homeostasis

72 Noesis 02 生還者

 自分が他人から見れば、冷たい奴に見えることくらい知っている。
 実際、自分はあまり気持ちが揺らがない。よく言えば冷静、悪く言えば無感動。
 自分ではこれが普通だが、きっと、他の奴は違うのだろう。
 例えば、あの馬鹿とか。

 一応、たまにムカついたり、楽しかったりはする。自分ではわかっている。ただ表面に出ない。心と体が一致していないだけだ。
 だが、これもきっと、すぐに顔に出る奴は出るのだろう。
 例えば、あの凡人とか。

「………………」
 だが――今。
 自分が、何を考えているのか、よくわからない。

 自分が目覚めた宿屋のバルコニー。外でゆっくり昼食を食べるために設けられたと思われるそこで、裂けてしまった以前の黒い服から、新しい紫色の服に着替えたディアノスト=ハーメル=レミエッタは、手すりに頬杖をついてぼんやりと正面を見つめていた。表通りに面したバルコニーだから、彼の視界には道を行き交う人々が映っている。
 ちょうど昼時だが、昨夜降ったらしい雨のせいでこのバルコニーはすっかり濡れていた。人気のないそこで、彼は何をするわけでもなく、ただ通りを瞳に映していた。見て・・はいない。

 ――目が覚めた時、柄にもなく夢だと思った。
 確かに自分は一度、死んだのに。あの寒気、熱、閉塞感。自分の世界が遠ざかる感覚を、はっきりと覚えている。
 なのに……目覚めたそこには、なぜか詐欺師がいて。
 おはよう、生還者ガートイニレシル。そう言ってきた。
 すべて、サリカから聞いた。
 死んだ自分を、ステラがグレイヴ=ジクルドで生き返らせたと。
 そして――いなくなったと。
「………………」
 確かに、少し探してみたが、ステラの姿は見当たらなかった。サリカが言っていることはまがうことなく真実なのだろう。
 しかし、実際にその光景を見たわけじゃないからか。――その事実を、すんなり受け入れた。
 ステラは、本当に消えてしまったのだと。
 ……思えば、イクスキュリア城の地下牢で会って、ずっと長い間、一緒にいた。
 ただの馬鹿だと思っていたのに、不思議と助けられたような場面が幾度かあって。アイツは気付いていないようだったが。
 綺麗事ばっかり言う甘ちゃんなのに、不思議と強い意志でそれを現実にしてしまっていたり。驚かされたことが多々あった。
 よく笑って怒って泣いて。自分とは正反対な奴だと、会った時からずっと思っていた。
 居場所のようになっていた存在。

 それが―――――消えた。

「ノストさん」

 ――ずっと、長いこと、何の音も届いてこなかった鼓膜を、静かに揺らす声。
 心が動揺する。しかし頭は冷静だった。
 後ろからしたその声に振り返ると、バルコニーに置かれたテーブルの横に、淡い茶色の髪の見知った少女が立っていた。
 無表情のまま、思考だけが停止しているノストに、彼女は、ワインレッドの瞳・・・・・・・・でこちらを見つめて言った。
「あ、反応した」
 ……その違和感に気が付いて。ようやく、風景がちゃんと見えてきた。
 そこに立っていたのは、自分がそこに見た少女ではなく、彼女とよく似た少女――ルナだった。声もよく似ているから尚更だ。
 なぜ、アイツだと思ったのか。アイツは消えてしまったというのに。
 さざなみが走った心が、また冷ややかに沈黙していく。それからやっと、先ほどのことを思い出した。
「…………何の真似だ」
 さっき、ルナが自分をどう呼んだかについてだ。無意識に低い苛立った声が出た。
 ルナは「ごめんごめん」と苦笑いしながら、自分の隣まで歩いてくる。
「でも、ずっと呼んでたんだよ?けど聞こえてないみたいだったから、これなら反応するかな~って」
「………………」
 ……ずっとそこにいたというのか。まったく気付かなかった己に呆れつつも、いつものように怒りは湧いてこない。冷え切った心からは浮かんでこないのか。
 それに、どういう理由で、ルナがそう思ったのか。その理由はよくわからなかったが、確かに、他の音は何一つ聞こえていなかった中、その言葉だけは不思議とはっきり聞こえた。なぜなのか。
 両腕を手すりに掛けて、通りを見つめるルナを見る。あの馬鹿とよく似たコイツが、一体、何の用なのか。
 と思っていたら不意にこちらを見て、ルナは笑いながら、あっさりとした口調で聞いてきた。
「ね、ノストって、私のこと嫌いでしょ?」
「………………」
 心を覗かれたような不快な感覚に、思わず少し眉が寄る。表面にはまったく出していないというのに、なぜ伝わったのだろう。
 ……確かに自分は、ルナを心の何処かで嫌っている。はっきりとは言えない、かすかな嫌悪感。なんとなく嫌、それしか表現の仕様がなくて。
 ルナが人として、達観しているのはわかっている。間違いなく好かれる人間だろう。そんな彼女が、自分は嫌いだ。
 前にステラに、ルナのこともちゃんと見てほしいと言われた。「馬鹿」と「優しい人」、そう区別してくれるだけでいいと。――しかし、自分はなぜか頷けなかった。二人が別人だと、完全に割り切れていない。
「見てればわかるよ。表情に出なくても、雰囲気でわかるから」
 また、考えていることを見透かしたようなことを言って、ルナは目を通りに戻した。普通の人間であるはずなのに、ステラのように不思議なことを言う彼女が、やはりなぜか嫌いだ。

