neoteny
70 再生者
死んだ。
……そう思った。
頬を、何かが滑っていく感覚。
反射的に、ぺた、と頬に触れる。何かが指先にまとわりつく感覚。
……感覚?
…………私……生きてる?
ぼんやりそう思って、ようやく、一点しか見えていなかった視界が広くなる。
目の前が真っ暗になったと思ったのは、視界の真ん中を黒い色が支配していたからだった。見間違えるはずもない、彼の背中。
……私……助かったんだ……。
ホッと一息ついて、何気なく、さっき頬に当てた手を見た。
指先が、赤かった。
…………それが一体何なのか、理解するのに、数秒かかった。
「……———っ!!!」
ぞっとして、顔を上げる。ノストさんの背中。その背中から……黒く細長いものが伸びているのが見えた。
「…………ぇ……」
……何なんだろう、この光景。
ひどく現実味がない。
「……これは……予想していなかったな」
ぼたぼたっと、ノストさんの足元に赤い塊が落ちた。
びくっと私が過剰に反応する前で、スロウさんの声が聞こえて、細長いものが引っ込む。固まっていたように動かなかったノストさんの背中が丸まり、ふらりと私の方に倒れかかってきた。
慌てて立ち上がって支えようとしたけど、遅れた。ノストさんが倒れるのに引っ張られるように、私も一緒に倒れ込む。すぐに起き上がり、仰向けのノストさんを見て、伸ばしかけた手が止まった。
胸の、死光に貫かれた服の穴。口の端から赤い線が伸びていた。つらそうに半眼にされたダークブルーの瞳。倒れているせいか、銀髪の毛先も赤く染まっていた。
「の……ノスト、さん……?」
私をかばって死光に貫かれた。頭ではわかっていても、認め切れていない自分がいた。
いつも不敵な態度で、実際凄く強いノストさんと、目の前のノストさんが、一致しなくて。
……これは……現実、なの……?
「……この……馬鹿、が……」
瞳が私を向き、彼は切れ切れの息で言った。……弱々しい声。それなのに、紡ぐ言葉はいつもと変わらない。
「……な、んで…………どうしてっ……」
頭の中が混乱する。
———どうして。
どうして、こんなことになってるの?
「いやぁあッ!? ノストさん! ノストさんっ?!」
「……うるせぇ……響く……」
かなりの時間差があってから、私はやっと現実に戻ってきて、ようやく悲鳴を上げた。思わずノストさんの服を掴んで揺さ振ると、彼は顔をしかめてそう言った。
「だって、だって!! ノストさん、どうして!! どうしてそんな冷静にっ……!嫌です、死んじゃ嫌です!!」
「……やか、ましい……」
「私っ、一人になっちゃいます!私の居場所、なくなっちゃいます!! 死なないで下さいっ……!お互いに居場所だって言いましたよねっ!? だから、だからっ……!!」
「ステラ」
「っ……」
ただ、ノストさんが死んじゃうなんて嫌で嫌で嫌で。錯乱したまま、とにかく思い浮かんだことを口走っていた私を、ノストさんが、私の名前を呼ぶことでなだめた。
名前を呼ばれただけなのに、私はそれだけで静められた。恐る恐る、弱々しい目付きでノストさんを見ると、彼はゆっくり片腕を持ち上げた。その手のひらを顔の横に持ってきて、小さく上下に動かす。……「来い」って、手招きしていた。
よくわからないまま、指示された通りに頭を近付けると、彼は今度は、その手のひらを自分の口の横に当てた。まるで……内緒話でもするように。
「耳を貸せ」って言われてるのはわかった。従うまま、耳を近付ける。
当然だけど、耳の本当にすぐ近くで、ノストさんの声がした。
「楽しかった」
「—————………」
……囁くような声が、息とともに耳朶に触れた。
たった一言。主語もない言葉、それだけ。
他には、何も言わなかった。
頭を持ち上げて、ノストさんの顔を見た。
……彼は、目を瞑っていた。
それは、何度か見たことのある、綺麗な寝顔で。
「……ノストさん?疲れ、ちゃったん……ですか?」
ノストさんの顔を覗き込んだ体勢で、問いかける。いつの間にか、彼の腕からも力が抜けていた。
——気が付くと、彼の血溜まりが、座っている私の膝の前にまで広がっていた。
……喉が震える。その喉で発する声も、やっぱり、震えていて。
「こ、こんなところで寝るのは……良くない、ですよ。は、早く起きないと……いつかの仕返し、しちゃいますよ?で、でも……鼻を摘む勇気はないので、ほっぺで……」
震える指先で、ノストさんの頬に触れる。私の指先より、彼の頬はひんやりしていて。
……この時点で、彼なら、絶対飛び起きるはずなのに。飛び起きて、凡人のくせにって、私に仕返ししてくるはずなのに。
静かに瞼が閉ざされたその顔は、なぜだか、いつもより白く映えて。
……どうして?
