罪の章

第3話 紅水晶の刃

 世界のはじまり——

 アスフィロスとドゥルーグの力がぶつかり、性質が打ち消され、純粋な魔力のみが残った。
 膨大な魔力は現界を創り、そこに精霊が法則を敷いた。
 理は、営みとしての命——動植物、そして現界の者を生んだ。
 自分ら以外からの命の誕生を、支配者たちは祝福し、〈王〉は糧ができたと喜んだ。
 この認識の差から、支配者らと〈王〉どもの戦が起きることとなる。

 源泉の力がぶつかった際、特性は精霊に、力は魔力に分離した。
 一方で、水底に澱が凝るように、余剰な力はわだかまった。
 やがて、特性による本能を得て、固有の存在へと変化した『それ』が〈王〉だ。
 支配者が炎だとしたら、魔力は力である熱、精霊は概念である熱さ、〈王〉は併せ持つ火の粉。より強く支配者たちの片鱗を持つ、一際大きい残滓だ。

 支配者の系譜である彼らには、法則としての命は無限に湧く虫同然だ。
 目障りならば殺し捨て、必要ならば喰らい糧とする。
 人々を喰い荒らす〈王〉どもを、現界の者たちは恐れた。
 搾取されるしかない彼らを憐れに思った支配者らは、〈王〉どもを殲滅することを決めた。己から生まれた存在が新たな命に害をなすなら、その手で処すのは当然だった。
 そうして、支配者による征伐が始まった。

 その最後に現れたのが、幾多の〈王〉の亡骸から生まれたヴァンデルだった。
 山の如き巨大な獣の彼の者は、大陸を駆け回り、現界の者たちを蹂躙した。
 その巨体に手を焼きつつも、支配者らは彼の者を滅ぼした。
 恐怖から解放され、現界の者たちは感謝と喜びに浸るのだが——


≪——現界の者たちは、闇を極端に恐れるようになった≫

 真上から、あるいは耳元で響く青年の声は、荒野を吹き抜ける乾いた風のようだった。
≪現界の者が……特にルプエナとリギストの民が、ドゥルーグ様を畏れ蔑むようになった原因はアイツなんだよ。ヴァンデルは大陸の南を荒らし回ったから、あの辺りはその風潮が強いんだ≫
 事実を平坦に述べる声音には、同胞の少女のように嫌悪もなければ、セルリアのように憐憫もない。
 ——ドゥルーグ従士・《裁定者》ノア。現界名を持たない彼は、従士の中でも長く現界を、変わらない現界の者たちを見てきた存在だ。

 秋空を飛翔する飛族らに、ノアは声のトーンを変えて聞いてきた。
≪ところでゼルス君、キルちゃん。アスフィロス様の依頼、受けるつもりなんだ?≫
「うん!あっちゃんを困らせるなー!って、ボッコボコにするんだ!」
 拳を突き上げて笑顔で言うキルア。
 その様子とは反対に、ゼルスは薄ら寒そうに腕をさすった。
「……その呼び方、やめろって言ってるだろ」
≪まだ慣れない?ゼルス君?≫
「うわ、鳥肌立つ……わざとだろ!」
≪いやいや、そんなことないよ、ゼルス君?≫
「こいつ嫌だ!!」
 くすくす笑うノアの声を、痛い頭で聞いてから、ゼルスは口を開いた。
「……で、ウェンはそういう意向らしいけど。お前らの主はなんだって?」
≪アスフィロス様と同じだよ。君たちに頼るかは悩んでたけど、君たちがやる気ならちょうどいいね≫
「あれっ?セウル、現界に来てるの??」
 キルアが意外そうに目を瞬いた。
≪いや、まだ冥界にいる。同属性とはいえ、性質が異なるから様子見だよ≫
「むー、残念。ウェンくんも来れないし、あの真っ黒クン、早くふっ飛ばしてみんなでワイワイしたいなー!」
≪キルちゃんはブレないね≫

