relic

83 カタルシス

 普通なら、生涯一度もないと思う感覚。
 足が地面についてなくて、逆さまで、風を切っている。
 このままじゃ死ぬ。
 でも今の私には、そんなことどうでもよくて。
 ただ、内面の『恐怖』と闘っていた。

 

 

 

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 マラタ貝と青菜と炒めたスパゲティを巻き巻きして、はむっと食べる。
 うーん、おいし。高級料理は綺麗でなんか凄いけど、私は庶民の料理の方が好きだ。
 ……ノストさんはどうなのかな?
 そう思って向かいを盗み見ると、彼は白身魚のソテーを食べていた。……す、すでにここに壁を感じる……庶民料理よりちょっとレベル高いんじゃない!?
 切り分けられた一切れが、フォークに突き刺されて持ち上げられる。それを何気なく目で追ったら、ノストさんと目が合った。それがまた、物凄く不機嫌そうな目で。
「……あ、あはは……そ、それ、おいしいですか?」
「普通」
「…………わ、私のはおいしいですよ!?」
「はぁ?馬鹿は耳から老いるのか」
「まだ老化してませんよっ!! まだ若さを謳歌してすらないですから!確かにノストさん、マズイなんて一言も言ってませんけど……!」
 ……だって、なんか怒ってるんだもん。話が展開しづらいし、理由聞いても珍しいことに教えてくれないし。
 そんなわけで、さっきから静かに食事中。周囲は控えめに賑やかだけど、私のところだけは重い空気。……ところで、私って不老だったから、若さを謳歌なんて話じゃないや……。

 三手に分かれた私達。私はノストさんと二人で、最優先にセントラクスを目指すことになった。
 そして今、私達はなんと、セントラクスにいる。すでにゴールしていました。
 神の軍の追っ手とかかかると思って警戒してたのに、あっさりだった。拍子抜けしながら、とにかく着いたから、ご飯中。当然、3組の中で、私達が一番乗りだ。
「……神の目的は何だ」
「へ?」
 不意に、ぼそりとノストさんが言ったのは、かなーり今更な質問で。
 わざと?本気?意味わかんなくて思わず顔を上げると、彼は真剣な顔をしていた。……どっちにしろ、いつもこの顔だから、わざとか本気かわかんないけど!
「え、えっと、私とノストさんの断罪と、教団の壊滅……ですよね?」
「なら敵だな」
「………………」
 それは、確認するようなニュアンスだった。復習だったらしい。しかし返答のない私に、ノストさんが視線を向ける。
 ……わかってる。ノストさんの言う通りだ。
 でも……私は、頷けなくて。
「……本当に、そうなんでしょうか。神様は……本当に、私達と対峙してるんでしょうか?」
 我ながら、妙な問いかけだった。でもちょうどその表現がしっくり来る感じで、私はそんなふうに感じてる。
 私が言葉を交わした神様は、平等と調和って感じで、何と言うか、誰かと敵対するなんて全然感じなかった。何が起きても見守っていてくれそうな……そんな感じだった。
 だから、なんとなく……今回の事件、ちょっとだけ違和感を覚える。違和感って言うより、不安……かな。
 追いかけられてると思ってるのは、私達だけ?
「神に追われている現状は確かだろ」
「……そうですね……」
「お前の当てにならない勘に付き合ってやる義理はねぇ。試したきゃ一人でやれ」
「って、そっちが本音でしょう!? どーせ私の勘なんて当たりませんよっ!でもとにかく、ユグドラシルに行ってみれば、何かわかるかもしれません!」
 私がフォークを握った拳を振って自分にフォローを入れた瞬間、ノストさんの目付きが怖くなった。……あ、あれ……?
 思わず停止すると、彼はいつもよりずっと不機嫌そうに言う。
「神は本気だ。前も言った。てめぇが囚われの姫やろうなんざ100万年早い」
「……わ、私、捕まったって逃げますもん……」
「偶然は重ならねぇ。神相手に逃げ切れる自信が平時で無いならやめろ」
「………………」
 ……そりゃ、私のクロムエラトは気まぐれだけど。制御はまだ不安定だし。そんなモノに頼るくらいなら行くなって……。
 前にもあった。ダウィーゼから勝手にユグドラシルに行って帰って来た時。
 あの時も、そして今も。ノストさんは、静かに、だけど物凄く怒っている。

