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56 大事な名前
真っ白だった。
真っ黒だった。
何もない世界。
すべてがある世界。
気付いてみたら、よくわかんないそんなところにいた。
なんとなく、手を見る。
でも、手は見えない。
自分がいる。
けど、『自分』はいない。
世界自体が、自分の意識だってようやく気付いた。
だから私は、浮いていて、浮いていない。
この状態は、意外と心地よくて。
静かな海の中を、何も考えず、流れに身を任せてただ漂う感覚。
その静けさに耳を傾けていたら。
浸透するように、響いてくる音があった。
———……テラ。聞こえる?ステラ……———
……希望?
なに?それ……でも、なんだか凄く懐かしい。
何のこと?
そう思ったら、姿もない波紋のような声は答えた。
———アンタのことよ。記憶はまだ錯綜してるのね……面倒だわ———
言葉通り面倒臭そうな声。
でも、その声もなぜか懐かしい。
あなた……誰?
———アンタの姉よ。アンタは意識がユグドラシルにあるから、私でも干渉できたわ———
……わたしの、お姉さん?
ユグドラシル……神界。大きな世界で、その中に小さな世界……エオスがある。
そうだ……知ってる。その大きな世界に魂があって小さな世界に入る度に、命が生まれる……。
———そうよ。記憶は戻ってきたわね。でも、アンタに思い出してほしいのは、もっと大事なこと———
もっと、大事なこと……?
何だろうと思って、ぼんやりした意識の中で想いを巡らせる。
私の名前は……ステラ。この人は私のお姉さん。
それよりも、もっと大事なこと?
……そういえば、私って誰だっけ?
名前は今、聞いたからわかる。ステラ……<希望>。
気にしてなかったけど……ちょっと気になる。
思い出してみたら、わかるかな?
そうだ……私、村に住んでた。森に囲まれた家で暮らしてた。
お父さんからもらった、大事な石を持ってて……それから……お父さんはとっても強い人で。
———……そうね。そうよ。アンタの父親は……強い人だった。きっと……———
そう言うお姉さんの声には、あまり力が入っていなかった。
まるで嘘をついている時みたいな、芯のない声。
でも、確かにお父さんは強い人だったから気のせいだと思った。
お父さんや村で住んでたことを思い出したら、たくさんのことを思い出してきた。
お父さんが、ある日死んでしまったこと。その時に石をもらったこと。
お母さんも、精神を病んで、その後を追うように亡くなったこと。それに気付けなかったこと。
そして……一人になったこと。
———そう、アンタに与えられた記憶はそれが全部。なら、その後はどうしたの?———
その後?一人になった後……?
思い出そうとして……すぐに出てこない。
さっきまで流れるように出てきたのに、全然思い出せない。
どうして?
———それ以降の出来事は、すべてアンタが自ら紡いだものだからよ。想い出……というのかしら———
……なんだかお姉さん、何言ってるかよくわからない。記憶と想い出、どう違うんだろ。
まぁいいや。思い出してみよう。
お父さんも、お母さんも死んで、一人になった後、私は………
『人の形をしていても、アレは人ではない』
……ぎゅっと。締め付けられるような苦しい感覚がした。
一人になった後。その先を思い出そうとしたら、浮かんできた声。言葉。
誰の言葉か、何を言っているかもわからないのに、激しく心が動揺した。
聞きたくないって何かが強く叫んだ。
……危険だ。キケン。
ダメだ。
ダメだ。
ダメだ。
ダメだ。
聞いちゃダメだ。聞いちゃダメだ。
聞いたら、聞いたら聞いたら聞いたら……!!!
———っ……イソナの言葉の印象が強烈すぎたのね!そこから思い出すなんて……!!———
『盲目のお前に、教えてやろう、その答えを』
嫌だ嫌だ嫌だッ、なにこれ痛い苦しいっ、怖い怖い!
思い出したくない思い出したくない思い出したくない——!!
———ステラ、落ち着きなさいっ!アンタには、もっと大事なものが……!!———
嫌だもうやめて!知らないそんなの!
いらない!大事なものなんていらない!思い出したくない!思い出さなくていい!
だから帰って!! 消えてよ——っ!!!
