罪の章

第1話 友人からの依頼

 ――そこは、冷たくて、真っ暗な地獄だった。

「……ふーっ……ふーっ……」

 氷の大地を祝福する空気は、鼻の奥と肺を切り刻むようだった。咳き込むたび、かすかに床が揺れる感覚がする。
 腕と胴体、足も縛られ転がっている男ができるのは、荒い呼吸だけだった。
 ――ここに押し込められて、どれほどの時間が経っただろう。
 人を殺し徘徊する快楽犯として国中で名を馳せていたが、帝都で大規模な殺戮を計画したところ王女の予見に引っかかったらしい。犯行前に帝国軍に見つかり、これまでの所業から慈悲の余地もなく死刑が決まった。
 捕らえられた時点で、それまでの熱量も未練もなかった。罰が下されるなら一瞬で終わらせてほしい。
 しかし送られたのは、カルファード帝国の北に突き出たバルト半島――その先端で氷海を臨むバルト牢獄だった。
 飢えと寒さはまだ序の口。一切の光を奪うことで時間を、宙に浮くことで前後上下の感覚を剥奪する暗闇の監獄だ。かつて極刑とされ、近代では使用が控えられていた鳥籠が選ばれるとは。
 闇の中、ひとり。

「ふー……ふーっ……!」

 飛び出しそうなほど見開かれた男の眼が、闇を睨みつける。
 死にたくても死ねない。自分の体が事切れるまで続く苦痛は、やがて、干からびた心に活力のようにひとつの感情を宿した。

 憎い。
 ここに閉じ込めた奴らが、
 憎い。
 憎い。
 憎い。
 憎い。
 憎い—————

≪———憎いか?≫

「……ふーっ……ふ……、……」
 唐突に聞こえてきた声を認識するのに、数秒遅れた。
 さらに遅れて、衰弱した体で首を回してみるが、何処を向いても暗闇だ。
 いよいよ幻聴が聞こえ始めたのかと思うと、再び「声」がした。
≪復讐心が十分だとは言いがたいが、我が声が聞こえるだけ良い方だろう。奴らが帰ってきた今、目的を果たさなければならぬ。なんとしても、器が必要だ≫
 頭に直接響いてくる声音は、男とも女とも言えぬ不可思議な響きだった。
 誰だと聞こうとしたが、舌を噛み切らないよう布を噛まされており、うめき声しか出なかった。
 だが、「声」は応えるように嗤った。
≪――憎め。恨め。貴様をここに放り込んだ者を、世界を!≫
 それは、兵を鼓舞する軍歌の如く。
 小さな芽でしかなかった憎悪は、急速に茎を伸ばし、男の意識を絡みとっていく。

 憎め。
 滅ぼせ。
 セカイを――!


 ――ゼルスは、空に向かって大きな溜め息を吐いていた。

(もっとゆっくり来ればよかったかな……)
 国境を越えるほどの長距離飛行の疲労もあったが、どちらかと言うと、予感だけで大国まで急いで来てしまった自分に対する呆れが強かった。
 しぼんだ風船のように床に転がっているのは、黒いコートを着た少年だ。青年へと成長する過渡期の顔立ちは怜悧だが、今は気だるげで気が抜けている。その背中では緑の竜の翼が下敷きにされていて、反抗するように栗色の髪を風が撫ぜていた。
 15歳になったゼルス・ウォインドは、『空に近い場所』で大の字で倒れていた。
 寝転がって見上げる空は何処までも青い。街の喧騒は遠く、近くに止まった鳥のさえずりが平穏に響いている。
 精神的な倦怠感と、ぽかぽかとした陽気。眠るしかないと本能が囁く。
 うとうとと眠りに入りかけた、その瞬間。

 ゴォオオオーーーーンッッッ!!!!

「っどわぁああああーーーッ!?!」
 腹の奥底まで震わせる低音が真横で爆発した。
 飛び起きた少年は、先ほどの緩みっぷりからは想像できない俊敏な動きでその場から離脱した。
 ばくばく暴れる心臓を宥めながら、目の前でいまだ大きな音とともに揺れる大鐘を呆然と見つめる。
「…………………………し……死んだかと思った……いや死んだわ間違いなく……」
 やっと呼吸ができるようになってから、混乱したまま意味不明な戯言を呟いた。

 ――北の大国カルファード。
 帝都レイゼークの中央に建つ王城、その上部にある時計塔の傍らで休んでいたゼルスは、強烈な目覚まし時計に叩き起こされたのだった。
(キルアの大声の方がまだマシだ……)
 鐘が鳴り止み今度こそ安堵してから、ゼルスは秋空を仰いだ。
 ゼルスの活動範囲は、基本的にルプエナ帝国内だ。だが今回カルファードまで来ることになったのは、R.A.Tフェリアス本部の親父の言葉がきっかけだった。

 『お前とキルアに伝言を預かってる。「カルファードのレイゼークで待っています」とさ』
 『知り合いです、の一点張りでな。対応は穏やかだったし綺麗な娘だったが、なんとなく人らしくなかったな。エルフってのは皆ああなのかね』

