relic

83 カタルシス

 そうめったに体験できることじゃない。
 ……というか、普通なら生涯一度もないと思う感覚。
 足が地面についてなくて、逆さまで、風を切っている。
 このままじゃ死ぬ。
 でも今の私には、そんなことどうでもよくて。
 ただ、内面の『恐怖』と闘っていた。

 

 

 

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 マラタ貝と青菜と炒めたスパゲティを巻き巻きして、はむっと食べる。
 うーん、おいし。高級料理は綺麗でなんか凄いけど、私は庶民の料理の方が好きだ。
 ……ノストさんはどうなのかな?
 そう思って向かいを盗み見ると、彼は白身魚のソテーを食べていた。……な、なんかすでにここに壁を感じる……庶民料理よりちょっとレベル高いんじゃない!?  切り分けられた一切れが、フォークに突き刺されて持ち上げられる。それを何気なく目で追ったら、ノストさんと目が合った。……それがまた、物凄く不機嫌そうな目で。
「……あ、あはは……そ、それ、おいしいですか?」
「普通」
「…………わ、私のはおいしいですよ!?」
「はぁ?馬鹿は耳から老いるのか」
「まだ老化してませんよっ!! というか、まだ若さを謳歌してすらないですから!! 確かにノストさん、マズイなんて一言も言ってませんけど……!」
 ……だって、なんか怒ってるんだもん。話展開しづらいし。理由聞いても、珍しいことに教えてくれないし。
 そんなわけで、さっきから静かに食事中。周囲は控えめに賑やかだけど、私のところだけは重い空気。……ところで、私って不老だったから、若さを謳歌なんて話じゃないや……。

 三手に分かれた私達。私は、ノストさんと二人で、最優先にセントラクスを目指すことになった。
 そして今、私達はなんと、セントラクスにいる。すでにゴールしてました。
 神の軍の追っ手とかかかると思って警戒してたのに、あっさりだった。拍子抜けしながら、とにかく着いたから、ご飯中。当然、3組の中で、私達が一番乗りだ。
「……神の目的は何だ」
「へ?」
 不意に、ぼそりとノストさんが言ったのは、かなーり今更な質問で。
 わざと?本気?意味わかんなくて思わず顔を上げると、彼は真剣な顔をしていた。……どっちにしろ、いつもこの顔だから、わざとか本気かわかんないけど!
「え、えっと、私とノストさんの断罪と、教団の壊滅……ですよね?」
「なら敵だな」
「………………」
 それは、確認するようなニュアンスだった。ってことは、復習だったらしい。しかし返答のない私に、ノストさんが視線を向ける。
 ……わかってる。ノストさんの言う通りだ。
 でも……私は、頷けなくて。
「……本当に、そうなんでしょうか。神様は……本当に、私達と対峙してるんでしょうか?」
 我ながら、妙な問いかけだった。「本当に対峙しているのか」なんて、はっきりしない。でも、ちょうどその表現がピッタリ来る感じで、私はそんなふうに感じてる。
 私が言葉を交わした神様は、平等と調和って感じで、何と言うか、誰かと敵対するなんて全然感じなかった。何が起きても見守っていてくれそうな、それこそお母さんみたいな……そんな感じだった。
 だから、なんとなく……今回の事件、ちょっとだけ違和感を覚える。違和感って言うより、不安……かな。
 追いかけられてると思ってるのは、私達だけ?
「神に追われている現状は確かだろ」
「……そうですね……」
「お前の当てにならない勘に付き合ってやる義理はねぇ。試したきゃ一人でやれ」
「って、そっちが本音でしょう!? どーせ私の勘なんて当たりませんよっ!でもとにかく、ユグドラシルに行ってみれば、何かわかるかもしれません!」
 私がフォークを握った拳を縦に振って必死に自分にフォローを入れた瞬間、ノストさんの目付きが怖くなった。……あ、あれ……?
 思わず停止すると、彼はいつもよりずっと不機嫌そうに言う。
「神は本気だ。前も言った。てめぇが囚われの姫やろうなんざ100万年早い」
「……わ、私、捕まったって逃げますもん……」
「偶然は重ならねぇ。神相手に逃げ切れる自信が平時で無いならやめろ」
「………………」
 ……そりゃ、私のクロムエラトは気まぐれだけど。制御はまだ不安定だし。そんなモノに頼るくらいなら行くなって……。
 前にもあった。ダウィーゼから勝手にユグドラシルに行って帰って来た時。
 あの時も、そして今も。ノストさんは、静かに、だけど物凄く怒っている。