 …………えっと。
「……あの、ノストさん。……もしかして……かなり心配してくれてます……?」
 動作が自然と止まって、なんとなく真正面から見れなくて、ノストさんの手元に目線を向けたまま、聞いた。こんなこと直球で聞くの、なんか照れ臭くて顔熱くなって来た……!
 ユグドラシルに行けば、何かわかるかもしれない。と同時に、何が起こるかわからない。
 でも反対に、行かなければ、何もわからないかもしれないけど、大体の事柄には対処できるから。……要するに、傍に置いておいた方がいいってことだ。私も、そりゃノストさんの傍にいた方が大体安全だってことはわかるし。
 さっきのキツイ忠告は、そんなふうに思えて。
 それに対し、ノストさんは例によって切り捨てた。
「死地に赴く一人の馬鹿に、冥土の土産を持たせただけだ」
「ええぇ!?! な、なんかそれズレてません?『行くな』って言っておいて、私行くことになってるんですか?! 冥土の土産なんて嫌ですよ!」
「喜べ、かなり珍しい土産だ」
「確かにノストさんのキツイ忠告って意味では、かなり珍しいお土産かもですがッ!!」

 ガチャンッ!!

 急に、固いものがぶつかる音が会話を遮断した。はっとして、今動いたものを見る。
 ノストさんのお皿の端に、フォークが落ちていた。
 ノストさんは、自分の手から落ちたそれを、くだらなさそうに見下ろしていた。
「……え……?」
 ……強烈な違和感。
 何か……おかしい。

 その違和感を断ち切るように、キィィ――ンと楽器のような綺麗な高音が響く。
 ノストさんの姿が霞んだ直後、食事中だった私の頭上で鳴ったグレイヴ=ジクルド。はっと背後を見ると、知らない男の人の剣が、神剣に受け止められていた。
 グレイヴ=ジクルドの切っ先が緩やかな動作で小さな弧を描き、襲撃者の剣を弾く。
 剣を手放しはしなかったけど、男の人は顔をしかめて数歩後退した。……その後ろにも、明らかにこちらを見ている人々がいて。
「みんな神の軍……!?」
「神子と共犯者、覚悟しろ!!」
「ノストさんっ!こんな室内じゃ……!」
 いつ来るかわからないって知ってたけど、あまりに突然すぎた。具体的な対処法も考えてなかった。うわーん考えておけばよかった!!
 とりあえず外に出ようと、振り向きざまにノストさんに言いかけて、目を剥いた。
 ノストさんは、私達の食事がのっていたテーブルをゴミみたいな荒い扱いで横へ倒し、お皿ががしゃーん!!とか割れるのも気にせず、呆気に取られている私の腕を掴んで引き寄せるなり、
「弾く盾をやれ」
「へ??」
 攻撃を神剣で迎撃しながらの一言に、私はぽかんとする。が、理解していない私をよそに、ノストさんは私の手首を掴んだまま、おもむろにスッと片足を引く。
 瞬間、ぐるんって視界が逆さまになった。
 自分の背後へ向けて、ノストさんは片手で私をぶん投げたっ!!!
「え、ちょぉおおおーーーっっっ!!?!」
 背負い投げというか背負いぶん投げというかっ、とにかく私は放り投げられた!宙を舞ってる!ななな何でぇええーーッ!!?
 上下逆のノストさんが遠ざかっていく。このままじゃ壁に叩きつけられる!あっ、そうだ弾く盾!!
 お願いクロムエラト、ほんっっっとーに助けてぇええ!!!

 私の必死の頼み込みに応えて、空中で逆さまな私の周囲に、見えないけど弾く盾が展開する。その一瞬後に、ガシャーン!と甲高い音が私を包んだ。
 それがガラスだって言うことに気付いたのは、太陽の下に放り出されて、キラキラ光る砕け散った破片を見てからだった。
 私が地面に落ちる頃、地面とは別のものに受け止められた。私を追って飛び出してきたらしいノストさんだった。
「ノストさぁぁあん!!? 今までで一番ひどい扱いでしたよねっ!? ガラス割りに私使ったってことですよねー?! 今、10回は軽く死んだ気がしますよ!グレイヴ=ジクルドで壁壊せばいいじゃないですかーーッ!!」
破壊ロアは疲れる」
「壁切っちゃえばいーじゃないですか!!」
「あの狭い店だとすぐ倒壊する」
「風化現象は?!」
「ジクルド専用だ」
「それで最終手段が私ですかっ?!」
「奥の手だ」
 ……なんかもう泣いてもいいっ!?

