deus ex machina

AgnusDei 01 死にたがりの少女

 真っ赤な血溜まりに雨が叩きつけていた。
 両目は、目の前に転がるたくましい片腕を映していた。
 湿った空気を震わせた咆哮は、自分の心臓さえも揺さぶった。
 ただただ、号哭が止まらなかった。

「―――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

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 いつから、人間だと思い込んでいたのだろう。
 とっくの昔に、私は人間ではなくなっていたのに。

 自分は人形だ。
 神の仰せのまま、神が託していった神剣グレイヴ=ジクルドを管理。
 しかし人の身にはそれを持て余し、結局神は、剣を破壊するという方針に変える。
 いずれエオスに送られてくる、神剣の破壊者の補佐が必要になる。
 神の仰せのまま、その役目を負う神の教団を創設。
 その初代教皇を務める。
 200年前に立ち去った教団では、自分はいまだに「神の寵児」だと祭り上げられている。
 神が誤っただけだと言ったら、”寵児”とは言え厳しい目で見られるのだろう。
 いや、石像そのままの若い姿で現れたことに恐怖を抱き、異端だと拒絶されるのが先か。
(―――どうだっていい)
 どうせ自分は、これから消え逝くのだから。

 目の前には、ずらりと並んだ鋭い牙。その狭い隙間から流れてくる生温い吐息は獣臭い。
 あっさり人の肩を喰い千切るだろう獰猛なアギトを見上げると、その上に、白く光を跳ね返す黄金の瞳がこちらを見据えていた。
 大人の馬ほどの大きさの体格の黒い狼が、自分の前で歯を剥き出しているのだった。
 始まりの樹海ナシア=パント。冬が近付く森の中、まばらになった紅葉たちが、また一枚、また一枚、小風に吹かれて寒々しい空に舞う。
「……人喰い狼とは名ばかりかしら」
 今にも喰らいつかん勢いでこちらを見据え唸り声を上げる狼を見上げ、ぼそりと呟くのは少女の声。
 黒狼と対を成すような、金色の波打つ長髪が風になびく。無表情の少女は、くだらないものを見上げるように金色の瞳で睨め上げた。
 その狼の顎は、黒いドレスに身を包んだ小柄な体躯をいとも容易く噛みちぎるだろう。
 例え少女がその手に持つ、柄から鞘まで純白の刀で防ごうとしても、その巨大な口の前には意味を成さないだろう。
 それでいい。自分は、人喰い狼がいるから・・・・・・・・・ここに来たのだ。
 じりっと半歩踏み出した。
 直後、弾かれたように反応した狼の手足から体幹に力が伝わっていき、毛並みが逆立つまでがはっきりと見えて、次の瞬間には自分の体に牙が突き立っている様が予想ができた。

 ――こうして。
 初代教皇という、
 人でも神でもない中途半端な存在は、
 何も持たぬ人形は、
 欠陥品は、
 消え去る。

 呆然と見開いていた視界に横から影が割り込むまでは、そう思っていた。

 咆哮が耳をつんざいた。……狼の悲鳴。
 自分の前から飛び退いた巨大な狼。地響きとともに離れたところに着地した。その横面からぼたぼたと赤い雫がこぼれ落ちている。
 ……理解ができない。棒立ちのまま狼を見つめてから、自分の傍に誰かが立っていることにやっと気が付いた。
「間一髪だったな。怪我はないか?」
 程よく日焼けした右手。その先にぶら下げた漆黒の刀の切っ先から、血が滴っている。
 アルトミセアの左手前に立っていたのは、大柄な男だった。
 ぶっきらぼうな口調で簡潔にそう問うてくる気質は、その優しい茜色の短髪が体現しているかのようだった。
 やや目つきが悪い琥珀色の右瞳は大狼に向いたままで、アルトミセアにはその横顔しか見ることができない。
「……、……何……?貴方……」
 やっとのことで声を発した。
 声が、瞳が震える。
 望んでもいない・・・・・・・部外者の乱入に、頭の芯が痺れた。
「貴方……邪魔しないで!!!」
 ほとばしる激情に身を任せ、アルトミセアはしがみついた。目の前にあった、刀を握る男のたくましい右腕に。
 予想だにしなかった方向からの妨害。男の顔に驚きが走り、すぐ焦りに塗り替わる。
「くっ……!」
 焦燥の色も濃く、男は、アルトミセアが縋りついている右腕を外側に振り抜いた。乱暴に振り払われた少女は、顔に驚きを張り付かせたまま後ろによろめき、バランスを崩して地面に伏せる。
 頬についた土を払うことも忘れ、アルトミセアがキッと男を睨め上げた瞬間、固い音が鼓膜を震わせた。
 隙をついて襲いかかってきた巨大な牙の根元を、男の漆黒の刀が受け止めていた。拮抗して小刻みに震える噛み合った刃と牙とが、互いの力量を物語る。
「あんたは先に……、!?」
 防御の手を緩めないまま言いながら、男はアルトミセアを一瞥し、その先の言葉を呑み込んだ。
 それとほぼ同時に、アルトミセアは頭上に生温かい吐息を感じ、頬を強張らせた。
 髪を放り出して伏せる格好の少女の周囲に、蠢く影が数体。
 この巨大な狼ほどではないが通常よりも大きい体格の狼の群れが、アルトミセアを取り囲んでいた。
「くそ!」
 焦った男が刀身で力づくで狼を押し返し、一瞬で離れ、アルトミセアの傍に集まる狼たちに一閃して群れを散らす。