 ゼルスの知人で、エルフの少女は一人しかいない。
 現界に帰ってきていたのか、何故カルファードなのかなど疑問は山ほどあったが、良い予感はしなかった。
 二手三手先を読んで備えるあの才女が、理由もなく自分を呼び出すはずがない。緊急事態に思えて、急いで帝都までやって来た――のだが。
 肝心の待ち合わせ場所が決まっていなかったのだ。
(レイゼークで待ってるって……この馬鹿でかい都市の何処に行けばいいんだよ?)
「……まぁ、飯でも食うか」
 用があるなら向こうから来るだろう。探すのは諦めた。

 時計台最上部の縁から、階段を下りるような気軽さで降りる。重力に手を引かれて時計台の半分の高さまで落下してから、ゼルスはようやく翼を広げた。下からの風を強く押し返し、西の方へと飛ぶ。
(レストランとかがあるのは西区だったな……)
 栄えた街を眺める視界に、ひらひらと舞う紅が過ぎった。
 ――大都レイゼークは、秋が一際美しいと言われる。
 王城を中央に据える街は、軍部などが集約されている北区、それぞれ貴族と市民向けで分かれている東西の商業区、街の入り口となる南側が主な居住区となっている。
 もとより美しく整理された市街だが、秋になると、街の至るところに植えられた紅葉が一斉に色づく。
 紅色は、雰囲気も色合いもばらばらな家々をリボンをかけるように包み、縫い合わせ、ひとつの模様となるように都を彩るのだった。
 ゼルスもこの時期に来たのは初めてで、その壮麗さに感嘆していた。
「……ん?」
 不意に、風の流れが変わった。
 穏やかだった風が、びゅお、と音を立て、舞う紅葉を呑み込み――

 次の瞬間、少年は風になっていた。

 まるで襟首を引っかけられたように首が締め上がった。
 市街の景色がぐるんと回転し、やがて……

 だーーん!と背中から叩きつけられた。

「〜〜〜ってぇえ!!! おい、寸前で勢いを落としたのはわかるけど雑だろ!」
 上下逆さまの状態で何かの壁にぶつかったゼルスは、その格好のまま怒鳴った。背中がじんじん痛い。
 ――ひっくり返った視界に映るのは、青い人影だった。
 艶めく銀髪と、すっきりと通った鼻梁、背中に広がる大きな純白の羽。絵画の中から抜け出してきた天使のような青年だった。
 初めて見る者は美しい容貌に見惚れるだろうが、無感動な翠の瞳を向けられた途端、異質さに声を呑むだろう。
 1年前に出会った鳥族ゼド。
 真名は、光の支配者アスフィロスの従士――《執行者》ゼティス。

 磨き上げられた鏡のような瞳で、彼はゼルスを見下ろした。
「死にはしないだろう」
「そーゆー問題じゃなくてな!はぁ、相変わらずお前ってなんかズレてるな……」
 少年は頭をさすりながら立ち上がり、苦笑した。
 風に引っ張られた瞬間に、これはゼドの仕業だと察していた。才女の呼び出しなら、彼も同行していてもおかしくはない。
 待っていた『向こうからの呼び出し』が来たのだ。
 ゼルスは、塔がある建物の屋根に連れてこられたようだった。そういえば北区の図書館がそんな見た目をしていたような。
「ゼティス……お願いする立場なんだから、もっと丁重に扱いなさい」
 横から声がして振り向くと、呼び出し主の少女が申し訳なさそうに微笑んでいた。
 ミルクティー色の長い髪と、淡色のワンピース。舞い散る紅葉がよく似合う、秋の暮れを連想させる儚げな乙女だ。
 だがその実、彼らの参謀を務める才女であることはよく知っている。
 伝言主の少女、アスフィロス従士・真名ウェルニア――フィンは言う。
「ゼルスさん、ご無事ですか?手荒になってしまってすみません」
「あぁ、なんとかな。二人とも、久しぶり」
 どたばたして言いそびれた挨拶をゼルスがすると、いつもは冷静な少女がきょとんと目を瞬いた。
「久しぶり……?以前別れてから、さほど時間は経ってないように思いますが……」
「……そういやお前ら、千年生きてるもんな……俺らは、半年も経てば久しぶりだよ」
 ゼルスにとって、彼らは信頼できる数少ない存在――恥ずかしがらずに言えば友人――だが、妙なところで感覚の差を思い知って苦笑した。

 お互い世間話に花を咲かせるタイプではないので、すぐに本題を振った。
「それで……親父に伝言させて、俺を呼び出した理由は?わざわざカルファード指定にしたのもそれが理由か?」
 彼らとその主が住む天界は、リギスト王国アノーセル湖を境に現界と面している。カルファード帝国は、ゼルスにとっても二人にとっても遠方だったのだ。
 核心を問われ、眷属の少女は、顔色に少しだけ緊張を交えた。
 胸に秘めているものを取り出すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「――はい。『貴方がた』に依頼があります。現界の命運がかかった重大な依頼です」

「……そりゃまた重そうな……」
 とんでもない言葉が飛び出して、聞き間違えたかと思った。
 世界が懸かった依頼なんて、親父がさばいている依頼書の山をひっくり返したって出てこないだろう。
「……ですが、これはR.A.Tでの依頼ではありません。私達は貨幣を持っていませんので」
「ああ……つまり、報酬はないと」
「ええ。虫が良い話だとはわかっています。それでも、貴方がたに受けていただきたいのです」
 傲慢ともとれる言葉だが、少女の瞳は真剣だった。

