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43 祈りの夜

「本当に、夢のようだわ」
 30代くらいに見える、ストレートな長い金髪の女の人が、優雅な手つきでフォークを扱いながら微笑んだ。彼女の視線は、テーブルの正面、私の隣に座るノストさんに向けられている。
「ディアノストとまた、食事をともにすることができるなんて」
「……大げさだろ」
 女の人……お母さんであるアリシア様の、本当に嬉しそうな言葉に、ノストさんは食後のティーカップを持ち上げて言う。さすがにご両親には普通の受け答えらしい。
 白いテーブルクロスのかけられたこのテーブルの上座には、短い銀髪の40代くらいの男の人が座っている。その人がノストさんのお父さんで、レミエッタ公爵家の現当主ラスタ=アラン=レミエッタ様だ。
 彼もすでに完食していて紅茶を飲んでいる。……ノストさんの早食いぶりは遺伝みたい。貴族って、ゆっくりお食事を楽しむイメージがあったんだけど……この家が特殊なだけかな。

 カルマさんから、3年前の事件を聞いた後。
 私とノストさんは、帰ってきたラスタ様、アリシア様と一緒に夕食を食べている。私はお客さんだからここにいられるけど、カルマさんはこの屋敷に雇われる身だから、一緒に食事することはできないらしい。うーん……なんだか難しいね、貴族って。
 夕食のメニューは、よく知らないお魚さんのムニエルと、野菜がいろいろ入ってるグラタン、鶏ガラのポトフ。多分、お魚好きなノストさんに合わせたんだろう。
「………………」
 フォークでとった一欠けらのグラタンを口に運んで、私はふと、カルマさんの話を思い出した。

 ……聞いて、よかったのかな。
 3年前の事件を聞いて、ずっとそんなことを思ってる。
 お父さんは、スロウさんに殺された。そしてノストさんは、スロウさんを殺したがっている。……やっぱり仇だから、だと思う。
 あの時に、ノストさんは「剣聖」の名を受け継……がされた。それに対して、同じ『剣』を継ぐ者のスロウさんは、自分を「剣魔」って名乗り出したらしい。
 本当は、剣術で師のお父さんに勝った方が「剣聖」を継ぐはずだったそうだ。だけど、お父さんは、スロウさんの死光の力で死んでしまった。……だから結局、本質的にはどっちが「剣聖」に近いのか、わからず終いなんだそうだ。
 想像以上に、ノストさんとスロウさんの関係は、濃くて、黒くて……。
 私なんかが、知ってよかったのかな……。
 私がそんなことを考えつつ、グラタンの表面がまだある部分にフォークで刺した、その瞬間!

 ズギュゥッ!!

