんなり体がついていく。自然と動きが合わせられる。きっとそれは、少年も感じていただろう。
 剣術の型は、もちろん少女のそれとは異なる。しかし、その相違さえ吸収した上で、互いに互いの隙を埋め、弱点を補い、畳み掛けるような攻めが実現していた。
 彼の剣筋に自分の刃を合わせながら、ブリジッテは強く感じていた。
(きっと、この人は――)

 ――だが、たった今できたばかりのペアには、やはり意識のズレがある。
 ほんの一瞬。少年少女は、互いの気がすれ違ったのを感じた。
「小賢しい!!」
 その一拍にねじ込まれる、カルタスの重剣。
 存分に振るわれた大振りに殴り飛ばされ、ブリジッテの身体が板壁を穿った。
 もうもうと上がる埃の中、少女は砕け散った木片を下敷きに、剣を抱いた格好で倒れ込んでいた。
「……う……」
 とっさに刃と自身の間に剣を滑り込ませたおかげで、致命傷は免れた。しかし男の剛力によって壁に叩きつけられた衝撃は、華奢な彼女には大きすぎた。
「ブリジレスカ、お前に死なれては困る。小僧、お前は片付ける」
 カルタスの声が反響する。
 薄目を開けると、少年は防戦一方になっていた。
「にげ、て……」
 身体が、動かない。全身を苛む鈍痛が、感覚を鈍らせる。
 幸い骨は折れていないようだが、強打した背中と、木片で引っ掻いた幾多の切り傷が引き攣る。
 ――共闘していてわかったことがある。少年の力量は、自分よりやや上くらいだ。
 あのままでは遅からず殺されてしまう。それは本人がひしひしと感じているはず。
 案の定、少年の手から剣が弾け飛んだ。少年が顔をしかめ、カルタスから飛び退く。
 それでも、彼は逃げない。男を睨み据え、次の行動を考えている。
 その理由が、ブリジッテにはすでにわかっていた。
 だから、彼を、助けなくては――

「そこまでだ!!!」

 凛とした声が駆け抜けた。
 焦燥、殺気、その場のすべての澱んだ空気を切り払い、許さぬ一声。
 男と少年は戦意をもぎ取られ、立ち尽くした。声の主は、ドアが失われた間口に立っていた。
 槍を担いだ、金色の髪の女神官。
「カルタス子爵、貴方にラウマケール失脚策動の嫌疑がかかってる。武器を手放してアタシ達と来てもらおうか」
「シャルロット嬢……」
 名指しされたカルタスが、呆然と彼女を呼ぶ。シャルロットはその重剣を睨み据え、釘を刺した。
「妙な気は起こさない方がいいよ。まもなくあの方が来られるからね」
「………………」
 今この場にいる全員を皆殺しにし、隠蔽することを考えていた男は、答えない。
「姉さま!!」
 不意に、シャルロットの後ろから顔を出したのは赤毛の少年。倒れている姉に駆け寄り、彼女を助け起こす。
「遅くなってすみませんっ!もう少し早く来ていれば……今、父さまとラスタ様が来られます!だからしっかり……」
(……編成試合が終わったのね……)
 クロイツの声を聞きながら、ブリジッテは理解する。彼はあの追っ手を逃げ切り、異変を感じ取っていたシャルロットにしらせてくれたのだ。
「おじさま……」
 クロイツに抱き起こされたブリジッテは、顔を上げた。
 カルタスはそこに立ち尽くしていた。か細い声に導かれ、彼は少女を見る。
 男は、長い長い溜息を吐いた。
 3年間、積み上げてきた計画が徒労に終わった溜息だった。
「……時間切れだ。編成試合の最中に終わらせられなかった私の負けだ。とんでもない番狂わせをしてくれたな」
「………………」
「お前は力を示した。お前に受け継がれたその誇りが、お前の剣を研ぎ澄ました。誇りこそがラウマケールの刃の源だというなら……私の居場所は、ここにはないということだろう」
 ふっと、男は口元を緩めた。
 少女の見開かれた両目から、雨が降った。
 大好きな子爵は、子を見るような、温かな眼差しで囁いた。

