avec

Doppelganger 02 剣聖と令嬢

 ガッと塀の縁を掴んだ。そのまま身軽に塀の上に乗り上げる。
「えっ!? 何されてるんですか、ヒース様?! 危険ですので……!」
「いや、気にしなくていいぞ。もし落ちてもそっちに責任はないし、自分でなんとかできるし」
 レミエッタ公爵家の入り口門の横、門番がいる前で、堂々と塀に登ったヒースは、うろたえる門番にそう言って、塀の上を歩き出した。目指すは、昨日と同じ場所だ。

 ラスタ達からあの女性の話を聞いてから、ずっと彼女のことが頭を巡る。
 何も知らずに発言していたこと。知らぬ間に彼女を傷付けていたこと。申し訳ないと思うと同時に、事情を知ったからこそ、彼女のあんな態度を放っておけなかった。
 と言っても、助けるなんてことはできないだろう。でもとにかく、もう一度だけ、話をしてみようと思った。
 もちろん、彼女がまたバルコニーにいるとは限らなかった。なんとなくいない気もしてやって来たら、予感的中で、彼女の姿はなかった。
「……まぁ、仕方ないか」
 塀の上に座ってヒースは苦笑した。昨日、さんざん彼女を傷付けたのだ。向こうが、今日も来るかもしれないと予想し出てこない可能性だってあった。
 腰をかけたまま屋敷を見ていると、あることに気が付いた。昨日、彼女がいたバルコニーが張り出しているのは、屋敷ではなく、屋敷に寄り添うように建つ塔のような建物だった。
(……まさか、あの建物に隔離されてんのか?)
 病気のきっかけを少しでも受けないように。きっと、そういう目的でつくられた安全な場所なのだろう。しかしそれは同時に、ひどく孤独で、閉塞的な場所で。
 そんな場所に一人。
(……そりゃ、死にたくなるよな……)
 想像してみて、なんとなく気持ちがわかった。でもこの想像を遥かに上回る孤独を、彼女は抱えているのだろう。

 ……と。
 ぼんやりとバルコニーが映る風景を見ていたら、視界の端で何かが動くのが見えた。そちらに注意を向けると、現れたのはやはり昨日と同じ女性だった。
 彼女はヒースが見る前で、バルコニーの手すりの方へ歩いていく。今日も手すりに座るのかと思ったら、今回は手すりに両手を置いただけで、そこから風景を眺める。
「何か用?」
「ちょっと話したいことがあってな」
 こちらを見はしなかったが、彼女の気が自分に向いているのはわかっていたから、ヒースは驚くことなく返した。
「お前、病弱なんだってな、エルシーナ」
「エルウィヌナーシュよ。自分の名前は嫌いだけど、間違えられるのはもっと嫌い」
 ヒースには目もくれず、正面を見たまま言う女性。冷たい口調がさらに冷え込み、氷点を下回り、氷となって自分に突き刺さる。
 ヒースは冷や汗をかいた。自分の物覚えが悪いという、たったそれだけの大きなことで、非常に相手の機嫌を損ねている。なんて情けない。
「うっ……わ、悪ぃ……えーっと……エルウィーナル?」
「エルウィヌナーシュ」
「エルイナス?」
「……貴方、わざと間違えてるの?」
「違ぇよ!えーっと、エル……エル……」
 完璧に呆れられている。馬鹿馬鹿しそうに溜息を吐く女性の名前を、数秒前に彼女自身が言った言葉から思い出そうとするが、あまり覚えていない。
「…………………………あああもうめんどくせぇ!! エリナだ!!」
「えっ?」
「勝手に略した!今度からエリナって呼ぶぞ!」
 思い出せない自分に業を煮やしたヒースは、最終的に彼女に、覚えやすい名前を勝手に付けた。女性――エルウィヌナーシュ=セラエル、通称エリナは、思いがけない言葉に驚いた顔で目を瞬いた。
「で、エリナ。話を戻すが、お前、あんまり長く生きられないんだってな?」
 驚いた様子のままのエリナに、とりあえず名前について一段落つかせたヒースは、自分がここに来た最大の目的であることに話を戻した。その言葉にエリナは少し間を空けてから、ヒースを見て言った。
「……貴族の間じゃ周知のことよ。だから何?笑いに来たの?」
「ほんっとお前、可愛くねぇなぁ……謝りに来たんだよ。昨日は何も知らないで、ひどいこと言ったな。悪かった」
 相変わらず刺々しい物言いのエリナに、ヒースは苦笑いして言った。しかしエリナは、その謝罪にも大して興味もなさそうに、正面を向いた。
