relic

91 境界線上の子供

 ヒースさんは、逃げていただけだって言う。
 一体、何から?
 私は、私を消そうとする神様に、はっきり拒絶されるのが怖くて逃げていた。
 じゃあ、ヒースさんは――?

 ノストさんの剣先がヒースさんに弧を描き、神剣という名の楽器が鳴る。
 その後ろで、私は願う。

リン―――

 響く高音。澄んだ音色が起こした優しい波が、一帯を撫でていく。
 想起音ユスカルラ。不可思議現象を打ち消す力。そのままじゃ、神の軍に私の力は効かないけど、この力が展開している今なら行けるっ……!
 と、前を向いた私の視線の先で、ヒースさんがつるんっ☆とずっコケた。
「ギャーッ?! ちょ、タンマタンマ!! おかしいだろ!何で凍った川の上でバトんだよ!!」
「はぁ?剣聖なら場所選ぶな」
 と言っているノストさんも、やっぱり滑るのかロクに動けないでいる。今、ヒースさんが転んでて大チャンスなのに、すぐそこなのに、動かないし!
 ふと思いついたらしく、ノストさんはすっと片膝を落として体を安定させてから、剣を振り抜いた。その動きが何処となく鈍いのは、やっぱり傷のせいだろう。ヒースさんが慌てて横転して避ける。
「っと……剣聖は生前だっつーの!ってことだ、おいノスト、お前も剣聖なら場所選ぶなよ!」
「俺には選ぶ権利がある」
「何でだよッ!?」
 必死こいて立ち上がったヒースさんが、ノストさんをまねて、膝をついたまま大剣を上段から振り下ろす。
 リーチは、ヒースさんの方が上だ。飛び退こうにも、氷の上だから上手くできる保障はない。否応無しに、ノストさんは神剣で受け止める方を選ばされた。
 その二人の間に、たんっと私は飛び出した。
「「!?」」
 二人の気配が驚愕に揺れる。
 氷翼カノンフィリカで宙を舞って飛び込んだ私は、少し軌道が乱れた大剣を見上げ、息を吸い。
「弾けッ!!」
 弾く盾リュオスアランを呼び起こし、ヒースさんの刃を跳ね返した。足元が凍り付いているのも相まって、ヒースさんは大きく後退させられる。
 凍った川の上に浮遊する私は、驚いているノストさんをくるっと振り返って、ちょっと迷ってから……えいやっと抱きついた。膨らむ力ルードシェオで力持ちになって、ノストさんを川辺に運ぶ。
 降ろして即行、ぐいっと胸元のリボンを引っ張られた!
「舐めてんのかてめぇ……」
「え、ぇええ!!? 突然マックスボルテージで怒ってるんですかっ!? だ、だって戦いにくそうでしたしっ!自分で判断しろって!」
「たまには役に立つなっ……!」
 話の途中で、一瞬ノストさんの目線が私からやや逸れた。背後で何が起きてるのかわからなかったけど、私を連れて後退しようとする彼に合わせ、慌てて弾く盾弾く盾リュオスアランを発動する。
 私のボルテオースが混ざっているノストさんを内包して展開した盾に、かすかに刃が掠る。さらに追いすがってきた過去の剣聖に対し、着地して私を横に突き飛ばし、ノストさんが迎撃した。
 私はノストさんの邪魔にならないように、羽でさらに下がる。
 その理由・・・・を、ずっと考えながら。

 

 

 

