nostalgia

36 ピアノが語ること

≪貴方は、何でもできるのね≫

 ……まただ。
 教会のステンドグラスをそのままはめ込んだような絵が描かれた、光を反射するツルピカの床。左手には窓が続く壁、右手にはドアが続く壁。
 歩く度に足音が遠くまで反響する、そのまっすぐな廊下を歩いていた私は、そう思って足を止めた。

≪きっと優秀なお子になられますよ≫

 別々の、二人の女の人の声。後ろを振り返るけど……やっぱり、誰もいない。部屋を掃除しているメイドさんが、掃除用具を持って隣の部屋に移動しただけだ。
 昨日、女の子の声を聞いてからというもの、こうしていきなり声が聞こえる。誰の声なのか、何を話してるのか、全然わからないまま、突然聞こえてくる声。
 もしかして幽霊!?とも考えたんだけど、不思議と怖くはない。むしろ心が穏やかになるような、そんな声達。
 朝起きて、やっぱり豪華な朝食を食べてから、私はノストさんに、屋敷見学してもいいですか?って聞いた。勝手にしろって言ってくれたから、こうして一人で探検中。
 今は、屋敷を正面から見て左側にある建物の1階にいる。この建物の1階はすべて客室らしく、私もその中の1つに寝てる。フッカフカの布団が気持ち良いんだよ!
 差しかかった、上へ上がる階段。踊り場のあるその階段をのんびり上って2階へ上がって、同じような作りの廊下を歩く。コツコツ響き渡る足音が気持ち良い。
 そうして一番最初に差しかかった、左側のドア。なんとなく周囲を見て誰もいないのを確認してから、ガチャっと片開きのドアを開いた。私はコソドロか!と内心で自分に突っ込みながら、中を覗いてみて……私は、静かにドアを閉めた。
 ……いや、剣の一族だからあって当然なんだと思うけど。大中小、いろんな剣がたくさん置いてあった……なんかこの部屋だけ、雰囲気違うよ……。
 そのドアから離れて、また先を歩いてみる。次に差しかかったのは、両開きの扉。さっきの武器庫のドアより、取っ手の装飾が凝ってるのを見ると……誰かの部屋なのかな。も、もしかして公爵様の部屋だったり!? あ、開けていいのかな……うーん。
 と、私が扉の前で悩んでいると……ガチャっと、目の前でその扉の片方が開いた!
「ひゃああっ!! ごごご、ごめんなさいい!!」
 まさか人がいるなんて思ってなかったから、完全に不意を突かれた。
 心臓が飛び跳ねたと思ったら、私はばっと飛び退き、ガバッと頭を下げて謝っていた。我ながら素晴らしい反応速度!
 床を見つめてドキドキ相手の返答を待っていると、少しの間があって、クスクス笑う声がした。え……?と、恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは、ホウキとバケツを持った、黒いワンピースの上に白いフリルエプロンをつけたメイドの女の子だった。
「め、メイドさんですかぁ……はぁ、びっくりしたぁ……」
「ふふ、ステラ様、ですね?大丈夫ですよ、私以外いませんから」
 メイドさんは私の反応が面白かったらしく、笑いながらそう言ってくれた。いや、それはいいんだけども……何で「様」づけ!?
「あ、あの……『様』なんてつけなくていいですよ。私、庶民ですし」
「いえ、貴方はディアノスト様のお客様ですから。貴族でも平民でも、お客様なら『様』ですわ」
「あ、そ、そうですか……」
 なるほどね……お客様なら、誰でも「様」ってわけか。くっ、納得しちゃったよ……なんかその呼ばれ方、くすぐったいなぁ……。
