exodus

97 選んだ道

純白の大聖堂の上に伸びる太い尖塔。その左右に3つずつ並ぶ、細い尖塔。
それぞれの青い屋根の下に、全部で7つの金の鐘がある。太い尖塔には、その中でも一番巨大で低音を司る大鐘が吊り下がっている。
鐘の下には、鐘の修理で登る時とかのためだと思うけど、ちょうど部屋くらいの高さは空間が残してある。
大鐘の真下、その縁から、私たちは落下したんだ。

「……こ、こうして遠くから見るとぞっとしますね……」
大聖堂の端から端が視界に収まるくらいの遠い距離から。以前、私とノストさんが追いつめられて空に逃げるという選択をした場所を見据えて、私は血の気を引かせた。
ひ、ひぃぃいい……だって尖塔の上、凄い高いよ!? あんな高かったの!?
よくあんなところから逃げようと思ったなぁ私……!飛べたからよかったけど、普通なら…………うぁあああ飛べてよかったぁぁあーーー!!!
青い顔になっている私の隣で、私よりずっと高い視点から、同じように尖塔を見上げていたノストさんが言う。
「今なら問題ねぇだろ」
「お、大アリですよ!! 気持ちの問題です!飛べるとはわかってても、高いところから下を見たらやっぱり怖いですよ!? あの縁で足が竦んじゃいます!」
「飛び込めば飛ばざるを得ないだろ」
「そ、そーですけど……だって前も、その……ノストさんが一緒にいたから勇気出たんですよ?! だから、あの、飛び込む勇気が出るような言葉がほしいな〜なんて……」
「背中は押してやる」
「って今、明らかに物理的な意味で言いましたよね!? 言葉で押して下さい言葉で!!」
「落ちろ」
「うう、意地悪……」
ノストさんなら本当に、「落ちろ」とか「飛べ」とか言って私の背中を突き飛ばしてくれかねない……ひ、ひどい……。
統一感ある白亜の家が立ち並ぶ街。地面には濃淡さまざまな赤い煉瓦が埋め込まれていて、真っ白だけの街に彩りを添えていた。グレイヴ教団総本山、セントラクスだ。
一度、襲撃に会った場所にまた来るというのは、あまりよくないって素人の私でもわかるけど……私たちが飛び立った後のことが気になった。
あの時、私たちを追ってきていた神の軍は大聖堂を包囲し、神官さんたちが迎え撃っていた。詳しい状況までは知らないけど、尖塔まで私とノストさんを追いつめたことを考えれば、恐らく神の軍が優勢だったんだろう。
大聖堂の被害はどれくらいだろう?みんなは無事なの?
私のせいでみんな……、…………。
そう考えたら気が気じゃなくて、無理を言ってセントラクスに立ち寄ってもらうことにした。ちょうど方角も大体同じだったし。

