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99 Polaris星は巡る
———その昔、神が死んだ。
神の死とともに、世界も滅んだ。
そこには何もなくなった。
その虚無に残った、神の子がいた。
神の子は、自らを代償に、世界を同じ形に復活させた。
この世界は、神の子によって生かされた、新世界である。
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「またそれ読んでるのか?」
声をかけられて、自分の世界から帰ってくる。
振り向くと、10代半ばの男の子が呆れた顔でこっちを見ていた。
「お前が読んでばかりいるから、その本の角がへたれてきたぞ」
「えっ!? ご、ごめん! 」
「……冗談だって。お前、俺より熱心だし、俺の代わりに神官やらないか?」
「あはは……まだまだ、アテル君の方が詳しいよ」
「詳しいだけで信仰しているわけじゃない。昔の人の作り話としか思ってないぞ。それに、教団内に昔からある伝説では、一般の剣士が神を倒したとも言われてる。どっちも眉唾ものだけどな」
エメラルドグリーンの短髪を掻いて、アテル君は嘆息混じりに言う。
思わず、聞いた。
「……アテル君は、作り話だと思う?」
「そう言われても……真実だったところで、それは千年前の話だ。今の時代の俺には信じる証拠が……って、な、なんでそんな寂しそうなんだよ?お前は笑ってた方が……あああなんでもない!!」
「えっ?あ、ごめんごめん、なんでもないよ!」
アテル君が戸惑った反応の後、なぜか顔を真っ赤にして言った。ぼんやりしてて後ろの方は聞いてなかったけど、気を遣わせたらしいから慌てて笑ってみせた。ど、どうかしたのかな……。
手に持っていた本を閉じて、『私』は話題転換を兼ねて、うんっとひとつ頷いた。
「お昼ごはんにしよっか!パスタでいい?」
「すっかり台所の主だな……いいよ。いつも悪いな、ステラ」
「ううん!こちらこそ、ここに置いてもらってて、ありがとう!」
「お、おう」
私が感謝の気持ちいっぱいで笑いかけると、アテル君はちょっと恥ずかしそうに顔を背けた。……アテル君、たまに顔が赤くなるけど、大丈夫かな?持病?なわけないか……。
目の前の本棚に本を戻す。本棚には、教団関連の本がたくさん詰め込まれていた。
ちょっと見渡すと、この一軒家のあちらこちらにも本棚があって、そのどれもがこんなふうな有様だ。全部、アテル君のお母さんのものらしい。
台所に行く途中、壁掛けの鏡の前を通りかかった。立ち止まって覗くと、淡い茶色の髪の女の子が、山吹色の瞳でこちらを見ていた。うん、いつもの私だ。
淡い水色のワンピースに、青緑のマント。マントはアテル君の古着だ。
ひとつ頷いて、私はぺちんと顔を両手で叩いた。
「さてと、がんばりますかっ!」
台所に立って、パスタを作り始める。最初この家に来た時、ほぼ一人暮らしのアテル君のご飯は……こう言っちゃなんだけど、ご飯じゃなかった。素材をボリボリ食べてる感じ。
栄養が〜!とか、もっと人らしいご飯を〜!とか思ったから、私が自分から作り始めた。前よりご飯らしいものは食べてるはず!料理は得意な方!
段取りよく作り終えて、ほかほかなカルボナーラが完成。うむ、いつもより盛り付けが綺麗にできたぞっ!
それを居間のテーブルに置いて、ふと顔を上げると、壁に貼られた世界地図が目に入った。
私は、フォークを持ってきてくれたアテル君に聞いた。
「アテル君のお母さんが務めてるのは、何処だっけ?セントラクス……じゃなくて、えーっと……」
「……ダオールだ」
「あっ、そうそれ!ここだね!」
地図上で、『つい探した場所』にその地名があったから、すぐ見つけられた。思わず地図に駆け寄って地名を指差し、ちょっとホッとして笑うと、席に座ったアテル君が吐息混じりに言う。
「そんなんで大丈夫かよ……前も言ったが、セントラクスはダオールの前身だ。それも500年前のな」
「そ、そうだっけ……なんか、つい最近、変わった気がして……」
「何言ってんだ……前も、千年前の剣豪が父親だとか言い出すし……お前、『千年前から飛んで来た』みたいだぞ」
「え、えへへ……私すごいね!」
「呆れてんだよ!」
「ほ、ほら冷めないうちに食べちゃおう!」
アテル君から冷静なツッコミをもらってから、私も席についた。
熱々のパスタを二人で食べ始める。う〜ん、たまには具材変えてみようかな?いつも同じ材料になっちゃうんだよね……。
とか思いながら食べてると、アテル君が眉間にしわを寄せていた。えっ、口に合わなかったかな!?