 片手にグレイヴ=ジクルドを持ったまま、器用に私を両腕でキャッチしたノストさんは、店の中から追っ手が出てくるのを見て立ち上がる。……私を抱き上げたまま。
 ……って、これって!お、お姫様抱っこってヤツじゃ!! う、うわぁああーーっっ!?!
「……無傷か」
「はっ、はいぃ……!その、大丈夫、です……」
 なんとなくいつもより距離が近くて、恥ずかしくて顔が真っ赤になってきた……!危ない目に遭ったのノストさんのせいなのに、なんか丸め込まれてるっていうか!
 とととにかく逃げなきゃいけないから、ノストさんは降ろしてくれた。心臓バックバクだったからホッと一息。
 と思ったら、今度は肩に担ぎ上げられる。で、出た、この米俵体勢……ノストさんにとって一番邪魔にならないんだろうな、これが……。
 通りに出て走るノストさんの肩の上で、私は背後から迫る追っ手の神の軍をバッチリ確認できる。
 知らない人達ばっかりだった。武装している人もいるけど、中には武装していない農民みたいな人もいた。そんな人なら近付いてきても、武装している人より警戒心が少ないから気を許してしまいそう。それを狙ってるかも。怖っ……!
 そして今回は、サリカさんの言っていた通り、みんなが肉体を持っていた。ということは、グレイヴ=ジクルドの力も、私の力も効かない……効くのは、アルカ以上の存在の、物理的な攻撃だけってことだ。
 そんなことを考えていたら、ノストさんがカクっと進行方向を変えた。
「ひゃあっ!?」
 突然だった上に、こっちは遠心力の関係で強い力で振り回される。く、首がグキって!
 曲がり角を曲がったというのはわかった。彼が曲がらなければ行っただろう道からも、神の軍が追ってきていた。先回りされてる……?!
 と思ったら、またもやカクっと、今度は逆回転。また道を塞がれていたらしい。首を引っ込めていたから痛くはなかったけど、少しずつ気が付いて来た。
「なんだかっ、誘導されているような気がします……!」
「ナメクジ回転速度の脳をフル稼働させてようやく今頃か」
「ようやく今頃ですよ!! 最初から気付いてたんですか!? 乗っちゃっていいんですか?! このままじゃ……!」
「お前が超絶な跳躍力を持ってるなら話は別だが」
「む、無理ですよーッ!!」
 神の軍の目的は私。私を捕まえるだけなら簡単だけど、傍にいるノストさんが厄介なんだ。これは、彼をも追いつめて排除するための策……!
 そして今回、彼らに破壊
ロア
は効かない。一体一体倒してもいいけど、それは私というハンデがない場合の話だ。だからノストさんは、神の軍を突っ切らずにいる。
 でも、このままじゃ袋叩きに遭う。それは当然ノストさんもわかっていて、でも打開策がないらしい。
 私達は、何処かへ、導かれている。

