homeostasis

73 Noesis 03 自分の居場所

 参謀スロウ=エルセーラが、突然の辞職をした。
 ——その報せは、もちろん、宿屋にいるフィレイアの耳にも届いていた。
 当然と言えば、当然だろうと思った。記憶を失っていたスロウが、グレイヴ=ジクルドの取り合いで、人数の多いヒース側と対立するためだけに得た地位だからだ。
 その対立がなくなった今、それはただの鎖と化した。その鎖に縛られていなければならない理由はない。だから離脱したのだろう。
 その後、彼は何処へ行ったのか。行くつもりなのか。
 ……そう考えていたからだろうか。

「…………これから、どうするつもりなのですか?」
 目に留まった黒に、フィレイアは数歩の距離を置いて足を止め、そう問いかけていた。
 いつもの神官服を着ているフィレイアは、この街中ではよく目立つ。だが、セフィスの存在はあまり民間人の間には浸透していないので、見慣れない神官服のせいで物珍しげに振り返られることはあったが、騒がれることはなかった。
 それぞれの方向へ向かう道が放射状に伸びている、イクスキュリア外郭にある広場。人込みを避け、リュオスアランの影響を出さないようにやって来た。その縁に沿うように設置されているベンチに、この場に不釣合いな雰囲気をまとった青年が足を組んで座っていた。
 恐らく、気配で気付いていただろう。しかし、青年——スロウは、まるで今、初めて気が付いたようにこちらを見て言う。
「これは……フィレイア様。こんな人の多いところに、お一人でおいでになるなんて珍しいですね。リュオスアランのせいもあって、人込みはお嫌いだったと記憶しておりますが」
「リュオスアランの発動範囲を把握する、ちょっとした訓練も兼ねた散歩です。そういう貴方こそ、こういう穏やかな場所は嫌いだと思っていましたが」
「心外ですね。そうでもありませんよ。この雰囲気は、故郷によく似ています」
 スロウは、本心が見えないいつもの妖しい笑みを浮かべたまま、広場の光景を見て言った。そのスロウの言葉、様子を見て、フィレイアは思わず目を丸くしていた。
 どんなに何を考えているかわからなくとも、スロウが嘘をついたことは一度もなかった。だから今も、彼が言っているのは本心だ。
 ——やがて、ふと、フィレイアはあることに気が付いた。
「……そういえば、私は……スロウ、貴方のことを知りません。貴方はいつも、自分のことは話しませんでしたから……」
「あぁ……そういえば、そうですね。やはり忘れていたというのが大きいのでしょうが、無意識に避けていたのかもしれませんね」
「……聞いてもいいでしょうか?」
「ほう。構いませんが、興味がおありですか?」
 フィレイアが自分のプロフィールに興味を持ったのが意外だったのか、スロウは少し驚いたように聞き返した。それこそ心外なその反応に、フィレイアはむっと表情を曇らせた。
「誤解を招かないように言っておきますが、私は貴方を嫌っているわけではありません。事情が事情で対立していただけです。ヒースやルナも同じでしょう。貴方を含めたメンバーで過ごしたのは、1年余りですが……貴方も、大切な仲間だったのですから」
「……それは私も同じですよ。何もヒースやルナ、フィレイア様が憎かったわけじゃない。むしろ好感を持っていたのは確かです。……しかし、私がヒースを殺したということは変わりないでしょう。それでも、私をお恨みにならないのですか?」
 こちらを試すように、そう言ってくるスロウ。しかし、それは同時に、己の罪を理解した上で、相応の罰を待つようでもあって。

