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Doppelganger 01 青年と少女

 剣術を教えてくれた恩師は言っていた。
 常に上を目指し、決して驕るなと。驕ったその時から剣は衰えていくと。
 それを座右の銘に、今日まで生きてきた。ほとんどの相手は蹴散らせるようにはなったが、それでもあまり自信がなかった。剣聖だった恩師に勝った時に、ようやく自分は割と強くなったのだと知った。

 が、やはり上には上がいる。恩師に勝てたのは運だったようなものだし、今、目の前で鋭い気配を醸している相手には毛ほどの隙もない。
(おいおい……俺が仕掛けるの待ってんのか?隙なんか全然見せてないくせに、無茶言うなよ……)
 内心で溜息を吐くが、一瞬足りとも相手からは注意を逸らさない。相手は32歳だと聞いていたが、予想以上に若々しい銀の短髪の男。シンプルだが高貴な服に身を包んだ男の紫眼は、自分と同じようにこちらから外れることはない。
 現在、フェルシエラのラウマケール第一位に座する、レミエッタ公爵家。剣の一族と称される、その現当主・ラスタ=アラン=レミエッタ。
 その彼と対峙する、22歳のヒース=モノルヴィーは、ピリピリした緊張感の中、そんなことを思っていた。
 貴族のラスタと違って、庶民的な格好をした男だ。手入れが行き届いているとは言えない短い灰色の髪と言い、黒い服の上に乱雑に着た青緑のロングコートと言い、貴族が住まうこのフェルシエラ……しかも最上階では非常に浮いていた。
 そんな男が、大剣を正眼に構え、剣を引いて構えるラスタと真正面から対峙している。傍から見れば妙な光景だった。この状態がすでに5分は続いている。
(仕方ねぇ……先手必勝とも言うし、お望み通りやってやるかっ……!)
 ヒースは大きく踏み出して勢いをつけ、剣を突き出した。こちらが微動した瞬間に動き出していたラスタは、左半身を反らしてそれを避け、攻撃をかわされ隙が生まれたヒースに向かって、すかさず前へ跳ぶ。
 ――速い。内心で焦りながら、ラスタの足が地面から離れると同時に、ヒースは大剣を横薙ぎした。予想外の迫る刃に対し、ラスタは否応無しに剣でそれを受け止めさせられる。
 ラスタはその剣を跳ね上げる。大剣の重量も相まって思ったより上げられなかったが、剣身から刃が引けばそれでいい。
 軽くなった剣先を、ヒースの喉元に向けて神速で突き出し、寸止めする。
「………………」
 どう足掻いても死ぬだろう状況に相手を追い込んだ時点で、勝敗は決まる。今、相手は、まさに詰んだところだろう。
 ……しかし。それはどうやら、自分も同じようだ。
 横目で左側を見ると、頭スレスレのところに、大剣の刃があった。こんなゼロ距離で寸止めしたヒースに、ラスタは内心で感心した。
「……さすがは剣聖、か」
「いや、そんなことは……ラスタ様も噂通りですね。マジで速すぎて、本気で負けるかと思いました」
 ラスタが剣を下ろしてから、ヒースも大剣を引いた。ふぅ、と肩で息を吐く。他人に脅威を感じたのは、久しぶりだった。
 剣を収めると、ラスタはヒースに手を差し出してきた。
「挨拶が遅れたな。私は、ラウマケール第一位レミエッタ公ラスタだ。突然呼びつけてすまない。新しい剣聖が生まれたと聞いて、ぜひ手合わせしたかったのだ」
「俺もですよ。ラスタ様の噂はよく聞いてましたから、気になってたんです。……あ、俺は、一介の庶民のヒース=モノルヴィーです」
 拙い敬語でそう答え、ヒースも差し出された手を取り、握手を交わす。自分が貴族と同じ場所に立つことはないと思っていたのに、なんだか変な感じがした。

