deus ex machina

AgnusDei 04 死にたがりの聖女

 山吹色の光が、くるりくるりと環を描いて回る。
 よく見るとその円の縁には、細かな文字が書き連ねられている。すべて混沌神語の記述だ。
 その円の内側では、さらに複雑な紋様が縦に逆回転する。その紋様も、目を凝らして見ると同じように全部が文字の連なりだ。
 少女の手のひらの上で浮かぶ拳大のそれは、温かな光を秘めた宝玉のようだ。その光は、暗闇のこの中では希望の光のようにも思えた。
「……これが?」
「ええ。やっと完成したわ」
 闇の中、その光に照らされて浮かび上がったレスターの顔。彼が怪訝そうなのも無理はない。想像と違う形だろうし、そもそも形があることにすら驚いているだろう。きっとクルセが見たら、目を爛々と光らせて根掘り葉掘り質問してくるに違いない。
 ユグドラシルは、生粋のボルテオースの存在、そして魂しか認可せず、それ以外のものは拒絶する性質を持つ。
 これは、それらを力任せに捻じ伏せ、ユグドラシルに誤認させる破壊の術式だ。
 ボルテオースの塊である神界に、下位の神の力での術式では効力はない。よって、すべてアルトミセア自身のボルテオースで構築されてある。力の供給源が自分ということもあり、休息の時間も相まって完成には1年を要した。
 術式の展開範囲を自分たち限定にしてあるから、1年で済んだのだ。もし神界中なんてことになっていたら、きっと一生――アルトミセアは不老だが――かかっても終わらない。
 アルトミセアがそっとその宝玉を両手で包むと、それは彼女の重ねられた手の内で魔法のように消えた。そうやって光源を体内にしまい込むと、真っ暗で何も見えなくなった。
 お互いが見えない二人の鼻孔をくすぐるのは、湿った土と水の匂い。それと、周囲を蛍のように不規則に舞う、白い細やかな光だ。大気中のオースの濃度が高いナシア=パントでは、神の力は霧やもやのように目に見える現象となるが、これはそれが顕著な例だ。
 不意に、ぱっと光が弾けた。暗がりに慣れかかっていた瞳に突き刺さった光を、目を細めてやり過ごしてからよく見ると、白い光球が虚空に浮かんでいた。
「痛覚支配の光だ。触ると大怪我するぞ」
 この闇の中なのに、黒い彼はやけに気配が主張されていて、不可思議なほどにすぐに目が止まる。それはイクウの属性が光であることに起因するからだ。反対に、闇を司る白いイロウは、今も彼の隣にいるのだが、言われなければ暗がりに同化していて気付かない。
 イクウの光に照らされ、周囲の景色が薄らぼんやりと浮かび上がる。ざらざらとした黒い土壁に四方八方を覆われており、天井は光が届かないほど不思議と高いが、幅は狭かった。日光が入る隙間は何処にもなく、壁や地面にはボコボコと大きめの凹凸が刻まれている。まるで夜の神殿のような出で立ちだ。
 少し先に目を向けると闇が口を開けており、そこからさらに下へと道が続いていた。その地下への口腔を一瞥し、アルトミセアが三人を振り向いて言う。
「あっちよ。さらに下に下りるの」
「さすがに地下ともなれば何も見えないな。アル、足元に気をつけろよ」
「ここは私がつくったのよ?作り手がそんなはめ……きゃっ!」
 背を向け、当然のように先頭を行こうとした金色の背中が、大きく波打った。横に立っていたレスターがすかさず支えていなければ、転んで膝を打っていただろう。
「つまずかないように気をつけろ。大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい……」
 見栄を張った少女は、恥ずかしそうに小さく謝った。