 …………えっと。
「……あの、ノストさん。その……もしかして……心配してくれてます……?」
 動作が自然と止まって、なんとなく真正面から見れなくて、ノストさんの手元に目線を向けたまま、聞いた。はうう、こんなこと直球で聞くの、なんか照れ臭くて顔熱くなって来た……!
 ユグドラシルに行けば、何かわかるかもしれない。と同時に、何が起こるかわからない。
 でも反対に、行かなければ、何もわからないかもしれないけど、大体の事柄には対処できるから。……要するに、傍に置いておいた方がいいってことだ。私も、そりゃノストさんの傍にいた方が大体安全だってことはわかるし。
 さっきのキツイ忠告は、そんなふうに思えて。
 それに対し、ノストさんは例によって切り捨てた。
「死地に赴く一人の馬鹿に、冥土の土産を持たせただけだ」
「え、ええぇ!?! な、なんかそれズレてません!? 『行くな』って言っておいて、私行くことになってるんですか?! っていうか冥土の土産なんて嫌ですよー!!」
「喜べ、かなり珍しい土産だ」
「た、確かにノストさんのキツイ忠告って意味では、かなり珍しいお土産かもですがッ!!」

 ガチャンッ!!

 急に、固いものがぶつかる音が会話を遮断した。はっとして、今動いたものを見る。
 ノストさんのお皿の端に、フォークが落ちていた。
 ノストさんは、自分の手から落ちたそれを、くだらなさそうに見下ろしていた。
「……え……?」
 ……強烈な違和感。
 その違和感を断ち切るように、キィィ――ンと楽器のような綺麗な高音が響く。
 ノストさんの姿が霞んだ直後、食事中だった私の頭上で鳴ったグレイヴ=ジクルド。はっと背後を見ると、知らない男の人の剣が、神剣に受け止められていた。
 グレイヴ=ジクルドの切っ先が緩やかな動作で小さな弧を描き、襲撃者の剣を弾く。剣を手放しはしなかったけど、男の人は顔をしかめて数歩後退した。……その後ろにも、明らかにこちらを見ている人々がいて。
「みんな神の軍……!?」
「神子と共犯者、覚悟しろ!!」
「ノストさんっ!こんな室内じゃ……!」
 いつ来るかわからないって知ってたけど、あまりに突然すぎた。具体的な対処法も考えてなかった。うわーん考えておけばよかった!!
 とりあえず外に出ようと、振り向きざまにノストさんに言いかけて、目を剥いた。
 ノストさんは、私達の食事がのっていたテーブルをゴミみたいな荒い扱いで横へ倒し、お皿ががしゃーん!!とか割れるのも気にせず、呆気に取られている私の腕を掴んで引き寄せるなり、
「弾く盾をやれ」
「へ??」
 攻撃を神剣で迎撃しながらの一言に、私はキョトンとなる。が、理解していない私をよそに、ノストさんは私の手首を掴んだまま、おもむろにスッと片足を引く。
 瞬間、ぐるんって視界が逆さまになった。
 自分の背後へ向けて、ノストさんは片手で私をぶん投げたっ!!!
「え、ちょぉおおおーーーっっっ!!?!」
 背負い投げというか背負いぶん投げというかっ、とにかく私は放り投げられた!宙を舞ってます!ななな何でぇええーーッ!!?
 上下逆のノストさんが遠ざかっていく。というかこのままじゃ壁に叩きつけられる!あっ、そうだ弾く盾!!
 お願いクロムエラト、ほんっっっとーに助けてぇええ!!!
 私の必死の頼み込みに応えて、空中で逆さまな私の周囲に、見えないけど弾く盾が展開する。その一瞬後に、ガシャーン!!と甲高い音が私を包んだ。
 それがガラスだって言うことに気付いたのは、太陽の下に放り出されて、キラキラ光る砕け散った破片を見てからだった。
 重力に従って私が地面に落ちる頃、地面とは別のものに受け止められた。私を追って飛び出してきたらしいノストさんだった。
「ノストさぁぁあん!!? 今までで一番ひどい扱いでしたよねっ!? ガラス割りに私使ったってことですよねー?! 今、10回は軽く死んだ気がしますよ!? グレイヴ=ジクルドで壁壊せばいいじゃないですかぁああッ!!」
「破壊ロアは疲れる」
「壁切っちゃえばいーじゃないですか!!」
「あの狭い店だとすぐ倒壊する」
「風化現象は?!」
「ジクルド専用だ」
「それで最終手段が私ですかっ?!」
「奥の手だ」
 ……なんかもう泣いてもいいっ!?