 不意に、バンッ!と強い音が鼓膜を叩いた。
 後ろ向きの私の視界に大きな扉が見えたことで、ノストさんが何かの建物に飛び込んだと遅れて理解する。驚いた目で見てくる、神官服を着ている人達が辺りに見えた。
「な、何事だ!?」
「ここは神聖なる大聖堂です、そのような粗暴な……!」
「大聖堂……?」
 誰かの困惑した叱咤の声をぼんやり復唱すると、急に降ろされた。
 自分の足で立った私がきょとんとノストさんを見返すと、彼は奥に見える階段を目で差して言う。
「走れ。援護はする」
「ま、まさか自分はここに残るなんて言いませんよね!?」
「はぁ?英雄ヒーロー気取りは一人でやれ」
「じゃ、ついてきてくれるってことですね!なら安心です!あんな数相手してられませんし!」
 とりあえず邪魔だったから降ろしたらしい。頼もしいお言葉を聞いてから、私は駆け出した。
 背後で、何だあれ!とかうろたえる声が聞こえてきた。きっと、番兵のゲブラーさん達だ。
 ちらっと後ろを一瞥すると、さすが戦いのプロ、門番以外のゲブラーさん達も反射的に身構えていた。私から見て一番手前に、ノストさんの背中が見えた。
「ステラさん!?」
 前に向き直ったら、正面の方から名前を呼ばれた!
 びっくりして顔を上げると、神官服の上に黒い上着を着た男の人が立っていた。穏やかそうな顔が、戸惑った様子だった。セントラクス司教のアノセルス=ギリヴァンさんだ!すっごく久しぶり!覚えててくれたんだ!
 ミディアから経つ時、フィアちゃんが司教さんたちに向けて手紙を送るって言ってた。もしかしたら、アノスさんなら神の軍のこと知ってるかも……!
「お久しぶりですアノスさんっ!! あのっ、フィアちゃん……フィレイア様のお手紙、見ましたか?!」
「ええ、拝見しましたが、なぜそれを貴方が……」
 アノスさんの手前で一度止まって聞くと、彼は困惑気味に答えてから、大聖堂の入り口の騒ぎを見て理解してくれたようだった。キッと表情を引き締め、周囲の人々に叫んだ。
「ティセドは、大聖堂内の民間人を避難させなさい!ゲブラーは、表口と裏口に分かれて神の軍を堰き止めるのです!! ゼーゴ、正面をお願いします!」
「わかってらァ!!」
 手早く指示を出すアノスさんの言葉に、私の背後、大聖堂の正面口から荒々しいおっさんの声が返る。聞き覚えがあったから振り返ると、数人いるゲブラーの中で、一際図体がデカイ影があった。
 ……もしかして、ずっと前、お城から脱出してアルフィン村に帰る途中で会った、あのおっさん?! ノストさんに脅されて逃げ出した!そういや、アノスさんの護衛していたり、今も頼りにされたり、実は結構強い!?
 と、とにかく私は逃げ道を探さなきゃ!アノスさんに慌てて聞いた。
「アノスさん、正面口以外に出口はありませんか!?」
「上だ。全面囲まれてる」
「ノストさん……でもっ!」
 後ろからノストさんにぶっきらぼうに言われて、私は不安げに振り返った。
 だって上に逃げたら、自分で逃げ道を塞いでいるようなものだ。ノストさんもそれはわかっていて、でもそう言うんだ。
 ふと、入り口で大きな声が上がった。
 それを聞くなり、ノストさんは私の腕を掴んで階段の方へ走り出した。
「わっ!?」
 引っ張られながら入り口を肩越しに見ると、神の軍にやられて倒れている神官さんがいた。殴打だったらしく血は見えなかった。その隙に内部に入ってきた、神の軍の見知らぬ一員がこちらに向かってくるのが見える!
 階段の手前まで来ると、ノストさんは私を階段側に押しのけて叫んだ。
「上に行け!」
「は、はいっ!」
 有無を言わさぬ強い声。つい元気良く返事して、私は自分のその声に背中を押されるように階段を駆け上がり始めた。
 3階建ての大聖堂。吹き抜けになっているこの空間の2階に上がった時、下方で高い澄んだ音が鳴った。グレイヴ=ジクルドの震える音だ。ドキっとしたけど、一瞥もしないで、私は2階の廊下を走る。
 走りながら、何気なく1階の様子を横目で見て。その中に、頬がこけた男の人を見つけて、心臓が一瞬凍りついた。
 ……忘れるはずもない。彼は……私が前に、城の地下牢で氷づけにした三人のうちの、一人だった。その傍に、もう一人、長髪の人も見えて。
 神の軍は、死者の軍。
 まるで――自分の罪に追われているようで。
 心拍が速くなってきて、比例して心も焦る。
 心拍が速いのは走ってるからだって言い聞かせながら、それでもじわじわ侵食する不安は拭えなくて。
 ノストさんは強い。負けるはずがない。でも、あんな数相手じゃ……!
 大聖堂全面が包囲されてるって、どれだけの数なの?! これじゃ、まるで――
 ……考え付いた単語に、心が竦み上がった。体が竦まなかったのは奇跡だ。

 ……そうか。
 これは、戦争なんだ。
 独裁者かみと、そして民衆わたしたちとの。

 何事も因果律。
 罪が、罰を受けろって追ってきた。
 私が罰を受けなかったから、起きてしまったんだ。
 私のせいなんだ……!!