「っ~~~!!!??」
 突然、左足の足の甲を誰かに思いっきり踏まれた!しかも、ついでと言わんばかりに、ぎゅう~っと踏みにじって!
 振動でフォークの先が揺れ、グラタンの表面が破れてがばっと大きな穴ができた。もわっと湯気が立つ。
 やったら痛くて叫びたかったけど、ラスタ様とアリシア様の前だってことを思い出して、うつむいてプルプル震えながら、かろうじて声だけは押さえた。その分、顔に熱が走って熱くなる。
 そんなことやらかす人なんて、一人しかいない!そりゃもう手加減のない一撃に、私は涙目で左側をキッと睨みつけた。そこには、涼しい顔でジャーロンティーを飲んでいるノストさん。
「ディアノスト、そういうことは後でしろ」
 ジャーロンティーのカップを片手に持ったまま、ラスタ様が言う。うっわ、ノストさんがさり気なく注意されてる……!
 というかラスタ様、テーブルクロスで見えないはずなのに、何が起きたかわかったんだ!? アリシア様もなんだかわかってるみたいだし!ま、まさか、アリシア様もブリジッテ様みたいに、意外と強いとか!?
「の、の……の、ノストさんっ?な、ナンデスカ~?何か恨みでもアルンデスカー?」
 まだヒリヒリと痛むを足をイスの下に引っ込めて、私は叫びたい衝動を押さえながら、できるだけ笑顔でノストさんに訳を聞いてみた。ぼ、棒読み……多分、口元が引き攣ってるに違いない。
 ノストさんは、こういうところだけ貴族っぽく、ゆっくり紅茶を飲みながら答えた。
「馬鹿がもっともらしく悩んでも、馬鹿な結論しか出ねぇ」
「うっ……そ、それは、確かにそうかもしれませんがっ!馬鹿だって考える時があるんですー!」
「例えば?」
「……きょ、今日の夕飯、何にしようかな~……とか……」
「所詮凡人か」
「所詮凡人ですよぉ……」
 と、普段通りそう言ってしまってから、はっと慌てて口を押さえた。
 前を見ると……何も聞いていないような、目を閉じて紅茶を飲むラスタ様と、驚いたような顔でこちらを見るアリシア様。……う、うう、この二人の前だって忘れてた!なんか恥ずかしい!
 私が赤くなる顔を隠すのも兼ねて、うつむく感じでグラタンに再び視線を落とした時。
「……事情は、カルマからすべて聞いている」
「………………」
 ジャーロンティーを飲み終わったらしく、ラスタ様はカップをソーサーに無音で置き、その紫紺の鋭い瞳でノストさんを見て言った。うむ、やっぱり親子、目つきが似てる。
「アリシアも言っただろうが、お前がどうなろうと、ここがお前の家であることには変わりない。慣れない遠慮など今更してどうする」
 厳しい口調だったけど、ノストさんのことをやっぱり心配してるんだっていうのがよくわかった。というかノストさん、これでも遠慮してたんだ……!き、気付かなかった……。
 でもノストさんは、その優しさが逆に苦しいみたいな感じだった。不老……ただそれだけなのに、とっても重い理由で。
 黙り込んでしまったノストさん。カップをソーサーに置くそんな彼に、ラスタ様はわかっていたような口調で言った。
「永久の栄光よ」
 永久の……栄光?何だろ……肩書き?ノストさんに向かって言ってるけど………………って、あ、あぁああーーっ!!?
 ほ、ホントだ!気付かなかったけど、ディアノスト=ハーメルって混沌神語で<永久の栄光>だ!うわぁ……なんかカッコいい名前……!言われてみれば、ラスタ様も、高潔なる域ラスタ=アラン=レミエッタ様だ!
「出ていくのだろう、この家を」
「えっ?」
「…………あぁ」
 思わず、私が声を上げてしまった。私がでしゃばっていいシーンじゃないって、慌てて口を押さえる。
 隣のノストさんを横目で見ると、彼は父であるラスタ様の紫紺の眼を無言で見返していた。
「……え……?そんな……嘘よね?ねぇ、嘘でしょう?」
 そのラスタ様の言葉に遅れて反応したアリシア様。フォークとナイフを置いたところだったアリシア様は、縋るような表情で、ラスタ様とノストさんを交互に見ながら言う。