 ——ヴァンデルを追ってカルファードを発ち、2日が経っていた。
 アスフィロス従士らに南だと指示され、出発した途中で、道案内がノアに替わったのだった。
 普通の眷属は気配で方角がわかる程度らしいが、ノアは現界を俯瞰しているため、具体的な居場所がわかるようだ。
 彼曰く——ヴァンデルの闇は、生粋の闇の力ラグナとは異なる。よって、何者も干渉・観測することができない。
 逆に言えば、不自然にノアの目に映らない地帯には、ヴァンデルがいるということだ。
「アイツの場所、わかるって言ったよな?」
≪影響範囲が広すぎるから、おおよそしか絞れないけど。それ以上の偵察は、リラかルシスに実際に見てもらうしかないね。今、現場に近かったルシスに向かってもらってる≫
「なるほどね。セルリアなら、大幅に遅れはとらねぇだろ」
 実際にセルリアと戦ったことがあるゼルスは、気楽な口調で言った。自分たちが行くまでの足止めには、役不足なほどだ。
 懐かしい名が出たからか、キルアが楽しそうに言った。
「セルリア、れーちゃんのトコロに帰ったんだよね?れーちゃん、元気になったかな?ボクも会いに行きたいな~!」
「そうだな。上手くやってるといいけど」
≪基本的にはあの子のもとにいるけど、こういう緊急事態の時は今まで通り、ドゥルーグ様の助けになるってさ。見ている限りでは、問題なさそうだね≫
「………………」
 人の事情をノアがさらっと答えていくので、さすがに居心地が悪くなった。
 まるで見守ってきたかのようだ。——実際、見ていたのだろう。彼は現界を常に視ているのだから。

「……ノアって、現界なら何処でも見てるのか?」
 恐る恐る尋ねると、従士の声は不機嫌そうに低くなった。
≪なんか勘違いしてない?俺が、ゼルス君の生活をすべて覗いてるとでも思ってるだろ?失礼だな≫
「それは考えたけど、だからその呼び方はやめろ!」
≪俺を軽蔑した罰だよ。ゼルス君の認識とゼルス君の今後のためにゼルス君に説明しようか≫
「わざとにも程がある!!!」
 もう今後、彼の機嫌を損ねるようなことはしたくないと思った。
≪——俺の『視界』も、普通と変わらないよ。君たちの五感だって、多くの情報を一度に受け取っても、その中から重要なものだけ意識したり、異質なものは気に留めたりできるだろ?それと同じ。その視野が、現界全体になっただけさ≫
「あぁ……わかんねーけど、理解はできた。注意して見てなきゃ、見てないんだな」
≪そういうこと。俺が常に視てるのは様子だけで、会話まではわからないけどね。こうして一部と連結リンクして会話できるだけで≫
 意識がひとつである以上、会話も一人分しかできないのは当然か。
 半年前の騒動では、二人はノアとほとんど接点がなかった。知っているのは名前と、ドゥルーグ従士で、青年で、魔法が使えるということだけ。実体があるのかも謎だし、空から突然話しかけてくるミステリアスな存在だった。
 しかしこの道程で、性格含め、性質がわかってきた。これほど心強い諜報係がいるだろうか。