 現在、大陸の中央では、シャルメル、ティアレという二国が、隙あらば攻め入ろうと互いに睨み合っている。ティアレの南には、彼女たちがいたアルトミセア教国があり、中立の立場をとっている。
 そのシャルメルの西にあるのが、今、彼らがいるジェーダ小国。その地下に一行はいた。
 アルトミセア教国からここジェーダまでの長旅でただでさえ疲れているのに、ジェーダの乾いた熱風と砂塵の舞う大地はさらに一行を疲弊させた。祖国とは違い暴力的なまでの熱線、かと思えば夜は骨の髄まで凍てつくような寒さ。この環境に慣れるまでに数週間はかかった。
 アルトミセアは過去に一度、単身この地に訪れているのだが、さすがにその時の慣れを身体は覚えていなかったらしい。四人で一番、体調を崩していたのは彼女だった。ちなみにクルセは、大司教という立場もあり、この旅の同行はお預けだ。
 深い闇が見下ろす頭上を見上げ、レスターが言う。
「よくこんな場所に、こんなものを作ったな。これも術式なのか?」
「いえ、元々この場所は存在したの。ただ、ここに至るまでの道が地上になかった。そこに、私が地上からここへ飛んで来られる術式を組み込んだだけよ。下へ続く回廊は少し整備したけれど」
「自然のものということか、これが……凄いな」
 隻眼を細めたレスターの横顔は、遠く、遠くを見据えていた。
「……遠いな。俺には遠すぎる……」
 この人里離れた地底は、何千年、何万年、悠久の時を経て、この構造を形作ってきたのだろう。
 人の身では計り知れない、あまりに膨大な長い年月。それに想いを馳せ、己の矮小さと命の短さに気付いた時、胸に去来する切なさにも似た虚無感。

「……アル。神は、剣の腕も立つと言っていたな」
「……ええ。神は刃と心の力を持つ。心の力のほうは私が対処するわ。問題は刃のほうだけど……レスターも強いけれど、神は手強いわ。気をつけて」
「現実味のない話だ。神を斬るなんてな。この地底を相手どったようなもんだ」
「……そうね。どちらも貴方よりずっとずっと永く存在するもの」
「遠い存在だ。それが敵とさえ認識できないほど。……対峙した時、俺は、戦えるのか。それが不安だ」
 己の手のひらを見つめ、レスターが小さく囁く。思わずアルトミセアは目を丸くした。1年と半年の間、一度だってレスターの弱音なんて耳にしなかったからだ。
 しかし、レスターとて人間だ。完璧ではない。そんな当たり前のことを突きつけられ、アルトミセアは今更ながら安堵した。
 ……よかった。これで、こちらの刃を、安心して任せることができる。
 少女は、男が見つめていた手を両手で握り締めた。目を向ける彼に、アルトミセアは告げる。
「……もし、レスターが神を斬ることに抵抗があるなら、その時は刃を手放して。貴方の意思が、きっとエオスの意思だから」
「………………」
「こんな大掛かりなことに巻き込んでしまって、ごめんなさい。刃は、貴方に委ねるわ」
 私は心の力を。貴方は刃の力を。どちらが欠けても、神には及ばない。
 私は神を打倒する。それは揺るぐことはない。けれど彼が刃を引くのなら、それはエオスの意向。私はそれに従う。
 これは、今後の明暗を分ける一戦でもあるのだ。