「……ステラ、本当に行くのか?」
「あ……うん。ずっとここにお世話になるわけにもいかないし」
「お前の生活能力が高いのはわかった。だが、また追いかけられでもしたら……」
「大丈夫だよ、私、結構逃げ足速いんだから!いつもアテル君が助けてくれてたから、見たことないと思うけど!」
本気で心配してくれているアテル君に、私はぐっと拳を握り笑って見せた。
……そう。私は今日、3ヶ月お世話になったアテル君の家から旅立つんだ。
見たいもの、知りたいことがたくさんあって……、それに……。
「まぁ、確かにお前の身体能力は意外と高いと思ってるが……」
「でしょ?大丈夫大丈夫!さ、ご飯食べたら旅立つよ!」
「ああ……」
私が話を打ち切ると、アテル君は歯切れの悪い返事をして、食べる手を再開させた。……私のことを案じてくれながらも、アテル君がついて行くと言い出さないのには、理由がある。彼には彼の人生があるから、それでいいんだ。
ご飯を食べ終わって、いつも通り片付けをして。
「さてと、行きますかっ!」
私は、ちょっと隣町に出かけるような気軽さで、玄関のドアを開けた。
アテル君の家は、ハリマという村の奥にあって、玄関を出ると村全体が見渡せるいい場所だ。アルフィン村みたいなのどかさがあって、私はこの村が好き。
いつも通り、鶏さんや牛さんが普通に歩いてる村の景色が見えると思ったら、家の前に人が立っていた。薄いピンクのロングヘアーの女の子だった。
「あれっ、ミリエちゃんっ?!」
「ミリエ!? お前、なんでここに……」
私が驚いて声を出すと、後ろからアテル君が飛び出して、女の子の傍に駆け寄った。
……素早い行動。アテル君の気がかりは、この子だ。
いつもきょとんとした顔をしているミリエちゃんは、ぽやんとした目でアテル君を一瞥して言った。
「今日は……調子が良いから。ステラ君が……アテルの毒牙にかかってないか心配で……」
「ばっ……!!!」
「アテル君の毒ガニ……?アテル君、そんなもの持ってるの?」
「お……お前もなぁ……」
あわあわ慌てた様子のアテル君に聞いたら、なせか盛大に呆れられた。な、何か変なこと言ったかな??
首を傾げる私の前にミリエちゃんは近付いて来て、ふわっと微笑んだ。う〜ん、ほんとお人形さんみたいに綺麗で可愛い!
「……ステラ君の旅立つ日だから……間に合ってよかった」
「あっ、見送りに来てくれたの?ありがとう!」
ミリエレーナちゃんは、ハリマ村の地主さんの子なんだけど、生まれつき少し体が弱いそうだ。アテル君とは幼馴染で、昔からミリエちゃんの面倒を見ていたから妹みたいなものらしい。いつもおかしなやりとりをしてるけど、とても大事なのは聞かなくても伝わってきた。
ふと、ミリエちゃんが私の両手をとった。ぎゅっと握って、私の目を見て言う。
「ステラ君……道中、気を付けてね。遊びに来るの、ミリエレーナは……待ってるから」
「うん、もちろん!アテル君、ミリエちゃんをよろしくね?」
「あぁ。ステラも、本当に気を付けろよ?」
「はーい。アテル君、3ヶ月間、本当にありがとう!また来るね!」
アテル君からもらったお古のかばんを背負い直し、私は二人に大きく手を振って歩き出した。
すれ違うお兄さんや、家の窓際にいるおばあさんにも手を振って、陽気にハリマ村を出る。うーん、すっかり馴染んじゃったなぁ。
ハリマ村は、ナシア=パント樹海の中にある。鳥や動物の声が響き、さわさわと枝葉が太陽と風と踊る森だ。樹海を貫く土の道を、私はウキウキしながら進む。いい天気だな〜、ピクニックでもしたい気分!ご飯持ってきてないけど!
とか思いながら歩いていくと、森の出口辺りに、見知らぬ男の人が木に寄りかかって立っていた。
彼は私を見て、はっと身を起こした。……う、いやな予感……。
「お前は……ルナ!? この辺りで目撃されたと聞いて張っていたが、まさか……」
「あ、あはは……やっぱり……」
驚いた顔で言う男の人。予感的中で、苦笑いするしかなかった。
私はキリッと顔を引き締めて、一足先に行動に出た。先手必勝!