 片手にグレイヴ=ジクルドを持ったまま、器用に私を両腕でキャッチしたノストさんは、店の中から追っ手が出てくるのを見て立ち上がる。……私を抱き上げたまま。
 ……って、ちょ、これって!! お、お姫様抱っこってヤツじゃ!! う、うわぁああーーっっ!!?!
「……無傷か」
「はっ、はいぃ……!その、大丈夫、です……」
 なんとなくいつもより距離が近くて、真っ赤になってきて声も上擦ってきてあううう……!! あーもう危ない目に遭ったのノストさんのせいなのにっ、なんか丸め込まれてるっていうか!
 とととにかく逃げなきゃいけないから、ノストさんは降ろしてくれた。心臓バックバクだったからホッと一息。と思ったら、今度は肩に担ぎ上げられる。で、出た、この米俵体勢……ノストさんにとって一番邪魔にならないんだろうな、これが……。
 通りに出て走るノストさんの肩の上で、私は背後から迫る追っ手の神の軍をバッチリ確認できる。
 知らない人達ばっかりだった。武装している人もいるけど、中には武装していない農民みたいな人もいた。そんな人なら近付いてきても、武装している人より警戒心が少ないから気を許してしまいそう。それを狙ってるかも。こ、怖っ……!
 そして今回は、サリカさんの言っていた通り、みんなが肉体を持っていた。ということは、グレイヴ=ジクルドの力も、私の力も効かない……効くのは、アルカ以上の存在の、物理的な攻撃だけってことだ。
「ひゃあっ!?」
 そんなことを考えていたら、ノストさんがカクっと進行方向を変えた。突然だった上に、こっちは遠心力の関係で強い力で振り回される。……の、ノストさん、ちょっと考えて下さい……く、首がグキって!
 曲がり角を曲がったというのはわかった。彼が曲がらなければ行っただろう道からも、神の軍が追ってきていた。先回りされてる……?!
 と思ったら、またもやカクっと、今度は逆回転。また道を塞がれていたらしい。首を引っ込めていたから痛くはなかったけど、少しずつ気が付いて来た。
「なんだかっ、誘導されているような気がします……!」
「ナメクジ回転速度の脳をフル稼働させてようやく今頃か」
「ようやく今頃ですよ!! って最初から気付いてたんですか!? 乗っちゃっていいんですか?! このままじゃ……!」
「お前が超絶な跳躍力を持ってるなら話は別だが」
「む、無理ですよーッ!!」
 神の軍の目的は私。私を捕まえるだけなら簡単だけど、傍にいるノストさんが厄介なんだ。これは、彼をも追いつめて排除するための策……!
 そして今回、彼らにロアは効かない。一体一体倒すには時間がかかりすぎる。私というハンデがなければそれでもいいけど、今回は別だ。だからノストさんは、神の軍を突っ切らずにいる。
 でもこのままじゃ、袋叩きに遭う。それは当然ノストさんもわかっていて、でも打開策がないらしい。
 私達は、何処かへ、導かれている。