そして、その不安は全部杞憂だったってことを目の当たりにしている。
すぐ目の前で見上げると、首が痛くなるくらい巨大な大聖堂。外観を見る限りは、神の軍の襲撃前のままだった。
不安を抱えながらその中に入ると、黒髪の男の人がにっこり微笑んで言ってきた。
「あ、こんにちはステラさん。お元気でしたか?」
金の縁取りがされた漆黒のローブは、レセルの証。その元締めを務める彼は、少しだけ跳ねた黒髪にのる帽子を直してから歩いてきた。多分、凄い顔で突っ立っている私に向かって。
それをぼんやり見ていたら、上から野太い声が降ってきた。
「何だァ?おらガキ、どかねェか」
「ひっ!? ごっごめんなさいぃぃ!!」
とっさに横に飛び退いたけど……なんだか聞き覚えのある声とセリフが、記憶に引っかかった。
ノストさんを見ると、私が背にしていた方を見上げて珍しく嫌そうな顔をしている。基本的に無表情なこの人に、こんな顔をさせるのは相当だ。
振り返ると、さっきの声の主は、長身のノストさんよりもさらに頭ひとつ高い、巨大な図体のおっさんだった。筋肉隆々の体に羽織っている白いジャケットは、見覚えのある青縁。
薄く生えた顎ひげをごつい手で一撫でして、おっさんは小さい目を丸くした。
「あァ?テメェ、何でこんなとこにいやがる、ハーメル」
「ゼーゴ、彼とステラさんの話はしたでしょう?」
おっさんがノストさんをミドルネームで呼んで言うのを聞いて、男の人が一言挟んだ。
あれ……このおっさん、ノストさんのことよく知ってる?ミドルネームまで知ってるくらい……というか、なんとなく見覚えがあるようなないような……?
「アノ、だから変なんだろうがよォ。一度襲撃された場所にまた来る、馬鹿なのかァ?」
おっさんはノストさんをぶしつけに指差して、なんとなく変な文章で不可解そうに言う。
すると、間髪入れずにノストさんの毒舌がおっさんの一言を跳ね返した。
「まともに文も組み立てられねぇ頭には劣る」
「んだとオラァ!!」
「ゼーゴ、ここは大聖堂です」
物腰柔らかな男の人が優しく、でも芯が通った有無を言わさぬ声でおっさんをたしなめる。
でも前会った時は、男の人は、ノストさんに会ったからか興奮気味のおっさんの威勢に押されて………………あ……、
「あ、ああぁぁあーーーッ!!!? あの時のおっさ……おじさ…………あ、あの時の!!!」
「喧嘩売ってんのかガキ!!」
「ごごごめんなさいいーー!!!」
とっさに「おっさん」って呼びそうになって「おじさん」に直そうとしたけど、もしかしたら見かけほど年齢は行ってないのかもしれないと思ってぼかした。でも見逃してくれるはずがなかったーー!!!
このおっさん……ゼーゴおじさん、でいいかな。この人は、私とノストさんが旅を始めたばかりの頃、賞金稼ぎの町アスラでばったり遭遇したおじさんだ。ノストさんに喧嘩ふっかけて返り討ちにされた。後で一応神官だってのはアノスさんから聞いてはいたけど……この粗野なおっさんが神々しい大聖堂に釣り合わなすぎて……。
「まあまあ、ステラさんもノストさんも、ご無事で何よりです」
「い、いやいやいや!! アノスさん達の方が大変だったでしょう!? 大丈夫だったんですか?!」
のほほんと微笑んでまとめちゃう大司教アノセルス=ギリヴァンさんに、私は、ここまでの流れで言いそびれていたことを含めながら、慌てて突っ込んだ。
はらはらと答えを待つ私とは正反対に、アノスさんは笑顔のままゼーゴおじさんを一瞥して言った。
「多くの負傷者は出ましたが、致命傷ではなかったですし大丈夫です。やはり目標は貴方達だったようですから、貴方達がいなくなったら、あっさりと退いていきましたよ」
「そ、そうですか……ならよかったです……」
「ところで、貴方達がどうやっていなくなったのか不思議なんですよ〜。階下に下りて来ませんでしたよね?」
「うっ……」
不可解そうに首を傾げるアノスさんに、私は言葉を詰まらせた。
そ、そうだ、普通の人は私の正体を知らないんだった……しばらく事情を知ってる人達といたから忘れてた……。
ノストさんに目で助けを求めたけど、彼はゼーゴおじさんに睨まれていてその相手で忙しいみたいで、こっちには見向きもしない。多分、視線には気付いてるだろうけど……わ、私がなんとかしないと……!
強張った顔でアノスさんに視線を戻したらら、目が合った彼はにっこり微笑んで。
「ねえ、ワープできたり空を飛んだりできるんですか?祝福の神子様」
「……………………………………へ?」
……ポカンとした間抜けな顔してると思う。
理解が追いついていない私に、アノスさんはお茶目にウインクして笑った。
「ふふ、僕だって大司教ですからね。内情には通じていないと」
とってもチャーミングに不敵にそう言うアノスさんは、残念だけどやっぱりお偉い大司教様には見えない……。
唖然としている私の両手を握り、アノスさんは目を閉じて、祈るように微笑んだ。