 その一瞬が、命取りだった。

 男が振り返った瞬間、巨大な闇が口を開けていた。

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 はっと目が覚めた。
 すべてのビジョンが消え去り、今までの光景が幻想であったことを知った。頻度の短い息を吐き出しながら、アルトミセアは額に浮かんでいた汗を手の甲で拭う。
 おもむろに身を起こすと、やけに頭が重いし、体に倦怠感がまとわりつく。寝ていたせいか体も火照っていて暑いし、喉もからからだ。内心で疑問に思いながら、手を扇にしてぱたぱた扇いでいると、横から水が入ったコップが現れた。
 干上がった大地のような喉に、冷えた水を流し込む。ひりつくような痛みが薄れ、ほっと一息吐いた。
「ありがとう………………、……え?」
 空になったコップを差し出しながら当たり前のようにそう言ってから、ふと、おかしいことに気付いて顔を上げた。コップがそっと自分の指先から離れていた。
「おはよう、よく眠ってたね」
 受け取ったコップを片手に微笑むのは、若い女性だった。……ただし、いい印象は受けなかった。
 その豊かな胸を強調するように胸元が大きく開いているし、深いスリットも入った朱い服。その紅色を締めるように黒いジャケットを着ている。豊満な肉体を惜しみなく見せつける服装。まるで遊女だ。
 しかし、胸元ほどで巻いてあるミント色の艶やかな髪や、クールな銀色の瞳などの地の要素。それらがその衣装とは正反対の怜悧さを醸し出していて、服装とはミスマッチだ。
 華やかで、何処か知的な印象を受ける女性。
 ……いや、それよりも。
 その双丘の大きさは一体何なのか。思わず自分のまな板具合を一瞥してしまうくらいのボリュームで、同じものだと思えなくて頭が混乱する。頭の回転が鈍い。
 上の空でそう思っていたら、そっと額にぬるいものが触れた。アルトミセアが我に返ると、至近距離に女性の顔があった。
「ふむ、やはり栄養かな。大分マシになったけども熱は下がらないか。この時期の雨は特に冷たいから、長時間、雨に打たれたなら当然の末路と言うべきかな。起きられる元気があるのなら、何か栄養のあるものを摂取するのを推奨するけどもどうする?」
 片手をアルトミセアの額に、もう片方の手で自分の顎に触れて呟いてから、女性は身を引いて自然な流れでそう問いかけてくる。格調ばったそれとは違い、文献のような堅苦しい物言いだ。
 その不思議な口調が語る言葉、自分の状況などから、この倦怠感は発熱のせいだと理解した。すると次には、それよりも根本的な疑問が頭をもたげる。それが意識に浮上した途端、少女はただただ困惑した。

 一体、何がどうなってる?
 自分は人喰い狼が出るという森に入ったはずだ。
 でも目が覚めたら違う場所にいる。
 彼女は誰?ここは何処?
 これは夢?
 それとも、最初からすべて夢だったのか?

