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Trance 01 孤独世界

 父がいた。
 父もまた、剣聖ヒースが入る前の教団で活躍していた、グレイヴ教団のゲブラーだった。
 ある日、長期休暇でタミア村に帰ってきていた父が、休みが明けると同時に村を発った。
 「早く帰ってきてね」と言った言葉に、笑顔で頷いて、背を向けた。
 数日後、父の友人の見知った顔の男がやって来た。
 脱いだ帽子を胸に当て、母と自分に静かに告げた。父の死を。
 涙を流さず、ただその事実を受け止めた母の隣にいた自分に、男は、父の形見だと言って渡してくれた。

 グレイヴ教団に属する神官の証である、あのメダルを。

 

 

 

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 ――これを受け取った時から、自分の道は決まっていたのかもしれない。
 6年の歳月を経ても輝きを失わない金色のメダル。握り締めたそれを見つめて、少女は視線を上げた。
 小さな少女から見れば、あまりに大きな影だった。長方形の白塗りの石造の建物。その上部からいくつか立ち並ぶ尖塔の先には、同じ数だけぶら下がっている黄金の鐘。芸術など知らぬ彼女にも伝わってくる神々しさは、この建物の設計者の信仰心ゆえか。
 グレイヴ教団総本山・セントラクス。その本拠地たる大聖堂だ。
「すっごーい!! ねね、イソナ姉!村の教会よりすっごく大きいよ!わたし、こんなに大きい建物初めて見た!」
「ルナ、頼むから静かにしてくれ……物凄く注目を浴びてるぞ……」
 小柄な少女が、がばぁっと隣の女性を振り返る。勢いに流れて舞った淡い茶色の髪は、毛先が肩口で揺れる長さ。大きなワインレッドの瞳は、今は宝石のようにキラキラ輝いていた。神官服を着ているわけでもなく、到って質素な服装だ。
 13歳のルナ=ベルシア=ゾークは、嘆息する女性に言われて、キョロキョロと辺りを見てみた。それまで気付かなかったが、確かにたくさんの人達がこちらを見ている。奇異なものを見る視線。むしろ軽蔑的に見えた。
「田舎者だと自己主張してどうするんだ……」
「田舎の何が悪いの!わたし、タミア村好きだもん。村が大好きって主張してるの!」
「まったく……わかったわかった」
 呆れたように吐息をこぼすのは、爽やかな蒼い髪が印象的な女性だ。怜悧な雰囲気を醸しているが、今は少女のペースに呑まれてしまっている。
 ルナの義姉・イソナ=ファリ=メルティ。21歳の彼女は、青緑の双眸を開くと、「行くぞ」と言って大聖堂の白い階段を上がっていく。ルナも「はーい!」と元気に返事をして、スキップで隣に並んだ。
 警備らしいゲブラーが両端に立つ、大聖堂の大きな扉。開け放たれているそこをくぐると、外観から見て取った以上に中の空間は広かった。そこは本堂である礼拝堂だった。
 長イスが整然と並び、真ん中に赤い絨毯が伸びている神聖な空間には、数人の人影。信者と神官が入り混じっていた。――その中に、青緑のロングコートを見つけて、ルナの顔が輝いた。
「みっけ師匠!!」
「ちょ、おいこら……」
 そのロングコートをびっ!と指差し、ルナは大声で言い放った。イソナが制止をかけたが時遅し。
 この大聖堂に限らず、どの教会も、建物内の音が反響するように設計されている。司祭または司教の声が、聖歌隊の歌声が、よく響き渡るように。
 そんな目的で作られている教会は、たった今、別の用途で使われて。そういうわけでルナのその言葉は、ひっっじょーーによく響き渡った。思わず蒼くなるイソナの目に、奥の方で年老いた神官が表情を引きつらせているのが見えたが、きっとお疲れなのだろうと思っておいた。
 中にいた人々が、何事かと振り向く。そして、彼女に指差されたロングコートの男も。
 長い灰色の髪を束ねた、大柄な男だった。彼は、扉のところで仁王立ちしてこちらを指差している小さな少女を見て、露骨に顔をしかめた。
「……おいおい、マジで来たのかよ……」
「『弟子になりたかったらセントラクスでティセドになれ』って言ったよね?ほらほら、来たから弟子にして!あ、まだティセドにはなってないけど、これからなるから!ね、イソナ姉!」
