棘の章

第1話 デコボコンビ

 この世には、2つの世界がある。

 アスフィロスが創造した表の世界。
 ドゥルーグが創造した裏の世界。

 光あるところに、陰もまたある。
 闇を恐れた人々は、
 天国たる表の世界を創造したアスフィロスを神と呼び、崇め、
 地獄たる裏の世界を創造したドゥルーグを魔王と呼び、忌み嫌った。

 あまりの恐ろしさに人々はドゥルーグを封印しようとした。
 しかしドゥルーグの力は強大で封印することはできなかった。

 そしてドゥルーグは、姿を消した。


 神や魔王は忘れ去られた存在だろう。無神論者が多くなった世の中、神話伝承など見向きもされない。
 そんな無神論者の一人、ゼルス・ウォインドは伝承の本と睨めっこしていた。
(……神……ねぇ)
 手のひらサイズの書物を見下ろす胡散臭そうな青い瞳には信仰心のカケラもない。そもそも、最近依頼人からいらないからと押し付けられた本だし。
 本から視線をずらすと、足元には草一本生える隙間もない円状の白い石畳が広がっていた。
 頬を撫でる風は暖かい。燦々と降り注ぐ春の日差しはこの広場をまんべんなく照らしている。この場が石なんて固いものじゃなければ、寝転がって昼寝でもしたい気分だ。
 こんな天気の下、何が楽しくて突っ立っていなきゃならんのか。
 本から顔を上げると、大剣を背に担いだ自分より遥かに大柄な男の背中が目の前にあった。
 その男の前には受付のようなカウンターがあり、その向こう側には30代くらいの男性が座ってタバコを片手にその男と笑い合っていた。
 順番待ちは嫌いじゃない。待っている間、読書だののんびり過ごせるし。……だがそれは自分が列の真ん中とかにいる時の話だ。
(こっちもこっちで忘れられてるし……)
 次で自分の番なのに。ゼルスは肩で溜息を吐いて本を閉じた。この状態がすでに数十分は続いている。さすがに苛立ってきて彼は頭を掻いた。

 この小春日和には浮いて見える黒いコートを着た少年だった。ふんわりとした優しい茶色の髪が春風にさわさわと揺れる。理知的な青の瞳は大人っぽく、14歳だが実年齢より年上に見られることが多い。青年に移り変わる過渡期の顔立ちは整っている方だろうに、今は眉間に寄る深い皺のせいでひどい顔をしていた。
「……長ぇなー……」
「だよなぁ」
 誰にともなく思わず呟くと、背後から返答があった。
 肩越しに後ろを見上げると細身だが鍛えられた体の知らない男がいた。その後ろには、この大きな広場を半分割するように長い列を成す人々が見える。
 男は振り返ったゼルスを指差して、何処となく期待した瞳で言った。
 ――正確には、ゼルスの背中に生える緑色の竜の双翼を指差して。
「よ!竜族ってことはお前さん、ゼルス・ウォインドだろ?まさかこんな子供とは思ってなかったが」
 余計な一言が多いのも相まって、ゼルスは目元が冷えるのを感じた。
「……だから何」
「えーと……」
「今、機嫌悪ぃんだよ。話しかけてくんな」
 全身から発される拒絶の気配。ありとあらゆる非友好的な感情を込め、ゼルスは言い捨てると再び前を向いた。後ろで「こんな奴だなんて……」とショック気味の男の声がする。
 ――男が幻滅するのも無理はない。少年の名はこのリクエセシス=アンダーティア、通称R.A.T
ラット
内で聖者のような響きで知れ渡っているのだから。そんな聖なる名の持ち主がまさかこんな少年だとは誰もが思っていない。
(いい加減、こういう面も知れ渡れよ……)
 もともと自分はあまり愛想が良くないから確かにいい印象ではないと思うが、どうして幻滅されるんだろうか。言わずもがな種族のイメージだろうが。
 と思ったら背後の男が諦めずに声をかけてくる。
「なぁ、竜族って実際どうなんだ?滅んだのか?」
「………………」
「あ、だったらお前さんがここにいるわけないよな。やっぱ強いんだよな。ちょっと戦ってみたいんだが」
「………………」
「あ、あ、やっぱダメか。飛族は誇りがあって無駄な戦いはしないっていうか」
「……違ぇよ。逆だ。戦闘種族だからこそ戦ってナンボの誇りだよ」
 無視を決め込もうとしたが最後の最後でつい反応してしまった。興味本位で聞かれるのも嫌いだが、勘違いされるのはもっと嫌いだ。

(にしても……)
 それはとにかく……いつになったら、この巨漢と受付のオヤジは世間話をやめるんだか。
 ゼルスが腰についているポーチに本を突っ込んだ時、ようやく目の前の巨漢が横にどいた。
 大柄の男を横目で睨みながらカウンターの前に立ち第一声。
「おいオヤジ、遅ぇよ」
「ん、何だゼルスか。悪ぃ悪ぃ、つい話が盛り上がってな」
 少年竜族の厳しい一言にも動じず、ダークグリーンの頭にほんの少し白いものが見える受付の男は歯を見せて笑った。
 皆にオヤジと呼ばれるこの中年男性は、他の人間と違いゼルスに自然体で接してくれる心地よい存在だった。
「で、何かやりたいこととか希望は?」
「んー……今回は特に。何でもいーや」
「お、言ったな。後悔すんなよ?また在庫処分に付き合ってもらうぜ?」
「うわ、マジかよ……仕方ねーな」
 オヤジの意地悪そうな顔を見てゼルスは早速やや後悔した。売れ残りは大概変な依頼人やとんでもない内容で、いい思い出がない。
 オヤジは背後の棚にびっしり詰まっているファイルの中から1冊を取り、1枚の紙をゼルスに向けて差し出した。