「……強くなったな、お嬢」

 その声は優しい音色で、微睡みに響いていた。

 

 

 

 /////////////////

 

 

 

 ………………

 

 

 

 /////////////////

 

 

 

「……いつまで」
 屋敷の通路のなかほど。ぼんやりと庭を眺めていたブリジッテの耳朶に、不意に人の声が触れた。
「ぼんやりしてるんですかっ!!」
 刹那、叩きつけられる戦意の気配。
 それを察した途端、骨の髄まで刷り込まれた感覚が反応した。少女の体は勝手に身を返し、持っていた剣を抜き払つ。
 示し合わせたように、ぶつかり合った刃が鳴いた。
 赤髪の少年が言う。
「さすがです。父様に、反射的に動くよう教えられてきましたからね。ですがっ……!」
 噛み合った2本の剣のうち、弟の刃が翻り、相手の刃を絡めとろうと動いた。
「誰がぼんやりしてるの?」
 不意に、ブリジッテが口を開いた。
 彼女は寸前で剣を手元に戻すと、白刃を薙いだ。
 今度は、爆発しそうな風を連れて、剣と剣が衝突した。
 交差する刃越しの弟が厳しい顔をしていたかと思うと、ふっと口元に笑みが浮かんだ。
「うん、その意気です。カルタスおじさんに裏切られて、さすがに落ち込んでいるかと思いましたが、心配は無用だったようですね」
 剣を鞘に収め、クロイツが鋭利な気配を霧散させて言うと、ブリジッテが返した。
「あら、貴方に心配されるほど弱くなくてよ。貴方こそ、大好きなおじさまの不正にショックを受けていると思っていたけれど、思ったより平気そうね?」
「ふふん、それはきっと、私も姉さまも同じことを考えたからですね」
 くすっと笑って、クロイツは姉に向き直った。
「私も、カルタスおじさんの考えには賛成できません。相容れることもないでしょう」
「ええ」
「ですが、私たちが大好きなおじさんには変わりないですから」
「ええ、そうね」
 わかっていたというように、ブリジッテは同じ相槌を二度返した。
 ――ヴァイクス=カルタス子爵は、ラウマケール失脚未遂で爵位剥奪、街の外へ追放になった。
 このフェルシエラでは、あくまで編成試合の結果が土台となる。策謀などによる失脚は禁じられており、犯した者は街の敷地の土を踏むことは許されない。

 あの後、ブリジッテは眠るように気絶してしまっていた。
 目が覚めると、少女は自室のベッドに横たえられていた。
 涙を溢れさせながら、母が抱き締めてくれた。その腕の中で、ぼんやりと、彼女は男の微笑みを思い出していた。

『お前は力を示した。お前に受け継がれたその誇りが、お前の剣を研ぎ澄ました。誇りこそがラウマケールの刃の源だというなら……私の居場所は、ここにはないということだろう』

 彼がどんな在り方でその場所に立っていたのか、今ではもうわからない。
 ただ、自身が否定する誇りによって強くなった少女に、そっと言葉を手向けた。
 大好きな元子爵に言葉を返せなかった後悔だけが、心に居座り続けている。
「剣は力となり、力は誇りに育ち、誇りは剣に宿る。我は剣の誇りと生きる者」
 剣を顔の前に持ち、姿勢を正したクロイツが告げるのは、ラフラッテ伯爵家に代々伝わる句。父ルトから繰り返し聞かされてきた誓い。
 閉ざされていた弟の両目が、片方だけ開いた。
「いつかまた、おじさんに会えたらいいですね」
「……ええ。その時は、わたくし達の成長ぶりを見せつけるわよ」
 今よりももっと強く、気高くなって、彼を驚かせるのだ。
 ブリジッテの頰に、淡く微笑みが浮かんだ。