「祝福されし希望、アテルト=ステラ。どうか、貴方の行く未来さきに希望がありますように」

さっきまでの温厚な男の人はそこにはいない。
厳かな雰囲気をまとった大司教さまは、祈る。
そんな地位にいる人が祈る相手とは思えない、こんなちっぽけな小娘に。

——私が向かおうとしている先に、希望はあるのかな。

とか思ってしまった瞬間。
げしっ!!と足の横、土踏まずの脇に何か勢いよくぶつかった!!
「あいたぁッ!!?」
思ってたより痛くて、びっくりしてアノスさんから飛び退いてその場で片足跳びする私!ま、マヌケだ!!
激痛ってほど痛くはなかったんだけど……多分、上手く加減してるんだろう。でもこう、衝撃で痺れた感じ!長時間、正座した後みたいな片足を上げて跳ねるから、揺れる度に足が痛いい!!
とっさに何か支えがほしくてそこにあった壁に掴まって、ようやく足が安定する。ふぅと一息吐いて、すぐさま攻撃してきた主に言う!
「ノストさん〜〜!!! 足っ、足痺れて……!ううう……人の足蹴るなんて何様ですか?!」
「意志薄弱な馬鹿神子の面倒を見せられている被害者様だ」
「うう、耳に痛いこと言わないで下さいよ……って、え?」
グサグサ突き刺さる毒舌は、私の真上から降ってきた。そこでふと私は、壁に掴まっている・・・・・・ことに気付いた。
すでに確信しつつ恐る恐る顔を上げると、ノストさんが目の前にいた。ノストさんのジャケットをぎゅっと掴んで、私は立っていたんだ。
「ひいいごめんなさいぃッ!? いったあぁ?!」
「だ、大丈夫ですかっ?」
何も考えずにとにかくパっと手を離したら、バランスを崩して盛大に尻餅をついて、今度はお尻が痛い!今まで呆然と事を見ていたアノスさんが、やっと我に返ったらしく声をかけてくれるけど、大丈夫じゃないです。
私は涙目で、座った体勢から見上げるとずっと高く見えるノストさんを仰いだ。
すると彼は、近寄って来ようとしたアノスさんを牽制するように睨んだ。その視線に気付いたアノスさんは、よくわからないけど苦笑して身を引く。な、なになに……?
困惑している私の前に、長身のノストさんがすっとしゃがみ込む。
おもむろに、私に両手を伸ばしてきて。
ぐいっ。
「いっ!?」
「くだらねぇこと考える暇あるなら騒いでる方がマシだ」
「いいい痛いですノストさんッ!!? かか髪抜けます!!」
肩にかかる髪を両手で左右からぐいっと引っ張るもんだから、髪の生え際が引き攣れて痛いぃいー!! か、髪が抜ける!大体いつも私を騒がせている元凶は貴方ですよねーー!?!
引き攣れる頭を抱えながら思ってたら、唐突にノストさんの手がぱっと離れてホッと一息。か、髪抜けなくてよかった……。
「馬鹿は馬鹿らしく前だけ見ていればいい」
「え……」
ヒリヒリ痛い頭皮を押さえていたら、ぼそりとノストさんが言う。
思わず顔を上げると、いつもの無表情が毒舌を発揮する。
「そしてつまずいて顔から着地しろ」
「鼻が低くなるじゃないですかッ!? 顔から着地する前に手で防御しますよっ!そういうのは私、素早いですからね!?」
「非戦闘員のフリも俺のお守りも終わりだな」
「紛うことなき非戦闘員ですよっ!! 素早いからって戦えるわけないじゃないですし、お守り続けて下さいよ!だってノストさんは、私の……げ……下僕なんですからねっ!!」
やっぱそう言うのは恐れ多いし恥ずかしいけど、でも言ってやった!!
ブッと、誰かが吹き出すのが聞こえた。
話の途中で立ち上がっていたノストさんは、微妙な表情でこちらを見下ろしている。
成り行き上、床に座り込んで私はそう言ったから、傍から見ればただの駄々っ子みたいになっていたことに気が付いて、余計に恥ずかしくなる!顔が火照ってきて、慌てて立ち上がって姿勢を正すけど後の祭り!
深呼吸。
……そうやって、いつもはぐらかすけど。ノストさんは単純なことを言いたかっただけなんだ。ちゃんとわかってるよ。

「だから、私について来て下さい」

そう言って私は、手を差し出した。
——私が向かおうとしている先に、希望はあるか?
そんなもの、最初からない。
勝算の話をしているんじゃない。
正直、不安でいっぱいだ。目の前が真っ暗に見える時もある。
でもその暗闇の中でも、自分が信じた道を、何度も転びながら突き進むことがきっと、その先にある希望に繋がっている。
私に、叶えられない想いはない——!

宙に浮かぶ私の手。
……を、ノストさんは振り払い、私の顔の前に手を出して、ばっちーん!!☆とデコピンをかましてきた!!
「いッたぁあ!!?」
「俺に上から目線なんぞ千年早い、この下僕」
「だ、だから下僕は……」
「ついて来い下僕、その先に連れて行ってやる」
「あ……」
おでこを押さえる私に構わず、手を下ろしたノストさんは背を向け、大聖堂を出ていく。彼の背が、明るい光が差し込む扉の向こうに霞む。
……ノストさんって、私みたいにクロムエラトがあるわけでもないのに、私が考えていることよくわかるなぁっていつも思うんだよね。私がわかりやすいだけなのかな。……敵わないや。
その離れていく背中に、ゼーゴのおじさんが言う。
「おいハーメル、そんなことより俺とまた戦え」
「あれがお前の本気なら時間の無駄だ」
「あァ?? 怖気づいたのか?」
「はぁ?話が通じねぇ馬鹿に用はねぇ」
「テメェふざけんな!!?」
「下僕以下の人間は愚民だ」
「何で私がボーダーラインなんですかッ!?」
ノストさんは、ゼーゴおじさんが、初めて会った時のことを「一戦交えた」ってカウントしていることについて言ってるんだろう……私も『また戦え』って、どういうことなのかなって思った……。
今日も王子様は傍若無人です。

