deus ex machina

AgnusDei 03 死にたがりの悪魔

 家族を亡くし、一人になった青年がいた。
 たった二人の彼らを守り切れなかった後悔が彼を蝕んだ。
 来る日も来る日も苦しみ続けた彼は、やがて死を望み始め……
 そんな死にたがりを救ったのは、死にたがりだった・・・・・・・・少女だった。

『それが本当に救いになっていれば・・・・・・・・・、そこで終わりだった』

 感情に疎いと言う割に、やけに人間臭く話す黒い少年。
 彼が語ってくれたことを思い出しながら、アルトミセアは足を止めた。
「…………レスター」
「アルか。お前から話しかけてくるなんて珍しいな」
 探していた背中を正面に見つけ、少女は声をかけた。琥珀色の隻眼が振り返るが、二人の間の距離は少女の歩幅で10歩はあろうかというほど遠い。
 しかしレスターは、恐らく気配でその距離も察していただろうし、そのことにまったく気を悪くすることもなく、そしてそれ以上距離を詰めようともせず。その場所から返事をした。
 近すぎない、しかし他人ではない距離。これが、半年間、ずっと二人の間に横たわっていた距離感だ。

 5日後。
 クルセとの講義を終えたところだ。今日はゆとりがあるからと言って、クルセは席についたまま今日の講義内容を熟考するうちに、日頃の疲れか、頬杖をついたまま夢の世界へと旅立ってしまった。
 少しでもレスターの気を惹こうと、常から露出の高い寒そうな格好をしているクルセ。彼女が風邪をひかないようにと肩に毛布をかけ、アルトミセアは珍しく外に出ていた。
 先日の土砂降りでできた水溜まりが、黒い地面のあちこちで晴れた春空を映し出していた。湿気を含んだぬるい風が、彼女の太陽のような髪を波打たせる。
 教会の裏は、この教会で葬られた者達が永久の眠りにつく墓地だった。板で作られた簡素な十字架がいくつも並ぶ、日常と一線を画した死者の世界。
 穏やかな静寂が満ちるその聖域のすぐ傍で。レスターは、残った左腕で大きな丸太を肩に担いでいた。クルセが言うには、その丸太で筋力トレーニング、兼、片腕に慣れるために訓練しているらしい。半年を経て、彼も大分隻腕の体に慣れたようだ。
 振り向いた拍子になびく、コートの空っぽの右腕。それを見て、またぞっと心の奥が冷え込む。ぐっと拳を握りしめて感情を押しのけ、少女は口を開こうとする。
「そういや、先日俺達が来る直前まで、また風邪で寝込んでいたと聞いたな。具合はもうすっかり良いのか?」
「………………え、ええ……」
「春とはいえ、外の空気は冷たい。病み上がりの体には障るぞ」
 しかしそれより先に、レスターが口を開いていた。間の悪い男だ。その上、当然のようにこちらのことを心配してくるから、アルトミセアは二の句が継げなくなる。
 レスターは丸太を下ろし、それを椅子代わりに腰を掛けた。自分の話を聞くために休憩に入ったのだと、すぐわかった。
 ……そう、この距離からでも、半年もすれば十分わかる。この男は、思慮深い。相手に気付かれない自然さで、さり気なく気を利かせている。いつも人のためばかりに動いている。

『レスターは、死にたがりをこじらせて壊れた』

 イクウが語ったことが、まだ、まったく信じられないくらいには。

「―――――ラミエル」

 ぽつりと唇にのせた一単語。
 たったそれだけで、彼のまとう雰囲気が豹変した。
 隠し切れない憤怒。いつも空気のような自然体だったレスターに初めて浮かんだ、あからさまな嫌悪。
「クルセか」
「……クルセからは……前に、存在だけ。後のすべては……最近、イクウから」
「それは想定外だな」
 不愉快もあらわに、忌々しそうな声音でレスターは吐き捨てた。
 5年前、国中を震撼させた無差別殺戮者、通称ラミエル――彼が唯一、”大嫌い”な者。

