relic

87 テリトリー

 ……数時間後。私は湖のほとりにいた。
 レネさんとお茶して、しばらくして思い出したことがあった。レネさんに見られちゃまずかったから、ちょっと湖見てきますって言ったら、夕飯までには帰るのよ~ってお母さんみたいなこと言われた。さっきおんぶされた時と言い、なんかレネさん、お母さんっぽい。優しいお母さんだろうなぁ。
 キラキラ水面が煌く湖。私はキョロキョロ辺りを見渡して、誰もいないことを確認する。こんな場所に誰もいないってわかってるけど一応!

 ……拡いて、クロムエラト。

 途端。
 ふわっと、周囲に冷気が駆け抜けた。
 私が恐る恐る背を振り返ると、念じた通り、そこに翼があった。
 細かな氷の粒が集まって象る、蒼ざめた双翼。多分その蒼よりも、私の顔は蒼ざめていた。
「…………こ、これ……カノンフィリカ……だよ、ね……?」
 誰にともなく呟く。こんなことができるようになるなんて、心当たりがありすぎるのは、やっぱりカノンフィリカだ。
 なんとなく羽を動かすように意識してみると、ふわふわ動く!う、動いた!動いてるー!?
「うう……ていっ!」
 迷った末、湖の方に軽くジャンプ!してみたら、ふわふわ飛べる!と、飛んだ!? 飛んでるー!!?
 水上を旋回しながら一周してみる。っていうか何も考えずに湖の方に跳んだけど、飛べなかったらずぶ濡れだったよ!うわぁ飛べてよかった……!ってなんかちがーう!!
 内心で空しいノリツッコミをしながら、最初いた水辺に戻ってきて着地。やっぱり気になって振り返って、ちょっと手を伸ばしてみる。
 ……手応えはなかった。代わりに、そこだけ冷たい。なんだか、冷気がそのまま羽になってるような感じだ。
 これ、間違いなくカノンフィリカ……なんだろうけど……な、何で羽なの!? カノンさん、剣として使ってたよね?私はいつから天使になった!? あ、でも神から遣わされたって考えると天使だったの私ー?!
 ここに来るまでは必死だったから、何も考えてなかったけど……何なのこの羽~!?

「………………」
 ……なに天使とか思ってるんだ私……絶対ノストさんに馬鹿にされるっ……この羽、ノストさんに何てコメントされるか物凄く不安!!
 ちょっと自分を落ち着かせてから、私は正面の湖を見た。
 以前、剣としてのカノンフィリカを振った時、氷の波みたいなものが走って凍りついた。それって……この羽でもできるのかな?
 ……よし、やってみよう。
 凍れ!あ、表面だけ!
 なんとなく、びしっと湖を指差して想ったら。
 背中から物凄い冷気が噴き出すわけでもなく、キンっと唐突に表面が氷と化した。
「………………へ???」
 後ろから極寒の空気が来ることを覚悟してたのに、拍子抜けしてぽかんとする。冷気もないのに、固まった……??

「ふふ、可愛い羽ね。氷を操るなんて素敵じゃない」

「……!?」
 ……気付くのが遅れた。それほどまでに、まるで空気のように自然に聞こえてきた声。
 しかもその声は、私の真横からした。思わず振り向きながら飛び退いて、その人物を見て……私は、驚きに声が出なかった。
 彼女は、浮いていた手をふわりと動かす。
 その人差し指が描く軌跡に、青い筋が走る。書いているのは混沌神語で、許可ヘラクと刻まれ、フッと消え去った。
「これでいいわ。貴方は私を認知できる。ねぇ、私の姿が見える?私の声が聞こえる?」
 大人っぽい雰囲気をまとったその人は……同い年くらいの女の子だった。しかも見覚えがある。
 柔らかに波打つ長い金髪の彼女は、私達の間にある微妙な距離を気にすることなく、くすりと微笑んだ。
「驚かせて悪かったわ。誰もいなかったはずなのに、いきなり話しかけられて驚いたでしょう?」
「……貴方は……カノン、さん……?でも……」
「そうね、貴方にとってはカノンが先ね」
 私の動揺を予測していたかのように、金の双眸の少女は頷く。
 異形じゃない人の右手で長い髪を払い、人の右足で地を踏んで、でもカノンさんのように気高く。彼女は言った。

