exodus

98 最果ての祈り

 ———その手を掴めたのは、幸運だった。

 彼女がいなくなる時はいつも、自分は傍にいなかった。主人であり下僕であるというのに。
 いつの間にか姿を消していて、いつも自分は後手に回っていた。

 一人にしてはいけないと、ウォムストラルに冷静な指摘をされ、飛び出した夜の森。
 その手を掴めたことで、自分はあの瞬間、ひどく安心したのだ。
 先手を打てた。これまでの連鎖を断ち切れた。
 そうして安堵しきって、そのせいかその先の予測が甘かった。
 彼女が黙っているはずがないと分かり切っていたのに。

 そんな彼女だからこそ——
 誘われるように、手を伸ばしていたのだ。




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 ……また、助けられた。
 自分で神界から逃げ出したり、クロムエラトもある程度使えるようになってきたし、もう大丈夫って思っていたのに。
 今まで私は、誰かを助けることができたっけ。
 私の手は、届いたのかな。

 ゆさゆさと揺れていた。
 目覚めると、うつ伏せに倒れていた。ぼんやりした目に、ややくすんだ赤と紫が映る。
 顔を上げようとしたら、それより先に彼が起き上がった。私も一緒に座らされる。私は、彼の上に折り重なって倒れていたらしい。
 彼は、私の胸倉を乱暴に掴み上げた。物凄い怖い目つき。怒ってる。
 ……ああ、ノストさんだ。
「この馬鹿が、何考えて……」
 そこまで言って、ノストさんが言葉を呑むのが耳元で聞こえた。
 私は、その首に抱きついていた。頭に来ているせいか反応が鈍い彼をぎゅっと抱きしめて、震える声を紡ぐ。
「……よかった……っ」
 腕の中の確かな体温。その温かさを噛み締めながら、体の震えを黙らせるように、両腕の力を強くする。
 ……目の前で、ノストさんが何処かに行ってしまう。
 そう思ったら、体の芯に氷の針を刺されたみたいに血の気が引いて、いつの間にか飛び出していた。
 ああ、もう、自分でわかってるんだ。
 この距離感だとダメだと思ったから、あの時ノストさんを拒絶したのに。
 本当にいなくなりそうになったら、手を伸ばしていて。
 私の手は、届いていたんだ。

「…………馬鹿が」
 怒るのにも呆れたのか、嘆息とともに頭を撫でられた。
 かと思うと、ぐらりとノストさんの体が傾いだ。
「ノストさんっ……!?」
 慌てて、抱きかかえるように支える。ノストさんは顔をしかめ、額に冷や汗を浮かべていた。
 そうか、ここはユグドラシルだから、人間のノストさんは何かしら影響を受けてるんだ!
「待ってください、すぐ術式を使いますね!」
 私は急いで、アルトさんからもらった術式を展開した。
 広げた私の手のひらの上に、小さな蒼い四角が浮かび上がる。蒼いオースで作られた術式。
 そのはこの表面に光の線が走り、卵が割れるように匣が砕け散った。溢れ出た山吹色の光の粒は、ノストさんを護るように円を描く。
 光が消え失せる頃には、ノストさんの表情は和らいでいた。

―――アルトミセアの術式を基に力を吹き込み直したか そなたの得意分野だな―――

 藍色の天球から、神様の声が降ってくる。
 ……神様の言った通り。オースの術式じゃ、ボルテオースの塊であるユグドラシルは騙し切れないし、そのままだと神様に術式自体を書き換えられてしまうかもしれない。だから、私が上位の神の力ボルテオースを吹き込んだんだ。
 落ち着いたらしいノストさんが自分で体を起こす。
 安堵の息を吐いて、私は立ち上がった。
 隣に立つ彼の袖をぎゅっと握り締めてから、大きく息を吸い込んで。
 一歩、前に踏み出した。

―――ディアノスト ステラを引き止めて救うかと思ったが まさか己が身代わりになるとは―――

 そう響く声色は、優越も侮蔑もない平坦なもの。感情もなく、淡々と述べられる事実。
 このユグドラシルに溶ける悠久の存在……神様。
 いろいろ突発的なことが起きて、順序がこんがらがってしまったけど……私は、自分がやりたかったこと……やるべきことを思い出して、息を吸い込んだ。
「……神様。私は、貴方と話し合いに来ました」

―――問答は無意味だ 余はそなた達と世界の真実を抹消するのみ―――

「……やっぱり、その姿勢は変わらないんですね」
 私の言葉を待たず、神様は一縷の望みを握り潰した。
 わかってはいたけど、向こうは妥協するつもりはない。徹底的に、世界の真実を闇の向こうに消し去るつもりだ。それが正しいものだと信じ切っている。
 だからこその天帝。
「……もしかしたら、それでもいいのかもしれません。むしろ、それが正しいのかもしれない。……でも」
 正解なんてわからない。誰にとって正解かを考えると、際限もない。
 でも、今ここにいる私は、認めたくないんだ。
「そのために、真実を知る人達をみんな消すなんて、私は絶対に認めない。それが世界のためだなんて認めたくないんです!!」
 だから——私、決めたんだ。
 握り締めていたノストさんの袖から、手を放した。

