棘の章
第5話 レナのペンダント
「じーさんが発って、もう何日だっけ?」
トマトをあえたスパゲティをくるくるとフォークに巻きつけながら、ゼルスが聞いた。
正面に座るキルアがスパゲティをぱくっと口に入れて、難しい顔をする。
その隣に座るレナに目をやると、彼女は食事の手を止め短く沈黙し。
「……6日……?」
「で良いんだよな」
ちょっと自信がなかったゼルスはホッとして、スパゲティを口に運ぶ。
「……もう1週間経つな。じーさんも、そろそろ帰ってくる」
「そーだっけ?でもゴウカな夜ご飯6回見たから、そっかぁ……」
「メシ基準かよ……」
空になった皿の上にフォークを置き、ゼルスは呆れ顔をしてティーカップを持った。
スパゲティにがっついているキルアが納得した顔で笑った。
「うん、そーいえば、キズも大分楽になってきたし★」
「傷……って……」
ゼルスは一瞬、何のことかと思ってハッとした。
自分と組んだ最初の依頼で負った脇腹の傷だ。あまりにいつも通りだから忘れてしまっていた。
二重の申し訳なさから目を横に泳がすと、キルアはニコニコ笑って言ってくる。だからその笑顔が怖いんだって。
「えっへん!すっかり忘れてたデショ?それだけボクがスゴイってコトだね♪」
「……悪い。もう……動くには支障ねぇのか」
「ダイジョブダイジョブ!ヤケドとかよりずっとマシだも〜ん」
キルアが何処までそれを本気で言っているかはともかく、今のはゼルスに落ち度がある。今は一人で行動しているわけではないのだ。チームを組んでいる以上、コイツのことも考えなければ。
「……もう、お別れ……?」
レナが何処となく寂しそうに言った。
この1週間で、レナはだいぶ二人に慣れていた。しかしキルアが馬鹿をやっても笑うどころか、きょとんとすることが大半だ。この乏しい表情を思いっきり崩せるのはもっと先だろう。
ひとりぼっちを紛らわせてくれていた二人がいなくなるのは、レナにとって悲しいことだろう。
二人は顔を見合わせた。
ケテルフィール侯爵家に雇われているわけでもない彼らに言えるのは、今はひとつしかない。
「また遊びに来るよ!あとあと、おじちゃんがいーよ!って言ったらいくらでもいるよー!」
「……俺も暇だったら顔出すか。大体暇だろうけど。帰ってきたら、じーさんに聞いてみたら?」
「うん……」
ゼルスとキルアの最大限の厚意に、レナは子供相応にこっくり頷いた。かと思うと、大人顔負けの優雅な手つきでスパゲティを口に運ぶ。この面は到底敵わない。
その隣からガチャンっと音がした。
食べ終わった皿を音なんて気にしないでガチャガチャンと重ねるキルアは、随分と高い皿の山を作っていた。
ゼルスは額を押さえた。
「ホントに……お前どんだけおかわりしてんだ!初日にある程度遠慮しとけって言っただろ!というか毎回言ってる!」
後ろでメイドが見ているのにもかかわらず、ゼルスは叫んでから馬鹿らしくなって溜め息を吐いた。
——初日は驚いた。まさかコイツがこんなに食べると思わなかったから。食う速度も速いし、おかわりの数も尋常じゃない。呆然と、次々に空になっていく皿を見ていることしかできなかった。
キルアは不服そうに反論してくる。
「だっておじちゃん、たくさん食べていいって言ったしー!ボクだって遠慮してるよ!? ホラ、昨日のお昼は16皿だったデショ?今日は15皿だよ!」
「変わんねぇだろーが!遠慮をケチるな!この量、あとで食費請求されてもおかしくないだろ、ったく……」
ゼルスが長い食卓から立つと、食後の紅茶を飲み終わったレナも一緒に立ち上がった。
キルアは「ごちそーさまっ☆」と15枚の皿に手を合わせてから席を立つ。おいしく食べられている分、食材たちは幸せなのかもしれない。
メイドたちが食器を片付けていくのを尻目に、三人は部屋から出た。
「今日は何しよっか〜?」
「あー、そーだな〜……」
いつ見ても眩しい床を歩きながらキルアが聞いた。1週間もこの屋敷にいると、だんだんやることがなくなってくるのだった。
この屋敷は、大広間や応接間、オスティノやレナの部屋に行く場合、玄関前を通ることになる。ひとまず一行はそこに向かって歩いていた。
「レナは何したい?」
「……何でも」
「じゃあ庭にでも出るか」
レナに聞いてもいつもこうだった。そのうち希望を言い出すかもしれないと、一度は聞くようにしている。今はまだこちらが連れ出す段階なのだろう。
