neoteny

67 アンビバレンス

 ぴしゃん、ぴしゃんと響く、静かな雨音。
 それを乱すように、ズズ……と固い床を何か擦る音がした。
 同じく固い寝台の上に、ドアの方に背中を向けて横になる私は、それをただ聞く。
 コツコツと足音。次第にそれは、時間をかけつつも遠ざかっていき……遠くの方から、扉を閉める重い音が響いてきた。それから、雨音が帰って来る。
 ……起きたばかりだったけど慌てて寝たフリをした私は、むくりと体を起こした。ドアの下の方を見ると……予想通り、そこにトレーにのった食事があった。
 今日の朝食は、ふわふわしてそうなパンと、香ばしそうな焼き魚、鶏のダシがきいた豆スープ。
 看守さんじゃない、厨房にいそうな格好をした別の人がいつも置いていっている……らしい。一度だけ見たことがある。牢屋のドアの下に少し開いている穴から、いつも中に差し出される。
「………………」
 窓の外を見ると、やっぱり雨が降っていた。強すぎも弱すぎもしない、心地良い音を奏でる雨。
 雨音は好き。ずっと耳を傾けてると、なんだか不思議な気分になる。それに、その間は何も考えなくていいから。……特に、今は。

―――……ステラ おはよう

「……おはよう、ございます……」
 何処かためらいがちに声をかけてきたラルさんに、私はぼんやりしたまま返事をした。それから、のそのそと動き出して寝台を降り、朝食の前に座り込む。
 セル君がいなくなって……あれから4日間、誰にも会ってない。たまに来る看守さんは除いて。
 同じことを繰り返す日々。時間がひどく遅い。さらには、余りすぎた時間はいろんなことを考えさせる。
 例えば……目の前の食事。

―――食事よ 食べないの?

「……いらない……です」

―――……でも

「いらないです……」
 ラルさんの心配そうな声に、か細い声で答えた。その場で膝を抱え、頭を伏せて縮こまる。
 ……気持ち悪いんだ。昨夜も食べなかった。食べたら、吐いちゃいそうで。
 心が本能を上回って、体が食べることを拒否していた。
 だって、これ食べたら、また1日が始まる。
 ご飯食べたら、またしばらく生きてなきゃならない。
 私、ボルテオースでできてるけど、このままずっと断食したら死んじゃうかな?
 つまり……

 私は今、どうして生きてるんだろう。

 ………………。
 だって、ここには誰も来ない。来ちゃいけない。
 私は、誰かと待ち合わせてるわけでもない。
 それに、スロウさんの目的は、グレイヴ=ジクルドを手に入れること。
 それなら、このまま完成させなければいい。
 じゃあ、結合させる唯一の手段である私は……邪魔だ。いなくなっちゃえばいい。
 ……でも、ヒースさんの願いは、グレイヴ=ジクルドを破壊すること。
 それは、私じゃないとできない……。
 自分が精神的に参ってるなって言うのはよくわかってたけど、止まらない。
 自分がおかしいよ。いつもの私はどうしたの?
 私……どうすればいいの?

―――ならステラ 貴方はどうしたいの?

「………………」
 頭の中の考えを見計らったかのようなタイミングで、ラルさんが声を挟んだ。私は、ただぎゅっと膝を抱える腕の力を強くした。
 ……ここ数日、こういうふうに悩むと、心を読むラルさんは必ずそう聞いてくる。
 でも、私は答えない。一度だって答えなかった。
 だって答えは、自分でわかってる。
 わかってるから……口に出したら、いけないような気がした。
 だってクロムエラトは、私の想いに反応して働く力。いくらある程度は制御できるようになったとしても、想いが強すぎたら、きっと制御なんてできない。こんな心の状態じゃ、絶対想いは強くなる。
 そしたら私は、きっと呼び寄せてしまう。オルセスで首を締められた時みたいに。
「……これで……いいんです」

―――ステラ……

 質問には答えないまま、私は自分に言い聞かせるように言った。ラルさんは何か言いたげに私の名前を呟く。だけどそれだけで、彼女は沈黙した。
 そう……これでいいんだよ。
 これで……

 目を閉じて、雨音に耳を澄ませる。
 ぱらぱら、ぱらぱらと、綺麗な音がする。
 牢屋の中に小さく反響して、遠く、遠く響いていく。

「…………え?」
 とても長く思えた時間の後、ぽつりと言ったラルさんの声が耳に届いた。少し遅れて反応し、私は顔を上げる。

―――上の方が騒がしいわ なぜかしら

「上……」
 怪訝そうなラルさんの口調。なんとなく、上を見上げてみる。
 ……石造りの、灰色の天井。この、ずっと上は……もちろん、お城の中だ。ということは、お城の中が騒がしい……?
 ここには何の音も届かないから、わからない。ここでは、雨音と自分の声、ラルさんの声しかしない……。

―――誰か来る

 不意に響いた、ラルさんの緊張した声に、私は身を強張らせた。ほぼ同時に、上の方で固い音がする。あの音……扉が開いた音だ。
 誰?食事はもう来た。スープにはまだ湯気が立ってるから、あんまり時間は経ってない。だから食器の回収には早すぎる。
 スロウさん?
 ノストさん?
 それとも別の誰か?