「—————私が、神になる」

 自分の方が正しいなんて思わない。
 傲慢かもしれない。
 でも、神様の正義は受け入れられない。
 ……だから、

「だから神様……いえ、お母さん。——その座を退いて!!!」

 私が神になる。
 それはきっと、神子である私にしかできないことだから。

 張り詰めた空気が身に沁みた。
 ……これでいい。私の目を覚ましてくれる空気だ。
 私はこれで、前を向ける。

 くるりと振り返った。
 物言いたげなダークブルーの瞳が、案の定こちらを射抜いていた。
 私は、笑った。
「今まで黙っててごめんなさい。最初からそのつもりで、ここまで来たんです」
「………………」
 数日前にアルフィン村を発った時から、ずっと抱いていた決意だった。
 永遠の時を生き、世界を見守り支える「神」。どんな想像でも及ばない、計り知れない責務と負荷の役目であることはわかる。
 きっと、優しい皆は止めてくれるから。
 私は誰にも言わずに……ノストさんにさえ言わずに、ここまでやって来た。
 私は、彼に手を差し出した。
「私は<祝福されし希望>です。皆に助けられてきた私が、今度は皆の本当の希望になります。……だから、ノストさん。私と一緒に戦って下さい。私を神様にして下さい。これは命令です」
 彼をまっすぐ見つめて、言い切った。
 拒否は認めないと強い意志を込めて。
 相変わらず、彼の瞳は、吸い込まれそうな透明な夜色だった。
 ずっと、ずっと。
 何も言わず、私たちは見つめ合っていた。

「—————世の終わりだな」

 永久のような、長い、長い沈黙の後。
 ぼそりとしたノストさんの声が、時間を動かした。
「底辺の真性馬鹿が神か。おめでたい世界だな」
 私の差し出した手を、彼はとらなかった。
 代わりに、自分の手を差し出して。
「剣をよこせ」
「……え?え、えっと……はい」
 自分のペースを崩されて戸惑いながら、私は言われるまま両手を胸の前に差し出した。
 前にアルトさんに言われたように、簡単に剣をイメージする。それだけで、山吹色の光が私から溢れ出て手のひらに収束し、やがて剣のシルエットをつくる。
 蜂蜜をそのまま固めたかのような、透明感のある山吹色の剣身。美しいボルテオースの剣を、彼は当然のように手にとった。
「さっさと働け下僕。手伝ってやる」
「…………は、はいっ!」
 いつもと違う山吹色の剣を構え、ノストさんは私に背を向けた。
 思いのほかすんなり進んで、私は思わず元気な声で返事をしてしまった。
 胸を過ぎった小さな寂しさには、気付かないふりをして。

———そなたが この圧力に耐えられるというのか———

 神様が試すように言った直後。
 目の前が真っ白になった。
「———うああぁぁあっ!!!?!」
 光で前が見えなくなったわけじゃない。頭の中に突如、膨大な情報量の奔流が叩き込まれたせいで、感覚が機能しなくなったからだった。
 轟々と流れる豪流に、頭だけ晒されたみたいだった。私の意識は濁流に投げ出された木の葉のように、飲み込まれ、噛み砕かれ、千切れそうになる。
 その情報たちが、エオスの人々の声やあらゆる情景であるということに気付いたのは、なんとか息継ぎをした瞬間だった。

———人の身であるがゆえに 制限のあるそなたに 守れると言うのか?———

———このエオスとユグドラシル すべての営みを すべての重みを———

 おびただしい数の色が、光が、意識の奥で弾けては消え、弾けては消え、忙しなく明滅する。
 その光が火花のように、私の意識を焦がしていく。
 ……これは……エオス、ユグドラシル、すべての情報だ。
 全知の神様が一挙に見る、世界のすべて。
 アルトさんが術式で補助しながら見る、エオスのすべて。
 その豪流に溺れそうになる寸前、ふわりとすべてが霧散した。
 干上がった胸に大きく息を吸い込んだら、感覚も戻ってきた。ユグドラシルの情景が見える。
 倒れそうになるのを、なんとか持ちこたえた。ノストさんがとっさに手を伸ばしたのが見えたけど、私は自分の力で踏みとどまった。
 いつの間にか浮かんでいた汗が、顔の横を滑り落ちていく。

———そなたに この重みが背負えるというのか———

 ……言われなくてもわかってる。
 震える足、詰まる胸、鈍い痛みを残す頭、すべてが私の身体の限界を教えてる。
 それでも。
「……それでも……守ります。私は神子です。術式でも何でもいい、すべてを守ってみせます!」
 私は神子だ。
 私の力は、<叶える想い>。想いだけですべてを変えられる。
 私に限界があったって、全部塗り替えてやる!