「う……あ、あぁ……」
 激しく他人のフリをしたいができずにいるイソナに、ルナが屈託なく笑いかける。礼儀と誠実さが求められるレセルを志望してやってきたイソナは、あまり目立ちたくないと思っていたのだが、この少女が許してくれない。義妹が今だけ悪魔に見えた。
 一方、男は額を押さえて大きな溜息を吐いた。その隣にいた、上級神官レセルの証の黒い羽織を着た男性が珍しそうに言う。
「ヒースさんが弟子を取るなんて、意外ですね」
「いや……巡礼でタミア村に行った時に、剣聖だーってえらい絡まれて……どうせ来れないと思って、あんなこと言ったんですが……マジかよ……」
「あはは、それは困りましたね」
 グレイヴ教団には、2年に一度、神官たちが各地の聖堂・教会を巡礼するしきたりがある。地域の特色や土地柄を身を持って知ること、及び各地の神官たちとの交流を重視したものだ。
 それでこの間、タミア村の教会に立ち寄ったこの男――剣聖ヒース=モノルヴィーに、ルナは弟子入りを志願したのだった。あとは彼が語る通り。
 対してイソナは、タミア村の教会の司祭になるべく、本部でティセドになり勉強するためにやってきた。……いや、本当は彼女が一人で来るつもりだったのだが、ルナに散々付きまとわれ、仕方なく折れて連れて来た次第だ。
 困り顔のヒースの様子を見て察したイソナは、ルナの肩に手を置き、諭すように言う。
「……ルナ、剣聖様も困ってるし、やはりやめた方がいい。それでなくても、ゲブラーに入りたいだなんて心配だ」
「えー!だってわたし勉強キライだし!ゲブラーの方が体動かせて楽しそうでしょっ?」
「いやそういうことじゃなくてだな」
「……それに」
 少女の軽々しい理由に硬直していたその場の空気に、不意にトーンの落ちたルナの声が浸透する。
 思わず言葉を止めるイソナから、ヒースにくるっと向き直ると、自分の小さな胸を叩いて。少女はイソナを背に守るように手を差し出し、剣聖を見て言った。
 まっすぐこちらを射抜く瞳。ワインレッドの双眸は、この時だけは大人びて見えた。
「それに、イソナ姉はわたしが守る。今まで守られてきたから、守りたいの。でも、わたしはまだ戦えないから……だから、ヒースさん!お願いします!」
 切実な叫びだった。がばっと頭を下げて、ルナは懇願する。
 ――グレイヴ教団の第二階級ゲブラーを志望する者は、目的があるものとないものに大別される。例えば、誰かのためだと言う者もいれば、仕事がほしかっただけだという者もいる。
 そのうち目的があるものは、大体が「人々のため」という、崇高で、しかし曖昧な理由である。尽くす対象が漠然としているせいか、そういう者達は空虚感に苛まれることが多い。
 しかし、彼女のように、明確な相手のためにというのは……
 レセルの神官が、どうするのだろうと思ってちらっとヒースを見やった頃には、ヒースの姿はそこにはなかった。
「教団で人々を守るために強くなるんじゃなくて、一人を守るために強くなる、か。それ、いいと思うぜ」
 床を見つめるルナの頭の天辺……つまり、すぐ正面から、面白そうな声がした。
 慌てて顔を上げると、いつの間にか移動してきていたヒースが、そこにしゃがんで笑んでいた。
「俺も似たようなもんだ。こんなふうに有名になっちまったけどな……俺は、一人のためにしか戦ってねぇつもりだ」
「そう……なんですか?」
「俺は別に、英雄なんかじゃねーからな。一人が手一杯だ。ひとまず、そいつのために頑張ってれば、他の大多数のためにもなるもんだ。目的ははっきりな。……まぁひとまず、入団する手続き済ませてこい」
「え……?!」
「なっ……け、剣聖様、それは……!」
「ったく、面倒見切れねぇだろうから取らなかったんだがなぁ……」
 驚きに目を見張るルナの横で、断られると思っていたイソナは予想外の展開に狼狽する。ヒースはぶつくさ言いながら立ち上がると、大きな目を見開く小さなルナを見下ろして聞いた。
「お前、名前は?」
「あ、ルナ……ルナ=B=ゾークですっ!えっと、あの……よろしくお願いします、師匠!!」
 13歳の少女には、この感激をどう表現したらいいかわからず、頭を下げることしか思いつかなかった。再び下げられた少女の頭を乱雑に撫でながら、ヒースは笑った。
「ルナか。お前、いい目してるよ」

