paradox

 どんなに穏やかな奴だって、怒る時は怒るだろう。
 それと同じように、どんな馬鹿でも怒ることは知っているようだ。

 月の光が差し込んでこない。いくらこの街が霧に覆われているといっても、月光が少しも入ってこないのはおかしい。どうやら空の上で、雲が月を隠してしまっているようだ。
 真っ暗な部屋。闇。静寂。その静寂をかすかに揺らす、規則正しい息遣い。
 不意に、窓の外が白みを帯びていく。空の上で、雲から解き放たれた月の光が薄く入ってきて、部屋の中をぼんやりと照らした。
 ベッドの上でうつ伏せになって眠る少女。枕の上で顔を横にして寝ている彼女の顔は、何処か悲しげに見えた。その頬は少し濡れていて、月光にきらりと煌く。
 ――そして、もう一人。
 息も衣擦れも何一つ音を立てぬまま、その前に立つ影。少女以上に気配が希薄なその影の姿が、光に照らされて白く浮き上がる。
 闇に溶けるような黒い服を来た青年。顔と髪が白く際立つ彼の端正な無表情は、眠る少女を見下ろしていた。

『どうして二人とも、信じてあげようとしないんですかっ!! 人を信じるのは、いけないことなんですか!?』

 先ほどの少女の言葉が蘇る。
 ……馬鹿だ。本当に、コイツの言うことを聞く度にそう思う。
 馬鹿が付くくらいの甘ちゃんで、そしてお人よしだ。何も、何もわかっちゃいない。聞く度に、妙に苛立つ。
 人を信じるとか簡単にできるものじゃない。――よほどの馬鹿でなければ。
 大体、今更そんなこと言われても、とっくの昔に自分は信じることをやめたのだ。
 信用した相手に裏切られて、自分は誰も信用しなくなった。できなくなった。
 だから、恐らく。
 そんな綺麗事を、疑いもなく、まっすぐ信じられる彼女は、太陽のように自分には眩しすぎるのだ。

 

 

 

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 硬い手応えとともに、相手の手から赤い剣を跳ね上げる。
 げッ、という顔をしたその首筋に向けて間髪入れずに剣先を突きつけた。相手は固まって、仕方なさそうに両手を上げる。
「ったた~……あー、痛い痛い。はいはい、降参降参。剣下ろして」
「………………」
 溜息を吐く相手に言われ、10歳のディアノスト=ハーメル=レミエッタは、すっと剣を手元に戻して鞘に収めた。
 短い銀髪の少年だった。年の割に口数も少なく冷静だが、目付きと口の利き方はすこぶる悪い。身長も並に比べれば低い。しかし、性格だけは年相応に唯我独尊のワガママ生意気少年だ。
 そんな少年に負けた相手がひょいっと立ち上がると、彼はあっという間にノストの身長を追い越した。コイツの身長が自分よりも高いことが、最近のノストの気に入らないポイントだ。
「ほんと、いつものことだけどノストって容赦ないなぁ~。僕が弱いってことは、よーく知ってるはずなのに」
 そう言って穏やかに笑うのは、柔らかそうな淡いオレンジ色の少年。銀色の瞳が印象的な、優しい雰囲気の15歳だ。
 キール=グライド=ヴェンディン。フェルシエラのラウマケール第四位ヴェンディン伯爵の息子だ。ヴェンディン伯は、ノストの父であるレミエッタ公と旧知の仲らしく、そういうこともあって、ヴェンディン伯爵家とは一番親交が深い。
 自分よりも背の高いキールを見上げ、ノストは当然のように言い放った。
「お前が弱すぎんだよ」
「いや、うん、そうなんだけどね~……それなりに気を遣ってほしいなーって。怪我したら大変でしょ?僕が」
 肌触りの良い高級布の服をパンパン叩いて土を払い、キールは横の方に突き立っていた剣を拾う。それを鞘に収め、並よりも背の高いキールは、自分よりもずっと小さいノストを振り返った。
「やっぱノストはラスタ様の子なんだなぁ。まだ10歳なのにね。友達として誇らしいよ。僕なんかもう15歳だけど、才能に恵まれてないみたいだからな~。父上は凄く強いんだけど」
 「困っちゃうよね」と、キールは言葉通り困った笑顔で頬を掻いた。彼は真剣な顔を想像できないくらい、いつも笑顔だ。すでに2年ほどの付き合いだが、笑みが浮かんでいない顔を見たことがない。