「………………」
 ――彼女やゼド、眷属たちは一国を容易く滅ぼせる力を持つ。戦闘力だけなら余りある彼らだけで解決できない点で、相当な内容であることは推察できた。
 何の対価も用意できない上で、支配者たる主でもなく、対属性のラグナ眷属たちでもなく、矮小な現界の者を頼ってきた。
 史実としての神話伝承が忘れ去られた世界で、彼らが頼れるのは伝承者――ゼルスとキルアしかいないのだ。

 ……ともあれ、やはり予感は当たるものだ。
 ゼルスは細長い溜め息を吐いて、静かに佇んでいる青年鳥族に目をやった。
「――ゼド。全部終わったら稽古つけてくれ」
「何故」
「フィンもキルアに魔法教えてたし、良いだろ?それが報酬ってことで」
「ゼルスさん……」
 緊張していたフィンの頬が安堵に緩む。
 そのままお礼を言い出しそうな様子に、ゼルスは慌てて言葉を差し込んだ。
「いや、あんまり期待するなよ……?めちゃくちゃ難題そうなのは感じてるからな?」
「ふふ……ええ。もちろん、私達もいるので安心してください。ありがとうございます」
 少女は礼を口にすると、やっと心の底からの微笑みを浮かべた。
 むず痒そうに目線を逸らして、ゼルスは言い訳のように心の中でぼやく。
(そりゃ面倒だろうけど……)
 自分も現界に生きている以上、その命運となると他人事じゃない。危機を前もって知らされただけ恵まれているだろう。
 それに――友人らの頼みを無下にする選択肢はなかっただけのことだ。

「……で、お強い従士様御一行にもどうにもできない依頼ってのは?」
 ゼルスが皮肉げに促すと、フィンはくすりと笑ってから答えた。
「貴方がたに、『ある怪物』を討伐していただきたいのです。この依頼は、アスフィロス様から承っています」
 彼の主の名が出て、ゼルスはさらに陰鬱な気持ちになった。
 主直々の依頼と聞けば事の深刻さは伝わったが、危機感を煽って協力を乞うような形になっていただろう。名義を明かさず、ゼルスの意思を尊重したのは才女の細やかな配慮と言えた。
 ――それと同時に、ゼルスは『ここに呼び出された理由』に気付いた。
「その怪物と私達は、相性が悪いのです。ラグナ眷属も良いとは言えません。ですが、現界の者である貴方がたなら、ある程度耐性があると見ています」
 具体的な内容を話していく少女に、ゼルスはこめかみを押さえて聞いた。
「……もしかしてその怪物、カルファードにいるのか?」
「ええ。お察しの通り、今はレイゼークの郊外を移動しています。そろそろキルアさんにも合流してもらいたいですが……」
「………………」
 ゼルスは今度こそ沈黙した。
 まずは装備をチェックする。矢の残数や弓のつるの調子、その他の武器など、普段から一定は整えているが、それでも心許なく感じた。
 ――なぜなら、フィンは最初から『二人分の戦力』で計算しているからだ。
「……そいつ、俺だけでも倒せそうか?」
「私達も、詳しい見立てはできていませんが……どうしてですか?」

「キルアとは今、一緒にいないんだよ」

 事実を、なるべく平坦に告げた。
 それまで、絶え間なく溢れる泉のように話していたフィンの声が途絶えた。
 言葉が継げなくなった少女に代わり、影のように黙していたゼドが聞いた。
「……まさか知らないのか?」
「居場所か?半年前に別れたっきりで知らないな」
 ――そう。ゼルスは今、相棒とは一緒に行動していないのだ。
 支配者たちの因縁に片がついてから、少しの間はキルアと旅をして、その後は互いに目的ができて気ままに別れていた。心配せずとも元気だとは思うが、何処で何をしているかはまったく知らないのだった。
 目まぐるしい現界では、半年もあれば状況はがらりと変わっているものだが、眷属らはそれほど変化していると思っていなかった様子だった。
「半年前は、最近ではなく……?」
「少なくとも、俺は最近とは言わねぇな……」
 珍しく少し困った顔で押し黙ったフィンに、ゼドが念を押すように言う。
「探している暇はない」
「ええ……仕方ありません。しばらくは私達がなんとか援護するので、それで――」

 ――その時だった。
 突然、フィンが青年鳥族の腕を掴んだ。
 飛び立とうとして逡巡した彼を、少女が押さえたようだった。
 フィンは、有無を言わさぬ強い眼差しで言う。
「――行ってはだめ、ゼティス。アスフィロス様も言っていたでしょう」
「………………」
 青年が迷ったのは、事前に主に釘を刺されていたからだった。
 ぴんと張りつめた空気が、彼らの緊張を伝える。
 訳も分からず声を呑み込んだゼルスにも、『それ』は遅れてやってきた。