 

 

 

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 混沌神語は、神と人が意思を伝え合うために生み出した言語らしい。
 神が話す創生神語は、人には聴こえない音で話されるため、意思の疎通が難しい。その創生神語を基に、昔の人間が、人でも聴こえる音で構成して作り出したのが混沌神語だ。
 今でこそ、混沌神語は過去の言語となっているが、昔はこれで人々が会話していたのだと思うと感慨深い。
 現に今なお、その名残は各地に残っている。このセントラクスだって、混沌神語で<気高き聖地>なのだから。

「……ーい、お~い。聞いてる?」
 机の上に開いた本をぼんやり見下ろしていたら、正面から声をかけられた。思考の世界から引き上げられ、顔を上げると、黄の縁の神官服を着た少年が向かいに座っていた。自分が広げている分厚い本と似た本を、閉じたまま机に置いている。
 溌剌とした淡い青の髪が特徴的な少年だった。自分とは同い年に見える。……というか、よく見かけた顔だ。
「……ラヴァン、か……」
「よっ、勉強お疲れさん。サリカは勉強熱心だな~。それ、混沌神語だろ?ティセドはまだ気にしなくてもいいヤツなのにな」
「個人的に興味があるだけだよ」
 そう言って微笑んだ瞳は、落ち着いたオリーブ色。エメラルドグリーンのショートカットをした、15歳のサリカ=エンディルは、同じティセドであるラヴァンにそう返した。
 このラヴァン=フローテ少年は、友達と言うより知り合いだ。2ヶ月前に入った同じ同期生で、たまたま言葉を交わす機会が何度かあり、顔見知りなだけで。少なくとも、サリカはそう思っている。
 静かな図書室内では、自分達以外の話し声はしない。もちろん声量を抑えて話しているが、それでも静寂にはよく響く。
 ラヴァンは、人懐こいことで有名だった。噂など聞かずとも、その様子を見ていればすぐにわかる。そんないつもの調子で、彼はサリカに絡んでくる。
「ところで、ずっと前から気になってて、ぜひともサリカに聞きたいことが、2つほどあるんだけど」
「私に聞きたいこと?」
 両目を瞬く。確かに自分は、まともに友達も作っていないから、同期生からは得体の知れない存在だと思われていることだろう。噂話もよく聞こえてくる。が、こうして直接聞きに来たのは、ラヴァンが初めてだった。
 ぴっと人差し指を立てて、ラヴァンは真剣な赤瞳でサリカを見つめる。
「1つ。サリカは……男、だよな?」
「………………」
「……え、ち、違った!? ご、ごめ……」
「いや、間違ってないよ」
「あ、だよな~、よかったー……!ずっとどっちかな~って思ってたんだけど……どっちかっていうと、男かなーと」
 ホッと胸を撫で下ろし、「悪い悪い」と頭を掻きながら苦笑するラヴァン。結構失礼なことを聞いているのに、不思議と憎めないのが彼の売りだ。
 サリカは小さく笑って、さっき一瞬沈黙した理由の真相を聞いてみた。
「私は、女に見えるのかな?」
「それそれ。一人称が『私』だからさ。貴族の世界じゃ普通だけど、貴族っぽくは見えないし。顔立ちも中性っぽいしさ」
「じゃあ、何処で男だって判断したの?」
「体。……変な意味じゃないぞ!女にしては、背とか肩幅とか大きいかな~って」
「ふーん……」