 

 

 

 

 

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ユグドラシルは、本当に星空なのかもしれない。
無数の魂が星のように煌く、あの真っ暗闇。
すべての魂の故郷であり、墓地でもある、エオスを内包するさらに大きな世界。
……ということは、このエオスから見えている星空は、もしかしてユグドラシルの空なのかも。
「人は、死んだら星になるって言いますよね。もしあれがユグドラシルの空なら、それはある意味、当たってるってことじゃないですか?」
「太陽と月はどう説明する」
「う……き、きっと魂の中でも格が違う、でっかい魂が二つあって」
「見た覚えがねぇな」
「うう……私もユグドラシルでそんなでっかい魂見ませんでしたよ……」
あっさり論破される私。でも、もしそうなら凄く素敵な話だなって思って。
見上げた星空の何処かに、お父さんやお母さんの魂も輝いているって実感を持って見れる。
セントラクス郊外の森の近く。少し丈の長い草が生い茂る原っぱに寝転がって、私は星を見上げていた。隣には、地面が剥き出しになっているところで起こした火の番をしているノストさんがいる。
ノストさんの療養のためにアルフィン村に滞在してから村を発ち、数日経った。
樹海ナシア=パントの中にある境界を目指して、私とノストさんはまた旅をしている。
セントラクスの様子を見てから街を出たけど、途中で日が暮れてしまって野宿するはめになってる。野宿ってなんだか久しぶり。

『私、考えがあるんです。神様に会って、それを話したら、この現状をどうにかできるかもしれないです。だから、私を信じてくれませんか?』

……出発前、私のそんな一言に、みんなが尋ねてきた。
考えって何?って。
あの一言を言い放った時から、私はそれを誰にも言う気はなかった。
ただ、私を信じて、任せてって、それだけを言って出てきた。
みんなの不安そうな顔が目の裏に焼きついてる。
……でも。ノストさんだけは、聞いてこなかった。それとなく問い詰めてくると思ったんだけど。
私の考えてること、わかっちゃってるのかな?
それとも……私を、信じてくれたのかな?

……それにしても。
昼間の太陽をいっぱい浴びて温もりを蓄えた草原は、そのまま寝ても大丈夫そうなくらい温かかった。……温かかったんです。
日が落ちてしばらくしたら、草原から思っていたより早く熱が消え失せちゃったんだよ!ううっ寒い……!念のため羽織るものは持ってきたし、今着てるんだけど手が冷え切ってつらい……。
我慢できずにむくっと起き上がって、火の傍に寄った。もし風邪引いたら旅の日程が遅れるし、ノストさんにも迷惑かかる……!
「ううっ、今日は冷えますね……!火のありがたみを実感します……」
「なら飛び込め、背中は押してやる」
「そこまで過激にはいらないですよ!謹んで遠慮します!!」
こ、この焚き火の中に飛び込んだら燃えちゃうよ……!! 私、暑いのはダメ……いや、熱さと暑さは違うか……。
とか考えてたら、何かが肩に触れる感覚がした。えっ?と思って見てみると、サイズの大きいジャケットが私の肩に掛かっていて。
びっくりして左側にいるノストさんを振り向くと、やっぱり、さっきまで着ていたジャケットがないノストさんが、しかし何事もなかったかのように焚き火を向いていた。
「ちょ……あの、ノストさん、心遣いは嬉しいですけど……私、平気ですよ?ノストさんの方がまだ病み上がりですし、今、風邪なんて引いたらもっと大変ですよ!」
「邪魔だ」
「ジャケットのことでも私のことでもいいですけど、どっちも譲れませんっ!」
私は両肩にかかる彼のジャケットを肩から下ろして、体の前で広げて両手で持って。
えいっ!と素早くノストさんの背中にかけ……ようとしたら、ノストさんはひょいっと身を引いて避けたッ!?
「な、何で避けるんですか!? ジャケット返そうとしてるだけですよ!」
「読みが甘い」
「ていっ!とりゃ!な、なんか私、野生動物を捕まえようとして失敗してる人みたいじゃないですかッ!?」
「動物が人間を捕まえようなんざ自惚れんな」
「私が動物の方なんですかっ?!」
数回避けられた末、ようやく私はノストさんを捕まえた!って、なんかちがーう!! それに多分、最後はノストさんがお慈悲で動かなかっただけ……。
ノストさんの肩に彼のジャケットを羽織らせて、襟元を正しながら私は少し白い息を吐いた。
「もう、今はノストさんの方が体調よくないのに……体、冷やしたらダメですよ。自覚ありま……」
そう言いながらおもむろに顔を上げたら、一瞬心臓が止まった。
……ノストさんの顔が思っていたより近距離だったから。