 このメイドさん、この部屋を掃除していたらしい。彼女の背後に見えるのは……金の刺繍が施された濃い青のカーテンがついた、天蓋のあるベッド。私が泊まった客室のベッドは、屋根なんてついてなかった。やっぱり誰かの部屋らしい。
「あの、ここって誰のお部屋なんですか?」
「あら、それをご存知で、こちらに来られたのではないのですか?」
「え?いいえ、全然……」
「ここは、ディアノスト様のお部屋ですわ」
 と、ホウキを肩に寄りかからせたメイドさんは頬に手を当てて、にこやかに、かつ上品に言った。対して私は……ポカンとしたマヌケ面だろう。
 ……う、うそ……ここ、ノストさんの部屋!!? や、やっぱりこれは入らない方が賢明かも?置き物の位置が1ミリズレていても、私が部屋に入ったことがバレるに違いない!「入ってんじゃねぇ」とか言われて、ボッコボコにされるんじゃ!?
 立ち尽くしたまま、私が脳だけ高速回転させて、来るかもしれない未来を危惧していると、メイドさんは掃除用具を持って横に逸れ、ニコリと笑顔で。
「見て行かれますか?」
 ……か、軽い……軽すぎる。ちょっとメイドさん、ノストさんは貴方の仕える公爵家の人だよ!そんな人の部屋を、本人の許可なしにあっさり公開するなんて軽すぎる!ここは観光地じゃないんだよ!
 で、でもでも……ちょっと見てみたい気もする。偉そうなこと、心の中で叫んどいてなんだけど……。
「大丈夫ですよ。ディアノスト様は気にされませんし」
 私の思っていることを見透かしたように、メイドさんは私を誘惑するように笑顔で言ってきた。今なら悪魔に見える笑顔。で、でも確かにノストさん、そんなこと気にしなさそう……ってことで!
「……じゃ、じゃあ……あのその……ちょっと覗いていきますっ」
「ふふ、どうぞご自由に」
 遠慮しがちに私が言うと、メイドさんは楽しそうに笑って、掃除用具を持って階段の方へ歩いていった。
 片方だけ開け放たれたままの扉の前に立ったままだった私は、彼女が階段を下りていくのを見てから、視線を前に戻した。
 そーっと中を覗いてみると……さっき、メイドさんの背後に見えたベッドは部屋の奥にあった。扉の真正面には、不思議なデザインの大きな窓。その横には、随分と大きなクローゼット。
「し、失礼しまーす……」
 なんとなく小声でそう言って、部屋にそろーっと踏み込む。床に敷かれたクリーム色の絨毯は、淡い青のシックな縁取りがされたもの。着飾ったような華美さはなく、シンプルで上品な雰囲気が漂う部屋。
 部屋の中を見渡すと、扉の横に全身が映る鏡があった。ここで服装チェックでもするのかな。反対側には、ちょうどクローゼットがあるし……。
 そのクローゼットの隣の、ベッドの上にある布団を、恐る恐る触ってみると……モフっと感触。わわ、これ、ダイビングしたら埋まれるよ、きっと。
 ノストさん、ここで寝てるんだな……2階に自室があったんだ。どうりで寝る時、1階を素通りしていくわけだよ。
 それにしても、意外……ってわけでもないけど、無駄に物がない部屋だなぁ。1ミリズレてても決定的証拠になりそうな置き物すらない。あえて言うなら、隅に立てかけてある剣。性格が表れてるというか、何て言うか……。
「……あれ?」
 ふと、そのクローゼットの下の部分を見たら。小物とか入れる引き出しなんだろうけど、その閉まっている口から、何か紙みたいなものがはみ出ていた。
 ……ど、どうしよう、凄く気になる。物が挟まって閉じてあるのが凄く気になる!!
 でも、さすがに引き出しはやばい?プライバシーの宝庫じゃない!? ううう……!

