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47 樹海の一軒家

「ひゃっ!?」
 本日15回目。ぐいーんと、ブカブカな袖の白い裾が木の枝に引っかかった。こんなのばっか繰り返していて、すでに袖はズタボロ。うう、ご、ごめんなさい……!
「あ、あれっ……?と、取れないっ……って、の、ノストさん!行かないで下さいよぉ~っ!!」
 絶対気付いてるはずなのに、ノストさんは無視!邪魔そうな枝やトゲトゲした草がたくさん生い茂る木々の間を、スイスイと進んで私から離れていく!
 私の袖に絡みつく細い枝が、粘り強くくっついて離れない!枝を掴んで離そうとしてるのに、離れる気配なし!
 うう、こーなったらヤケだ~!と、引っかかっている袖を無視して私は前に出た!当然、ぐいっと腕が引っ張られるけど、やっぱり無視で前進あるのみ!
 思いっきり前に踏み出したら……ビリィッ!となんだか派手な音。
 何はともあれ、引っ張られる感がなくなった。やった、とれたっ……!と思って、左側の袖を見ると。
「ぇええっ??」
 破れてるのは白い袖口だけだと思った。しかし実際は、引っかかってた袖口から肘の辺りまで派手に破れてた!縦に両断された袖がべろんと垂れる。ど、どーりで随分大きな音がしたなーと思ったら……。
 ……私は今、いつもの服装じゃない。黄縁の白い神官服。……まさか、これを着る機会がまた来るなんて思ってなかった。
 こういう場所を通るから普段着だとケガをするって言われて、この服借りたんだけど……でもタミア村には、私に合うようなサイズがなかった。それで、ぶかぶかなのを着てるんだけど……かなり動きづらい。引っかかって破れたり、そのせいでノストさんと距離が空いちゃったり……むしろ逆効果じゃ?
 下がズボンになった分、足にケガしなくて済むけどさ……普段着なら、きっと今頃、両足とも傷だらけだろうなぁ。
 破れた袖を見て溜息を吐いたら、前の方からノストさんの声がした。
「服の改造中か」
「ふえっ?の、ノストさんっ?も、もしかして戻ってきてくれたんですか?」
 もう先に行ってしまったと思ってたのに、びっくりして私が顔を上げると、ノストさんがそこにいた。……ズタボロになりながら歩いている私とは違い、憎らしいほどサッパリした様子の。何でこの人、葉とか土とかも全然ついてないの!?
「……いや、改造って!確かに改造かもしれませんが!かなり原始的な方法の!」
 それから遅れて、彼のセリフに気付く。絶対この破れた袖のことを言ってる!私がそれに気付いて言うと、ノストさんはすぐに身を翻し。
「なら邪魔したな」
「って、置いていかないで下さいよぉ!改造はもう終わりましたーッ!」
 破れた袖から覗く肌をケガしないように、私は裂け目を右手で押さえ、枝や草を掻き分けてノストさんの後を慌てて追う。
「それで完成か。センスのカケラもないな」
「うッ……!な、ならっ!葉っぱとかつけたらどうです!きっと行けますよ!」
「……で?」
「く、来ると思ってましたよ……」
 この「で?」って一番悲しい……予想してた私もなんか悲しいけど!この人、結構自分から振っといて面倒臭くなると、自分から話打ち切るよね……いい性格してるよ……!