「初めまして、神子アテルト=ステラ。私は、貴方の姉神子ヒラナ=カノン・ステラのオリジナルよ。知っているでしょう?」

「……う、うそ……じゃあ、アルトミセア……様……!?」
 カノンさんと同じ外見を持ち、カノンさんと同じ誇り高い雰囲気の、私と同じ年にしか見えない少女。もちろんその考えは頭を過ぎってたけど……だって、アルトミセア様って死んでるはずじゃ……!?
 混乱している私をよそに、アルトミセア様は微笑んだ。それは……フィアちゃんも浮かべる、まさに聖女のような微笑で。
「カノンのアルカが、貴方の力となるなんてね。姉妹で力を合わせているみたいで、微笑ましいわ」
「……あ、あの……もしかして、さっきの……ずっと見てたんですか……!?」
 わけわからなすぎて聞きたいことはたくさんあった。けど、なんか嫌な予感がして私はまずそれを聞いていた。
 だ、だって……一人で飛んでるとことか、なんか寂しくやってるとことか、見られてたってことだよ!? うわああ恥ずかしすぎる!!
 顔が赤くなってきた私に、アルトミセア様は笑って一言。
「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫よ。私は、この世界のことはすべて見ているから」
「……ふ、フォローになってませんよ!! 結局見てたんですよねー!?」
「ふふ、特に神子の貴方のことは、よく見てるわ」
「いやあぁあーー!?!」
 そ、それじゃあ、今までの恥ずかしいことは全部……うわあぁーー!!! 知らない知らない知らないもん!! 何のことか記憶にございませんッ!!
 頭を抱えて顔を上げられない私に、大人の余裕たっぷりなアルトミセア様は教えてくれる。
「冷気も出なかったのに、凍りついて驚いたでしょう?それは、貴方がアルカの力を行使したからじゃなく、『貴方自身の力』を行使したからよ」
「へ???」
「こればっかりは、ややこしいからわからなくてもいいわ。ようやく神子本来の力を発揮できるようになった、と言った方がいいかしら。貴方はようやく、カノンフィリカを己の力に変えたのよ。かつてカノンが、己の武器として手足のように使っていたようにね」
「……じゃあ……完璧に制御できる、ってことですかっ?」
「制御とは、また意味が違うんだけど……貴方がクロムエラトを開花させたことで、低位のオースは従わざるを得なくなって、今まで貴方に結合していたカノンフィリカは構成術式が解けて貴方の構成に融合した。貴方がカノンフィリカになったと言ってもいい。だから確かに、もう勝手に発動することはないわ」
「……え、えっと……はい……」
「ただその影響で、融合したアルカの形には心の有り様が強く反映される。貴方の場合は、羽の形が一番落ち着くようね」
 ……えーっと、全然理解できてないけど……ちゃんと使えるようになったってことか!うん、よかった!最終形態がまさかの羽でびっくりしたけど!剣になっても、どうせ使えないから確かに困るけど、羽かぁ……なんか恥ずかしい!