 ガタンッと物音がした。
 ……気が付いたら、私は、クローゼットに歩み寄って、下部の引き出しを開いていた。しかも少しじゃなく、全開。紙の下にいろいろアクセサリーが見えた。
 あ、開けちゃった……あはは、これはもう片付けるしかないよね!
 とか開き直って、紙を引き出しの中にちゃんと入れようと、手に取った。それを少し持ち上げた時、その裏面がやけに鮮やかなのがチラっと見えて。何気なく裏返して……息を呑んだ。
 それは紙じゃなく、1枚の写真だった。……しかも、見たことのある。
 シャルティア城で。スロウさんの机の上に伏せられていた、お父さん、スロウさん、ノストさんが映っている写真だった。
 この写真……撮影場所は、今ならわかる。このレミエッタ公爵家の屋敷だ。ノストさんの着てる服も、高級感あるものだし……この写真は、3年前以前のものってことになる。ノストさんがこの家を出る前なんだろう。
 ……いつから、三人は知り合いだったんだろう。こんなに仲良さそうな三人が今、殺し合いしてるのも……3年前に、何かあったから……?
「………………」
 ……私は、写真を引き出しの中に戻した。静かに引き出しを閉じる。今度は、はみ出さないように注意して。
 ……やめよう。前にも見た写真だけど、ノストさんの過去を勝手に調べてるみたいで、なんか嫌だ。
 私は……本人が話してくれるのを待つって決めたんだから。

 

 

 

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 2階の部屋をすべて回り終わった私は、廊下のゴールにあった階段を下りる。この屋敷、まっすぐな廊下の両端に、どっちも階段があるみたい。便利だね!
 これで、この建物は全部見終わったかな……と思いながら1階に下りると、見覚えがない景色が広がった。
 ……あ、そういえば私、自分の客室からスタートしたんだ。私の部屋は、1階の真ん中辺りにある。ってことは……1階の半分は、まだ見てないってことになる。
 うーん……どうしようかな。1階は、きっと全部、客室なんだろうなぁ……まぁでも、どうせ時間あるし、もうちょっと頑張ろうかな。もう少しでこの建物制覇するし!
 ってことで、手近にあった右側のドアに近付く。武器庫のドアのような、片方だけのドアだった。そのドアをガチャリと開いて……、
「………………え……」
 ……私は、心が吸われるような、妙な感覚を覚えた。

 そこは、予想外に広い空間だった。正面の壁は全面ガラス張りで、フェルシエラの街の外の景色が眺望できる。この屋敷、フェルシエラの一番高いところにあるから。隣の屋敷のさらに後ろの方にあるらしく、建物の妨害も受けていない。
「……ここは……」
 思わず、声が漏れた。呆然と、広い部屋を見渡しながら、中へと踏み入る。
 広い空間。小さな教会くらいはある、広い部屋。
 それなのに、ここには……何もなくて。あるのは、ど真ん中に鎮座する、黒いピアノだけだ。
 外からの光を見事なくらいに反射して光り輝く白い床。それがさらに、その部屋を真っ白に演出していて。
 部屋の中央に居座り、まるで周囲の光を拒むように、その真っ白を侵す1点の黒。
 ……まるで……闇と光だ。1つの芸術作品のような、そんな部屋……。
 私はぼんやりしたまま、フラフラとピアノに近付いた。閉じられたフタに、誘われるように手を伸ばした、