 ――事の始まりは、自分が剣聖になったことだ。
 数日してそれが徐々に広まっていったらしく、挑戦してくる者が後を絶たなかった。しばらく経って、ようやくそれが落ち着いてきた頃、1通の手紙が届いた。それが、レミエッタ公ラスタからの挑戦状だった。
 ラスタは地位の事情もあって、私的な理由では自由に動けない。申し訳ないが、フェルシエラまで来てほしいとのことだった。
 レミエッタ公ラスタと言えば、実力で順列されるフェルシエラのラウマケール第一位、そしてシャルティア軍総帥も務める男。迷うことなく了承の返事を書いた。
 そして今、一般庶民の自分は、招待という形で、貴族の街フェルシエラの最上階にいる。
(人生って、どう転ぶかわかんねぇな……)
 今更そんなことを思って、手を下ろしたヒースの背後。
 不意に、小さな気配が生じた。
 かすかな殺気。肩越しに見てみると、小柄な影が飛びかかって来るのがかろうじて見えた。
 前に一歩出て後ろに向き直りざま、一度収めた大剣を抜き放ち、掲げられた相手の剣を横から薙いだ。硬い手応えとともに存外あっさり、剣は吹っ飛んでいく。どうやら相手の握る力が弱かったらしい。
 そうしてから、初めて相手の姿を見た。
 衝撃で痺れたのか、細かく震える手を呆然と見つめるのは、まだ10歳ほどの少年だった。さっきまで自分が対峙していた者とよく似た銀髪と、質の高い服を着せられているようなその姿を見る限り、どうやらラスタの子のようだ。
「……悪ぃ、ちょっと強かったかもな。大丈夫か?」
 手加減なしで振ったので、子供の腕にはまずかったかもしれない。ヒースがそう声をかけると、少年は顔を上げ、キッと、ヒースをダークブルーの眼で睨みつけた。
「死ねてめー!!」

 ゴ ンッ!!!

 少年の声がした直後、それに迫らん勢いの音量で、物凄く硬そうで、それでいて何処か生々しい音が響いた。
(…………おいおい……いいのか?)
「ディアノスト、口の利き方に気をつけろ」
 その少年の傍に突如現れたラスタが、手に持った鞘に収められた剣で少年の頭を殴ったからだった。頭を抱え声もなく悶える少年。見る限り、手加減なしに殴っているように見えた。
 少年が、今度は父を睨みつけると、ラスタは淡々と事実を言う。
「未熟なお前が悪い。私は気配を消し、歩いてきただけだ」
「もう、ラスタ様、あまりディアノストをいじめないで下さい」
 ふと、第三者の女性の声が滑り込んだ。横の方から歩いてきた長い金髪の女性は、「痛かったでしょう?」と少年の頭を撫でる。一瞬見えた横顔で、その瞳がダークブルーであったことから、恐らくラスタの妻、少年の母親だろう。
「母上……」
「でも確かに、お客様にその口の利き方はいけませんよ。直らないようでしたら、使用人さんに言って、貴方の嫌いなニンジンを増やしてもらいますからね?」
 女性がにこやかに脅し文句を言うと、目付きの悪い少年は少しだけ顔を強張らせた。脅し文句に使っても効果があるくらいのニンジン嫌いのようだ。
 参ったように黙り込んだ少年から視線を外した女性は、ヒースを見て微笑んだ。
「初めまして、ヒース様。レミエッタ公ラスタの妻・アリシアと申します。この子は、息子のディアノストです。以後、お見知りおきをお願いいたしますね」
「えーっと……ご丁寧にどうも。こちらこそ、初めまして」
 柔らかな物腰で挨拶をするアリシア=レミエッタに、ヒースは頭を掻いてから、無難だと思う返答をした。この屋敷に来て最初に、ラスタに「無理に敬語を使う必要はない」と言われたが、大貴族相手に普段の口調はいくらなんでも無遠慮すぎると思って、なんとも稚拙な敬語を使っている。そんな自分と違って、丁寧な敬語を当然のように使いこなすアリシアを見て、貴族と庶民の違いを思い知った。
「ほら、ディアノストもご挨拶なさい」
「やだ」
 アリシアに肩を叩かれた少年――ディアノスト=ハーメル=レミエッタは、きっぱり即答すると、だっと横の方へ駆け出した。それを目で追うと、すでに彼は屋敷の入口の前にいた。思ったよりすばしっこい動きに、ヒースは心の中で感嘆した。
「ディアノスト!もう……本当に、あの子ったら、まったく言うことを聞いてくれません」
「放っておけ、無理に束縛するな」
 ふぅと溜息を吐くアリシアに、ラスタはそう言い放つと、ヒースを振り返った。
「ヒース、今日はわざわざ足を運ばせて申し訳ない。急いで帰るなら止めないが、我が邸宅に宿泊しないか?歓迎しよう」
「あ、いいんですか?それじゃあ、お言葉に甘えて、泊まっていきます」
 確かにそろそろ日が暮れかけているし、自分の住むアルフィン村までは、早くても半日ほどかかる。その申し出は非常に有難かった。
 それに、翌日になったら、またラスタと手合わせをするチャンスがあるかもしれないし。もう一度やってみたいと思うヒースであった。