「どちらにせよ、君には早く体調を戻してもらわないと困るから、勝手に料理してくるわ。食欲がなくても流し込んでもらうよ?」
「………………」
「……ねえ聞こえてる?さっき一言発言したし、言葉の疎通はできているよね。何かしら返答してくれる?」
 彫像のように動かないし答えもしないアルトミセアに、女性が表情を曇らせる。しかしアルトミセアは、不可解なことばかりで一体何から問えばいいのか、そこから整理がつかなくて口を開けなかった。

 なぜなら、彼女はもう、200年は人と話してなかったのだから。

 話の順序の立て方、言葉の選び方。普通の人間は一瞬でこなす伝達の仕方が、すでに彼女の中ではボロボロに色褪せてしまっていたのだ。
 尋ねたいことはたくさんあるのに、もどかしい。少女が流麗な眉をひそめて、物言いたげに顔を上げて女性を見上げた瞬間、その音が耳に入った。
 留め具が外れ、部屋のドアが開く音。直後、女性の雰囲気ががらりと変わったのを、アルトミセアは眼前で見た。
「ああっ、レスター!あなた病み上がりなんだから無茶なトレーニングしないでって言ってるでしょお、もう!まだ貧血気味なのに~!」
 途端に猫撫で声で言いながら、ドアが開き切るか切らないかのタイミングで、女性は向こうから現れた人物に駆け寄っていた。あまりの素早い身のこなしと代わりぶりに、アルトミセアは唖然と目を瞬く。
 その人物のたくましい左腕に両腕を絡ませる女性に、その人が口を開いた。
「体がなまるのだけはご免だからな」
「もうちょっと寝ててもバチは当たらないってば~!クルセは心配なの!」
「なるべく早く体のバランスも覚えないといけないしな。お前だって困るだろう」
「うう、そうだけど……もう仕方ないわねー!でもトレーニング後はすぐに休むこと!じゃないとご飯作ってあげないからね!」
「わかったわかった」
 キャンキャン吠える犬をたしなめるような余裕の持ちようで答えるのは、大柄の男だった。20代中頃に見える。
 少女の目がだんだんと驚愕に見開かれていくのに、そう時間はかからなかった。
「あ……」
 金色の瞳が、華奢な肩が、細い喉が震える。
 暖かい部屋にいるのに周囲が一気に冷え込んだ。背筋が凍てつき、ガチガチと歯の根が合わなくなる。
 耳の奥にこびりついた咆哮が、耳鳴りのように鼓膜を支配する。
 視界に情景は映っているのに、目の前が真っ赤に染まっていく。

 ――そうだ。
 突き刺さるような冷たい雨が降り始めた中、
 血溜まりの上で、
 苦悶を噛み殺しながら、
 残った血塗れの左手をこちらに差し伸べていた、
 片腕をなくした男。

「ちょっと!大丈夫!?」
 がくんっと両肩を大きく揺さぶられた瞬間、外界の景色がやっと両目に映った。思わず息を呑んで、女性の顔を見て、はっと息を吐き出す。
「落ち着いて?凄い冷や汗。まだ体調が万全ではないから、やはり安静にしているのが一番か……レスター、水を持ってきてくれる?」
「あぁ」
 短く答え、男がベッドサイドのテーブルの上にあったコップを取ろうと近寄ってくる。男の姿が近付いてくるのを見て、アルトミセアはほとんど条件反射的に女性の服を握り締めていた。
 男を怯えた瞳で見つめ、縋るようにぎゅっとしがみついてきたアルトミセアを一瞥して、女性は男に言った。
「……彼女の病気が治るまで、この子に近付かないでね?」
「……あぁ、わかったが……俺のせいなのか?」
「そのようだけど?」
「そうか。俺のせいならすまなかった。また後でな」
 気にした様子でもなく、あっさりとそう言い、男は部屋を出て行く。その大きな背中がドアの向こうに消えたのを見届けると、安心したのかどっと疲れが出た。
 襲ってきた強烈な睡魔に手を引かれ、アルトミセアは抗うこともできず、再び眠りに落ちていた。

 

 

 