 刹那。

「ちょっと貴方ッ!!!」
「はいぃいっ!!?」
 何も聞こえてなかった耳に、突然、大きなおばちゃんの声が響き渡って、私はその場で飛び跳ねた!きっと30センチは跳べた。そして心臓は50センチは跳んだ。
 バックバクな心臓を服の上から押さえつけながら、私はドアのところを振り向く。するとそこに、腰から膝までの白いエプロンを着た、コックさんの帽子をかぶったおばちゃんが立っていた。
 そのおばちゃんは無言で、私をもんのすごくこわーい顔で見ていて!も、もしかしてここ、入っちゃいけなかったのかな……!
「……な……何ですか?」
 振り向いた格好で固まっている私が、引き攣った笑いをしておばちゃんにそう聞くと……瞬間、おばちゃんはニッコリ笑顔になった。
 は?と、私は逆に拍子抜けして、おばちゃんを見つめる。
「そのピアノが気になるのかい?」
「え……あ、はい……」
 ドアのところに立ったまま、おばちゃんが私の後ろのピアノを指差してそう聞いてきたから、別にそれほど気になるってわけでもないんだけど、私はとりあえず頷いた。すると、おばちゃんは手を下ろして懐かしげに答えてくれた。
「それは昔、ディアノスト様が使っていたピアノだよ。懐かしいねぇ……」
「…………え、えぇえッ!!? の、ノストさん、ピアノ弾けるんですかっ?」
「こらっ!ディアノスト様だよ!」
「え、え!? ……え、えっと……ディアノスト様……は、ピアノ弾けるんですか?」
 おばちゃんにノストさんの呼び方を怒られて、仕方なく私はゴモゴモ呼び方を変えてまた聞いた。
「そりゃあね。貴族にとっちゃ、ピアノは基本中の基本だよ。でもディアノスト様は別格でね、ほとんどの楽器は扱えるはずだよ」
「じゃ、じゃあ、バイオリンとかも弾けちゃうんですか!?」
「そうさ」
 驚いた私がさらに聞いた質問に、おばちゃんは誇らしげに胸を張って大きく頷いた。
 ほ、本当に!? まぁ、何でもできるって点を考えると、わからないでもないけど……ピアノとバイオリンだよ?意外……ってわけでもないか……なんだか弾いてる姿が目に浮かぶ。
「この部屋がお好きだったみたいでね、何処にも見当たらない時は、決まってこの部屋にいらっしゃったんだよ」
 ノストさんの自慢話を聞かされて驚く私を見て満足したのか、おばちゃんはにこやかな笑顔で最後にそう言うと、ドアのところから立ち去った。な、何だったんだろ……大体、最初の怖い顔は何?
 おばちゃんがいなくなって、私はもう一度、ピアノを振り返った。鍵盤を覆うフタを静かに上げると、真っ白な鍵盤が姿を現す。
 そっと人差し指を出して、1つの白い鍵盤をぐっと押した。ポーン……と、音階の真ん中くらいの高さの音が、広い部屋の隅々まで響いて、白い床や壁に吸い込まれて消えていく。
 昔……ノストさんが使っていたっていうピアノ。
 よく、ノストさんがこもってたっていう部屋。
 それくらい、思い入れが強かった場所……。

 ———この真っ白な部屋で……ノストさんは、何を想っていたんだろう。

 そう、思った瞬間。
「えっ……?」
 がらりと、目の前が変わった。
 私がさっきまでいたのは、真っ白な部屋。だけど今は……色褪せたような、セピア色で。
 流れるのは、ゆったりとした流麗なピアノの旋律。

≪そんなの、どうでもいい≫

 すぐ横で、声がした。隣を見ると……いつの間にか、ピアノの前にあったイスに座ってピアノを弾いている、同い年くらいの男の子がいた。その男の子さえも、すべてがセピア色の薄いフィルターをかけたように、色褪せていて。
 セピア色でもわかる、サラサラしてそうな、首の辺りまでの銀髪。緩やかに上下する白い鍵盤に向けられた、ダークブルーの瞳。
 ………………え。
 まさか……
「……ノスト、さん……?」
 それにしては……なんとなく、幼いっていうか、若いっていうか……。
 声を出したけど、男の子は気付かない。白い鍵盤の上を滑る手を、ゆったり動かしているだけだ。

≪公爵の地位なんか、どうでもいい。剣の腕を磨ければ、それでいいのに≫

 また、声がした。よく聞いてみれば、確かにノストさんの声だ。だけど、男の子の唇は微動だにしてない。……なら、これは……心の中の声……?
 すでにその曲は終盤まで弾いていたらしく、男の子は慣れた手つきで最後まで曲を弾き終わり、音の余韻がなくなってから……静かに手を下ろして、顔を上げた。