 ――レミエッタ公、ヴェンディン伯、両貴族には、それぞれ息子が一人ずついた。それがノストとキールで、親の仲もあってよく一緒に遊んで育ってきた。
 年の差はあるが、誰に対してもでかい態度を取るノストと言い、誰に対しても一歩身を引く態度を取るキールと言い、上手い具合に合致してなんとかなっているらしい。
 キールは温厚だが、相手に対して思ったことは遠慮せず言う。だから褒め言葉も、世辞や媚を売るためではなく、本心からの気持ちだ。
 今だって、他の誰かが言った言葉だったらどうせ世辞だろうと思っただろう。しかしキールが言えば、ノストはそれを素直に受け止められた。大半が、褒めるに値しない当然だと思っていることだが。
 とにかく、他の人間よりは信用している。だから例えば……、
「……キール」
「ん?なに?」
「お前の頭貸せ」
「あはは、また?いいよ、もっちろん。僕が唯一、ノストに勝てる分野だからね~」
 とか言われているが、事実なので何も言い返せない。でも何かしないと気が済まないので睨み付けるが、キールはその笑顔でさらっと受け流してしまう。
 キールが唯一、ノストに勝てる分野。――勉強である。
 基本的に、書物などがあれば自分で勉強できるが、やはり独学ではわからない部分もある。しかし、両親や使用人の誰かに聞くのは癪なので、たまに遊びに来るキールに聞いている。
 キールは5歳年上だし、自分より年の分だけ頭が良いのは当然だ。教え方も上手いのでわかりやすい。彼は剣術よりも教師の方が向いているかもしれない。
「んじゃ、部屋に行こうか。今日は何かな?」
「イクスキュリアの貴族階位について」
「あぁ、確かにめんどくさいな~、アレは。決闘で階級が決まるフェルシエラと違って、名誉やら血筋やら権威やらでややこしいんだよね。ではでは、このキールさんがわかりやすくご説明いたしましょう~」
 屈託なく、にこにこ笑いながら隣を歩くキール。いつものその笑顔からノストが目を離した時、変わらぬ口調でキールが言った。

「――ねぇノスト。僕達、友達かな?」

「……?」
 急な話題の転換。あまりにも突拍子なその内容に、ノストがキールをもう一度振り向くと、彼は微笑んでいた。……少しだけ不安げに。
 キールのそんな微笑は初めて見た。いつも穏やかな笑顔、それ以外でも困ったような笑みくらい。こんな笑みは見たことない。
「……キール?」
「ノストが真面目に答える性格じゃないって、わかってるけどさ。……僕は友達だと思ってるよ。ノストは?僕ら、友達だよね?」
 訝しげに問い返したノストに、キールは真剣な口調で問いを重ねる。
 その不安げな微笑を見て、ノストは気が付いた。
 ――キールは、自分のことをよく知っている。剣の腕がどれくらいだとか、趣味は何だとか、嫌いな食べ物は何だとか、この態度の時はこう思っているとか。
 しかし自分は、キールのことを知らない。
 年上。穏やかによく笑う。ヴェンディン伯爵の息子。……そんな情報しか知らない気がする。ふわふわとして掴みどころがない人物だと、今更気が付いた。
 そんな相手を自分は信用できている。我ながら不思議だった。
「………………」
 答えを待つキールから視線を外してから、ノストはややあって小さく頷いた。
 それを確認すると、キールはホッとしたように笑い、やっといつもの笑顔に戻った。
「そっか、よかった。僕の独りよがりだったら空しいしね。それじゃ改めて、部屋に行こうか」
「……何かあったのか?」
「何でもないよ。……あれ、そういえばノストが心配してくれるのって初めてだ」
「心配してねーよ。聞いただけ」
「またまた~」
「………………」
 キールはニコニコと笑いながら、ドアを開く。元通りになった笑顔、口調、様子。
 しかしノストは、その見慣れた背を見つめながら、胸に残った妙な不安を感じていた。