 ふわりと、風がフィレイアの髪を流した。縁の外に生える木々がさわさわと揺れ、その影を彼女の上に落とす。
 ——それが、凪ぐように止んでから。フィレイアは、口を開いた。
「…………それは……わかりません……」
「……そうであったら喜ばしいことですが、過去に仲間だったからというひいきは無しですよ?」
 自分がどう思っているかを求めているスロウに、フィレイアは困ったような表情で、静かに首を横に振った。
「それを抜きにしても、わからないのです。貴方は記憶を失っていた。それでも覚えていた衝動に従って行動し、ヒースを手にかける形になった。しかし、記憶が戻った後の貴方は……すべてを後悔しています」
「………………」
「貴方の罪は消えません。ですが……気持ちが、ついてこないのです。恨む恨まない以前に、それは貴方が望んで行った結果なのか、そうではないのか……私には、判別がつきません……」
「……私自身でも、判別がつきかねますね。自分がよくわかりません」
「………………」
「………………」
 ——少しの間、両者ともに口を閉ざしてしまった。かつての仲間であり、仲間の仇でもある青年。近しいのか、遠いのか、不可思議な距離感。
 その距離を詰めるように、立ったままだったフィレイアが歩き出した。スロウの前を通り過ぎ、リュオスアランの関係で彼と距離を置いて、同じベンチに腰掛けた。
「……スロウ、話を聞いた限り、貴方には妹さんがいたそうですね」
「は……そうですが、突然ですか。脈絡がありませんね」
「私は今、貴方の罪を裁きに来たわけではありませんから。いずれ、そういうことも必要でしょうが……今は個人的な理由で、貴方の素性や経歴を聞きます」
 いきなりの彼女の行動、話題転換についていけなかったスロウがそう言うと、フィレイアはしてやったりというふうに、小さく笑って答えた。
「妹さんと記憶を亡くしたのは、5年前……でしたね。今、貴方は確か27歳のはずですから、22歳の頃ですか」
「そういうことですね。妹の名はリズと言って、当時は18歳でした。私もその頃は、ただの非力な庶民だったのですが……」
「今は剣士で、参謀でもある……ですが、参謀は辞職したのでしょう?」
「さすが、ご存知でしたか。ルナとディアノストの指名手配も、完全に解除しました。この変更が地方まで行き渡るのには時間がかかると存じますが、もう賞金稼ぎには狙われないかと思われます」
 恐らく、周囲が驚き慌てる中、強行して辞めただろう元参謀は、そんなことを感じさせぬ平静な口調で語る。
 広場で談笑する人々、舞い降りて地面を歩いている鳥を見ながら、スロウはフィレイアを見て聞いた。
「私はカストー村というところの生まれなのですが、ご存知ですか?」
「シャルティアを抑止する役目のセフィスである以上、国内の地名はすべて覚える必要がありますから」
 カストー村は、セントラクスの北側、ロウラ川の南の支流メーヴェ川の沿岸にある村だ。以前、ステラがノストとともに脱獄し、最初の晩を越した村であると、当然だが二人は知る由もなかった。
 その問いを遠回しに肯定したフィレイアは、一瞬、聞くか聞くまいか逡巡してから、スロウに言った。
「……それで、どうするのですか?参謀を辞めた貴方は……カストー村に戻るのですか?」
「さあ……実のところ、考えてすらしていません。ですが少なくとも、故郷には戻りません。正直……育ての親に合わせる顔がありませんので。墓参りには行きたいのですが」
 スロウは正面に視線を戻して、まるで他人事のように軽い口調で言った。
 先のことを考えもせずに、とにかく参謀を辞めたらしい。居場所がない今の彼には酷だと思ったが、フィレイアは念のために言う。
「ひどいことを言うようですが……貴方は、教団には戻ってこられませんよ。一度、破門した以上、それを取り消すことはできません」
「もちろん存じていますよ。だてに教団所属だったわけではありませんから、教団の規律はよく知っています」
 懐かしむようにスロウは言ってから、ふと思い出したように、自分の横に立てかけていたラミアスト=レギオルドに目をやった。
 3年間、ずっと愛用していた双刀。それぞれ人格を持つ、稀少なアルカ。人格を持っているというのは、契約後に知った。まともに言葉を交わしたことがないなと、スロウはぼんやり思った。
「あぁ、フィレイア様。すっかり忘れていましたが、ラミアスト=レギオルドはお返しいたします」
「え?」
「この双刀が業物であることは確かですが、元々は教団の物ですからね」
 スロウは黒と白のラミアスト=レギオルドを持ち、フィレイアのリュオスアランのことを配慮して、それをベンチの真ん中に置いて差し出してきた。突然の申し出に、フィレイアは呆然と双刀を見つめる。
 ——「教団の人間は、アルカを使用・保持してはいけない」。アルトミセアの代から続く、教団の規律の1つだ。
 しかし、3年前、当時……今でもだが、見つかっている中で最も厄介なアルカ・ラミアスト=レギオルドを、スロウが教団から持ち去った。
 アルカを手にしたスロウに対抗するには、オースの性質上、やはりこちらもアルカでなければならなかった。だからフィレイアは、悩んだ末、受け継がれてきたその規律を、右腕ルナ、懐刀サリカ、自分の信頼における両者に解禁したのだ。
 ベンチの上に置かれた死光イクウ生闇イロウ。二人が契約を破棄したことで、彼らはもうスロウに応えないと言う。
 ラミアスト=レギオルドを見つめたまま、それらを頭の中で整理して……やがてフィレイアは、小さく首を横に振った。
「……いいえ。これは、スロウ、貴方が持っていて下さい」
「……フィレイア様?」
「契約を破棄させられた貴方では、もうこの双刀の力は引き出せません。別の者に渡り、再び契約が成立して力が使われるよりは安全でしょう」
「……それは……嬉しいお言葉ですが、フィレイア様。そんなに私を信用なさってよろしいのですか?例えば私が嘘をついていて、実はまだ力が使えるとしたら……」
 もしそうなら、確かに大変なことになるだろう。彼に記憶が戻っているとしても、強大すぎる力は人を惑わす。その可能性は否めなかった。
 しかしフィレイアは、何処か戸惑ったようなスロウに、不敵にくすりと微笑んで言った。
教皇わたしを侮らないで下さい。嘘は見抜いて当然です。それに、貴方が嘘をついたことは一度もありませんから」
「……これは、とんだご無礼を、教皇セフィス
 堂々と言い切ったフィレイアの態度に、スロウは軽く頭を下げながら、知らずに小さく笑みをこぼしていた。見慣れた妖しい笑みとはまた違う、安堵した笑みだった。それを見て、フィレイアは驚いた顔をしてから、もう一度笑った。
「さて、私も何か目的を見つけなくては……まずは、罪滅ぼしですか。ところで、ディアノストはどうしていますか?」
 自分と同じように、目的を失ったノスト。自分は立ち止まったままだが、彼はどうしただろうと思ってスロウがフィレイアに聞いた時、広場が何やら騒がしくなってきていることに気付いた。周囲に目を向けると、この広場の、自分達から見て奥の方に人だかりができていた。
 その中に、黒と黄が垣間見えた。