「……で?具体的に、今ヴァンデルは何処だ?」
≪しばらく、ガートア山ふもとから動いてないよ。あの辺りは人も住んでないし、被害はなさそうだね。君たちの速度なら、あと2時間で着くと思うよ≫
「ねーねー、そーいえば〜〜」
 ふとキルアが、棒付きキャンデーをもむもむしながら聞いてきた。
「ノアも、ボクたちを手伝ってくれるの??」
≪え?≫
 聞いたこともない素っ頓狂な声が返ってきた。
 急に水を向けられた本人が、見たこともないがぱちくりと瞬きしているのが想像できた。
「だってノア、あんまりセウルたちと協力したくない感じだったよネ?」
「お前、突っ込んだこと聞くな……」
 気遣いなんて蚊帳の外なキルアに、ゼルスは空恐ろしささえ感じた。
 ノアと主人の間には何かしらの溝があるのは、ゼルスも感じていた。とはいえ、自分が首を突っ込む内容でもないだろうし、聞かずにいたのだが……確かに、今後も協力してくれるのか、彼のスタンスくらいは確認しておきたい。
 青年はしばし沈黙した後、静かに答えた。
≪……俺は、協力したくないわけじゃないよ。ドゥルーグ様が嫌いなわけでもない。あの人のことは尊敬してるし、必要があれば手を貸すよ。あの人に非はない。——俺の問題だよ≫
 傍観者のように語る口調は、なぜだか寂しげに感じた。
 まるで、どうしても解けないパズルを前に、途方に暮れているようだった。

 二人が何も言えずに黙り込むと、ノアははっと息を呑んだ。
≪……奴が移動し始めた。多分、ルシスが接触したんだ。さらに南に下って……この方角は……ルプエナ城か!≫
「エッ!! またお城?やばばーい!」
「カルファードみたいなことになる前に行かねーと!」
 二人の飛族は、飛翔スピードを速めた。


 秋色の地平線にルプエナ城が見えた辺りから、ノアの声が止んだ。どうやら怪物の力の影響下に入ったようだ。
 どんどん大きくなる王城。この距離ではまだ、ヴァンデルが本当に城内にいるのかわからない。
 なぜ、こんなにも「奴がいる」という確信が薄いのか。
「……そういえば、殺気がなくなったな」
 カルファードでは、息苦しいほどの殺気を撒き散らしていたはずだった。思えば、キルアの一撃後に立ち上がった時から、奴には生々しい気配がなかった。
 言われて気付いたキルアも声を上げた。
「ホントだ!アレ、キツかったよねー。やった~!☆」
「いや、今は良くねーから!城に突入したけどヴァンデルはいませんでした、だったらどうするんだよ!?」
「わーお、当たりかハズレか、ドキドキだね☆ ちゃんといるかなっ?楽しみだな~!」
「もはや居てほしい!!」
 本当にヴァンデルが城内にいた場合、城には国や軍の上層部がいることが考えられるため、国にとって大変な事態になる可能性が高い。
 奴を倒そうにも、一介の兵士は足止めにもならないし、広範囲を一掃する芸当もあるし、束になっても無駄死にするだけだ。高い実力を持つ兵がちょうどよく城にいればまだマシだろうが、今は国家間の情勢も平和なものだし、平時から厳重な警備をしているとは思えない。
 何にせよ、二人には城に突っ込むしか選択肢しかない。もしいなかったら、不審者として捕らえられるだけだ。

「ノアが話しかけてこねーし、ヴァンデルがこの辺にいるのは確かだけど……」
 あの殺気で位置が把握できると踏んでいたのだが、直前まで来てこんな博打をしなきゃいけないなんて嫌だ。どうにか、城内にいることを確実に把握したい。
 ゼルスは、顎に手を当てて考え込んだ。
 殺気以外で、奴の力の影響下、位置を知るには——
「……キルア。精霊の流れとか騒がしさで、ヴァンデルの位置がわかるか?」
 相手は、狂った闇の精霊を連れているはずだ。一縷の望みをかけて天才魔術師を振り返ると、鳥族の少女はパンっと手を叩いた。
「わかるよー!でも近くに行かないとわかんない!」
「さすが天才。ひとまず城に近付いて、城内にいるようなら、ここだってとこの窓を壊して突っ込む。城じゃなかったら、そのままスルーして南に行く」
「ふっふー、ボク天才!おっけけ~、スパパーン!ってやるね♪」
 褒められたのが嬉しいのか、うきうき楽しそうに言うキルア。
 そういえば、初めての依頼での少女の様子を思い出し、ゼルスは釘を差しておいた。
「おい、俺を巻き込むなよ……?」
「ダイジョブだってぇ〜☆ だってゼルス巻き込むには離れてるし〜」
「そーゆーとこだよ!!」
 キルアは以前、おおむね故意に魔法でゼルスを巻き込もうとした前科があるので少し怖かった。