「だから、私はルナさんじゃないですっ!!」
———拡いて、クロムエラト。
私は、捕まるわけにはいかないのっ!
私の背に、透明な蒼い翼が生えた。
ぽかんとしている男の人の前で、氷の粒で構成された羽をはためかせて、私は一気に空高く飛翔する。肌に触れる大気が、暖かな春風からひんやりとした冷風へと変わる。
彼が米粒みたいな大きさになってから、私はやっと息を吐いた。はぁ〜、危ない危ない……でも空の上って寒いから、早くどこかに降りよう……。
≪派手な逃げ方ね。もっと自然にかわせたでしょう?≫
「と、とっさに浮かばなかったんですもん!でもでも、絶対あとで何処かで噂されちゃいますよね……」
真横から、女の子の声が呆れ気味に言う。ほんと言う通りすぎて、私はうう~っと頭を抱えた。やっちゃった〜!!
≪噂されたところで、人間が飛んだなんて誰も相手にしないわよ。けれど、しばらくは控えた方が賢明ね≫
「うう、気を付けます……」
隣を振り向いて、私は反省いっぱいに言った。
空の青が透ける金髪。なだらかに波打つ髪を飾りのようにまとう女の子が、そこに浮いていた。淡い桃色のワンピース姿も、幽霊のように透けていた。
彼女の山吹色の双眸を見つめて、私はふと聞いてみた。
「そういやカノンさんは、半実体ですけど、寒いとか感じるんですか?」
≪何も感じないわ。そこにいるのは、私の影みたいなものだもの≫
「へ、へぇ……わかったような、わからないような……」
影ということは、自分であって自分ではないってことかな……確かに影を踏まれても痛くないもんね。
そんな雑談をしながら、私は降下して、広い平原の小高い丘に降り立った。蒼い羽は幻のようにさあっと消えていく。
顔を上げて、太陽の眩しさに目を細める。手で日差しを避けて、眼前に広がる景色に声をのみ込んだ。
何処までも真っ青な空の下、地平線に霞む遠くの街の影。点在する森には、遠目からでもわかるほど花が咲き乱れ、その間を埋めるように存在する村々からは、鶏の鳴き声や焚き木の煙が上がっている。少し遠くの湖はキラキラと水面が輝いて、さざ波ひとつひとつが宝石のようだった。
「うん……世界って、綺麗だなぁ……」
そして、広いなぁ。そんな当たり前のことを、私はしみじみと思った。
かばんから地図を取り出し、太陽で方角を確認してから、私は風渡る爽やかな平原を進む。
千年前、神様が死んだ。
世界も滅んだけど、神の子が復活させた。
神の子は消えたけど、いつの日か再臨し、世界を祝福する。
この国で今、信仰されているアテルト教はかく語る。
……ちなみに、アテル君の名前の由来はその教団名から来てるらしい。信仰心が薄い本人は複雑そうだったけど、古い言語で<祝福>って意味なんだよって言っておいた。
で。
私がその、神の子なんだって。
……全っ然、覚えてないけど。
私は、3ヶ月前、ナシア=パント樹海の中で目が覚めた。……らしい。
そこを、通りかかったアテル君が拾ってくれたんだけど……どうも私の記憶と、今の世界が一致しない。
私の記憶では、私はシャルティアという国のアルフィン村で生活してて、ヒースというお父さんがいるはずだった。
でも、ここはテルメアという国で、アルフィン村は存在しない。お父さんは、千年前に亡くなった剣豪とされている。
……どうやらここは、私が知るより千年あとの世界らしい。ところどころに知っている地名や名残もあるけど、知らないものも多い。
なんだか、自分の知る世界と、少しズレた世界に迷い込んだ気分だった。少しずつ新しく覚えているけど、やっぱり千年前の知識は抜けない。
「そういえば……」
ふと、あることに気が付いて、私は背後に浮くカノンさんに声をかけた。この人、たまに本当に幽霊みたいなんだよね……。
「アテル君のお母さんは教団の大司教らしいですけど、アテルト教団には、グレイヴ教団と違って教皇様はいないんですかね?」
≪いるわよ。シャンティエと呼ばれるけど、永久空位らしいわ≫
「シャンティエ……混沌神語で≪従者≫?うーん、でもちょっと意味が違うような……その場合は、どっちかというと、人を意味する『シル』がついてシャンティシルですかね?」
≪そうね。『イエ』は人というより、物に使われる言葉ね≫
「そうですよね……っていうかカノンさん、なんでアテルト教団について詳しいんですか!? 私以外とはリンクできないんじゃなかったですっけ?」
≪これでも、アンタ以外にも話し相手がいるのよ。そいつが教団所属だから≫
私が知らないことを知っていたからか、なんとなく得意げな態度でカノンさんは言った。だ、誰だろう……気になるじゃん!?