 ラヴァンの的確な推理に、アゴに手を当てサリカは相槌を打つ。
 確かに自分は、今現在、どっちにも見られるだろう。髪は伸ばすつもりでいるからショートカットだし、ラヴァンの言う通り一人称もそうだ。だが……性別が男である以上、体の発達だけはどうしようもないか。
「サリカはさ、自分が中性っぽいって自覚、あるのか?もしかして女として育てられたとかそんな感じか?」
「あるよ。いろいろあってね」
「あ、そう……」
 多くは語らず、微笑んでサリカは曖昧にその問いを受け流す。妙な圧力を感じたラヴァンも、それ以上は踏み入れずに引き下がった。この潔さが彼の魅力だろう。
 次の問い。ラヴァンはピースで「2」を示してから、それを1本だけにして、びしっとサリカの手元の本を指差した。
「2つ目。実際のところ、サリカはどっち希望?レセル?ゲブラー?」
「ゲブラーだよ」
「じゃあ何で勉強してるのさ?いつもこの時間帯、この図書室にいるだろ?」
「へぇ……よく見てるね。この部屋にいる時、いつも感じてた視線は君か」
「あ、いや……ずっと話しかけようと思って、なかなか話題がなくてさ……別にストーカーしてたわけじゃないぞ!本当に!」
「わかってるよ」
 必死な形相で訴えるラヴァンに、サリカはくすくす笑って頷いた。その視線は害があるものには感じなかったから放置だったのだが、ラヴァンだったのか。
 かく言うラヴァンも、どちらを希望しているのか判断しづらい。どうやら彼は迷っているらしい。外で組み手をしている様子をよく見るから、どっちかと言うとゲブラー希望だろうが。
 ……そんなこと、本人に聞けばすぐにわかることだ。
 しかし、大して興味はなかったから、聞こうとはしなかった。この推論が外れていようが、どうでもいい。
「お、昼だ。なぁサリカ、メシ食いに行こーぜ」
 まさかサリカが自分のことを考察しているなんて思っていないラヴァンは、時計を一瞥し、席を立っておもむろにそう言ってきた。
 今まで人当たりよく受け答えしていたサリカの目が、キョトンと丸くなる。そんな言葉をかけられたことがなかったから。
 ぱたん、と本を閉じて、慎重に言う。
「……友達と行ってきた方がいいんじゃないのかい?」
「ぶっちゃけ友達っていないぜ?みんな知り合い。相手呼ぶのもめんどいし、今日はお前と食べる」
 何でもないように言い放ち、一度も開いていない本を持ったまま、ラヴァンはうーんと伸びをする。よく見ると、その本は教団用語辞典だった。通常、何かの文献を読む時に併用されるもの。つまり、一冊だけで読むことはめったにない。
 ――最初から、自分に声をかけるのが目的だったらしい。その目的と言い、今の言葉と言い、変わった少年だ。
 友人が多い彼の口から、そんな一言が出ると思っていなかった。……少しだけ、興味が湧いた。
「……ふーん……ラヴァンは変わり者だね。人懐こいけど、相手には依存しないのか。そりゃ好かれるね」
「って、なに人の性格を分析してるんだよ。なんか恥ずかしいだろっ。つーか、変わり者ってお前に言われたくないし!」
「はは、そうだね。うん……せっかくだし、お誘いに乗ろうかな」
「おう、そうしとけ。ラヴァン様オススメの超美味い店、教えてやるよ」
 サリカが立ち上がって言うと、ラヴァンは得意げにニカっと笑った。