「お庭お庭〜♪」と何に対しても楽しそうなキルアがスキップで少し先を行く。
やがて玄関前に着き、シックな玄関の扉を開けて外に飛び出した。
昨夜降った雨のせいで、庭は全体的に湿気ていた。雫をまとった草木や花が太陽に照らされて青々しく輝く。噴水の水も、やや増水して濁っていた。
「おおっ、水増えてる!何かいるかもよ、れーちゃんっ!」
レナの手を引っ張って、キルアはとたとたと噴水に駆け寄った。急に噴水に棲んでる奴はいねぇよ……とゼルスは言いたかったが、レナも興味津々みたいなので言わないでおいた。
キルアが興味を向けるものは、今までレナが意識したことがなかったものばかりのようで目新しいようだ。レナは子犬のようにキルアについて歩いている。姉妹みたいで微笑ましい光景だ。
ゼルスはふっと笑って、噴水を覗き込んでいる二人のところに近付く。
「………………」
——ふと、足を止めた。
振り返る。開けっ放しのシックな玄関の扉が見える。閉めてくればよかったと思う。
そのまま視線を正面に戻す。噴水を見つめる二人の背中がある。その遠景には、以前二人が通って来た門が見えた。
長い間、同じ場所に滞在していると空気感を覚えるものだ。
7日で培われた感覚がなんとなく違和感を訴えている。
(……随分、静かだ)
いつもなら遠くから使用人の会話がぼんやり聞こえたり、庭師の剪定作業が聞こえたり、そんな穏やかな音にあふれていた。
それが今は一切しない。
——勘は当たる。
キルアが少しだけレナから離れた瞬間。
突如、上から殺気が降ってきた。
だが向けられているのは自分じゃない。
ゼルスは地を蹴り上げ飛び出した。
「レナッ!!」
こちらを振り返ろうとしたレナを突き飛ばし、弓を掲げた。
降って来た衝撃が手首から肘を駆け抜けた。
「っにゃろ……!!」
無理な体勢で受けたせいで腕が痺れた。
代わりに、ゼルスは回し蹴りを放った。
蹴りは当たらなかったが、弓にのしかかっていた圧力が退く。襲撃者は庭の石畳に着地した。
突き飛ばされたレナを助け起こしたキルアが、彼女を背に守るように立った。
「へぇ、イイ反応してるじゃないか」
屋根の上から襲来してきた相手は、小柄な影だった。
年はゼルス達と変わらない。薄汚れたブラウンのコートが風になびき、薄く開かれた唇からは鋭い八重歯が覗く。見下したようなワインレッドの瞳は妖しげに光り、その全身から香る獰猛な気配のせいか縛られた長い髪は黒ずんだ血の色に見えた。
内なる荒々しさがにじみ出る、狡猾な肉食動物のような少女だった。
「竜族のアンタ、アタシが仕掛ける前から何か気付いてただろ?勘が鋭いねえ」
「……屋敷の人間はどうした?」
この静けさの理由を理解しながら、ゼルスは問いかけた。
屋敷には自分たちの他にも、使用人、警備の者たちが大勢いた。人の目は数多くあったはずなのだ。
それなのに、侵入をここまで許したということは——
最悪な想定をするゼルスにシドゥは邪気なくからから笑った。
「あぁ、殺してないから安心しなよ、いろいろ面倒そうだしさ~。普通の人間はともかく、警備っぽい奴らはさすがに数が多くてアタシ一人じゃしんどかったな。ゼド様さま、さっすが《執行者》~」
棍棒を肩に立て掛け気だるげに拍手する少女の視線は、三人の後ろに向けられていた。
ゼルスとキルアが猛然と後ろを振り返る。
噴水の中心にたたずむ女性天使像の向こうに、白い羽が見えた。
気配も物音もなくそこに立っていたのは、銀髪と翠色の瞳を持つ青衣の青年。
「……ぁ」
「ぁあーーっっ!!! この前の〜ッ!!」
ゼルスが驚こうとした寸前に、キルアが彼を指差して驚いてくれた。おかげでゼルス自身は驚きが失せる。
以前、空中で出会った、大きな翼を背負う正体不明の鳥族だった。
「なんだ、アンタたち知り合い?一応、同族だから?面白くなりそうじゃないか」
少女が笑う一方、ゼドは何処となく睨むような目つきで彼女を見ていた。
「……シドゥ。話が違う」
「違わないよ?アンタは気配の大本を探りに来たんだろうけど、アタシも同じとは言ってないからね。アタシの目的はアレを奪取するコト」
三人を間に挟み、二人の襲撃者は対峙する。
青年鳥族が手を出さないのが不思議なほどの、一触即発の気配が渦巻いていた。
(こいつら……仲間じゃないのか?)