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 問題は、その後だ。
「…………………………………………………………………………迷…………った……」
 眩しいくらいに明かりを反射する床の廊下の端で立ち止まり、ヒースはげっそりと呟いた。目の前の壁には鏡があり、だらだらと冷や汗をかく自分の顔が映っていた。
 あの後、屋敷は自由に歩いていいと言われ、せっかくだからと回っていた……の、だが。宿舎の棟は一本道だからまだ平気だったが、敷地の真ん中に建つ一際大きい棟は、道を覚えるのがめっきりダメな自分にとってはもう大迷宮だった。
 何処をどう通ってここまで来たのかわからない。いつもなら人を捕まえて案内を頼むのだが、見渡す限り、今、周りには誰もいない。
(……おいおい……これって、やっべ~んじゃ?一生、誰も来なくて餓死とか?剣聖ヒース=モノルヴィー、レミエッタ公爵家奥で衰弱死……はっはは~……有り得なくもないから笑えねぇーー!! マジでそーなったら間抜けすぎる!無念すぎて化けて出る!そしたらラスタ様に成敗されるの確定だな!二度死ねってか?!)
「ああもう知らん!! とりあえず進めばいつかどっかに出るっ!!」
 二度死ぬのは勘弁してほしい。わけのわからない妄想を打ち切り一人で言い切ったヒースは、手始めにすぐ横にあったドアを開けてみた。
 すると、ドアの向こうから、ふわりと風が背後へすり抜けていった。驚いてすぐ、ヒースは「おお!?」とドアの向こうへ飛び込んだ。
「よっしゃ、ツイてるな俺!餓死しなくて済んだ!」
 ドアの向こうは外だった。芝生の上に飛び出し、ヒースはホッと息を吐いた。とりあえず外に出ることができたなら、なんとかなるだろう。
 そこは、やけに狭い空間だった。というのも、目の前に塀らしい壁がそびえ立っているからだ。建物で言うなら、2階建てほどの高さがありそうだ。どうやら敷地の端に出たようだ。
 屋敷を振り返り、登れそうな場所がないか探すが、さすがレミエッタ公爵家。外部からの襲撃も考慮してか、掴まれるような突起が1つもない。
「しゃーねーか……ま、蹴って壊れるくらいヤワじゃねぇよな?」
 あまりスペースがないのが心許ないが。ヒースは塀の壁に背をつけて、深呼吸をした。
 そこから瞬間的にトップスピードまで上げて駆け出し、1階と2階の境くらいの高さを狙って屋敷の壁に跳んだ。振り返りざま、その壁を力強く蹴り、向かいの塀の縁に向かって跳んだ。
 伸ばした片手が、かろうじて縁を掴んだ。重力に引っ張られ、ヒースの体は塀の縁からだらんとぶら下がる。
「……っと……あー、届かねーかと思ったぜ……ういっしょ」
 一息吐いてから、ヒースは塀の上に這い上がった。塀の厚さは思ったよりあったのでそこに座り、景色を眺めながら少し休憩する。
 塀の向こうには、公爵家の隣家だろう敷地が広がっていた。少し左の方に屋敷、目の前には噴水を中心とした庭園があった。どうやらこのフェルシエラでは珍しく、園芸が趣味の貴族らしい。
「よっし、行くか……」
 塀伝いに歩いていけば、恐らく入口方面に繋がっているだろう。ヒースは、猫のように塀の上を歩いていくことにした。
 塀の上では、少し強い風が吹いていた。それに気をつけつつ歩いていくと、隣家の屋敷に差し掛かった。
「……ん?」
 何気なくその屋敷に目をやった時、2階のバルコニーに誰かがいることに気が付いた。少し足を止めて、よくよく見てみると……その人物は、手すりに座っていた。
 前方になびく、ラベンダー色の長い髪。風を受けていたそれがふわりと落ち着くと、その横顔が見えた。淡いローズのワンピースを着込んだ体つきを見る限り、女性だ。
 服装と言い、体つきと言い、鍛えているようには見えなかった。いやそれ以前に、随分と痩せていて、肌も白く、あまり健康的じゃないような……。
 その姿は、空の夕焼けも相まって、ひどく儚いものに見えた。
「おい、そんなとこに座ってると危ないぞ?」
 塀の上に座り込み声をかけてみると、女性がこちらを振り向いた。思っていたよりずっと若く、彼女は20歳前後に見えた。
 まさかこんなところに人がいるとは思わなかったのだろう、澄んだ淡青緑
アクアマリン
の瞳が驚いたようにこちらを見つめてくる。
 自分だって場所的には人のことを言えないが、万が一落ちても、自分は受け身などで対応し切れる。が、彼女は、どう見ても素人だし、落ちたら危険だ。それにバルコニーは風通しがいいし、突風が吹けば危ない。
 そんなことを思っていると、少し落ち着いたのか、女性は静かに問うた。
「……誰?盗賊?賞金稼ぎ?」
「真っ先にそー来るのかよ……まぁ今んとこ、賞金で生計立ててんのは確かだ」
 女性の冷ややかな問いに、ヒースはそう答えた。確かに今、自分は俗に言う賞金稼ぎだ。剣の修行で忙しかったし、ろくな仕事も持っていない。そのうち教団のゲブラーにでも入ろうかと思っているが、大っ嫌いな「勉強させられる」ということが非常に引っかかっていて、なかなか踏ん切りがつかない。
 女性は流れる髪を押さえて、無表情のまま刺々しい口調で言う。
「そんな身分で、よくここまで入ってこられたわね。貴方、自分が何処にいるのかわかってる?」
「フェルシエラの最上階だろ?確かに普通じゃ入れねぇな。けど俺は、今回ラスタ様に招待受けたから例外だ」
「ラスタ様の……?! 貴方……何者?」
「まぁ、ちょっと剣の腕が立つ賞金稼ぎだな」
 ラスタの名前を出した途端、彼女が目を見開いたところを見ると、当然だが彼女も貴族のようだ。それも、この階にいることから察するに、ラウマケールに名を連ねる大貴族のご令嬢だろう。
「それはいいから、早いとこそっから下りろよ」
「貴方こそ、危ないところにいるじゃない」
「俺は落ちても対処できるからいいんだよ。いいから下りろって。下手すりゃ死ぬぞ?」
「いいわよ、別に」

