relic

86 代償

 耳元を吹き抜ける風の音。長い間聞きすぎて、それが風の音だという認識さえ崩れていた。
 その音が、急に途絶えた。
 ばしゃん!という妙な音を境に、世界は静寂に、真っ暗になる。

 ……息苦しい。
 呼吸ができない。目が開けない。
 肌を撫でるひんやりとした感覚で、自分が水の中にいることだけはわかった。
 でも、それだけ。体はぴくりとも動かない。
 暗い、暗い、水底へ堕ちて行く。
 沈んでいこうとする私の手を、誰かが掴んで引く。

「ぷはっ……!」
 水面に顔が出て、圧迫感が消える。うっすら目を開くと、ノストさんが乱雑にグレイヴ=ジクルドを岸に投げたのが見えた。
 両手が空いたノストさんは、私が動けないことを察してくれたのか、私を抱き上げて水から上がる。
「…………逃げ……られた、んですか……?」
「ナシア=パントだ」
「……そ、ですか……」
 言われてみれば森の中だった。ぼんやりした視界に、濃いオースが目に見える形……もやとなって漂っているのも見える。
 ノストさんはグレイヴ=ジクルドの傍にそのまましゃがみ込み、地に突き立っていた剣を引き抜いた。傷を負っている右手で。私は彼の左腕に支えられる形で、地に座る。
 私が今動けないように、ノストさんも神の軍を相手にして相当疲れてるはずだ。その横顔には、かすかに疲れが滲んで見える。疲れを隠し切れていない。
 さっき私達が飛び込んだのは、綺麗な湖だった。汚い沼とかじゃなくてよかった……。
 ……でも……何だろう。この景色、なんだか、見覚えが……

「あらぁ……なんだか凄い音がしたと思ったらぁ……こんにちは~。お久しぶりねぇ」
 ……私がそのことを思い出して、身を強張らせた瞬間。答えのように、のんびりした女性の声が聞こえてきた。
 疲労していたノストさんも気付けなかったらしい。しかし害意のある気配ではなかったから、私達は呆然とそちらを振り向く。
 予想通りの知っている女性が、私達の傍まで歩いてくる。
「あら坊や、怪我してるのねぇ。あぁ痛そう~」
「れ……レネ、さん……?!」
 ノストさんの腕を見て思わず身を抱く赤紫マゼンタの長髪の彼女は、相変わらず深刻そうに聞こえない、間延びした声で言った。
 ……レネ=パストリアさん。忘れもしない……前に私は、彼女から第1級封印指定のアルカ・デストレノを強奪した。お兄さんの形見だった、大事なバイオリンを。
 あの時、レネさんは……凄く泣いていた。返してって、ずっと。
 だから、当然嫌われてると思ってたのに……どうして……?
 硬直している私の傍らにしゃがみ込んだレネさんは、私に背を向けて微笑む。
「じゃ、お嬢ちゃんは私が運ぶから~、坊やはついてきてねぇ。はい、おんぶ」
「……あ、い、いえあの!私……」
「疲れてるみたいだからぁ、休まなきゃ~。ね?」
「で、でも……、わっ!?」
 私がその背に手を伸ばさないでいると、ノストさんが強制的に私をレネさんの背中の前に突き出した。レネさんは「は~い、行きますよ~」と、私をおぶって立ち上がる。
 レネさんは、ほわほわした雰囲気とは裏腹に、足腰がしっかりしていた。私一人の重さなんて苦じゃないと言わんばかりに、さくさく歩いていく。
 ……そういえば、彼女の家からオルセスの街まで、遠いんだっけ。それで鍛えられてるのかな……。
 喧嘩別れのように別れた人の背中の上で、私は物凄く落ち着かなくて。でも体は動かないから、されるがままに彼女の家に連れて行かれる。
 ゆさゆさ揺れる背の上。香水か何かなのか、かすかに優しいいい香りが漂ってくる。
 ……お母さんにおんぶされる子供って、こんな感じなのかな。
 なんだか……ほっとする……。