 城の外周を移動するものが人だと判別できるほど近付いた頃、キルアが指差した。
「ムムっ、わかった!あそこ!」
「よし、頼んだ!」
 少女が示したのは、ルプエナ城最上階の大きな窓。眼前まで近付くと、細かい枠の向こうで、黒い人型が飛びかかるのが見えた。
「悪いコだー!! 『風の神の加護、レイス』っ!!」
 名唱のみで発動したのは疾風魔法。
 音もなく窓が無数に刻まれ、駆け抜けた一陣の風が礫を吹き飛ばす。
 きらきらと光の粒をまとって、二人は城内に着地した。
 人型は、外部からの乱入者を警戒してか、すでに飛び退いていた。
 遅れて、大粒のガラスが床に当たって砕ける音が背後で響いて。ゼルスは術者を振り返った。
「おい、三流魔術師!あんな音立てるレベルのガラス、城の人間に当たってたら国中追われることになるだろーが!」
「むむー、ボク一流だもん!端っこ刻めなかっただけだもん!」
「開き直るなよ!?」
「な、何者だ!? 次から次へと……!」
 ギャーワーうるさい二人に、後ろから声がかかった。
 改めて辺りを見渡すと、広い部屋だった。床や天井、調度品に至るまで見事な装飾が施されており、天窓から差し込む陽は窓で分散されて淡い光となっている。
 カルファードでアスナの広い自室を訪れていなければ、ここが身分の高い者の部屋だとは思わなかっただろう。
 その奥で、黒鎧の兵士たちが緊張した様子で立ち並んでいた。各々武器を構えているその向こう側では、壮年の男性が冷静な瞳でこちらを見据えていた。
 兵士らが、城内に飛び込んできた外野を危険視するのは当然だ。守られているということは、奥の男は要人なのだろう。
 説明が面倒だと思ったら、キルアがふふーんと胸を張った。
「もうダイジョブだよ!ボクが来たからには、あくりょー退散!☆」
「……それでいいか。その辺の兵士、ちゃんと守っとけよ!」
 敵ではないことを主張してから、二人は人型に向き合った。

 ヴァンデルは、カルファードで右腕をなくした姿そのままだった。腕の断面から煙のようなものが噴き出し、背後に従えた狂った闇の精霊と同化している。全身を覆う獣の如き黒毛は逆立ち、不気味に揺らめいていた。大鎌のような腕も光を反射し、到底人間とは認められない。
 ふたつの光る目が、ゼルスを見つめていた。
(……やっぱり、前と違う)
 前回の、でたらめな殺気。世界を呪わんとする憎悪。あらゆるものを殺す意思。あれを浴びただけで、気の弱い者は発狂して自害しただろう。あの気配だけで災害のようだった。
 それが、今は、何ひとつ感じられない。
 前が荒れ狂う嵐のようであれば、今は冷え切った樹木だ。物言わず、静かにこちらを見定めている。
 不気味な落差が何を意味するのか、まだわからない。
 だが、やることは決まっている。
 ゼルスは刀を下ろして構え、キルアに言った。
「キルア。落雷魔法、筆記ありでできるか?」
「へ?? でもアイツ、魔法効かないよ?精霊ちゃん散らしちゃうんだよ!」
「聞いた。けど、精霊は指示されないと動かないんだろ?その隙を与えなきゃいい。その辺はなんとかする」
「ン〜、だったらいっか☆ まっかせて〜!」
 作戦会議とも言えないやりとりをして、キルアは元気よく返事をした。