 アルトミセアがそっと手を離すと、レスターは沈黙の後、ぐっとその手を握り締めた。
「俺も、神に引っ掻き回された当事者だ。巻き込まれたつもりはない」
「……そうだったわね。部外者のように言ってしまってごめんなさい」
「いや。……すまん。もう大丈夫だ。少し、覚悟と整理が足りなかったみたいだ」
 自嘲するような口振りで言うと、レスターは深く深く息を吸い込み、吐き出す。
 閉ざされた瞼の下から琥珀色の隻眼が覗いた時には、その焦点は遥か遠くではなく、いつものように少し先を――自分の進む道を見据えていた。
「行こう」
 二人の話がついたと見るや、黙って待っていたイクウが動き出した。光源を持つ彼が動くと、全員の影も巨人の行進のように黒壁に蠢いた。
「……それにしても、意外だったわ。アルカの貴方たちは、神の側の方だと思っていたから」
 イクウが先頭になって、ボコボコだが階段状になっている先へと降りていく。その後ろを歩きながら、アルトミセアは彼に声をかけた。アルトミセアの背後には、レスター、イロウの順で並ぶ。
 すると、イクウは逆に不思議そうに、アルトミセアに問いを返した。
「何で俺たちは、神の側だと思ったんだ?」
「貴方たちはオースで構成されているもの。下位の力とは言え、神の眷属であることに変わりはないはずよ」
「そういう観点か。だが、俺たちに神に従う義務はない」
「ボクらアルカが……生まれるのには、意味はないから」
 イロウも後ろの方からそっと返答を投げてきた。
 アルカ、その中でもこうして自我を持つアルカは、実に奇妙だ。何を考えているのかいまだに把握しきれない。
 元々、この遺物達はお喋りではない。最初の頃なんて、堅苦しい物言いで最低限の事実しか返そうとしなかった。
 だがこの年月で、明らかに彼らは変わっていた。口調も少し柔らかくなり、疑問を持ち問い返すようになった。しかし感情はまだ先だろうと、クルセは言っていた。人間ならば当然持ち合わせているそれがないから、何を考えているのか測りづらいのだとも言っていた。
 内心で首を傾げるアルトミセアに、二人はさらに言葉を重ねる。
「お前達が神を打倒するなら、エオスは新しい世界に生まれ変わる。お前達の行く先を、見届けたいと思った」
「うん……眷属のボクたちも……神が消えたら、きっと消えるだろうし……」
「それはついでだ」
「………………」
 返答がとっさに出ず、アルトミセアは目を瞬いた。
 ――今、彼らは言った。「行く先を見届けたい」と。
 少女は、驚きを噛みしめるように呟いた。
「……イクウイロウ……貴方たち……感情が、わかるの?」
「……さあ。どれのことかわからない以上、返答のしようがない」
「ああ……でも、それは意思だから、感情とは違うのかしら……難しいわ。でも……」
 でもそれは、明らかに彼らの内面が変化している証拠だった。アルトミセアはそっと微笑した。
 闇の底に下りていくごとに白の燐光が徐々に数を増し、一行を取り囲むように飛び交う。やがて、階段の終わりが灯りの範囲に現れたのを見て、アルトミセアはイクウに灯りを消すように指示した。灯りは、この空間には野暮だと思ったからだ。
 階段を下りきったその先に広がった空間に、レスターが息を呑む。アルトミセアも、ここへ来るのは二度目だが、胸を打つ情景に口を噤んだ。

 巨大な鏡だった。
 さざ波一つ立たぬ、磨き上げられた水面。
 その大鏡が映し出すのは、緑の小島の中央に突き立つ一振りの剣。
 そこを軸に、星空を描くように舞い上がる燐光。
 まるで、無数の星が浮かぶ夜空に飛び込んだかのよう。――そこは、そんな地底湖だった。
「……綺麗だな……」
「ええ……何度来ても、ここは美しいわ……」
 溜め息まじりに少女は言うと、そっと水面に踏み込んだ。ひんやりとした水の感覚がくるぶしに触れ、やがて脛、膝を満たす。
 そこまで進んでから、アルトミセアはレスターを振り返った。
「この水は神水といって、オースに影響されて変化した水なの。入っても濡れないわよ」
「何?」
 驚いた顔で興味津々に水に足を踏み入れる男を小さく笑って、少女は進んだ。少しして小島に上がると、そこに屈んでそっと植物に触れた。
 小さな花弁をつける、白い可憐な花。よく見ると花弁は透けており、後ろの葉の緑が覗く。その葉もまた、透明感のある光沢とともに透明だ。そっと触ると、硬質の感触が指先に残る。まるでガラス細工のような花は、摘み取ろうとしてもちょっとやそっとの力では手折れない。
 オースが漂う樹海ナシア=パントは、オースの影響を受け、植物が不思議な変化を遂げている。葉花が薄く透ける、あるいは硬質気味となる、あるいは奇妙な光沢を持つなど多種多様だ。
 ここは、オースの供給が過剰すぎるほど極端な場所だ。ナシア=パントよりも数段上の変化を遂げた植物は、その島の主を彩るように咲き誇る。
 ようやく、アルトミセアは顔を上げた。平たい剣身に映り込む自分を見つめ返し、噛みしめるように囁いた。
「……久しぶりね。ジクルド、ウォムストラル」

―――アルトミセア 300年ぶりくらいかしら

 慣れ親しんだ優しい声色が答えた。そして思った通り、もう一人は返事すらしない。くすっと笑みがこぼれた。
 いつの間にか隣にまで追いついていたレスターをよそに、アルトミセアは言葉を続ける。
「私達は、神に対抗するためにここまで来たの。グレイヴ=ジクルド、力を貸してくれないかしら」
 説明は不十分だろう。しかし、目の前の神剣グレイヴ=ジクルドの柄の部分にはめ込まれた石――ウォムストラルには、そんな気遣いも不要だ。『彼女』はイロウに似て、相手の心を読み取る。
 予想した通り、答えは数秒で返ってきた。