 あからさまにホッとした私に、アルトミセア様は問いかけてくる。
「私のことは、何処まで知っているの?教団の初代聖女で、術式を組めた……そんなところかしら」
「は、はい……その他に、記録はないって聞いてましたから……」
「教団に私の記録がないのは、私が記録させなかったからなのよ。どうして私が記録を拒んだか、わかるかしら?答えは貴方の目の前にあるわ」
 私を試すように、ヒント付きで問いを投げかけてくるアルトミセア様。
 15歳の少女にしか見えない、遥か昔の初代聖女様を見つめて。私は……自分なりの解を口にした。
「……不老……だから?」
「ふふ、大正解よ。傍の彼のことをよく知っているから、わかったのね」
 きっと名前も知っているはずだけど、遠回しにノストさんのことを挙げる。そこでふと、彼女はすっと手を上げた。
 その指がさっきと同じように踊り、四角くて青い紋様を宙に描いていく。……あれって……術式?ラミアスト=レギオルドの契約術式に、よく似てる……。
 それが完成したらしく、おもむろに放る動作をすると、術式は氷の湖の表面に張りついた。そこで術式は青い光を放ち、湖全体に光が伝播していく。
 やがて、光が失せると……凍りついていた湖が元に戻っていた。唖然とする私に耳に、アルトミセア様の笑い声が届く。
「ずっと氷付けじゃ、魚たちも困っちゃうでしょうしね」
「……オースの術式……本当に即席で、組んじゃうんですね……」
「これくらいなら簡単よ。元に戻すだけなら、分量を気にせず再生ラシュファだけを詰めればいいから。逆に、貴方のやったことの方が難しいのよ。いろんな分量を気にしなきゃいけないわ」
「そ、そうなんですか?」
 凍らせる術式って、そ、そんなに面倒なのかな……私、さくっとやっちゃったけど。
 前にラミアスト=レギオルドの契約術式を見た後、ラルさんから術式についてちょっと説明を受けた。オースの術式は、壊死グラド創生ノーグ破壊ロア再生ラシュファの4つの力で構成されているらしい。
 アルトミセア様が言っている分量と言うのは、文字通り、その4つのバランス。今なら、元に戻したかっただけだから、再生ラシュファだけ詰め込んだ。ラルさんの力の劣化版ってところだろう。

 それでも、アルトミセア様はまるで魔法使いで、凄く素敵で。思わず私が目を輝かせるけど、本人は寂しそうに言う。
「それでも、ただの人間じゃないというのはわかるでしょう?私は、聖女になった時から……人ではなかったのよ」
「え……?」
「ある日、神から、歴代聖女が洗礼を受けているように、ボルテオースを授かったのだけど……神は私に、過剰な量を与えてしまった」
「………………」
「ボルテオースを少しでも取り込むと、成長・老化が遅くなる。そのボルテオースに、私の体は、8割ほど置き換えられてしまった。だから外見は、全然年を取らないのよ。もう何百年も生きているわ」
 私自身も、生粋のボルテオースで創られている。だから年は取らない。
 それに、言われてみれば……フィアちゃんは、18歳の割には、容姿は15歳の私と変わらない。きっとボルテオースの影響なんだ……。
「体の構成がボルテオースである私は、人間よりも貴方たち神子に近いわ。歴史上、私しかオースの術式を組めないのは当然よ。力に変換されていないオースは、ボルテオースを以って行使するものだから」
 何百年もの時を重ねてきた聖女の中の聖女様は、思っていた以上の気高さを持っていた。なんかもう……神様みたいです。っていうか、エオスの様子を(多分術式で)全部見てるらしいし、神様ですよね!?
 そんなエオスの神様は、このナシア=パントで、なぜか急に私に話しかけてきた。
「……アルトミセア様は……」
「呼びづらいでしょう?アルトでいいわ」
「……あ、アルト様は……」
「もう聖女じゃないんだから、『様』もいらないわよ」
「…………う、うう……あ、アルトさんは……」
 次々に指摘されて、どんどん呼び方が変わっていく……な、なんか凄く罰当たりな呼び方な気がするっ……!で、でも本人が気に入らないみたいだし、きっといいよね!?
「アルトさんは……どうしてここに?ここで何百年も……過ごしてたんですか?」
「ええ、そうよ。私は、もう何百年もかくれんぼしているのよ」
「……へ??」
 ……か、かくれんぼ?ちょ、突然すぎて……ど、どういうこと!?
 アルトさんは到って普通。言葉通りなんだろう。……なんだか謎かけばっかりされてる気がする……。
「誰一人として、神すらも、私を認知できない術式を展開しているの。私も、ユグドラシルの様子は見れないからおあいこよ」
「神様から……隠れているんですか?」
「ええ。私が触れて許可したものは、私を認知できるようになるわ。実際に許可したのは貴方が初めてだけど。私は、術式が維持できるナシア=パント内しか動けないの。いくつも術式を掛け持ちしてるから、ここから出るわけにはいかないのよ」
「そ、そんなに大事な術式なんですか?」
 だからアルトさんは、ナシア=パントにこもってるんだ。ここは、オースが満ちる樹海だから。出てしまえば、術式は崩れてしまうんだろう。
 でもそんなに大事なことなのかなって聞いたら、アルトさんは微笑んで言った。
「ええ。主に、私を認知できない術式、エオスの様子を見る術式、神のエオスへの干渉を制限する術式……が大事ね」
「神様の干渉を……制限……!?」
「所詮は、低位の神力オースの術式だから、完全には拒めないけれどね。貴方や歴代聖女みたいな、ボルテオースで神と繋がれた関係は特に。悔しいけれど、これが精一杯ね」
「……ど、どうして……そんなに……」
 すらすらと、それが当然のように語るアルトさんの顔を、信じられない思いで凝視した。
 初代聖女って聞いて、神様に忠実な人なんだと勝手に思い込んでいた。だけど、この人は……想像していたのと、真逆だ。
 まるで、今の私たちが思うよりずっと昔から、神様に警戒心を持っていたかのようで。それは、神官に……特に聖女様には、信じられないことで。