依頼主
ウェイム・ランセラー
職業
貴族(町)
内容
ワシを暗殺しようとしているという情報を受け取った。どうか助けてほしい。

「貴族様の依頼ね……で、なんでこれが売れ残り?いつもなら真っ先にはける案件だろ?」
 慎重に内容を読んだゼルスは拍子抜けした様子で聞いた。
 ここ西の都市フェリアス周辺は国内で2番目に町が多いということもあり、町を運営する小貴族の依頼は頻繁にある。大貴族なら確かな筋で独自に雇用するものだが、小貴族くらいだとR.A.T――傭兵、要はならず者で済ませる場合が多い。貴族嫌いは引き受けないが報酬は他の依頼に比べると桁が違うので、かなりおいしい仕事なのだが……
 オヤジは、うんうんと満足げに頷いた。
「決まりだな。お前なら言ってくれると思ったぜ」
「おい待て、まだやるなんて言ってねーぞ」
「依頼主を見てピンと来てないだけで十分だ。やっと仲介料とれるぜ」
「って勝手に名前書くなよ!あー、まぁいーか……」
 オヤジは勝手に依頼書にゼルスの氏名を書きはじめた。黒のインクで綴られていく名前を諦めた顔で眺めるゼルスに、オヤジが今更補足した。
「依頼主は問題ないから安心しろよ。ただ気味悪がられてる貴族だからな、地元民は受けないんだよ」
「気味悪いって幽霊かなんか……って!?」
 オヤジがペン先を離した瞬間に、ゼルスはその手から紙を奪い取った。
 見間違えであってほしいと思いながら依頼内容を再確認した。

追記
これは、必ず二人の依頼人を要求する。

「……オヤジ、俺降りるわ」
「諦めろ、もう名前書いちまったぜ」
「え、こーゆーのって変更不可能?一発?」
「そうそう。だってペンだしな?そこに名前を書かれた奴は、責任持って最後まで遂行だ」
「はぁ!? それ初耳だぞオヤジ!」
「聞かれなかったからな〜」
 ペンを手元でくるくる回しながらオヤジはしてやったりというふうに答える。ゼルスは悪あがきで何度も確認したが、悲しいことに依頼書の「依頼請負人」の記名のところに自分の名はしっかり書かれていた。
 ゼルスはこの「二人以上依頼」が大嫌いだった。一人で動くのが好きだし、それから経験上こういうのは戦闘初心者がやりたがる。彼らは戦闘に慣れてからとか思っているのだろうが、そのお相手になった連れはたまったもんじゃない。

「……んで?二人目って見つかったのか?」
 溜息混じりに紙を返却し、ゼルスは苦々しく現実を呑み込んだ。オヤジは逆に驚いた顔をして呆れた顔をした。
「お前の名前の下に書いてただろ?」
「……黒でバッチリ書かれた自分の名前が恨めしくて……」
 まったく見えていなかったゼルスは悲しくなった。
「もう一人はこの辺じゃ見ない女の子でな、確かお前と同じ14歳って言ってたな?はは、多分いいコンビになるぞ、お前ら。十分強かったぜ」
「見慣れない顔なんだろ?何で強いなんてわかるんだよ?」
「俺様はこの受付やり始めてもう20年だからなぁ、立ち振る舞いでなんとなくわかるんだよ」
「うわ嘘くさ……ってオヤジ何歳だよ!?」
「ふっふっふ……フェリアスも初めてで街に行って来るって言ってたから、そっちにいるかもな?目立つからすぐ見つかるだろうさ。見つかったら依頼書を取りにまた来いよ」
 年の話題はスルーされたと思いながら、ゼルスはカウンターの前から退いた。足を止めてもう一度大きな溜息を吐いて、ぶらぶらとその辺りを歩き出す。
(目立つねぇ……)
 今回の依頼の相方は14歳の少女らしい。
 この長蛇の列の中には自分と同い年くらいで剣や槍を携えた少女、もちろん成人女性も並んでいる。彼女達は皆、男顔負けの鋭利な雰囲気をまとっていてその場に溶け込んでいる。
 それはオヤジもわかっているはずで、その上で「目立つ」と言うのだ。あまり想像がつかない。そもそも同い年くらいの女の子と知り合う機会がなく、脳内イメージでのバリエーションが乏しい。
 なかなか像を結ばないイメージを頭の中でこねくり回しながら、円状の広場の真ん中にある噴水の横を通る。
 広場の脇には円に沿って花壇が並んでいて、黒いシックなアーチが『空』をくりぬいていた。それもそのはず、この広場は中心街より高い場所にある。国内では「空中広場」として名高い。
 この場所からはフェリアスの街並みが一望できる。眼下に広がる景色は空を飛べない人間には目新しいものだろう。
 それをぼんやり眺めながら、ゼルスは出口のアーチから続く階段を下りようとした。
 さて、このフェリアスは首都ほど大きくはないが人一人を探すには大きすぎる。どう探そうか――