「……それで?可哀想だって思ったの?もう聞き飽きた。いい迷惑よ。そんなふうに思われたくない」
「いや、俺は別に……」
「知ってる?同情って、自分が相手より恵まれている時に起きるものなのよ?一種の差別なの。そんな貴方達に、私の気持ちなんてわかるはずがない!」
 こちらを睨みつけて強い声で言い切られた彼女の言葉は、ヒースにかける言葉を失わせた。しかしその直後、エリナは口を押さえ、その場にしゃがみ込んで苦しそうに咳き込む。
「お、おい、大丈夫か?大声とか出さない方が……」
「そんなの私の勝手!私の命だって、私の勝手よ!」
 急にやけになったように言い、エリナは立ち上がって手すりの外へ身を乗り出した。重心が上半身にかかり、彼女の体は半回転して手すりの外へと浮遊する。
 縦にもう1回だけ回転したのがわかって……やがて自分は、硬い地面ではなく、柔らかいものにぶつかった。
「……っと……今日は、ちゃんと間に合ったな。大丈夫か?」
 数瞬前に動き始め、落下してきたエリナをしっかり抱き留めたヒースは、安心したように笑った。落ち着いた態度に戻ったエリナは、その笑顔を見て、体を起こして問うた。
 本当に、不思議そうな顔、瞳で。
「……どうして?どうして貴方は、私を助けるの?昨日会ったばかりなのに、どうして私を助けて、そんなに安心してるの……?」
「どうしてって……そりゃ、目の前で死のうとした人を助けられたら、安心するだろ?けど、お前、なんか根本的に価値観違うみたいだしなぁ……」
 説明に困って、ヒースは苦笑いして頭を掻いた。エリナを立たせながら自身も立ち上がり、コートについた土を払う。
 ――そうしながら、ずっと付きまとっていた疑問が不意に鎌首をもたげた。
 自分達のやり取りは、決して声を潜ませたわけじゃない。敷地の端とは言え、聞こえないほどではないだろう。それなのに、誰一人として不審に思って出てくる者がいない。
 いや、それどころか……
「……にしても……昨日もだったが、エリナ、他の人間はどうした?この家、お前以外に気配を感じないぞ」
 土を払い終わり、ヒースは立ち尽くすエリナに問うた。
 ……そう、おかしいくらいに静かな屋敷。それもそのはず、屋敷内にはエリナ以外には誰もいなかった。少なくとも、自分が気配を読んだ限りでは。
「……お父様は昨日から、アスラに行っているの。武闘大会の審査員だから」
「あぁ……そーいやそんな時期か」
 アスラでは毎年、武闘大会が開かれる。腕に自信がある者達の中から王者を決める大会だ。賞金は出ないが、腕試しに興味がある者が国中から集まる。が、フェルシエラの人間は、例外として参加は認められていない。有名な大会だが、ヒースは参加したことがなかった。
「だが、それを抜きにしても警備が手薄すぎる。お前の親父殿は、留守中に娘が拉致られて、何かの取引の条件にされるかもってこと、考えなかったのかねぇ……」
「…………そう。そういうことね。どうりでおかしいと思った」
「は?何が?」
 自分の嘆息混じりの呟きを聞いて、エリナが妙に納得した様子で言った。ヒースがエリナを見ると、彼女は最初と同じ、冷ややかな視線でこちらを見ていた。
「見ず知らずの人間に、2日連続で会いに来るなんておかしいと思った。そういう魂胆があったのね」
「……おい、ちょっと待て!なんか勘違いしてねーか?!」
 エリナが何を言っているのかわからずに目を丸くしてから。さっき自分が何気なく言った例が、自分の目的だと勘違いされたことに気付いて、ヒースは慌てた。
 その慌てぶりは、逆にエリナの確信を濃くする。さらに彼女の言葉は続く。
「貴方、強いみたいだものね。ここで私をさらっていっても、立ち向かえる人間なんて数えるくらいしかいない。私、上手く使われるのね」
「いやだから!そんなわけで来たんじゃねぇ!信じろ!っつっても説得力ねーが!!」
 確かに、さっきの例は激しく今の自分に合致してしまう。否定しても説得力は悲しいくらい皆無だと、自分で叫びながら思った。
(というか、もしそうだったとしても、コイツ誘拐犯を前にして平然としてるぞ……やっぱり可愛くねぇ……!)