「……ところでクロイツ、今のわたくしに切りかかってくるのは失礼よ?」
 今更咎められ、きょとんとクロイツは目を瞬いた。それから思い当たったらしく吹き出した。
「姉さまが黙ってやられるわけがないじゃないですか☆ その格好でしっかり帯剣している姉さまも姉さまですよ?」
「剣の一族が剣を持たずに歩くなんて、あり得ないでしょう?少し動きづらいけど、並の傭兵相手には遅れはとらないわよ」
 剣を収めながら言うブリジッテの服装は、確かにいつもの訓練着ではなかった。
 桜色のツインテールを留めている銀色の髪飾りは、細かな意匠がありつつも主張しすぎない控えめなもの。淡いピンクが差し色の白いドレスの胸元を飾る小ぶりな赤いリボンも品良く収まっており、少女は牡丹の花のような可憐でいて控えめな美しさを醸していた。
 見紛うまでもなく、彼女が持つ一等級の正装だ。
「ここにいたの、ブリジッテ」
「お母様!」
 慣れ親しんだ声に呼ばれ、ブリジッテは振り返った。
「あらあら、二人とも剣を持って……手合わせ?ブリジッテ、髪が解けてしまうわ?」
 穏やかな物言いで屋敷から出てきたのは、少女と同じ髪の色の女性。落ち着いたブルーが基調の彼女のドレスも、娘と同じように正装だ。
 なぜなら今日は、ブリジッテの結婚相手候補との顔合わせなのだから。
 簡単に事情を聞くと、どうやら母から相手方に相談を持ちかけ、トントン拍子で顔合わせをすることに決まったらしい。
 勝手に話を進めてほしくなかったが、急なキャンセルは伯爵家の名にも響く。ひとまず出席だけはしておいて、後で断ればいい。最終決定権は自分にある。
 腹底の思惑はともかく、久しぶりに目一杯おしゃれをしたブリジッテは上機嫌だった。
「あちらも問題なく出席できるそうだから、予定通りに出かけるわよ?」
「ええ、行きましょう!お待たせしては失礼だわ!」
 意気込んで言い放ったはいいが、この時、ブリジッテは相手のことをまったく知らなかった。
 父母に連れられるまま、彼女が訪れたのは、フェルシエラ最高層の最奥。
 ラウマケール第一位、レミエッタ公爵家の屋敷だった。

「ラスタ殿、先日は娘がご迷惑をおかけしました」
 喉を凍らせているブリジッテの隣から、この広間に父の声が響く。対角線上の席についている壮年の男性が、静かに答えた。
「謝罪するのはこちらの方だ。貴殿のご息女を危険な目に遭わせてしまって申し訳なかった」
「いえ、ラスタ殿もカルタス元子爵が事を起こすまでは動けますまい。陰ながら手を打っていてくださっていて、感謝の極みです」
 この街で最も高みにいる銀髪の男が淡々と謝辞を述べると、ルトが首を振って答えた。
 ――3年前の編成試合。己のすべてを披露し、連勝する少女がいた。
 その少女が、ラフラッテ伯の娘であると見かけたラスタは、その場でそれを『自然な形で止めるよう』、『ある人物』に指示をした。
「普段はルト殿が傍におられる故、ご息女の警護が手薄になるのは稀……その唯一の機会が編成試合だった。だからこそ、此度の試合は警戒していた」
 カルタスに不穏な動きがあることを、ラスタは3年前から知っていた。しかし確固たる証拠はなく、嫌疑のみで追放できなかった。
 カルタスの動向を気にしながら3年が経ち、数週間前、街に見知らぬ者たちが出入りしている、何かの集団を結成していると、シャルロットから報告を受けた。真っ先にカルタスを疑ったが、その時点では彼と関係があるかは断定できなかった。
 だからラスタは、そのグループに内通者を送り込んだ。内より集団を監視し、合図ひとつで壊滅させることのできるスパイを。
 それが――目の前の少年だ。
「………………」
 気配が希薄なラスタの隣に、同じように澄んだ気配。
 初めて会った時とも、先日とも違う。ラスタに似た洗練された品の良い衣装を着込んだ少年は、これまでの粗野な印象を大きく覆す。しかし不思議なことに、それがあるべき姿だったように馴染んでいた。
 ダークブルーの双眸が、こちらを見据えていた。
「敵陣の真っ只中に送り込まれる危険を物ともしないとは、さすがラスタ殿のご子息」
「私は、不自然に見えぬよう集団に溶け込めと言ったのだがな。カルタス殿と対面してしまったのもそれが遠因だろう」
 父ラスタの遠回しな小言を、少年は無表情で受け流した。
 顔が見知られておらず、剣の腕が立ち、かつラスタが信頼における者。これ以上の適任がいただろうか。
 ――ラスタの一人息子、ディアノスト=ハーメル=レミエッタ。