 彼女が魔法に集中するには、ヴァンデルの狙いを自分に絞らせなければならない。ゼルスはヴァンデルに向かって跳んだ。
「行くぜ!」
 勢いを乗せて刀を突き出すと、ヴァンデルは残っている左腕で刃を弾き上げた。
 ゼルスは刃を返し、再び斬りかかる。
 そうして少年が繰り出す一撃一撃を、人型はすべてさばいていく。
 しかし、一向に攻撃を仕掛けてこない。
 片腕をなくし、動きが鈍ったのか?
 ——否。こちらの速度に合わせているだけで、ヴァンデルの様子にはまだ余裕がある。
(舐めやがって……!)
 やがて、硬質の手の甲と刃が噛み合った。
 光る目玉と、視線が重なる。

≪お前は、わからずにいる≫

「——?!」
 突然、声が響いた。
 頭に直接語りかけたそれは、男のようにも、女のようにも聞こえる。音ではないから当然だったかもしれない。

≪わからずにいることに、気付かないふりをしている≫

「てめ……何言って……」
 覚えはないのに、心の奥底がざわりと波打った。
 ギチギチと、力が拮抗する音が響く。

「ゼルス〜!! いっくよーー!!」

 無音の世界を、元気の良い声が穿った。
 世界に色が戻り、思い出したように肺に息が流れる。
(何ボーッとしてんだ俺!)
 ゼルスはとっさにヴァンデルを蹴り、飛び退いた。
 空中で弓に持ち替え連射。人型は一本も逃さず、はたき落としていく。
 その空隙を、精霊への呼び声が引き裂いた。
「『天からの断罪、ギア』っ!!」
 巨人の剛腕が振り下ろされたような轟音とともに、大広間を光が塗り潰した。
 天井を貫通した魔法の雷撃が、間違いなく人型を呑み込んだのを見た。

 光が収まり始めてから、ヴァンデルを振り向く。
 奴は、ふらりとよろめき……踏みとどまった。
(足りなかったか!?)
 やはり一歩遅かったか。ゼルスは歯噛みした。
 ずっと防御一方だったヴァンデルが、動き出した。
 がら空きのゼルスに向けて!
「ゼルス!」
「っ……!」
 少年はとっさに刀を立て、攻撃をいなす形をとった。
 ——だが、黒爪はその手前で防がれた。
 彼の眼前で攻撃を受け止めた白刃は、黒い爪を弾き返す。
 それだけでなく、すかさず人型の懐を引っ掻いた。無駄のない滑らかな動きは、剣舞のようだ。
 それさえ寸前で回避し切ったヴァンデルは、しかし慎重に距離をとる。
 剣舞の主は、ゼルスに背中を向けたまま言った。

「そこの竜族。アレは首をはねたら死ぬか?」

(誰だ……?)
 赤の長髪が印象的な後ろ姿だった。切り捨てるような物言いは、剣を体現したかのよう。声音と体の線の細さから、女であるということだけはわかった。
「首か……1回、脳天に叩き込んだけど生き返ったから微妙だな」
「まだ試していないのか。援護しろ」
「誰だか知らねーけど頼んだ!」
 短い指示にゼルスは呼応した。
 彼女は一部始終を見て、状況とこちらの特性を把握したようだ。キルアの魔法も、ゼルスの剣術が中途半端で、弓の方が得意であることも。
 ゼルスもさっきの攻防で、女の剣の腕が一流だと理解した上で、彼女を中心に据えた作戦が有用と判断した。
 少年は刀を納め、弓を構えた。
「キルア、アイツを光魔法オウィラでぶん殴れ!」
「おっけー♪」
 キルアに指示するなり、ゼルスは人型に矢を放った。
 躱されれば、その移動先に。それも避けられれば、さらにその先に。矢の装填リロードの時間も計算に入れ、人型の行く手を阻み、誘導していく。
 ヴァンデルは身を捻り、切り払い、一本足りとも見逃さぬ正確さでさばいていく。
 まるで何度もかわされた応酬のような、鮮やかな対応だった。
(カルファードの時と、戦い方も違う)
 前は、荒くれ者のような印象だった。矢の雨を物ともせず、無理やりに突破してきた。
 だが今回は、曲芸師のような洗練された動きをする。基本的に迎撃、矢ですら被弾を避け、完璧にすべてを殺す。
(さっきの『声』も……)