 ヒースが内心思っていることも知らず、エリナは彼から視線を外すと、長い髪を肩から払いながら言った。
「……まぁ、いいわ。信じてあげる」
「本当か!?」
「その代わり、私の言うこと聞いて。じゃないとバラすわよ」
「って全然信じてねぇじゃねーか!!」
 思わず突っ込んだヒースに向けて、エリナは初めて小さく笑った。……不敵な冷笑を。
 何かぞっとするものを感じて身を引いたヒースに、下からライトアップされて不気味に見えるエリナ(※ヒースビジョン)は、笑みを浮かべたまま言う。
「ふふ、きっとバレたら大変よ?何せ、ラウマケール第三位の娘を誘拐しようとしたんだから。フェルシエラは大騒ぎよ。ラウマケール総出で貴方を狙ってくるでしょうね」
「こ、怖ェ!?」
「情報なんてすぐに広まるものよ。いくら貴方が強いとしても、ラスタ様やお父様を敵に回したら、逃げ切れないでしょ?死にたくなかったら、私の言うこと聞いて」
「……お、お前……ひでぇ……」
 素人以下の動きしかできないだろう女性相手に、剣聖のはずの自分は脅されている。物凄く自分が惨めに思えてきて、ヒースは泣きそうになった。
 が、確かに彼女の言う通り、ラウマケール第三位の令嬢誘拐容疑は恐らく非常に重い。本当に、ラスタやラウマケール一同が追ってきたらシャレにならない。
「…………っはぁぁあああぁ……わかったよ……で?手始めに何をすればいいですか、お嬢さん」
 戦えない女性一人に脅され、それを呑むなんて情けなさすぎる。だがヒースは念のため、プライドより命を優先した。俺だって我が身が可愛い。
 長い長い溜息を吐き、投げやりな口調でヒースがわざとらしく言うと、エリナはすでに笑っていなかった。
 今までのような冷淡な態度でもなく、彼女は、真剣な表情でヒースを見て、口を開いた。

「私を海に連れて行って」

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 エルウィヌナーシュ=セラエル嬢誘拐事件。
 犯人は、最近に剣聖なったばかりのヒース=モノルヴィー。
 ……なんてことになっても、誰も黒幕がエリナ自身だなんて思わないだろう。
(……ハメられた……!!)
 夜のフェルシエラ。その最上階、セラエル公爵家の玄関前で、ヒースはだらだらと冷や汗を流していた。
 誘拐容疑を隠しておいてあげるから、言うことを聞け。それはいい。
 が、その「言うこと」が彼女自身を連れ出せなんて、結局自分は誘拐犯じゃないか。しかも今度は容疑者じゃなく犯人に仕立て上げられて。
 もしエリナが容疑を他言しなくても、このことが世間に広まったら、やっぱり……、
(……お、俺は被害者だーーッッ!!!!)
 両側から頭を抱え込んで、ヒースは心の中で絶叫した。

 夜の街は穏やかで静かだ。ほとんどの者は屋敷に戻り、そこで夕食やパーティを開いて過ごしているだろう。時々、何処からか和やかな談笑が聞こえてくる。
 人気のない道。フェルシエラの大通りとなる階段には、やはり2階部分に夜勤のグレイヴ教団のゲブラー二人が立っている。階上にいる場合、フェルシエラから出るためにはどうしても階段を通らなければならない。
 あそこで止められたら最悪だ。こんな時間に外出する者など不審すぎて止められるに決まってる。大体、あのお嬢様は病弱なのだから、彼女が外出なんておかしすぎるだろう。……ダメだ、絶対引っかかる。
「大丈夫よ」
 ヒースが頭を抱えていると、セラエル公爵家の玄関の扉が開き、そこから人影が現れた。昼間の服より比較的動きやすい服に着替えたエリナは、まるで彼の思考を読んだようにヒースに言う。
「私、めったに外出しないもの。ほとんどの人には、顔を覚えられていないわ」
「……医者にかかる時、外出するんじゃないのか?」
「屋敷に来てもらっているから」
「ふーん……んじゃ、あの病弱お嬢様が外出なんておかしいストーップ!ってパターンはないと思っていいな?」
「ええ」
 肩口の髪を払い、無表情で答えるエリナ。ほとんど外出しないからか色白の彼女の顔は、月明かりも相まって夜の闇に青白く浮いて見えた。神秘的、幻想的で、その反面とても儚くも見えた。
 エリナは、そのままヒースの横を通りすぎながら続ける。
「だから必要なのは、あそこのゲブラー達を納得させる理由よ。こんな夜に外出する、筋の通った理由をね」