炎が揺れる瞳に、真正面から私が映り込んでいるのが見える。
数秒、その煌きに見とれてから、はっとして慌てて目を逸らした。
つ、つい見とれちゃったけど……ちっ……ち、近い……!!
と、とりあえず離れよう。彼の襟元から手を離す。
でも、その動きが止まった。……横から伸びてきた手に、左手を掴まれたから。

「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「……あ、あの……ノストさん?」
とかいう声とは裏腹に、私の頭の中は完全パニックで。どっどうしようどうすればいいのーーッ!!!?
脳内は物凄い速度で暴走しているけど、どうしたらいいかわかんなくて顔にも体にも表面には出てこない!
ただ固まった表情でノストさんの目を見ていたら、その瞳が不意に動いた。……掴まれている私の手に。
「馬鹿が体温を奪おうなんざ100年早い」
「な……何ですかそれ!? そんなことしたらノストさんが寒いじゃないですか!」
何のことかと思ったけど、多分、私の手の冷たさについて言っている。冷えると真っ先に手足が冷たくなるんだもん……!仕方ないじゃない!?
でも、確かに……ノストさんの手、あったかい。というか、私の手が冷えすぎというか……。
ノストさんは私の手を離すと、何事もなかったかのように私の前で仰向けに寝転がった。
左手を頭の後ろに敷いているこれは、彼の寝る態勢だ。借り物の剣を傍において、右手はいつも自然と下ろしている。多分、いつでも剣を手にとれるように。
私の目の前には、手のひらが上に向いた彼の右手がある。
「………………」
私はひとまず、ノストさんの隣に同じように横になった。
仰向けの世界、視界が星空で埋め尽くされて、星がぐっと近く感じる。
それを見つめたまま、私は静かに聞いてみた。
「……あの……ノストさん。……手、握ってもいいですか?」
「体温は奪わないっつったのは誰だ」
「あっ、えっと……そ、そうでした……」
そ、そうだった。私の手、冷たいんだった……ちょっと手繋ぎたいなんて思ったけど、ノストさんにまで寒い思いさせちゃう。
少し残念な気持ちで息を吐いたら、手に熱いくらい温かいものが触れた。私がびっくりしている隙に、指と指の間に滑り込んでいく。左手を持ち上げてみると、別の手が私の手に絡まっていた。
「の、ノストさんっ?ノストさんまで寒くなっちゃいますし、無理しなくていいですよ……!?」
「死人同然だな」
「ひ、ひどい……そこまで冷たくないですよっ!」
「満足か」
「えっ?あっ……は、はい……」
ストレートに聞かれて、私の方がたじろいだ。わけわかんなくて目を瞬きながら答えると、ノストさんは何も言わずに瞼を下ろした。
完全に寝る態勢に入ったノストさんの横顔を、私は混乱したまましばらく見つめた。……ど、どういう気まぐれなのかな……いつも気まぐれだけど……。
私の左手と、あったかいノストさんの手。彼の体温のおかげで、私の冷たい手もほんのり温かくなっていく。
ふふ……ほんと、ノストさんの手、あったかい……。
ぎゅっと握り返して、私は一人、自然と浮かんだ微笑みで空を仰いだ。

 

 

 

旅をしながら、いろんな街に行って、いろんな人に出会って、ノストさんが隣にいて。
私は今、とても幸せだ。
……だからこそ、切ない。

私は神子。
ずっとこのままでいたいって「不変」を願っちゃうけど、そんなことは許されないから。
私とノストさんは、このままじゃいられないから。

 

 

———これが最後の旅だって、わかっているの。

 

 

 

 

 

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ノストさんは、本当は、もっと普通の人生を歩んでいたはずだった。
剣一本で大陸一の剣豪になってたり、もしかしたら気まぐれで公爵の座を継いでいたり、もっと、もっと普通の人生を送っていたはずだった。
神とか神子とかアルカとか、こんな超常現象みたいな世界とは、別の世界の人だったはずなんだ。

彼の人生を狂わせたのは、一体何だったの?
ヒースさんと知り合ってしまったこと?
グレイヴ=ジクルドをとっさに掴んでしまったこと?
あの日、あの薄汚れた牢屋で……神子の私と出会ってしまったこと?