 不意に正面に、山吹色の光の奔流が渦を巻いた。思わず細めた視界で、光の中にうっすらと人影が見えた。
 光が退き、そこに現れたのは「私」だった。私そのままの顔の少女。
 神様の意識によって動く人形……何度見ても、ぞっとする。服装だけ、私が以前着ていたものだから、過去の自分を相手取った気分。
 神様の手には、神剣グレイヴ=ジクルド。
 遥か太古、神は神剣を振るって園界エオスを創った。まるで、創生時代の再演だ。

「その意志、確かめさせてもらいましょう。ステラ、ノストさん。わたしなしで世界を続けられるということを、証明してください」
 人知を超えた存在が、薄ら寒くなるような形式的な笑みで微笑む。

 『ステラ、神が持つ時の重さに惑わされないで』

 発つ直前、アルトさんは、そっと私の手を握り締めて言った。
 その金瞳は、私を見てはいるけど、何処か遠くに想いを馳せていた。
 創生から在る神様。それと相対するということは、一人間には計り知れない永劫の時の重さを、世界そのものを相手取るようなものだと。
 巨大すぎて、敵であると認識できない存在。

 『時の重さなんて関係ない。これは、信念の勝負よ。どれだけ長く続いていようが、間違っているものは間違っているの』

 気付くのが遅かったけれど、とアルトさんは寂しそうに微笑んでいた。
 間違っているか、間違っていないか、そんなのはわからない。
 でも……信念は譲れない!
 息を吸い込んで、私は、ノストさんと背中合わせに立った。

「———勝負です、お母さん」

 自分と同じ姿をした神様に、そう宣言した。




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 開幕と同時に、ノストさんが跳んだ。
 私は足元の神水を凍らせる。くるぶしまで浸かるような水かさはなかったけど、足止めには十分だ。氷翼カノンフィリカで浮いた私を中心に、この足場すべての表面が凍てつく。
 着地したノストさんは、『水に着地した』。直前にもとの流水へと戻ったからだ。
 周りは凍っているのに、ノストさんが足をつく周囲だけは一瞬だけ水に戻る、不可思議な光景。
 リィンと涼やかな音が響く。神剣グレイヴ=ジクルドと、山吹色の剣が打ち合った音。
「なるほど、面白い祈りを編みましたね。ユグドラシルの相乗効果もあって、編む速度も精度もすばらしいです」
 足を縫い留められた神様は、動揺もなく的確にそれを見抜いた。
 私がクロムエラトで祈ったのは、『ノストさんが跳んだ瞬間に凍らせ、彼が着地する直前に戻す』。
 触れるか否か。離れるか否か。
 その一瞬を何重にも分割して、一番最初のひとかけらで判別する。ユグドラシルにいる今は、そんな世界さえ視えそうだった。
 ユグドラシルでちゃんと力が使えるか心配だったけど、これなら行ける!

 神様は、命を殺しはしない。ユグドラシルとエオスのズレを生まないためだ。
 でも、ノストさん相手では違う。”ズレ”そのものである彼に、神様は躊躇しない。すぐに終わらせないのは、優位に立つがゆえの余裕だ。
 そうやって、高をくくっていればいい。
 神様が油断している時が、私達の一番の好機だ。

 離れた山吹色の刃が、幾重にも霞む。
 ノストさんの一突き一突きは、神様の刃が吸い寄せるようにすべて受け止めていく。
 神様はその場からまったく動いていないのに、答えのように刃の軌道の先を行く。
 シナリオ通りのような応酬。
 ――その均衡に、一石投じられた。
 彼の突き出した刃が、不意に氷をまとった。私のカノンフィリカで凍てついた刃だ!
 受け止めようとした神様の刃の表面を滑り、氷の刃はその先を貫いた。
 耳障りな音とともに、光の粒が星空に舞った。
「っ……!」
「ノストさん!」
 私の前に、ノストさんは飛び退ってきた。
 その剣の真ん中から先がなくなっていた。剣を持つ腕が痺れたらしく、ノストさんはもう片方の手を添える。乱暴に叩き折られた先端は、彼の足元で砂のように崩れていった。
 神様がグレイヴ=ジクルドを、ノストさんの剣に叩きつけたんだ!ボルテオースだから強度があったせいか、綺麗には切れなかったみたいだけど、それでも折ってしまうなんて……!?
「……なるほど」
 神様が納得したように呟いた。その手に持つ神剣には傷ひとつない。代わりに……顔を上げたその頬に、白い線が増えていた。ノストさんの一撃が掠ったのか……!
 不意に、その形式的な笑みが消えた。
 代わりに、花が綻ぶように、とても嬉しそうな……自分で言うのも変だけど、まるで私のような、人間らしい微笑みが浮かんだ。
「ノストさん、貴方は私には勝てません。ですが……ステラの援護で、何処までも伸びるんですね。貴方達の信頼関係が成せる芸当です。ふふ……」
「やかましい黙れ、てめぇに言われる筋合いはねぇ」
 間髪入れず、ノストさんが荒い語気で言い返した。
 聞いたこともないような、相手をひどく否定する言葉だった。驚いて振り向くと、彼の横顔は神様の笑みを憎らしげに睨み据えている。
「ノストさんは本当に、私がステラの姿をしているのが気に食わないんですね」
 神様は気を悪くすることもなく、くすくすと笑って……奇妙なことを言った。
「貴方はまだ、ステラの剣にも盾にもなってません。でも、それなら……きっと、もう大丈夫でしょう。ステラを頼みましたよ」
「え?それってどういう……」
 ……何か、違和感がした。何のことを言っているのかよくわからなかった。
 私の問いには答えず、神様は、ゆるやかに剣先を持ち上げる。
 女性騎士が礼を払うように、神様はグレイヴ=ジクルドを胸の前に掲げた。
「……わたしは、全知全能です。千を初めから持ち、不可分なく行使する者です。ただしそれは、設けられた制限の中でのこと」
 刃に半分隠された、私と同じ顔。淡く笑みが刻まれた唇が囁く。
「貴方たちは、持っていても十が精一杯。ですが貴方たちは、互いの手を取り合うことで、十を百、百を千、それ以上にも膨れ上げてみせる。私ですらできなかったことを、平然とやってのける。それが、不変で唯一である私との決定的な差です。……だから私は、貴方たちを信じるんです」
 信じる?
 戦う前に言われた、神様なしで世界を続けられるか証明してほしいって話?
 ううん、なんか……もっと、違う気が……