どうして起きてくれないの……?
ノストさんの顔がぼやけたと思ったら、ぽたっと水滴が落ちた。ノストさんの白い頬に当たって、砕ける雫。
「ノストさん……起きて、下さい……お願い……です、からっ……慈悲でも……なんでもいいですからっ……」
嘘だ……
こんなの……こんなの……っ
「あぁあぁぁあああああああああッッッッッ!!!!!!」
すべてを拒絶するように、縮こまるように、目を固く瞑って頭を抱えた。止まることなく溢れる涙が次々にこぼれ落ちていく。
嘘だ!ノストさんが死んだなんて嘘だ!!
なんで、どうして!どうして私なんかかばったの!?
ノストさんッ……どうしてっ……!!
強烈な感情が心を埋め尽くす。また壊れるんじゃないかと思った。いっそその方が楽だったかもしれない。
ひび割れそうな頭に、スロウさんの声が聞こえた。
「……かばって死んだか。私の知るディアノストでは有り得なかったが……どちらにせよ、邪魔者は消えた」
滲む視界で、さっきより少し離れたところにいたスロウさんを見る。彼は、ラミアスト=レギオルドを地面に突き刺し、代わりに、家の残骸に突き立っていたグレイヴ=ジクルドを引き抜いた。
さっきまでノストさんの手にあったその神剣の先を私に向け、ヒースさんだけじゃなく、ノストさんも手にかけたスロウさんが言う。
「ラシュファシルとしての役目を終えたお前には、用はない」
そう言って、グレイヴ=ジクルドを振り上げる。私を狙った消滅波が来るって、見ればわかった。
———私は……ただ、呆然とそれを眺めていた。
「……再生者……」
ただ、スロウさんが言った言葉を、ぼんやり復唱して。
耳に残ったその言葉。
ラシュファシル。
…………そうだ……。
私は、再生者。
再生者……。
グレイヴ=ジクルドがあれば、ノストさん自身も再生できるかもしれない——!!
絶望の淵で至った考えは、突拍子もなかった。
私の切り換えは早かった。濡れた頬を服の袖で拭い、すっくと立ち上がる。訝しげな表情をしたスロウさんの持つ剣を、まっすぐ見据えた。
さっきまで弱々しい目付きしかできなかった顔が、強い表情をしているのが、なんとなく感じられた。
「……グレイヴ=ジクルドを……渡して、下さい」
「ロアシルのお前に、私がこの剣を渡すと?」
……彼の言う通り、渡してくれるわけなかった。私はグレイヴ=ジクルドを壊すつもりはないけど、言ったところで信じてくれないと思う。
「……貴方は……どうして、グレイヴ=ジクルドが欲しいんですか?」
ふと、口を突いたのは、何気ない疑問だった。
スロウさんは、グレイヴ=ジクルドを欲しがっている。それはずっと前から、身を持って知っている。だけど、何のために?