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 ラベンダー色の長髪が、ふわりと優雅に舞う。
 くるりとこちらを振り返った彼女は、優しい微笑みを浮かべて言う。
「ねぇヒース、せっかくの休みだもの。何処か行きましょ?」
「お前なぁ……自分が病弱だってこと、忘れてねぇか?」
 私の隣から男の人の声がする。テーブルについている彼は、呆れた顔で女性に言う。
「あら、ここに来てから大分強くなったわよ?ヒースを疲れさせるくらいには」
「そりゃ昔からだろ……」
「昔はほんっとうに、か弱い乙女だったわよねぇ~?何処かの誰かさんにさらわれたりして」
「よく言うぜ……どっかの策士様は高見の見物だしよ……」
「ふふ、それ誰のことかしら?」
「ご想像にお任せしますよ、お姫様っと」
 大柄な男の人は、嘆息に声を織り交ぜて席から立つ。壁に掛けてあった青緑のロングコートをまとい、その隣に立てかけてある大剣を背負う。
 まったくそんな雰囲気はなかったのに、これから何処かへ出かける様子の彼に、女性はキョトンと問いかけた。
「ヒース?仕事行くの?休みって言わなかった?」
「あぁ?このお姫様は何言ってんだか……」
「何よそれ?」
「……あぁ、それでもいいな。確かに昔よりは健康体になったしな」
「え?」
 一人頷いて勝手に話を進める男の人に、女性はしきりに目を瞬く。
 彼は家のドアを押し開きながら、買い物に誘うような気軽な口調で言った。
「セントラクスにでも行くか?お前、行ったことなかっただろ」
 そう言い、彼は女性を振り返って、硬直した。
 女の人が、ひょっとしたらそのまま消えてしまいそうなほど、嬉しそうな微笑みを浮かべていたからだった。
「――ええ、連れてって」
「……あぁ、連れてってやるよ。俺の仕事場に」
 何処となく参ったような笑みを滲ませて、ヒースさんは手を差し出した。
 差し出された大きな手。その手を前に、女性は……ふいっと視線を逸らした。
「仕事場になんて興味ないわよ。私は街に行きたいの。あ、できたらその土地にしか生えない花が見たいわ。セントラクスに生える花、何か知らない?」
「容赦ねぇな?! あーだから、それ俺に聞くか……?お前の専門だろ」
「私も知らないから聞いてるの。でももし、ないなら……大聖堂しか見るものはないわね」
「ん?仕事場は興味ないって」
「興味ないわよ。建物を見るの」
「へぇ~?確かに民間の建物にしちゃ綺麗だが、大貴族のお嬢様から見れば、今更目新しいわけでもないのにな~?」
「いーからそういう予定で行くわよ、召使いっ!」
 にやにや笑う男の人に、女性はほんのり赤い顔で悔しげに彼に言い放って、くるっと背を向ける。簡単に支度を整え始める彼女を、男の人は優しい笑みで見守っている……

 

 

 

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「……っつーわけだ」
「ふーん、そうなの。それで、いつ起きるの?」
「……お前、全然聞いてなかったろ……」
「聞いてたけど、私にはどうでもいいもの。そんなことより、この子とお話ししてみたいわ」
 手間をかけてガッカリしたように額を押さえる男の人に、女の人は傲慢とも言える態度で当然のように言って、視線を向ける。
 ベッドの上で眠る、女の子に。
 女性はその傍らに座り込み、そっと少女の淡い茶色の髪を撫でる。
「自我の形成に時間がかかるっつってたからな、そうすぐには起きねぇだろうな」
「そう……本当、ルナちゃんそっくり」
「まぁな。けど中身は、ルナ半分、俺半分だぞ?」
「なんてことしたの!? 悪い菌が移ったらどうするのよ!」
「お前、俺にどんな評価してんだよ……いーだろ、俺の娘だぞ?」
 冗談半分に言った女の人の一言に、男性は自慢げに答えた。
 途端、彼女の横顔が曇ったのを見て、無神経だったことに気付かされる。笑うのをやめ、彼はそっとラベンダー色の頭に手をのせた。
「……悪かった」
「……いいの、わかってるから。私に娘なんてできるはずないって」
「コイツが起きたら、母親だって名乗ればいいだろ?」
「便宜上、そうなるかもしれないけど……本当のことを知ったら、悲しむわ」
「そんくらいでへこたれないように、愛情注いでやりゃいいんだよ。その自信がないか?」
 眠る少女を見つめて、男の人が試すように問いかける。女性は一瞬の逡巡もなく、キッと男性を見返して、きっぱり断言した。
「あるわ。貴方を近付けさせないくらいには」
「おいおい……そりゃ頼もしいことで」
「何が娘よ。この子は私の子よ!貴方なんかに渡さないから!」
「まぁ年頃の女の子だしな、頼むわ。母さん」
 立ち去り際に、男性は何気なくそう呼んで、すたすた食卓の方へ歩いていく。
 ベッドの脇にしゃがみ込んだまま、女性が耳まで赤くなっていたことには気付かず。