 にしても……、
「まだ着かないんですか?結構、歩いた気がするんですけど……」
「連続ロスしてりゃそう感じるだろうな」
「あう……実はそんなに距離は歩いてないんですか? ……って、ノストさんッ!聞いてますかっ?聞いてますよね?聞いてるでしょうッ!ちゃんと質問にっ……!」
 私が質問をしたのに、ノストさんは面倒だったのか、何も答えずに足を速めた。
 ちょっとムッと来て、葉の茂った枝に顔面からぶつかりつつ、彼の背中に近付こうと頑張った瞬間……突然、視界が開けた。え?と驚いてすぐ、ようやく森を抜けたんだと納得する。
 森を抜けた私達の目の前に広がっていたのは、開けた天上から、惜しみなく太陽の光を受ける水面。とても透き通った水中を通して、その光が水底まで届いていた。
 ここでもやっぱり、水上にうっすらと漂うもや。このもやが、目に見えるくらい凝縮されたオース……なんだそうだ。
 神秘的で美しい樹海ナシア=パント北。そこに広がっていたのは、これまた神秘的な、大きな湖だった。


「お仕事……ですか?」
 ……昨日の夕方。「お前に仕事と猶予を与える」とイソナさんに言われた私は、よくわからなくて聞き返した。
 イソナさんは「そうだ」と言って、手に持った紙を見ながら言う。
「ナシア=パントの北に、アルカを所持している人間がいる。そのアルカを回収してきてほしい。この仕事を終えて帰ってきたら、今度こそすべて話すと約束する」
「アルカの回収……?それって、教団のゲブラーのお仕事じゃ……」
「この教会にゲブラーはいない。今は臨時で一人いるが……その一人も、出払っていて不在だ。ナシア=パントはオースが漂う分、今でも稀にアルカが作られる。それの回収に向かっている」
 要するに人手不足なんだ。だから私達にそれをやらせて……それから、その間に、もう一度考えてみろって。イソナさんは、そう言ってるんだ。仕事と猶予……なるほど。

 でも、回収って……その持っている人から取り上げるってことでしょ?交渉か、もしくは強奪して。……うう、そう考えると、なんか心苦しいかも。
 とにかくっ、それだけだったら、すぐに終わっちゃうんじゃない?猶予も何もないような……。
「ただ回収するだけだと思わないことだな」
 そんなことを考えているのがバレバレだったのか、イソナさんがそう言った。……さっきから思ってたけど……イソナさん、心読めるんじゃっ?ま、まさか……ブリジッテさんと同じく超能力者!?
「気まぐれでこの仕事を選んだわけじゃない。ちゃんとした理由があってだ」
 紙を祭壇の上に置いたイソナさんは、私をまっすぐ見て……最後に、言った。

「そこで、心に感じることがあるだろう」


 心に……感じること。
 ちょっと考えてみるけど……よくわからない。心に感じることって、いろいろあるけど……嬉しいとか、悲しいとか、なのかな。
 感情って、定義とか表現とか、言葉にしづらいものだよね。嬉しいとか、悲しいとか、そんな言葉で一括りできるものじゃないのかもしれない。もっと繊細なことなのかも……って、私、考えすぎ?
 私が湖を見つめたままむーっと考えていると、ノストさんがこっちを振り返った。そして一言。
「化けるなら巨大鳥にしろ」
「へ?ば、化ける?? 巨大鳥?」
「帰りが楽になる」
 そう言いながら、ノストさんは私の……おでこの少し上くらいを指差し、さっさと湖に沿って歩いていってしまう。
 指差されるままそこに手を当ててみると、何かがついていた。手にとって見てみると……1枚の緑の葉っぱ。
 うわ、私、葉っぱなんておデコにつけてたんだ! ……って……そ、そういうことか!化けるって、私はタヌキかッ!
 イソナさんが言うには、そのアルカを持っている人は、この北の湖付近に住んでいるらしい。家を構えて。でも、全然家なんて見当たらないけど……。
 きっと当てなんてないんだろうけど先を歩いていくノストさんを、とりあえず追おうと思って顔を上げた。すると、結構離れた場所で、突然ノストさんが足を止めるのが見えた。……その一瞬前に、ノストさんの前を、なんだか黒いものが過ぎったのが見えた気がしたけど……何だろ?
「ノストさんっ?どうかしたん……」
 駆け足で近付いて、立ち止まっている彼の隣に来てみて……すぐに、その理由がわかった。思わず、声が途中で止まる。
 ノストさんの手前。前足を揃えて行儀良く座っている、青だか黒だか不思議な色の毛並の猫ちゃんがいた。……間違いなく、昨日の猫ちゃんだ。
 猫ちゃんの縦に長い黒目は、明らかにノストさんを見上げていて。ノストさんもノストさんで、目だけで猫ちゃんを見下ろしていて。……な、何なんですかこの妙な構図は。声かけづらい!