 ピリっと鋭い殺気が肌を這った。
「でぇええりゃあーーー!!!!」
(上!?)
 有り得ない方向からの殺気。しかも背後から!
 猛然と振り返って、視界に見えたのは茶色い靴底だった。
 とっさに防御に差し出した交差した両腕にみしっと両足蹴りが降って来る。
 重圧はすぐに飛びのき、宙返りして少し離れたところに着地した。
 反射的に臨戦態勢に入ったゼルスの目の前で、それは両手をぱんっと打ってキランっ☆と黒瞳が輝かせた。
「さっすが竜族!ボクびっくりー☆」
 殺気を霧散させ、まったく悪気なさそうに甲高い声で騒ぐ奇襲者は小柄な少年だった。
 ふわふわとした黒髪のショートカットはひよこの羽毛を彷彿とさせる。くりくりとした黒瞳ははち切れんばかりの好奇心で輝いていた。雰囲気のせいでやや幼く見えたが、よく見ると同い年くらいだ。眩しいばかりの純粋さといい、ショートパンツと明るい色彩でまとめられた服装といい、春がよく似合う少年だ。
 頭の両側にある『長い耳』と背中から生える『白い鳥の羽』さえなければ、普通の少年だっただろう。
 騒がしさもさることながら、その稀有ななりで彼は一身に広場の視線を集めていた。

 ――飛族には2種類ある。
 片方は、竜族。
 もう片方は、鳥族だ。

「ボク、結構本気だったのにー!そんな簡単に防がれちゃうなんてびっくりだよぉー!」
 もう仕掛けてくるつもりはないらしい。しかしゼルスは身構えたまま、目の前の少年を注意深く見据えた。
(……コイツ……)
 今の攻防。さすが鳥族と言うべきか、この少年……できる。実は。
 いや、それよりも。
(注目浴びてるって気付いてねぇ……)
 四方八方から突き刺さる視線の数々に、ゼルスは居心地悪そうに顔を呆れさせた。
 それも仕方のないことだろう。人里に現れない少数種族がここに両者とも揃っているのだから。
「ってゆーか〜、ねー聞いてる〜〜っ??」
「あ?あぁ……何だって?」
「えええーっ!? ボク、いろいろ話したのに〜!また最初っからー!? えっと……『さっすが竜族!ボクびっくりー☆ ボク、結構……』」
「ってマジで最初からかよ!!」
 思わず大声で反論して内心で頭を抱えた。自分まで注目を集めることに一役買ってしまった。
「……で、何の用だよ?」
 ともかく、ただでさえ自分は注目されるのだ。さっさと用を済ませてもらおうと思って先を促したら、黒髪の少年はぱちくり瞬きをした。
「用?んと、竜族見かけたからケンカ売ってみただけ☆」
「少年、バトルの続きと行こーか」
 売られた喧嘩は買うしかない。特に同じ飛族には。
 天真爛漫な笑顔で言われてついゼルスが低い声で返したら、今まで笑顔だった少年の表情がカチンッと凍りついた。
(ん……?)
 彼のまとう雰囲気が一変した。
 少年の蒼白な顔に下からだんだんと赤みが走っていき。大きく息を吸い込んで。


「ボクはショーネンじゃなぁぁぁああああーーーーーいぃッッッッ!!!!!」

「うわっ!!?」
 その口腔から殺人的なそのボリュームで声が放たれた。
 ゼルスは亀のように首を引っ込めながらとっさに耳を塞いだが、塞ぐタイミングが合わなかった。まるで焼けただれたようにじんじん耳の奥が痺れた。
 何やら背後で音がしたので振り返ると、広場にいた者達も揃ってひっくり返っていた。もしかしたら街の方でも誰か犠牲者が出たかもしれない。
 耳を塞いでいても筒抜けな音量で、ぷんすか怒る少年――否、少女(らしい)はゼルスにまくし立てる。
「ボク、間違えられたコトないよーー!!? そんなの初めて言われたよ!!」
「……わ、悪かったから……」
「ボクは女のコだもーーーん!!!」
「わかったわかった!わかったから!!」
 これなら殴りかかられる方がずっとマシだ。R.A.Tで屈指の実力者でもあるゼルスは、目の前の少女の声量に殺されかかっていた。
 少しして少女は静まった。ゼルスはじんじんする耳から手を離し、やっと息を吐いた。
「……んじゃ、もう用はねーのな。俺は依頼のペア探しに行くから」
 うるさいのと馬鹿は嫌いだ。もう関わりたくない。
 冷や汗を拭ってさっと街の方へ足を向けたら、少女がきょとんと目を丸くした。
「依頼のペアー?もしかして『れいむ・らんしぇら』とかいう、おじちゃん?おばちゃんかな?」
「……………………………………」
 ――嫌な予感がまとわりついて離れないので、そこから動けなかった。
 ぎこちなく少女を振り返る。目元がげっそりしているゼルスに、彼女はにぱっと笑って告げた。
「なんかー殺されそうだから助けてー!って言うヤツ!」
 白い羽を持った天使のような少女が、この上ない悪魔に見えた。