≪俺は、公爵なんか、継ぎたくない……≫

 切実なそんな声が聞こえて……フッと、意識が一瞬、遠のいた。
 すぐにはっと我に返ると、そこは、元の真っ白な部屋だった。キョロキョロ慌てて部屋を見渡すけど、男の子は何処にもいないし、部屋は完璧に真っ白。
 ……今のは……何?それに、あの男の子って……まさか、私くらいの時のノストさん?でも、どうして?
 私が、ノストさんはこの部屋で何を想ってたんだろうって思ったら……突然、部屋が色褪せて……まるで、古いアルバムでも見ているような感じだった。
「………………」
 昔のノストさんがさっきまで座っていた、ピアノの前にある黒いイス。私はそのイスの前に立ち、ストンと座って、昔のノストさんと同じ体勢になる。
 ……なんだか、不思議な気分。
 昔のノストさんだけど、ノストさんの心の声を聞いたなんて。ノストさんが何を考えているか、全然わからないのに……聞けちゃったなんて。
 さっきのノストさんは、公爵を継ぎたくないって……そう言ってた。
 そうだよね……公爵様の息子さんとして生まれたからには、やっぱり息子さんは、親である公爵様の後を継ぐことになるんだろう。息子さんには、選択の余地なんてないんだ。決められた人生なんて……そんなの、嫌だよね。
 ノストさんは……そのレールの上から逸れたくて、でも逸れることができなくて……思いつめた時、決まってここでピアノを弾いていたんだ。
 きっと、このピアノは……長くノストさんを見つめてきた、彼の友達。
 ……ピアノなんて、教会にあるパイプオルガンしか触ったことないけど……。
 そっと、片手を鍵盤の上に乗せ……私は、知っている曲を、指先で紡ぎ始めた。曲名すら覚えていない、静かで綺麗な曲。
 単音だけど、メロディはわかってる。でも指先がついていかなくて、押す鍵盤を間違えたり、押すタイミングが早かったり遅かったり……我ながら、凄く拙い旋律が溢れ出す。
 音符達は、広い空間に染み入るように広がって、そして次々と、白い壁や床に吸われて消えて……まるでここだけ隔離されたように、私は不思議な世界に包まれる。
 もしかしたら……ノストさんは、この世界が好きだったのかもしれない。ピアノの音以外しない、星空のような煌きに満ちた、静かなこの世界。そんな世界に、自分が溶け込んでいくような……。
 少なくとも……私は、この世界が好きだ。
 何度も押す鍵盤を間違えながら、なんとか最後まで弾けた私は、一番最後の鍵盤を深く押し込んで……指を上げる。白い鍵盤が戻ってくるのを見てから、手を下ろした直後。