 

 

 

「何か必要なものがあったら言ってくれ。揃えられるものは揃えよう」
久しく聞いていなかった声が、変わらないハキハキとした早口めの口調で放つ。抑揚が少ないから怖いようにも聞こえるけど、ただ真面目なだけで、怒っているわけじゃないというのを私はすでに知っている。
アノスさんが着ていたものと同じ、金の刺繍が施された漆黒のコート。その下には赤縁の白い神官服をまとっている。
深い空色のような青のショートヘアーを持つ背中に、私は微笑んだ。
「レネさんから聞きました。レネさんの家にわざわざ行って、私が何をしたのか、何が起こっていたのか説明してくれたって。……遅くなっちゃいましたけど、ありがとうございます、イソナさん」
「私は事実を伝えただけだ。感謝される謂れはないな」
青緑の瞳で私を一瞥してそう言うと、タミア村司祭のイソナ=ファリ=メルティさんは、さっさと部屋から出て行った。
彼女は嘘もお世辞も言わない、自分が思ったことをありのまま淡々と話すから、その言葉は間違いなく本心だろう。何を思ってそこに至ったのかまでは、私が勝手に思い込んでおくことにしよっと。
あれから何度か月が昇って、ナシア=パント内のタミア村まで近付いた。村の人達の異常な信仰は相変わらずみたいだから、私たちはこそこそと教会を訪れるはめになった。
ここまで来れば、エオスとユグドラシルの境界であるダウィーゼはすぐそこだ。

部屋の中は、前に来た時と変わりなかった。
ドアの正面にある窓。そこに向かって左右の壁にくっつくように配置された質素なベッドと、部屋の真ん中にある木目のテーブル一式。前は部屋にベッドは一人分しかなかったけど、もう一台増やしたみたい。
そこに座っているノストさんは、右手のひらを見つめていた。あ、そうか……感覚が戻った後、また何度か破壊ロアを使ったから、少し感覚が鈍ってるのかな……。
「この教会、台所ありますし、久しぶりに好きなもの作れますね!何作ろうかな〜」
「下僕、腹が減った」
「偉そう、かつ当然のように言ってくれますね……でもでも、久しぶりですし許します!お魚あったらお魚料理ですね!」
「はぁ?鮮度が命だろうが」
「新たに採って来いって、残されたお魚さんが可哀想じゃないですか!? というか、それならノストさんが採ってきたらどうですか? ……もしかして、釣りもしたことないし、手で採ったこともないとか?」
「下僕の仕事だろ」
「図星ですね……」
まぁ……ノストさんが釣りしてるところなんて、確かに想像つかないけど。ふふ。
窓の外を見ると、夕日の赤はもう沈むところだった。ほの暗い夕闇の村を彩るように、ほんのり残る紅も、だんだんと薄れていくんだろう。
ダウィーゼ付近には、認知を歪めるアルトさんの術式が展開している。アルトさんの術式はオースで構成されているから、それより上位、ボルテオースやジクルドとかはその影響を受けない。だから初めて行った時、私やジクルドの契約者だったノストさんは入れたんだ。
あの時はまだ、クロムエラトを使いこなしてなかったけど……今なら、きっと術式が青く透けて見えるはず。要はそこを目指せばいい。

明日、ダウィーゼを探しに行く。
今日は、前日・・
この旅が終わる、最後の日。

深呼吸。肺の中の空気が入れ替わる。
……ずっと、思っていたことがある。
私がノストさんを蘇生させ、彼に連れられてユグドラシルから帰ってきてから、ずっと考えていたこと。
心の奥底に引っかかる棘。

 

 

 