 ――それは、
   氷の槍に貫かれたような。
   頭を殴られたかのような。
   憎悪の目で見られたような。

 この世のすべてを恨み、憎み、破壊せんとする、でたらめな圧力の殺気だった。

「っ……」
 気付かぬうちに浮かんだ冷や汗が顎から落ちる。
 殺気が飛んでくる方を見ると、王城の方角だった。
 目を閉ざし、何かを感知している様子のフィンが横から告げる。
「ゼルスさん、討伐対象が襲来しました。王城付近、『周囲ぎりぎり』を視る限りは、10人から30人の死者が出てます」
「――!?」
「突然ゼティスのような速さで飛んできた怪物に、反応できる者は限られています。ですが、誰か……」
 それは言外で、ゼドならば追いついたと言っていた。
 ゼルスは、先ほどの二人のやり取りを思い出した。
(ゼドは、助けに行こうとしたのか……)
 遅ればせながら状況は把握できたが、気分は最悪だった。
 ――たった一瞬で、この街の何処かが血の海になったのだ。
 各国の関係は落ち着いており、長らく戦争は起きていないとはいえ、飢饉や盗賊がはびこる時代では死体はさほど珍しくはない。
 だが平和を謳歌するこの街で、そんな光景が広がっていると思いたくはなかった。
 惨状を目の当たりにした時の衝撃をなるべく減らそうと、光景をイメージする。
(アスナの予見でも抑えられなかったのか?)
 それとも敵は、王女の予見をすり抜けたのか。
 嫌な予想を考えつつ、ゼルスは覚悟を決めた。

「……相性が悪いとか言ってただろ。俺が様子を見てくる」
 声を絞り出して言うと、王城を向いた。
 ふと、ズゴン!!と頭の真横で凄い音がした。
 ……呆然と横を見ると、銀の大剣が塔の壁に突き立っていた。槍のように投擲してきたらしい。
 ゼルスは、何事もなかったように屹立している青年鳥族を猛然と振り返った。
「お、お前なぁ!俺を殺したい願望あるだろ!? 用があるなら口で言え口で!」
「待て」
「いや時差おかしいだろ!? ……で、何」
 皮肉にも、おかげで緊張が緩んだ。
 ゼルスが呆れて肩の力を抜くと、大剣がさらりと白い粒子になって散った。
 ゼドは無感情な瞳で少年を見据えて言った。
「途中から加勢する。だが、奴の近くに長居できない以上、期待もするな」
「……おい、安全を謳ったつもりで逆に不安にしてるのわかってるか?」
 青年鳥族が考えたことは、フィンも同じだったようだ。払拭できない危険を憂いつつ、参謀は重い首を頷かせた。
「……今は、それしかない。ゼルスさん、対象を撤退させることを目標に、前衛をお願いします。ゼティスは効果的な場面で、私は遠くから援護します」
「被害が広まる前に街から追い出すってことだな。わかった!」
 答えるなり、少年は屋根を蹴り上げ城の方角へ飛び去った。遅れて、鳥族の姿も掻き消える。

 二人が去った後、フィンはもう一度だけ目を閉ざした。
 『そいつ』を直視することはできないが、周辺を見るとすべての音が絶えている。
 ――その中で、ひとつだけ、確かに聞こえるこの心音。

「誰かが……戦ってる?」


 『事件』が起こる数分前は、いつも通りの穏やかな1日だった。

 目の前の白い山に、大きな口でかぶりついた。上半分がごっそり消えた山は、まるで神が大穴を開けたよう。
 口の中に広がる冷たい甘さを噛み締めてから、ぱくんともうひと大口。もうコーンが半分しか残っていない。
「む〜〜、おいし〜!やっぱりココのソフトクリームはサイコーだよね!♪」
 ソフトクリームを約3口で完食しそうなその大口は、道端のベンチに座っていた。
 天真爛漫という言葉を体現したような少女だ。くりくりとした黒瞳は無邪気に輝き、羽毛のような黒髪のショートカットも、背中に生えた白い羽も上機嫌に揺れている。半袖とハーフパンツから伸びる手足は程よく日焼けしていて、活発さをアピールしていた。知らぬ相手には幼く見られがちだが、これでも年頃の15歳だ。
 キルア・エスティナ・フォルノールは、最後のコーンを口に放り込み、「ごちそーさまっ☆」と両手を合わせた。
「あはは、キルアは食べるの早いね。ぼくは、まだこれしか食べていないんだよね」
 彼女の隣で、同じように『少年』が持つそれは、まだ先端から数センチしか減っていなかった。
「そーなの?ボクって食べるの早いの?? あっちゃんが遅いんじゃないの?」
「はは、そうだったら世の中大変だなぁ。食料が足りなくなってしまうよ」
 キルアに不思議そうに首を傾げられ、同い年の『少年』はおかしそうに笑った。
 微笑む瞳は穏やかな橙色。風にそよぐ淡い色合いの赤毛はやや長めだ。藍色のオーバーオールは控えめに快活さを主張している。絵に描いたような優しげな少年だが、一体、誰が看破するだろう。彼が……いや彼女が、まさかこの国の姫であるとは。
 アスナ・セージ=マッティオラ・カルファードは、くすりと笑んだ。
「半年前、キルアが街に来てくれてよかった。こうして何の心配もせずに城下町を歩けるのはとても嬉しいよ。キルアも一緒だから、もっと楽しい」
「ねー!ボクもあっちゃんと一緒で楽しい!」
 二人の少女は顔を見合わせて笑った。

 ――ゼルスと別れたキルアの「目的」とは、アスナに会うことだった。
 ひとまずレイゼークを訪れたところ、相変わらず城から脱走して追われているアスナに偶然鉢合わせた。
 再会を喜ぶのも束の間、妙案を思いついた王女は、キルアを城に連れて帰った。父王の御前で、キルアと帝国軍軍団長の決闘を開催したのだ。
 結果は引き分け。両者ともども引かず、長引くばかりだったので王が制す事態になった。
 それ以来、キルア同伴を条件に、アスナは正式に外出を許可されている。王女のお眼鏡に叶っている時点で本性はお墨付きなので、文句を言う者はいなかった。むしろ、もう姫を追いかけたり密かに護衛しなくて良いと軍部には感謝されたのだった。
 ちなみに、そのまま帝国軍に勧誘されたが、カルファードには縁もゆかりもないし、全然面白くなさそうなので返す言葉は「ヤダ」だった。