「ねぇ、さっき、何考えてた?」
「……?」
 ――いや、どうやら、ステラより上だ。唐突に問い掛けられる不思議な問いは、まったく脈絡がない。
 わけがわからずに少女を見る。彼女は、水溜りを避けながら道を行く人を見たまま、言う。
「ステラは君を失って、存在自体を引き換えに、君を蘇らせた。死んだはずの君が生きていて、生きていたはずのステラが消えた。わかる?今の君の立場が、あの時、君を目の前で失ったステラの立場なの。君は知らないだろうけど、ステラは絶望した悲鳴上げてたよ。ねぇ、何考えてたの?」
「………………」
 何でも不思議がる子供のように、ルナは聞いてくる。
 さっきまで探そうとしていた、自分でもわからないことを問い掛けられて、ノストは答えられなかった。何も返答できず、ノストも通りに目を向け、さっき何を考えていたのか、ぼんやり思い返してみる。
 ルナ曰く、自分が目の前で死んで、ステラは悲鳴を上げたという。アイツの泣き顔は何度か見たことあったから、なんとなく想像がついた。自分が死んで泣いてくれる奴がいたのかと、漠然と思った。
 死ぬ間際、おぼろげになっていた意識の中、ひどく怯えた様子で自分に呼びかけていた彼女を覚えている。死なないで下さい。そう言われた。
 虫の息だった自分は……ただ、一言。
 ヒースの娘だと言うステラと、罪滅ぼしのつもりで一緒に城の牢屋から出て。3年間、牢屋の中で止まっていた自分の時が、緩やかに流れ出した。
 ずっと牢屋の中に、一人。孤独に慣れすぎていて他人なんか邪魔だと思っていたが、他人といるのも悪くないと、少し思うようになった。
 ――それもこれも、本を正せば、信じられないことに、あの馬鹿のせいなのだ。
 それに免じて、最期を迎える前に、一言言ってやろうと。
 一度も口にしたことはなかったが、馬鹿さ加減やまっすぐな意志、その他諸々全部をひっくるめて、アイツのことは認めていた。
 ……その時には、すでに意識が途切れかけていたから、ちゃんと伝わったかどうか、自分では覚えていないが。

「じゃあ今、何考えてるの?」
「………………」
 少し質問を変えて、ルナが再度聞いてくる。
 ルナが来る前。自分はさっき、何を考えていたのか。
 今、何を考えているのか。
 ……やはり、よくわからない。