 数十年前、ここ商業国家ルプエナで発足し、今では世界的に有名な民間ギルド組織――リクエセシス=アンダーティア、通称R.A.T。
 依頼者は人やペットの捜索、食材の調達など誰でもできるものから、身辺の護衛や猛獣の討伐など腕に覚えがある者が望ましいものなど、委託金を支払えばなんでも依頼として出すことができる。
 その依頼を集めて仲介するのがオヤジのような従業員。
 そして、実際に依頼を受注してこなし、委託金から仲介料を引かれた報酬金を得るのがゼルスのような所属者たちだ。
 依頼者も所属者も従業員も、身分や素性を問わないのが鉄則。そのため、まっとうな身分の者もいれば身寄りがない者や訳ありの者など、R.A.Tに多種多様な人々が集まる。
 ……ちなみに、オヤジが運営しているあの屋台のようなカウンターはR.A.T本部で、そこの従業員はオヤジだけという不可解な謎があるがそれはさておき。

(鳥族……本当に鳥の羽なんだな……)
 ピッカピカに磨かれた黒塗りの書斎机。氷の表面のようにつるつるで、しかも書斎机のくせに何人も座れそうなほど馬鹿でかい。
 シャンデリアの下、靴を履いたままその上をついーっと片足で滑る少女を見つめて、ゼルスは他人事のように思った。
 ――竜族と鳥族の種族間にある溝は深い。……らしい。
 ゼルスは鳥族に会ったことがなかった。だから物珍しいという気持ちの方が強い。出会い頭に喧嘩を売ってきた、あちらはどうだかわからないが。
 でも馬鹿は嫌いだし、うるさいのも嫌いだ。それらの要素をガッチリ持っている、自分と正反対のまさに嫌いなタイプ。この先どうなるんだろうかと暗澹たる気持ちになる。
「鳥族、そんなに珍しいー?」
 そう言う少女の口からは棒付きアメの白い棒がはみ出ており、手にはパンパンの紙袋を抱いている。まるでピクニックに来たような様子でゼルスは額を押さえたくなった。
「……鳥族、見たことなかったからな」
「そなの?ボクは竜族に会ったことあるよー?強かったな〜♪」
 キルアと名乗った少女はにっこり笑って言う。いやによく笑う少女だ。
 ――人は見かけによらない。表面的に嘘は吐けるものだ。
 だから無害そうに笑みを振りまいている奴ほど怖いものはない。性分で、ほいほいと人を信用することはない。
 だがしかし……、

 昼の光を反射してきらびやかな光を撒き散らすシャンデリアの真下で、キルアはしばし書斎机の上を機嫌よさそうに滑っていたが、机の端に到達してバランスを崩した。
「わわぁッ!!?」
 どでんっと大の字に倒れて顔面から落ちた。お菓子の紙袋だけは床につかないように腕を上げていて、相当な執念を感じた。
 しばらくその格好のまま唸っていたが、がばっと顔を上げて、今度は背後の机の端にゴチンッ!!と後頭部が当たった。響き渡る生々しい音にゼルスは思わず顔をしかめる。
 一瞬の空白の後、くわえていたキャンディをいつの間にか噛み砕いたキルアは……棒を口から引き抜いて首を傾げた。
「はれれ?なんか凄い音したねー?何の音?」
「は!?」
 全然痛がる素振りもないので驚いて、よく見てみたら机の方にほんの少しヒビが入っていて。
「どんな石頭だよ!!」
 机との衝突は無傷のようだが、倒れた時の顔面強打は痛かったらしく、キルアは頬を摩っていた。
 ……笑みを振りまいている奴は怪しいが、ここまで馬鹿行動すると何処まで本気なのかはかりかねる。
 とはいえ、それで信用に足るわけじゃないのでゼルスはとりあえず話を進めようと思った。

 突如、ゼルスの瞳が蒼氷のごとく冷え込んだ。吹雪を吐き出すかのような冷たい声で彼は言う。
「……で。そんじゃ依頼は解消っつーことでいーな?」
「ひぃ……いや、ちょ、ちょっと待て」
 ゼルスの視線の先は机の向こう、窓の下で頭を抱えてしゃがみこんでいる丸くて黒い図体に向けられていた。
 少し乱れた黒髪のオールバックの男は青白い顔で、凍土を吹き抜けてきた寒風の如き怒気を宿すゼルスを見てガタガタ震えている。この男こそ、依頼主のウェイム・ランセラーだ。
 ゼルスは、キルアとペアという現実を直視できないまま、このランセラー邸にやって来た。しかしランセラーは自室に通されてきた二人を見た途端、目を見開いて口走った。