 アリシア様だって、嘘じゃないってわかっているんだ。ただ、認めてしまうのが嫌で。
「また、一緒に暮らしましょう?それとも、何か不満なの?」
「……アリシア、お前も聞いている通り、ディアノストは今、不老の体だ」
「それがどうしたというのです?わたくしは、ディアノストが不老でも構いませんわ!」
「お前はいいだろう。だが、ここにいて、それを一番苦しむのはディアノストだ」
「……!!」
 ラスタ様にはっきり言われて、アリシア様は、ようやくそのことに気付いたようだった。私も、ノストさんに言われて気付いたから、人のこと言えないけど……。
 アリシア様は少しの間、言葉を失っていたけど、そのうち悲しげな表情をして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……そう、ですね……わたくしは……自分のことばかり……」
「アリシア様……」
 ……そりゃ、つらいよね。やっと会えた息子さんと、また一緒に暮らせると思ったのに、また別れちゃうなんて。しかも二度と帰ってこないなんて。
 寂しいけど、ノストさんのためだって、納得してくれたアリシア様を見て、ラスタ様が話を元に戻した。
「……そういうことだ。出ていくのなら出ていくがいい。止めはしない」
「ええ……ディアノスト、好きになさい。ですが……貴方の家がここにあったこと、わたくし達がいたことを……どうか忘れないで」
「………………」
「あっ、ノストさん……!」
 ラスタ様とアリシア様のその言葉を聞くなり、ノストさんは席を立ち、部屋から出ていこうと扉の方へ歩いていく。グラタンを食べ終えて、あとちょっと残っているポトフを飲もうとしていた私は、ノストさんを追おうと腰を浮かしかけ。
「あ、待ってステラさん。ちょっといいかしら」
「は、はい?」
 アリシア様に呼び止められた。思わずアリシア様に顔を向けてから、はっとノストさんを振り返ったけど、その頃には、すでに彼は扉の向こうへと消えていた。
 ……とりあえず、再びイスに落ち着く。大体、ノストさんを追いかけてどうするつもりだ私。ちょっと冷静になった私は、さっき伸ばしかけた手を、またポトフの皿に伸ばす。
 ジャーロンティーを優雅に飲むアリシア様は、ノストさんと同じ色で、でもノストさんと違って優しげなダークブルーの瞳を私に向けて言った。
「貴方は、ディアノストのお客様となっているけれど……本当は、どういう関係なの?」
「え、えっ?ど、どういう関係って……」
 ……私が聞きたいよ。
 私と、ノストさん。どういう関係なの?
 庶民と貴族。凡人と剣士。それとも賞金首仲間?
 ……うーん。
「えっと……私もよくわかんないんですが。とりあえず……旅仲間ではあるんじゃないかなーとは思います……」
 返答に困った私は、一番無難かと思う関係を言った。するとアリシア様は、「そうなの?」と意外そうな顔。
 え?と私が逆に首を傾げると、ジャーロンティーも飲み終わったのに席についたままだったラスタ様が口を開いた。
「ディアノストのことだ。何も言っていないのだろう」
「ふふ……そうかもしれませんね」
「あの……??」
 ポトフを完食した私が、スープ皿をできるだけ静かに置きながら首を傾げると、上品に笑っていたアリシア様が答えてくれた。
「大丈夫。貴方が思っている以上に、ディアノストは貴方のことを認めているわ。あの子にとって貴方は、きっと旅仲間なんて些細な関係じゃないはずよ」
「え!ま、まさかっ!有り得ないです!」
「そう?貴方に対する時と、わたくし達と対する時、口数が違うもの。あんなディアノスト、ヒースさん以来よ」
「お、お父さん以来……ですか?で、でも……本当に、そうでしょうか……」
 嬉しそうなアリシア様の言葉に、私は、ごもごもと自信なさげにそうしか言えなくて。