 ……気が付いたら、3階に上り、さらに上へと続く細い階段を上っていた。
 上り切った瞬間、ざあっと髪が横に流れた。
 そこは、大聖堂の最上階、尖塔の屋根の下の屋上だった。少し離れたところに同じような塔がいくつか見える。見上げると、屋根のさらに上には大鐘が見えた。
 大聖堂の7つの尖塔は、それぞれが別の音階の鐘を持つことで有名だ。そして、一番音が低い真ん中の鐘が、音に比例して大きい。ここは、その鐘の真下らしかった。
 完全に、行き止まりだ。
「………………」
 何とはなしに端に近付いてみると、下から吹き上げてきた風をまともに受けた。当然だけど、地表が遠かった。嫌な妄想が頭を過ぎって、血の気が引く。
 ……ノストさん、大丈夫かな。
 ううん、彼はついてきてくれるって言った。危険だと思ったら逃げてくれる。生き延びてくれるって信じるの、私。
 でも……きっと、無理だ。さすがのノストさんでも、あの数をすべては蹴散らせない。
 私のクロムエラトは、攻撃はできない。できるのは、弾く盾リュオスアランと、想起音ユスカルラ膨らむ力ルードシェオと同じような力。
 私の力は、神の軍の前では意味を成さない。物理的な攻撃は問題ないと思うけど、私にはその力がない。私は、形のないものしか扱えない。
 それに……できれば、クロムエラトは使いたくない。制御はある程度できるとは言っても……まだ怖いから。盾くらいなら、まだ平気なんだけど……。
 だから、考えなきゃ。ここから、さらに逃げる方法……!

 ギンッ――と、少し離れたところから、鈍い音がした。きっと甲高い金属の音だったんだろうけど、こもって聞こえた。
 階段を向いたら、ざっと私の手前に誰かが着地する。当然ノストさんだったけど、なんだか様子がおかしい。
 紫の服のあちこちに切り傷を作って、いつもの悠然とした臨戦態勢じゃなくて、荒い呼吸で少し腰を曲げて前を睨み据える。だらんと下げた右腕の先には、グレイヴ=ジクルドが引っさげられていて……その刃を、赤い雫が撫でている。彼の足元に滴る鮮血。
「……の、ノストさん!? ど、どういうことですか?!」
 ぼんやりそれらを認めてから、私ははっとした。ノストさん、右腕を怪我してる!
 いくら数が多いって言っても、ノストさんは無理せず、適度に引くようにしていたはずだ。
 それなのに、疲労困憊で怪我まで負ってるって言うのは……あのノストさんが、引くのも迎え撃つのも一苦労な相手がいるってことだ!

 ……ジャリっと、靴が石造りの床を撫でる音が耳に届いた。
「お前、変わってねーなぁ。強くなっても、弱くなってもいない。3年間、何もしないでいたなら、まぁ当然か」
 聞いたことのある男の人の声音に、私は固まった。ノストさんの背中を見たまま、動けない。
 その背を避けて、向こう側にいる人物を見るのが恐ろしかった。恐ろしいって思う時点で誰なのか理解しているのに、そこに本当にいると認めてしまうのが、怖かった。
「今、お前が俺とある程度張れてんのは、もっぱらその剣の恩恵だな。軽いし、誰の手にも馴染むらしいからな、使いやすいだろ?」
「……っ……」
 ノストさんはただ、グレイヴ=ジクルドを握る手に力を込めた。打つ手がない自分に対して苛立たしげに、ギリギリと。力を入れたせいで血がまた滴るけど、それにも気付かない様子で。
 こんなにノストさんが感情的になるのは、ただ一人に関してだけ……
 ……私は、動かない体に逆らって、ゆっくり、ノストさんの後ろから顔を覗かせた。
 数人がいる先頭に立つ、予想通りの青緑色のロングコートが、この風になびいていた。
 彼の漆黒の瞳が、私に動く。
 そして……
 彼は、私のる、邪気のない快活な笑顔を向けた。
「よ、ステラ。初めましてだな!」
「…………ヒース……さん……」
 私の記憶の中と変わらぬ、灰色の髪を1つに束ねた剣聖が、そこに立っていた。

 

 

 