 不意に、バンッ!!と強い音が鼓膜を叩いた。
 後ろ向きの私の視界に大きな扉が見えたことで、ノストさんが何かの建物に飛び込んだと遅れて理解する。驚いた目で見てくる、神官服を着ている人達が辺りに見えた。
「な、何事だ!?」
「ここは神聖なる大聖堂です、そのような粗暴な……!」
「大聖堂……?」
 誰かの困惑した叱咤の声をぼんやり復唱すると、急に降ろされた。自分の足で立った私がキョトンとノストさんを見返すと、彼は奥に見える階段を目で差して言う。
「走れ。援護はする」
「ま、まさか自分はここに残るなんて言いませんよね!?」
「はぁ?英雄ヒーロー気取りは一人でやれ」
「じゃ、ついてきてくれるってことですね!なら安心です!あんな数相手してられませんし!」
 とりあえず邪魔だったから私を降ろしたらしい。頼もしいお言葉を聞いてから、私は駆け出した。……ってこれ、そーいや何気なく食後の運動じゃ!? ノストさん、よく普通に走れてたな……!
 背後で、何だあれ!とかうろたえる声が聞こえてきた。きっと、番兵のゲブラーさん達だ。
 ちらっと後ろを一瞥すると、さすが戦いのプロ、門番以外のゲブラーさん達も反射的に身構えていた。私から見て一番手前に、ノストさんの背中が見えた。
「ステラさん!?」
 前に向き直ったら、正面の方から名前を呼ばれた!
 え!?と思って顔を上げると、神官服の上に黒い上着を着た男の人が立っていた。穏やかそうな顔が、戸惑った様子だった。セントラクス司教のアノセルス=ギリヴァンさんだ!うわあすっごく久しぶり!覚えててくれたんだ!
 ミディアから経つ時、フィアちゃんが、司教に向けて手紙を送るって言ってた。もしかしたら、アノスさんなら神の軍のこと知ってるかも……!
「お久しぶりですアノスさんっ!! あのっ、フィアちゃん……フィレイア様のお手紙、見ましたか?!」
「ええ、拝見しましたが、なぜそれを貴方が……」
 アノスさんの手前で一度止まって、私はまだ上がり切っていない呼吸で聞く。困惑気味のアノスさんは、そう言ってから、はっと大聖堂の入り口の騒ぎを見て、理解してくれたようだった。キッと表情を引き締め、周囲の人々に叫んだ。
「ティセドは、大聖堂内の民間人を避難させなさい!ゲブラーは、表口と裏口に分かれて神の軍を堰き止めるのです!! ゼーゴ、正面をお願いします!」
「わかってらァ!!」
 手早く指示を出すアノスさんの言葉に、私の背後、大聖堂の正面口から荒々しいおっさんの声が返る。聞き覚えがあったから振り返ると、数人いるゲブラーの中で、一際図体がデカイ影があった。
 ……あ、あれ?もしかして、ずっと前、お城から脱出してアルフィン村に帰る途中で会った、あのおっさんじゃない?! ノストさんに脅されて逃げ出した!そ、そういや、アノスさんの護衛していたり、今も頼りにされたり、実は結構強い!?