 

 

 

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 フェルシエラの貴族で、幼い頃に真っ先に教え込まれるのは、「熟睡しないこと」だ。
 睡眠中と言うのは最も無防備な時だ。だからこそ武人は基本的に熟睡しない。何があってもすぐに飛び起きられるように。寝ていても、ぼんやりと意識は起きていて、気配などを探っている。
 フェルシエラでは特にその傾向が強い。力が物を言う都市ゆえに、上位の者には刺客が送り込まれることもある。掟で禁じられてはいるが。
 しかし、圧倒的な力を持つ当主を狙うのはごく稀だ。狙われやすいのはその子供である。子供を盾にして、当主と取引するためだ。
 そのために、まず子供には、周囲の妙な気配を察して飛び起きる訓練が行われる。周囲の妙な気配を察することが一番の目的だが、それだけではない。とにかくおかしいと思ったら、起きるようにしつける。
 ……例えば、今のように。

(……剣戟?)
 薄闇の中、右側を下にして寝ていたノストは目を開いた。夜の静けさに不釣合いな音を耳にして。
 ――もちろん、ノストもその教育を受けてきた一人だ。周囲の貴族達が行う時期より早く、物心ついた頃からだった。彼はラウマケールの頂点に立つ当主の息子。間違いなく、フェルシエラ一、狙われやすい子供だからだ。
 ベッドの上で静かに起き上がり、枕元に置いてある剣を持って自室を出た。廊下の窓から外を確認するが、目立った変化はない。
 しかし耳を澄ますと、確かに刃と刃がぶつかる音がする。これは……恐らく、1階から響いてきている。
 階段は廊下の両端にあり、ノストの部屋は廊下の真ん中ほどにあった。どちらから行っても大差はないが、念のため武器庫がある方の階段から行くことにした。
 廊下には一定間隔で窓が設けられており、そこから月光が差し込んでいる。そこを進もうとして、ノストはようやくその存在に気が付いた。

 暗闇の中、窓から注ぐ光で、窓の形に切り取られた床。――そこに進み出てきた人影。
 剣の柄を握って身構えるノストの視線の先。白い月明かりに照らされて露になった相手を見て、ノストは目を見張っていた。
「……キール……?」
 思わず名を呼ぶが、相手は返答しなかった。
 ――暗がりから現れたのは確かにキールだった。見慣れた髪型、背格好。薄闇でわかりづらいが、少年は変わらぬ柔和な笑みを浮かべていた。
 ……そう、いつもの彼だ。なのに……何かがおかしい。
「……お前……何でここに」
 なぜ、こんな夜中に、こんな場所に。
 屋敷の門は閉められているはずだ。そのままでは中には入れない。忍び込みでもしなければ・・・・・・・・・・・
 半分、陰った顔。神秘的で不気味な、白と黒の世界に立つ笑顔のキール。
 ――寒気のようなものが、ノストの背を駆け抜けていった。
 キールは手に持っていた鞘から剣を抜くと、迷うことなく切っ先をノストに向けて、笑った。
「おはよう、ノスト。起きたばかりで悪いけど、また寝てほしいんだ」
「何……?」
「今、下の階で戦ってるのは、ラスタ様と、僕の父上なんだ。ラスタ様は強いけど、父上も負けてない。様子を見に行こうとしてるなら、やめた方がいいよ」
 父のラスタと、キールの父であるヴェンディン伯爵が、今戦っている。
 ――それはつまり、ヴェンディン伯爵が、レミエッタ公爵家に夜襲をかけてきたと。そう言っていた。