 

 

 

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「……ごめんなさい」
 不意に、女性がこぼした一言。顔がかすかに強張っている男の人は、まるで嫌な予感を覚えたように目を見開く。
 白い肌の女性は、ふわりと微笑んだ。とても優しげで……寂しげで。
 元々儚げな彼女は、さらに薄れて見えて、今にも消えそうだった。思わず男性が女性の細い手を掴んだら、彼女は労わるようにその大きな手を両手で包み込む。
「…………、……そう……いつ死んでもおかしくないとは思ってたけれど……」
「な……何言ってんだよ、不吉だな……」
「そんなの、誰にも話せなかったでしょ……?でも、もういいわ……ヒース、ごめんね。ごめんなさい。つらい思いさせて」
「…………おい……何でお前が謝るんだよ……俺の、セリフだろ……っ」
 震える声。包まれている手で女性の手を引き、抱き寄せる。その大きな背中は、まるで彼女に縋るようにも見えて。

「―――もう、何処にも行かない」

 ……やがて、ぼそりと男の人が呟いて、腕を緩めた。
 目を瞬く女性に、真摯な瞳で言う。
「教団もスロウのことも全部やめだ。フィレイア様やルナ達に任せといて問題ねぇ。ここにいて、お前といる」
「……ヒース……」
 その双眸はとても真剣で、嘘など微塵もないとすぐにわかった。本気の眼差しを真正面から受け止めて、女の人は、答える――
 わざとらしく、大きな嘆息をするフリをして。
「まあ、なんて大きな子供かしら?無茶苦茶な駄々をこねて。どっちも貴方がいなきゃ、始まらないじゃないの?」
「……ッ……けどな!!」
「ええ、私の夫は貴方だけね。でも、それとこれとは違うわ。むしろ、夫だからこそ、よ」
 彼だってわかっていたことだ。痛いところを突かれ、しかし納得することはできずに反論する男性に、女性は言葉遊びのように静かに諭す。
 気持ちが揺らいでいる彼に、道筋を示すように毅然と言い放つ。
「私の傍にいないで。貴方を必要としている人は、たくさんいる。私なんかに構っていないで行きなさい、剣聖ヒース」
「エリナ……!」
 それでも思わず声を上げる男の人に、彼女は微笑した。
 ――とても、幸せそうに。

「大丈夫よ。寂しくなんてないわ。貴方と、この子がいるから」

 

 

 

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 私の家……ううん、ヒースさんとエリナさんが住んでいた家。
 掃除が終わった後、少しだけ家の記憶を呼び起こした。家にあるものすべてが、いろんなことを覚えていて、いろんなことを私に教えてくれた。
 想い出の中、二人はいつも笑っていた。幸せそうだった。
 二人とも、私が起きるのを心待ちにしていた。
 不変の中で、確かに幸せだったんだ。それは紛れもない事実。
 その幸せを裂いた、あの最後の別れ。二人が別れることになった日。
 エリナさんの意見を尊重したヒースさん。
 ヒースさんの現状を尊重したエリナさん。
 互いを思って、その道を選んだ二人。