 他の誰でもない・・・・・・・過去のレスター・・・・・・・

「………………一晩で、一つの村を壊滅させたこともある」
 しばしの沈黙の後、かつて悪魔と呼ばれた男は、左の手のひらを見つめて重々しく言葉を紡ぎ始めた。
 一言一言が、ずしりと重い。しかし、一度口にしたら、繋がっているすべてがずるりと引っ張られて顔を覗かせた。心の奥底に沈殿した澱は、いつか、こうして誰かに話す時を待っていたのかもしれなかった。
「死にたかったんだ。だが俺は死ぬわけにはいかなかった。クルセを置いて、死ぬわけにはいかなかった」
 死を望んだ青年は、死の安寧を取り上げられ、空っぽの生を与えられた。
 やがて彼は、壊れてしまった。
 自分は死ねない。しかし他者は死ぬことができる。羨望と憎悪とでぐしゃぐしゃになった衝動は、すべてを拒絶した。
 来る日も来る日も殺し続けた。誰かも知らなければ顔も覚えていない。生臭い血の匂いをまとい、ゆらゆらと亡霊のように徘徊し、見かけた者はすべて殺し、それでも足りない。
 殺し、殺し、しかし、いつもそこで生きているのは自分で、死ぬのは他者。次第に、それがますます自分と他者とを隔絶したものにしていく。
 悪循環。負の連鎖は止まらず、回り続けた。
 焼き切れるまで。
「ある時、久しぶりにクルセに会ってな。真正面から言われた。『誰もが、明日死ぬ確率はゼロではない。誰もがいつも、死と隣り合わせだ』と」
 ”死”から遠ざかっていくような感覚は、錯覚でしかなかった。
 この世に生を受けた時から、”ケモノ“は傍らで、その口を開けて自分を喰い殺すのを待っている。
 そんな当たり前のことに気が付いて。彼を駆り立てていた焦燥感はだんだんと薄れていった。
 ――それと同時に、自分が、他者の”死”をけしかけたことを自覚した。
「俺は死ぬべきだ」
 『死にたい』ではなく、『死ぬべき』と。かつてラミエルと畏れられた彼は、無感動に事実を紡ぐ。
 その頃には、彼の瞳には少女の知っている静かな光が宿っていた。
「今の俺は、死を待つだけの傀儡だ」
 死に喰い殺される日を待ちながら、自分にでもできることを。それだけを心に、今、自分はここにいる。

 ――強い人だ。アルトミセアは純粋にそう思った。
 自己が崩壊しそうな激情と現実に翻弄され、すべてに絶望し、やがて真理に至って、ひとつの覚悟を胸に生きる者。
 なんて眩しい姿だろう。自分よりずっとずっと短い人生の積み上げの中で、それだけのものを見つけたのだ。
 そんな男が、達観した瞳ですっと少女を見据える。過去と同じ・・・・・少女を。
「だからお前が嫌いだ、アル。自分の過去をお前に重ねているのかもしれないが、死を望んでいるお前が嫌いだ」
 彼は眩しい。眩しすぎる・・・・・
 彼よりずっとずっと長い人生、300年の積み上げの中で、何も掴めてない自分。
 ――強すぎる光は、直視できないのだ。

 小さく、肩が震えた。
「…………後悔、したでしょう?」
 訝しげにレスターに視線を送るのがわかった。堪え切れず、少女の唇から笑いがこぼれた。
 不老の教皇と、元殺戮者の男。
 崇められる存在と、忌み嫌われる存在。
 ――こんな滑稽なことがあるだろうか。
「馬鹿らしいじゃない!自分が右腕を失ってまで助けた人間が、自分の大嫌いな死にたがりだったなんて!助けなきゃよかったでしょう?先に言っておけばよかっ」
「後悔なんてしていない」
 呆れ果てた嘲笑を浮かべ、手振りとともに、荒い語気でまくし立てる少女の言葉を。男は、普段通りの声音で断ち切った。
 たった一言。そのたった一言にすべてをもぎ取られ、唖然とするアルトミセア。動きを止めた彼女を一瞥し、レスターは、失くなった右肩から先を追想するように右肩に触れた。
「アルが死ななかった。それだけで十分だ」
「……っ…………貴方、言っていることがめちゃくちゃよ!?」
 アルトミセアの憤慨を体現するように、金の髪が激しく波打つ。
 まるで、彼の一声一声が力を持つかのようだった。今度はまったく違う理由で、少女の心に火が放たれる。
 拳を固く握り締め、頭を強く振り、彼の言うすべてを否定して少女は言い放った。
「私は死にたかったの!! 死にたがりなの!! 貴方の大嫌いな、死にたがりなの!!!」
「アルが嫌いだからといって、死ねばいいとは思っていない。俺はもう誰も殺さない。そう決めた」
「……!!」
 一拍の空隙さえ置かず、揺るがぬ意志を宿した言霊で、駄々のような拒絶を跳ね返される。その言葉の前に、為す術もなく、アルトミセアはついに膝をついた。
 呆然と座り込む少女。溢れる涙をそのままに、濡れた瞳はレスターを映して、不思議そうに問う。
「あなた……馬鹿でしょう……?」
「……よく言われるが、俺は馬鹿なのか?」
「馬鹿よ!死にたがりなんて放っといてよ!」
「過去の自分のような奴が、俺と同じような道を辿るのは見ていられん」
「……本当に、ばか……!!!」
 涙でぐしゃぐしゃなった顔を両手で覆い、座り込んで肩を震わせるその姿は、あまりに小さい。背中に流れる金の波が、彼女を慰めるように包みこむ。
 ――こんな滑稽なことがあるだろうか。神聖なる存在として仰がれてきた私のほうが、こんなに脆弱だなんて。