 ……………………

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 ぬくもりの中、遠くから、綺麗な音色が響いてくる。
 その音に誘われるように、ふと目を覚ました。
「………………」
 ……あれ……私、寝てたんだ。
 数秒ぼんやりしてから、『目を覚ました』ということで、さっきまで寝ていたということに気が付いた。いつ寝ちゃったんだろ……。
 仰向けの視界には木の天井。ゆっくり身を起こすと、私はベッドの上にいた。
 辺りを見渡してみると、こじんまりとした小屋の中だった。もしかしなくてもレネさんの家だ。見たことのある風景だし。
 小屋を包み込むように響く音色は、伸びやかで綺麗な繋がりを生んでいく。……バイオリンの音色だ。
 そこにあったテーブルの席で、こちらに気が付いて振り向くノストさんに問いかけた。
「レネさん……外、ですか?」
「……馬鹿は、寝れば全回復か」
「あ……はい。もう大丈夫です。ただ疲れてただけみたいなので……」
 相変わらずの言葉。もう慣れたもので、大体何を言いたいのかわかる。
 湖に落ちた頃は、全然体が動かなかったけど、ぐっすり寝て疲れも取れた。ノストさんは、まだ疲労の色が濃い……って……、
「も、もしかしてノストさん……ずっと休まずに起きてたんですか?! 私が寝てたから……!」
「お前が寝てなくても起きてる」
「で、でも!ちゃんと休まないと、いつ神の軍が来るかっ……」
「だから起きてる」
「……でも……」
 ……ノストさんの言い分もわかるから、それ以上反論できなかった。
 神の軍は、本当にいつ来るかわからない。だからこそノストさんは、ずっとそれに備えてる。休みもせずに。
 でも……ちょっとでも休まないと、ノストさんが……。

 ……ふと、ノストさんの様子が目に入った。
 彼は、ちょうど自分の右腕に包帯を巻いているところだった。床に汚れたものが落ちているところを見ると、新しいものに変えようとしているらしい。でも片腕だから上手く巻けずにいて、ごわごわしている。
 私が気付いたと察したノストさんは、こちらを一瞥して。
「下僕、仕事だ」
「……寝起きの人を使うんですか……まぁいいですけど」
 困っているようだったし、私はノストさんの傍に行って、彼の腕を取り巻くゆるゆるの包帯をまず解いて。
 ……その下にあった傷を見て、息が詰まった。
 血塗れだった。
 ヒースさんはどうやら、集中的に右腕を狙っていたらしい。右腕全体にたくさんの切り傷があって、特に二の腕の傷が深い。血はまだ止まっていない。
 思わずノストさんを見る。彼は到って平然とした顔をしている。だけど……これ……!
「の、ノストさん……大丈夫なんですか!? こんなっ、傷だらけで……」
「別に」
「嘘です!! 絶対、痛いに決まってます!どうしてそんな、平気な顔して……」

――ガチャンッ!!――

 ……不意に、ある景色が頭を過ぎった。
 その記憶が、この違和感の理由を説明してくれて……私は、愕然となった。
 ……血に塗れたノストさんの手に、恐る恐る、両手を伸ばす。
 血で汚れるのも構わず、大きな手をぎゅっと掴んだ。そのまま、ゆっくり持ち上げる。傷口が引き攣れて傷口から血が滲む。
 ……だけど、ノストさんは表情1つ変えない。絶対痛いはずなのに。
「―――どうして……」
 ……ダメだ。泣きそう。
 ぽろぽろ涙がこぼれてきた。
 嘘でしょ……?ねぇ……!

「どうして、言ってくれなかったんですか……?右腕の感覚、ないって……!!」

 ……フォークを落とすなんて、私の知っている彼では有り得ないこと。だからあの時、強烈な違和感があったんだ。
 思えば私は、よく右手を見つめているノストさんを見た。あれは、このことを気にしてたんだ……!
 出血しているせいで、少し冷たい、でも温かい彼の手。私には感じられる彼の体温。
 でも……私の体温は、ノストさんには届いていない。
 その事実が切なくて、悲しくて、涙が止まらなかった。