 互いを思うあまり――多分、すれ違ってる二人。

「ッ……!!」
 ヒースさんの刃が、ノストさんの右肩を裂いた。
 右腕は、感覚が戻って剣が操りやすくなったのと同時に、痛覚も戻ってきた。痛みを噛み殺し、ノストさんは相手の剣を弾いていく。
 魔法じみた軽やかさで、あの大剣を操るヒースさん。
 それよりも軽い剣先で、その攻撃をさばくノストさん。
 幾度もぶつかり合う剣身。響く音色。
 ――その度に、かすかにゆがむノストさんの顔。
「はっ、いつまで持つんだよっ!?」
「っ!」
 前回の攻防からずっと負傷している右腕で、今までかろうじて刃を受け流してきたノストさんが、やや出遅れた。その隙にねじ込むように、ヒースさんが大剣を突き出す!
 ばっと赤が散る。とっさに神剣を当てて若干軌道を逸らしたみたいだけど、今度は脇腹に掠った。ヒースさんの剣は確実にノストさんを追い込んでいく……!
「お前、何だかんだで俺に勝ったことなかったよな!一度くらい勝ってみろってんだよ!!」
「相手にハンデつけといてそれかっ……」
「それは前回も、お前が俺に敵わなかっただけだろ~?」
「やかましい筋肉脳……!」
「どぅぁああれが脳まで筋肉だよ!!」
 口論しながらも、二人は刃を重ねていく。
 生前と同じような、師と弟子の稽古。
 一瞬、ノストさんは空を仰いだ。ヒースさんの剣に押されるように、わざと大きく飛び退くと同時に、グレイヴ=ジクルドを振り抜く。破壊ロア……!!
 刹那の空隙に発動した神の奇跡は、ヒースさんの足を鈍らせた。多分めまいがしただろうに、ノストさんは負荷を無視して動く。
 グレイヴ=ジクルドを真上に放り投げ、大剣の間を縫ってヒースさんに突っ込んだ。まさか剣を持たずに突っ込んでくると思わなかったヒースさんは、その大胆さとタイミングの良さにやられた。
 突き飛ばされたヒースさんは、でも動揺しない。冷静に体重移動して、とっさに足の裏から着地。
「うおっ!?」
 ……しようとした彼の足が、つるんっ♪と滑る。そこは、凍てついた川の上だった。
 全部、思惑通り。

――― 渡れヨル=メティ  私の再生の歌マーストラシュファストサイア

「!? 何処だ……!?」
 何処からともなくラルさんの声が世界に広がるように響き渡り、不意に太陽が輝きを増した。……ように、ヒースさんには見えただろう。
「上ですっ!」
 輝くのは、グレイヴ=ジクルドのウォムストラル。
 二人の上空にいる私を、ヒースさんが見上げる。
 空中で氷の翼を広げ、光り輝く神剣を掲げる私を。
 ――私には、破壊ロア再生ラシュファも効かない。
 人を蝕む、神が使う奇跡ちからは、神子わたしを蝕んだりしない。

 白が、世界を包んでいく。

 再生された世界を、水の音が渡った。
 春の雪解けのように、小川が再び息を吹き返す。ばしゃんっと、ヒースさんが小川に落ちる音がした。
 かかった!水は私の領域……!
「ノストさんっ!」
 グレイヴ=ジクルドをノストさんの近くにえいやっと投擲し、小川を一瞥して私は願う。
 再度、小川に冷気が走る。起き上がって離脱しようとしたヒースさんをも飲み込んで、川は再び冬の様相へと巻き戻る。
 ――だけど……巻き込んだのは、両足だけだ!
 神剣を再び手にしたノストさんが、自分の師に迫る。ヒースさんも迎え撃とうと大剣を振るう。まずい、リーチが違いすぎる……ッ!
 私が息を呑んだ直後。
 ノストさんは、ケガしている右腕で操る神剣で、しかも右腕一本で、ヒースさんの大剣を受け止めた。
「ノストさっ……!」
 万全の状態でも、あの巨剣の一撃を片腕だけで受けるのはかなりキツイはず。負傷してるなら尚更。今、衝撃をモロに食らったはずだ!
 思わず声を上げたけど、ノストさんは石のようにその格好のまま動かない。私は訝しんで……ふと気付いた。
 ……あれ……?ヒースさんの大剣が……ない?