 本を戻し、変わり者同士の二人は図書室を出て、大聖堂内を歩いていく。
 大聖堂は、上空から見ると、大きな中庭を抱く長方形をしている。中庭は主に訓練場となっていて、ゲブラーを志す者たちがよく活用している。その中庭の外周は回廊となっていて、一種のカフェでもある。食事やお茶をしながら、のんびり中庭の様子を観察することもできる。
 回廊に並んでいるテーブルで昼食をとっている神官達を横目に、二人は風渡る回廊を歩いていく。
 何気なく中庭に目をやると、昼食時だというのに随分と人がいることに気付いた。昼前の講義が延長しているのか。ゲブラー志望の何組もの人々が組み手をしている、いつもの風景。
「……?」
 ……いや。あろうことか、していなかった。
 その場の全員が、組み手もせず、皆突っ立ったまま、食い入るように同じ方向を見ていた。中庭の中央……1組のペアが繰り広げる組み手に、皆、目が釘付けになっていて。
 それもそのはず、よく見るとそのペアの片方は、剣聖ヒース=モノルヴィーだった。あの青緑のロングコート、間違いない。
 もう一人は――
「てーい!」
「ほら、そんなもんか~?」
 ヒースに遠慮なく殴りかかり、あっさりかわされている拳を振るうのは、大柄な彼の傍にいるとやけに小さく見える少女だった。
 ヒースほどの男なら腕力だけでへし折ってしまいそうな細い腕を振り回し、淡い茶の髪の少女が叫ぶ。
「ああもー!ししょームカつくっ!! これならどーだッ!」
「ってお前、本当に素人かよ!? 肘で鳩尾狙う初心者がいるか!?」
「何で避けるのー!! どーせ師匠なら倒れないでしょっ!」
「確かに昏倒はしねーが急所打たれたら痛いモンは痛いんだよ!」
 ワーギャー騒ぎながら繰り広げられる、大の男と年端も行かない少女、奇妙なコンビの組み手。ヒースもヒースで大人げない。
 注目している全員が、さまざまな感情を込めた視線で、彼らを見つめている。好意、嫉妬、羨望、軽蔑――視線の色は絶妙に混ざり合っていて、結局その光景からは何も感じられず、ただ事実だけが見える。
 遠くのその様子に、サリカもまた目が離せないでいた。彼は純粋に、驚きから。
 剣聖ヒースが誰かと組み手をしているなんて、初めて見た。見たことあっても、彼の相棒カルマとの手合わせだ。あんな素人の少女と組み手をしているなんて、まるで稽古しているみたいだ。
 サリカが興味を示したことを見て、横から、知っている口振りでラヴァンが説明してくれた。
「初めて見たのか?数日前からあんな調子だぜ。組み手っていうか、じゃれあいっていうか……」
「……片方はヒースだろ?もう一人は?」
「ルナって言うんだってさ。数日前にヒースに弟子入りしたって、神官の間で噂になってた」
 ……なるほど。人づての噂なら、友人のいない自分の耳に届かないのも当然だ。初耳だった。
 なら、あれは稽古『みたい』ではなく……本当に、稽古なのか。
 ――弟子を取らないことで有名だったヒースの、一番弟子だと言うのか。
「ヒースって、弟子取らないんじゃなかったっけ?」
「だよなぁ……ま、気が変わったんじゃないか?その辺はよくわかんねーや。そんなことより、腹減ったメシメシ!」
「あぁ、うん……」
 放置していたら、中庭の人々と同じようにずっとその組み手を見ていそうなサリカの背を、ラヴァンはばんっと叩いて先を歩いていく。サリカはもう一度だけ、ちらっとその組み手を振り返ってから、離れていくラヴァンの背を追いかけた。

 

 

 