 すると、不意に猫ちゃんが腰を上げた。私とノストさんに丸い背中を向け、一度、意味ありげに振り返った後、猫ちゃんは、左前方へと駆け出した。木々の間にその姿が飛び込んで、そして見えなくなる。
 ……さっきの猫ちゃんの、何処か人間らしい動作。
「……ついてこい、ってことじゃないですか?」
 私でもわかるくらいだったから、多分気付いているだろうけど、ノストさんを見上げて言ってみると、ノストさんは少し沈黙した後。
「馬鹿は懲りねぇな……」
「え? ……あ、昨日、猫ちゃんでめまい起こしたことですか?大丈夫ですよ~、猫ちゃんには触りませんし」
 ふふふー、ちょっと心配してくれたのかな。……いや、ただ本当に、馬鹿はあんな目に遭っても懲りないくらい馬鹿なんだなって思っただけかもしれないけど……。
 さっき猫ちゃんが消えた辺りに近付いて、そこから私は森の中を見渡してみた。……うーん、やっぱりもういないかぁ。何処行ったんだろ。
 やっぱりダブダブなズボンを履いた足を上げて、森の中に踏み入ってみる。ザクザク歩いてみるけど、やっぱり何処にも見当たらない。うーん……。
 見当たりませーんって、森には入らずに外から見ているだけのノストさんを振り返って言おうとした。
「……あれ?」
 何か、森の奥の方から聞こえた気がした。ノストさんの方を向いていた私は、もう一度、背後を見てみた。
 高い音。最初は動物の鳴き声かと思ったけど……よく聞いてみると、伸びやかで、優雅な感じ。耳を澄ませてみると、その音は何かを弾いているらしく、1つ1つの音が繋がって、流れるような旋律が聞こえてきた。何処か温かな、懐かしい感じの曲だ。
 というか……うーん、この音、何処かで聞いたような……何の音だっけ?
「……バイオリンだな」
「あっ、それそれ!それです!」
 当然だけど、ノストさんにも聞こえていたらしく、すぐにその音の正体を見破った。思い出せなくてモヤっとしていた私は、スッキリしてうんうんと頷く。
 森の外にいたノストさんは、突然森の中に入ってきて私の横を通りすぎる。どうやら、音がする方へ行ってみようって考えらしい……!
 私もそのつもりだったから、遅れないように彼の後に続く。うう、裾を引っかけないように気を付けよう!
「『ドリシェドリーフェ』だな」
「曲名ですかっ?ちょっとしか聞いてないのに、よくわかりますね~……」
「凡人とは頭の作りが違うからな。ワンフレーズでも聴けばわかる」
「え、ええぇ!? そ、それは確かに頭の作りが違いますね……しかもノストさん、たくさん曲知ってますし!知らない曲ってないんですか?」
「3年前から今までは知らん。それより前の曲は全部知ってる」
「だと思いました……」
 なんか、あんまり凄いって思わない……いや、凄いけども!ノストさんだし、全部知っててもおかしくないなーっていうか……!きっと頭の中自体が楽譜の書庫って感じだよね。
 にしても、『ドリシェドリーフェ』……か。混沌神語だ。<穏やかな母>。確かに……お母さんみたいな、あったかくて、懐かしいメロディの曲だ。
 今度は、ズボンの裾を踏んですっ転びそうになることが多かった。直前にとっさに木の枝を掴んだりしたから、まだ一度も転んでない。イソナさんはどう使ってもいいって言ってくれたけど、さすがにこれ以上、神官服を汚すのは気が引ける……!なんか神官服って神聖なものって感じするし!
 腕も足もズタボロになりながら、音色に導かれて歩いていくと……木々が切られて作られたらしい、広い空間に出た。上空から見れば、森の緑がここだけ丸く刈り取られた感じだろう。その空間の中央に、一軒の家が建っていた。
 家と呼ぶにはちょっと小さくて、小屋と呼ぶにはちょっと大きい。木が積み上げられた、優しい印象を受けるコテージ風な家だった。
 この『ドリシェドリーフェ』は……その家の周囲に張り巡らされた手すりに浅く腰をかけて、気持ち良さそうにバイオリンを弾く女の人が演奏していた。
 波打つ長い赤紫マゼンタの髪を、後ろで少し結っていた。体のラインがよくわかる、スリットの入った緑の服。静かに瞼を閉じてバイオリンを弾く姿は、1枚の絵のようで。
 ……音楽が、本当に好きなんだってことがよく伝わってきた。それが曲にもよく表れていて、とても生き生きしていて。

「……あらぁ……お客さん?よくこんなところに来たわねぇ」
 ぽへーっと曲に聞き惚れていたら、声をかけられた。はっとすると、バイオリンの弓はすでに弦を離れていて、手すりから腰を浮かした女の人がこちらを見て淡く微笑んでいた。
 きっと彼女から見れば、演奏を終えて目を開いてみたら、ボーっと突っ立っている私。しかも服はズタボロ。さぞかし、びっくり……し、してないな……何で?