「そーだな……エリナ、何か考えてるか?」
 顎に手を当てて考えるが、当然ヒースは昨日来たばかりのフェルシエラの規則や習慣はまったくわからない。だからまったく思いつかず、ここの住人であるエリナに問うと、彼女はくるりとこちらを振り返った。
「当たり前でしょ?言い出したのは私だもの。貴方は、私の言うことを聞けばいいだけ」
「……へいへい、そりゃ頼もしーことで」
 取るに足りないと言わんばかりの口調で言い切られ、ヒースは肩を竦めて溜息を吐いた。
「それじゃあ、行くわよ。貴方は、私の護衛として傍にいればいいから」
「了解」
 すたすたと歩き始めたエリナの後ろについて、ヒースも階段を下りていく。聖堂や舞踏会場などがある2階に着き、左右には曲がらずに、さらにまっすぐ行く。
 曲がるものだと思っていたらしいゲブラー二人が、すかさず自分達を止めた。
「そちらのお方、止まって下さい!」
「夜の外出は、危険ですのでお控え下さい」
 正面を遮るように立った神官二人は、先頭のエリナに丁寧な口調で口々に言った。それを疑問に思って、すぐ理解する。最上階から下りて来た時点で、ラウマケールに名を連ねる家の者だとバレているのだ。そして、身なりや動作が洗練されたエリナの方が貴族だと見抜き、自分ではなく彼女に声をかけた……と。
 自分達の行く手を遮った神官の二人に対し、エリナは少しだけ焦ったような声で訴えた。
「いいえ、今じゃないといけないの。お母様のお薬を切らしてしまったから。かかっているお医者様に、お薬をいただきに行かなくてはならないのよ」
「しかし、それなら明日の朝でも……」
「今、お薬の効き目が切れて、とても苦しそうなの。今じゃなければダメなのよ。お父様はお忙しいし、私が行くしかないの。強い護衛もついているし、大丈夫よ。……さぁ、私、急いでいるの!どいてもらえないかしら」
 エリナは、相手に言葉を挟ませる隙も与えず畳み掛けるように言い、そして最後の言葉を強い口調で言い切った。彼女のいらいらしている様子が、『急いでいることを裏付けていた』。
 二人の神官は困った顔で顔を見合わせ、それから後ろのヒースを見て、すっと左右に避けた。
「そういうことであれば……ですが、くれぐれもお気をつけて」
「ありがとう。さぁ、行くわよ」
「え、あ、……はい」
 二人が開けた真ん中を悠然と歩き出すエリナに声をかけられ、ヒースは思わずいつものように返事をしかけ、慌てて少し丁寧な言葉にした。一応、自分は貴族の彼女の護衛になっているのだから、それなりに敬意を払った態度でなければおかしいだろう。
 その態度がちゃんとできているか、非常に自信がなかったので、階段を最後まで降り切っても背後の神官達を気にし続けた。緊張で体が強張っているヒースに、エリナが呆れたように言った。
「いつまでそうしているつもり?」
「いや、まぁな……」
「でもさっきのはいい配慮ね。自然だったかどうかはともかく」
「あ~、ならよかった」
 前を向いて歩きながら、エリナが淡々とヒースの行動を評価した。それを聞いてヒースも安心し、肩から力を抜きながら辺りを見渡した。
「で、馬車は何処だ?」
 自分とは対照的に、周囲を見渡すことなくフェルシエラの門まで歩いていこうとするエリナに、ヒースは聞いた。するとエリナは、逆に不思議そうに彼を振り向いた。
「何言っているの?歩いていくに決まってるじゃない」
「はぁあ?? こんな夜にか?そうだったら昼間に出ればよかったじゃねーか」
「昼間は人の目が多いから、動きづらいでしょ。パーティや披露宴に全然出たことがないわけじゃないから、もしかしたら私のことを知っている人がいるかもしれないと思ったから」
「……へー……ってかお前、体弱いんだろ?大丈夫か?」
 そこまで考えていたのかと思い、呆れと感心の真ん中くらいの気持ちでヒースは相槌を打ち。ふと、重要なことを思い出して聞くと、さすがにそこは痛かったのか、エリナは一瞬の間を挟んだ。
「……そんなこと関係ないでしょ。大体、馬車なんか使ったらすぐに足がつく。そんな状態で、私が屋敷にいないことにお父様が気付いたら、馬車の御者が証言者になるわよ。灰色の髪の男が一緒に乗っていたって」
「うッ……そ、そりゃ確かにマズイな」