 筋違いな激昂を真っ向から押し潰すこともせず、黙って受け止めた彼は、すでに気付いていたのかもしれない。
 嵐のように吹き荒れるその最奥、不安げに揺らぐ本心。
 か細い声。
「…………っ……ねえ……右腕を失ってまで、わたしを助けてよかったってっ……本当に、思ってる……?」
 死にたい。放っておいてほしい。
 そういう拒絶で覆い隠していた、ずっと心に巣食っていた負い目。

 自分が、この男が右腕を失ってまで助ける価値のある人間だったと思えない。

「わたしっ……ただの人形……何の価値もないっ……!」
 初代教皇という、人でも神でもない中途半端な存在。
 何も持たぬ人形。
 欠陥品。
 ――だから死にたかったのに。
「人形に価値がないかは、使い手が決めることだ」
「っ……使い手なんて……200年前に、縁を切ったわ……」
「なら人形としてのお前はとっくに死んでいるな。人形なら何も考えない。それに、人形ならそんなふうには泣かない」
 ぽん、と頭に何かが触れる。傍に膝をついたレスターに頭を撫でられていると気付いて、小さな少女はむせび泣いた。
 ずっとずっと、止め処なく泣き続けた。

「生きるのが嫌なら、俺の右腕・・・・として生きろ。俺は、お前を手放すつもりはないぞ」

 …………………………

 

 

 

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 自覚はあるが、人の顔を見て吹き出すのはどうかと思う。
「ぶっははは!!! アルちゃん、ひっどい顔!!」
「わ……わかってるわよ!! ひ、ひどいわクルセ……!」
 書室のドアを開いた瞬間の出来事だった。目覚めていたらしいクルセが、ドアの向こうから現れたアルトミセアを見るなり笑い出したのだった。目が真っ赤に腫れたアルトミセアは恥ずかしそうに、プイっとそっぽを向き頬を膨らませる。
 あれだけこっぴどく泣いたのだ。目はもとより、声もガラガラだし、顔もやつれていることだろう。自分でも、まるで子供のようだったと今更になって羞恥心がこみ上げてくる。
 すねてしまったアルトミセアに、自然な動きで彼女に近付いたクルセは「ごめんごめん」と笑いながら少女を抱きしめた。
 母親のような突然の優しい抱擁に、アルトミセアが驚きと疑問で目を丸くする。クルセの柔らかな声音が、すぐ耳元で囁いた。
「……レスターとのやりとり、あたしも聞いていたよ。ずっと、そんな想いを抱えていたんだね。不安だっただろうに」
「………………」
 そっと頭を撫でられる。アルトミセアは否定も肯定もしなかった。すべて聞かれていたのなら、何の弁解の余地もなかった。
 ――初めて会った時から、いつも優しいクルセ。母のような彼女に、アルトミセアはいつの間にか心を許していた。
 レスターに本音を吐き出した余韻か。今になって、彼女に伝えたいことが溢れてきた。
 やがてクルセが離れると、憑き物が落ちたような、清々しい顔をした少女は、クルセに言う。
「クルセ……私は、あの日からずっと、レスターには負い目ばかり感じていたわ。でも貴方は、死ぬことしか考えられなかった私に仕事をくれた。私の価値を教えてくれた。その仕事をしている間は、何も考えなくて済んだわ。……だから私は、今日まで生きているの」
「思わぬ相乗効果があったようで嬉しいわ。ギブアンドテイクだね」
「ありがとう、クルセ。私はとても扱いづらかったでしょう?」
「ええ、それはもう」
「ちょっと、そこは否定するところよ?」
「あら、気が利かなくて申し訳ないね」
 お互いに冗談を言い合って、くすくす笑いあう二人。見かけの年齢が離れている彼女らは、姉妹のように見えた。
 ……が、途端に、クルセがはぁーーーっと盛大に溜め息を吐いた。何事かとアルトミセアが首を傾げると、
「ああんアルちゃん、レスターに頭撫でてもらえて羨ましい!あたしも撫でてほしいー!!」
「こ……子供じゃないんだからもう、クルセってば!」
 先ほどまでの凛々しい気配は微塵もなく、ブンブン両腕を振って甲高い声で喚くクルセ。まるで駄々っ子だ。アルトミセアの方が恥ずかしくなってくる。
 かと思えば、いきなり口を閉ざし、恋する乙女は振っていた両手を腰にあて。じっと真摯な銀瞳で、品定めするように近距離からアルトミセアを見つめる。改めてジロジロ無遠慮に目を向けられ、少女が戸惑う。
「……な、なに……?」
「アルちゃんは可愛いわよねぇ……けど、いくら可愛いアルちゃんとはいえ、レスターは渡さないわよ!レスターの隣はあたし!」
「そっ……そんなつもり全然ないわよ!! レスターとクルセはお似合いよ!? 大体……」
 ――どうせ、私は不老だもの。
 その先は、喉の奥でつっかえて、出てこなかった。