「………………」
 この少年にとっては、仕事だったのだ。それも受動的な。
 傭兵グループに潜り込むことも、カルタスから少女を逃がすことも、そのフォローすることも。
 3年前に少女を負かすことも。
 ばっ、と桜色が舞った。

「手合わせ願いますわ!!」

 広間の高い天井を、叫声が突いた。
 爆発せん勢いで立ったブリジッテが、人差し指を向けていた。テーブルの向こう、静かに座す少年に。

 共闘した時のかすかな直感が、確信へと変わっていた。
 この少年は、「自分」だ。
 剣を振るうために生き、誇りで刃を磨く、その在り方。
 自分は、彼の「誇り」に負けたのだ。
 それらがわかったからこそ、3年前の戦いが仕事の一環でしかなかったことが許せなかった。
「……どうやらご息女は、渦中にありながら自分が蚊帳の外であったことにご立腹のようだ。こちらが囮にしたようなものだ、無理もない」
 無礼にもあたる態度に、思わず声をなくしたラフラッテ夫妻に代わり、動じることもなく静かにそう語ったのは、ラスタだった。
 街の支配者の頂は、目を向けずに問うた。
「ディアノスト、受けるのか」
「………………」
 少年ノストは、無言で席から立った。

 

 

 

 /////////////////

 

 

 