「……何だよ、ただのガキじゃねェか」
「だから、そう言っただろ?」
 息も忘れて、ただ階段を見つめていた私の視界に入ってきたのは……見たこともないおっさんだった。スキンヘッドの目付きが悪い、大柄なおっさんだ。その後ろに、やっぱり知らないおっさんが二人いる。ちょっと頬がこけた人と、ちょっと長めの髪の人だ。三人とも、なぜか武装していた。
 あれ……でも、なんか後ろの二人……見たことあるような気がする。何でだろ……?
 三人はこちらに歩いてくる。先頭のスキンヘッドさんの後ろの頬こけさんが、くるくると指で何か環のようなものを回していた。よく見ると……鍵束だ。
 ……あ……思い出した……!後ろの二人、前に一度だけ来た看守さんだ。だから鍵、持ってるんだ……。
「で、参謀は何だって?」
「地下牢に入ってる奴を連れて来いってさ」
「え……」
 頬こけさんが問い、隣の長髪さんが答えた会話を聞いて、私は目をゆっくり見開いた。
 参謀……スロウさんが……私を連れて来いって?何で、突然……。
 前の方に座る私の目の前に、スキンヘッドさんがしゃがみ込み、無遠慮に私をジロジロ見る。這うような嫌な視線に、私はおっさんを睨み据えて対抗した。
「わっかんねェなァ……」
 やがて、スキンヘッドさんがアゴに手を当てて呟いた。
「参謀が何考えてんのか知らねェが、こんなガキの何処が怖いんだ?」
「……怖い?」
 ……どういうこと?
 スロウさんが……私を怖がってるってこと?
 そんなわけ……
 私が無意識に繰り返すと、スキンヘッドさんは「あぁ」と頷いて言った。
「この牢屋は、国にとって重要な奴をブチ込むってのもあるが、大概、世話が面倒な奴を周囲から隔離するためにブチ込む場所だ。それ以外は、普通は上の方の牢屋に入る」
「………………」
「テメェは参謀曰くルナじゃねえらしいからな、国の重要人物なわけねェし、わざわざ隔離しなきゃなんねェような暴れん坊でも、強ェ奴でもないみてェだし……なのに参謀は、テメェを隔離した。こんなガキの何が怖いんだか、わっかんねえなァ……」
「まぁ、参謀の考えること全然わかんねぇってのは、今に始まったことじゃねぇだろ?」
 不可解そうに眉をひそめて言うスキンヘッドさんの後ろから、立ったままの長髪さんが笑って言った。
 ……確かに……スロウさんにとって、私は、グレイヴ=ジクルドを完成させるための手段でしかない。
 なら、石と剣が揃うまで、私を閉じ込めておけばいいだけだ。だって私は、自分で牢屋からは出られない。
 何処だっていいんだ。閉じ込めておける場所なら。
 そう、上にも牢屋があるのに……わざわざ、この場所に隔離された理由が……足りない。
 スキンヘッドさんの言う通り、スロウさんが、私を恐れてるから?でも、どうして?スロウさんは、強い。私なんか、すぐに殺せちゃうくらいに……。

 キィィ……と、鉄が擦れる音がした。
 はっとした時には、いつの間にか牢屋の錠は外れていた。かと思えば、三人は牢屋の中に入ってきていて。
 ……なぜだかぞっとした。慌てて立ち上がり、三人から少し距離をとる。3歩くらいの間を置いて、私達は向き合う形になった。
「な……なに……?」
「見極めてやろうじゃねェか」
 スキンヘッドさんがニヤリと笑って言い、腰の剣を抜く。窓の隙間から差し込んでいた日光に反射し、冷たい銀の光が牢屋内を駆け抜けた。

 おっさん達が、一歩踏み出す。
 私は、一歩下がる。
 頬こけさんのつま先が、朝食をのせたトレーに当たり、こぼれたスープがトレーに広がっていく。

「気になるしな~、参謀が怖がってた理由」
「ちょっと痛めつければわかることだろ?」
 頬こけさんと長髪さんも、ニヤニヤしながらそれぞれ拳とナイフを握る。どちらも、鍛え抜かれた拳、刃。
 ……体が急激に冷めていくような感覚が、全身を襲った。