スロウさんは「決まっているだろう」と一言言ってから、また口を開く。
「………………」
「……?」
……だけど、声は出なかった。私が訝しげに見ると、スロウさんは何処か呆然とした表情で、私を……と言うより、目の前を見つめていた。
「……スロウさん?」
「……なぜか?お前が知ることではない。ともかく、お前にグレイヴ=ジクルドを渡すつもりはない」
一瞬の間の後、スロウさんはいつもの様子でそう言い切った。その時にはすでに、さっき見せた呆然とした表情はカケラもなかった。
……今の……何?出るはずの言葉が、出なかった……ような……。
……とにかく、スロウさんが渡してくれるはずもないから、神剣が欲しかったら、答えは1つ。
私は黙り込んで、でもすぐに、迷わず返答した。
「なら、奪ってみせます」
「いいだろう、できるものならな」
振り上げられたままのグレイヴ=ジクルドの切っ先が、微動する。
「消えろ」
冷ややかな言葉とともに、グレイヴ=ジクルドが振り下ろされる。見えない消滅波が、私に迫る。その波が見えないからか、不思議と、恐怖は感じなかった。
ざっと、私の髪がなびく。消滅波が駆け抜けていったのがわかった。吹き上がった髪が、静かに肩に落ちる。
……スロウさんが、初めて驚いた顔をした。
「何……?!」
———愚かね ステラは神子よ 神と同等の力を持っている存在
———私達を使ってステラを壊せるのは 貴方達の言う神一人だけ
説明するラルさんが埋まるグレイヴ=ジクルド。それを握るスロウさんの後ろで、深く地面に突き刺さっていたはずのラミアスト=レギオルド、2本の刀が、不自然にからんっと倒れるのが見えた。
「くっ……そういう、ことか……」
消滅の力を使った時の負荷で、スロウさんが苦しそうに言った。そのせいか、スロウさんの動きが鈍い。頑張れば、私でも奪えるかもしれない……!
拡いて、クロムエラト。
グレイヴ=ジクルドを取り返したい。
だから、私に力を貸して——!!
前に大きく一歩、踏み出した。
憔悴していて、私の動きにすら反応が遅れている目の前のスロウさんに向かって、力いっぱい体当たりした。
「くっ……!」
相手が弱っているとしても、大人の人を突き飛ばすほどの力は私にはない。だけど今、クロムエラトで増幅された力は、スロウさんを2歩、後ろへよろめかせた。
スロウさんが足元に気をとられている間に、彼の右手に握られているグレイヴ=ジクルドに手を伸ばす……!!
「そんなに欲しいなら、くれてやる……!」
スロウさんの低い声がしたと思ったら、1歩分、距離が開くと同時に、スロウさんの右手が引かれ、そして急に剣との距離が縮まった。
下がったのは、剣を振りやすくするため。軽く引いたのは、勢いをつけるため。剣を上へ振り抜く気だと、寸前で気が付いた。
けど、それなら……っ!
「クロムエラト、弾いて!」
いつもは何も感じないのに、不思議と何かが張り詰める感覚がした。弾く盾。
これなら——!
下がれ!!!———
———いけない ステラ 避けて!!!
「えっ!?」
ジクルドさんとラルさんの声が重なって聞こえた、私の目の前で。グレイヴ=ジクルドの切っ先が、私のすぐ脇に近付いたのが見えた。
盾をすり抜けた!? やばい……!!
と、思った瞬間。……また、目の前が真っ黒になった。同時に、ガキンっと固い音。
「馬鹿野郎ッ!! 考えりゃわかるだろっ!グレイヴ=ジクルドの力がお前に効かないのと同じで、グレイヴ=ジクルドにはお前の力は効かねぇんだよ!!」
その声は、目の前からした。呆然と顔を上げると、黒い背中があった。……だけど……ノストさんじゃない。
「せ、セル君!?」
「いいからとっとと下がれ!!」
スロウさんのグレイヴ=ジクルドを腕の甲で受け止めているセル君に大きな声で一喝され、私はわけがわからないまま、慌ててそこから離れた。
「死光!? なぜお前が……!」
「はッ……いつまでも、お前の言いなりじゃねぇ、っつーことだ……!」
スロウさんも予想していなかったらしく、彼が驚いた顔で問い掛けると、セル君は切れた息で言い返した。
でも、どうしてセル君がっ!? だって、ラミアスト=レギオルドはさっきまでそこに……!