「でしょ?だから、歩いていった方が賢明よ」
 貴族の街フェルシエラで灰色の髪は珍しい部類だろう。そして、最近出入りした灰色の髪の男なんて、自分一人しかいない。御者にそんな証言をさせたらお終いだ。ラスタが追ってくる。
 エリナに説得されたヒースは、一見病弱には見えない、颯爽と歩くエリナを見た。……どうやら、今の会話と言い、さっきの神官達とのやり取りと言い、エリナは自分よりもずっとずっと頭が良いようだ。話術も巧みだし。
(こりゃ頼もしい策士様だ……)
「……で、とりあえず、何処に行くつもりだ?」
 夜空の下、フェルシエラの門の下を通り、平原に伸びる道を歩いていく。エリナは顎に手を当てて少し考えてから、斜め後ろを歩くヒースに言った。
「とりあえず……少しフェルシエラから離れた場所で、休憩しましょう。この近くに町や村はないの?」
「ん~、そうだな……確か、南の方にバレンって花の町があったな。あんまり遠くないし、ちょうどいいな。そこに行こう」
「ええ、………………あ……」
「ん?どうした?」
 少し先を歩いていたエリナが、ふと何かを思い出したように立ち止まった。並んだヒースが横から彼女の顔を覗き込むと、エリナは彼を見てから、少し気まずげに目を逸らした。
「……そういえば、まだ貴方の名前を聞いていないわ」
「あ、そうだったな。エリナって名前つけて、それで名乗った気になってたな」
「……ごめんなさい。今更だけど、教えてくれる?」
 目を逸らしたまま、エリナはヒースに言った。……が、しばらく返答がないので、ちらっと見てみると、彼は心底仰天した顔でこちらを見ていた。
「……何よその顔」
「……いや、お前も、謝る時は謝るんだな~って思ってな……」
 相手に無関心で冷ややかな印象を受けていたが、それなりにモラルも持ち合わせているようだ。失礼なことをさらっと言うヒースに、エリナは少しムッとしたように、
「どういう意味よ。私だって、良いことと悪いことくらいわきまえてるつもりよ」
「人を騙したり嘘ついといて言えるセリフか……?」
「何か言った?」
「いえ何にも」
 小声で言ったつもりだったが、聞こえていたらしい。自分を睨みながら言ってくるエリナに、ヒースは苦笑した。
「俺はヒース=モノルヴィーだ。22歳。最近、剣聖になったんだ」
「剣聖!? それじゃあ貴方、ほとんど向かうところ敵なしじゃない!」
「いや……それはどうだろうな。ラスタ様みたいな人もいるし。……じゃ、お前は?知ってるけど、自分で名乗ってみろよ」
 「剣聖」という言葉に驚くエリナに、ヒースは反応に困ってさり気なく話題転換した。話を振られたエリナは、今度は動揺の混じった驚きを示した。
 少しの間、エリナは驚いたままだった。ヒースが怪訝に思った頃に、エリナはようやく動き始め、すっと静かに胸に両手を当てた。
 一語一語、自分で確かめるように、エリナは言う。
「……私、は……エルウィヌナーシュ=セラエル。ラウマケール第三位……セラエル公、ルードジルの娘。19歳……よ。あとは……ない、わ」
「何だ、随分ぎこちないな」
 今更、初対面気分で緊張か?と思ったが、そういえば彼女は初対面相手に、二言目に「盗賊?」と聞いてきたのだった。緊張なんて皆無だろう。
 少し冷やかすように言うと、エリナは短い沈黙の後、視線をよそに向けて言った。
「……当たり前でしょ。私、自己紹介なんて初めてしたから、手法に自信がなかったんだもの」
「は?! おいおい、嘘だろ?」
「嘘なんてついてどうするのよ。普段から屋敷にいたんだから、自己紹介する機会なんてないに決まってるでしょ」
「いや、そうかもしれねーが……じゃあ、よかったな。いい経験しただろ」
「……おかげさまで」
 ヒースの前向きな言葉に、エリナは溜息を吐き、皮肉げにそう言った。
 それから彼女は、再びヒースを見た。強い意志を宿したアクアマリンの瞳で見据え、口を開く。
「なら、ヒース。改めてお願いするわ。私を海まで連れて行って」
「いいぜ、連れて行ってやるよ」
 ――即答。そこには、一片の迷いすらなかった。
 少しだけ驚いて、エリナはその無表情を微妙に変化させた。それに気付かないヒースは、はぁ~っと息を吐きながら頭を掻いた。
「もうこーなったら、お前の言うこと聞くしかねぇしなぁ……」
「…………そっちが本音でしょ」