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 神官たちは、所属している教会で暮らしている。
 総本山セントラクスに配属されているならセントラクスの大聖堂、首都イクスキュリアなら同じく現地の聖堂に。
 ティセドも同じだ。最初の階梯であるティセドには、セントラクス本部との手続きを済ませれば、セントラクスでなくても神官になることはできる。ただし最終試験はセントラクスで行われるので、結果的にはセントラクスにいるティセドが最も多い。
 サリカもラヴァンも、そのうちの一人だ。
(……またボーっとしてた……)
 図書室は、勉強熱心なティセドのために、1日中、開いている。だから没頭していれば、あっという間に時間は過ぎていく。
 今まで図書室にこもっていたサリカは、3階にある自分の部屋に、疲れた足取りで向かっていた。部屋は数人の相部屋。皆が寝静まった後、夜中にドアを開閉するのはやはり気が引ける。立て付けが悪いのか、音が結構ひどいのだ。
 とっくに日は落ちており、すっかり夜の帳が下りた後だ。草木も眠る真夜中である。図書室で周囲が真っ暗なことに気が付いて、サリカはようやく我に返ったのだった。

 ……はぁ。吐息がかすかに白く曇って吐き出される。
 夜風の冷たさに額をさらしながら、サリカは自分自身に溜息を吐いた。
(……いつまで引きずってるんだ)
 今までずっと、勉強に集中していたわけではない。最初はやはりそのつもりだったのだが、気が付けば、いつも放心状態でいる。
 ……実際のところ、勉強や受講をしているつもりでも、いつの間にかボーっとしていることが多い。本を見つめたまま、何処か遠く意識は一人歩きしている。
 そんなんだから、組み手も集中してできない。入団して2ヶ月経つが、本当に何もしていないと自分で思う。
 まるで抜け殻。自分の心がここにないような錯覚を覚える。
 ――いや、錯覚ではないのだろう。これが自分の選択なのだから。
 ある意味では、これでいい。だがやはり、このままではゲブラーにはなれない。
 何か、現実に意識を繋ぎ止めてくれるような、きっかけでもあれば――
 自分に呆れながら、3階へ至る階段を上っていくと。……上階に、人の気配があった。そこまで実戦経験を積んでいるわけでもない自分でもわかるくらい、だだ漏れの気配が。
 3階の階段付近はベランダになっており、中庭が一望できるようになっている。そこから吹き込んできた夜風が、少し長めのサリカの髪を揺らす。
 ……夜中に起きている物好きは、自分だけじゃなかったのか。
「……、…………」
「……?」
 しかもどうやら、何か喋っているらしい。
 どうも居心地が悪いので、なんとなく息を殺し、足を忍ばせて階段を上がっていくと――それは、鼻歌だった。女の子の声が、少し嬉しげにハミングしている。この大聖堂で、聖歌隊以外に歌を歌っている神官など見たことがない。恐らく自分より物好きだ。
 こんな真夜中に誰だろうと思いながら、ご機嫌なようなので、邪魔をしないように立ち去ろうと思った。静かに上がっていきながら、否応無しにその鼻歌を聴く。
(……え?)
 ――最後の一段を上り切って、思わず固まった。
 奇しくも、そのメロディは……知っているものだったから。
 呆然と、ベランダの手すりの方を見る。
 ふわふわ揺れる淡い茶の髪の小さな後姿が、中庭を見下ろして歌っていた。
 ――昼間、ヒースと組み手をしていた、ルナと言う少女だった。