 そんな気持ちがありありと出ていたのか、アルトさんははっきり言い放った。
「神と私達は違うわ。ユグドラシルが神のテリトリーであるように、エオスは私たち人間のテリトリーよ。都合が悪ければ干渉するなんて、私は認めないわ」
 ……その信念を持って、彼女はずっとここで、神様の干渉を制限してきたんだ。なんだか……本当に、エオスの守護神みたいだ。
「……アルトさんって……素敵です」
「そんなことはないわ。自分が好きなようにやっているだけだから。……大分、話が逸れてきたわね……私は、貴方が困っているようだから、挨拶ついでに来てみたのよ」
「あ!そ、そういえば、私に何か御用ですかっ!?」
 な、なんかびっくりしていろいろ聞いていくうちに、すっかり忘れてた!! そういえば、どうして私に話しかけてきたんだろ!
 でも、私が困ってたってどういうこと?困ってたっけ?まぁいきなり羽が生えて、飛んだー!とか天使ー!?とか戸惑ってたのはあるけど……困ってはない、よね……?

「連れの彼の右腕のことよ」

 ――― 一瞬で思考が停止した。
「あれは、彼の体の構成のボルテオースと、破壊ロアのボルテオースとが反発しあって起こっているの。……言い方が悪いわね、順を追って説明しましょうか」
 体も硬直した私に言い聞かせるように、アルトさんは続けていく。
「大本の原因は、グレイヴ=ジクルドの破壊ロアの反動。あれの乱発が響いているようね。貴方をユグドラシルから連れ戻す時、一体、何度使ったのかしら」
「………………」
破壊ロアは、小規模でも強力な神の力よ。あの力はボルテオースなの。人の身でそれを扱うなら、相応の負荷と代償を払うことになるわ」
「………………」
「人の身で破壊ロアを多用して、一度に多量のボルテオースを浴びると、次第に肉体はボロボロになって、風化する・・・・わ。オースに分解されてね」
「――!? そ、そんなっ!」
 淡々と紡がれていくアルトさんの声を黙って聞いていた私は、刹那イメージが過ぎり、ぞっとして声を上げていた。
 人が……風化、する……!? 嫌だ……そんなの見たくない!もうノストさんがいなくなるなんて嫌だ!どうすればいいの……このままじゃ……!!