「出会った時、きみたちとは末長く付き合いがあることは見えたけれど、予見で見た時点ではこんなに仲良くなるとは思っていなかったんだよね」
 レイゼーク西の商業区。鱗雲が流れる空と風に舞う紅の葉を見上げて、アスナは感慨深そうに言った。
 ——半年前。王女は、キルアとゼルスに語った。
 予見は、世界の運命を見るもの。
 今回見た不安定な予見は、光と闇に関わる未来を四大精霊が朧げに伝えたもの。
 それに登場した汝らは、無関係ではいられない。
 光の支配者アスフィロス、闇の支配者ドゥルーグに邂逅し、現界の存亡がかかった事件を巻き込まれるだろう。
 そして、しばらくしてその予見は見なくなった——
 その理由を以前聞いていたアスナは、内容を思い出してくすりと笑った。
「キルアとゼルスは、お二人の諍いを仲裁したんだよね。何度考えても現実味がないよ」
「うん!ウェン君とセウル……アスフィロスサマとドゥルーグサマね!喧嘩してたけど仲直りしたんだよ!」
 キルアは報告として、アスナに事件のあらまし、両支配者の性格や雰囲気などを話していた。キルアとて、支配者の実在をいろんな人に話していいとは思っていないが、予見で勘付いていた王女には良いだろうと思ったのだった。
「二人とも楽しいから、あっちゃんも会えたらいいね〜♪」
「うーん、お二人が気さくそうなのはわかったけれど、恐れ多くて緊張してしまうな……」
 大陸南の二国と違い、カルファードでは両支配者は等しく崇拝される。アスナは困った顔ではにかんだ。

 やがて、甘味を堪能し終わった少女たちはベンチから立った。
 歩き出してから、違和感を覚えてキルアはアスナを振り返った。彼女が歩を進めていなかったからだ。
「あっちゃん?どーかした?」
「………………」
 予見の王女は、そこに立ち尽くしたままだった。
 押し開かれた橙色の双眸は、虚空に釘付けになっていた。
 ——様子がおかしい。なんとなく胸騒ぎを感じると、アスナは突然駆け出した。
「あっちゃんッ!?」
 並より優れた俊足で、あっという間に離れていく少年王女。出遅れたキルアは、慌てて地面を蹴って飛翔に移り、その後を追った。
 北に向かって駆ける王女は、隣に並んだキルアに叫んだ。
「さっき、予見が来たんだ!けど何かおかしい……!何が来るか、『見えなかった』!王城前と、場所ははっきり見えたのに!」
「見えなかった??」
 アスナの予見は、四大精霊から報せられるものだ。世界の意識であり法則である彼らに見えないものはない。——ただ二つの力場を除いて。
「光と闇、どちらかの力が関わるものが、来る……!」
「でもそれなら、アスフィロスサマとドゥルーグサマでしょ?ダイジョブじゃないのっ??」
 おおよそ神様とは思えない、おおらかな支配者たちを思いながらキルアが問う。彼らが突然現れるのも、現界に害を及ぼすとも考えられない。

 それでも王女の表情は晴れなかった。
「ぼくもそんなことはないと思うけど、これは悪い予見だ!とにかく行ってみなければ……!キルア、先に行って!」
「う、うんっ!」
 切羽詰まった声に押され、キルアは空に舞い上がって城を目指した。
 アスナが予見した場所は、王城前――憩いの場である大きな広場だ。
 すぐに到着して下り立つと、警備の兵士たちをはじめ、和やかに談笑する平民の夫婦、城から帰途につく貴族など、さまざまな身分の者がいた。
 その中央にすたっと着地した少女を見て、鳥族だと驚く者、見慣れた様子で手を振る者、反応はばらばらだった。
 キルアは手を振り返しながら、きょろきょろ周囲を見渡す。――特に異変は見られない。
(何もないけど……これから?)
 やっぱり何かの間違い?
 でも、アスナの予見は外れることはない。
 キルアがうーんと腕組みをした瞬間。

 ――視線を感じた。
 憎しみ。恨み。妬み。あらゆるものを敵視する存在感。
 負の感情がごちゃまぜになった殺気が、隕石のように背後に落ちた。

「――!?」
 振り返ると同時に、闇が膨れ上がり、爆発。
 おぞましい気配を乗せた漆黒の波濤が、視界を埋め尽くした。

「『光輝よディアスその気高き郷導は、永遠の祝福オウィラ エル サレト グラ ウェテ ベウス皇帝よ、すべてを拒めオーテス ジ カカデ コノス』っ!」

 素早く少女が歌い上げたのは、馴染みのある筆記魔法
エンシェント
ではなかった。
 ――詠唱式二大精霊魔法・マルクバルシェント。光と闇の精霊に願う魔法だ。
 すでに支配者がいる彼らに呼びかけ、一時的に力を貸してもらう。1年前、フィンが天界に帰る前に教えてもらったものだった。
 かざされた手のひらから溢れる白い光。それは少女の意思を反映して、瞬く間に盾のように広がった。
 そして――黒の奔流が衝突した。