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 銀色と黒色の残像だった。
 銀閃が縦に描く弧を、黒閃がさばいていく。
 銀閃は、白銀の神剣グレイヴ=ジクルド。黒閃は……琥珀のような石が埋め込まれた黒い銃だ。
「別に剣じゃなくたって、さばくってできるんだからね!」
 その銃を持つルナが、少しだけ驚いた様子のノストに言う。ノストの素早い剣を、ルナも負けず劣らず素早い銃身でさばく。
 金色の光を灯し、動くたびに山吹色の残像を描くその銃は、エルンオースの銃。秘めた力エルンオースという、オースが結晶化した石を埋め込んだ、ルナ愛用の物だ。アルカの一種でもある。
 しかしこれは特殊な例で、オースでできているのは石のエルンオースのみだ。銃がその石から力を引き出している。銃には、オースを導く術式が刻まれており、銃弾もオースでできたものが射出される。オースを導く術式を扱えたのは、史上ただ一人。よって、アルトミセアが作ったものだと言われている。
 先ほどから続く攻防。自分の剣先を、ルナが読んでいたようにさばいていく。
 この均衡を破ろうと、腕だけで剣を動かしていたノストが、踏み込みと同時に、大きく振りかぶったグレイヴ=ジクルドを横薙ぎした。
「ひゃわわっ!?」
 いきなりリズムを崩されたルナは、慌てて仰け反り、後ろに倒れ込んでそれをかわした。……かと思えば、手応えなく剣が振り抜かれていた頃には、後ろ回りの要領で華麗にすでに立ち上がっていた。
 距離を詰めようと足を上げた頃、エルンオースの銃が、こちらに向けられた。
 速すぎて見えなかったのか、元々見えないのか。ただ、何かが放たれたのだけはわかった。本能的に顔を傾けたら、耳に何かが掠った。じわりと、かすかな熱が残る。それを感じながら、まだ銃を構えた状態のルナにグレイヴ=ジクルドを振り下ろす。
「くっ……!」
 さばくには近すぎた上に、タイミングを読む余裕がなかった。否応なしに銃身で、ルナはその一撃を受ける。衝撃が銃に吸われ、ガギン!と硬い音。見かけに寄らぬ強固さで、銃はノストの剣を受け切った。
 イクスキュリア外郭にある広場。まるで見世物のように繰り広げられる二人の戦いを、たくさんの野次馬が囲んで歓声を上げていた。