「勝負は一本きりだ」
 レミエッタ公爵家の中庭。向かい合う両者に、見届け役を買って出たラスタが言う。
 華やかなドレスから一変、稽古着に着替えたブリジッテは、佇まいを正した。
 正面には同じく、稽古着らしい質素な白い服を着たノストがいる。
 その服には、白のせいで余計に鮮明に見える、汚れやほつれがあちこちにある。問うまでもない、少年に刻まれてきた、鍛錬の痕。
「剣は、わたくし自身でした」
 ブリジッテが剣を鞘から引き抜きながら言った。
「女だからと侮られるのは何よりも嫌だった。それを切り払うために、わたくしが手にした力でした。……それを貴方は叩き折り、あまつさえ軽蔑した」
 それが、3年前。
 ノストも剣を抜き、構えをとった。
 剣先を下ろして佇む、一見、臨戦態勢には見えない構え。
「けれど、あの時とは違う。貴方に膝をつかせてあげるわ!」
 叫びとともに、ブリジッテの体が霞んだ。
 飛び出した少女の剣を、ノストは反射的に受け止めた。ばかりか、やや剣身を逸らして勢いを逃しつつ、反撃の構えに入る。
 ゆるやかで無駄がない。その一挙一動、舞のような美しさよ。
(……3年前、負けたのは当然よ)
 振り抜かれた刃を跳んでかわしながらも、ブリジッテはその剣舞に見惚れていた。
 10歳の少女の実力は、この街で剣を持つ者としては最低限のものでしかなかった。その力を一般人相手に振りかざして満足していた少女は、さぞ滑稽だったろう。
 少年は、この街の現実を突きつけていったのだ。
「貴方が強い理由が、カルタスおじさまの一件でよくわかったわ!」
 剣を突き出しながら、ブリジッテが叫ぶ。
 共闘の際に強く感じた、剣に対する彼の信念。刃を合わせている今も、剣筋の節々から滲む誇り。
 それらが、彼の剣筋を研ぎ澄ませてきた。
 だからこそ、不思議と呼吸が合った。
 さらに、カルタスとの意識の差を経て、少女は己の剣の在り方に絶対的な自信を得た。
 そうして、完全ではなかった少女の剣の誇りが、少年に追いつく。
 ブリジッテはもう、昔とは違うのだ。
「ほう……」
 美しい銀の軌跡を描き、幾度も刃が切り結ぶ。
 舞踏のような応酬を眺め、ラスタは感嘆の声をこぼした。
「己の剣を信ずる迷いのない剣閃だ。ご息女も腕を上げられたな、ルト殿」
「3年前、もっと強くなりたいと急に言い出したので何かと思っていましたが……ディアノスト殿に負けたのがよほど悔しかったようですね。あの頃のあの子にはいい薬になったでしょう」
 じゃじゃ馬で高慢な小さい頃のブリジッテを思い出して、ルトは苦笑いした。
 ブリジッテが剣を突き出すと、少年は剣身で一撃をそらし、ノストが剣頭で少女の鳩尾を狙い打つと、ブリジッテは回転して受け流す。
 振り下ろした刃が激突した。
「……わたくしは、ずっと守られていた。3年間も、今回も。事件の中心にいたのに、わたくしには何も知らされなかった」
 柄を握り締めた手に力がこもる。
 カルタスについてや、幼い少女のプライドを気遣ってかもしれない。
 けれど、根底にある理由はただひとつ。
「だからこそ、貴方に証明したい!!」
 己が剣を。己が誇りを。
 強くなった自分を。
 そのための3年間だったのだから。
 弾かれたように距離をとったブリジッテは、ノストが構え直す一瞬の隙を掻いくぐり、その懐に滑り込んだ。
 ノストが何もできないうちに、その首元に銀の刃が近付く。
 勝利の二文字が頭を掠めた。

「いい度胸だ」

 その言葉を皮切りに。
 まるでコインを裏返すように、戦況はひっくり返った。
 ブリジッテの剣先の進路が逸れた。刃は少年の首の真横を突き抜ける。脇から叩きつけられた逆手のノストの剣が、少女の白刃を押し出したからだ。
 この距離、タイミングで反応できるなどもはや人知を超えていた。
 ブリジッテが驚きに硬直した刹那を、ノストの剣が切り抜いていった。
「勝負あり」
 ラスタの声が、無慈悲に告げた。
 先ほどの立場が入れ替わったようだった。ノストの剣先は少女の喉元に向けられており、ブリジッテの剣を持つ腕は所在なさげに浮いている。少女は呆然と、向けられた銀の剣を見つめていた。
 ノストが剣を引くと、ブリジッテは糸が切れた人形のようにぺたんと座り込んだ。
(……悔しい)
 再戦を終えた直後。遅ればせながら、感情がこみ上げてきた。
 己の剣術のすべてを出し切った。悪くなかった。あと一歩だった。
 勝ったと思ってしまった瞬間が、分かれ道だった。
 その心の隙を見逃す相手ではない。自分の精神の弱さを突きつけられたようで、ブリジッテは悔しさとともに、恥ずかしさに顔を伏せるしかなかった。
 芝生を映す少女の視界の上に、誰かの靴先が入り込んだ。
 顔を上げると、無表情のまま少年が手を差し伸べていた。
「え……」
「悪くなかった」
 目を丸くするブリジッテに、ノストは淡白な声音で言った。
 貴族は女性をエスコートする作法には慣れているものだが、彼のは到底それとはかけ離れていた。相変わらず目つきは悪いし、無表情だし、横柄な印象だ。しかし、何処となく公爵ラスタのような威厳をまとう姿は、一周回って貴族らしかった。
「……あ、ありがとう」
 真正面から相手に向き合うその態度が、彼なりの敬意の表れであることは、短すぎる付き合いでもわかった。
 だからブリジッテは、戸惑いながらもその手をとった。
 3年間、目の敵にしていた少年の手は、思ったより優しかった。
 ……急に、胸の奥がかゆくなるような感じがした。
 そういえばこの少年は、許嫁候補の相手だった。
(……やだ、どうして今思い出すのかしら)
 なんとなく目を合わせられず、少女が顔を背けつつ手を引かれて立ち上がると、ノストは言い放った。
「思い上がるな三流剣士。身のこなしを極めようと手はいくらでもある」
「……言ったわね!?覚えてなさいっ!今度は絶対、絶対勝つんだから!!」
 ブリジッテが威嚇のように彼の手を強く握りしめる。しかし少年は涼しい顔で無反応。
 繋いだ手のひらはあたたかかった。