「ひゃああっ!!」
 大瀑布を全身に受けたような衝撃が襲った。
 白い盾もろとも少女を押し潰そうと、黒い波が荒れ狂う。
 その壁の向こうから、ようやく『それ』が何なのかが見えた。
 ――黒い波濤は、闇の精霊たちの束だった。
 通常、精霊は目に見える形では存在せず、魔法や精霊干渉といった術を介して初めて薄らぼんやりと視認できるようになる。
 しかも、闇の精霊を正しく統率できるのは支配者であるドゥルーグだけだというのに。
 それに――
(消えないっ……!?)
 光と闇は対等で、ぶつかったら打ち消しあうはずだった。
 それなのに闇は消えることなく、ぎしりぎしりと押してくる。押し負けるのは時間の問題だった。
「っ……むり〜〜!! ってりゃー!」
 キルアの判断は早かった。
 精霊がまとわりつく盾ごと、ぶんっと放り投げたのだ。
 少女は反対方向に離脱し、力の支柱を失った光盾は、闇にばりばりと喰われる。闇はそれを食べ尽くすと、ゆらりと発生源へと戻っていった。
 それを目で辿った先に、『あってはならないもの』がいた。

 ——人型だった。ただし、「人間」ではなかった。
 成人男性ほどの背丈は、獣のような固くて厚い黒毛に覆われていた。腕の先には間違いのように鎌爪がついていて、カマキリにも似ている。四足歩行の動物が立ち上がったような猫背の格好は、今にも駆け出しそうな態勢だった。
 頭部には、2つの冷たい光が爛々と輝き、口らしい裂け目からは音にならないうめき声が漏れている。
 誰も見たことがない異形は、人を冒涜するようにそこに立っていた。
 ……だが、恐るべき怪物よりも、キルアが驚愕したのはその周囲だった。
「そんな……!」
 そいつを取り巻く黒いもや。指示されたわけでもない闇の精霊が、誰の目にも見える濃度で滲んでいた。
 少女の目にうっすらと映る彼らは——皆、狂っていた。
 重なりあう幾多の悲鳴。奏でられる不協和音は、聴く者の心をやすりにかけるよう。
 キルアは真っ青な顔で耳を塞いでいた。
(どーなってるの……?? 精霊さんが狂うなんて、聞いたことない!)
 世界の意識ともいえる精霊が――しかも、より中枢にいる二大精霊、その片割れが狂うなんて。
 ——だから、気がつくのが遅れた。
 その背景に、視界の隅に、アカイロが満ちていることを。
「……っ!!!」
 キルアは口を押さえた。

 ——ここは王城前広場。先ほどまで、穏やかな昼下がりの時間があった。
 巨大な刃物が振るわれたように、すべてのものが無惨に壊れていた。街路樹も、大きな噴水も——人々も。
 兵士も貴族も平民も、壊れた玩具のように胴体をふたつに分けられて地に伏していた。
 血の海に立っていたのは、キルア一人だった。
(さっきの攻撃で……みんなっ……?!)
 おびただしい真紅に、視界が明滅する。
 平穏な光景は、一瞬で切り刻まれ失われた。
 恐ろしい。
 悲しい。
 息苦しい。
 ——それでも。

(こんなのは……『幸せ』じゃない!!)
 吐き気を無理やり押さえ込んで、キルアは奥歯を噛み締めた。
 決意して空に舞い上がる鳥族は、この瞬間は神聖なる使いのようだった。
「絶対許さないっ!『光輝よディアスその気高き郷導は、永遠の祝福オウィラ エル サレト グラ ウェテ ベウス皇帝よ、闇を射抜けオーテス ジ ラグナ オーマ』!!」
 指先は円を描く。
 その軌跡から驟雨のように飛び出すのは、無数の光の矢だ。
 人型に殺到した光はやはり、漂う黒いもやに羽虫のように弾かれていくが――その物量は、黒霧をわずかに押しのけたのだ。
 空隙に飛び込み、少女はがら空きの黒い体に拳を突き出す。
(光魔法が効かないなら——!)
「これはどーだ!『怒り狂う雷撃、ヴォルガス』!!」
 準備していた力が解き放たれ、爆ぜる紫雷が少女の拳に収斂する。
 人型の鳩尾を、雷拳が錐揉みのように抉った。
 衝撃が大気を震わせ、精霊たちが水のように波打ち、紫電が舞い散る。
 普通の人間ならば、吹き飛んで昏倒する一撃だ。異様な相手とはいえ、キルアも間違いなく手応えを感じた。
 だが――めり込んだ拳からは、紫雷は霧散していたのだ。
(魔法が……消された!?)
 キルアは見ていた。見ていてもなお、自分の目を疑うしかなかった。
 拳が黒い体に触れる直前、同属性の精霊がぶつかってきて、魔法を対消滅させた。
 今度は、狂っているわけでもない精霊が、当然のように人型の言うことを聞いたのだ。