「ヘタクソ」

 …………カッチーンと。髪の毛の先まで硬直した。
 そーっとドアのところを振り返ると……ドアの横の壁に寄りかかっている、ノストさんの姿!
 カァーっと顔が熱くなって、私は慌てて正面に顔を戻した。は、恥ずかしい……あのヘッタクソな演奏を聞かれてたんだよ!? いつの間にか!ヘタクソって言われてるし!わかってます、わかってますよーだ!もう泣いてやる!
「の、ノストさん……あ、あの……いつから、いたんですかっ?」
「ついさっきだな。終盤だけ聞いてヘタクソだと評価した」
「終盤の方が割と良かったんですけど……」
 じゃあ、序盤の方って救いようないじゃん!評価厳しい……。
 ピアノの横に歩いてきて、やっぱり高級そうな服を着ているノストさんは、何処か懐かしげにピアノに触れながら言った。
「『祈りの夜』か。普通、凡人は知ることねぇ曲だな」
「え?さっきの曲って『祈りの夜』っていうんですか?」
「はぁ?」
「だ、だって曲名知りませんでしたもん!」
 あの曲、『祈りの夜』っていうんだ……確かにそんなふうな、神秘的で穏やかな曲調かも。にしても凄いなぁ、曲を聴いただけで曲名がわかるんだ……さすがっていうか。
 『何を今更』って感じの顔をしたノストさんに、私が慌ててそう言うと……彼ははぁーっと息を吐き出して。
「……これだから凡人は……あんなヘタクソだったら仕方ねぇか」
「わ、わかってますから何度も言わないで下さいっ!どんどん惨めになっちゃいますから!」
「ヘタクソをヘタクソと言って何が悪い。このヘタクソ」
「う、うう、3回も連続で……3倍は惨めになりましたよ!わざとでしょう!わざとですよね?!」
 絶対わざとだ!座っている私は立っているノストさんにそう問い詰めるけど、ノストさんは違う方向に目をやって華麗にスルー。く、悔しいっ……!
 ……あ、いいこと思いついた!
「ヘタクソヘタクソって、じゃあ、ノストさん弾いてみて下さいよ!」
 私はイスから立って横に逸れながら、ノストさんにびしっ!と鍵盤を指差して言ってやった。ノストさんはピアノ弾けるっておばちゃんが言ってたけど、本当かどうか試してやるっ!
 ノストさんは、指差された鍵盤を少しの間、見下ろしてから……何も言わず、静かにイスに座った。
「……えっ?」
 その反応が予想外で、思わず声が出た。
 う、うそ……弾いてくれるのっ?私が言ったくらいで、弾いてくれると思ってなかったんだけど……懐かしくて、つい……とか?
 ノストさんがおもむろに両手を鍵盤の上に置いたと思ったら、静かに、知らない……だけど、何処か温かい旋律が流れ出した。当然だけど、私より何十倍も何千倍も上手で。
 懐かしいピアノで、懐かしい曲を弾いているからか……ノストさんの相変わらずの表情が、なんとなく、温かい感じがした。
 私は傍に立ち尽くしたまま、その曲を聴きながら、彼の演奏する姿を呆然と見つめていた。
 昔のノストさんは、公爵になりたくないって……そう想ってた。
 なら……今ここにいて、今ここでピアノを弾いているノストさんは……一体、何を想っているんだろう。

≪この家に縛りつけられるわけにはいかない≫

 ……また、景色が変わった。
 セピア色の中、たった今、そこにいたはずのノストさんの姿が、少し小さくなって、髪の毛も短くなる。
 そんな昔のノストさんが、ピアノを弾きながら想うこと。

≪俺は、公爵にはならない。少なくとも、ヒースを追い越すまでは……≫

 …………え?
 それって……—————

 そう思う私の疑問を掻き消すように、頭の中が霧がかったようになって……我に返った時には、元の白い部屋に意識が戻っていた。
 気が付けば、すでにノストさんの曲は終盤だった。ノストさんの両手が、その曲の終わりを静かに告げ……彼の手が、下ろされる。
 ぽかんとしていた私は、はっとノストさんに声をかけようとして……その人影に、気付いた。
 ノストさんの背中を見つめたまま、ドアのところに立ち尽くす、高貴な服に身を包んだ30代くらいの金髪の女の人。その後ろには、旅人のような服を着た、同じく30代くらいの、腰に剣を差した濃緑の髪の男の人が立っていた。
「ノスト、さん……」
 手を下ろした格好のまま、鍵盤を見つめていたノストさんに私は声をかけた。するとノストさんは、呼ばれたことで思い出したようにイスから立ち上がり、部屋から立ち去ろうと思ったのか、ドアの方へ足を向け目線を上げた時に……ようやく、その二人の存在に気付く。
 ノストさんの足が、ぴたりと止まった。……彼の背中は……何処となく、怯えたような、驚いたような、そんな様子に見えた。
「ディアノスト……ディアノストなの……?」
 前に立っていた女の人が、フラフラとノストさんに近寄り、呆然と立っているノストさんの前に来て、そっとノストさんの頬に手を伸ばす。その拍子に、ノストさんとよく似たそのダークブルーの瞳から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「ああ、夢ではないのね……ディアノスト……私の、大事な子……」
「……母、上……」
 感動の再会で、本当に嬉しそうなお母さん……アリシア様に対して、ノストさんはそう紡いだ。
 背中を向けていたから表情はわからないけど……結構長い付き合いだから大体わかる。ノストさんは、何処か困惑気味だった。やっぱり……3年の差を気にしてるのかな……。
 その様子をアリシア様も感じ取ったのか、手を下ろし、涙を流しながら、安心させるように柔らかに微笑んだ。
「年をとらなくても……貴方が、私の子であることには変わりないのよ。ここが、ずっと、貴方の家であるように……」
 高そうな服の裾で涙を拭い、アリシア様はもう一度、改めて温かく微笑んだ。