「『光輝よディアスその気高き郷導は、永遠の祝福オウィラ エル サレト グラ ウェテ ベウス皇帝よ、我に力をオーテス ジ アラ キネラ』っ!!」
 甲高い声で詠唱が響き、横から飛んできたのは、光魔法ではなくキルア自身だった。
 少女はヴァンデルに肉薄し、笑顔で拳を握る。
 白く光る、大きな籠手をまとった拳を!
「あくりょーたいさーん!! てりゃーッ!!!」
 光拳は、華麗に人型の顎を捉えた。
 決して軽くはないだろう黒い体が、砲撃でも打ち込まれたように真上に跳ねる。
 無防備に伸び切った体躯に女が肉薄し、天を向く喉に向け、手元から銀閃が飛び出した。
 だが——

 天窓が割れ、破片が雨のように散った。
 悲鳴が上がり皆が頭を覆う。
 顔を背けていたゼルスは、慌てて部屋を見渡した。人型の姿はすでになく、キルアを振り返ると、少女は自分が壊した窓から外を見て首を振った。
 ——どうやら逃がしたらしい。
(仕留め損ねたか……)
 ヴァンデルは、あらぬ方向に首を捻って女の刃を回避し、天窓を引っ掻きながら、飛族らが壊した窓から飛び出していった。三人相手は不利と判断して、撤退を選んだようだ。
 どっと、兵士たちから歓声が上がった。
 何はともあれ、最大の危機は脱したらしい。
 ゼルスもやっと肩の力を抜くと、忘れていた疲労がじわじわと体を侵食してくる。息を吐いてから、近付いてきたキルアに聞いた。
「……キルア。あいつ、前と違ったよな?」
「ン~?なんか、精霊ちゃんの流れが良くなってた気はする~」
「闇の精霊か?狂ってるのに、良いとか悪いとかあるのか……?」
「前はブンブン!って感じで、さっきのはぐるぐる~!かな?」
 魔法に関してはさっぱりな上、キルアの説明が独特すぎてまったく伝わらないが、とにかく何か違ったらしい。
「あと、喋ったよな?」
「ふえ?? そーだった?」
 目をまんまるにするキルアには、嘘を吐いている素振りもなければ吐く理由もない。
(俺にしか、聞こえなかったのか……)
 幻聴だったのだろうか。そう考えるには明瞭すぎたが、何のあてもないので考えるのはやめた。

 ふと、傍に立ったままだった赤い長髪の女が目に入った。
「………………」
 賛美の声の中心にいる女は、ただの穴となった天窓を見上げて溜め息を吐き——
 下がっていた長剣の刃を、ひゅっとゼルスの首に添えた。
 しん、と場が静まり返る。
 驚いた顔をするキルアを横目に、ゼルスは気を張った。
 やっと、女の顔が正面からあらわになった。
「奴は何者だ?お前たちは奴と、どういう関係だ?」
 ——例えるなら、真紅の宝石でできた刃。
 美しい女だった。さほど他人に興味がないゼルスさえも、思わず目を見張るほどに。
 現実離れした美貌と無表情は、稀代の彫刻師が生涯をかけて完成させた彫像が如し。深赤色の絹織物のような髪は腰まで伸ばされ、切れ長の紫瞳はゼルスを射抜いている。
 すらりとした長身には、黒と黄土色オーカーのルプエナ軍服が隙なく着込まれており、彼女の美の発露を押し隠しているようでもあった。
 彼女の厳しい眼差しに、ゼルスは両手を挙げて無抵抗を示した。それを見て、キルアも慌ててならう。
「……さぁな。アイツのことは知らないけど、アレの討伐を依頼されてる。ここにいるのはアイツを追ってきただけで、成り行きだ」
 ——黒い人型と交戦している二人にまずは加勢し、最も正体不明の相手を退け、その後に二人組を詰問する。美女の対応は正しい。
 王城、しかも要人の御前にいる以上、彼女がすべての部外者を警戒するのは軍人として当然だ。