  『子供ではないか!飛族とはいえ……こ、こんな奴らに命を任せられるものか!!』

 ゼルスの耳の裏で何かが切れる音がした直後、空気を読まずにキルアが「この机キラッキラ☆だ~!」とか言って書斎机の上をスケートし出して今に至る。
 14歳の子供に気圧されているランセラーにゼルスは続ける。
「子供はお呼びじゃねーらしいからな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!! す、すまん非礼は詫びる。倍額出す。だから頼めないか!?」
 土下座せん勢いで駆け寄ってきたランセラーをゼルスがかわすと、丸い体はバランスを崩してゼルスの横で転がり壁にぶつかった。
 基本的にR.A.Tに委託できる依頼は一度きりで、同じ内容の依頼を出すことはできない。この場で依頼キャンセルになったら、命を狙われているらしいランセラーにはもう救いの余地がないのだ。
 契約を解消したならランセラーは危険に晒され、報酬はもちろん出ず、これはただ無駄足になっただけになる。





(そんな無駄な時間なんか作りたくねぇ……)
 という一心で、ゼルスは深夜のランセラー邸にいた。
 寝室の重厚感あふれるクローゼット。その陰から、柔らかそうなキングベッドでぐっすり眠りこけているランセラーを恨めしげに睨みつける。
 軽んじられたのも非常に癪だが、ここまで来たのが無駄になって、しかも金が出ないとか馬鹿げてる。やるっきゃない。
 結局、ランセラーの思うように事が進んでいるのがまた腹立たしい。とりあえず依頼が終わったら、アイツの顔を足蹴にしないと気が済まない。
 目を擦り、視線をランセラーから下に向けると、キルアがベッドの下に伸びていた。よだれを垂らして幸せそうに夢の中にいる。
 しかしゼルスも草木も眠る時間まではそうそう起きていない。あくびを噛み殺してもう何回か。
 そんな二人だが、その気配は夜のたおやかな空気に溶け込んでいる。ほどほどの熟練者なら普段から気配は消すものだ。

 真夜中のしっとりとした静けさはとても心地良い。ぼーっとしていると夢の世界に旅立ってしまいそうだ。
 ランセラーの寝室は書斎のようだった。壁を覆いつくす本棚にはびっしりと本が詰め込まれているし、ほどほどに教養のある人間なのだとわかる。やはり人は見かけに寄らない。
 昼間、ランセラーは言い訳がましく非礼を謝った。

  『ワシは魔法学の書物を持っているからと、嫌われておるのだ』

 本人曰く、ランセラー家は魔術師の血を引く家系らしい。それで、すでに廃れて一般には出回っていない魔法学の書物が屋敷にあるそうだ。昔はもっと数があったらしいが、今はたった2冊だとも。
 しかしそのせいで、貴族間や民の間でも妖しい術を使う一族だと噂され煙たがられているそうだ。本人はまったく魔法は使えず、否定しているのだが効果はない。そのくせ、魔導書はかなりの高値で売れるのでよく狙われるとも。

  『ワシはただ、過去の遺産をなくさぬように持っているだけなのに』

 ゼルスは魔法学なんてちっとも知らないので、その価値はいまいちわからない。
 失われ行く遺産を守る。恐らく彼は、リギスト王国でアノーセル湖を保護する民間団体や、近年、機械化が目覚ましいカルファード帝国で緑を守ろうとする集団と変わりないのだろう。
 しかしその対象が、「魔法」という妖しげな未知なるものだというだけで嫌われる世界。
(……苦労する話だよな)
 自分だって、竜族だというだけで珍妙な目を向けられる。昼間、声をかけてきた男のような反応はまだ良い方で、中には嫉妬なのか心底嫌ってくる者もいた。なんならキルアも飛び蹴りしてきたし。それらの反応に対し、ゼルスは見世物じゃないと反発してきた。
 きっと理解してしまえば、そんな衝突は起きないのに。
(……どうでもいいけど)
 やりきれない思いを持て余し、ゼルスは少しクローゼットに身を委ねた。睡魔に誘われるまま、少しだけ目を閉ざし――ふと、目を開いた。
 かすかな空気の揺れ。扉が軋む音。無に等しい足音が、ひたひたと複数。
(……暗殺って基本一人だろ?これじゃ嫌がらせじゃねぇか……いや、だからか)
 少なくとも五人はいる。となると、暗殺だけが目的ではないようだ。
 うち三人は、すぐさま本棚に近付いて何かを探しているし。聞かずとも探しているのは魔導書だろう。
 それに先程と違って、かすかだが油の匂いが空気に混じり始めた。
(ランセラーを殺し、魔導書を回収した後、屋敷に火を放って火事に仕立て上げるってところか……)
 随分と計画的な犯人だ。ゼルスは興味がないが、ランセラー曰く、敵は隣の町貴族らしい。
 町貴族が不祥事を起こした場合、領主の貴族が更迭するが、今回の暗殺は噂でしかなかったため証拠がなく、領主に取り合うことができなかったそうだ。
 だからランセラーは証拠として、実行犯たちをすべて捕らえてほしいと言う。
(まぁ、これくらいなら行けるか……)
 忍び寄ってきた黒ずくめの一人がランセラーの枕元にやって来る。手に持ったナイフが月光を弾いて光り輝く。
 自分達に気付かず、護衛がいないと思い込んで拍子抜けしている彼らに、ゼルスは手に持っていた弓に矢を番えて静かに引き伸ばす。