———くっ……ダメ、敵わないっ……!!———
怒涛のように押し寄せる感情そのままに、私が、強くそう願った途端。
お姉さんのつらそうな声を最後に。……世界に、意識に、凪が戻ってきた。
世界はまた、深い海の底のような静けさに満たされていく。
……お姉さんの声はもうしない。私が、外からの干渉を完全に拒絶したからだと、よくわからないけどわかった。
残る痛み。
ずきんずきん、疼いていた。これ以上、触れちゃいけないって訴えていた。
……もう、何も思い出したくなかった。
だから、このままでいい。何も考えたくない……。
私は、幸せだったんだ。
お父さんと、お母さんと暮らしてて……二人とも死んでしまったけど、私は幸せだった。それだけでもう十分。
記憶があれば、幸せ。何も知らなくてもいい。
その後のことなんて、想い出なんて。
思い出さなくても大丈夫。
だから……また眠ろう。この穏やかな世界に身を委ねて。
私はここで、幸せな記憶と一緒に眠る。
ずっと……このまま……
……………………
………………
………
『やかましい黙れ凡人』
………………。
…………何……これ。
閉ざしかけた意識に、ふと浮かんだ言葉は、さっきとは別のものだった。
しかも、気分が悪くなる言葉。よくわかんないけど……私、馬鹿にされてる。何でこんなセリフ思い出したんだろう……。
……でも、なんだろう。
なんだか、凄く懐かしくて……苦しい。
凄く……切ない……。
『…………罪滅ぼし、なんだろうな』
また、浮かんだ言葉。同じ人のものだって、なんとなくわかった。
今度は、声も思い出せた。静かで……でも、不思議とよく通る男の人の声。
知ってる……この声。いつもすぐ近くで聞いてきた。
意地悪なことばかり言うけど、優しい言葉も口にする声。
いつも助けてくれた声。
…………もっと……聞きたい。
もっと聞かせて。
ずっと、聞いていたい……。
『名前は、重要な意味を持ってんだろ』
次から次に浮かんで響いて、そして消えていく……同じ人の声。
……不思議。
この声を聞いてるだけで……凄く、安心する。
なんだか幸せな気分になる。記憶を思い出した時よりも、ずっと。
さっきまで波立っていた心が、平静に戻っていくのが……よくわかる。
優しい音色。
『誰のせいだと思ってる』
………………会いたい。
この声の主に……会いたい。
想い出の中の声じゃなくて、本当の「声」が聞きたい。
ちゃんと、自分の耳で聞きたい。
誰の声だっけ?
……思い出したい。
思い出して。
きっと、一番大切な人。
一番、傍にいた人。
『お前がその綺麗事を現実にしてみろ。無理だろうがな』
……いつも、助けてもらっていた。
口が悪くて、性格も悪くて、無愛想で、プライドだけ物凄く高くて。
だけど、しっかりした、まっすぐな人で。
いつも本質を見つめる人で。
『てめぇが何者かはどうでもいい。それで何かが変わるわけでもねぇだろ』
不安だった私に……そう言ってくれた。
私の隣を、居場所だって、そう思ってくれてる人。
…………お姉さん、私、思い出したよ。
自分の名前よりも、貴方よりも。
もっと、もっと……大事な想い出。
名前。
ノストさんっ———!!!
その名前が、扉の『鍵』だった。
白くて黒い世界が、弾けた。
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黒くて白い意識が、小さく収束していくのがわかって。
海の中を漂うような、心地良い感覚が消え失せる。
さっきまで上下も左右もわからなかったのに、私は今、自分が仰向けに寝ていることを知った。
……重い。
身をよじろうとしたら、重すぎてできなかった。あの感覚の中では、これだけでできたのに。ただ、ぴくりと指先が動いた。
……指?指って……手?手なんて……なかったのに。
今、私には、手があるの……?
見下ろそうと思ったけど、やっぱり重くて動けない。ただ、暗かった視界が開けた。
……目。目を、無意識に開いたらしい。……さっきまで、目なんて使わなかったのに。
「ステラ君っ……!?」
すぐ横で、女の子の声がした。目だけ動かして見てみると、髪も服も真っ白な女の子がいた。彼女は、水色の瞳を見開いていた。
その隣から顔を覗かせたのは、女の子と似て、髪も服も真っ黒な男の子。紺色の瞳で私を見て、驚いたような、嬉しそうな、そんな顔をした。
「ステラ、お前っ……!!」
……ステラ。私の……名前。
体を起こしたいけど、起きられない。重い。
どうやって起きるんだっけ。
そう思っていたら、背中の後ろに何かが入る感覚がして、ぐっと上体が持ち上がった。
「おはよう、ステラ。大丈夫?」
何でだろうと思ったら、視界に、エメラルドグリーンの長い髪を持つ……確か男の人が、映り込んだ。安心したように微笑んでいて、その眼はとても気遣わしげで。私が起きられないでいると見抜いて起こしてくれたらしい。
何が起きてるのかよくわからなかったから、答えられなかった。とりあえず、90度起き上がって変わった景色を見つめる。
私が何気なく視線を前に向けると、部屋のドアが見えて。……私は、目を見張った。
そのドアの横の壁に寄りかかる、黒い服を着た、銀髪の男の人。
ダークブルーの眼は、遠くから私を見ていて。
………………ノスト……さん。
彼を見た途端。
電撃が走るように繋がった。
両親が死んで、一人になった後のことも。
そして、自分がこうなった理由も。
———……私は……すべて、思い出した。
「ん……?」
「お……おい、ステラ?」
「ステラ君……?」
彼は、ただ、何も言わずに、離れたところに立っているだけなのに。
なぜだか……彼の姿がゆがんで、私の手の甲に雫が落ちた。
「…………っう……あ、ぅ……あぁああっ……!」
……声。私の、声だ。
でも今は、掠れていて。
何で泣いてるのか、よくわからなかった。
なぜか溢れてきた涙は、ぽたぽた落ちて。
三人が戸惑う中、彼だけは、黙って私を見つめていた。