 落ち着いてなんていられなくて、きっと傍から見ても凄く動揺してたと思う。アルトさんは、そんな私に静かに語りかける。
「ステラ、聞いて。まだ続きがあるの」
「………………」
「今のは、理論上の話よ。だけど彼は、半分人じゃない・・・・・・・。構成の半分がすでにボルテオースだから、感覚がなくなる程度でまだ済んでいるの。でも半分は人だから、このままでは確かに危ないわ。だから……貴方が助けるしかないのよ」
「……え……?」
 ……聞き……間違い、かな。私が……ノストさんを、助けられるの?
 ゆっくり顔を上げると、いつの間にか近付いてきていたアルトさんは、私の顔を優しく挟み込んだ。
 綺麗な黄金の双眸は、微笑む。
破壊ロアのボルテオースは、彼の体に蓄積しているの。だから、ボルテオースそのものの貴方が吸い上げるしかないわ。貴方にはクロムエラトもあることだし、すぐできるわよ」
「………………あ、あの……その……ぐ、具体的には……」
 目の前でそう言うアルトさんの顔が、なんだかとっても嬉しそうになっていくから、私もなんだかとっても嫌な予感を覚えて、恐る恐る聞いた。
 とってもいい笑顔で、アルトさんはあっさり言った。
「キスしなさい☆」
「無理です無理です無理ですーーっっ!!!!!」
 アルトさんの両手に挟まれている顔をブンブン振って、私は背後に緊急離脱した!近くの木の幹にガッシと抱きついて、もう真っ赤で熱くて頭ポカポカ状態で叫ぶ。
「どっどどどどうしてそーなるんですかッ!!? アルトさんならそういう術式だって組めますよねっ!?」
「ふふふ、だって術式組むのには、とっても時間かかるから。しかも私はオースの術式しか使えないのに、導く相手は上位の力だからとても厳しいわ。貴方は自分の想いだけで簡単にボルテオースの術式組んじゃうんだから、そっちの方が断然早いわよ?」
「だだだってだって無理ですそんなのほんとに……!!!」
 泣きそう。っていうか泣いてた。無理ほんとに……!!
 だ、だってじゃあ、私から……ってわけで……わあああダメダメ想像してもうダメ!! 実行なんて無理!! うわーん!!
「彼、無理しても知らないわよ?貴方のためなら無茶する傾向があるようだし、しないとは限らないわよ?」
「わ、私のためなんてしませんもん、ノストさん……」
「ふふ、そうかしら?キスだけで彼の感覚が元に戻るなら、そういう手段もいいと思うけれど?」
「うわあああーー!!! やめてその二文字言わないで下さいぃぃ!! ううう頭くらくらしてもうダメです……」
「ふふふ、悪かったわ、貴方の反応が面白くてつい」
 もう頭を抱え込んで座り込んで、私はクラクラの絶頂にいた。やばい……ほ、ホントに死ぬかも……うん私、今日で死ぬ絶対……!!
 とか思ってる私を見て、アルトさんは本当に楽しそうにくすくす笑ってる。こ、この人……聖女のせいか、フィアちゃんと似てるかも……ッ!
「じゃあ、私は教えたわよ?どうするかは貴方次第。私もこれから術式組んでみるけど、本当に時間かかるから」
「ま、待ってますから!! だから早く仕上げて下さいね!?」
「ふふふ、考えておくわ」
「アルトさぁああーーんっっ!!?」
 私の絶叫をも笑顔で受け流し、アルトさんは不思議なことに、ふわりと消えて立ち去っていった。

 

 

 