 瞬間、夜を閃光が引き裂いた。

 弾ける色は白。
 だが、うねり舞うのは紫。
 不自然に虚空に現れた紫色の雷撃が、ナイフを掲げた男を襲った。
 その悲鳴と破裂音を聞いてランセラーが飛び起きた。
 ゼルスも含め、その場の全員が目を白黒させていた。……ただ一人を除いて。
 ベッドの下からゴロゴロっと転がって出てきて、しゅたっ!と立ち上がり、びしっ!と黒ずくめを指差す鳥族少女。
「出たなぁ〜!! 悪いオトナたいさーんッ!!」
 キルアの人差し指がすっと動かされる。
 その軌跡に、空気中から現れた虹色に変化する光の粒子達が集まり、宙に何かが刻まれていく。書かれているのは――文字のようだ。現代語ではないようで、少なくともゼルスには読めない。
 状況に置いていかれている黒ずくめ達に、書き終わったその文字列にキルアは手をかざして叫んだ。
「『怒り狂う雷撃、ヴォルガス』!!」
 虹色に変化していた文字が紫色に光り輝いた。かざしたキルアの拳に紫の雷撃がまとわりつく。
 明らかに危険な拳を握り締め、キルアはそれを振りかぶる!
「そりゃーッ!!」
 気の萎える掛け声とともに、呆然としていて逃げ遅れた黒ずくめの腹に雷パンチが打ち込まれた。
 黒ずくめを雷が這い、近くにいた黒ずくめも巻き込んで倒れ伏す。

 ――ゼルスは知る由もなかったが、魔法が栄えていた昔から、魔導書の1ページ目には必ずこうあった。
 ここに記すのは魔法の構成理論のみ。魔法に必要となる筆記と名唱は、口伝で教わるものとすると。
(魔法……だてに鳥族じゃない、ってことか)
 失われたはずの妖しい術が、ここにあると主張するように真夜中の闇を切り払い、常識を蹂躙している。

「ま、魔法……なのか!?」
「そんな馬鹿な!すでに失われた術だろう!?」
「魔法じゃないならあれは何なんだ?!」
 ざわつく暗殺者たち。ゼルスが物陰から立ち上がると、新手に黒ずくめ達がハッとした。
「お前、センス悪くねぇ?水流魔法とかもっとデカイ術で一掃しろよ」
「へ?? ゼルス、魔法知ってるの?! なーんだつまんなーい、ビックリさせよーと思って雷撃魔法にしたのに〜〜」
「見たことあんだよ」
 む〜っと頬を膨らませるキルアをあしらい、ゼルスは弓を構えた。
「魔法だろうがガキには違いない。やれ!」
「舐められたもんだな……!」
 常識がひっくり返るほどの事象に遭遇したのに、無理やり呑み込んで動く様子はプロか。
 ナイフで切りかかる男の攻撃をかわし、ゼルスは大窓を突き破って外へ飛び出した。
「あああぁーーーッ!!! カルファードで著名な職人に発注した一品物のガラスがぁーーッ!!!」
 窓からランセラーの悲鳴が聞こえた。……そういえば無駄に細かな装飾が施された高そうなガラスだった気はする。
「そりゃもっと部屋を大きくしとくんだったな!」
 黒ずくめ五人とゼルスとキルア、ランセラーだとか大所帯がいる部屋で暴れ回るには狭すぎだ。
 それに、
「飛んで戦うのが性分に合ってるしな!」
 弓を引きしぼり、窓際まで迫ってきた男の太ももを撃った。
 男がバランスを崩しながら、苦し紛れにナイフを投擲してくる。
 ゼルスは回避して、お返しに腕も射抜いておいた。
 後はさくっと片付きそうだと思ったゼルスの目に、部屋の中で指揮者のように指を滑らせていくキルアが映った。
「じゃあじゃあ、リクエストにお答えしましょーっ♪ 『溢るる大河、サイル』!!」
 並んだ虹光の文字は、今度は青い光となる。
 空隙から激しい水流が噴出した。
「って、おいおい!?」
 それは窓の方を向いて放たれていた。つまりゼルスも範囲内だ。
 慌てて窓の前から離脱した直後。窓枠ぴったりの面積で、とんでもない勢いの水流が窓から吐き出された。
 三階の高さから飛び出した大滝は、あっという間に庭園を踏み倒していく。
 パチンとフィンガースナップ。すべての水は幻のように消え、二人の黒ずくめが庭園に伸びているのが見えた。
「ふふーん、どぉーだ!☆」
 キルアが胸を張って得意げに言う。その後ろでは、縮こまったランセラーが腰を抜かしていた。
「あいつ、俺のこと忘れてやがったな……」
 ゼルスは苦々しく呟き――ふと、彼女の後ろの方でゆらりと立ち上がる影に気が付いた。
 気配を察知したキルアも振り返り、ランセラーが慌てて部屋の隅に避難する。
「小賢しいガキどもが……!!」
 初撃、キルアの電気マッサージの巻き添えを食った男のようだ。直撃ではなかったせいで、気絶まで至らなかったのか。
「調子に乗るな!!」
 闇に煌く短刀を構えると、黒ずくめはキルアに肉薄した。
 ――速い。
 余裕の態度でいたキルアは、目の前に来るまで反応できなかった。
「くっ!」
 振り下ろされる一撃、二撃。
 キルアは刃が触れるか否かの寸前でかわす。
 2本の短刀が何度も空を切り、鳥族の少女はじりじりと後ずさる。