 自分で言いかけた言葉が、胸の中で鉛になってのしかかる。
 そうだ。自分は不老。レスターとクルセとは、別の次元を生きる存在。
 今は共にいても、いつか、彼らは私を置いていく――

 声が継げなくなった少女の気配に気付いているのか、いないのか。
 いつの間にか彼女に背を向けていたクルセは、そっと囁いた。
「まあ……あたしも、こんなことを堂々を公言できる権利はないんだけどね」
「……?」
「レスターを壊したのは、あたしだもの」
 こちらを振り向いた銀の瞳には、諦観とともに自嘲が映り込んでいた。
「レスターに聞いたでしょ?死にたがりのレスターから、”死”を奪ったのは幼馴染のあたし。純粋に『生きてほしい』と、そう願っただけ。でもそのせいで、レスターは死にたくても死ねなくなって、やがて壊れてラミエルに成り果ててしまった」
「……でも、ラミエルを救ったのも、クルセだと」
「それは大司教になってから。あたしが壊したのだから、彼を元に戻す責任はあったしね。昔の若いあたしでは理解不足だった、ただそれだけだよ」
 割り切った口振りで語ると、クルセはうーんと伸びをして話題を変えた。
「まあ、そういう昔話もあったんだよ。ねえアルちゃん、もう斜陽だし、今日はここに宿泊してもいい?」
「……! ええ、もちろんよ!ぜひ泊まっていって!」
 嬉しさを隠し切れず、アルトミセアの顔に外見相応の少女のような笑顔が咲いた。
 いつも、イクウとイロウと三人ぼっちなこの教会。長い間、一人で過ごしていたとは言え、人との関わりを持つと、会えない時が寂しくて仕方ない。
 それから、浮き足立つ気持ちを少し落ち着かせてから、少女は静かに続けた。
「あと……みんなに、話しておきたいことがあるの」

 

 

 

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 ――300年前、混沌時代後期。
 園の創造主は、確かに目の前に立っていた。

 あの日のことだけは、今もまだ目の裏に焼き付いている。
 特定の姿を持たぬ高次の存在は、私とまったく同じ姿で佇んでいた。
 『彼女』は一振りの剣を差し出し、嫣然と微笑んだ。
 この剣とともに、エオスを見守っていてほしいと。
 それだけを言い残し、『彼女』は園を去り、二度と戻ることはなかった。

 園に残された私は、それを拒絶した。
 エオスに神はいらない。その時の決断は、今でも間違っていないと思っている。
 たまたまオースが馴染んでいた身を神に見出され、こちらの了承もなしに洗礼を浴び、神の預言者として存在を作り変えられても、私はあまりに小さな一人の人間に過ぎない。神などにはなれない。
 ましてや、これから発展していくだろう世界に、余計な上位の存在はただの束縛にしかならない。
 だから私は、二人目の神、そして神の証でもあるグレイヴ=ジクルドを封じ込めた。遠い、遠い、世界の果ての淵へ。
 ――そこで、神と私の物語は、終わっていたはずだった。