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「……ふむ。よほど衝撃的だったようね。一種のトラウマかな」
 寝起きのアルトミセアが、手渡された渇いた布で額の汗を拭っていると、何とはなしに呟いた女性の声が聞こえた。
 何のことか疑問に思って女性を見上げた途端。傍に立つ彼女は、ミントグリーンの巻き髪を揺らしながらおもむろに手を伸ばし、アルトミセアの頬を両手で包み込んで、ずいっと顔を近付けてきた。
 そっと、額と額が触れ合った。
 ――息が止まった。耳の奥で鳴る激しい心音を聴きながら、閉じられた長い睫毛をただただ見つめる。
 この両手を広げた範囲、手を繋ぐことはおろか人に指先で触れることさえ、もう300年間も隔絶されていた少女にとって、自分の領域にこうもあっさり侵入されるのは恐怖以外の何物でもなかった。脅威ではないとは理解していても、慣れた自分のテリトリーに他人がいることを、染み付いた感覚が警鐘を鳴らす。
 ただ、頬を優しく包み込む女性の両手が、あたたかかった。
「熱は下がってきたかな。やはり水分と栄養は大事ね。はい水。それより……」
 アルトミセアから静かに離れた女性は、少し安堵したように口元を緩め、水の入ったコップを差し出した。アルトミセアも同じように少し胸を撫で下ろし、コップを受け取る。そんな少女を一瞥し、女性は表情を引き締めた。
「この5日間、君の様子を看ているけど、眠っている時、決まってうなされているのよ。何か嫌な記憶を反復しているのではない?」
「………………」
 アルトミセアは、揺らした反動で水面がさざめくコップを眺めた。
 5日も顔を合わせていればわかる。この女性は聡明だ。自分のうなされている大体の理由を見抜いているし、恐らく、何の記憶でうなされているのかもきっと推測済みなのだろう。
 黙り込んだアルトミセアに返答を催促することもなく、女性はベッドの端に腰掛けて、ふと問うた。
 緩やかな話題転換。
「そういえば、言語は通じてる?あたしは混沌神語を使っているけど、君は違う?創生神語?それともまた別の言語?それなら興味深い」
「…………そんなはずがないって、わかっているでしょう」
「まぁね」
 創生神語は神の言語であり、中には人の耳では聞き取れない音も存在する。つまり人間である以上、創生神語で会話をすることは不可能だ。
 今、クルセは混沌神語で話している。しかしそれは、アルトミセアが知る混沌神語とは大幅に意味を違えていた。200年もすれば、言葉は変化する。やや彼女の口調が不思議に聞こえるのは、彼女の癖もあるだろうが、その差異もあるのか。
 それを知った上でか否か、アルトミセアが思いながら一言返すと、やはり彼女は当然のように相槌を打った。
 横座りする女性がこちらを向いた。……淡く微笑んで。
「やっと喋った」
「………………」
「5日間も看病してほぼ無言?どういうことかしら。あたし怖い顔してる?それとも単なる人嫌い?あぁ、あたしのことはクルセと呼んで」
「……私は」
「知っているよ。アルトミセア=イデア=ルオフシル。グレイヴ教団設立の数十年後に失踪した、幻の初代教皇。あたしの予想通り、不老だったのね。設立当時の15歳の外見のままかな」
「…………どう……して」
 ただでさえ、人と話すのが久方すぎて緊張しているのに、すらすらとすべてを言い当てられて動揺で頭が真っ白になる。
 すべて、200年前の話だ。教団での自分の記録は基本的に残さないように指示していたし、教団を去る際に存在していた記録はあらかた葬ったはずだ。すでに自分のことを身近に知っている人間も、この世にはいないはずなのに。
 女性――クルセはベッドから立ち上がり、ヒールを響かせて部屋を目的もなくゆっくり歩く。一歩踏み出すたびに、深いスリットの間から長い脚が垣間見える。
「簡単な推測だよ。初代教皇が表舞台に顔を出していたのは、教団創立から十年ほどまで。それ以降は存在しても、まったく姿を見せていない。何か姿を見せられない理由があったと考えるのが自然だろう。記録はすべて削除されているけど病弱だという特異な話も見当たらないし、もしそうなら、晩年になってから失踪なんて不可能だ。もう少し上手に工作するべきだったね。大司教という地位なら閲覧できない記録はゼロだから。……ああ、大司教の位は君の時代には設置されていなかっただろうね。単純に、教皇の代わりに教団を総括する職だよ。君が失踪してから誕生したはずだ」
「……え……?教団って……」
 長々とした説明の最後に付け加えられた思わぬ一言に、動揺が驚きに取って替わる。
 自分が創設し、立ち去ったグレイヴ教団。当時、すべてを総括するのは教皇だったが、確かに教皇の自分が立ち去ったなら代行の地位が必要だ。
 それが今、教団を束ねる大司教という地位。長い時を超えてきた遺跡を想うような、ほのかな懐かしい香り。
 アルトミセアは女性の黒い背中を凝視し、確信が持てる一言を待ったが、当然彼女にとっては些細な問題ではない。クルセは視線には気付かず、まったく別の方を向いた。
「そうそう、アルちゃんはまだ知らなかったかな。君を助けたあの時、レスターは深手を負って戦うことができなかった。それでも君とレスターが人喰い狼の森から生還して、今ここにいるのはなぜだと思う?」
「………………」
「あの時、あの場所には、君ら二人以外にもいたんだよ。ねぇ、あたしの知的好奇心をくすぐるお二人さん?」
 怜悧ながらも爛々と輝く銀の双眸は、部屋の隅に向けられていた。