  『アイツ、倒れたキミのとこに、真っ先に走っていったんだよ。何食わぬ顔してたけど、ちょっと心配してたみたい』

 マオ山道で、シャルさんに言われた言葉。そして今、アリシア様に言われた言葉。
 本当だったら嬉しいって素直に思うけど……やっぱり、どっちも、すぐに信じられなくて。どうしてもそんな思いが前に立っちゃって、喜べない。
 どうしてすぐに、信じられないんだろう?
「貴方はさっき、出ていったディアノストのことを、とっさに追おうとした。……貴方は……ディアノストのことを、信じているのね。だから、少しでも力になれるのなら、なりたいと思っている」
「………………」
「でも貴方は……彼から何も聞いていないから、自分が信用されているかわからない。私がこう言っても、貴方がすぐに信じられないのは、証拠がないからでしょう?ディアノストは人を頼らないものね。あの子がそういう子だと言うのはわかっているけれど……貴方は、不安なのね」
「…………は、い……」
 いつの間にかうつむいていた私の耳に、アリシア様の優しい声が響く。言い当てられたその気持ちに、私はこくりと頷いた。
 ノストさんは人を頼ろうとしない。それは、今までの付き合いからわかってるんだ。
 だけど……なんだか寂しくて。信用されてるのか、されてないのか、いまだにわからない。
 ただ自分が許せないから頼ってくれないのか、私を信用してないから頼ってくれないのか。何も言ってくれないから不安なんだ。
 もし、信用してるなら……もっと頼ってほしい。って言っても、私にできることなんて限られてるけど……。
 言い表せないほど小さな、羽音のような音。多分……カップをソーサーに置いた時の、かすかな振動。私がゆっくり顔を上げてみると、カップを置いたアリシア様は私を見て言った。
「なら、証拠を掴んでみたらどうかしら?」
「……え……?」
「ディアノストに聞いてみなさい。本人の語ることが、何よりの証拠になるわ。単刀直入に、自分のことをどう思っているのか。あの子のことだから、はぐらかすかもしれないけれど……貴方が不安に思っていることを正直に喋れば、ディアノストも思っていることをちゃんと喋ってくれるはずよ。あの子はそういう子だから。ラスタ様によく似て、ね」
「……アリシア」
「ふふ、事実ですもの」
 少し照れ臭かったのか、最後の言葉を咎めるようにラスタ様が口を挟んだ。アリシア様はおかしそうに、口元を覆って微笑む。
 ……アリシア様の言う通り、私が素直に話せば、ノストさんはちゃんと答えてくれる。そんな気がする。
 でも……あいにくと、私には勇気がなくて。
 私はいつも、彼に助けてもらっている。外敵からはもちろん、私が落ち込んでいたりすると、たった一言だけど言葉をくれる。その言葉から何かを導き出して、私は立ち直ることができた。
 だから……本心では本当に感謝してる。お礼は言ってるけど、どうしても安っぽく聞こえちゃうから。だから私は、彼のことを信じてる。
 だけど……彼が私を信じてくれているのか、認めてくれているのかと思うと、自信がない。
 どうしても、アルフィン村のみんなの無表情が過ぎる。私は信じてたのに、彼らは信じてなかった。私は……同じ村の人間でも、結局は他人同士だって、そういうことに気付いてしまった。
 だから……聞かなきゃよかったって、後悔するような言葉だったら、怖い。
 それに私は、それを知りたいのか知りたくないのかって聞かれたら……迷ってしまうと思う。
 私は、今の関係を壊したくない。「ステラ」として存在を認められているのなら、それでいいかなって。
 何よりも、彼の心の内に踏み込んでしまうような、そんな行為が……怖い。
 でもやっぱり、知りたいとも思う。自分の立場を明らかにするためにも。
 いろいろな気持ちがごちゃ混ぜで、自分の中で矛盾が起きてる……そんな感じ。自分がどうしたいのか、よくわからない。
 お父さんが、何も知らないことを幸せの定義にした理由……少し、わかる気がする。
 今までのすべてが壊れてしまうことが……変化が、怖いんだ。
「………………」

 ―――――私は……

 

 

 

  //////////////////

 

 

 