 私がもやもやしていると、神様は剣先を下ろし、グレイヴ=ジクルドを傍に突き立て……手を離した。
「……え……?」
 グレイヴ=ジクルドを、手放した……?どういうこと?
 思わず神剣に目が釘付けになった次の瞬間。少女は、私の目の前にいた。
「「!?」」
 音もなく、影もなく。
 まるで時を飛び越えたように、ノストさんを通り越し私の前に現れた神様は、硬直している私の両手を自分のそれで包み込んだ。
 神様は、さっきのように柔らかく微笑んだ。透明な微笑。
 ……でも何処か、空虚に、切なそうに。
 どうにもならないものを前に、どうしようもなく浮かべた笑みのようでもあった。
「ごめんなさい、ステラ。私ができるのはここまでです。すべてを貴方に託します」
「え……?」
「来たる時が来ました。―――どうか、貴方の祈りが届きますように」

 神の祈り。
 全知全能であり、世界の理を敷くはずの存在の祈りは、子である私に向けられていた。



 ぱしゃんっと、何かが跳ねた。


 ひそやかな水音は、波紋を広げ、すべてを揺らした。
 私と同じ顔の微笑が、その背景の星空が、緑石が、神水が、彼の背中が。
 目に映るものが水面のように揺らいで、飛沫になって黒い海に溶けていった。

「…………え?」
 視界が真っ黒に塗り潰された。
 すべての感覚が消え失せた。光も、音も、空気も、何も……何も、感じられない。
 目を開いているのに、すべてが暗闇。
 振り向いても、上を見ても同じ。

 ……なに……これ……?

「……ノストさんっ!!」
 這い上がる異質な恐怖から逃げるように、とっさに彼の名前を叫んだ。
 駆け出した。でも、地を蹴る感覚さえない。
 私は今、走っているの?止まっているの?
「ノストさん!何処ですか!?」
 声を発しているはずなのに、音は自分の耳にさえ響かない。
 光の届かぬ深海のようだった。四肢にまとわりつく黒い海を掻き分けて、前へ手を伸ばした。その手が見えて、少し安堵した。
 ああ、大丈夫。私は今、ここにいる。
 ノストさんは……ノストさんは何処?



 鈴の音が聞こえた気がした。
 はっと我に返ると、真っ黒の視界の中央に白いものがあった。
 神剣グレイヴ=ジクルド。
「ラルさん、ジクルドさん!!」
 駆け寄った。目指した対象があったからか、ちゃんと走る感覚があった。上下もわからない真っ黒な世界で、神剣も中空に浮いているように見えた。
「ラルさん、ジクルドさん、あの……あの、わたし……」
 何から話せば、聞けばいいのかわからず、言葉が紡げない。
 私は、思っているより気が動転してることに気付いた。
 そして、見ていたはずだったのに、見なかったふりをしていたことを思い出した。

 私はさっきまで、ユグドラシルにいなかった?
 私と同じ姿をした神様と、戦っていなかった?
 ノストさんと一緒に、戦っていなかった?
 みんな、何処へ行ってしまったの?

———ステラ よかった ちゃんと出会えて

 ラルさんがいつも通りに答えてくれる。
 少しホッとした私に、ラルさんは何処か悲しげな声音で続けた。

———きっと感覚で感じ取っているけれど 混乱しているのね

———いい? 落ち着いて聞いて

———さっき「    」が 神が 死んだわ

「………………え……?」
 ……神様が、死んだ?
 神様って……死ぬの?死なないんじゃないの?だからこその神様じゃないの?
 そんな子供のような問いは、この黒い海を前に、言い出せなかった。

 ……わかる。「何もない」ってことが、わかってしまうんだ。
 この深海は、本当の虚無。
 神様が死ねば、神と繋がっていたユグドラシルも死ぬ。その中に内包されているエオスも死ぬ。
 残るのは、神様と同じ存在……ボルテオースで自立するモノだけだって。
 ユグドラシルの無数の魂も、エオスのみんなも……
「………………」
 ノストさんも……

≪考えるのはそこまでよ。アンタに壊れてもらっては困るの。何度も言っているでしょう?≫

 腹の底からこみ上げてきた私の感情に、蓋をするが如く。
 波紋のように響きながら、耳に直接聞こえてきたのは、少女の声だった。
 振り返ると、そこにいつの間にか金色の波を連れた見知った女の子が立っていた。
「……アルト、さん……?」
≪……これは不慮の事故ね。残念だけど、アルトミセアじゃないわ≫
 その子は間違いなく、アルトさんだった。だけど本人が言うように、私の知る彼女とは何処か雰囲気が違う。
 アルトさんのように柔らかな物言いじゃない。刺々しくて、素っ気ないその口調は……、
≪体はアルトミセアだけど、私はカノンよ。母様そのものだったユグドラシルが消滅したから、独立しているボルテオース以外もすべて消滅したわ。……もともと同じ波長で作られたせいか、アルトミセアの体に含まれていたボルテオースと私の魂が惹かれ合ってしまったようね。こんな形で実体を持つことになるなんて≫
 物憂げに嘆息するカノンさん。ラルさんの声にも、かすかに動揺はあったのに、彼女にはそれがなかった。
 よく見れば、アルトさんと同じ金の髪が黒い海に透けて見える。ところどころ黒に沈んだり、浮き上がったり、ふわふわと実像が定まらない。まるで、実体があった時のカノンさんみたいだ。