 ……父は強い。放っておいても大丈夫だ。
 それよりも、母や使用人が心配だ。ここにキールとヴェンディン伯爵がいるなら、門番は倒されたと考えた方が賢明。となると警備が手薄なはず。一体、伯爵側に何人いるのかわからないが、大人数いるのならまずい。
 そしてキールは、恐らくそれを妨害するためにやってきた。抜刀したのは、行こうとしたら攻撃するという意思表示だろう。
 案の定、キールは穏やかに笑って言った。
「行くなら、僕を倒していきなよ」
「……お前、何で」
「父上の命令だよ。友達だからって容赦しない方がいいよ。僕も全力で行くから」
「お前、弱ぇだろ」
「そうなんだけどね。やらなきゃいけない時もあるってことだよ」
 自分が手合わせに誘うと、いつもする困ったような笑み。それを浮かべて、キールは構えた。
 結果がわかっているとしても引く気はないらしい。仕方なくノストは剣を抜き、跳んだ。小柄な体が軽やかに舞う。
 一瞬で片をつける。
 いつものように、キールの懐に一足で飛び込み、剣を弾き上げる――。

 ……振り上げた剣は、虚空を引っかいただけだった。
「っ……!?」
 思いもしない手応えに動揺した瞬間、真横から衝撃が来た。
 わけがわからないまま、声もなく壁に叩きつけられる。全身を襲う痛みに悶える暇もなく、続けて、鋭い殺気。慌てて横転すると、頭の上を素早い剣閃が通り過ぎた。
 3度転がってから立ち上がった直後、剣身に強い衝撃が降りかかった。ノストが剣を取り落とすと、今度は首を掴まれ、そのまま足が床から離れるのを感じた。
「はい、終わり。これで君は何もできなくなったね」
 ノストの喉元を掴んで片手で持ち上げたキールは、笑顔で言った。
「……ぐ……キール……てめっ……!」
 切れ切れの息で苦しげに言い、ノストはキールを睨み付けた。
 高身長のキールよりも上の方に持ち上げられ、足がつかない。さっき全身を強打したことが響いて、体が上手く動かない。剣も落とされた。
 ――あの一瞬で、彼の言う通り、何もできなくなっていた。
 ……今のこの状況が、信じられなかった。
 完全にキールの姿が見えなかった。何もできないまま、叩きつけられ、剣を落とされ、首を締め上げられ。
 いつもすぐ剣を落とされて笑う、自分より弱かったはずのこの少年に。
「……騙してた、のか……っ」
「騙してないよ。隠してただけ」
 キールの腕を掴むことしかできず、ノストは霞む視界で彼を睨んで言った。キールは笑ったまま淡々と答える。
 彼は、自分より弱いふりをしていただけだった。
 本当は、自分なんて足元にも及ばないほど、ずっとずっと強かったのだ。
 ――そして自分は、2年間もそれに気付けずに、キールの演技を信じていたのだ。

  『ねぇノスト。僕達、友達かな?』

 不安げにそう聞いてきたキールに自分は頷いた。彼は安心したように微笑んだ。
 友達だと互いに確認したその日のうちに、キールは笑顔でそれを裏切った。
「それじゃ、おやすみ」
 今度は鳩尾を衝撃が突いた。
 悲鳴も上げられず、ノストは呆気なく、真っ黒な世界に落ちていった。

 ……………………

 

 

 

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 ……目が覚めたら、すべて解決していた。
 自分は、自室のベッドの上に寝かされていた。目覚めると、枕元に心配そうな顔をした母がいた。
 母が言うには、自分は2階の廊下で倒れていたらしい。あの後、そこに放置されたのだろう。
 ラスタと戦っていたというヴェンディン伯爵は、ラスタに敗北し、規則違反者として捕らえられた。今頃は、馬車で何処かに連れて行かれているそうだ。彼のラウマケール第四位の地位を剥奪し、更迭するために、ラスタは昨夜から忙しいらしい。
 まだ安静にしていなさいと言い残し、母は食事を取りに部屋を出て行った。
 一人になったノストは、静かに起き上がって部屋を出た。
 昨夜はひどく痛んだ全身が、翌朝になってみると不思議と痛まなかった。少し鈍い痛みは残るが、そこまで気になるほどではない。
 誰もいない廊下を眺める。……昨夜、自分とキールが対峙した場所。
 太陽の光が入る明るい廊下だ。周囲を見渡しながらゆっくり歩くと、微妙に壁がへこんでいるところを見つけた。恐らく、自分が叩きつけられた時のものだろう。
「………………」
 自分の首に手を当てた。キールに締め上げられた首。指先が後ろに回り込みそうだったから、弱々しそうな外見なのに、意外とキールは手が大きかったんだなと、ぼんやり思った。