 ピアノ弾きたいなんて、初めて思ったかもしれない。
「………………」
 昼間とはまた違った顔をしている、真っ白でピアノしかないあの部屋。
 ここには照明がないらしく、ガラス張りの面から差し込む月の光が床を反射し、普通なら暗闇になるこの部屋の闇を緩めていた。
 月明かりに照らされながら、貸してもらっているネグリジェ姿の私は、目の前の白い鍵盤を見下ろした。そして、片手をのせて、昼間と同じ曲……『祈りの夜』を弾き始める。
 『祈りの夜』っていうタイトルの通り、夜に弾くと違う印象を受けた。広がる音達は、月光の中、幻想的に響いて、部屋の静かな空気に吸い込まれていく。
 ピアノはあんまり触ったことがないから、当然だけど得意じゃない。だけど、なんだかまた、この世界に浸りたくなった。
 ノストさんが思いつめた時、ここでピアノを弾いていた気持ちが、なんとなくわかる。……実際に今、いろいろと思い悩んでいる私は、ここでピアノを弾きたいって思ったから。
 そして、『祈りの夜』が、最後の音を紡いで消えていき……この部屋に、静寂が戻る。
「ヘタクソ」
「……でも、お昼より少しマシですよ」
 その静寂は、本当に一瞬だけだった。音が消え切ってからすぐにかけられた、昼間と同じ背後からの一言に、私は前を向いたままそう答えた。
 全然、驚かなかった。なんとなく、そこにいるような気がしてた。
 ううん……逆、かな。私はきっと、彼を待っていたんだ。このヘタクソな音色を聞きつけて、彼が来てくれるのを。
「……ノストさん」
「……何だ」
「ノストさんにとって……私のお父さんって、どういう存在だったんですか?」
 ピアノの白い鍵盤を見つめて、私は、そこにいるだろうノストさんに聞いた。
 私が興味本位で聞いているわけじゃないと感じたのか、薄闇の中、少しの間があって、ノストさんは口を開いた。
「……出会った人間の中で、ヒースは唯一、父上以外で、俺より強かった。俺は、アイツを負かすことだけ考えていた」
「でも……その前に、お父さんは、死んでしまった……」
「………………」
「ノストさんは……スロウさんを、殺したいんですよね。……お父さんの、仇……だからですか?」
 耳に届く、ノストさんの声。顔を見ないでの会話。……なんだか、ノストさんと初めて会った、イクスキュリア城の地下牢を思い出す。
 あの時は、誰もいないと思った場所に、たまたまノストさんがいただけで、嬉しかった。一人じゃないって。
 だけど、今は……あの時、隣にいたのがノストさんだったっていうことが、嬉しい。他の誰かじゃなくてよかったって。
「……それもあるが、アイツを殺せば、すべて終わる」
「お父さんと、スロウさんがやり始めた……ゲーム、ですか?」
「あぁ。……ヒースは結局、何も言わないまま死んだ。はっきりしていることは、アイツがグレイヴ=ジクルドを破壊しようとしていたことだけだ」
 ……グレイヴ=ジクルドを、破壊。一体、お父さんは、どうやって壊そうとしてたんだろう。
「じゃあ……その遺志を継ぐんですか?」
「……いや。何も知らない以上、俺にはできねぇ」
「あ……そうですね」
「できるのは、敵を潰す程度だ」
「だから、スロウさんを殺そうとしている……ってことですか」
 ノストさんは……仇がどうのって話以上に、スロウさんは倒さなきゃならないって思ってるんだ。
 ……何て言うか……ノストさんらしい。あまりはっきりとは言わないけど、彼にとって、ヒース=モノルヴィーという人は、目標そのものであり、剣の師であり……憧れで。とにかく、大事な人で。
 そんな人が誰かに殺されたら、やっぱりその誰かを恨まずにはいられない。ノストさんだってそうだ。お城でスロウさんと戦って膝をついた時の瞳を、私はまだ覚えてる。
 だけど彼は、事実だけを受け止めている。
 スロウさんを倒せば、そのゲームが終わるということ。
 グレイヴ=ジクルドを破壊すれば、お父さんの望みが叶えられるということ。
 だけど、何も知らない自分に、グレイヴ=ジクルドを破壊することはできないということ。
 そこまで考えた上で、自分が何をすればいいか、ちゃんとわきまえている。感情は……そのまた次なんだ。
 ……少しだけ、憧れる。私は、ほとんど気持ちで動くから。
 オルセスで、何も明かしてくれないノストさんとサリカさんに、不安が溢れてひどいことを言った。言いたくないんだろうなってわかってたのに、自分で感情をコントロールできなくて、言ってしまった。あの出来事は、未だに私の心に陰を落としてる。
 あんな出来事、もう繰り返したくない。だから……少しだけ、憧れる。
 でも、憧れているだけじゃダメだから……ほんのちょっとだけ、踏み出してみるよ。

 鍵盤から目を外し、楽譜を置くところに視線を上げる。
 一度、目を閉じて……目を開いた時には、迷いはすべて断ち切っていた。
「ノストさん」
「………………」
「前に、オルセスで……私が、どうして守ってくれるんですか?って聞いたら……罪滅ぼしだろうなって、そう言いましたよね。それは……近くにいたのに、お父さんを助けられなかったってことでしょう?だから……残された娘の、私を守ってくれた」
「………………」
 できるだけ、はっきりした口調で。私は背筋をピンと伸ばして、振り返らずに言う。
 カルマさんの話を聞いてから、その言葉の意味がわかった。だから……わかってしまったから、怖い。
 でも、事実を。事実を……知りたいから。
 きゅっと膝の上で両手を握り締め、私は……聞いた。