 神の預言者であるこの身は、世界の境界をも越え、神の声を受け取った。
 ユグドラシルからでは手の出しようもない神は、私がエオスの神を放棄したことを認めざるを得なかった。
 しかし、その代わりに。
 神は、私の手を離れたグレイヴ=ジクルドは脅威であると判断し、それを破壊することにした。
 そして、遅かれ早かれその破壊を補佐するために、教団を立ち上げ、その頂点で監視者ルオフシルになれと、私に言う。
 一度、エオスの神を断った責任から、私は、それを引き受けた。
 ……思えば、その負い目が、私を人形へと仕立てあげたのかもしれない。

 教団を創立し、初代教皇として君臨して数年。
 私は初めて、それに気付いてしまった。

 預言者の体は、年をとらないのだと――

 …………………………

 

 

 

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 夜は、世界が真の姿を現す時間だ。
 弛緩した糸が漂うような、たおやかな静寂。透明な紺色の帳に覆われた天球。控えめに、しかし確かに煌めく星屑は、魂のきらめき。
 ――遥か昔、アルトミセアは、一度だけ神界ユグドラシルに行ったことがある。他でもない、ボルテオースを授かる時だ。
 夜の情景は実に神界に似ていて、夜になると決まってその時の景色を思い出す。園界エオスはユグドラシルの一端に存在すると考えると、夜こそが世界の真の姿ではないかと思わされる。
 本来、ユグドラシルには人間は入れないが、当時、神の術式によって導かれた彼女は、そこで、今にまで繋がるすべての啓示をその身に受けた。

 そのすべてを、アルトミセアは自らの言葉を以って語った。

 毎回クルセに教授している内容とは別。そもそも教授せずとも問題はない、もっと核心の語り。
 誰もが一般論を刷り込まれ、その実体も知らずに奉り上げられている偶像。自分が知る限りの、その真の姿を。
 ――グレイヴと呼ばれる存在。
 そして、教皇と教団の真実を。

「……教団は、グレイヴ=ジクルドを破壊を見届けるためだけの組織、か。なるほどね。ちなみに神剣は今、何処に?」
「……とある場所に置いてきたわ。普通では絶対に辿りつけない場所よ。自信はあるから、恐らく神が教えさえしなければ誰にもわからないはず。……ごめんなさい、私はこれを口外できないの。神の術式で封じられていて」
「へえ、そんな術式も作れるんだね。構わないよ」
 向かいで、目を伏せて少しだけ申し訳なさそうな表情をしたアルトミセアに、両手を組んで肘をつくクルセはさらっと答えた。
 物影からそっと闇が迫る部屋の中、机の真ん中に置かれた燭台のロウソクが弱い灯りをともしている。
 いつも二人が講義をしている書室。今はそこに、講義通りに机に向かい合わせで着席するアルトミセアとクルセ、本棚の横の壁に寄りかかるレスター、その横にぼんやり立ち尽くすイクウとイロウ、合計5人という大所帯が入っていた。一般の部屋よりやや小規模の書室がさらに狭く感じられた。
 クルセは教団の大司教だ。ともすれば強い衝撃を受けかねない話だったが、彼女はまったく動揺もせず、いつもの講義のように興味深げに話を聞き……そして笑った。
 この半年、アルトミセアは一度も見たことがない、呆れ果てた笑み。――嘲笑。
「ずっと疑問だったことがある。それが、今の話を聞いてすべて氷解したよ」
 まさかそんな表情をされると思わず、言葉を失うアルトミセアにそう言い、クルセは心底おかしそうに肩を揺らしてくつくつ笑った。
 その言動の裏には、明らかな敵意が見え隠れしていた。しかし、それは、遥か遠くのものに向けられていて。

「あたしは、神を信じていないんだよ」

「………………え」
 大司教の口からあっさり放たれた一言は、教団の権威を揺るがしかねないものだった。さしものアルトミセアもそう反応するのが精一杯だった。
 ミントの髪をくるくる人差し指で巻きながら、自分の好みの食べ物を言うような気楽さで、彼女は続ける。
「信じていないというか、嫌いかな?」
「…………ま、待ってクルセ。なら貴方は、なぜ大司教なの?普通は、敬虔な者が教団に入るんじゃ……」
「フリはしてきたよ。でも、それはもう過去の話。あたしが大司教の今、そんなものは全部撤廃してある」
「………………」
「なぜ、あたしは大司教になったか?神が『嫌い』だからだよ。なぜ、神が嫌いか?レスターのご両親を殺害したのが、他ならぬ神だからだ」
 ――最後の言葉は、少女の喉を凍てつかせた。
 冷水を浴びたような衝撃。理解が追いつかず、とっさにレスターに視線を送る。彼は訂正することもなく、普段のように黙したままだ。二人の共通認識らしい。
「教団の規律はもちろん熟知しているね?」
「……え、ええ……あれはかつて、私が神の声を聞いて作ったものだもの……」
「ならその第十の規律は」
 骨の髄にまで刻まれている戒律だ。思い出そうとするまでもなく、その数字を聞いただけで瞬く間に蘇る。そしてアルトミセアは、クルセの言い回しが示す意味を悟った。
 第十の規律、「神に反逆の意あるものは、すべて獅子ゲブラーの牙で以って断罪するものとする」。
 ――レスターの両親が、教団の者によって殺されたのだろうということが、容易に想像できた。