 木目の部屋の壁を侵食する動かない黒は、人型だ。黒髪、黒ずくめの服を着た浅黒い肌の少年が、まるで静止しているように直立している。
 その隣には、光を集めたようなまばゆい白がいる。少年とは正反対の、白髪、白いドレスをまとった、透けるような白い肌の少女。少年と同じように、時が止まったかの如く微動だにしない。
 少年少女は、300年間、15歳の容姿のままのアルトミセアと同じくらいの年のかさに見えた。どちらとも無表情でまるで人形のようだが、それだけならばそれほど不可解ではなかった。
 少年は固体の黒い羽、少女は淡い黄色の柔らかそうな羽がそれぞれ耳から生えていること、少女の華奢な素足が床についておらず爪先が床から浮いていることの2点を除いては。
「誰だと思う?黒い彼はレスターが、白い彼女は君が連れてきたんだけど記憶にあるかな」
「…………まさかあの……白い刀のアルカ?」
 身一つで森に入った自分を思い出した。そんな自分が唯一持っていた、白い刀。
 元々それは、白と黒からなる一対の刀だった。グレイヴ教団で最も危険視されていたアルカ。その力の恐ろしさから悪魔の双刀(ラミアスト=レギオルド)と呼ばれるモノ。
 教団にいた当時は、リュオスアランを持つ自分が肌身離さず持つことで管理していた。教団を去る時もそれだけは変わらず、200年間、ずっと自分が所有していた。
 白(イロウ)だけは。
「そのようだね。どうやらレスターが持っていた黒い刀と一対の存在だったようだけど、知っていた?」
「……ええ。遥か昔……回収する時に……片方、行方不明になってしまって」
 クルセの興味津々な視線に気付かないまま、アルトミセアは信じられない気持ちで白い少女と、隣の黒い少年を見比べた。
 黒(イクウ)は、300年前、回収時に紛失し、ずっと行方知れずだったのだ。もはや幻と化した存在を見つめ、アルトミセアは複雑な想いに駆られる。
「ふふ、ということは300年ぶりにその双刀がここに揃ったというわけか。ロマンを感じるね」
「……最も凶悪とされていたアルカを紛失したことは、教団最大の過失よ」
「だから君は、それを隠蔽した」
「……ええ。イクウの存在を、私はもみ消した。まだ創設したばかりの頃だったから、それが公になったら教団の存亡に関わる。……それに、人々に不安を与えるだけだから」
「そのアルカが人型になることは?」
「……知らなかった」
「ふむ。君たち、喋れるの?言語は通じている?意思はある?名前は?その耳も気になるな」
 顎に人差し指を添えて、クルセはつかつかと二人に近付きながら立て続けに問いかける。彼女の無遠慮な視線を一身に浴びる二人のうち、黒い少年が口を開いた。
「アルカは相手の言語に合わせて話す」
「へぇなるほど、それは便利だ。神の一端ではあるからか。なら君たちが他のアルカと違う理由を聞きたいな?」
「アルカはオースが集まって形成される。その時に周囲の記憶や思念も吸い上げて人格が形成された。俺達が生まれたのはナシア=パントの最奥」
「それは面白い。アルカが意思を持つか。感情……は、まだかな」
 もとより研究者肌なのだろう、クルセはアルカの二人に活き活きと質問を投げかけていく。
 アルトミセアはそれをぼんやり眺めて、何とはなしにそっとベッドから足を下ろした。少しだけふらついたが、裸足のまま、ぺたぺたと歩いていく。クルセはアルカの二人にすっかり気をとられていて、背後を行き過ぎていくアルトミセアの動きには気付かず。
 しっかり立って歩いたのは、発熱で寝込んで以来――つまり5日間ぶりだった。