 感情が爆発する寸前に声をかけられたせいか、私は不思議と落ち着いていた。
 静かにカノンさんに問う。
「……カノンさん……一体、どうなってるんですか?神様は……」
≪ええ……母様から祈られたように、あんたには知る義務があるわ。けれどこれは、一側面だけで語る話じゃない。少し長くなるわ≫
 カノンさんは、吐息とともに言葉を吐き出した。

≪これは、賭けだったのよ≫




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 グレイヴ=ジクルドは、破壊と再生。
 神様は、壊死と創生を司る。
 初めの頃、サリカさんに教えてもらった基本だ。
 でも、神様が最後まで隠し通した、重大な秘密があった。
 ——壊死を司るが故に、神様には、寿命があったということ。

 神様の寿命は、世界の寿命。
 初めから世界は、いつか崩壊する定めにあった。
 その末路がこの虚無の海。
 「来たる時」が来た、自然に訪れた未来の姿。

「……どうして?どうして神様は、そんな大事なこと、言ってくれなかったんですか!?」
≪誰に言ったところで、この未来は避けようがなかった。皆の恐怖を煽るだけよ。どうしようもなかったの≫
 カノンさんに諭されるまでもなく、頭の片隅ではちゃんとわかっていた。
 でも、神様が人知れずそれをずっと抱え込んでいたことを思うと切なくて、胸が詰まった。
 神様は、人より感情が希薄だったけどゼロじゃなかった。答えの出ない、暗闇のような未来を憂いて、平気だったはずがない……。
 だって神様は……間違いなく世界を愛していた。
 その愛しい世界はいつか壊れてしまうんだって、一人でずっと悲しんでいたんだ。

≪母様は、世界のはじまりから、ずっと、ずっとその未来を変える方法を模索していた。全知の母様は、すでに自分の力ではどうにもならないことを悟っていた。だからアルトミセアやエオスの人々、自分の全知が及ばないものに賭けるしかなかったの≫
「………………」
≪それらもすべて空振りに終わって……世界の寿命が近付き、ほぼ諦めていた頃に、母様は希望を見出した。——グレイヴ=ジクルドを壊すために生み出したはずのステラ、アンタにね≫
「私……」
 ……それは、偶然だった。そのために生み出したものじゃなかった。
 でもそれが、途方に暮れていた神様には眩しく映ったんだ。
 そして、神様は決断した。

 ———我が子に、神の座を譲渡する。

≪真実を知っても壊れなかったステラを見て、母様は希望を見出した。さらにアンタは、ディアノストの再構築をして、世界の理を超越した。母様は驚いて……喜んだのだと思うわ。やがて滅びるしかないこの世界の結末を、変えられるかもしれない。そうして、ステラにすべてを委ねることを決めた≫
「………………」
≪ユグドラシルに還ってきてしまったアンタを再び送り出し、そしてその先へ導くために、母様は大掛かりな茶番を打った≫
 神様は、最初から私に神の役目を譲るつもりだった。
 ノストさんを再構築し、世界の理を乱した私は大罪人。……それらは、すべて口実だった。

  「———だけど、……『敵は一人もいない』」

  「『この現状を疑え』」

  「『神の軍は敵じゃない』、ってことだ。親は、いつだって子供のことを想ってるんだぜ」

 消えてしまった神の軍の人たちの言葉が、脳裏に閃いていく。

「どうして最初から、私に神になってほしいって……言わなかったんですか」
≪アンタにはまだ不可能だったからよ。器が人であるほかにも、アンタは自分の力に振り回されていた。母様は、神の軍という形で、アンタに試練を課した≫
 ……神の軍は、すべてを知っていたんだ。
 神様と世界の寿命のことも、あるいは愛しい者達と相対することも覚悟の上で、それぞれの想いで神様に手を貸した人々。
≪母様はずっと、ステラを信じていたの。いつかステラが、自分の前まで来てくれることを。アンタよりは非力な己のクロムエラトで、その祈りを編んでいた≫
 イソナさんから真実の断片を告げられ、心が壊れてしまっても。
 ノストさんを再構築して力を使い果たし、ユグドラシルで眠りについても。
 これまでの軌跡を憂いても、さまざまな罪の意識に苛まれても。
 神様は、そのすべてを乗り越えて、私が自分の前までやって来ることを信じた。
 全知の神様の、最初で最後の祈り。
≪……そして、ステラ。アンタはここにいる。母様の祈りに導かれ、この虚無の最果てまでやって来た≫
「………………」
≪旧世界の一部を再構築し、それをもとに、アンタが新世界を創り上げる新たな神になる。これは、母様の……旧世界の神の祈りであり、賭けであり、アンタへの手向けよ≫
 旧世界の神様が繋ごうとした世界。
 神様は、一部を生き永らえさせ、そこから新たな世界を紡ごうとしたんだ。
≪ふぅ……これで終わり。私が母様に頼まれたのは、水先案内人として、すべて伝えること。さあ、次はアンタの番よ≫
 長い語りを終えたカノンさんが、私に水を向けた。