「起きたか」
 ふと、横から声をかけられた。
 気配では周囲には誰もいないと読んでいたが、こんな距離で気付かないとは。自分が気配を読めない相手は、この屋敷では一人だけ。
 声の方に目を向けると、予想通り父のラスタが歩いてくるのが見えた。
「父上……」
「アリシアから話は聞いただろう。今ようやく手続きを終えた。ヴェンディン伯は追放、代わりに第五位にいたデルフィーニ伯を四位に据え、新たな貴族を五位に昇格させた」
「………………」
 ラスタが歩きながら言ってくる淡々とした言葉を、ノストはまったく聞いていなかった。――そんなことよりも、気になることがあった。
 父が傍までやって来てから、やっと口を開いた。
「父上……キールは……」
 ノストとキールが親しいことは当然ラスタも知っていた。思った通りのノストの問いに、ラスタは短い間を置いて諭すように答えた。
「……わかっているだろう。息子のキール殿も、同じだ。違反者として、フェルシエラから追放した」
「………………」
 ――フェルシエラの掟を知っていたから、聞かずともわかっていた。ラスタに言葉として聞かされ、ノストはようやくその事実を認める。
 フェルシエラのラウマケールは、5年に一度行われる決闘試合での順位で編成される。それ以外での変更は認められない。
 夜襲や策謀などによって失脚させることは、掟で禁じられている。掟を破ったら、即座に第一位の者がそれに関わったすべての者の地位を剥奪し、フェルシエラから追放する。第一位が勝手に振舞った場合は、他のラウマケールの貴族によって第一位が追放される。
「しかし、解せないな……一体、ヴェンディン伯は何をしに来たのか。私はディアノストが狙いだと思ったが……」
 顎に手を当て、自分を見下ろして呟くラスタから視線を外し、ノストは窓の外を見た。
 ……中庭が見えた。よく二人で手合わせした庭だ。
 キールが両手を上げ、笑って降参する顔が脳裏によぎってすぐ、

  『騙してないよ。隠してただけ』

 昨夜の、白と黒の笑顔で自分の首を締め上げてきた顔に変わった。
 圧倒的な実力の差で、それこそ赤子の手をひねるように自分を昏倒させたキール。
 実力を隠していたこと。友達と言ったのに敵対したこと。
 裏切られた。騙された。
 ……しかし、そういう事実があってもそう思えない自分がいる。自分が幼すぎるからなのか、その理由まではわからなかった。

 友人だと頷いたのは嘘じゃない。信用していたのは本当だ。
 今まで一緒に過ごしてきた時間を思い返しながら、ノストは、ぼんやり窓の向こうの空を見つめていた。

 

 

 

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 がたごとと、小刻みに視界が上下に揺れる。
 左右に座っているのは、グレイヴ教団のゲブラー二人。注意深く自分達を監視している。
 この馬車は、一体何処へ向かっているのだろう。少なくとも、フェルシエラからずっと離れた、自分が行ったこともないような場所だろう。
 自分の正面に座るのは、少し褪せたオレンジ色の髪をした壮年の男性。鍛え上げた体を持つ見慣れたその男性は、自分を見つめて口を開いた。
「――キール。……なぜ、ディアノスト殿を連れてこなかった。私は、気絶させて連れて来いと言ったはずだ。おかげで私は、ラスタ殿に負けた。その前にディアノスト殿を連れてきたら、敗北は回避できたやもしれぬ」
 元ラウマケール第四位に座していた、ヴェンディン伯ハリシス。剣術という共通点を持つレミエッタ公ラスタとは、若い頃に編成決闘でよく当たった。その時からの付き合いだ。
 納得が行かなさそうな顔をして問い詰めるハリシスの向かいには、彼の息子のキールが座っていた。二人を乗せた馬車には、彼らと二人のゲブラーだけ。昨夜の夜襲は、たった二人だけで行われていた。母はすでに他界しているので、使用人を除けば元からヴェンディン伯爵家には二人しかいなかった。