「シーラ、よい」
 膠着状態の二人の間に、男の声が割り込んだ。
 女軍人はそちらを一瞥もせず、無言で長剣を納めた。そのまま身を翻し、場を立ち去った。
 一声で彼女を下げさせたのは、先ほど兵士たちに守られていた要人の男だった。
 落ち着いた佇まいは、混戦の中、状況を静かに見つめていた瞳と同じだった。彼の褪せた金の髪は緩く巻かれており、貴族とは思えぬ引き締まった体には、金の刺繍がされた上質な黒の衣服をまとっていた。厳格な雰囲気を漂わす男は、王というより軍人のように見えた。
 その両脇には兵士たちが並んで控えており、玉座もないのに、謁見の間で王と対面しているような威厳がひしひしと肌を叩いてくる。
 要人の傍に立つ、側近らしい大柄な男が声を張り上げた。
「貴様ら、頭が高い!陛下の御前であるぞ!」
 そうして、うっすら予想していた内容が現実になる。
 ——ルプエナ王、ルード・メリス・クライナ。
 名前しか聞いたことがない存在が、目の前に立っていた。

 もちろん、王に道端で出会ったことなどないので、どう対応するのが正解なのかわからない。ゼルスは、ひとまずその場に膝をついた。
「ン?ゼルス、なんで座ったの??」
「……相手が王様だからだよ!面倒なことになりそうだから座れ!」
 そういえばキルアは、カルファード王と友達になったとか言っていたし、気さくな大帝国の王は笑って許していそうだ。王に傅くという知識が皆無かもしれない。
 なぜか怒られて、少女が首を傾げながら座ると、王ルードは言った。
「そなた達が来なければ、死傷者は今より増えていた。城を代表して礼を言う」
 言われてみれば、ヴァンデルが通ってきただろう入り口と廊下には、血だまりに倒れている兵士や壁に寄りかかっている使用人も見えた。二人が思う以上に、城内は混乱していたのだろう。
「よければ我が城で休んで行くといい。その後、あの黒い者について、私の話を聞いてもらいたい」
「は?なんで……」
「お城でのんびりできるの?! やった〜!」
 ゼルスの言葉を掻き消して、キルアが両手を上げて喜んだせいで、承諾と受け取られたらしい。
 側近の男が顔を強張らせる横で、王はひとつ頷き、横に控えていた女性に言った。
「客室の手配を頼む。夕食時に、二人を案内してくれ」
「かしこまりました」
 女性が一礼すると、ルードは歩き始めた。側近の男を先頭に、兵士たちも後に続く。
 王は、道端に倒れ臥す兵士たちに祈りを捧げ、近くにいた者に供養を指示しながら、広間から出て行った。
(結局、休むことになってるし……)
 ゼルスとしては、ヴァンデルの行方が気にかかったが、確かに長距離の飛翔後、一戦交えた後だったから、体の疲れはひどかった。後でノアに動向を確認することにして、今は懇意に甘えよう。