「———昔々、あるところに、大貴族の一人息子として生まれた男の子がいました」

ノストさんの傍に、そっと近付いた。
いつも高いところから見下ろしてくる双眸は、今は私よりやや低い。背もたれに寄りかかる彼は、唐突に明るい口調で言い出した私を見返す。
まっすぐこっちを見てくる視線が突き刺さるのを頬に感じながら、私は続ける。
「その男の子は、きっとご両親やお師匠様の教えもあって、頭が良くて、とっても強くて、楽器の演奏が得意な、素敵な人に育ちました。……ちょっと意地悪さんでしたけど」
「………………」
「その人は、ある少女と出会って、その子にまつわる予想以上の出来事に巻き込まれていきます。たくさん傷も負ったし、一度、本当に死んでしまったこともあります。それでも……その人は、少女を助けてくれました」
懐かしい記憶が、脳裏に閃いては消えていく。
大事な大事な思い出たち。
「———でも……そのうち、その人は……人じゃ、なくなっていました」
……いつの間にか、声音が下がっていた。表情も強張って、上手く笑えない。
「……彼には、この世界で無数の可能性があったはずなのに。摘み取られたんです。摘み取ってしまったんです。全部、全部……私が……巻き込んでしまったから……っ」
ちゃんと話を考えてから語り出したわけじゃなかったから、あっという間に感情に乗っ取られる。
ぐちゃぐちゃの気持ちが唇を突く。
「ノストさんは、この世界の人間です。この世界で生きるはずだった人なんです」
ノストさんには、人間のままでいてほしかった。
3年のズレがあったって構わない。それでも彼は人間だったのに。
私が、自分のエゴで、取り返しのつかないところまで捻じ曲げてしまった。
「そんな貴方を、この世界の人間じゃない者が、巻き込んでしまった」
——私は、人の形をした神子なんだ。
誰一人として同じ者はいない、唯一無二の存在。
誰よりも神様に近い場所にいる存在。
神様よりは寛大で、人間のように衝動では動かず、後先考えて行動するような存在になりたいって思ったのに、全然ダメで。
きっと私は、ノストさんのようになりたかったんだ。
それは、私が神子だから——

 

 

「———私なんかと……出会うべきじゃ、なかったのかも」

 

 

しん、と空気が張った。

……それは、
ここまで歩いてきたこと、
みんなとの繋がり、
みんなの意志、
すべての根底を揺るがす一言。

言ってから、頭のどこかでわかってしまった。
きっとこれは、ノストさんを怒らせる。
きっとまた、信用してないのはお前だとか言われて、怒られる。
ちゃんとわかってる。ノストさんが信頼してくれてることも、私が思ってるほど迷惑を迷惑だとも思ってないことも。
でも、優しすぎてつらいよ。私は迷惑ばっかりかけてるのに。仲間だとしても、一方的すぎるよ。
いっそ怒られたいのかも。そうやってまた手間ばっか増やして、ああもう私って本当に面倒臭い。

 

 

 

「—————わかってねぇ」

自分が情けなさすぎて、いつの間にか目を閉じていた。黒い視界の外で、予想通りの低い声がした。怒ってる。
どんな毒舌を言われるのかと俯いてはらはら待っていたら、声はなかった。
代わりに、左の手首に何かが触れた。
え?と目を開いて、私が顔を上げたのを見計らったように、ぐいっと腕を引っ張られた。
理解が追いつかずに前にたたらを踏みながら、移り変わる視界に、イスに座ったままのノストさんが映った。

何かが、唇に触れた。
呆然とする視界いっぱいを占める、きめ細やかな肌色。艶やかな銀糸。その色に重なるように、目の裏で山吹色の光がちらついたような気がした。
ボルテオースを吸収してる。
「っ……!?」
前にも経験があったから理解は早かった。
唇に触れるあたたかくて柔らかいものを悟った瞬間、とっさに離れようとした。けど、私の後頭部と背中に回った大きな手がしっかり掴んで離さない。
やっと束縛が緩み離れたかと思うと、息吐く間も言葉を紡ぐ暇もなく、再び口を塞がれる。
「……待っ……ん……っ」
何度も、何度も。
私の意思なんてすべて無視の、一方的な関係。
まるで捕食されているようで、火照る体とは裏腹に、ひんやりとしたものが背筋を撫でる。
その冷たさで目が覚めた頭の片隅で、理性が警鐘を鳴らした。

 

 

———このままじゃ、ダメだ———!!

 

 

強い衝撃音が、壁を振動させた。
ぺたんと座り込む私。両膝から着地したから、打った膝がじんじんと痛む。
私の目の前には、もう誰も座っていないイスが、背もたれを向こう側に倒していた。
その背もたれが差す先の壁に、背を預けて座り込んでいるノストさんがいた。
……私が望んで、クロムエラトで、ノストさんを弾き飛ばした結果だ。
「……わ……わたし……」
キスの直後であることや拒否してしまった緊張、望んだとはいえ自分が引き起こした目の前の光景に、胸が忙しなく鳴って呼吸が浅い。
頭の中がごちゃごちゃで、すでに何の胸の高鳴りなのかわからない。
足に力が入らないし、指先も震えている。その指をもう片方の手で胸元で握り締めて、うるさい鼓動を落ち着かせるようと、目を閉じてうつむいた。
「わかってねぇ」
囁くような掠れた声を聞いて、肩が跳ねる。
彼が私を引き寄せる前と、同じ一言だった。
彼は、こちらを見つめている気がした。
「俺は巻き込まれたつもりはねぇ。見切ろうと思えばいつでもできた。自分がやりたいようにしてきた結果が、これだ」
荒い語気で言い放たれるのは、率直な言葉たち。
私の両耳にすんなり馴染んでいく言葉は、私の胸を穿っていく。

「てめぇは、俺が選んできたものすべてを軽蔑した」

ノストさんが選んできたもの。
無関心な彼が、大事だと思って選んできたもの。
剣。
楽器。
お父さん。
グレイヴ=ジクルド。
———私?