「………………ユグドラシルから帰ってきてからだ」
 ……やがて、ノストさんが口を割った。
 私に掴まれている右腕はそのままに、空いている左手をおもむろに伸ばし、私の頬を濡らす涙を拭ってくれる。……この左手は……まだ感覚が、あるんですよね……?
「その時から違和感はあった。……だが、完全に感覚が消えたのは、ミディアで破壊ロアを放った時だ」
 ミディアで、ユニスさん率いる幽霊軍が来た時だ。最後に、ノストさんが破壊ロアで一掃してくれた……。
 破壊ロアが……ノストさんの体を蝕んでる……?
「じゃあ、ずっとっ……感覚のない右手でっ……剣、持って……!」
「目で見て握れば問題ない」
「そういう問題じゃないですッ!! どうして言ってくれなかったんですか!? 知っていればっ……!!」
「どうにかできたのか?」
「………………」
 ……淡々とした口調で、すかさず入れられた一言は、拒絶でも不信でもなく。『どうにもできない』と理解して、最初から期待していない声音。
「お前によそ見できる余裕なんざねぇだろうが」
 左手を下ろし、彼はぶっきらぼうに言い放った。
 ……私は今、神様に追われてて、この状況をどうにかしようとして、一種の賭けでユグドラシルに行こうとしている。不安要素ばかりだ。
 だから、自分のことで精一杯な私を惑わないように……ノストさんは、喋らなかったんだ。

 ……私は、自分の服の袖でぎゅっと涙を拭いた。
 それから、ノストさんの巻きかけの包帯を手に取った。もっと食い下がると思ってたのか、訝しげに私を見るノストさんに向けて。
「……余裕、ありますよ」
 包帯を巻き直してあげながら、私は不敵に微笑んだ。
「ノストさんもいてくれるし、私は大丈夫です。だからノストさんも遠慮しないで下さい。……大体、ノストさんがいないと始まりませんしっ」
「強制連行されて消されるがオチだな」
「うっ……!そ、そーなんですよねぇ……一人だったら、まず神の軍から逃げ切れる自信がないですよぉ……」
「ここまで逃げてこられたのは誰のおかげだと思ってる」
「ノストさんのおかげ……ですけど……こ、今回ばかりは私のおかげですよ!? ほらっ、空飛んできましたし!私、大活躍です!!」
「一番疲れてるのは俺だ」
「……うう、はい……そうですね、勝手にすぐ爆睡しちゃってごめんなさいぃ……」
 確かに、傷だらけで疲れてただろうノストさんに、見張り役を勝手に押し付けちゃったのは、凄く……申し訳ないです……す、すみません!!
 で、でも私だって疲れてたんだよ!いつの間にか寝ちゃったんだよー!不可抗力です!
 綺麗に包帯を巻き終えて、きゅっと端と端を結ぶ。
 よしっと1つ頷いたら、ノストさんはおもむろに立ち上がった。顔を上げる私に、目でドアを指して、
「行って来い」
「……レネさんのところに、ですか?でも……」
「寝る」
「……え?」
 私の脇を通り過ぎざま、ノストさんは面倒臭そうに言った。私がその背を追って振り返ると、彼は、さっきまで私が寝ていたベッドの傍にグレイヴ=ジクルドを立てかけ、当然のようにベッドの上に横になる。大分疲れていたらしく、瞼が下ろされて数秒後には規則正しい呼吸をしていた。
 ……寝なかったのは、ただ私がベッドを占拠してたから?どっちかというと、「お前の言う通り寝てやるから、会って話して来い」って感じかな。……多大な利益があるのはノストさんの方だけど!

 さっき見た、レネさんの微笑が頭に浮かぶ。
 そしてすぐ、別れ際の泣き顔へと取って代わる。
 ……レネさん……私のこと、どう思ってるんだろう。
 バイオリンの音に導かれるように、私はドアに近付いた。

 

 

 

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 外に出ると、バイオリンの音量が上がる。曲は……知らない曲だ。ノストさんに聞けばよかったかな。
 見渡すと、いつものように、手すりに寄りかかってバイオリンを奏でる女性がいた。目を閉ざし、本当に気持ちよさそうに弦を引いている。
 レネさん……私が傷付けた人。もう会うことはないと、思ってたけど……。

 ちょうど終わるところだったのか、少ししたらレネさんの弦がゆっくり動きを止めた。ささやかな余韻を残してから、レネさんは深紅カーマインの双眸を開いて私に微笑みかけた。
「おはよう~。もう大丈夫ぅ?」
「あ……はい。疲れてただけなので、すっかり元気になりました。ありがとうございますっ」
「それはよかったわぁ。じゃ、坊やが今度寝てるのかしら~?坊やには悪いけど、少ししたら、二人で先にお茶しましょぉ~」
「………………」
 たおやかな手つきでバイオリンをケースにしまって、レネさんは言う。……まるで、以前の別れ際のことなんて覚えていないと言わんばかりに。対する私の顔は、きっと晴れやかではなかったと思う。
 何で?どうして?絶対、嫌われたはずだ。
 私は、彼女の一番大切なものを奪った。恨まれて当然だって思ったのに。
 どうして……?