「……ここにいたか」
 沈黙が降りた二人の間を、第三者の声が通り抜けた。またもや後ろからかけられたその声は、男性のものだった。
 また、その気配の接近に気付けなかった。が、なぜだか身構える気にもなれず、何気なく肩越しに後ろを見て……ノストは、驚愕も露に、その瞳を押し開いていた。
 ……そうだ。
 自分は、殺された。
 ならその時、相対した敵は生きている――!
 ――そこには、黒い神官服を着た青年が立っていた。
「わっ、スロウっ……!い、いいの?」
「ディアノストと話すために来た」
 同じく、スロウ=エルセーラの姿を見たルナが、慌てた様子でスロウとノストを見比べて言う。うろたえた様子のルナとは反対に、スロウは落ち着いた態度でノストを見据えて言った。
 ――かすかな引っかかり。違和感。
 ……おかしい。状況が読めない。
 スロウとルナは、対立していたはずだ。しかし、今の二人には、そんな雰囲気などまったくない。元は同じ師の弟子同士とは言え、数日前が嘘のように、なぜ、こんなにも親しげなのか?
 状況把握も兼ねつつ、しかしスロウの一挙一動を見逃さぬように、ノストはスロウを睨みつける。彼の警戒するさまを甘んじて受け入れて、スロウは言った。
「まずは、ディアノスト。これは謝って済む問題ではないだろうが、殺して済まなかった」
「……何?」
 今度こそ、理解が凍結した。
 「殺して済まなかった」――不可思議で、そして不可解な一言。
 完全に予想からかけ離れていた一言に、ノストが珍しく混乱した様子になる。つい小さく笑ってから、それを少し苦々しいものに変えて、男は言う。
「驚くのも無理はない。お前の知っている私は、恐らくこんなことは言わなかっただろう」
「……何のつもりだ。何を言っている?」
 まるで自分のことを、自分のことではないかのように言い回すスロウ。頭がおかしくなったとしか思えないスロウの言葉に、ノストが慎重に先を問うとスロウは答えた。
「信じてもらえないだろうが、どうやら私は、5年ほど前から記憶喪失になっていたようだ。ヒースと出会った頃には、すでに記憶がなかったのだ」
 そう言ってスロウは自分を嘲るように笑い、瞼の裏に取り戻した記憶を描くように、瞳を閉ざした。

 ――5年前のあの日。妹を目の前で殺された。
 両親を亡くし、支え合うように生きてきた、たった一人の肉親。その妹が、たまたまやって来た凶悪な賞金首によって殺された。
 その時感じた、ひどい憎悪をまだ覚えている。剣もまともに扱えなかったのに、その仇に切りかかり、逆に殺されかけた。
 頭からおびただしい量の血を流しながら、妹の屍を踏み越えて立ち去る賞金首の背を横になって見ていた。もう手を握る力も残っていない、自分のその心を焦がしたのは――欲望だった。

 力が欲しい。
 大事なものが、守れるように。
 誰にも負けないように。
 もっともっと、大きな力が、欲しい。

 ……そして気が付いたら、自分はベッドの上に寝かされていた。
 一命を取り留めた自分の頭にあったのは、あの強い欲望だけだった。
 その強い衝動に突き動かされるように、記憶を失っていることにも気付かず、その後を生きてきた。
 狂ったように剣の腕を磨き、1年ほど経った頃に、ヒースに出会った。彼の卓越した強さに衝撃を受け、彼を追うように教団入りし、弟子となった。そしてその後、ヒースに誘われるままフェルシエラに行き、兄弟子ノストと初めて顔を合わせた。あとは……ノストが知っている通りだ。