「っ——!!」
ほとんど条件反射だった。
力が入らなかったはずの両足が嘘のように動いて、私は部屋を飛び出した。
教会の裏口を駆け抜け、足が進むまま、あてどなく森の方へと走る。

 

 

 

ああ、あの日みたいだ。
自分がルナさんの複写だって告げられて飛び出した、忘れもしないあの日。
どうしていいかわからなくて、自分が壊れそうで、とにかく逃げたかったんだ。
今も、同じ。
ノストさんに大事だって告げられて、私はまた飛び出した。
どうしていいかわからなくて、自分が壊れそうで、とにかく逃げたくて——

 

 

 

「———嬉しい、ですよ」
樹海の前に立ち尽くして、私はぽつりと言葉をこぼした。
……ノストさんは、私を選んでくれた。
だから、死のうが人間じゃなくなろうが、私についてきてくれた。
それ以外に理由はないって、そう言ってる。
嬉しいに決まってるよ。損得勘定抜きでついてきてくれてたって、嬉しいよ。私、何も返してあげられてないのに。
でも……、
「……でも……ダメなんです」
ダメなんだ。……特に今は。
素直に嬉しいっていう気持ちと、ダメだっていう気持ちの板挟みにあって爆発しそうで、壊れるかと思った。
でも今、私は、笑ってる。きっと上手く笑えてないけど。
神子だってことが原因じゃない。今、素直に喜んでしまったら、私はきっと——怖くなってしまうから・・・・・・・・・・

『……貴方が何をしようとしているか、なんとなくわかったわ』
「……アルトさん」
薄闇の空から、声が降ってきた。聞き覚えのある声に顔を上げる。
そうか……アルトさんも体の構成のほとんどはボルテオースだから、前に私がフィアちゃんにやったみたいに声を届けることができるんだ。半分くらいは術式でカバーしているかもしれない。
アルトさんは、何処となく寂しげな口調だった。
『今の二言しか聞いていないけれど……そうね。現状、それ・・が一番の解決法ね……そしてそれは、神子の貴方にしかできない。エオスを護りたい私としては……貴方には、つらい思いをしてもらうしかないわね』
「……はい。元から、そのつもりです」
聞く人によっては非情にも聞こえるかもしれない、アルトさんのその一言を聞いて、ブレていた意志が統合される。
落ち着いてきて、私は少し安心した。

……まだ大丈夫。やれる。
根本的な解決ができるのは、私だけなんだ。
神子である私にしか。

 

 

 

「—————じゃあ、連れて行ってあげる」

かすかな微笑を含んだ、聞き覚えがありすぎる声音。
背後から転がってきた声に、猛然と振り返ると、そこに鏡を見た。
私の顔と寸分のズレもない女の子が、真意の読めない瞳のまま、こちらに手を伸ばしていた。
手首を掴まれて、引っ張られた。
……後ろに。
「……!?」
鏡の少女の驚いた顔が、急に遠ざかる。
後退した私の代わりに、私の脇から影が前に飛び出した。
尻餅をついた私の前に立つ紫色の背中。その体に山吹色の光が縦横無尽に走り、線と言語を刻んでいく。物を解析、神界に引きずり込む術式だった。少女の手が彼をとらえたんだろう。
やがて解析を終えた術式は、その足元に真っ白な大きな穴を空けた。足場を失った彼の体が傾ぐ。
振り向いたダークブルーの瞳と、目が合った。
彼は、今まで見たことのない、かすかな表情を浮かべていた。
「……や……」
……どうして。
疑問に、心が、体が震えた。呆然と、その目を見返す。
どうして。
私はさっき、貴方を拒絶したばかりなのに。
――どうして、そんな安心しきった顔をするの?

「だめぇえーーーっ!!!」

恐怖に掻き立てられ、私は飛び出していた。
落ちていくノストさんを追って、穴に飛び込んだ。
エオスとユグドラシルの白い境界。驚いた顔をした彼に必死に手を伸ばしたら、つられるように彼も手を伸ばして。

私たちは、真っ白な世界に呑まれていった。