 やがて、鼻歌が終わった。
 大して上手いわけでもないのに、いつの間にか聞き入っていたサリカがはっとした頃には、その背はくるりとこちらを向いていて。
 大きなワインレッドの瞳と、ばっちり目が合った。
「………………」
「………………」
 ……沈黙。
 互いに驚いて、声が出ない。しばし見つめ合う形になった。
 ――やがて、先に動いたのは少女だった。もぞもぞ動き、頬をポリポリ掻いて、照れ臭そうに笑う。
「…………え、えへへ……誰もいないと思ってたんだけどな……こんな夜中に、うるさかったかな?」
「……いや……そんなに大きくなかったよ」
「そっか、ならいいの。でも聞かれたのはちょっと恥ずかしいな~」
 ぼんやりしたままサリカが答えると、少女は困ったように笑う。さっきの一瞬の気まずさが嘘だったかのような、子供とは思えない落ち着いた、しかし子供らしい屈託ない対応だった。
 ――さっきの鼻歌。聞き覚えのあるメロディ。
 数えても、2度ほどしか聞いたことがない。でも、鮮烈に記憶されている音の配列。
 2ヶ月前に聞いた曲。
「……さっきの歌って……」
「あ、えっとね、『祈りの夜』って言うの」
「……やっぱり……」
 真偽のほどを、思わず少女に問いただしていた。それほどの興味は、久しぶりに覚えたような気がする。
 やはり、聞き間違えるはずはなかった。サリカが小さく呟いた声を聞き取ったルナが、ぱっと顔を輝かせる。
 子供特有の、無邪気な眩しい笑顔だった。
「知ってるのっ?! ……あ、でも、教団の歌らしいから知ってて当たり前なのかな?」
「私は……個人的に知ってるだけだよ」
「へー、そっか!わたしもだよ!わたしのお母さん、村の司祭だったんだけどね、昔、よくピアノ弾いてたんだっ。あなたは?」
「……私は……」
 ――その歌にまつわる記憶を想い出として振り返ることは、まだできない。忘れられないくらいはっきりと覚えているのに、思い出すことを頭が拒絶する。そして頭の中が真っ白になる。
 そのせいで、サリカはとっさに答えられなかった。傍から見れば、口ごもったようにしか見えない。
 すると突然、ルナは慌てた様子で、「ごめんごめん!」と謝ってきた。
「だよね、自己紹介もしてないのに、いろいろ聞いてごめんね!わたし、ルナ。あなたは何て言うの?」
「……サリカだよ」
「うん、サリカね、覚えたっ。ね、少しお話ししない?」
 さっきの問いは忘れたと言わんばかりに。少女は軽快なテンポで話を進め、さっきの問いを二度とすることはなかった。
 手すりに寄りかかり、隣を指しながら言うルナ。剣聖ヒースが選んだ少女に興味があったサリカは、誘われるまま、その隣に並ぶ。横目でルナを見ると、彼女はよく見える星空を仰いでいた。
 昼間見た時も小柄だと思ったが、こうして近くで見ると、より小柄に見えた。背丈は、自分の首くらいまでしかない。何歳なのだろう。
「わたし、ここに来たの、3日前なんだ。だからね、キンチョーして眠れないの」
「3日間も?」
「うん、そう。ここでぼんやりしてから、やっと眠くなってきて部屋に戻るんだ」
「へぇ……気付かなかったな」
「こっそり起きてるからねっ」
「そっか」
 「みんな寝てから、ここに来てるから」と、ルナは笑う。よく笑う少女だ。そしてそれは、すべて心からの純粋な笑み。
 相槌を打って、微笑するサリカ。その彼に、ルナはふと、何気ない静かな口調で言った。
「……ねぇ、何かあったの?」
「え?」