ゼルスが淡く思った直後。
少女——シドゥが朱色の棍棒をその場で振り下ろした。
そこに隕石が落ちたように、石畳が吹き飛び黒い地面に穴が穿たれる。
肩を震わせたレナをキルアが抱きしめ、ゼルスは過剰な演出に顔をしかめた。
赤い少女は愉悦の笑みで言った。
「ああ、これこれ……こっちは戦うこと自体がえらく久しぶりなのさ。ずっと戦いたかったんだよねぇ……そういうわけで退いてもらおーか?飛族お二人さん」
「……どういう訳だか知らねーよ。説明する気はあんのか?」
「ないね。アタシはその子に用がある」
「ユーカイするの!? れーちゃん怖がってるデショ!」
相手が答えないなら戦う以外に選択肢はない。
ゼルスもキルアも退く気はなかった。護衛しろとは依頼されていなくても、数日の間に懐いた少女を無下にするほど彼らは非道ではなかった。
この状況に持ち込んだ本人が、からからと楽しげに笑う。
「だってよ、ゼド。例の気配、あの子からするだろ?気になるなら戦うしかないみたいだけど?主人のためだもんな?」
——ゼドは理解する。自分に戦う理由はない。ただ『それが何なのか』を偵察に来ただけ。
だがシドゥは、先手を仕掛けることで相手にこちらを警戒させ、平和的に解決する道を断ったのだ。今後こんなお誂えな偵察の機会は訪れないことも加味して。つまり自分は、今『それ』を確かめるしかないのだ。
もはやゼドは何も言わなかった。
そんな二人の思惑を知る由もないゼルスは、苦々しい気持ちで矢を番えながらキルアに言った。
「……キルア、適当にいなして離脱するぞ」
「ンーー、だよね~……そーだね!」
キルアもなんとなく表情を曇らせてから、ぐっと拳を握って返事をした。
ふと、ぎゅっと服を掴まれてゼルスが振り返ると、不安そうな顔のレナがこちらを見上げていた。
「……大丈夫、なの……?」
「……お前は最優先に守るから」
ゼルスはなるべく平坦な口調で返した。
——思わず言葉を濁したほどには状況は悪い。
レナを守るというハンデつきだし、キルアとはまだちゃんと共闘したことがない。
ゼドは、剣こそ交えてはいないが基礎能力が恐ろしくぶっ飛んでいることだけ分かっている。
(……やるしかねぇ)
なんとか凌ぎつつ、逃走の機会を窺う。勝ち目のない戦いは退くのが基本だが、ゼルスは腹をくくった。
ゼルスとシドゥの間には微妙な距離があった。一瞬で攻撃を仕掛けることも、防ぐこともできる距離。
ゼルスは前者を選んだ。
シドゥの腕を狙って矢を放つ。
シドゥは身をそらしてかわし、ゼルスに向けて駆け出した。
「さぁて楽しもうじゃないかっ!!」
「チッ……!」
自分は弓専門だ。近接の相手の間合いに取り込まれるとやりづらい。
シドゥが目の前で棍棒を振り上げる。ゼルスは弓で防御態勢をとった。
「『風の神の加護、レイス』!」
「魔法……!?」
キルアの声にシドゥの気がそれた。
シドゥはとっさに急停止し、大きく後退した。暗赤色の髪の毛先を魔法の刃が切り裂いた。
「さんきゅー、ナイス」
「っひゃう!?」
ゼルスが一息吐くと、悲鳴らしくないキルアの悲鳴がした。
ばっと振り返って驚愕した。小柄なキルアが、ゼドの大剣を真剣白羽取りしていたのだ。
ゼドが何処から得物を出したのか、何でそんな状況なのか、いろんな疑問が頭を過ぎったが、小刻みに震えるキルアの細腕を見てオヤジの厳しい顔が脳裏に浮かんだ。
『……とにかく、それに名前を書いちまった以上、この依頼はお前らで完遂させるんだぞ。いいな。特にゼルス』
協力、連携は、いざやろうと思ってもすぐにはできない。仲間の得意不得意、気概、動きなど、さまざまなものを熟知した上で十分にできるものだ。
少しの気持ちのズレが大きな損害を招く。
今だって、キルアが近接が得意でないゼルスを援護してくれた時に、すかさずゼルスがキルアの空きをフォローすれば、こんな状況にはならなかったはずだ。とはいえ、キルアもキルアで援護するポイントが違う。
「ったく仕方ねぇな!」
2本矢を抜き、ゼドの肩辺りを狙って撃つ。
ゼドは剣をキルアの手から引き抜き、矢を切り伏せた。
その隙に接近していたシドゥが、ゼルスに向け棍棒を薙ぎ払う。
「いただき!」
「チッ、しゃがめっ!」
「うひゃあ!?」
ゼルスはレナと一緒にしゃがみんで、反応が遅いキルアの足を払い転ばせた。
棍棒の鋭い一撃が三人の頭上を掠める。
すぐに筆記をしたキルアは、天に手のひらを向けて名唱した。
「『溢るる大河、サイル』っ!!」
手のひらから噴水のように勢いよく水流が噴き出した。
水は三人を包むように展開し、シドゥが進む足を渋らせたのが見えた。
(水流魔法、逃げに使えるか……?!)