「お帰りなさい……ディアノスト」

 

 

 

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 ……いたいた。
 食卓テーブルがある広い部屋の隣。1つの縦長のガラス製テーブルを囲むように、6つのソファが置かれた部屋。応接間……かな。
 2つ並んで置かれたソファの、奥の方にある1つに座り、手すりに頬杖をついて部屋の奥を意味なく見つめているノストさん。
 お昼ご飯をみんなで食べた後、私の食べる速度が遅いのをいいことに、ノストさんはさっさといなくなってしまった。なんだか心配だったから、頑張って早く食べて、ノストさんが消えた扉を開け、廊下を駆け出そうとしたら……開け放たれていた隣の部屋のドアから、彼の姿が見えた。
「ノストさん、何でさっさといなくなるんですか!マナー違反ですよ!」
「てめぇが遅すぎるだけだ」
「………………」
 私が部屋の中に入って、彼の隣のソファに座りながらそう言うと……何て言うか、彼にしては普通の答えが返ってきた。いつもなら、「凡人の分際で俺にマナーを説くか」とか言われると思うんだけど……。
 なんとなく、公爵のラスタ様たちが帰ってきてから、ノストさんの様子がおかしい。何処か、遠慮がち……に見える。いつもの偉そうな態度はどうしたんだか。
「……ノストさん……やっぱり、気にしてるんですか?」
「………………」
「でも、アリシア様も大丈夫って言ってましたしっ」
「だから、だ」
「え?」
 私に目を向けないまま、ノストさんはそう言った。ノストさんが言っていることがよくわからなくて、私が首を傾げると、彼は最初見た体勢のまま喋る。
「……このまま、昔の生活に戻りそうな気がする」
「それって……いいことじゃないですか」
「良くねぇ。不老なのは俺だけだ。わかってんのか」
「……あ……」
 考えなしに言ってしまった自分の言葉を、少し後悔した。
 このまま、昔の生活に戻れそうな、そんな気。ブリジッテ様と決闘したり、あの部屋でピアノを弾いたり……何も変わらぬ、昔の日々。
 でも、その生活に戻ってしまえば……ラスタ様もアリシア様も、ブリジッテ様も。老いて死んでいく中、不老のノストさんだけ、今と変わらぬ姿で取り残されてしまう。それって……凄く、孤独だ。
 今までずっと、無愛想な人なんだと思ってたけど……きっと、そうじゃないんだ。ノストさんはただ、気持ちが表情に出ない人なんだ。
 だから今……ノストさんは、見かけ以上に凄く深刻に悩んでる。いつもの毒舌もなく、私の問いに淡々と答えてくれた。そこに思考を回すほど、今は心に余裕がないんだ……。