「――!」
 呆然とする少女に大鎌が振り下ろされる。
 反射的に身を引いたが、切っ先が首筋を浅くなぞった。
 浅い痛みに気を取られた隙に、人型から蹴りが飛び出した。
 小柄な鳥族の体が、何の障害物もない広場を存分に吹っ飛んだ。
「いったぁーー!! でも、セルリアの攻撃よりマシ!」
 己を叱咤しながら、空中でなんとか体勢を立て直す。
 だが、その頃には人型は追撃の態勢に入っていた。
(やっぱり光魔法しかないけど……隙がない!)
 ――相手は、精霊に自在に指示を与えることができる。だが、それは恐らく四大精霊のみだ。
 属性的にも光魔法を軸に戦うしかないが、あの狂霧を突破するには、もっと集中して精霊を集約させる必要がある。
 せめて、誰か時間稼ぎしてくれたら――

 ふと、人型の光る眼が震えた。
 目が横に走り、大鎌が小さなものを叩き落とす。
 その眼光が見据える先を振り向いて、キルアは目を見開いた。
 そこにいたのは、懐かしい相棒の姿だった。

「派手に吹っ飛んでるじゃねーか!やっぱハードな依頼になりそうだな!」

 広場に駆けつけたゼルスは、見慣れない人型に向けて二本目の矢を番えた。


 不明瞭な意識に、一際響く波動。
 己の力と共鳴している。
 それこそ、求めていたもの。
 混濁した視界で、「それ」は、その者をとらえた。


 ゼルスは弓を構えたまま、離れた場所にいるキルアに叫んだ。
「キルア!あいつと戦ってわかったことは!?」
「なんか魔法消される~~!でも強い光魔法でぶん殴ったら行けるかもっ!」
「十分だ。援護してやるから頼んだ!」
「おっけー!」
 手短く言葉を交わし、怪物の注意を引こうとゼルスは手早く矢を放っていく。
 人型は、次々に襲来する矢を叩き落とす。
 だが、ゼルスが矢の雨に隠して放った本命の一撃は、確実に腕や肩に突き立っていく。
 そんな小技を物ともせず、人型は乱暴に矢を突破した。
 速く、荒々しい猛攻。
「ちっ……!」
 迫り来る人型の光る目を射抜く。
 しかし矢が突き立とうとも、そいつの動きは衰えない。
 少年に迫り、鎌のような手を振り上げる。
 ——この至近距離、弓では戦えない。
 ゼルスは舌打ちをした。
「早速こいつの出番かよっ……!」
 弓を腕にかけ、『それ』を抜き放った。

 ——ギィン!!

 衝撃波が伝播した。
 人型の大鎌を受け止めたのは白の輝き。ゼルスの手に握られた、一振りの刀だった。
「俺は弓専門なんだけどなっ!」
 刃が鋭く振り抜かれる。その一閃は、人型を大きく飛びのかせた。
 再び肉薄する人型。振り下ろされる爪をゼルスは避け、突きを繰り出す。
 斬り、弾かれ、かわし、舞のような滑らかな動きで、ゼルスは人型を圧倒していく。
 少年の体にも、人型の体にも、確実に線が増えていく。

 ――相棒と別れたゼルスの「目的」は、師のもとでの接近戦の鍛錬だった。
 ゼルスの速度を活かす、軽くて鋭い刃。あくまで弓がメインで、真正面から斬り合う想定はしていない。
 だが手数を合わせるので手一杯で、まったく距離をとることができない。このまま長引いたら、いずれ押し負けていただろう。
(――けど、時間稼ぎはできる!)
 近接戦は不得手だし、強烈な殺気で精神には負荷がかかっているし、一人だったら突破口が見えなかっただろう。
 今はキルアもいる。自分たちなら勝てるという確信があった。

 不意に、人型の方から退いた。
 やや離れたところに佇んだ人型の光る目と、目が合った——

 ――目の前が真っ暗になった。

(………………)

 光る目が、少年を捉えて離さない。
 暗闇は囁きながら渦を巻き、取り囲んでいく。
 闇が笑う。
 「それ」を解放しろと。

(……俺は……なんで……)

「—————ゼルスッッ!!!」

 聞き慣れた声が、その世界を穿った。
「っ……!」
 呪縛が解け、世界に色が戻る。
 何もわからないまま、反射的に飛びのいた。
 接近していた人型を、省略された火炎魔法が牽制。だがやはり魔法は無効化される。
 後退するゼルスとすれ違うように、キルアが飛び出した。
「コレならどぉだーーーっ!!!」
 重力と勢いがのった、中空からの回転かかと落とし。
 その脚には靴のように白光が凝縮しており、さらに力は踵に収束していく。
 光のハンマーと化したキルアの足が降り落ち――

 光槌は黒いもやを突き抜け、人型の脳天を捉えた。

 地面に叩きつけられた頭が跳ね返る。
 狂った精霊も嘆きの声とともに霧散し、黒霧は大気に溶けて消えていった。
 すたっと傍に着地した鳥族の少女は、ふんっと胸を張った。
「ふふーん効いたね!やっぱ殴るのがいちばん!いえーい、ボクの勝ち~!☆」
 やはり光魔法が相性が良かったと思うし、一人じゃこんな準備はできなかったと思いつつ、キルアは気分良くポーズを取った。