……この、不思議少女カノンさんは、私より先に生まれた神子らしい。つまり、私のお姉さんだ。
アテル君がいなくなった時に現れて、私が千年間眠っていたこと、私が教団に伝えられる神子であることを教えてくれた。ちなみに彼女の本体はこのエオスにはなくて、ユグドラシルにあるそうだ。まぁ、本体は意識体で実体は持ってないらしいけど……。
彼女が言うには……私の記憶は、生まれた頃……千年前、世界が滅ぶちょっと前に生まれたそうだけど、その頃に戻っているらしい。だから、自分が世界を救ったとか、いろんな人と旅をしたとか、そんな覚えもない。
地図とにらめっこしながら、私はうーんと唸った。
「さすがに徒歩だと、セントラクス……違った、ダオールまで5日はかかりそうですね……飛んで行こうかな?」
≪クロムエラトを便利な道具のように使うのは控えなさいよ……オースがまったく存在しない現世界では、アンタは自分の力しか頼れないんだから、使いたい時に使えなくなるわよ?≫
「……確かに。逃げなきゃいけない時にヘロヘロなのはまずいですね!」
私は自分のボルテオースしか知らなくて、オースを見たことないけど……そのオースが溢れてる世界だったら、使い放題だったのかな?ちょっと残念……。
「ところで、カノンさんもクロムエラトって使えるんですか?」
≪そうね、構築速度は早くないけれど。こうしてエオスに干渉しているのも、自分で術式を編んだからよ≫
「あ、そういうことか……クロムエラトって便利ですね!」
≪だから便利な道具のように……まぁ、前向きなだけマシね。今のアンタは神として完成されてるから、暴発もないでしょうし≫
脳天気な発言をする私に、額を押さえて呆れ気味のカノンさん。たわいない雑談しながら、私たちは平原を往く。
やがて夜になって、私たちは川辺で一晩越すことにした。……カノンさんは寝ないから、正確には私だけだけど!
さらさらと流れる水の音を聞きながら、昼間の温かさも抜け切ってひんやりした原っぱに寝転ぶ。
視界を埋め尽くす煌めく星々が、透きとおった夜天に敷きつめられていた。
「うわぁ……この辺は明かりがないから、星がよく見えますね〜……」
≪……そうね。ユグドラシルも綺麗だけれど、エオスも美しいわ≫
思わず手を伸ばしてみる。指と指の隙間に、一際目立つ星が見えた。
……星は……星空の夜色は、好きだ。アテル君の家にいる間も、一人で夜に見上げていた。
なんだか……見上げていると、懐かしい気持ちになるんだ。
何が懐かしいのかわからないけれど……その想いが行く先に、『探しているもの』がある気がして。
私が知らない「千年前」に、手が届く気がして。
「………………」
……アテル君が、教団の教典を事実だと思わないのも無理もないよね。私だってカノンさんから聞いただけで、実感ないもん。ちょっと不思議な力が使えるって感じしかしない。
でも……今の私には、これしか『手がかり』がないから。
「……おやすみなさい、カノンさん」
≪ええ……おやすみなさい、ステラ≫
ふわりと霧散して姿を消すカノンさんを見届けて、私はそっと目を閉じた。
今夜もまた、同じ夢を見た。
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「あたし前、夜に見たのよ!月夜を歩くすっごく美形の方が!美しすぎて見惚れてたら、いなくなっちゃったの!!」
「やだそれ、ここに昔からある怪談話よ!本当にいるのね!?」
「ええ〜〜っ、幽霊でもいいからお近づきに……」
「ご、ごめんなさーい!!! どいてくださーいっ!!」
きゃーきゃー楽しそうな女性神官さん達に、声を張り上げた。
彼女たちがきょとんとした隙に、私はその間を全速力で駆け抜ける。私の全速力なんてたかが知れてるけど!なんなら今、クロムエラトの膨らむ力
で少し力を増幅させてるけど!!
「……今の、ルナ?」
「ルナだったわ!!」
「ルナはそっちか!?」
女性たちの声と、さらに遠くから男性の声が真後ろから響いてくる。肩越しに後ろを確認すると、こっちを指差してるさっきの女性たちと追いかけてくる男性神官さんが見えて、私は泣きそうになる!