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 事の発端は、至極単純だった。
「ノストさん」
 仕方なく、最終手段。そう呼ぶと、銀髪の後ろ姿はようやく反応した。いつもの仏頂面に、さらに輪をかけて不機嫌そうな顔が振り返る。
 自分がわざとその呼び方で呼んだことについて、いらついているのだろうと読んで、ルナは誤解を招かぬように言った。
「7回目。6回普通に呼んでも反応しなかったから、気分悪いかもしんないけど、それで呼んだの」
「………………」
 それを聞いても、不機嫌な顔は変わらなかった。もしかして地の表情に戻っていたのかもしれないが、ルナにはその違いはまだわからない。
 ——ノストが目覚めてから、4日経つ。相変わらず、一行は同じ宿屋に居座っていた。サリカの死光イクウの傷が完全に治癒するまでいるつもりだ。そろそろ完治するところだが。
 その宿の2階にある、小さなベランダ。最近、グレイヴ=ジクルドを持って、ノストはよくここにいる。
 それで今、宿側で朝食ができたらしいので、ノストを呼びに行った。が、いつもの如く気付かないので、結局この呼び方で呼ぶことになる。毎食必ず呼んでいるので、すでに12回は呼んでいる。

 静かな朝の空気は、新鮮で気持ち良い。それを吸い込んで、ルナは仕方なさそうに1つ息を吐き、腰に手を当て、諭すように深刻な口調で言った。
「ねぇ、ノスト。自分で気付いてるよね?君、前と比べ物にならないくらい、凄く鈍感になってるんだよ。周りの気配に全然気付いてない。信じらんないくらい」
「………………」
「スロウが敵じゃなくなったから、今、君を狙ってくる奴なんていないだろうけど……無防備すぎるよ」
 あまりにも無防備で、危うい。会って間もないが、以前の彼は、足音や空気の流れ、さまざまなものに敏感だった。その過敏とも言える鋭い感覚は、自分にはないものだったから、いたく感心したのをよく覚えている。それが今は、見る影もない。
 ——その違いは、本人が一番よく感じているはずだ。自分の言葉に、ノストの目付きがさらに怖いものになったように見えるのは、気のせいではないだろう。
「ねぇ、どうして?ステラがいなくなったから?」
「………………」
 ルナが問うと、彼女を睨みつけていたノストは、何も答えないまま、ゆっくり目を伏せた。……何処となく、悩んでいるように見えた。本人すら、その理由がわからない……そんなところだろうか。
 そう読み取って、ルナがふと視線をノストの傍に映すと、立てかけてあるグレイヴ=ジクルドが目に入った。
「……あ、そうだ!」
 その瞬間、頭の中に降ってきた直感。ルナは思わずパチンと指を鳴らして、ノストに提案してみた。
「ノスト、私と手合わせしてみない?」
「……お前と?」
「そうだよ?」
 抜け殻のようだったノストが、やっと口を利いた。なぜだか意外そうな目で見てくるノストに、ルナはきょとんとした顔で言ってから、ムッと少し怒った顔をした。
 その反応を見て、ノストの眉が寄ったことにルナは気付かなかった。——ルナの反応は、ステラとよく似たものだった。
 軽んじられた気がするルナは、ちょっとだけ怒った様子で、わざと偉そうに両手を腰に当てた。
「あ、今、私のこと甘く見たでしょ。戦えるのかどうかって」
「………………」
「ステラと同じ顔だから、君にはそういう印象あるかもしれないけど。改めて言うけど、私は剣豪ヒースの一番弟子だからねっ。君より先に弟子入りしてるんだから。それに私は今、教団のゲブラー所属、フィアの右腕だよ。まぁ所属とかはどうでもいいけど、とにかく舐めないでってこと」
 怒った顔で長々と喋ったルナは、それからぴっとノストを指差し、彼を挑発するように小さく笑って。
「私は君の方が心配だけどな。君こそ戦えるの?」
 わざとらしい挑発文句だったが、明らかにノストの目付きが急角度になったのがよくわかった。それを見て、ルナは内心で笑ってしまった。どうやらプライドだけはお変わりないようだ。
「おっ、怖い顔になったね」
「……舐めんなよ」
「その意気その意気!じゃさ、今ご飯できたから呼びに来たんだけど、早速広場に行こっか!」