「そうだアノスさんっ、正面口以外に出口はありませんか!?」
「上だ。全面囲まれてる」
「で、でもっ!」
 私がセントラクス司教さんに問いかけたら、背後から別の人がぶっきらぼうに言ってくる。で、でも、上に逃げたら、自分で逃げ道を塞いでいるようなものだよ!
 言わなくても、ノストさんは重々わかってるはず。でもそう指示してくる彼を、私は不安な顔で見上げて、
「わっ!?」
 遠くで声が上がったと思ったら、急にノストさんが私の腕を掴んで、階段の方へ走り出した。入り口を肩越しに見ると、神の軍にやられて倒れている神官さんがいた。殴打だったらしく血は見えなかった。その隙に内部に入ってきた、神の軍の見知らぬ一員がこちらに向かってくるのが見える!
 階段の手前まで来ると、彼は私を階段側に押しのけ、背を向ける。
「上に行け!」
「は、はいっ!」
 有無を言わさぬ強い声音。つい元気良く返事しちゃって、私は自分のその声に背中を押されるように、階段を駆け上がり始めた。
 3階建ての大聖堂。吹き抜けになっているこの空間の2階に上がった時、下方で高い澄んだ音が鳴った。グレイヴ=ジクルドの震える音。ドキっとしたけど、一瞥もしないで、私は2階の廊下を走る。
 走りながら、何気なく1階の様子を横目で見て。その中に、頬がこけた男の人を見つけて、心臓が一瞬凍りついた。
 ……忘れるはずもない。彼は……私が前に、城の地下牢で氷づけにした三人のうちの、一人だった。その傍に、もう一人、長髪の人も見えて。
 神の軍は、死者の軍。
 まるで――自分の罪に追われているようで。
 心拍が速くなってきて、比例して心も焦る。心拍が速いのは走ってるからだって言い聞かせながら、それでもじわじわ侵食する不安は拭えなくて。
 ノストさんは強い。負けるはずがない。でも、あんな数相手じゃ……!
 大聖堂全面が包囲されてるって、どれだけの数なの?! これじゃ、まるで――
 ……考え付いた単語に、心が竦み上がった。体が竦まなかったのは奇跡だ。

 ……そうか。
 これは、戦争なんだ。
 独裁者かみと、そして民衆わたしたちとの。

 何事も因果律。
 罪が、罰を受けろって追ってきた。
 私が罰を受けなかったから、起きてしまったんだ。
 私のせいなんだ……!!

 ……気が付いたら、3階に上り、さらに上へと続く細い階段を上っていた。
 上り切った瞬間、ザァっと髪が横に流れた。そこは、大聖堂の最上階、尖塔の屋根の下の屋上だった。少し離れて、同じような塔がいくつか見える。見上げると、屋根のさらに上には大鐘が見えた。
 大聖堂の7つの尖塔は、それぞれが別の音階の鐘を持つことで有名だ。そして、一番音が低い真ん中の鐘が、音に比例して大きい。ここは、その鐘の下らしかった。
 完全に、行き止まりだ。
「………………」
 何とはなしに端に近付いてみると、下から吹き上げてきた風をまともに受けた。当然だけど、地表が遠かった。嫌な妄想が頭を過ぎって、血の気が引く。
 ……ノストさん、大丈夫かな。
 ううん、彼はついてきてくれるって言った。やばくなったら逃げてくれる。生き延びてくれるって信じるの、私。
 でも……きっと、無理だ。さすがのノストさんでも、あの数をすべては蹴散らせない。
 私のクロムエラトは、攻撃はできない。できるのは、弾く盾リュオスアランと、想起音ユスカルラ膨らむ力ルードシェオと同じような力。私の力は、神の軍の前では意味を成さない。物理的な攻撃は問題ないと思うけど、私にはその力がない。私は、形のないものしか扱えない。
 それに……できれば、クロムエラトは使いたくない。制御はある程度できるとは言っても……まだ怖いから。盾くらいなら、まだ平気なんだけど……。
 だから、考えなきゃ。ここから、さらに逃げる方法……!