「…………へ?」
 ……一瞬の間も置かずに返って来た一言は、さすがに予想外で。ヒースは目を見張って、正面に向き直った女性を見た。冷えてきた風に煽られながら、横顔の彼女は言う。
「死ぬんだったら死ねばいい。それが運命なんでしょ?」
「……お前、運命なんてそんなわけねぇだろ。 大体の死は不注意で起こるものだぞ」
「ふーん、そうなの。なら、病も不注意から起きるの?」
「そりゃ……うわっ!」
「!」
 冷え切った女性の声に返答しかけた時、急に強い風が吹いた。塀に手をついて体を安定させるヒースの見る前で、女性の体がふわりと宙に浮いた。
「おいっ……!?」
 落ちる。そう思った瞬間に、ヒースはぶら下げていた足で塀の壁を蹴り上げ、飛び出していた。
 体勢を立て直して、スライディングしながら手を伸ばす。バルコニーまでさほど距離はなかったが、間に合わない気がした。
(間に合えッ……!!!)
 ローズ色の残像に必死に伸ばした手が、何かに触れた直後。
 腹部を衝撃が貫いた。
「ごふぁっ!!?」
 大きな釘でもぶち込まれたような感覚だった。まったく身構えていなかったから、もろに食らった。一瞬死んだ。
「……っ痛ぅ~……」
 ちょうど胃付近に入ったので、びっくりした胃が中身を逆流させようとする。それをこらえながら、顔をしかめて目を開けると、自分の上に女性がうつ伏せに乗っていた。一応差し出していた両手は、あまり役に立っていなかった。
 彼女自身はひどく軽かった。そのやせ気味な外見よりも軽く思えた。衝撃に負けたヒースは、ぽかんとした様子の女性に声をかけた。
「おい、大丈夫か……?」
 呆然としていた女性は、その声にはっとした。上半身を起こし、その至近距離からキッとヒースを睨みつけ、彼の襟首を掴みあげて言った。
「どうして助けたの?! 死ねたかもしれないのに……!!」
「はぁあ??」
 冗談としか聞こえないことを真顔で言ってくる女性に、ヒースは思わず呆れ顔になった。
「お前、自殺願望でもあんのか?まぁとりあえず助かったんだから、喜んどけよ」
 人を助けて、こんなふうに怒られたのは初めてだ。真に受けて相手にするのも面倒だったから、溜息を吐きながらそう言って、彼女のラベンダー色の頭をポンポンと撫でた。
「……っ!? な、何するのよ?! 無礼者っ!私を誰だと……!」
 一瞬遅れて、その手を女性が振り払った。なぜ払われたのかわからず不思議そうな顔のヒースに、女性は動揺した様子で言って、途中で口を閉ざした。
 混乱が見て取れるその表情が、何処か泣きそうに見えた。
「……おい、大丈夫か?泣きそうな顔してるぞ」
「っそんな顔してない!さっさといなくなってよ!!」
 指摘された女性は、今までの冷淡な態度とは一変して、急に感情的になった。
 立ち上がってヒースの上からどき、そう言い捨てると、女性は足早に屋敷の中に引っ込んだ。