―――意地悪な問いね アルトミセア 貴方は知っているでしょう
―――私たちは求められれば応えるしかできない 特に神と人 両端の存在には

「……それが、グレイヴ=ジクルドなのか」
 レスターが確信を持って口にする。それを耳にして初めて、アルトミセアは彼に向き直った。
 少しだけ申し訳なさそうに、すべてを知る少女は真実を語るために唇を開いた。
「レスター、ごめんなさい。ユグドラシルへの入り口があると言ってここまで連れてきてしまったけれど、その他にも理由があったの」
「神剣の存在か」
「……そう。前にも言ったように、グレイヴ=ジクルドの所在を語ることは神の術式で封じられていたから、私が先に言うことはできなかった。何も知らない貴方が先に神剣を目にした時、初めて私は口を開くことができるの」
「なるほどな。……それで、お前達はいいのか」
 以前に、クルセも交えて神剣については大体のことは説明していた。そのおかげか、短い説明で理解したレスターは、グレイヴ=ジクルドを一瞥して問いを投げかけた。先ほどから発言しているのはウォムストラルの方だと、少女が横から補足した。
 神の石は、動揺することもなく謳うように告げる。

―――私たちは 支配者である「    」と違って 人に寄り添う側の神
―――貴方たち人が 「    」を打倒するというのなら それを見届けましょう

 レスターがアルトミセアに目配せすると、彼女は頷いた。
 彼の手が静かに伸び、その神剣の柄を握り締める。音もなく引き抜かれた剣先がするりと持ち上がり、剣身に星のような燐光が映し出された。
 未来を切り開く一振りの剣を手に、少女達はその世界への扉を叩いた。

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 何もかもがひっくり返ったその一瞬を。

 何処までも遠い暗闇の星空、
 自分・・を前に、両手を広げた恐怖を。
 私の背後の、喘ぐような彼の息遣いを。

 力ではない。
 途方もない歳月の差に膝を折ったその絶望を。

 その一瞬は、神水の冷たさとともに、記憶の奥底で眠り続ける。

 

 

 

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 長い微睡みのような記憶の海から、緩やかに浮上する。
 そっと瞼を上げると、立ち尽くした目の前に灰色の石があった。両腕で抱きかかえられそうな大きさの石は1つではなく、隣にも、その後ろにも見える。
 小さな村の片隅の、小さな墓地。村人たちが居住する周辺とはやや離れた森の傍だ。木々を背後に、背の低い草原に並ぶ墓標たち。こんなところにあるからこそ、自分のような者でもここまで来ることができた。
 目の前と、その隣の墓標に彫られている文字を見て、寸分も変わっていないアルトミセアは淡く微笑んだ。

 そこには、ミカユ=レスター、セルク=カイラルと刻まれていた。

 生前、二人は言っていた。
 ミカユは、セルクは、死にたがりの者の名。過去の自分と決別した時に捨てたものだと。

 神は、あまりに・・・・巨大おおきすぎた・・・
 創世より在り、誰よりも刃を研ぎ澄ませてきた悠久の存在に、一人間が敵う道理など最初からなかったのだ。
 自分の姿を借り顕現した神を前にして。その歳月の格差におののいた時、すでに少女は敗北していた。
 彼女の心が揺れた時点で、勝敗はついていたのだ。
(……レスターは、強かった)
 彼は、そんな存在と相対してもぶれることはなかった。そこに至る前に腹を決めたおかげだったのか、今になってはわからない。
 刃と心、2つの心が双輪となって動かなければ、敵う見込みはそもそもなかった。……私が、神を軽視していたばかりに。
 わかったつもりでいて、本当にわかっていなかった。
 神剣の真の使い手に、それだけは渡してはいけない。一行は、グレイヴ=ジクルドを持って後退するのが精一杯だった。

 人間では、神に近付くことすらできない。
 神に抗うならば、神に近しい者でなければ抵抗すらできないのだ。
 ――すなわち、その希望は、いつか神が生み出す破壊者しか持ち合わせていないのだ。
 なんて不確定な、雲をも掴むような話なのか。