 ……ヒースさんが、息を吐いた。
「……よくまぁ、調子悪いくせに連発するぜ。でもま、そんだけ気力が持ってるってこと考えると、ある意味じゃお前の手にあって正解なのかもな」
「……っ……」
「ノストさんっ……!!」
 ガクリと、ノストさんが膝をつく。ようやく理解した私は、慌ててその傍に飛来した。
 ノストさんは、グレイヴ=ジクルドを杖に膝をつき、じっとり脂汗を浮かべていた。ヒースさんの指摘通り、破壊ロアの連続使用のせいだ……なんて無茶してっ……!
「武器消されちゃ、俺は確かに何もできねぇがな。無茶苦茶だぜ、ノスト。破壊ロアは人間の体にゃ毒だ。自分の耐性を無視して、いきなり大量に毒を飲んだようなもんだ」
「なんてことしてるんですかッ!! 間違って死んじゃったらどうするんですか!?」
 剣だけに集中させて破壊ロアを使ったんだ!それで、触れた大剣が消えてしまった。
 破壊ロアの乱発がどれだけ危険で、多大な負荷がかかるかっていうのは、これまでからよくわかる。
 考えてみれば、ノストさんは私を助けに神界に来る時に、破壊ロアを乱発しているらしい。あの時も、これだけの……ううん、これ以上の負荷がかかってたことになる。さらに、ユグドラシルの拒絶も相まって……ほぼ死んでるようなものだったに違いない。
 私がつい大声になって責めると、ぼそりと返答があった。
「お前に憑く……」
「え、ぇぇええ!!? そ、それはそれで守護霊として心強いですね!」
「……死んでほしいのか?」
「そんなわけないじゃないですかッ!!! 冗談と本気はきっちり分けてますよ!」
 きっぱり言い切り、それから私はノストさんに言った。
 ニヤリと、ちょっとだけ不敵な笑みを含んで。

「ノストさんは今、私の力で生きてるんですから、私の下僕なんですよ!だからっ、勝手に死んじゃうなんて許しませんからねっ!!」
「……………………………………」

 ……小川が凍りついているせいなのか、この場だけ冬になった気分だった。
 いろいろな意味で固まったノストさんの代わりに反応したのは、傍で足を凍らせたまま立つヒースさんだった。
「ぷっはははは!!!! ノストが下僕呼ばわりされてやがる!! ハハハハッ!ステラやるな~!!」
「……自分じゃ何もできねぇドベ神子が……」
「そのためにノストさんがいるんでしょうっ?」
「………………」
 私は得意げに、要するに自分じゃ何もできないってことを胸を張って言い切った。……自慢することじゃない!
 でも効果抜群で、ノストさんは黙り込んで、わずかな抵抗なのか横目でギロっと私を睨んできた。ふっふふふふ………………こ、怖いぃ……でもでも今っ、私ノストさんに勝ったよ!? わーい初勝利!
「ははっ……まさか、こんなことになるなんて、思ってなかった……。お前ら、本当に……お互いに理解しあってるんだな……羨ましいくらいに、……」
 ……気が付けば、ヒースさんの笑いは、何処となく寂しげなものになっていた。
 何か物言いたげなノストさんを宥めて、私はすっと立ち上がった。ヒースさんに向き直る。
「ノストさん、グレイヴ=ジクルド借りますね」
「……お前のモンじゃねぇだろ……」
「ノストさんの物でもないでしょう!? えっとじゃあ、貴方のものは私のもの方式で、強制奪取です!」
 ノストさんが支えにしている神剣を借りるのは、少し気が引けたけど……疲れている彼からは、あっさり奪えた。まぁ、結局貸してくれたんだけど……。
 再生ラシュファで、川をあるべき姿に戻す。その水の流れが蘇る。
 剣をノストさんに返し。足の束縛が解けても、そこに突っ立ったまま、すっかり無抵抗な様子で、手ぶらのまま空を仰ぐヒースさんに、私は口を開いた。
「……逃げてるってことは、それが怖いってことです」
「……?」
「ヒースさん、貴方は怖かったんじゃないですか?エリナさんに……嫌われてるかもって」
「………………」
 ――ヒースさんは、エリナさんの意見を尊重した。でもそれは、抗おうと思えばできた。彼女の傍にいることだってできた。
 彼女は強がっていただけだったかもしれない。それに気付けなかった自分は……嫌われてるかもしれないって。