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

「……かわいくねぇ……」
 昼間の出来事を思い出し、ヒースは小さく呟いた。
 思い返してみても、ひどい態度だ。助けたのに礼の1つもなし。まぁあちらさんには、ありがた迷惑だったのようだから、礼を言う義理はないかもしれないが。
 夕食の席。非常に慣れないナイフ&フォークの食事だが、ヒースはフォーク1つで食べている。テーブルマナーの「テ」の字すらかじっていないヒースがこの食事を見て思わず青ざめたら、「テーブルマナーなど気にしなくていい」というラスタのありがたい一言がかかった。
 それ以上に、正面から容赦なく放たれてくるナイフ&フォークの存在が大きいのだが。
(なんか、すげぇ敵対心燃やされてるな……)
 それらを首を傾けたりするだけで回避したり、自分のフォークで横に弾いたりするヒースは、えらく悪い目つきで睨んでくるご子息を見て思った。彼の手元には束のナイフ達。何処からそんな数を集めたのかと思ったが、どうやら厨房から盗み出したらしい。
 ふと突然、横の方から、銀の一線がノストの前を通過した。ピタリと動きを止めた彼の鼻先を掠め、そのまま壁に突き立ったのは……やはりナイフ。
「ディアノスト、いい加減にしろ。さっさと食え」
「ヒース様に遊んでもらいたかったら、夕食を食べてからにするのよ」
 それを放ったラスタが厳格な口調で言うのに合わせ、動じることなく食事していたアリシアも微笑んで言う。新しいナイフを持ってきたメイドからそれを受け取るラスタを見て、ヒースは苦笑いした。
 貴族は優雅に食事するものだと思っていたが、とんだ妄想だったようだ。この家が特殊なのか、テーブルマナーなんてもはや皆無だ。ノストはもちろん、ラスタまで躊躇なく食器であるはずのナイフを投げるなんて。しかしそれでも、やはり彼らのテーブルマナーは完璧だが。
 ノストはヒースを睨みつけたまま、ナイフとフォークを手に取ると、今度はそれを自分の手元の料理に向けた。幼い頃からしつけられているらしく、やはりマナーはちゃんとできている。とりあえずこのご子息が、非常に自分勝手なワガママっ子であることは、よくわかった。
 ノストが静まったことで、ヒースはやっとスープに手を伸ばした。動くとこぼれるスープは、今までなかなか飲めずにいた。それを一口飲む彼に、煮込んだ肉を新しいナイフで切るラスタが言う。
「不肖の息子がとんだ失礼をしたな。申し訳ない」
「いや、全然気にしてませんけど……息子さん、いくつですか?」
「先月、10になった」
「はー、それでこの動き、あの身のこなしですか」
 ふと気になったので聞いてみて、ヒースは正面のノストをまじまじと見て感心した。まだまだ小柄なノストは相変わらず、非友好的な態度のまま睨んでいる。
 さっきの銀器の射出技術と言い、昼間の奇襲の際の動きと言い、弱冠10歳でここまでとは。将来が楽しみだな、と思った。
 が、親のラスタは、本人の前で淡々と言った。
「まだまだだ。少しばかり人より優れている程度で、己の未熟さを理解していない。だから先ほどの、貴公に襲いかかるようなマネをする」
「あぁ……それはちょっと、考え物かもしれませんね。相手の力量を知った上で、挑むか引くかを見極めることも大事ですから」
「その驕りは、いつか己に跳ね返ってくるだろう。ディアノスト、肝に銘じておけ」
 そう言われた本人は、聞いているのか聞いていないのか、よくわからなかったが。
 フォークの先に刺された魚の蒸し煮を口に運び、ヒースはふと聞いてみた。
「あの、ラスタ様。昼間、屋敷を回ってたら、隣の家の令嬢らしい人が見えたんですけど……あの人、誰か知ってますか?」
 あの澄んだ瞳は、冷ややかで虚ろだった。しかし頭を撫でた途端、感情的な態度になったのが、やけに引っ掛かっていた。