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 ……そういやノストさん、今、寝てるんだっけ。
 レネさんの小屋の前に立って、ふとそう思い出して、そう思った自分にギャー!ってなってしゃがみ込んだ。
 な、何を考えてるんだ私……!アルトさんがあんなこと言うから頭の中おかしくなってる!というかアルトさん、「考えておく」って仕事しないつもり満々でしょ!? 策士だー!!
 一人でぐるぐる考えてからフラフラ立ち上がり、一人でドキドキしながら、ドアを少し開いた。
 開いた隙間から中を覗き込んでみると……ノストさんは、ベッドの上に座っていた。……お、起きてた……ちょっと安心……。
 何に対してかわかんないけどホッと胸を撫で下ろして、私は小屋の中に入った。小屋内を見回しながらノストさんに近付くけど、レネさんの姿が見当たらない。
「あの、ノストさん……あ、おはようございます。レネさん、どうしたんですか?」
「買い物」
「……え!? まさかこんな時間に、遠いオルセスに行ったとか……」
 ここからオルセスまでは、徒歩じゃ半日はかかる。もう夕方だし、そんなわけないと思いながら言ったら、どうやら休んだことで回復したらしい毒舌が返って来た!
「馬鹿は発想が乏しいな」
「むっ、馬鹿の発想舐めないで下さいよ!? きっとそのうち、ノストさんもびっくりなすっばらしい発想を……」
「馬鹿は皮肉が褒め言葉に聞こえるんだな」
「き、聞こえませんよ!まぁですよね、オルセスは遠いですもんね……じゃあタミア村、とかですか?」
「お前が押しかけたせいだそうだ」
「私だけじゃなくて、ノストさんもでしょう!?」
 レネさんは元々一人暮らしだから、その分の物しかない。急に人が増えて焦って、タミア村にちょっと買い物に行ったってところかな。今思うと、凄く申し訳ない……すみませんレネさん!

 話が一段落すると、ノストさんはおもむろに自分の右手を手前に持ってきた。それを、見つめながらぎゅっと握る。……練習中?
 ベッドに腰掛けている彼の右側に座って、私はその右手を掴んだ。包帯だらけの手。そのまま顔を上げてノストさんを見るけど、彼は手のひらを見つめたまま動かない。
「……私が今、掴んでるって感覚も……やっぱり、ないんですか……?」
「………………」
「……この手に感覚がないなんて……全然、わからないです。ちゃんと体温ありますし……何もおかしいところなんて、ないのに……」
 さっきよりは落ち着いたけど……凄く寂しい。ノストさんも複雑なのか、無言だった。
 考えてみれば、それじゃあ、剣を握る感覚も、振る感覚も、何もないんだ。剣のために生きているような彼にとって、それは……凄く空しい。
 ……治してあげたい……。

破壊ロアのボルテオースは、彼の体に蓄積しているの。だから、ボルテオースそのものの貴方が吸い上げるしかないわ。貴方にはクロムエラトもあることだし、すぐできるわよ』

 アルトさんの声は、頭の中でゆらゆらと響く。さっきまでならすぐに首を振って却下してたけど、それは私の中に染み入っていく。
 ……そう。治せるんだ。
 治せるの。私は。
 ノストさんにまた、剣を持たせることができる。
 手に触っても、反応が返ってくるようになる。
 こんな空ろなノストさんを、連れ戻せるの。
 治してあげたい――!!

 そう思い立って、それからは一瞬だった。
 ばっとノストさんの首に両腕を伸ばした直後、目に映るものが慌ただしく変化していって、最後にドッ!という音とともに、なぜか私はベッドの上に倒れ込んでいた。
 仰向けになった私の視界の真ん中。至近距離に、ノストさんの顔があった。
 言葉もないまま、しばし見つめ合う。