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 ルナの銃が、その辺の代物とは比較にならないほど、相当硬くできていることはよくわかった。グレイヴ=ジクルドでも切れないということを考えると、銃自体がオースでできているか、銃がオースで強化されているかどちらかだろう。
 しかし、あくまで銃だ。剣や槍じゃない。小型すぎる銃を襲う振動は、その他の武器よりずっと細かく、大きいはずだ。
 自分の刃を受け止めた銃が、ルナによって引かれるその前に、剣先を真下にもぐらせて振り上げた。固い手応えとともに、銃が、やはり痺れていたらしいルナの手から、存外あっさり弾き上げられる。
「やってくれるねっ!」
 武器を失ったルナは、焦ることもなくそのまま宙返りして距離を置いたかと思うと、ポケットから何かを引っ張り出して、こちらに向かって投げてきた。
 思っていたより緩い速度で投擲されたそれが、全体が紫に染まっている奇妙なナイフだと知ったのは、グレイヴ=ジクルドの腹で受けてからだった。
「……!?」
 受けた瞬間、正面から、ずしりと凄まじい重さの圧力が襲ってきた。明らかに、その外見と釣り合っていない異様な力だった。
 あまり力を入れていなかったせいもあって、思わず力に負けて肘が曲がりかけ、とっさにもう片方の手で剣の先端に近い方を支える。
 謎の重圧は、不思議とあっさり引いた。よくわからないが、とにかくすぐにノストは剣を構え直そうとする。
 転瞬、ヒュッと、目の前で風が裂けた。
「チェックメイト」
 ——紫色のナイフ。気が付けばその先端が、自分の喉元に突きつけられていた。
 いつの間にかノストの懐に入ってきていたルナは、切っ先を向けたまま、動かないノストを見上げて問う。
「ねぇ、どうしてナイフを避けなかったの?このナイフを受けた時点で、君は大きな隙を作った。逆に避けてたら、私の方に隙ができたはずだった。こんな小さいもの、どうしてわざわざ受けたの?見切れない速度じゃなかったでしょ?」
「………………」
「……もしかして、見えてなかったの?」
「………………」
 ……何も、答える気になれなかった。その態度が肯定の証だとは、自分でもわかっていながらも。

 ——気が付けば、周囲の野次馬が減っていっていた。行き過ぎる人々の中、変わらぬ格好で立ち尽くす自分。
 周囲の情景。自分の横を歩いていった者。ルナの背後を進む者。
 ここにいる者達すべてと同じ場所に立っているはずなのに、やけに彼らが遠く感じられる。まるで自分だけ、隔離された場所から情景を見ているようで。
 アイツと同じ顔をしたルナが、自分の目の前で、何処か残念そうな顔で口を開く。
「……その様子じゃ、私が近付く気配も掴んでなかったって感じだね。戦ってる最中も、君、ずっとうわの空だよ。条件反射的に、私の動きに対応してるって感じ。大抵の相手はそれでも敵わないと思うけど、そんなんじゃ、いくら君でも、いつかやられちゃうよ?」
「………………」
「うーん、最近、ずっと同じように生活してるからなぁ……何か変化を持たせた方がいいのかな。服装とか場所とか……でもサリカのことがあるし、あまり遠くには行けないか……」
 ナイフを下ろし、その手を肘に、もう片方の手を顎に手を当ててブツブツと呟くルナ。
 何気なく彼女を見下ろした時、アイツと同じ色の髪が目に留まった。