 しばしの沈黙の後、ヒースさんの口が開いた。
「……俺、ひどい奴だろ?女房の最期を看取らなかったんだ。何やってんだって……今になって泣きたくなるくらい後悔して……本当に、ひでぇよな……」
 彼の顔は伏せられて、視線は足元でさ迷っている。誰かを直視して語れない、後ろめたさ。
 その言葉は、懺悔のようで。まるで――誰かに、許しを乞うようで。
 英雄って言葉がすんなり馴染む、そんなヒースさんの唯一の気がかりは、エリナさんだったんだろう。弱点とも言っていい。ひどく人間らしい、泣きそうな顔を伏せて、彼は呟く。
 そこにいるのは、剣聖じゃない。ただの、弱い、一人の人間。

「―――馬鹿。そんなこと、思うわけないじゃない」

 ……私が口を開こうとしたら、震える声音が響いた。
 はっと、ヒースさんが顔を上げる。私の背後から、ふわりと風が駆け抜けていった。
 駆ける赤い靴には、明らかに運動性があるとは言えなくて。川原の砂利に足を取られて、前に倒れかかる。
 それを見越していたかのように、大きく広がった青緑のロングコートが抱き留めた。
 そこまでしてなお、彼の顔には驚きが張り付いていた。それはきっと私もノストさんも同じで、でも彼には及ばない。
 見覚えのあるラベンダー色の長髪が、抱き留められたまま言う。
「……私だって……嫌われたんじゃないかって、不安だったのに」
「………………」
「貴方は、いろんな人に必要とされてると思ったから……でも、私が拒絶したように見えていたら、嫌われるかもしれないって、怖かったのに」
「…………エリ……ナ……?」
 名前を呼んだ瞬間、夢のように消えてしまいそうで。大切すぎて触れられない宝物が、確かにそこにあることを確かめるように、恐る恐る問う。
「……本当に……エリナ、なのか……?」
 その揺れる声は、縋るようだった。言い表せないほどの動揺と激情が込められた、弱々しい声。
 二人が離れ、至近距離で向き合う。――こうして出会うことは、もう有り得ないはずの二人が。
 驚愕と動揺と、それと同じくらいの感動を覚えて立ち尽くすヒースさんに、ラベンダー色の髪の女性が、瞳を揺らしてくすりと笑んだ。
「愚問じゃないかしら?神の軍は、その人自身であって、その人自身じゃない。魂はその人でも、体はその人のものじゃない。あえて言うなら――生ける死者かしら」
「………………」
「だから、どう判断するかは貴方の自由よ……ヒース」
 突き放すような、小難しいことを並べ立ててから、最後に……女性は、いとおしそうに、彼の名を呼んだ。
 ――それだけで、彼には十分だった。
 女性が、わざとらしく嘆息する。
「本当、うちの旦那は、細かなことは気にしないくせに、そういうことばっかりは気にして。言ったでしょ?夫だからこそ、って。意味、ちゃんとわかってた?」
「………………」
「だと思った」
 答えを持っていないのか、それともまだ驚愕から立ち直っていないのか。答えられないヒースさんを見て、彼女は笑った。
「今まで……どれだけ私が強がっても、皮肉を言っても、わかってくれたから。貴方って、おかしなくらい人の心を読むのが上手いんだもの」
「……そんなこと、ねぇぞ」
「そうかしら?私はね、きっと何処にいても、貴方は私を想ってくれてるって、そう思ったから。だから寂しくなんてないって、そう言ったの」