 この場所は、アルトミセア教国の東、ナシア=パントの領域と面する小さな村らしい。どうやらここは、その村にあるこじんまりとした教会のようだ。
 グレイヴ教団のタペストリーが壁に飾られている、質素な板張りの廊下。その先にあるドアを押し開くと、広い空間に出た。
 ――ああ、これは、かつて自分を取り巻いていた空気だ。
 ステンドグラスを抜けてきた日光が床に色鮮やかな光を差し込ませる礼拝堂。セントラクスの大聖堂ほどの規模はないが、そこに漂う気配に大差はない。
(……懐かしい)
 その空気に影響され、忘れかけていた遥か遠い遠い昔の出来事が脳裏にひらめいていく。
 浮かんでは消え、浮かんでば消え。
 掴もうとした瞬間に消えていく、色褪せた記憶。
 でも、
(―――どうして)

 何も・・思い出せない・・・・・・

「もう歩いて平気なのか」
 その声に、意識が呼び戻された。
 大分良くなったとはいえ、元々の発熱に記憶の混乱が拍車をかけ、アルトミセアには周囲がまったく見えていなかった。
 呆然と辺りを見ると、どうやら必死に記憶を思い出そうとしながら、礼拝堂の奥まで続く長椅子の間の通路を歩いていたらしい。その中ほどで立ち尽くすアルトミセアに、再度声がかけられる。
 服がたなびく音とともに、目の前が陰った。
「アル…………忘れた。なんて言ったか。アルでいいか」
 琥珀色の一つ目が、高いところから見下ろしてくる。
 目の前に着地してきたのは、人喰い狼の森でアルトミセアを救った茜色の短髪の男――レスターだった。
 ――拒絶反応のように、少女の肩が跳ねる。
 男の茶色のロングコートの右腕部分は、空っぽのままなびいている。
 初めて見た時には、あったはずの右腕が。
 ない。
 足が竦んでいるアルトミセアの前で、レスターはおもむろにしゃがみ込んだ。立っているアルトミセアより目線の高さが低くなったレスターは、表情が凍りついている少女に問いかける。
「聞きたかったんだが、アルは俺が怖いのか?それとも、右腕がなくなったのはあんたのせいだと思ってるのか?クルセと同じで」
「………………」
「それについて、どうしてもあんたと話がしたくてな」
 ――怖い?
 自分は、この男が怖いのか。

『……ふむ。よほど衝撃的だったようね。一種のトラウマかな』
『この5日間、君の様子を看ているけど、眠っている時、決まってうなされているのよ。何か嫌な記憶を反復しているのではない?』

 覚醒してすぐ、クルセが投げかけてきた言葉が頭を過ぎった。どうやら新しい記憶はちゃんと思い出せるらしいと頭の片隅で思いながら、今レスターに問いかけられた言葉も合わせ、アルトミセアはすとんと納得していた。
 そうだ。私は、この男に言わなければいけないことがあるんじゃないのか。
 凍りついていた喉が、微動した。
「―――――ごめん、なさい」
 ここに来てから初めて、この男に向けた第一声。
 それを口にした途端、堰を切ったように言葉が、涙が、溢れ出した。
 自分さえも整理がついていない想いの大氾濫。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!! わた、わたしのせいで、腕が、」
「お前のせいじゃない」
「腕が、なくなって、わたしのせいで!! なんで!? どうして!?」
「………………」
「助け、なくて……よかったのに!わたし、消えたかったのにっ……!わたし、なんか、助けるから……!!」
 純粋な負い目の気持ちがすり替わり、いつしか男を責め立てていた。
 この長い長い時間に終止符を打つために森に行ったのだ。
 それなのに、助けられて、しかもその人はそんな自分のせいで腕を失い。
 まるで、お前は死ぬことは許されないと言われているようで。
 金色の双眸からこぼれ落ちる大粒の涙。両手で顔を覆って立ち尽くすアルトミセアの両耳に届いたのは、優しい言葉でもなく、叱咤の言葉でもなく。
 関心が削ぎ落とされた、淡々とした声音だった。

「お前、大嫌いだ」

「…………………………………………え?」
 思わず、濡れた顔を上げ、呆然と男を見返した。瞳に溜まっていた涙が一筋、頬を流れ落ちる。
 話の脈絡が見えない。驚きで涙さえも止まってしまった。ただただ疑問でいっぱいで立ち尽くすアルトミセア。
 一方のレスターは、そんなアルトミセアの視線は無視で立ち上がった。そしてそれ以上を語ることなく、彼女には一瞥もくれず、礼拝堂を後にした。
 静まり返った礼拝堂で、少女は一人、立ち尽くすことしかできなかった。