 目から光を失った人型は、突っ伏したまま動かない。
 ひとしきり喜んでから、キルアはくるりとゼルスを振り返った。
「ゼルス、さっき固まってたケド、なんかあった??」
「……ああ……」
 声をかけられて、ゼルスはやっと息を吐き出した。
 寒気のような、落ち着かない気配が、うなじをゆっくりと這い上がる。
 一瞬の逡巡ののち、少女を見て答えた。
「……いや、なんでも」
 ——声を紡ごうとした喉が凍りついた。
 キルアの背後で、消えたはずの黒いもやが収束し、倒れたはずの人型がゆらりと立ち上がっていたのだ。
 人型が、爪を振り上げる。
「おい、キルア……!!」
「ふえ??」
 声を上げるが、伝わり切らない。
 完全に弛緩した体を再び動かすのも、キルアが振り返るのも、間に合わない。
 少女が切り捨てられた光景が、まざまざと目に浮かんだ。

 ——やがて、
   襲来する腕が吹き飛んだ。

 人型の肩から腕を斬り飛ばした銀弧とともに、青衣が翻る。
 黒霧を焼き尽くさんと、まばゆい閃光が彼方の空から降り注ぐ。
 人型の光る目が震えた。
 光の雨をかいくぐり、跳躍。
 街の塀を飛び降りて消えた。

 ——遠ざかっていく殺気。どうやら退いたらしい。
 それを理解した途端、どっと疲れが噴き出た。ゼルスとキルアは、その場に音を立てて座り込んだ。
「ひえ~~ボク死んだと思ったーー!!」
「なんだあれ、反則だろ……なんで生き返ったんだよ……」
「ボクも殺ったと思ったもん!手応えあったのに!」
「軽いノリで言うの怖ぇよ……」
 ゼド、フィン従士らの援護がなければ、狼狽しているうちに、この血の海に死体を並べていただろう。
 肺が空っぽになるほど息を吐いて、隣にいた青年に話を振った。
「あの速度を見切って腕を切り落とすまでやってのけるの、さすが従士様だな……って」
 ゼドを振り向いて、少年は声をなくした。
 遥かに凌駕した力を持つはずの青年従士が、片膝をついていたのだ。
 傷も負っていなければ、一太刀を確実に浴びせただけだというのに、無表情の白貌はいつもより白さを増しているような気がした。
 二人が言葉を失っていると、空から声がした。
≪三人とも、早く移動してください。騒ぎを聞きつけて、大勢の人達がやって来ます≫
「ふぃーちゃん?? ノアみたいに喋れたんだね?」
「……とにかく、疑われる前に逃げるか。ゼドは動けるのか?」
「……問題ない」
 青年は素っ気なく答えると、先に宙へと舞って消えた。
 残された飛族二人は、同時に地を蹴った。
 上空から惨状が一望して、ゼルスは顔をしかめた。広場の入り口では、フィンの言った通り、兵士や人々が続々と集まって来るところだった。
 先頭に見える赤毛の少年は――アスナだろう。
 それに気付いたキルアが、むむっと眉を寄せた。
「ボク、あっちゃんに何か来るって聞いて来たんだよね」
「予見はあったのか……」
 だが、あの厄災は誰にも完封できるようなものじゃなかった。わかっていたのに惨劇を止められなかったと、アスナは気に病んでいるだろう。
「……後で様子見に行くか」
「うん!でもあの真っ黒クン、なんだろ?闇の精霊さん、なんで一緒にいたんだろ?」
「あの黒いもや、闇の精霊か。けどセウルが連れてた時はもっとこう……、あ」
「む〜??」
 ふと、ゼルスが何かを思い出したよう声を上げた。
 キルアが振り向くと、少年は何処かきまりが悪そうに頬を掻いてから。
「……ばたばたして、いつも通りになってるけど……キルア、半年ぶり」
「あっ、そーだね!おっひさぁ〜☆ ボク、ちょっと強くなったんだよ!またバトろーね♪」
「初っ端からそれかよ……まぁ、俺も遊んでたわけじゃねーしな」
 マイペースな二人は、手を打ちあって、従士たちを追った。


 アスナが駆けつけた頃には、王城前はおびただしい真紅とともに沈黙していた。
 騒動を聞き取った者などが城や近辺から集まり、少女を先頭に人垣をつくる。
 人々が囁くのは、不安だ。
「通り魔……?」
「ひどい有様だ……」
「アスナ王女は、予知してくださらなかったのかしら……」
「規模が小さいからだろう……」

(違う……)
 後ろから響くノイズを、とっさに否定した。
(規模が小さかったから、ではない……これは……)

「姿は見ましたか?」
 急に、真横から声をかけられた。
 振り返ると、灰色の髪の青年が、人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。見た目は一般市民と変わらないが、何処か外界と線を引いているような、浮世離れした雰囲気をまとっていた。
 アスナは違和感を呑み下せないまま、呆然と首を振った。
「……ぼくは、何も……」
「それは残念。私はたまたま見たんですが、人型の化け物でしたね。この世のものとは思えない力を振るっていました……」
 青年は広場を見つめ、押し殺した声で呟く。
 未来視の王女は、その横顔に釘付けになっていた。
(この人は……)
 アスナには、相手を見た時、その人と関わる未来、それに伴った本性が視える。
 この青年と直接関わることは、今後一切ないと予見は告げている。ここで別れた後の彼の運命を知るよしはない。
 けれど、何かがあるような――でも、意識に上がる前に消えて、結局何もないような――何とも掴みがたい気配だった。
「ああ、なんて恐ろしい力だ……」
 ただ、広場の惨状を見つめる青年の瞳には、滲み出る熱が浮かんでいた。