『文句ありまくりです!せっかく綺麗な髪なのにっ!髪が泣きますよ!』

 すでに忘れていた、いつかのくだらない会話が蘇った。自分の髪に対して、アイツはなぜだか妙に執着していて、寝ている間に勝手に髪をいじられたこともあった。
 ——5年前。15歳の頃は短かった髪を伸ばすようになったのは、ヒース=モノルヴィーの存在があったからだった。
 ヒースを越えるまで切らない。伸びるほどに時間がかかっている証。戒めのようなものだった。……だが、いろいろあって忘れていたが、彼が死んだ今、それは意味のないものになってしまった。
 思えば自分は、ずっとヒースの影を追っていた。
 牢屋で出会ったステラについて行ったのは、彼女がヒースの娘だと名乗ったから。
 スロウを殺そうとしていたのは、彼が、ヒースの成そうとしたことの最大の障害だったから。
 しかし今——どちらも、なくなってしまった。
 ステラはいない。スロウはゲームから下りた。
 自分には、ここにいる理由も、ヒースの影を追う必要も、ない。
「………………」
 ——そのことに気が付いて。右手に申し訳程度に握っていたグレイヴ=ジクルドを手離すと同時に、ノストは素早く手を伸ばしていた。
 肘を支えるルナの手に握られている、紫色のナイフに。
「えっ……?!」
 考え込んでいたからか、ルナは近距離での自分の動作に反応し切れなかった。あっさりナイフを奪い取ったノストは、驚いた顔で見上げるルナの前で、迷うことなくそれを首元に持っていき。
 薙いだ。
「……な……」
 確かな手応えがして、断ち切られたのがわかった。
 愕然と目を見張るルナの前で、ノストはゆっくり両手を下ろした。右手にはナイフ、左手には……銀色の房を持った手を。
 結っていたところから断ち切った、自分の銀髪の房。過去の自分の戒め。
 ヒースの影を追う必要がないのなら、こんな戒め、もういらない。

 ざんばらな短髪になったノストは、手のひらの上の銀髪の房を一瞥してから、興味なさげに放り捨てた。軽い髪の毛は風に掬われ、広場の地面に四散していく。
「って、ちゃんとゴミ箱に捨てなよ!あ~もう、君はおぼっちゃまだったから、そんな習慣ないのかもしれないけどさぁ……」
 ようやく我に返ったらしいルナが、慌てて注意するが、時すでに遅し。すっかり地面に散らばった髪を見下ろし、ルナは溜息混じりに言って、ノストの手からナイフを奪い返した。
「もう、びっくりしたよ!まさかの自殺かと思ったでしょ!髪切るならそう言ってよ!」
 ナイフを奪われた時、嫌な想像をしてしまったルナは、心配した分、溜息を吐きながら無反応のノストに怒った。それからナイフをポケットにしまい、彼女は真剣な顔で呟く。
「でも、何でだろ……おっかしいな、使った時に力が増幅されてれば、そのまま頭も切っちゃうくらいの力が……うう、嫌なこと考えちゃった……ルードシェオの影響を受けなかったってこと?」
 ——ルナの呟きは、すでに耳に入っていなかった。
 足元に落ちていたグレイヴ=ジクルドを条件反射的に拾い、ノストは立ち上がる。地に落ちた髪を踏み、歩き出す。なぜだか足は、宿屋に向かっていた。

 戒めがなくなったのはいい。
 自分はもう、やるべきことを終えた。終えさせられた。
 気も体も軽くなった。軽くなりすぎた。
 自分が地面に足をついているのかがわからない。

 自分の居場所は……何処にもいない・・・