「……お嬢ちゃん。ほら、見て」
 表情が強張っている私に、レネさんはある方向を指差した。コテージの外の地面に、前に来た時はなかったものがあった。
 小さな土の山。そこに小さな木の板が突き立っていて……そこに書いてあった文字を見て、目を疑った。
「貴方たちがいなくなってから、少ししてねぇ……森の中を歩いていたら、ティオ君が死んでるところを見つけたのよぉ」
「……え……じゃあ、あれは……ティオ君のお墓?で、でも……」
「そうよぉ。貴方とのことがあった直後だったから、もう、悲しくて悲しくて……お友達、一気にいなくなっちゃったんだもの」
 思わずレネさんを見返す私の見る前で、彼女は寂しげに微笑う。
 言っていることはわかる。私とノストさん、そしてティオ君まで一挙に失った彼女は……私が想像できないくらいつらかったと思う。
 でも……あのお墓は……、
「泣きながらお墓作ってたらねぇ、神官様がやってきたの。タミア村の司祭様だって言ってたわぁ」
「イソナ、さんが……!?」
「そうそう、イソナさんねぇ。その人がね、一緒にお墓作ってくれて。私が名前彫ろうとしたらぁ、それは話の後にしろって言われてねぇ……全部話してくれたの」
 くすりと微笑んで、レネさんは立ち尽くす私の前までやってきた。呆然としている私の頭をそっと撫でて、彼女は困ったようにはにかんだ。
「お嬢ちゃん……ステラちゃん。貴方ってば、本当……優しいのねぇ。私と兄さんの想い出を守ろうとして……自分が悪者になっちゃうなんて」
「……、…………何の説明もなしに、バイオリンを奪って……ごめんなさい……っ」
 ……イソナさん、本当に全部、話したんだ。バイオリンが危険なモノだってことも、私が悪役になって奪ったってことも。そうわかると、自然と、私は頭を下げて謝っていた。
 ずっと、謝りたかった。ずっと、レネさんの泣き声が耳を離れなくて。ずっと、申し訳ない気持ちで……。
 でもレネさんは、その場にしゃがみ込んで、頭を下げている私に諭すように言った。
「ステラちゃん、私ね……バイオリンを奪われたことじゃなくて、貴方に裏切られたのが一番悲しかったのよ。せっかくお友達になったのに、最初からあのバイオリンを奪うためにやって来たなんて言われて……とてもショックだったのよ」
「……!!」
 レネさんが穏やかに語る言葉に、私は凍りついた。
 そうだ。私は、レネさんを裏切ったことになるんだ。
 ……裏切られるつらさは、よく知ってる。反射的に身が凍るほどのトラウマだ。私は、レネさんにあんな想いを……!
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「もういいのよぉ。私がどんな気持ちになったか、わかってくれれば、それでいいの。ほらぁ、顔を上げて。可愛い顔が台無しよぉ」
 言われるまま顔を上げた私に、ぼやけた視界の中、レネさんはハンカチを差し出してくれた。いつの間にか泣いていたらしい。……私、ここに来てから泣いてばっかだ。
 私がハンカチで目元を拭くと、レネさんはお墓の方を見て聞いてきた。
「ステラちゃん。兄さん、何て言ってたか覚えてなぁい?」
「……『レネと友達になってくれてありがとう』……って、言われました」
「あは、そぉ~。兄さんってば、死んでも私の心配ばっかりねぇ。自分のことも大事にしなさいよ~、もぉ」
 そう言いつつも、レネさんは嬉しそうにくすくす笑う。私もつられて小さく笑った。
 彼女のお兄さんの名前が刻まれたそのお墓は、なんだかこの場所の守り神みたいに思えた。
「……ねぇ、ステラちゃん。私と……お友達になってくれる?」
 二人でユーリさんのお墓を見つめたまま。隣から、怖々と紡がれる声が遠慮がちに言う。
 ユーリさんの笑顔を思い描きながら、私は答えた。
「もうお友達でしょう?」