 助かったのに怒るし、変なところに座ってるし。とにかく、変な奴だ。
 何処かの貴族令嬢であることは間違いないので、実質フェルシエラを仕切っている彼なら知っているだろうと思って聞いてみた。すると、上座にいるラスタはヒースから視線を外し、ヒースの向かいのアリシアを見た。
「そういうことなら、アリシアの方が詳しいだろう」
「ふふ、そうですわね。ラスタ様は、ご令嬢様たちとはあまり面識がありませんものね。ヒース様、その方の外見の特徴を覚えていらっしゃいます?」
 長い金髪が流れる肩を揺らし、口元を隠して笑うアリシアに問われ、ヒースは「あー……」と少し言葉をまとめてから答えた。
「そーですね……ラベンダーの髪で、ちょっとやせすぎのような気もする人でした」
「あぁ、お隣のエルウィヌナーシュ様ですわね」
「……え、エル……?」
「エルウィヌナーシュ様、ですわ」
 予想もしなかった不思議な音の配列の名前に、ぱちくりと瞬きをするヒース。彼の胸中を察したアリシアは、微笑んでもう一度言った。……が、道すら覚えられない自分に、覚えられるわけがない。
 いつの間にか完食していたラスタが、紅茶のカップを持ち上げて言った。
「エルウィヌナーシュ=セラエル嬢か。顔は知らないが、混沌神語で<秘める温かな心>という意味を持つ名らしい。父親のセラエル公がそう言っていた」
「はあ……」
 ……<秘める温かな心>。冷淡な態度のアイツの何処が?と思ったが、心だけに留めておいた。
「セラエル公爵は、現在のラウマケール第三位の貴族だ。セラエル公ルードジルは、格闘術に秀でた猛者。……だが、ただ1つ、問題があってな」
「問題……?」
「セラエル公爵様には、お子様がお一人しかいませんの。そしてその一人が、エルウィヌナーシュ様なのですけれど……」
 と、アリシアは残念そうに少し語尾を濁した。その様子で、その先がなんとなくわかった。
「ヒース様がお察しの通り、彼女は生まれつき病弱なのです。よくご病気にかかってらっしゃいます……ですから、公の場にはあまり出席なされません。いつもお屋敷にいらっしゃるそうですわ」
「………………」
「父親とは打って変わって、非常にか弱い方だと聞いている。医者には、もうあまり長くないとも言われているそうだ。……つまり、セラエル公には跡継ぎがいない。来年の編成時には退位するつもりだと言っていた」
 ――フェルシエラのラウマケールは、3年に一度、編成が行われる。それで順位が変更になったり、あるいは退位したり、あるいは位を頂く。
 順位は、実力派の貴族達にはふさわしい決闘と言う形で決められる。それですべての相手を下した者が、ラウマケール第一位の座に就くのだ。
 そしてラスタは、今までに4度の編成を勝ち抜いてきた。それまでは毎回の如く変わっていた第一位が、これほど長い間安定しているのは初めてだと言う。ラスタがいかに凄まじい剣の使い手か、よくわかる話である。
「エルウィヌナーシュ様……きっと、寂しいでしょうね。あまり人前に出ないということだけでなく、自分が必要とされていないような、そんな思いさえ抱いてしまうでしょうに……」
「………………」
 頬に手を当てて、悲しげに言うアリシアの声は、すでにヒースの耳には入っていなかった。

『ふーん、そうなの。なら、病も不注意から起きるの?』

 人の死が不注意で起こるものだと言った自分に、彼女は平坦な口調でそう聞いてきた。
 気を付けていても病気にかかってしまうだろう彼女は、あの時、何を思っていたのか。

『どうして助けたの?! 死ねたかもしれないのに……!!』

 バルコニーから落ちた彼女を助けた自分に、彼女は怒った口調でそう言ってきた。
 生きる目的も気力もなくしてしまっただろう彼女は、あの時、何を思っていたのか。