ゼルスが策を練ろうとした刹那。
何の抵抗もなしに刃が通るような幻覚がした。
「キルア伏せろっ!!」
「ふええっ!?」
キルアはよく分からないまま頭を抱え、ゼルスはその前に飛び出して弓を掲げた。
真上から重い衝撃が降ってきた。
「っあが……!!」
鉄球が降ってきたかのようだった。肩が外れなかったのが奇跡だ。
弓にのしかかった重圧はキルアの水流魔法さえ打ち消した。水はすべて飛沫と化し消える。
シドゥの一撃目とは比べ物にならないほどの強烈な振動。肘まで瞬時に痺れる。握力が一瞬緩み、弓を取り落としそうになる。
ゼルスの弓は、魔力を宿すため鋼にも匹敵する強度のセロルという木からできている。多少の攻撃では傷一つつかない強固なものだが……さすがに少し傷がついたかもしれない。
しかし、目の前で無言で刃を交えるゼドは無表情だが余裕そのものだ。
(手加減してやがる……!)
ゼルスは奥歯を噛んだ。
押せどもびくともしない刃が、力の差を物語っていた。
(……だったら!)
ゼルスはあえて足を浮かせた。
拮抗していた力ののった刃が解放され、少年竜族をその場から弾き出す。
「キルアっ!!」
「待ってたよー!」
筆記が完了し、隙あらば打ち込もうとしていたキルアが返事をした。
「『風の神の加護、レイス』っ!!」
疾風魔法が飛び出すのに合わせ、ゼルスは矢を射出した。
放たれた矢と魔法は青年鳥族を一気に退けた。彼は攻撃を回避しながら後方へ後方へと飛び、ここからは距離がある屋敷の塀の上に下り立つ。
二人は思わず拳を握り締めたが、その喜びは一瞬だった。
「はいはーい、注目〜」
悠長なシドゥの声。
顔を上げると、女性天使像の上に、小さなレナを片腕に抱いて立つシドゥがいた。
「レナ!」
「れーちゃんっ……!」
ゼドを退けさせるだけで手一杯だった。ちょっとした油断を突かれ、さらわれたのか。
レナはシドゥの腕から逃れようと手足をばたばたと動かしているが効果は薄い。シドゥはそんなレナの顎を掴み、眼下の二人に顔を向けさせる。少女の泣き出しそうな表情を見て、二人は歯噛みした。
シドゥは、くつくつ笑って言った。
「別にこの子を殺したり攫ったりしようってわけじゃないんだよ?そう見えるようにしたんだけどねぇ」
「へ……?」
「アタシはコレがほしいだけ」
シドゥはレナの首筋に手を動かした。
目を押し開いたレナの目の前で、赤い石のペンダントが揺れた。
レナが手を伸ばすとシドゥの体が傾いた。
「か、返してっ……!!」
「おっとと、危ない危ないっと」
赤い少女は難なく宙返りして天使像の上から下り、縋ってきそうなレナを掻いくぐって距離を置く。
へたり込んだレナを見て、シドゥは微笑んだ。恐ろしく優しくて、無慈悲な笑顔だった。
「そんじゃ、さよならお二人さん。楽しかったよ?」
「おい、待てよ!!」
「れーちゃんのペンダント返せぇ〜〜っ!!」
駆け出したシドゥを追ってゼルスとキルアが動き出す。
飛族から見れば人間の足なんて亀同然だ。追いつくことなんて造作もない。
しかし飛び立とうとした寸前、ひとつの影が頭上を飛翔していった。
「『天からの断罪、ギア』」
目の前が真っ白に染まり、腹底を轟音が貫いた。
「うわっ!?」
「ひゃあっ?!」
完全に意表を突かれた。眼前に巨大な雷が落ち、とっさに目を瞑ったが視界は機能しなくなっていた。
「くそっ、やりやがったな!」
ゼルスがチカチカする目で赤髪の少女と青装束の去っていった方向を見るが、すでに二人の姿は陰もなくなっていた。