「も、もう勘弁してくださいぃ〜〜!!! 肉体的にもクロムエラト的にも、もう疲れ切ってて無理だってば~!!」
≪それだけ叫べるならまだ大丈夫ね。次の突き当たりは、右の方が空いているわ≫
「カノンさんスパルタすぎませんかっ!?」
声だけ響いてきたカノンさんの声に言い返して、半泣きで駆ける私。
隠れて走って、私はなんとか追っ手を巻いた。我ながらすごいぞ! ……カノンさんの指示通りに走っただけだけど!!
「はぁ、はぁ……つ、疲れた……うう、やっぱ無謀だったかも……」
角の壁に張りついて、私はちょっと自分の無計画さを後悔した。神子だとか聞いて浮かれてたかも……。
角から通路に顔を出すと、誰かの走ってくる音が響いてきて、慌てて頭を引っ込めた。
「いたか?」
「いや、こっちには見なかった」
「何処行ったんだ……」
二人の男の人の声が近付いてくる!慌てて静かに奥へ移動して、私は忍び足で駆け出した。い、いつまで逃げればいいの〜!
——アテルト教団総本山、ダオール。その中心に立つ大聖堂の前に立った途端、番兵の神官さん達がはっと目を見開いた。
『る、ルナ!?』
だよねー!って思って、私は逃げ出した。
大聖堂の周りを走り、裏口があったのでそこから入り込んで、中で別の神官さんとばったり会い、同じような反応をされたからさらに逃げて……大聖堂の中をひた走ってるのが今。もう大聖堂は大騒ぎだよ……。
……よく知らないけど、教団では「ルナ」っていう人を探しているらしい。その人は私にそっくりらしくて、神官さんに会うといつもこんな反応をされる。
追われる理由がわからないし、捕まって神子だとかバレたら、申し訳ないけどちょっと面倒くさそうだから、いつもこうして逃げてる。ってゆーか、私ルナさんじゃないし!!
「……ルナさん、か」
ぽつりとその名を呟いた。姿を見たわけじゃないし、どんな人かは知らない。
カノンさんが言うには、私は千年前も同じように間違われて、襲われていたらしい。
私の複写元になった「ルナ」って人と。
……今の時代、そのルナさんはすでにいないはず。いても子孫とかだろうし。
だから……きっと、これは「私」を探してる。
私が、千年前に生きたルナさんとそっくりなことを知ってる人が、教団にいる。
千年前のことを知っている人なら、『私の探し物』についても、知ってるんじゃないかって。
……まぁ、千年間を生きているカノンさんは、たぶん全部知ってると思うけど。彼女は、あまり千年前のことを話そうとしない。
前に、過去の私について聞いてみたら、≪今のアンタには関係ない昔話よ。そんなことより今を生きなさい≫って言われた。確かに昔の自分を聞いたところで、私は全然覚えてないし、ふーんってしかならないなって思って、それ以来聞いてない。
それに……これは私の旅だし、自分で探したいんだ。
≪ステラ、この通路の先にも神官がいるわ。後ろも厳しいわね≫
「ええっ?! ど、どうしよう……!」
私は控えた声で言って、わたわた立ち止まった。ど、どうしよう、挟み撃ちにされちゃう……!何処か隠れるところは……!?
きょろきょろ周りを見渡すと、手前に、左に伸びる薄暗い通路が見えた。急いで駆け寄ると、所狭しと箱や物が置かれていて、私が隠れるにはちょうどよさそうな隙間があった。
神官さん達の声をかわすように通路に飛び込んで、なんとなくフードをかぶりつつ、私は息を殺して物陰にしゃがみ込んだ。
ばたばたと、さっきまで私が走っていた通路を人が通っていく。
「おい、この通路はもう少し静かに……怒られるぞ?」
「ああ……そういや、大司教にそう言われてたな。なんでだっけ……?」
「よく知らないが、物凄く怒るから……」
神官さんたちの声が遠ざかっていく。
大司教って……アテル君のお母さんだ。せっかくだから、何処かで会えるといいな。にしても、このあたりは静かにしないと怒られるんだ……隠れるにはちょうどいいかも。
いつの間にか息も止めていた私は、ぷぱっと息を吐き出した。
「はあ……大人しく連れられていったほうが楽かなぁ……」
思わず愚痴が出た。でも一応私は、教団の教典に載ってる神子なわけで……一目でバレたりしないとは思うけど、何かの拍子でバレたら……うう、ちょっと想像するの怖い!取って食われはしないと思うけど怖い!