「こんにちは、お二方。陛下から、貴方がたのお世話を承ったリエラという者です。お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
 声をかけてきたのは、先ほどルードに指示をもらった女性だった。彼女も黄土色の軍服を着ていることから軍人だろう。
 てきぱきと物事が進んでおり、状況に置いていかれていた二人は、呼吸を思い出したように立ち上がった。
「あ、あぁ……俺はゼルス」
「ボクはキルアだよー!」
「では、ゼルス様、キルア様。客室に案内しますね」
「様って……様なんてつけなくていいぞ」
 思わず両腕を抱えたゼルスの脳裏で、ノアが笑っている錯覚が過ぎった。
 女性はくすくすと笑った。
「それはいけませんわ。お二人は今、陛下のお客様ですから。その後であれば考えますわ」
「マジか……」
「わーいボクお客サマ〜〜!!」
 こちらです、と先頭を切る女性の後に続く。
 廊下の惨状は、カルファード城前広場の惨劇を思えば、軽い方だった。どうやらヴァンデルは交戦は最小限に、まっすぐ要人——王を狙った様子だった。
 丁重に運ばれて行く死者たちを見ていると、もう少し早く来ていれば救えたのだろうか、などとくだらないことを考えてしまう。隣のキルアと目が合うと、彼女も少し悲しい顔をしていた。
 そんな様子の中、死者や行き交う人々を眺めていて気付いたのは、思ったより兵士の数が少ないことだった。

「……なぁ。城って、こんなに守備が手薄なもんか?俺たちが来なかったら、今頃ルプエナは、前代未聞の王暗殺事件で大騒ぎだぞ?」
「ええ……弁解の余地もありません。お恥ずかしいところをお見せしました。ですから、貴方がたには感謝してもしつくせないのですよ」
 女性は肩越しに苦笑した。
「細かな話は国家機密になるのでお話しできませんが……簡単に説明すると、ちょうど城にいる兵士たちが少ない時間帯だったのです。言い訳にしかなりませんけどね」
「それって……」
 ——それは偶然なのか。
 払拭しきれない違和感に口を閉ざすゼルスに、女性は安堵した声音で続ける。
「シーラさんが来てくださっていたので、間一髪でしたわね」
「……あの女か」
 助勢に来た赤髪の美女を思い出して言うと、キルアが振り向いた。
「そーいえば~、あのヒト、ボクたちが来た時にもう近くにいたよネ??」
「そうだな。お前も気付いてたか」
 城内に飛び込んだ時、鋭い眼光を感じた。敵意は感じなかったので気に留めなかったが、あの女が登場してきて納得した。
 彼女の優れた状況判断、腕前などを考えても、重要なポジションの軍人だろう。
「ええ、そうですね。あの黒い人間に向かう寸前、貴方がたが乱入してきたので、少し様子見していたようです。シルフィラ・メリス・クライナさんですわ」
「は?メリス・クライナって……王族?軍人の王女?」
「ええ、ご名答です。正式には軍属ではないのですけれど」
 自分で何を言っているのかよくわからなくなって、ゼルスは額を押さえた。
 メリス・クライナは、先ほどのルプエナ王ルードの家名。つまりあの女は、ルプエナ王族——ルードの娘だ。
 王女があれだけ腕が立ち、最前線に立っていたなんて誰が想像しただろうか。

 それより、ゼルスが気になったのはもっと根本的なことだ。
(……ルプエナの王女なんて聞いたことないぞ。どういうことだ?)
 ルプエナで暮らしている以上、王族の話題は噂でも聞くものだ。しかし、王と第一王子は名前を聞いたことがあっても、王女は存在自体が初耳だった。
 ゼルスが違和感に首を傾げていると、キルアもうーんと首を傾げた。
「おーじょさまって、あっちゃんと同じってコト?確かに似てたかもー?」
「……言いたいことはわかる。王女……いや貴族らしくないってことな」
 アスナといい、あの女といい、一般的な姫のイメージとかけ離れている。そういえば二人とも赤い髪だな、とふと思った。
「ボク、仲良くなれそーな気がする!」
「……俺も」
 キルアの根拠ない一言とは異なり、ゼルスは土壇場のやり取りのスムーズさを思い出して頷いた。