 ……私は、まだぼんやりしていた。現状を認め切れないのか、現実味がないのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、旧世界で出会ったたくさんの人々の顔が、頭をよぎっていった。
 少し状況が整理ができて、やっと私は口を開いた。
「……神様は……私を信じてくれたんですね。私が、この先を繋いでくれるって」
≪……そうね≫
 ……神様は、敵じゃなかった。
 娘の私を信じて、すべてを託してくれた。
 今まで知るよしもなかったけど、ずっと私のことを信じていてくれたことは嬉しい。
 でも……

「―――でも……私には無理です」

 カノンさんが目を見張るのがわかった。
 ……そう。無理だ。
 神様の事情を知らなくても、私は神になると決心して、ここまでやって来た。
 でも……神様になるということがどれだけの責務か、この現状で思い知ってしまった。

 神様と世界は、一連托生。
 旧世界の一部を再構築することは、もしかしたらできるかもしれない。
 でも、ノストさん一人を再構築するのに私は体を失い、そのままでは消えてしまうところだった。世界の一部を再構築なんて、そんな対価じゃきっと足りない。
 きっと、私は消える。
「私が消えたら……せっかく創った旧世界も、こんなふうになっちゃいます」
 また、同じことを繰り返すだけ。
 もし私が運良く消えずに残ったとしても、私は神としても人としても、あまりに脆い。
 何度も危険な目に遭い、壊れかけた。その度に世界が滅ぶ危険にさらされるなんて、私も世界もすり減ってしまう。
 そんな弱い存在が背負うには……世界は、大きすぎるんだ。
 それに……
 これまでの思い出を俯瞰して、私は、複雑な表情をしているカノンさんに微笑んだ。
「それに……きっと、もう……世界に、神様は、いらないんですよ」
 ……私は、エオスで見てきたはずだ。
 世界の法でもある神に抗い、自分たちの手で未来を掴もうとしていた人々を。
 エオスはすでに、神が管理する庭じゃなかったことを。
 彼らと一緒にいた私は、よく知ってる。
 彼らは、したたかで、優しくて、私はいつも励まされてきた。
 神が……私がいなくたって、自分たちで歩いてゆける。
 ……だから。

「だから……法則を書き換えて、再構築します。私との絆を断った、『旧世界すべて』を」

 カノンさんと、神剣たちが息を呑んだ。
≪なっ……それじゃ、母様が導いたものより対価が大きいじゃない!ステラ、アンタは塵も残らないわよ!≫

それだけで済めばいいが―――

―――貴方という存在自体がボルテオース それを使い果たしたらどうなるか

「わかってますよ、お姉ちゃん、ジクルドさん、ラルさん」
 案の定、声を張り上げたカノンさんと、思わず喋っちゃったらしいジクルドさん、神妙な声で言うラルさんに、私は思わず吹き出した。
「その世界なら、私が再構築して消えても、世界は存続しますよね?」
≪そうかもしれないけれど……!≫
「神様が導いてくれた、旧世界の一部の再構築でも、私は十分消えちゃいますから。なら、もうちょっと頑張ろうかなって」
 私のボルテオースだけで、何処までできるかわからないけど。
 ……なんだろう、変に自信があるんだ。
 私なら、本当にできるんじゃないかって。
 だって、私の力は、<叶える想い>。
 想いが強ければ強いほど、力も強くなる。
 こんなに……

「……こんなに、旧世界が愛おしいから」

 みんなの顔が浮かんでは消える。
 最後まで付き合ってくれた、サリカさん、ルナさん、スロウさん、セル君、ミカちゃん、フィアちゃん、アルトさん。
 旅の途中で会った、ブリジッテさん、イソナさん、シャルロットさん、アノスさん。
 やっと会えた、ヒースさん、エリナさん……お父さん、お母さん。
 ずっと……隣にいてくれた、ノストさん。

 消えてしまった大切なものたち。
 失って、いかに自分が彼らに支えられ、生かされていたのかよくわかった。
 私は、一人では何もできない。
 でも……一人でも、みんなのためなら、何だってできる気がするんだ。
「だから、ラルさん、ジクルドさん。私に力を貸してください」
 神を忘れた世界を、再構築するために。
 突き立ったグレイヴ=ジクルドに向き合い、私は言った。なんだか、何処までも透明な気持ちで、何処までもいけそうな気分だった。
 ラルさんは少し微笑んだ気がした。