それにしても……ずっと走ってたし、クロムエラトもずっと使ってたから、さすがに疲れたよ……。
≪しばらく人気がなさそうだから、ここで少し休んだ方がよさそうね≫
「ちょうどよかったです、ヘトヘトでしたもん……しばらく誰も来ないといいなぁ……」
やっと腰を下ろして休憩できたから、少し元気になってきた。帰る時にまた、同じようにルードシェオ全力疾走はできそう。……も、もっと気軽に帰りたい……。
壁に寄りかかって目を閉じると、まぶたの裏に星がきらめいた気がした。
……毎日のように、夢を見るんだ。
誰かの隣で、星空を見上げている夢。
繋いだ手があたたかくて……
私の作り出した夢なのか、生まれた時からあるものなのか、それとも……失われた記憶で、唯一残ったものなのか。今の私にはわからないけど。
もし唯一残った記憶だったとしても、その人にはもう会えない。……だって千年前だし。
でも、その人の顔も、声も……何も知らないことに、切なくて、悲しくて、胸が苦しくなる。
宝物のような……とても、大事な人だった気がするんだ。
この気持ちだけは、今ここにいる私だけのものだから。
……その人を知りたい。
あなたは、誰?
千年前を知る人が、教団にいるなら。
もしかしたら、夢のあの人のことも、知ってるんじゃないかって……。
目を開くと、心身が落ち着いてきたからか、やっと周囲の様子が目に入った。
私が逃げ込んだこの通路は、どうやら倉庫の前だったらしい。埃っぽくて薄暗くて、私が隠れている木箱をはじめ、たくさんの物が奥のドアだけ避けて置かれていた。
積み上げられた木箱を覗くと、白いキャンバスやたくさんの筆、難しそうな分厚い本などなど、いろんなものが綺麗に整頓されて詰め込まれていた。木箱の隣には、大きな笛らしい楽器もある。教団の聖歌隊とか、画家さんが使うのかな……?
「……外が落ち着くまで暇だし、大聖堂見学でもしようかな?」
≪大聖堂の倉庫を?≫
「そ、そうですけど……暇なんですもんっ!」
呆れた声でカノンさんに言われた。ま、まぁそうだけど!暇なんです!!
とりあえず、ドアに近寄って開けてみた。
中は、思っていたより……というか、かなり明るかった。外の乱雑さを見て倉庫だと思ってたら、どうやら普通の部屋だったらしい。
大きめの窓から差す淡い日光が、部屋をまんべんなく照らす。部屋の中は……外の様子と同じく物が多かったけど、通路と違って散乱していた。
自立するイーゼル、床に置かれたパレット、積み上げられた書物や紙の束、壁に立てかけられた楽器。白壁や床のあちこちに乾いた絵の具が貼りついていて、汚れた布や紙が無造作に置かれていた。
……なんだか独特の空気が漂う、芸術的な部屋だった。私は嫌いじゃないけど……綺麗好きの人が見たら卒倒しそう。ミリエちゃんとか。
そんなふうに、密度が濃くて賑やかそうに見えるのに……それらを、窓から差す日光が真っ白に照らしあげるからか、音も空気も、何もかもが凍りついたような静けさだけが支配する。水中を歩くような、何処となく息苦しくて、ねっとりとした空気が漂っていた。
同じ大聖堂内なのに、喧騒は遥か遠くのようで。
部屋の真ん中に立つイーゼルには、キャンバスが立て掛けられていた。
そこに鮮やかな色彩で描かれているのは、一面の花畑と、そこに立つ女の子……なんだけど……、
「……顔がない」
その子の顔には、目も鼻も口も描かれていなかった。
描きかけなのかと思ったけど、背景や手前の花や、女の子の服などは丁寧に描き込まれていて、本当に顔のパーツだけが描かれていなかった。
——コツンと、爪先に何かが当たった。
見ると、イーゼルの周りに、丸まった厚手の紙がたくさん転がっていた。手にとって開いてみると、風景は違えど、同じように、顔のない女の子が描かれた絵画だった。ほかの紙も拾って開いだけど同じだった。
……ちょっと、並べて見るとホラーな感じだけど……、
「……描けなかった……のかな」
その女の子だけが、どうしても描けなかったように見えて。
描けなくて、諦めて、捨てて、また筆をとって、描けなくて、捨てて……
だって、画中の女の子はみんな同じ特徴だ。淡い茶色のセミロング。……あれ、偶然だけど私と似てるや。
これを描いた人は……なんで描けなかったんだろう?
「……あれ?」
ふと、イーゼルの向こうに重そうな書斎机があることに気付いた。
その机に、人がいた。
右手に羽ペンを持ったまま、机に伏せている。たぶん男の人。室内なのに旅装のようなローブを羽織っていた。銀の髪が、開かれて置かれた分厚い本の上に突っ伏していた。
近付いてみると、イスの上で丸まった背中が規則的にかすかに上下してて……倒れたんじゃなくて、寝ちゃったのかな?