「―――――私は……ノストさんにとって……罪滅ぼしの相手でしか、ないんですか……?」

 声に出して……自分の言葉に、ショックを受けた。
 言葉は、自分の気持ちを伝えるためにある。言葉がなければ、気持ちを伝え合うことはできない。
 だけど、それと同時に……どんなに些細で、どんなに繊細な思いでさえも、言葉ははっきりと象る。だから、輪郭がはっきりしない本当に小さな不安も、言葉にすると、そう認めざるを得なくて。……それは、時として残酷だ。

 ……静かだった。
 返答も、物音も、ピアノの音もしない、無音の世界。
 惜しみなく降り注ぐ月の光だけが、私とピアノと……多分ノストさんを、優しく照らしている。

 ……ノストさん……どうして、答えてくれないんだろう。何も言ってくれないんだろう。
 やっぱり、それが本当のこと、だから……?事実だから?
 ……うん……そう、そうだよね。その程度でしかないって、最初からわかってた。わかってた、けど……何処かで、やっぱり期待してた。
 甘い。……昔、ノストさんにも言われた。考え方が甘いって。
 私は……罪滅ぼしの相手でしか、ないんだ……。
 ………………その瞬間!!

 ガッ!!

「ひゃっ!?」

 がだんッ!!

「~~~っったぁー……!!」
 イスを揺さ振られたのかと思ったら、違った。イスの背もたれが、強い力で引っ張られたんだ!そりゃもう、イスが倒れちゃうくらいに!
 イスと一緒に背中から床に着地した私は、腰をちょっとばかし打って思わず声を上げた。う、うう……こ、腰があぁあ。前からはともかく、後ろからなんて初めてだよ……!耐性なんてあるわけないじゃん!
 イスの背もたれを下敷きにする形で仰向けになった私の瞳に、初めてノストさんの顔が映り込んだ。
 ノストさんは、私の頭の天辺の方にしゃがみ込んでいるらしく、彼の顔は、私の視界に逆さまに映っていた。もう寝る時間だからか、いつもは結っている髪が下ろされていて。仄暗い中でも、やっぱりその白貌はよく見える。
 床にぶつかる直前、一瞬背もたれを支えて少し衝撃を緩めたのは、この人なりの気遣いというか。そうするくらいなら、最初からしなきゃいいのに……もしかして、返答がなかったのは、ただ単に、私の背後に忍び寄っていたから!? そ、そうかも……!
「な、何するんですかッ!! 今、がっぽり年単位で寿命縮まりましたよ!何か恨みでもあるんですかっ!!」
 いや、あるかもしれないけど!私がノストさん働かせちゃってることとか、ご飯食べるの遅いのとか! ……か、関係ないか!
 いつもなら、何か一言二言返ってきてもよさそうな言葉だった。だけどノストさんは、私をじーっと見たまま無反応。
 何だろ?って思ったら、視界がちょっとだけ滲んでいることに気付いた。私ははっとして目を裾で覆い、少しだけ浮いていた涙を拭く。
「……まだ何も言ってねぇぞ」
「そ、そうですけど……返事、ないから……」
 そうなのかなって……思って。ちょっとだけ……ううん、凄く、悲しくなって。知らないうちに、涙目になっていたみたい。ノストさんはそれに目を留めていたらしい。
 涙を拭くために手で目を覆ったんだけど、ノストさんと目を合わせるのがなんだか気まずくて、私はそのまま目を隠した格好で小さくそう言った。
 視界が真っ暗で、何も見えない。そのくらいがちょうどいい。……今は、特に。

「―――――俺は……ここには、二度と帰ってこないつもりだった」

 すぐ上から、ノストさんがぽつりとそう言うのが聞こえた。
 ……私の問いの答えじゃ、なかった。なんとなく安心して、瞼の裏の世界に身を委ねた私は、静かに彼の声に耳を傾ける。
「不老だってことを除いても、3年前、ここから出た時点で、俺はもう帰らないつもりだった。どちらにせよ、不老になった以上、ここには帰れない」
「………………」
「……お前に世話焼いたのは、確かにそうだ。お前からウォムストラルを奪わなかったのも、寄ってくる奴ら無償で潰していたのも」
「っ……」
 ……やっぱ……り。ぐっと、目を押さえる手に少し力が入る。
「……だが……」
 『だが』……?まだ……続きが、あるの?
 ノストさんは何かを言いかけて、やっぱりやめたように、そこで言葉を止めた。私が不思議に思って、指の隙間から、ちょっとだけノストさんの表情を窺ったら、彼のダークブルーの瞳とばっちり目が合って、

≪最初は、本当にそれだけだった≫

 ………………え?
 目が合った瞬間、頭に流れ込んできた声。

≪だがそのうち、コイツについて歩くのが当然のようになっていて≫

 これ、は……まさか……、
 ……ノストさんの、心の声……?