―――逆でしょう 私達は使い手がいてこその力

―――貴方が望むなら 力を貸すわ

ただし 結果は補償できぬ―――

「十分です」
 私は神剣を引き抜いた。
 羽のように軽いその剣は、旧世界のもう一人の神様。旧世界の創世から在る、途方もない年月を超えて来た大先輩だ。
 剣を正眼に持った私に、アルトミセアさんの姿をしたカノンさんが嘆息して言った。
≪ほんと、こういう時、アンタは頑固ね。……この子の体のボルテオースも使うといいわ。エオスを愛してたあの子なら、それを選ぶでしょうし。無事に旧世界が再構築されたら、あの子はただの人間になってるはずよ≫
「カノンさんは消えないですよね?」
≪私はこれでも神族だから、心配しなくてもいいわ≫
 神族は、自分の力で自立するように創られている。ここにいる私以外の顔ぶれは、新世界でも存在し続けるんだろう。
 私が少し安心して頬を緩めると、カノンさんが不意に抱きしめてきた。なんとなく、肩が震えている気がした。
≪……自分の心配しなさいよ。アンタ、消えるのよ?≫
「あはは……ほんとですね。なんだか、あんまり実感ないみたいです」
 もっともなことを言われて、私は苦笑いした。
 ここには何もないから……みんながいないから、すでに死んだ気分なのかも。
 それか、思い出すとつらくなるから、考えないようにしてるだけかも。
 私は今、壊れるわけにはいかないから。

「私、神子でよかったです」

 神子ってことで、大変なことやどうにもならないことも多かった。
 結果論かもしれないけれど、それでも。
 私自身が、この虚無から世界を救う、最後の希望だから。
 きっと、神子の私にしかできないことだ。

  『わかってねぇ』

 ノストさんは、私を選んでくれた。
 私を信じて、最後までついて来てくれた。
 ……だから私は、この選択ができるんだ。

 カノンさんは少し離れて、アルトさんとは違った山吹色の瞳で私を見つめた。
≪……決意を固めたところに水を差すのは野暮ね。アンタがやり遂げるところ、見届けるわ≫
「はい……お願いします。見ててもらえると、頑張れる気がします」
 笑い返して、私は虚無の海を前に立つ。構えた白銀の剣を一瞥して、私は声をかけた。
「ラルさんも、ジクルドさんも、大変かもしれないですが、よろしくお願いします」

―――ええ 貴方の想いを見せてもらうわ

願わくば いつの日か相見えるよう―――

 いつも優しいラルさんと、少し意外なジクルドさんの言葉に淡く笑った。

 この虚無の海を、私は塗り替える。
 旧世界を再構築する。
 神の手から離れた、人間たちだけの世界に。

 ……ふと、私は口を開いた。
「……ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
 私はいないだろう新世界。
 無事に再構築されたら、伝えてほしい言葉がある。
 たった一言。ずっと隣にいて、私についてきてくれた彼に。
 告げると、ラルさんは約束してくれた。

 神剣を掲げ、目を閉じる。
 自分でも驚くくらい、いつものように心は穏やかだった。
 ……だからなのかな。
 不思議と、彼が隣にいるような気がした。


 そして――
 世界は、真っ白に塗りつぶされた。



 ……最後に、夢を見た。
 私とノストさんが、寝転んで星空を見上げていた、あの時の記憶だ。
 泣きそうなくらい、幸せなひととき。
 繋いだ手が、あったかくて……
 離したくなかった。
 でも、ぬくもりは遠のいていく。
 私が、彼が、急速に離れていく。

 新世界で、貴方は新たな人生を歩む。
 大変だった旅は過去になって、ちゃんと歳を重ねて、新しい人たちに出会い、新しい生活をする。
 苦労することもあるかもしれないけど、貴方のことだから、しっかり生きていくんでしょうね。
 それはいいんだ。
 変化し続けるのは、人の特権。

 ……だから、こう願ってしまうのは、私のエゴだ。
 でも、私、頑張るから……これくらい良いですよね?

 ねぇ、ノストさん。
 どうか……



 どうか、私のことを、忘れないで


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 ………………




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 ―――ふと。
 呼ばれた気がして、我に返った。

 

 気が付くと、山盛りの食事の前に座っていた。
 どんちゃん騒がしい宴の席。周りでは、旅の仲間たちや道中で出会った人々が、楽しげに笑いあっている。
 霞がかったように見える景色を、ぼんやり眺める。
 ……なぜ、こんな場にいるのだろう。
 いつの間にか隣にいた、エメラルドグリーンの長髪の青年が話しかけてきた。
「ノストは、こういう場が好きじゃなさそうだねぇ。まぁ、たまにはいいだろ?おおっぴらには言ってないけど、神を打倒したお祝いなんだしさ。お前が主役だよ」
「……神を打倒した祝い?」
「そうそう、独裁者だった神をノスト様が倒して、人の世界になったお祝い。教団の関係者には、神の軍を撃退したお祝いって言ってあるけどさ」
 サリカは近くにあった焼き魚を皿にとり、ノストの前に置きながら言う。
 少し離れた向こうでは、淡い赤髪の少女が、神官たちに囲まれて談笑している。リュオスアランがあった頃は見られなかった光景だ。
 宴の輪の外れには、黒い神官服の青年が一人で杯を傾けている。その両腰には、ありふれた細身の剣が差されていた。
「皆、おのおの楽しんでるよ。あっちでは手合わせ大会してるし」
「……これで、全員なのか」
「おや?珍しく口数が多いねぇ。アルトミセア様は不老が解けたとはいえ、容姿を気にされて欠席だよ。……ところでノスト、物騒だしそれは離しなよ」
 呆れ気味にサリカに指差されたのは、自分の右手。見ると、自分はグレイヴ=ジクルドを握り締めたまま座っていたらしい。
 白銀の刃に走る山吹色の光が、なぜか気になった。