 ……握り締めた拳が、震えていた。
 固くなった指先が、スカートを引っ掻くように握り締める。アルトミセアは、浅い呼吸で、愕然と目を押し開いていた。
 教団の戒律は、自分が神の声に従って書き、定めたもの。――言い換えれば、自分がレスターの両親を殺したことになるのだと。
「気付いた? ……そう。だから最初は、初代教皇も憎悪の対象だった」
「っ……!」
 淡々としたクルセの声が、刃よりも鋭く胸に突き刺さる。弾かれたように顔を上げだアルトミセアの開口を、「しかし」とクルセは制した。
「しかし、出会って判明したけど、当時の初代教皇は人形だった。つまり、教皇の手を介したが、戒律に反映された内容はすべて純粋な神の意向だ」
「……でも!私のっ……私のせいだわ!! ごめんなさい……!」
 恐怖や後悔や自責、さまざまな感情が一緒くたになった蒼白な表情で。アルトミセアは机に額がつくほど頭を垂れ、誰に向けるわけでもなく平伏した。
 ここに来て、初めて己に明白に向けられた罪に息が詰まりそうになる。
 人形であることに、自身が絶望していた。だが、外部からその罪を問われ、胸が軋んだ。
「そう、君のせいでもある。あたしはレスターが壊れるすべての元凶となった神と、人形の教皇……すなわち過去のアルちゃんを許さない」
「……っ……」
 人形の教皇。今ここにいる自分とはまた別の、自分。それはさながら、レスターとラミエルの関係のようで。
 レスターが過去ラミエルを嫌悪しているように。アルトミセアも過去人形の教皇を後悔した。
 別人のようであっても、それは間違いなく過去の自分の姿。消えない罪の証。
 この胸に穿たれた風穴が、埋まることは決してない。自分も、恐らくレスターも。
「あたしは、そんな腐った教団を根底から崩壊させるために大司教の座に就任した。神への”忠誠”という基盤を、神への”信仰”というものに転換させた。その馬鹿らしい戒律も、すでにあたしが撤廃したから安心して」
「……そう……」
「ほら、そんな顔しない。少し話が逸れたけど、ここまで聞かされたなら理解できたかな? ――神は、敵なんだよ。少なくとも、あたしにとってはね。神ありきのあんな戒律、誰のためにもならない」
 と、神を崇拝する教団の頂点に立つ者は、崇拝すべき偶像を睨み据え。寸分のブレもなく、クルセは己の信念の下、きっぱりと断言した。
 そう言う彼女は、教団にとっては異端――闇の部分だ。しかしアルトミセアが感じたのは、その仄暗いイメージからは程遠い、眩しさ。
 昼間に見た眩しさと似ている。それは、二人が幼馴染ゆえか。

『今の俺は、死を待つだけの傀儡だ』

 レスターが死を受け入れた傀儡なら、さしずめクルセは生を紡ぎ直す人形師か。
 壊れたものを正し生かそうとする、未来の紡ぎ手。
 エオスの神を断って正解だった。少女は、人形になる前の自分の決断に心の底から安堵した。
 ――ほら、人間は、こんなにも強い生き物なのだ。