 自分と同じその銀瞳が、静かな怒りを宿しているのが見て取れた。その視線を、キールは真っ向から受け止める。
「昨日のために、2年も費やしたのだぞ。お前に実力を伏せさせ、ディアノスト殿にお前は弱いと思い込ませ……すべては、外国の出だからという理由で、ラウマケールに認められぬ我が血筋のためだった」
「はい」
「掟を変えるためには、第一位の座に就くしかなかった。そのための2年を、お前はむざむざ棒に振ったのだぞ。なぜ連れてこなかった」
 過ぎたことを悔いても仕方ないが、無念が残る。そんな低い声音で問いかけられ、キールは……微笑んだ。
 いつもの、穏やかな笑顔で。
「すみません、父上。ノストが思っていたより粘るので、てこずってしまいました」
「あの息子がか?私も一度見たが、お前の方が上のはずだ」
「僕もそう思っていたんですがね。火事場の馬鹿力、とでも言うんでしょうか?そのうちに、ラスタ様が来られて……間に合わなくてすみません」
「……まぁ、もう過ぎたことを責めても仕方あるまい」
 キールの口から淀みなく紡がれる真っ赤な嘘。息子の言葉を疑うことなく受け止めたハリシスを見てから、キールは笑顔のまま、静かに銀の瞳を伏せ……小さく自嘲した。

 ――君と出会って、2年。
 僕はその2年で、愛想笑いばかり上手くなってしまった。
 笑顔を浮かべていれば、誰も疑いの目を向けない。自分の本心が出ることも防げる。
 笑顔は、僕の仮面だった。
 最初は父上に従って、君に付きまとった。上辺の付き合いのつもりだった。
 だけど次第に……僕は、君を本当に信用していった。友達だと思えるようになってしまった。それに気付いてしまった。
 その友達との2年を、裏切る。
 ……そんなこと、したくなかった。だけど、父上とすべてを賭けた2年も裏切ることはできなくて。
 ――僕は、信じるしかなかった。

「……ところで父上、相談があるのですが」
「どうした」
  笑顔かめんをつけたキールが静かに切り出すと、ハリシスはこちらを見た。
「今までは家があり、そこが帰る場所でしたが、追放された以上それはありません。ちょうど頃合ですし、僕は一人立ちしたいと思います」
「……そうだな。フェルシエラにはもう戻れぬ。お前の剣の腕があれば、どうにでも生きていけるだろう。好きにするがいい」
「ありがとうございます。父上は、どうされますか?」
「正直、何も考えていない……だが恐らく私もそうなるだろう。血筋など気にしていられぬな。ふむ……意外と楽しいものかもしれぬ」
 小さく頭を下げてキールが聞くと、ハリシスはそう言って、その厳つい顔に笑みを綻ばせた。今まで血筋に執着していた父のめったに見ない笑みに、キールはちょっとだけ目を丸くしてから、微笑んだ。

 馬車から下ろされたのは、地平線まで青々とした草原の広がる見慣れない土地だった。遠くには山も見える。
 馬車に乗っていたゲブラーから、ここはシャルティアの中央部だと教えられた。となると、南にセントラクスがある辺りだろう。
 父とは別の方向へと、キールは風が渡る草原の中を歩き出した。馬車から降りた時に返してもらった自分の剣を手に、あてもなく歩いていく。
 ……昨夜のことを思い出す。振り抜いた腕でノストを壁に叩きつけ、首を締め上げた。
 腕で薙ぎ払う寸前に勢いを殺して威力を弱めたり、首を締めると言うより持っているというように、ある程度は手加減したつもりだが、彼に怪我はないだろうか。まだ成長途中の体だし、何かあったら大変だ。それの確認ができないのが心残りだった。