「あ、あの……素敵な演奏でしたっ」
「あらぁ、嬉しいこと言ってくれるわ~。ありがとうねぇ」
 深紅カーマインののほほんとした瞳に見つめられて、私は率直に感想を言った。使い古された一言だなぁって後で思ったけど、女の人は嬉しそうに笑ってくれた。声も服も色っぽいのに、雰囲気はのんびりな癒し系。……な、なぜ!?
 と、ところで……どう話を繋ごう。「アルカの回収に来ました!」とか言っちゃいけないって言われたし……大体、普通の人は、アルカの存在を知らないからね。う、うーん……。
 私がそこに立ち尽くしたまま、心の中でどうしようって考えていると、女の人は、近くにあった、日溜まりの下のテーブルに近付いた。その上にのせてあった黒いバイオリンのケースにバイオリンをしまって、ほにゃーっと私に笑って。
「一緒にリオティーでも飲まなぁい?お客さんって久しぶりなの~。ゆっくりして行ってぇ」
「あ、はいっ、ぜひ!」
 わっ、ツイてる!まさかあっちからお誘いが来るなんて!ここぞ言わんばかりに私は即答して、その女の人の近くへと近付いた。
 イスが4つあって、そのうち1つは、すでにバイオリンが占領していた。「座って座って~」と女の人に促されて、私は一番近かった右側のイスに座った。私の左側のイスを、ついてきていたノストさんが引く。
「旅人さんかしらぁ?随分ボロボロねぇ。それが味なのかしら~?」
「あ、味って……ここに来るまでに、木の枝とかに引っかかっちゃって」
「あらあらぁ、それは災難ねぇ」
 この人に言われると、なんだか全然「災難」に聞こえない……この間延びなほわーん感。むしろ微笑ましそう……!私自身は、ほんっとうに嘘偽りなく災難だったよ!
「ちょっと待ってねぇ、今準備するからぁ」
「あ、はい」
 そう言う女の人に返事をすると、彼女はバイオリンを残して家の中に入っていった。よし、なんとか潜入?成功……なんかスパイみたいだなぁ。
 湖の近くに住んでいる人が、アルカを持ってるって言ってたけど……やっぱり、この人なのかな。でもなんか、持ってそうじゃないというか……間違ったかな?
 ノストさんに意見を聞いてみようと思って、私は彼を振り返った。するとノストさんは、珍しく虚空じゃなく……さっき女の人がイスに立てかけた、ケースに入ったバイオリンをじーっと見ていた。
 ……そういえばノストさんって、楽器は一通り弾けるんだっけ。
「もしかして、弾きたいなーって思ってたりします?」
「調達して来い」
「い、いやいや無理ですからっ!」
 大体、私はお金持ってない!今までの食費とか、全部ノストさんが払ってる……って……そ、そういえばそうだった~!忘れてた!っていうかこの人、何でそんなにお金に余裕あるの?い、一体いくら持ち歩いてるんだろ……ちょっと気になる。
 それはともかく……相変わらず素直じゃないなぁ。要するに、弾きたいんでしょ。
「おまたせぇ~♪」
「あ、手伝いますっ」
「あらぁ、ありがとうねぇ」
 そこで家の中から、白いカップ3つとティーポット、シュガーポットをお盆にのせて、女の人がにこやかに帰ってきた。私はイスから立って、やっぱりのんびりした動作でテーブルの上に置かれたお盆から、3つの白いカップ&ソーサーを私達と女の人の前に運んだ。
 その運ばれたカップに、女の人がティーポットから赤いリオティーを淹れていく。赤い水面が張ったカップを持ち上げてみると、ほわーんといい香り。うーん、やっぱりいいね。
 リオティーは、私もよく飲んでた、手のひら大くらいの果実のお茶。庶民でも手が届く安価。多分、ノストさんから見れば庶民の飲み物だと思う。
 私は、カップを持ち上げたノストさんに言った。
「ノストさん、リオティー初めてでしょう?飲みやすくておいしいんですよっ」
「えぇ、ほんとぉ?あなた、リオティー飲んだことないのぉ?あ、でも~、なんだか高貴な感じがするから貴族の方かしらぁ~?そりゃ飲んだことないわよねぇ~」
 お盆とティーポットを横によけながら女の人が、あまり驚いた様子じゃない様子で驚いて、一人で納得。確かに、ノストさんの貴族っぽい雰囲気?は、私も最初から感じてた……。
 早くもカップを傾けるノンシュガー党のノストさんを見て、お盆からシュガーポットを持ち上げた女の人が。
「あらぁ、坊や、お砂糖はいらないの?」
「ぼ……ぼ、坊や……!?」
 ……なぜか、私が衝撃を受けた。カップを落とさなかったのは自分で褒めたい……!