『もう諦めないって約束しただろう。俺の無い右腕に』

 闇の奥底を見つめ光を見失ったアルトミセアに、傷だらけのレスターは言い放った。
 彼が神に歯向かって生きていたのは、神に殺意がなかっただけだ。まだ生の余地がある人間を安易に殺しては、ユグドラシルとエオスの魂の均衡にズレが生じる。それを避けるのは、世界の支配者としては当然か。
 しかし、そう叱咤する内容とは裏腹に、彼は諦観に微笑んでいた。

『お前は不老なんだから、俺の思いも晴らしてくれよ』

 ……その後、すぐに、諦めたように言わないでと叱った。レスターは我に返って、そうだなと訂正した。お前に希望を託すと、そう言った。
 どちらも本心なのはわかった。でも、彼が預けてくれた希望とともに、無力さに打ちひしがれた刹那のあの表情が少女を駆り立てていた。レスターがそんな顔をしたのは、あの一瞬が最初で最後だった。
 もう二度と、彼にそんな顔をさせたくない。

 ふと、腕を持ち上げた。両手に握り締めていた、白と黒の2本の刀。――イクウイロウ
 物言わぬ刀たちは、そこから人型の像を結ぶこともなく、アルトミセアの手の内で沈黙している。
 ユグドラシルに乗り込んだ時、二人は、神に術式を書き換えられた。「双刀の使い手を得て初めて人型を象ることができる」――明確で、しかし限定的な条件に。
 アルトミセアは、レスター達と別れた後、その書き換えられた術式を元に戻せないか試行錯誤を重ねていた。……そして、現状が答えだ。
 単純に、生粋のボルテオースの存在でなければ干渉できない制約がかかっており、人間に過ぎないアルトミセアではそもそも不可能だったのだ。
「……助けてあげられなくて、ごめんなさい」
 懺悔のように呟いて、アルトミセアはレスターの墓標の前に屈み、刀の二人をその前にそっと置いた。贖罪にもならないが、せめて、共に過ごした二人の傍に。
 そう祈りながら立ち上がり、少女は隣の墓標に目をやった。その他と同じように、鈍く光を照り返す灰色の石。その色が、銀色の双眸を想起させる。
 ――レスターの傷も完治しかける頃。潮時だと判断したアルトミセアは、母のような、姉のような彼女に、別れを打ち明けた。
 クルセは少しだけ淋しげに微笑んで、ただペンをとった。

『クルセというのはね、海の向こうの国では、こう書くことができるらしい』

 「来世」。
 羊皮紙にインクで書かれた不可思議な記号は、当然ながらアルトミセアには読めなかった。死後の次の人生のこと、つまり転生後の人生のことを指すらしいと、クルセは付け加えた。

『転生しても、きっと君の傍にいるよ』

 転生の事実は知っていても、これは希望的観測でしかないけれどねと、非論理的な物言いをした自分を嘲笑うように彼女は言った。
 ――その翌日、アルトミセアは二人の前から立ち去った。

(……もう二度と、会うつもりはなかったけれど)
 結局、こうして墓の前に立ってしまった。
 別れた後、二人は幸せに暮らしただろうか。負い目を感じていなかっただろうか。それを知る術がないのがもどかしい。
 果てしない時の中に出会った、奇跡のようなひととき。彼らとの時間は短くも濃厚で、すでに50年ほど経った今でも胸で輝き続ける灯火だった。
 その一瞬一瞬は、ずっとずっと、心にある。

 ――まだ、私達は負けていない。
 有限の二人ではできないことを、無限の自分は託された。自分が不老であることで、彼らの希望は生き永らえているのだ。
 ある種では、老いを知らぬ体にしてくれた神には感謝すべきなのかもしれない。
 遠い遠い未来で、自分は、すでにいない彼らの願いを、叶えられる――

 ……雨が、降ってきた。
 ああ、これでは人のことは言えない。諦観に笑った彼は、本当に笑うしかなかったのだ。
 それに、こんなことを思っていたら、きっとまた彼に嫌われてしまう。
 でも、これで終わりにするから。
 死にたがりは、もうこれで最後にするから。

「………………普通の人間に、なりたかったなぁ」

 応えることのない2つの墓標と刀の前で、一人残された少女は、眠るまで慟哭していた。