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 彼は、寂しそうな顔をした。
「あぁ……そうか。俺が父親じゃないって、知っちまったんだもんな……」
 一瞬何のことかわからなかったけど、私が他人行儀で「ヒースさん」って呼んだことを言っているんだと気付いた。
 考えてみれば、有り得ないことじゃなかった。
 神の軍は死者の軍。すでに死んでいる人なら、誰だってなる。ヒースさんだって。
 ということは……スロウさんの妹さんも、エリナさんも……もしかしたら……アルトミセア様も?
 でも、信じ切れなくて……!
「……ど、どうして……?貴方まで……私達を追ってくるんですか……!?」
「まーな。神の命令だしな」
「だって!その命令にはっ……!」
 ……グレイヴ=ジクルドの回収もある。つまりそれは、ノストさんを……最悪殺してまで、剣を奪えってことだ。
 ヒースさんが……それを、呑んだ……?!
「そういうことだ。俺は手加減はしねぇ。だからノスト、お前も俺を殺す気で来い。じゃねぇと――死ぬぞ」
「………………」
 すっと表情を消し、ノストさんを瞳に映して言うヒースさんは、見たこともないくらいの冷酷さを宿していた。
 私達、二人に向けて言っている。唯一の救いは、彼がノストさんを見ていたことだった。まっすぐ私の方を見て言われてたら……きっと、指先まで縛られて、絶対動けなかった。

 信用していた人が敵に回った。それがこんなに恐ろしいなんて。
 ノストさんは、答えない。――それが答えだった。
 詰みだ。私達はまんまと相手の策にはまり、追い込まれた。
 背後は空。出口を塞ぐのは、超越した力を持つ、在りし日の剣聖。
 逃げ道は、ない。

 逃げ道がないなら、作ってしまえば?

 それができないから困ってる。
 閃光のように脳裏を駆け抜けた戯言を、一蹴して。
 一瞬後、はっと思い出したことがあった。

『なぜなら 貴方の想いは 叶えるためにあるのだから』

 いつかのラルさんの透明な声は、焦燥にかられていた私の胸を静めながら、染み渡っていく。
 ……ああ、そっか。
 大事なこと、忘れてた。
 私のこの力は、この神の軍を生み出した、神様と同じ力。
 神様が、このエオスを生み出す時に振るったはずの力。
 すべてを生み出す力だ。
 だから、叶える想いクロムエラトだって……忘れてた。

 できる?私。
 ……できる。
 信じる。信じてこその想いだ!

「ノストさんッ!!!」
 神の軍たちの顔に驚きが走った。膠着状態で静まり返ったその場を、私の声が無遠慮に踏み荒らしたからだ。
 でも、それでいい。響け、私の声!
 その場の全員が驚いて、私の行動に置いていかれている、今がチャンスだ!
 ノストさんの前に踊り出た私は、他の人達と同じように唖然としているノストさんに飛びついた。自分が知る限りの体当たりを、膨らむ力ルードシェオで増幅させて。
 疲れていたノストさんは抗うこともできず、あっさり突き飛ばされて、後ろへよろめく。
 それは、あっという間だった。
「っ……!?」
 ノストさんが驚愕するのが見えた次の瞬間。重力から解き放たれた私達は、宙を舞っていた。
 飛び込んだ空中。重力という束縛から逃れた刻は、なんだか自由でいられるような気がした。
 ばさばさと、服が、髪が、風に悲鳴を上げる。
「私、諦めませんからっ!」
 自分に言い聞かせるつもりで言った声は、それらの悲鳴に掻き消されていく。
 ノストさんが打つ手なしって思っても、私、諦めないから。
 だから……ノストさん、私に、勇気を下さい。
 彼の背中に回した腕に、ぎゅうっと力を込めて、私は願う。

 クロムエラト。
 私の想いが力となって働く、恐ろしい力。
 今だって怖い。この力を使わずに済むなら、ずっと忘れていたいのに。
 だけど……それは、神子である自分から逃げているだけだ。

 逃げたくない。
 だってそうしたら、私を生んだ神様からも、逃げることになるから。

 立ち向かえ。
 この恐怖に。

『貴方の心は 翼のように広く散りやすいのね』

 私の心が翼だと言うのなら、この恐怖も広げてしまえ――!!

―――キ……ィィンッ―――

 澄んだ音色とともに、すべてが蒼ざめた。
 大気が凍りつく。緩やかに落ちる速度。
 寒気が走る背中を一瞥した私の瞳に、そこに広がる蒼く煌く翼が映った。

 ――氷翼カノンフィリカ

 雫が凍りついたような、小さな粒子の集まりの羽。
 思いもしない形で戸惑ったけど、私の体の一部だから使うのは簡単だった。
 細かな氷粒を散らしながら氷の双翼をざわりと蠢かせて、私は強く羽ばたく。

 翔ぶ。
 翔ぶ。
 翔ぶ―――