 ぼ、坊やって……なんか新しい。今まで「ぼっちゃん」だったのに。
 ノストさんはぼっちゃん呼びがお嫌いだから、坊やも怒るかなって思ったけど……到っていつも通り。引っかかるほどでもないらしい。……まぁ、こんなほんわかした人相手に怒るっていうのも、なんだか馬鹿らしいかも。
「えっと、私、ステラって言います。こっちはノストさんです。貴方は?」
「あ、そうね~、言ってなかったわぁ。わたしはねぇ、レネって言うの。レネ=パストリアよぉ~」
 角砂糖を1つ入れて、くるくるとスプーンで優雅にリオティーをかき混ぜる女の人……レネさんは、ニッコリ微笑んで答えてくれた。なんだか、見てるこっちもほんわかしてくる……和み系だ、この人。
 私もシュガーポットから角砂糖を2つもらって、それをリオティーに入れ、スプーンで混ぜながら、どう切り出そうか考える。こうしてお話できる機会ができたけど、どうすればいいかな……それとなく家の中に入って、それっぽいものを探すしかないのかな。うう、なんかこういうのって罪悪感が……。
 まずは他愛無いお喋りで仲良くなればいい!なんか作為的で嫌だけど、人と仲良くなるのはいいことだ!うん!頑張れ私!
「レネさんは、どうしてこんなところに住んでるんですか?」
 これは本当に疑問に思ってたから、聞いてみた。こんな場所に一人暮らしなんて、かなり物好きだと思う。……って、山奥に住んでた私の方が物好きじゃ!? で、でもでも、ちゃんと生活できるし、自然に囲まれてていろいろ楽しいよ!
 私がリオティーを一口飲んで言うと、レネさんは右のほっぺに右の人差し指を当てて。
「あー、やっぱり変よねぇ~。買い物しに町まで行くのも結構時間かかるし~、不便よねぇ」
「引っ越さないんですか?」
「うーん、そうねぇ。それも考えたんだけど、この家ねぇ、昔、お兄さんとわたしが暮らしてた家なのよぉ」
「お兄さん……ですか?」
「ええ。6年前、死んじゃったけどねぇ」
「えっ……す」
 リオティーのカップを両手で持って香りを楽しみながら、レネさんは何でもないような口調であっさりそう言った。私はいけないことを聞いたと思って、とっさに謝ろうとして。

 ギュウッ!!

「ったッッ……!!?」
 いきなり、足の甲をそりゃもう容赦なく踏まれた!さらに、グリグリと踏みにじられる!思わずピンと背筋を伸ばした私を、レネさんが不思議そうに見つめる。カップは置いていたから、リオティーはこぼれなかった。よ、よかった……いやそれよりも!
 私は、隣のノストさんをちょっと涙目でキッと睨んだ。ただ踏まれるだけならいいんだけど、いやよくないけどっ、その後の踏みにじられるのが最高に痛い……!
「の……ノストさんッ!! またですか!踏みにじるのはやめて下さい!ほんっとうに痛いですから!大体っ、何か言いたいことがあるなら口でお願いします!!」
「楽だからな」
「うっ、味を占めたんですか……!だからって、こればっかりやってたら、私の足がペラペラになっちゃいます!」
「その方が歩きやすいぞ」
「そ、そうなんですか?! た、確かに、風に煽られて意外と楽かもしれませんが!」
「……本気で言ってんのか?」
「え!? じ、冗談ですかッ!!」
 ノストさんに呆れた様子で言われて、ようやく冗談だって気付く私。大体、ペラペラなんかになっちゃったら歩けるわけないでしょ私!