「サリカ〜、あっちの席の料理なくなっちゃったんだけど何かない?」
「シャト達か〜、やっぱりあの量じゃ足りなかったかな?」
 光を見つめているうちに、サリカの傍に人がやって来ていた。
 顔を上げて、ノストは顔をしかめた。
 淡い茶髪の少女と、目が合った。
「うわ、露骨に嫌な顔されたよ。ノストは相変わらず私が嫌いだよね〜、まるで『私と同じ顔の知り合いを知ってる』みたいな反応だよ」
 綺麗な深い赤紫の瞳が、困ったように細められた。
「で、ルナ。どれくらい必要だって?」
「最初くらいじゃない?」
「あはは、信じられないくらい大食らいだねぇ。また作るしかないか〜」
 二人は笑いながら席を立ち、喧騒の向こうに姿を消した。

 残されたノストは、額を押さえた。
 ……頭が疼く。
 ちりちりと焼けつくような、寒気のような、そんな違和感が漂うこの空気よりも……ルナを見た瞬間の、脳のずっとずっと奥を突き刺されたような感覚が気になった。

―――ノスト 貴方は覚えているのね

 ふと、手元のグレイヴ=ジクルド、その片割れの声がした。見下ろすと、ウォムストラルは、何処か寂しげな声音で続けた。

―――でも 貴方が覚えているのは 『あの子』が存在したという事実だけ

―――『あの子』のことは 覚えていないのね

 ……『あの子』?
 誰のことなのか、わからなかった。
 しかし、何かが……誰かが足りないのは確かだった。

 出自も立場もばらばらな自分たちを繋げた、核になった存在がいたはず。
 自分はずっと、その隣にいたはずなのに。
 顔も、名前も、思い出せない。

 探さなければいけない気がした。
 その存在がここにいないことに、訳もなく焦りを覚えた。
 どんな存在か、忘れてしまったのに。

 『どうか――』

 夢のような真っ白な世界で、その隣で。そんな声を聞いた気がする。
 これほど思考を支配するお前は、誰だ?

―――ひとつだけ 想定外があるわ

 ノストの絡まる思考を抑えるように、ウォムストラルが少し明るいトーンで言った。

―――あの子が消えていたら あの子の力が構成に含まれている貴方も 何かしら影響を受けるはずだった

―――けれど 貴方が無事に存在しているということは

―――あの子も何処かで生きている

 クロムエラトが効果的にはたらいた結果だろうと、神の石は呟いた。

―――カノンが探しているけど きっと意識だけで眠っているのでしょうね

―――そこから自力で再生するには 途方もない時間がかかるわ

 ウォムストラルが語る言葉や、その裏にある事情までは、わからなかった。
 ただひとつ、埋めようのない時間差を突きつけられているのは理解できた。
 それでも……

―――待つというの?

―――貴方は あの子を忘れてしまったのに

―――今の貴方に そこまで投げ打ってあの子を待つ価値はあるの?

 覚悟を問うように、ウォムストラルが言葉を重ねる。
 その言い分はもっともだ。覚えてもいない誰かを待つなんて、永遠に現れない相手を待つようなものだ。
 ……それでも。
 この胸のどうしようもない空洞と、駆け出したくなるような焦燥だけは、今ここにいる自分のものだ。
 この衝動だけが、そいつが確かに存在したことを証明していた。

 ふと、ウォムストラルが言った。

―――あの子から伝言があるの

―――楽しかった、と

「………………」
 ……知っている。それは、満足して死にゆく者の言葉だ。
 自分が死に際に、そいつに言ったものと同じだった。
 覚えていないのに、そう言う顔が想像できた気がした。

 おぼろげに思い出したことがある。
 そいつは神の子だった。
 呆れるほどの大馬鹿で、甘ちゃんで、自分はいつも何か小言を言っていた。
 あいつに、神になる手伝いをしてほしいと言われた。
 自分は……せめてもの反抗で、差し出された手をとらなかった。
 神になったら、あいつは自分たちと縁を切るつもりだっただろう。そういう奴だ。
 それだけはさせるつもりはないと決め込んで、自分はあいつに加担した。
 その末路が、これだ。
「……ざけんなよ」
 結局、あいつの思うように、世界は収束している。
 縁が断ち切られた新世界では、一緒に戦った仲間たちですら、あいつのことを忘れている。
 こんな世界は望んでいない。
 勝手に世界をつくり変えて、勝手にいなくなって、相変わらず自分勝手だ。

 あいつは神子として、神としての生き方を選んだ。
 すべてを一人で背負いこんで、消えた。
 きっと、皆は自分のことを忘れて、何も知らずに生きるとか思ってるんだろう。
「……馬鹿が思い上がるな」
 喉が痺れるような低い声が出た。
 あいつは、どれだけ人間を……自分を見下すつもりだ。
「てめぇの思い通りにはならねぇ」
 顔も声も覚えていない少女に言い捨て、ノストはグレイヴ=ジクルドの柄を強く握り締めた。



 そして、
 世界を救った救世主ディアノスト=ハーメル=レミエッタは、表舞台から姿を消した。