  『……騙してた、のか……っ』

 その事実に驚愕し、認めながらも信じられず、何処か傷ついた顔で自分を睨みつけてきたノスト。
 つられて、自分も顔をしかめそうになった。どうしてこんなことになっているのかと叫んでしまいそうだった。
 友を裏切り、敵対し、ノストを気絶させた。そのまま彼を父ハリシスのもとへ連れて行けば、自分達は確かにラスタには勝てたかもしれない。
 だが、その代わりに友は家を失う。――ノストを昏倒させ、それにようやく気が付いた瞬間、キールは迷うことなく父も裏切った。
「……二重の裏切り者、か……」
 ぽつりと呟き、自嘲した。
 心を隠して笑うことばかり上手くなる僕と違い、君は、自分の思ったことを表現することが上手くなっていった。
 ……きっと僕は、そんな自由な君に憧れていたんだと思うよ。
 友との2年。父との2年。
 僕は、どっちも裏切った。

 僕は、信じるしかなかった。
 僕が裏切っても、どうか君が、僕のことを友達だと思ってくれるように。
 ……今思えば、なんて身勝手なんだろう。
 そんなこと有り得ない。裏切り者を信じる人間なんて、いない。

 青空を見上げて、キールは立ち止まった。彼のオレンジ色の柔らかな髪を、優しく風が撫でていく。

 僕は君を裏切った。
 だから君は、きっと僕を恨んでいるだろう。
 それでも……
「……それでも僕は、君のことを友達だと思ってるよ」
  笑顔かめんが外れた、寂しげな微笑を浮かべて。キールは、青き空にただ祈った。

 ―――もう会うことはないだろう、我が唯一の友よ。
 どうか君に、幸多からんことを―――

 

 

 

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「くしゅんっ……!」
 唐突に、少女がくしゃみをした。
 我に返った青年は、ふと少女が布団をかけないまま眠っていることにようやく気付く。少女は寒そうに少し縮こまった。
 ここで見てみぬふりをして後で風邪を引いて迷惑をかけられるのも面倒だ。仕方なくベッドに近付いて、下敷きになっていた布団をかけてやる。
 と、その瞬間。
「……ごめ……んなさ……、……」
 眠りながら少女が紡いだのは、「ごめんなさい」だった。何のことかと思って、夕食時のことだとすぐに合点する。
 ……おかしな奴だ。彼女は間違ったことは言っていない。それなのに、謝る。

 ……コイツはこのままでいいと、そう思う。
 綺麗事を綺麗事だと片付けてしまうようになったら、きっと今のコイツではなくなるのだろう。この輝きは失せてしまうのだろう。
 眩しい心は、そのままでいるべきだ。
 この少女は、絶対の信頼を置いていた者に裏切られたら、一体どうするのだろうか。
 自分みたいに他人不信になってしまうのだろうか。
 それとも……その眩しい心は、それでも相手を信じ続けるのか。
 10年経った今でも、自分はわからない。
 他人不信になったのは確かだ。他人、特に初対面とは、まず距離を置く。
 しかし――自分を裏切ったキールのことを、どう思っているのか、自分ではわからない。

『僕ら、友達だよね?』

 裏切られた夜のことよりも、不安げな微笑を浮かべた昼の彼の顔が、脳裏に焼きついていた。
 ……キールは、助けを求めていたんじゃないか。
 最後の最後まで、彼のことを何一つ知らなかった自分には、彼が何を考えていたのかわからない。
 真相を知るまで、この感情は複雑に入り組んだままなのだろう。
「………………」

 ―――まだ親友と呼べる、初めてにして最後の友よ。
 もし、何処かで生きているなら―――