「何でも謝って済まそうと思うな、馬鹿が」
 私が考えていることを見透かしたように、ノストさんがそう一言言ってリオティーを飲む。あ、そうだ……私、いけないこと聞いちゃったって、謝ろうとしたんだ。
 ノストさんの言葉で、私が何を思っているのか大よそ察したらしいレネさんは、私に微笑んだ。……何処か、寂しげに。
「気にしないでねぇ、もう6年も前なんだからぁ」
「あ……」
 ……なんとなく、ノストさんが言いたいことがわかった。
 レネさんは、お兄さんが死んだことをさらっと言った。それは、もうそれを乗り越えて、前向きに生きているから。そんな人に謝るなんて、ただその人が困るだけ。
 ……考えてみれば、私がそうだ。お父さんが褒められたり、尊敬されているのは嬉しい。だけど、私に目を向けられて……お父さんが死んで、一人ぼっちで可哀想にって同情されたら困ってしまう。逆に、その気持ちを思い出して悲しくなる。
 要するに……同情なんて、いらないんだ。
「……そう、なんですか……会ってみたかったです」
「うん、そうねぇ~……残念だわぁ」
 だから私は、そう言った。本当のことだった。レネさんのお兄さんが生きていたら、会ってみたかった。その言葉に、私のせいでお兄さんのことを思い出しちゃったレネさんは、口調はそのままに、少し悲しげに微笑んだ。
 それからそれを振り払うように、リオティーを飲んで……レネさんは、再び穏やかな微笑で話す。
「わたし達、捨て子でねぇ。わたしは、お兄さんに育てられたようなものなの~。お兄さんはナシア=パントが大好きで、だからこんなところに家を建てたのよぉ~」
「へぇ~、そうなんですかぁ」
「お兄さんはバイオリンがすっごく上手で~、オルセスで毎年開かれる演奏会にいっつも呼ばれてたのよぉ」
「えっ、お兄さんもバイオリン弾くんですか!? 凄いですね~!でもでも、レネさんもお上手ですよ!本当に!」
「あらぁ、そう?わたしは、お兄さんが死んでから始めたから、経験浅いのよぉ。でも今は、バイオリンすっごく好きよ~」
 普通の口調で言うとお世辞っぽく聞こえるから、私がぐっと拳を握って強気に言うと、レネさんは頬に手を当ててはにかんだ。
 かと思うと、レネさんは私の後ろを見て何かに気付いた顔をして立ち上がった。
「あ、来た来たぁ」
「え?」
 私が何だろ?と思って後ろを振り返ると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。
 少し離れた場所で、地面の上にちょこんと座っている。確かな証拠はないんだけど、よく会うあの猫ちゃんだって、なぜかすぐにわかった。
 あの猫ちゃん、何で私達の行く先々に現れるんだろ……?それになんだか、妙に人間らしい時があったりするし……何なんだろ?
 とか私が猫ちゃんをじーっと見たまま考えていると、横をレネさんが通りすぎた。彼女は片手に平たいお皿を持っていて、そのお皿には……白い液体。ミルクかな?
「はーいティオ君、ご飯ですよぉ~」
「へ?この猫ちゃん、レネさんが飼ってるんですか?」
 それにしちゃ……猫ちゃん……ティオ君?は、他人行儀のような気が。
 ミルクの満たされたお皿をティオ君の前に置いたレネさんに、私が問いかけると、レネさんはティオ君がミルクを舐め始めるのを見てから振り返った。
「ううん~、飼ってないわよぉ。よく遊びに来る猫ちゃんなの~」
「じゃあ、お友達ってことですね」
「そうねぇ、そういうことになるわねぇ~」
 猫ちゃんがお友達……か。なんかレネさん、ちょっとだけ私と似てるかも……私も、動物さん達と友達だったしなぁ。こんなとこに住んでれば、そうもなるか。
 ミルクを飲むティオ君を眺めているレネさんを見つめたまま、私は、すでにリオティーを飲み終わって、隣で暇そうに座ってるノストさんに声をかけた。
「ノストさん……あの猫ちゃん、」
「枕にちょうどよさそうだな」
「そうですよね……って、違います!! うっかり頷いちゃったじゃないですか!タイミング良すぎです!確かに枕にはちょうどいいと思いますが!もふもふしてそうですし!」
「なら狩ってこい下僕」
「げ、下僕って……あのですね~!」
 下僕って、よく言うよこの人。フェルシエラで、居場所だとか言っといてさ。
「そんなこと言ってると、こっそり夜逃げしちゃいますよ!」
 とにかく、下僕って言われて悔しい私は、反撃に出た!昔はどうでもよかっただろうけど、今は私がいなくなったら帰る場所がなくなる!だからきっと、私が夜逃げしちゃったら困るに違いない!
 しかーし!ノストさんはくだらなさそうに、「はぁ?」と言って。
「逃げられるわけねぇだろうが」
「そ、そうですね……」
 当然のように一言。確かに、ノストさんが本気モードで追ってきたら、逃げ切れるわけがない……。
 ところで枕にちょうど良さそうって、ノストさんが使うのかな……猫枕で寝るノストさん、ちょっと微笑ましい……。