「あなた……なんだか、寂しそうに笑うんだもん」

 ――理解は遅れてやってきた。
 初対面の少女の口から放たれた一言は、深く、彼の心を貫いていた。
 愕然として、固まってしまったサリカの様子に、ルナははっとした。
「あ……ご、ごめんね、いきなり変なこと言って。でも、何か悲しいことあったのかなって……」
「…………そう……見えるんだね……」
「……大丈夫……?」
「……大丈夫だよ」
 努めて深呼吸をし、ようやく硬直が解けたサリカは、微笑んだ。――ルナの指摘したように、何処か寂しげに。
 その微笑を再び見て、何と言えばいいのかと、ルナは戸惑った様子だった。その微妙な空気を振り払うように、サリカが先導する。空を見上げて問いかけた。
「ヒースの弟子って、本当?」
「あ……え?あれ、知ってるの?わたし、義理の姉さんがいるんだけど、その人のために強くなりたいの。それで頼み込んだら、いいよって」
「ふーん……ヒースは、弟子を取らないことで有名だったんだけどな」
「そーなの?っていうか、師匠って凄く有名人だよね。わたし、知らなかったよ」
「知らなかった?剣聖ヒースを?」
「……だ、だってわたし、戦ったことないもん。剣聖ってすごい人って知ってたけど、ここまで有名人だとは思わなかったよ。この間まで、村で普通に暮らしてたもん」
 サリカが信じられずに思わずルナを見ると、彼女は、その奇異な視線に少し恥ずかしそうに言い返してきた。
 ……言われてみれば、小柄な面ばかり見ていたが、彼女は鍛えているようには見えない。そこそこの筋肉があって贅肉がまったくないのは、村人ならではの質素な生活のせいか。
「……それはまた……凄いな。……まぁ私も、数ヶ月前までは、普通の村人だったんだけど」
「え、そうなの!? そっか~、じゃあわたしもがんばろっ!」
「ルナ、君は何歳?私は15だけど」
「13だよ!よーっし、じゃああと2年後には、サリカさんくらいになるぞっ!」
 ぐっと拳を突き上げて意気込むルナ。好感が持てる少女だと、ここまでのやり取りで、サリカは素直に思った。
 サリカも、元々は村人だ。だが、ルナと違ってやせ細っていないのは、やはり性別ゆえか。
 2年後、彼女は一体どんなふうになっているのだろう。少なくとも、自分くらいの体格にはなっていない。少し想像して、小さく笑んだ。
 ふと思いついたルナは、その手を下ろしてサリカを振り向いた。
「あ、ねぇ!サリカさん、わたしと友達になってくれないかな?まだ友達もいなくて……あ、話し相手になるだけでいいんだよ!特に、その……べ、勉強……とか……」
 最後は少し恥ずかしかったのか、うつむいて手をモジモジさせながら言ってきた。大人っぽいと思えば、こうして年相応の一面もあって、見ていて飽きない子だ。
 わかりやすいその態度に、サリカはくすくす笑った。
「教団の勉強は、苦手かな?」
「だ、だってよくわかんないし……師匠は忙しいから聞けないし……」
「確かにね」
 この少女に友達がいないとは意外だった。3日とはいえ、この性格ならすぐにでも友達を作れるだろう。
 3日間、ヒースとの組み手に明け暮れていたのかもしれない。あるいは、ヒースの唯一の弟子である彼女に嫉妬して、誰も話しかけないのか。……後者の方が割合的に高そうだ。
 ……今、会話しただけでも思う。不思議な少女だ。
 明るくて、快活で、無防備とも言える素直さで接してくる。これが彼女の素だろう。それでいて、何処か大人びている。……少しだけ、ラヴァンに似ているかもしれない。
 ――自分とは、真逆だ。
「……私もすべてわかるわけじゃないけど、それでもいいなら」
 特に断る理由もないし、ルナ自身には興味があったから、そう答えた。
 きっとこんな些細なことでも、飛び跳ねるくらい喜ぶんだろうな。
 そう思ったサリカの予想通り、ルナは満面の笑みでジャンプ、バンザイまでして喜ぶ。思わず小さく噴き出したくらいには、ドンピシャの反応だった。
「よかったー!! わたし、年が近い女友達ほしかったんだ!村には年下の子達しかいなかったから!」
 天真爛漫という言葉がピッタリ似合う笑顔で、両手を上げるルナの言葉。……サリカは、この笑顔をゆがませることになるのだと思いながら、しかし早めに言っておいた方がいいだろうと、重々しい口を開いた。
「……ごめんルナ……私、男なんだ……」
「………………うっそぉおおおーーーッッ!!?!」