とか思ってたら、この静寂を破るように、部屋の外から大きなヒールの音が響いてきた!
「シャンティエ!!! 起きてるか!?」
「わっ、わっ?!」
逃げなきゃ!って思った瞬間に、低めの女性の声とともにドアが開いた。に、逃げる暇もなかった!!
……あれ?シャンティエって、どこかで聞いたような……。
現れたのは、やっぱり白い神官服を着た女性だった。30代くらいの、お母さんって感じのベテランっぽい人。エメラルドグリーンの髪の彼女は、綺麗な眉を困ったように寄せた。
「ああ、ったくまた机で寝落ちして……ベッドで寝なって何度も…………おや」
気付かなかったらしく、喋ってる途中で、女性のワインレッドの双眸が私を向いた。
「えっと……あ、あはは……お、お騒がせしてます……」
正直、絶体絶命な私は、乾いた笑いしかできなかった。ど、どうしよう……出口はあそこしかないよ!
私が内心びくびくしていると、神官さんは突然大笑いしはじめた。
「あはは!! なんだ、ここにいたのか。なら、もうお役目御免だな。『先祖の肖像画』が役に立ったよ。騒動を早く鎮めてこないとね」
「えっ?えっと……?」
「ああ、疲れただろ?ゆっくりしていきなよ。もう君を追いかけ回さないからさ。そいつ、起こしていいよ」
神官さんはそれだけ言うと、私を捕まえずに部屋から立ち去った。な、なんだったの……?嵐のような人だったな……。
私が目を白黒させて突っ立っていると、すぐ後ろで物音がした。
振り返ると、机の上で寝てた……「シャンティエ」っていうらしい男の人が、起き上がるところだった。
……そういえば、シャンティエって、カノンさんが言ってた……永久空位だっていう、アテルト教団教皇のことだ。私はその言葉の意味を噛み砕くのに、もやもやしてて……、
今、不意に、しっくり来る言葉が浮かんだ。
「シャンティエ」は……≪従者≫というより、≪部下≫というより……≪下僕≫だ。
彼が振り返る。
至近距離で、寝起きのダークブルーの瞳と目があった。
その目が見開かれるのには、そう時間はかからなかった。
……そして私も。
「……あ……」
その目を見た途端、動けなくなった。
心を絡めとられたみたいに、何も考えられなくなって。
星空のような深い藍色から、目が離せなかった。
なんで?
わからないけど、わかる。
私は……この色を、この瞳を、探していたんだって。
銀色の髪が、柔らかな陽に煌く。
至高の美術彫刻のような、とても綺麗な顔立ちの男の人だった。私より少し年上に見える。私が見入ったダークブルーの両目に、間抜けな顔をした自分が映り込んでいた。
……知らない人だ。
でも、知ってる。
奇妙な既視感。
「あ……あの……あなた、は……」
なぜか喉が震えていた。私がやっとのことで一声発すると、彼は静かに手を伸ばして、いつの間にか私の目尻に浮いていた涙をそっと拭ってくれた。……私、泣いてた……?
男の人が口を開いた。
「……先に名乗れ」
「はっ!そ、そうですよね、すみませんっ!私はステラといいます!」
「……ステラ」
「は、はいっ」
落ち着いたトーンの声が、確かめるように復唱する。……私を凝視したまま。な、なんか恥ずかしい!目を逸らしたい!!
私がどぎまぎしていると、彼はすっと立ち上がった。
イーゼルの前の丸イスに移動し、横の小さなテーブルに置いてあった筆とパレットを手に取った。ぽかんとしている私をよそに、キャンバスに筆をのせ始める。
「えっ?あ、あの……お、お名前……」
「動くな。座れ」
「は、はあ……」
よくわからないけど、ぶっきらぼうにそう言われて、さっきまで彼がいた書斎机の革イスに座る。いかついイスだと思ってたけど、思ったよりふわふわしてて座りやすかった。
……静かだ。外からの鳥の鳴き声と、彼のローブが擦れる音、筆がキャンバスを叩く音しか聞こえない。
時折、彼の目がこちらを向いて緊張するくらいで、ずっと過ごせそうなほど落ち着く空間だった。
「……ディアノスト」
ぼーっと空気を堪能してたら、不意に、男の人が手を休めないまま言った。聞き流しかけて、はっと私は我に返る。
「えっ?<永久の……>? ……あっ、お名前ですか?ってことは、ディアノスト様?」
「ノストだ」
「……略れってことですか。じゃ、ノスト様?」
「様もいらねぇ。教皇命令だ」
「職権濫用ですよっ!?」
教皇様だから様付けって思ってたのがバレてたらしく、私が言い返す前にそれを潰してきた。
こ、この人……できる!でもやっぱり教皇様だし……それに、言いなりになってるのが悔しい!せ、せめて……、
「えーっと、じゃあ……ノストさん」
私が悪あがきで「さん」付けで呼んでみると、ぴたっと彼の筆の動きが止まった。えっ?何か悪かった?