 

 

 

 /////////////////

 

 

 

「……姉様、いいんですか?」
 ふと、聞き慣れた声が彼女を現実に引き戻す。
 目の前では、生まれたての太陽が顔を出したばかり。フェルシエラ最高層から眺める朝焼けの空は、飛び込んで飛翔できそうな広大さだ。
 その空のもと、階下を進み離れていく二つの人影。
 片方は小柄な少女の後ろ姿。
 もう片方は長身の、見慣れた愛しい後ろ姿。
 まだ街の喧騒が遠いのも相まって、少しひんやりとした空気は神聖なもののように、二人を取り巻いていた。
 心を洗い流すようにその冷たさを吸い込んで、18歳になり淑女となったブリジッテは振り向いた。
「……いいのよ」
 妬ましさ、羨ましさ、寂しさ、切なさ、他にもたくさん。
 いろんな感情が下地になった、淡い微笑。
 それでも、誇り高いその心は変わらず。
「わたくしが、あの人の許嫁であることに変わりはないもの」
 たとえ、もう二度と出会うことはないとしても。
 彼を愛し、彼と共に過ごした時間は、他の誰のものでもない。
「ディアノスト様も、まったくお変わりありませんでしたね。……あ、そういえば彼は3年前から時が止まっているんでしたね。私は同い年になってしまったのか」
 17歳になり、すっかり大人びて見目麗しい美青年になった弟が、少しだけおかしそうに笑った。
 クロイツは姉を介して、何度かノストと手合わせをしたことがある。寸前まで追い込んだことはあるものの、結局一度も勝てずじまいだ。一回くらい勝利したかったな、とクロイツは頭の片隅で思った。
「それにしてもクロイツ、随分早起きね?」
「考えたことは姉様と同じということですよ。私も、彼の見送りくらいしたかったんです」
「なら、貴方も一緒に朝食を摂ればよかったのに」
「私は気遣いのできる男ですから。彼と姉様の最後のお食事を邪魔するような野暮はしませんよ」
 当然のように胸を張って言う青年。普通ならいけ好かない物言いなのに、彼が言うと不思議としっくり来るのだった。
 くるりと振り返って、ブリジッテは微笑んだ。
 子供の頃のようなお転婆は影を潜めたが、本質は変わらない。ドレスで着飾った彼女は、誇り高く言う。
「クロイツ、手合わせしない?」
「突然ですね?確かに最近、姉様との手合わせはご無沙汰していますね。ふふん、さらに磨かれた私の剣術をお見せしましょう!」
「あら、その言葉、そっくりそのまま返すわよ?無様にひざまずく様を見てあげるわ」
 どんな時でも、剣は常に共にある。剣は己自身でもあるから。
 それは、あの人も同じだった。

 場所を移そうと屋敷へ向かうクロイツの後を追いかけようとして、ブリジッテはふと振り返った。
 街を去りゆく遠い背中に、一度も伝えられなかった言葉を、ひとり囁いて。
 剣の誇りと生きる者は背を向け、歩み出した。