先ほどまでラミアスト=レギオルドがあった辺り、スロウさんの後ろを見ると、いつの間にか、そこには何もなかった。代わりに、そこに白い女の子が座り込んでいた。
「み、ミカちゃんもっ?!」
「……スロウ君の……意志に、歯向かって……るんだ……ちょっとでも……気を抜けば、戻っちゃう……」
ミカちゃんも、ひどく疲れた声で切れ切れに言った。言われてみれば、彼女を拘束するように、黒い雷のようなものがバチバチ音を立てながら走っている。セル君を見てみると、彼も、似たような白い雷に囲まれていた。
「グレイヴ=ジクルドは……アルカは切れねぇ。力を、使われたら……消えるけどな……!」
「それは……ボクが、させないっ……!」
「ぐっ……!」
いつもぽへーっとしているミカちゃんが、強い目付きでスロウさんを見た。すると、ミカちゃんの精神侵食が発動したらしく、スロウさんの上半身が前に傾ぐ。
スロウさんの紫の目が、苛立たしげにセル君を睨みつけた。
「くそ……!お前達……刀に戻れ……!!」
「ぐあぁっ!!」
「うああっ!!」
スロウさんが刀に戻ることを強く命じた。二人を囲む雷がさらに激しくなり、その光に呑まれるように二人は刀に戻り。
それと同時に、スロウさんの横から何かが飛び出してきた!
精神侵食が解けたばかりで上手く反応できないのか、動きの遅いスロウさんの右手……グレイヴ=ジクルドを握る手を、勢いよく振り下ろされた長い足の踵が打った!
落ちた神剣を風のように拾い上げ、私の横まで後退してきたその人は……、
「グレイヴ=ジクルドいっただきッ!ステラは殺させないよ!」
「ルナさんっ!」
「ごめんねステラ、助けるの遅くなっちゃった!でももう、弱ってるスロウなんかに負けないから!」
ミカちゃんがスロウさんの意志に逆らったからか、精神侵食が解けたらしいルナさんは、そう言って不敵にウインクしてくれた。それから、手に持っていたグレイヴ=ジクルドを自分の横に突き立てると、
「これ、頼むね!」
「は、はいっ……!」
一言そう言って、スロウさんに向かって行った。動作の鈍くなったスロウさんを、ルナさんは格闘技でいなしていく。
それを見てすぐ、私は突き立っているグレイヴ=ジクルドの柄を取って、引き抜いた。想像以上にずっと軽くてびっくりした。重さなんて全然ない。まるで空気を持っているみたいで。
その剣を持って、倒れているノストさんのところへ駆け寄った。時間が経ったからか、さっきより肌が白く見えて。
「……ノストさん……」
頭をブンブン左右に振る。泣き出しそうになる衝動をこらえて、私は、グレイヴ=ジクルドの先を上に向けて持った。
グレイヴ=ジクルドは、破壊と再生を司る。
そして私は、破壊者であり、再生者。
ならきっと、できる。
……だから、お願い。
「お願い、ラルさんっ……ノストさんを、生き返らせて———ッ!!!」
———……ごめんなさい 残念だけれど 私の再生の力は あくまでも促すこと
———いくら私でも それは不可能よ
お願い。
口悪いし、自分勝手だし、馬鹿にされてばっかりだけど。
自分至高主義な、毒舌魔人さんだけど。
本っ当にたまに優しかったり、その時、私の欲しい言葉をくれたりする人。
大事な人なんだ。
たった一人の、大事な人なんだ。
この願いが叶ったら、もう、何もいらないから。
私は、どうなってもいいから……!
だから、お願い———!!!
ピリッと、肌がひりつく感覚がした。
瞬間、私の両手に握られているグレイヴ=ジクルド全体が、真っ白な光に包まれた。それは、ウォムストラルの光に似ていて。
———なっ そんな馬鹿な……!!
その不快じゃない白い柔らかな光は、すべてを覆うように、どんどん、どんどん広がっていって……
すべて真っ白に塗り潰されて、何も見えなくなった。
……………………