「………………」
「な、なんですか?」
ノストさんは、少ししてすぐ動き始めた。筆だけを動かしながら言う。
「……馬鹿は死んでも変わらねぇな」
「た、確かに馬鹿ですけど、なんですかそれ?!」
「寝起きの順応性の高さも馬鹿だからか。勝手に再構築して消える迷惑女は気楽だな。てめぇの思い通りにはならねぇ。詰めが甘い」
「え、えっと、あの……」
さっきまで口数が少なかったのに、ノストさんは途端に饒舌に、嫌味と皮肉を喋り出した。
これは、初対面でもさすがに勘付くけど……もしかして……怒ってる?
「……お前は真性の馬鹿だ」
満足したように、ノストさんはそっと筆を置いた。
もう動いても良さそうだったから、私は近寄って、彼の横からキャンバスを覗いてみた。
未完成だった、少女の絵。そこに、さっきまではなかった表情が描き加えられていた。
花畑にたたずむ、笑顔の私だった。
「……ずっと、ここで?」
「千年だ。寝坊が過ぎる」
彼の胸元で、何かが白い光を反射した。大振りな首飾りだった。繊細な意匠の枠に囲まれた、虹色にきらめく石。
……きっと、この部屋の密度が高く感じられるのは、物の多さだけじゃない。
ずっと、ここで待っていたんだ。
千年という時間は、言葉以上に濃密だ。
千年あれば、千通りの年があって、その一年の毎日毎日に彼の心はある。
日々、ここで過ごした彼の時の重さも、澱のように沈殿しているんだ。
いっそすべて忘れて、何も感じずに生きた方が楽だっただろうに。
だけど……千年経っても、目の前のこの人は、ずっと、一点だけを見つめているんだ。
「……理由を探している。お前のためじゃねぇ」
私の思考を読んだように、ノストさんはぶっきらぼうに言った。乾いた声音には何の感情も含まれてなくて、だからこそ真実を言ってると伝わってきた。
「それは……見つかりそうですか?」
「お前次第だ」
「わたし、次第……」
「気にかけるな」
私次第で見つかるかもしれない、彼が探している理由。それがなんなのか、私にはよくわからなかった。
でも、気にしなくていいなら……私が思うことは、ひとつ。
「……なら、ノストさん」
私は、ノストさんに手を差し出した。
なぜか彼の瞳が、ほんの少し震えたように見えた。
今、私が思うのは……私が願うのは、たったひとつだ。
「私、旅を始めたばかりなんです。千年前のこと、昔と違う世界、まだ見たことない景色とか……見たいもの、知りたいことが、たくさんあるんです。一人より、二人の方がもっと素敵な旅になると思うんです。だから……」
失った記憶を取り戻すためじゃない。そんなものに、今は意味はない。
もっと、いろんなものを、この人と一緒に見たい。
この人と、同じ時を過ごしたい。
今ここにいる「私」は、今ここにいる「彼」と、思い出を作りたいんだ。
「———私の隣に、いてくれますか?」
きっと、千年前のあなたが、千年前の私の隣にいてくれたように。
彼のダークブルーの目が、私を見つめていた。
長い間、私たちは見つめあっていた。
……やがて。ノストさんが目を閉ざして、息を吐いた。
ずっと張っていたものが、緩やかにほどけていくようだった。
「……馬鹿が」
差し出した私の手に、彼の手が触れた。
ぎゅっと握りしめた手はあたたかかった。
私の瞼の裏に広がる、何度も見た星空の情景。
ずっとずっと、このあたたかさに出会えるのを待っていた気がした。
気が付いたら、私はまた、ぽろぽろ涙をこぼしていて。
この気持ちを、ちゃんと伝えたい。
ううん、伝えなきゃいけないんだ。
これはきっと……千年前の私の心残り。
今の私も、昔の私も、この気持ちだけは同じだ。
「ノストさんが——いてくれて、よかった」
私は、笑った。
自然と、何もかも手放せられた無防備な笑顔ができた。
キャンバスに描かれた、透き通るような優しい笑顔と並んで、私は心からの笑みで彼に笑いかけた。
———はじめまして、私の大切なひと。