 その戦闘の向こう側、廊下に、また二人の黒ずくめが現れたのをゼルスは見た。
 そいつらの片方は、手には赤ん坊を抱くように大きな樽を抱えていた。その樽の口からは何かの液体がこぼれている。
「油を撒いてた方かっ……!」
 キルアが大暴れしたせいで別働隊にも異変が知れ渡ったのだろう。加勢しようと踏み出しかける二人を、ゼルスは矢で牽制した。
 矢が弓を離れた瞬間。
 矢の延長線上に、敵の攻撃をかわしたキルアが飛び出した。
「「!?」」
 ゼルスとキルアの驚いた瞳が重なった。

 キルアは反射的に上体を逸らす。身体すれすれを矢が突っ切っていった。
 矢は最初の狙い通り、廊下の男の肩に突き立った。
 ――だが。
 キルアの動きに粗が出た刹那を短刀が切り抜けていった。

「うあっ!?」
 右の脇腹に熱が弾けた。
 慌てて離脱しようとして、盛大に尻もちをついた。真後ろに倒れていた男につまづいたのだ。
 はっと見上げると、白刃が暗闇を裂いて迫ってくる。
「くっ……!」
 キルアはとっさに刃を蹴り上げた。
 男の手から短刀が吹っ飛ぶが、続けざま、もう一本の刃が振られる。
 今度は、金属の貼られた靴底でしっかり受け止めた。
‪ 刃と足が拮抗する。
(やばいやばいやばい〜〜……!!!)
 キルアは空いていた手で、手早く床に筆記した。
「し、『深紅の火炎、アスリア』!!」
 床の文字が赤い光に切り替わると、黒ずくめの手が突然炎に包まれた。
 黒ずくめは悲鳴を噛み殺したが、そこに確かに隙が生まれた。
「お返しだよっ!!」
「ぐほっ!?」
 少女の拳が黒ずくめの頬にめり込んだ。
 男は炎とともに吹っ飛び、間口に立っていた男達も巻き込んで、廊下の壁に叩きつけられる。

 始終を見ていたゼルスの顔から血の気が引いていった。
「お、おいおい……それはやばいんじゃ……」
 油を撒き散らして床に転がる樽。
 その端っこを炎が舐めてからは一瞬だった。
 油まみれの樽は灼熱の火の玉と化し、火炎はここまで撒かれた油を辿り、あっという間に屋敷を熱世界へと変貌させた。
「か、火事になっちゃったっ!?」
「な、なんてことをしてくれたんだっ!! 隣の部屋には、これから流通に出す予定だったカルファードの銃火器が大量にあるんだぞ!!?」
「ええぇ!!?」
「何でンなもん寝室の隣に置くんだよ?! あああぁ何でこうなるんだ!?」
 いつの間にか魔導書らしき2冊の本を抱え込んでいるランセラーの怒号を聞いて、二人は慌てて脱出に動き出した。
 キルアは脇を押さえながらゼルスと入れ違うように大窓へ向かい、ゼルスは部屋に戻ってランセラーの首根っこを掴んで、再び窓へ駆け出した。
 飛族の二人と引っ張られる形のランセラーが、深夜の透明な空に飛び込んだ。
 浮遊感と静寂が三人を優しく包み込む。
 見上げた星空に、炎が美しく映えていた。

 それも刹那。
 巨大な大砲でも撃ち込まれたような轟音を立て、屋敷が爆発した。
「ひゃあぁあーーー!!?」
「うわぁああーー!!」
「わ、ワシの屋敷がぁぁああーーーー!!!!!」
 空中に浮かんでいた三人は肌を焼く爆風をもろに受け、悲鳴とともに吹き飛んでいった。


 その夜のうちに、フェリアス郊外のランセラー邸は全焼した。


 オヤジの脳天から火が噴き出した。

「ふざけてんのかお前!!!」

 カウンター越しにゼルスの胸倉を荒々しく掴み上げ、唾が飛ぶ勢いで叫んだ。
 その怒号は広場に響き渡り、人々が何事かと自然と口を閉ざしていく。
「おっ、オジサン落ち着いてよ〜!ゼルスは悪くないよ〜っ」
 横からキルアが宥めるが、オヤジにはまったく聞こえていない。周囲の人々もはらはらとした視線を送ってきている。
 皆がよく知るフェリアスのオヤジがここまで怒るのは、よっぽどのことなのだ。