「……レスターも、クルセも、本質が見えているのね。私には……見えなかったものだわ」
「最初から見えていたら苦労しないよ。レスターを壊した時、死にたがっている場合じゃないって、やっと目が醒めたんだよ」
「…………えっ?」
 意外な一言にアルトミセアが目を瞬くと、クルセの代わりに、後ろからレスターが答えた。固く閉ざされた左目の横にとんっと人差し指を置いて、
「クルセも昔、死にたがりだった。アル、お前と同じように思い込んでな」
「……まさかその左目は、クルセを助けて……?」
「18くらいの時にな」
 なるほどどうりで、人の動揺などはすぐに勘付くのに、肝心の人の気持ちには察しが悪いこの男が、右腕の負い目に苛まれていた少女の心境を理解したわけだ。すでに先例がいたのだ。
 たっと軽やかに立ち上がったクルセは、流れるような動作でレスターの隣に行くと、その左腕に絡みついた。活き活きとした両目で、頼んでもいないその時の話を語りだす。
「きゃーーアルちゃん大正解~!! 当時のあたし達は全然知る由もなかったけど、アルカを持った盗賊が村を強襲してきてね!あたし真っ先に捕まってしまって、アルカを持った盗賊に暴力されるところだったのを、顔の右半分に傷を負いながらレスターが助けてくれたのよ!レスターってばすっごく格好良くてね、あたし心奪われちゃったのよ……!!」
「……そ、そう……」
「その後、大分苦悩したけれどね」
 一転、普段の落ち着いた物言いでそっと囁くクルセは、苦く笑んでいた。
 ――レスターが好き。でもそのレスターの左目から光を奪ったのは自分。レスターの左目相当の価値が自分にあると思えない。……けれど、彼の傍にいたい。
 アルトミセアが連想できた分だけでも、それは身を引き裂かれるような相反する想いだった。想像を絶する息苦しさの先、彼女も、喘ぐように救いとしたのが死だったのかもしれない。
 皮肉にも、その死にたがりのクルセを救ったのは、彼女が『死にたがりにしてしまった』レスターだった。
 彼を死にたがりから連れ戻すため、彼を壊した元凶に復讐するため。クルセは大司教となる道を選び、今日に至る。

「―――神とは、何者なんだろうな」
 一頻りのやりとりが収まってから。ふとレスターの口からこぼれた問いは、誰に向けてでもなく、ふっと心の内に湧いた疑問だった。
 そしてそれは、この場の全員――アルカの二人はわからないが――に芽生えていた懐疑。
 それは、神を崇拝するはずの教団の神官にはあってはならない当惑。

 神界の主であり、園界の創造主。
 教団の真の創始者であり、教皇を操る人形師。
 すでに自身は立ち退いたはずの園界エオスを、教団を通じて都合よく裏で引導する、名も無き支配者。

「……エオスは私たち、人間の園のはずよ」
 アルトミセアの唇から、掠れた声がこぼれ落ちた。
「神もそのように言っていたわ。エオスは私たち人間の舞台だと」
「………………」
「神が憂いていたグレイヴ=ジクルドも、すでに誰の手にも届かないところへ移したわ。あとは私が、万が一にも口外せずに死ねばいいだけ。そうしたら神剣は、伝承としてのみ語り継がれる、御伽噺の中だけの存在になるわ。……だからもう、教団をつくるまでもなく、神の目的は果たしているはずだったのよ」
「……そう。しかし奇妙なことに、神は君を手放さなかった」
 アルトミセアが教皇として教団にいたのは、200年。
 姿が見えづらい服装等を考慮しても、不老を隠し切れたのは、精々最初の40年。それ以降は、教団の奥深くに閉じこもり、表舞台に姿を見せなくなっていた。
 そうして暗鬱な日々を160年ほど過ごすうちに、顔見知りが誰もいなくなり、一人ぼっちになって……
 少女は初めて、教皇を退きたいと神に打診した。一寸の迷いもなく、神は却下の意を示した。
 ……だから。アルトミセアは、すべてを終わらせようと、自分が存在した痕跡一つ残さないだろう黒狼が住まう、あの森へ行ったのだ。

 神には、人間のような感情はない。
 当然、個々の人間の感情など考慮するはずもない。
 駒のように、望むように動くものが欲しいだけなのだ。
 エオスを愛するが故に執着し支配する天帝。