 狭い牢屋内。
 私は一人。
 相手は三人。
 私は丸腰。
 相手は武器を持っている。

 三人は踏み出す。
 私は下がる。
 足元も見ないで震える足を後ろに出すのは、とてもおぼつかなくて。
 でも、目が三人から離れない。離れさせてはいけない気がした。
「こ……来ないで……」
 声が、震えていた。
 こちらを見据える三人の目は、明らかに本気だった。
 三人の武術者。そんな人達からまっすぐ向けられる矛先。敵意。
 ここには、私の他に誰もいない。
 頼りも、いない。

 剣の鋭い刃。手の甲にトゲのついた拳。先端の尖ったナイフ。
 あれが、比較的柔らかい体に当たったら……?
 当たり続けたら……?

 踏み出す。下がる。
 踏み出す。下がる。
 踏み出す。下がる……

 ……どん、と背中が壁に当たった。
「うらぁああッ!!」
 張り詰めていた空気が誰かの吼える声に裂かれ、同時に、三人が微動したのが見えて。
「いやぁあああぁっっ!!!!!」
 頭を抱えてしゃがみ込んだ、その瞬間。
 しゃがみ込んだ私とは反対に、じわじわと込み上げていた恐怖は、熱は、限界まで一気に込み上げて。
 そしてあふれる寸前、体の奥がぞっとするほど冷え込んだ。
 わかったのは、それだけだった。

 ……………………

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

「――――――――――……っ……はぁ……はぁ……」

 ……いつの間にか止めていた息は、どのくらい持ったんだろう?
 ぱらぱらと、変わらぬ雨音が聞こえて。思い出したように息を吐き出し、私は、なぜだかやけに自分が疲れていることに気付いた。
 何でだろう……体が、なんだか……だるい。少しだけ、息も上がってるし……。
 ……私……どうしたんだっけ……?
 ぼんやりする意識の中で、真下の灰色の石床に向けていた視線を、ゆっくり上げていく。
 そして視界の上に、靴を履いた誰かの足が覗いた瞬間……私は、頭の動きを止めていた。
 ……ひどく、嫌な予感がした。

 寒い。震える。それは寒さからなのか、恐怖からなのか、自分でもわからなくて。
 息を吸う。冷たい空気が、喉を滑っていく。
 息を吐く。白い吐息が、私の視界を曇らせる。
 耳の奥で鳴る速い鼓動は、警鐘のようで。
 ……ゆっくり、本当に、ゆっくり。顔を上げて。
 予感通りの光景を目に映し、それでも私は、目を限界まで見開いていた。

 冷え切った牢屋内で。
 看守のおっさん三人は、それぞれ武器を振り上げた格好のまま、凍りついていた。
 その顔は……どれも、苦痛の表情だった。
 そんな氷像が……目の前に、三体、立ち尽くしていた。

「…………あ……あ、ぁあっ……」
 ぞっと背中を寒気が駆け抜けた。意味のない声がこぼれた。
 見たくないのに、目が三人から離れない。
 ガクガクと震える肩を抱いて、それでも目だけは氷像から外れなくて。

 …………私だ。
 カノンフィリカは、私の想いで発動する。
 私なんだ。
 私が……

 私が……殺した。

「わ……わたし、は……っ!」
 震えが止まらない。
 殺した。
 人を。
 気持ちで……殺した。
「いやぁあッッ!!!!」
 頭を抱えて、目を固く閉ざした。
 何も見たくない。否定したかった。
 違う、私じゃない!
 でも、私のせいだ。
 私は……私は……!!

 ……怖い。
 自分が怖い――!!

 ガクン、と頭が揺れた。肩を強く揺さぶられた。
 驚いて思わず目を開けたら、氷像しかいなかった目の前に、ここにいるはずのない人がいた。
「うあ……ぁあっ……ノストさん……っ!」
 私の前に膝をついてこちらを見据えている、見慣れた姿。
 何でいるの?ううん、いるはずがない。だって彼は、来ちゃいけない。
 これは……幻なの?

 ……幻でもなんでもいい。
 気が付いたら、私は、縋るようにノストさんの胸にしがみついていた。
 掴んだ服は、彼の胸に当たった額は、ほんのり温かかった。
「ノスト、さんっ……わたし……わたしっ……!!」
 ……人を、殺した。
 どうして?
 神剣を壊すための、力のはずなのに。
 壊して、もうそんな恐怖に怯えなくても済むようにするための、力のはずなのに。
 世界を正すための、力のはずなのに……
 なのに、どうしてこんなことになってるの?
 何のための力なの?
 怖い。
 三人よりも、スロウさんよりも、自分が怖い――!!