「――だって、夫婦だものね?」

 眩しくて、今にも消えそうで、心のドアを開けっ放しにしたような、無邪気な顔で。
 彼女は――エルウィヌナーシュ=セラエルさんは、透明な涙をこぼして微笑んだ。
 ヒースさんも、また。
「…………、……あぁ……そうだ。そうだよな……ッ……」
 まるで、その一言を待っていたかのように。つっかえる声でそれだけを絞り出し、片手で顔を覆ってうな垂れた。震える大きな両肩が、今は小さく見えた。
「俺は……馬鹿だな……っ」
「ええ、もう……大馬鹿よ」
 エリナさんの意見を尊重して旅立ったヒースさん。
 ヒースさんは多くの人に必要とされていると考えたエリナさん。
 お互いを気遣うあまり、すれ違っていた二人。
 3年前から今まで、ずっと二人の心に巣食っていた憂いが、全部溶けて、涙と一緒にキラキラと川の流れに乗って流れていく――
 ……そんな流れが視覚的に見えた気がして。それがとても綺麗で、見入っていた私を、エリナさんが振り返った。
 私が見た記憶の中と同じ、優しげな微笑。
「初めまして、ステラ。本当なら、貴方の母親だって名乗りたかったけれど……先を越されてしまったみたいだから。私は、貴方の義理の母親よ。貴方の記憶にはなくても、私は貴方をずっと見ていた母親だって言い張るから」
「……あ……」
「目覚めてくれて、ありがとう。私は、それだけで嬉しいわ」
 ……私に、お母さんの記憶はない。それは、「お母さん」という概念を知らないのと同じだ。
 きっと優しい人、厳しい人、たくさんの「お母さん」像がある。でもそのどれも、私は知らない。
 それは多分、人間では有り得ないこと。
 だけど、「お母さん」ってこんなふうなんだろうって、そこで微笑む彼女を見て思った。
 ただ私のことを想って、微笑んでくれる人。
 私を――ただの人間として扱ってくれる人。

 ゆっくり歩み寄ってきたエリナさんの目が、不思議そうに見開かれる。
 その景色が滲んで、次の瞬間、私は彼女に抱きついていた。
「―――お母……さん……っ」
 ……初対面の人に抱きつくとか、何やってんだろ。頭の片隅で思ったけど、こぼれる涙にはそんな言葉は届かなかった。
 ふわりと、エリナさんの腕が優しく私の頭を撫でる。
「もう、急に泣いちゃって。どうしたの?」
「……わたしは……っ」
 何で泣いてるのか、何で抱きついたのか、よくわからなかった。
 希望が見えたからなのかもと、口を突いて出た、縋るような自分の一言を聞いて思った。

「私は……お母さんの子で、いられますか……?」

「―――ステラ……!」
 絞り出した苦しそうな声で、誰かが私を呼んだ。
 一拍の呼吸を挟んだ後。私の耳元で、エリナさんは寂しげに囁く。
「……そう。私は、ずっと貴方の母親よ。でも……貴方は、私の子ではいられない」
「……?」
「私は貴族だったけど、それらしい生活はしてなかったし、感覚的には庶民に近かったわ。……境界に立つ者は、いつも浮いていて……選べなくて、つらいわよね」
「え……」

「だから――『捕まえた』」

 パリッ、と。山吹色の電撃が駆けた。
 ……脳裏に。
「―――――あああぁぁあぁあああッッッ!!?!」
 突然、頭の中を閃光が焼いた。真っ白になる。
 頭痛なんて生易しいものじゃなかった。体を貫かれたような信号が渡る。でも体は何処も傷ついてないから、脳と体の間にギャップが生じて混乱して、最終的に頭痛になった、そんな感じで。
 とっさに頭を抱えたけど、私はあっさり意識を持っていかれてる。
 逃がさないように手を伸ばすけど、霞んでいく意識は、指の間からすり抜けていく。

「神子ステラ、貴方は―――」

 クロムエラトで、対抗――
 幽玄なエリナさんの声を聞いたのと、とっさにそう思い当たったのと……内と外から気付かされて、自嘲した。

 ……あはは……そうだった。
 私は、人間じゃなくて、神様の子だった―――