 翌日、二人は報告のためにカウンターに戻ってきた。報酬金はR.A.Tが管理しているため、報告の際に受け取ることになる。
 昨夜のランセラー邸の大火事は、早朝のうちに街中に広まったらしい。屋敷を失ったランセラーは憤慨し、こんな結果では依頼完了とは言えない、報酬金を返してくれとカウンターまで来てオヤジに直訴した。
 R.A.Tは受注者自身の責任は持たないため、被害の証拠があれば依頼主に返金できる。今回の場合は結果が目にも明らかで、オヤジが飛族の二人に念のため確認をとっても、キルアは謝ってゼルスは事故だと言うので、ランセラーの訴え通り返金した。
 ランセラーが去った後、キルアの動きがやや鈍っていることを見抜いていたオヤジが問い詰めてきた。逃がしてくれなさそうな様子だったので、ゼルスの矢を避けた隙を突かれたことをキルアが明かした。
 すると、今回の大失態ですら怒らなかったオヤジが突然ゼルスに激怒し、現在に至る。
「ゼルス、お前ならキルアに当たる可能性も考えて別の場所を狙うこともできたはずだ!なんだその初心者みたいなザマは!」
 オヤジは仲間や人間関係を大事にしている。それがすべての基本だからで、そのためには「協力」が絶対必要とも。
 一方、オヤジの激昂を一身に受けているゼルスは無表情だった。オヤジの言葉が切れたところで、ゼルスは静かに口を開いた。
「……あの時は混戦状態だったし、俺は個人戦闘しか心得てねぇ。そこまで考えられねぇよ」
「だから俺は『協力しろ』っつったんだ。どんなに腕が立つ者同士でも、初めてのタッグで考えのすれ違いがあるのは当然、だからお互い気をつけろってことだ!そんなの理由になるか!!」
 間近でオヤジに叫ばれても、ゼルスは顔色ひとつ変えなかった。キルアの方が怖がって真っ青になっている。
 しばしの間を置いて、オヤジは呼吸を肩で整えてから舌打ちした。
 突き飛ばすようにゼルスから手を離すと、イスに座り頭を腹立たしげにガリガリ掻く。
「俺の見込み違いだったってわけか……」
 いつもは談笑で穏やかな広場は、この時ばかりは一触即発の静寂に満ちていた。
 広場の注目の的になっているゼルスの耳に、声を抑えているつもりらしい声がひそひそと聴こえる。

「何かやったみたいね……」
「仲間を援護するどころか邪魔したらしいぜ」
「ああ、アイツはそういうの慣れてなさそうだもんな……」
「いつも一人だからな」
「飛族ペアでも無理だったら誰もできないんじゃないか?」

 ささやき声。視線。渦巻く不信感。
 心臓を圧迫するような嘔吐感を覚え、思わず胸を押さえた。
 少年は逃げるようにカウンターの前から飛び立った。




「ねーってば!ゼルスっ!!」

 フェリアス街中の上空に差し掛かった頃。ゼルスはやっと、後ろからずっとかけられていた声に気が付いた。
 全然周りが見えていなかった自分に驚いて静止すると、声の主はゼルスの前に踊り出た。
 ――彼女を見た途端、耳の奥で鼓動が一際大きく響いた。
 どうしてかと悲しむか、お前は最低だと怒るか、どちらかだと思っていたのに。
 脇腹に包帯を巻いている鳥族の少女は笑っていた。
「あのね!ボクも、一人でしか戦ったコトないんだ。だから、ゼルスを巻き込むように水流魔法そのまま使っちゃったし~、まぁいっかって!」
 とんでもないことを言いながら、キルアはイタズラがバレた子供のように屈託なく笑う。
「それに、ボク竜族キライだし!初めて会った時、攻撃したのもそれなんだけど〜。だからゼルスだってボクに邪魔されてたし、見殺しにされてたかもしれないよ?だからボクもキミもおんなじ」
「……同じ」
 文脈が飛んだり繋がっていたりで、まとまりがない。でもゼルスはついそこだけ復唱した。
「だから……えーっとね、ゼルスのせいでもないし、ボクがキライなのは竜族で、ゼルスのコトはキライじゃないし、ボクら似てるかなーって思ったんだ!今度はちゃーんとやるから、またどっかで会おーね♪ じゃーね!」
 片足を軸にくるーりと1回転しながらそう言うと、キルアはゼルスの返答も聞かぬうちに飛び去った。
 白い羽が見えなくなるまで、ゼルスは呆然と空の青を見つめていた。

 馬鹿は嫌いだ。
 うるさいのは嫌いだ。
 鳥族は……今回で嫌いになった。

「……アイツ、事故と見せかけて水流魔法で俺を殺そうとしただろ。あれ、わざとやりやがったな……」
 確かに、笑顔を振りまいている奴は油断ならないと警戒していたが……彼女は間抜けのように見せかけて計算ずくのようで、思いのほか腹黒らしかった。
 ゼルスは嘆息混じりに独白した。
「何が『同じ』だよ。全然似てねーよ」
 馬鹿だしうるさいし鳥族だし、それらすべて兼ね備えた最凶の少女は自分と正反対だ。
 でも上手く表現できない領域が、認めたくないけれど似ていると訴えている。
 同じ飛族だから?
 ふっと、ゼルスの口元に呆れた笑いが浮かんだ。
(……変な奴)
 何処からがおふさげで、何処までが本心なのかわからないあの鳥族。もしかしてすべてマジメなのかもしれない。
 けれども、今度会ったらなんとなく協力できるような気がする。
 ……いや、次は必ず。