 …………………………。

「………………あ……あ、の……」
 ようやく状況を呑み込んだ私は、途端に顔が熱くなってきてできるだけ視線を逸らして何か言おうとするけど何も言えなくてただ真っ赤になるだけで!
 何が一体どうしてこうなったのか、いつの間にかノストさんに組み伏せられる形になっていた!ななな何でぇええーーっ!!?
 もう正常な思考じゃない私に、吐息がかかるほど近くでノストさんの声がする。
「何のマネだ」
 ……多分、最初に私がやった、ガオーって感じのヤツのことだ。
 まさか首に抱きつこうとしましたなんて言えなくて、私は必死に目を逸らしたまま、かわす。
「の、ノストさんこそ……」
「奇襲されて反射的に鳩尾を狙いかけたが、お前に昏倒されると面倒だってことに寸前で気付いて軌道を反らした結果だ」
「あ、あはは……じゃあ、じ、事故ってことですかぁ……」
 い、言われてみれば彼の左手は、私のお腹の横で、拳の形でベッドに突き刺さっている……こ、これ当たってたら確実に気絶してたと思う……。
「………………」
「………………」
 ……話題が尽きた。この体勢のまま、沈黙が降りる。
 激しい鼓動だけが耳の奥でずっと鳴ってる。どどどどうしよう~!?
 というかノストさんの凝視癖が拷問すぎる!至近距離すぎる!! 私が問いに答えてないからこうなってるんだ!こ、これ素直に言っちゃった方がきっと楽だよね!? う、うんそうしよう!
「……さ、さっき……アルトミセア様に会って……」
「初代聖女か」
「は、はい。そ、それで……ノストさんの、腕のこと……聞いて……」
 直視できなくて、視線があっちこっち忙しく泳ぐ。ノストさんがいつも通りなのが余計に恥ずかしくて落ち着かない。
「ボルテオースが、溜まってるから……いけない、みたいです……。だ、だから……それ、そのものの私が……す、す、吸い上げればいいって……」
「……お前、理解してんのか?」
「し、してますよ!! だから、その……し、しようとしたんじゃないですかっ!」
 きっと真っ赤な顔の私が言っても説得力はなかっただろうから、思わず問い返されたんだろう。それとも、ノストさんも信じられなかったからか。
 なんとか吐き出したことで少し落ち着いてきた。それまで恥ずかしくて目を瞑っていた私は、薄目を開けてやっと彼を見る。
 切実な本心が口を突いた。
「……だって……右腕が……治るん、ですよ?だったら……試したく、なるじゃないですかっ……!」
「………………」
 ……ノストさんは、何も言い返してこなかった。
 ダークブルーの双眸に、私が映っているのが見える。……こうしてみると、つくづく綺麗な目だなぁ……。
 いつの間にか、さっきは避けていた目線を合わせていて。私はただ、その綺麗な輝きに見惚れていた。
 静かで、穏やかな世界。

「ただいまぁ~♪」
「~~~っひゃぁああっっ!!?!」
 その世界が第三者ののんきな声で引き裂かれて、ハッと我に返った私は、とにかく飛び起きて、

 ゴ ン ッ !!!

「あだぁあーーっ!!?」
 すぐそこにいたノストさんの頭と見事にぶつかって再び倒れ伏した……。かと思えば、ぐいっと胸倉を掴み上げられて、ベッド上で座らされる。
「てめぇざけんな……」
「ひぃいい!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃい!!! 事故です事故なんです!!」
 大分痛かったらしく、私と同じくおでこがうっすら赤いノストさんが、物凄く恨めしそうに言ってきた!ノストさん避けてくれればよかったのに!珍しく避けれなかった!?
 とかベッドの上で騒々しい私達に、さっきの第三者の声が言ってくる。
「あらぁ……もしかして、お邪魔だったかしらぁ?あぁもったいな~い……じゃ、私は外にいるから続きどうぞぉ♪」
「おおおお帰りなさいレネさん!! 夕ご飯は何ですか!!?」
 本気で立ち去ろうとするレネさんの傍に飛んでいって、私は必死で彼女を引きとめようと話題を振る!はっ恥ずかしすぎる……!!
「そぉ?ざんねぇん……ごめんなさいねぇ、私がいるとイチャつきづらいでしょ~?」
「いえイチャついてなんてないですからっ!!! 全然!断じて!!」
「そーなのぉ?うふふ~、そーかしらぁ~」
「……あ、あうう……ご、ご飯つくるの、私も手伝います!!」
 意味ありげに微笑むレネさん。あんなの見られちゃったから、もう全然相手にされてない……!
 ちらりとノストさんを振り返ると、彼は彼で、私を睨んでて!あ、あれは珍しく根に持っちゃいそうだ……そ、そんなに頭突き痛かったかな!?
 赤い額を撫でて、私はいろんな意味で深い溜息を吐いた。