 今はまだ・・・・、この程度。
 今でさえ・・・・、この程度。
 グレイヴ=ジクルドの破壊を望む以上、この先、神の干渉は間違いなく増えるだろう。
 その度に、また誰かが、心を、存在を、すり減らすことになる。
 そんなの、
「―――見過ごせない」
 そう紡ぐのは、他の誰でもない、神の駒だった少女。
 上げられた金色の双眸には、ひとつの決意を抱いていた。
 ――なぜなら、崇拝される偶像の真の姿を知るのは、この世界に自分しかいないのだから。
「クルセじゃないけれど、死にたがっている場合じゃないわ。また私のような人間を生むことになるかもしれないなんて、そんなのは嫌」
 私は、エオスの神じゃない。
 けれども、エオスで生きるすべての人々には、私のような想いはしてほしくない。
 ならば……
「何か俺にできることがあるなら、手伝うぞ」
 ふと、いつの間にか傍にレスターが立っていた。高い位置にある隻眼と目を合わせてから、すっと少女の目線が動いた。
 レスターのコート。空っぽの右腕。
 彼の右腕は、すべてを諦めてしまった少女の罪の形。今でもあの時のことを思い出して、少しだけ震えが走る。
 まだアルトミセアの目には、彼の右腕を奪ってまで――さらに、彼の両親を間接的に奪ってまで、自分が生きる価値は見えない。きっと、一生そんなものは見えないのだろう。

『生きるのが嫌なら、俺の右腕・・・・として生きろ。俺は、お前を手放すつもりはないぞ』

 けれど、彼がそう望んだ。価値を与えてくれた。だから――
 震える指先を隠すように、止めるように。アルトミセアは、その空っぽの右腕を両手で握り締めた。ぎゅっと、二度と離さないほど、強く。
「……レスター……ありがとう。私には、考えなくちゃいけないことがたくさんあった。でも逃げようとした私を……貴方が止めてくれた」
 そう言って男を見据えた金の双眼は、それがあるべき輝きだったかのように、強い色を放っていた。

「もう、二度と諦めない。投げ出さない。貴方の右腕に誓うわ」

 ――レスターが望む限り、彼の右腕、体の一部として、私はこの両足を止めることは許されない。それが私の価値だから。
 だから、前へ進もう。
 レスターとクルセ。死にたがりから生まれ変わった貴方たちのように。
 私も、生まれ変わりたい。

 少女のまとう空気が入れ替わった。たゆたっていた気配が、細く鋭く収束する。
 教皇という言葉がすんなり馴染む、凛とした姿。
 初代教皇アルトミセア=イデア=ルオフシル。その肩書に恥じぬ、気高き姿よ。
 ……と。
 不意に頭の上に影が落ちたかと思うと、わしゃっと髪が乱れた。
 突然で何が起きたかもわからず、アルトミセアは目を白黒させた。その動揺が伝播して、彼女から張りつめた気配も霧散する。
 やがて、レスターに大きな手のひらで頭を撫でられているのだと気付いた。混乱してされるがままになっていた少女に、男の声が、染み入るような響きでかけられた。
「すでに無い右腕より、左腕に誓ってもらった方が嬉しいんだが……まあ、アルが右腕がいいならそれでいいか」
 ――そういえば、レスターの笑顔は、あまり見たことがない。
 春の日差しの下、野原の草花と遊ぶ温かい風。レスターの仏頂面にそんな印象の淡い微笑みが咲いているのを見て、アルトミセアは今までの彼を思い返しながら頭の片隅で思った。
 レスターは、その言動の一片一片に相手への思いやりが詰まっている。いちいち笑みを浮かべずとも、あたたかい人間だと伝わってくる。そういえば彼は笑わないと、こうして実際に笑顔を見て思い出したくらいには。
 笑うんだ、と思うと同時に、存外似合うものだなと、少女はその笑顔を呆然と見つめていた。
「今のアルは好きだ」
「…………………………………………そ……それは、よかったわ」
 そのまま、あっさりとした口調で言われたことが、レスターの価値観基準であるのを忘れていて、アルトミセアは一瞬、思考が停止した。先ほど思考停止しないと公言したばかりだというのに。たった一言に決意を掻き乱され、不快じゃない居心地の悪さを覚えて、目をそらすのが精一杯だった。
「ああんずるい~!! アルちゃんでも抜け駆けは許さないんだからー!!」
「だ……だから抜け駆けとか、そういうつもりじゃないってば!レスターも、すぐ人の頭を撫でないで!」
 クルセの的外れの横槍に必死に言い返して、アルトミセアは不自然じゃないようにそっとレスターの手から離れた。
 少しだけ紅潮した頬を黙らせるように顔をぺしんと両手で叩く。次に開かれた瞳には、かつてのような迷いはない。
 窓辺に歩み寄ったアルトミセアは、窓を開け放った。ひんやりとした夜風がふわりと部屋に流れ込み、淀んでいた部屋の空気が入れ替わる。ロウソクの火がかすかに揺れ、部屋の中の影も総じて波打った。
 少女はそこから、星屑の散る紺の天球――そのずっと奥を、睨み据えて。

「―――――神を、打倒するわ」