「……グレイヴ=ジクルドを求めたのは、単純で愚かな、そういう理由からだ。ステラに神剣を手に入れてどうするのかと聞かれた時、私は答えられなかった。自分でも、なぜ力を欲しているからか思い出せなかった。まったく……それだけのために、ヒースを殺し、お前を殺し、我ながら愚かすぎて笑えもしない」
「それで、ステラが君を蘇生させた時、再生の力……なのかな?あの光に巻き込まれて、記憶が戻ったんだって」
 戻った記憶を掻い摘んで説明し、それから判明した、自分が神剣を求めていた理由を知って、スロウは自身に呆れたように締めくくった。最後にルナが、ノストの横からそう補足してくれる。
「………………」
 その話を聞いても、ノストは、相変わらずスロウを警戒した目で睨みつけていた。
 今の話が本当だとしても、それを裏付ける証拠など、1つもない。何せ、あの計算高いスロウなのだ。彼が嘘をついているという可能性がないわけではない。
 しかし――今のスロウが、前とまったく印象が違うのも、確かだ。
 常に妖しい笑みを仮面のように張り付かせていた、あの顔。少なくとも、そこに感情らしい感情が浮かんだ様子を、ノストは初めて見る。
 警戒心が一向に消えないダークブルーの視線を、スロウは逃げることなく受け止めながら言った。
「信じてもらえなくても構わない。むしろ、それが普通の反応だな。どちらにせよ、今の私は数日前ほどの力は持っていない。変な行動を起こそうものなら、さっさと殺せばいいだけだ」
「え?スロウ、それってどういうこと?」
 それは初めて聞いたらしく、今まであまり口を出さずにいたルナが代表して問い返す。そこでスロウは、自分の腰に刺さる双刀――ラミアスト=レギオルドに、おもむろに目をやった。
「コイツらが、一方的に契約を破棄した。私の意思に抗い、ステラを助けた時にな」
「契約が破られたってことは、その子達……今、人型になれないってこと?」
「そうだ。一度契約した主には、もう応えないらしい。力も引き出せない。別の双刀使いと契約するまで、コイツらは刀のままだ」
 物言わぬ刀の柄に触れ、スロウは自嘲した。
 左の腰に刺さる漆黒の刀・死光イクウ、右の腰に刺さる純白の刀・生闇イロウ
 スロウに逆らって刀の状態に縛られるのを恐れていた彼らは、あの時、スロウに逆らってステラを助けた。その代償として、己の牢獄に落とされた。
 刀の正体が、死光イクウがセルク、生闇イロウがミカユだという話は、さっきサリカに聞いた。スロウに逆らうと契約が破棄され、人型になれなくなるということも。それを何よりも恐れていたと。
 なぜ、それほどにも逆らうことを恐れていた彼らが、寸前でステラを助けるためだけに逆らったのか。それを本人達に聞くことは、もうできない。
 それから、少し聞きにくそうに間を置いて、ルナが口を開いた。
「……ねぇ、スロウ。君、これからどうするの?」
「さて、な……自分が力を欲していた理由はわかったが、グレイヴ=ジクルドほどの強大な力を求めるまでもなかった。それに、一度使ったが、アレは人の身には荷が重すぎるようだ。……すべてを知った私は……どうすればいいのだろうな……」

『……だから……知らない方がよかった。何も知らない頃が、幸せだった……』

 空を仰いで、誰にともなく言ったスロウの言葉は、3年前のヒースの言葉を彷彿とさせた。
 「不変」と【真実】。光と影のように寄り添うそのふたつ。
 記憶を失ってから、5年間。ただ力を求むままに、師を殺し、兄弟子を殺し。……しかし、記憶が戻り、自分が力を求めていた理由を知り、スロウはすっかり拍子抜けしてしまっている。
 今まで自分を支えてきた理由なき衝動が、記憶が戻り、そのありふれた理由を得たことで、一気に勢いを失った。スロウはすでに、一介の人間では相手にならないほどに至っている。グレイヴ=ジクルドを手にするまでもなく、その目標はもう随分前に達成していたのだ。だから、グレイヴ=ジクルドを求める理由がなくなってしまった。
 しかし、これまでグレイヴ=ジクルドを手に入れるために奔走してきた自分から、それを取ったら何も残らない。
 カラッポで、ひどく空虚な自分。どうすればいいのか、わからない。
 ――そしてそれは、ノストも同じだった。
「……グレイヴ=ジクルドは、いらねぇのか」
「あぁ……もう、私、には不要だ」
「………………」
 空を仰いだまま、迷いなくスロウが返してきた言葉に、ノストは今度こそ黙り込んでしまった。
 自分は、ヒースとスロウが始めたゲームを終わらせるために動いていた。
 そのために、グレイヴ=ジクルドを壊す方法はわからずとも、障害となるスロウを殺そうと思った。
 しかし今、そのスロウが、ゲームから辞退した。殺す必要がなくなった。
 なら、あとはグレイヴ=ジクルドを壊せば、ゲームは終わる。
 しかし、唯一グレイヴ=ジクルドを壊せるはずのステラも、もういない。
 手元に残ったのは、壊されるはずだったグレイヴ=ジクルドのみ。
 だが、自分ではどうにもできない。
 ――本当に、何もすることがなくなった。

「………………」
 スロウと同じように、空を見上げた。あまり日光が照っていないと思っていたら、ずっと太陽が、分厚い雲に覆われて光を鈍らせていたらしい。見えるのは光だけで、肝心の太陽の姿は、雲に隠れて見えなかった。
 ――数日前まで目まぐるしい変化の中にいたのに、突然、空洞になったような気分だった。
 ステラが傍にいるという「不変」。
 スロウを殺すという「不変」。
 それは、あまりにも呆気なく崩れ去った。

 たった数日間で、世界は大きく変わってしまった。
 自分が死の眠りについていた、たった数日間で。