「よ、お二人さん」
 何も言えなくなってしまった私が、口を閉ざして正面を見つめていると、そんな声とともに、向こう側のソファに人が座った。
 さっき、アリシア様の背後に立っていた、旅人風の濃緑の髪の男の人。彼が、私達が探していたカルマさんだ。
「さっきから言いそびれてたが……ノスト、久しぶりだな。3年ぶり、か」
「……あぁ」
 緋色の瞳を向けてのカルマさんの言葉に、ノストさんは頬杖をやめて、背もたれに寄りかかりながらそう言った。
 ……って……あ、あれ??
「えっ、ノストさんとカルマさんって、知り合い……だったんですか?」
 初耳。しかも、3年ぶりって……また、3年前の話だ。
 お父さんとカルマさんは、お友達。
 お父さんとルナさん、スロウさんは、師弟関係。
 お父さんとノストさんは……大体、予想つくけど、不明。
 じゃ、ノストさんとカルマさんは……?
 私が声をかけると、さっきまで親しみやすそうな笑顔を浮かべていたカルマさんは、突然、少し対応に困ったような、そんな様子になる。
 ……初めて声をかけた時から、ずっとこうなんだ。自己紹介した時も、お昼ご飯を食べてる時も、そして今も……何処か、よそよそしい。初対面だからかな……。
「あぁ、まぁ、そうだな……って」
 適当に頷いていたカルマさんは、そこで何かに気付いたらしく、ジロッとノストさんを見た。ノストさんは普段の表情のまま。
「……ノスト、お前、何も言ってないのか?」
「言ってどうする」
「要するに、言いたくなかったってとこか?はぁ……確かに、相手が相手だったかもしれないが……昔と変わらないな、お前は……」
 額を押さえて溜息を吐くカルマさん。む、昔っからこうだったんだ……と、私が思っていると、カルマさんが顔を上げて、仕方なさそうに説明してくれた。
「ノストは、ヒースの二番弟子だ」
「あ、そうなんですかっ?」
「……あまり驚かないな」
「大体、想像ついてましたから……」
 意外そうなカルマさんの声に、私は苦笑いした。
 だって、お父さんとノストさんの共通点は、どっちも剣士ってことだ。だからきっと、剣関連で関係があったんだと思ってた。そっか、弟子さんだったんだ……二番ってことは、三番がスロウさんかな?
 ……ん?ってことは……ノストさんって、少なくともフィアちゃんよりは、お父さんのこと知ってる……ってこと?!
 あ、あぁあッ!! な、何でこんな単純なことに気付かなかったんだ私っ!カルマさんを訪ねるまでもなく、ほんっっとーに、すぐ近くに、お父さんをよく知ってる人がいたってわけじゃん!
 ミディアで「お父さんのことを身近に知っている人に会ったことない」って言ったら、笑われた理由がわかった……ま、まぁノストさんが関係を明かさない以上、無理に突っ込んで聞くわけに行かなかったっていうのもあるけど……。
 それはいいとして……ここに来た理由は、カルマさんに会うためだ。
 会って……お父さんのことを聞くため。
「あの、カルマさん」
「ん……何だ?」
 私が名前を呼ぶと、やっぱりよそよそしい態度でカルマさんは反応する。……とにかく、私は聞きたいことを聞かなくちゃ。
「カルマさんは、お父さんの友達だったって聞きました。なら……お父さんが、どうして死んだのかとか、何処かで死んだのかとか……何か、知りませんか?」
「……そうか。何も、知らないんだな……」
 私が問いかけたら、カルマさんは少し悲しげに目を伏せてそう呟いた。
 ……そういえば……カノンさんにも、私は何も知らないって言われた。カノンさんが知ることと、カルマさんが知ることは……同じことなのかな。
 カルマさんは考えるように、ちょっとの間、静止してから、話しやすいように前屈みになって言った。
「……少し、長くなるが、それでもいいか?」
「……はい。全然、構いません」
 そう、私はいいんだけど……と、私は横目で、隣のノストさんを盗み見た。ノストさんは……足を組んで、静かに目を閉じていた。

「そうか……なら、話そう。3年前……ヒースが、死ぬに至った事件を」