≪コイツの隣が、居場所のようになっていた≫

「……おい」
「え……あ、……その」
「?」
 ノストさんに声をかけられて、はっと我に返った。
 大きく目を見開いて、指の間から見つめてくる私を訝しがったらしい。声をかけられた私は、慌てて指を閉じて再び目を隠した。だけど、どうしたらいいのかわからなくて、手の下で顔が熱くなるのがわかった。
 ………………どうしよう。涙、出てくる。
 バレないように目は押さえていたけど、鼻をすすったら、すぐバレた。
「……何だ、さっきから」
「…………あ、あの……さっき……目、合ったら……っ、ノストさん、思ってること……聞こえ、ちゃってっ……」
「………………」
「ごめん、なさい……っ」
 ……正直に、話した。しゃっくり混じりの私の言葉に、ノストさんは、何でわかったんだとか、突っ込まなかった。それ以上に、自分の内が覗かれたっていうのが不愉快だったのかもしれない。
 私も、ノストさんの思ってることを聞いちゃったなんて、なんだかノストさんの心の内に土足で踏み込んだような気分で、嫌だった。
 ……でも、聞こえてきた言葉が、凄く嬉しい言葉であったのも確かで。
「でも……嬉しい、ですっ……」
 だから、ボロボロ涙が出てきて、ボロボロ泣いた。こんなに泣いたの、久しぶりかもしれない。
 喉がつっかえる。仰向けだから尚更だ。そのせいで喉が詰まって、視界を閉ざしたまま咳がしたら、ぐっと体が起き上がった。ノストさんがイスを起こしてくれたらしい。イスの前足が床につく感覚がして、ようやく私は元の体勢に戻る。

 私は……居場所って、思われてるんだ。
 ……嬉しかった。嬉しくて、涙が溢れてくる。胸が熱い。
 ノストさんには帰る家がない。居場所がなかったんだ。
 だから……いつの間にか、私の隣にいるのが当たり前になっていて。そこが居場所のようになっていて。
 ……それは、私だって同じだ。

 それで、私は気付いた。
 ブリジッテ様と、ノストさんが並んで歩いていた光景。私は寒気まで感じて、それが嫌だと思った。
 私は……ブリジッテ様に、居場所をとられてしまうみたいで嫌だったんだ。
 自分の唯一の居場所を、とられてしまうのが……怖かったんだ。
「じゃあ……ノスト、さん……」
「……何だ」
 しばらく経ってから落ち着いてきた私は、涙をずっと拭っていた手を静かに下ろして、後ろにいるだろうノストさんに声をかけた。
 そこで、私は初めて、自分から振り返った。青白い月光に照らされた、2歩くらい後ろに立っているノストさん。
 相変わらずの無表情。他人には無関心だし、態度はデカイわ口は悪いわ、いろいろ振り回されっぱなしだけど……妙な場面で意外と優しかったり、物事をしっかり考えていたりするのを、私は知っている。

 本当に、本当に。お世話になりっぱなしの、そんな彼に。
 私は、これ以上ないくらいの……安心しきった笑顔を浮かべて、言った。
「これからも……隣に、いて下さい。私も……村から追放されてて、居場所なんて、なくて……ノストさんと、同じですから」
「………………」
「つらくなったら……いつでも、いなくなっちゃって構いませんから」
 今はまだ、居場所として見られているけど……ノストさんは……いつか、そう遠くないうちにいなくなる。
 だって彼は、不老。私は、普通の人間。この家にいるのがつらくなるように、私の隣にいるのも、そのうちつらくなる。
 その時が来るまでで、いいから。

 この人の隣にいたいって……そう、祈っててもいいかな?