 ギンッ――と、少し離れたところから、鈍い音がした。きっと甲高い金属の音だったんだろうけど、こもって聞こえた。
 階段を向いたら、ザッと私の手前に誰かが着地する。当然ノストさんだったけど、なんだか様子がおかしい。
 荒い呼吸をして、紫の服のあちこちに切り傷を作って、いつもの悠然とした臨戦態勢じゃなくて、少し腰を曲げて、前を睨み据える。だらんと下げた右腕の先には、グレイヴ=ジクルドが引っさげられていて……その刃を、赤い雫が撫でている。彼の足元に滴る鮮血。
「……の、ノストさん!? ど、どういうことですか?!」
 ぼんやりそれらを認めてから、私ははっとした。ノストさん、右腕ケガしてる!
 いくら数が多いって言っても、ノストさんは無理せず、適度に引くようにしていたはずだ。それなのに、疲労困憊でケガまで負ってるって言うのは……あのノストさんが、引くのも迎え撃つのも一苦労な敵がいるってことだ!

 ……ジャリっと、靴が石造りの床を撫でる音が耳に届いた。
「お前、変わってねーなぁ。強くなっても、弱くなってもいない。3年間、何もしないでいたなら、まぁ当然か」
 聞いたことのある男の人の声音に、私は固まった。ノストさんの背中を見たまま、動けない。
 その背を避けて、向こう側にいる人物を見るのが恐ろしかった。恐ろしいって思う時点で誰なのか理解しているのに、そこに本当にいると認めてしまうのが、怖かった。
「今、お前が俺とある程度張れてんのは、もっぱらその剣の恩恵だな。軽いし、誰の手にも馴染むらしいからな、使いやすいだろ?」
「……っ……」
 ノストさんはただ、グレイヴ=ジクルドを握る手に力を込めた。それも、ぎゅって感じじゃなく、打つ手がない自分に対して苛立たしげに、ギリギリと。力を入れたせいで血がまた滴るけど、それにも気付かない様子で。
 こんなにノストさんが感情的になるのは、ただ一人に関してだけ……
 ……私は、動かない体に逆らって、ゆっくり、ノストさんの後ろから、顔を覗かせた。
 数人がいる先頭に立つ、予想通りの青緑色のロングコートが、この風になびいていた。
 彼の漆黒の瞳が、私に動く。
 そして……
 彼は、私のる、邪気のない快活な笑顔を向けた。
「よ、ステラ。初めましてだな!」
「…………ヒース……さん……」
 私の記憶の中と変わらぬ、灰色の髪を1つに束ねた剣聖が、そこに立っていた。

 

 

 

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 彼は、寂しそうな顔をした。
「あぁ……そうか。俺が父親じゃないって、知っちまったんだもんな……」
 一瞬何のことかわからなかったけど、私が他人行儀で「ヒースさん」って呼んだことを言っているんだと気付いた。
 考えてみれば、有り得ないことじゃなかった。
 神の軍は死者の軍。すでに死んでいる人なら、誰だってなる。ヒースさんだって。
 ということは……スロウさんの妹さんも、エリナさんも……もしかしたら……アルトミセア様も?
 でも、信じ切れなくて……!
「……ど……どうして……?貴方まで……私達を追ってくるんですか……!?」
「まーな。神の命令だしな」
「だって!その命令にはっ……!」
 ……グレイヴ=ジクルドの回収もある。つまりそれは、ノストさんを……最悪殺してまで、剣を奪えってことだ。
 ヒースさんが……それを、呑んだ……?!
「そういうことだ。俺は手加減はしねぇ。だからノスト、お前も俺を殺す気で来い。じゃねぇと――死ぬぞ」
「………………」
 すっと表情を消し、ノストさんを瞳に映して言うヒースさんは、見たこともないくらいの冷酷さを宿していた。
 私達、二人に向けて言っている。唯一の救いは、彼がノストさんを見ていたことだった。まっすぐ私の方を見て言われてたら……きっと、指先まで縛られて、絶対動けなかった。

 信用していた人が敵に回った。それがこんなに恐ろしいなんて、夢にも思わなかった。
 ノストさんは、答えない。――それが、答えだった。
 詰みだ。私達はまんまと相手の策にはまり、追い込まれた。
 背後は空。出口を塞ぐのは、超越した力を持つ、在りし日の剣聖。
 逃げ道は、ない。

 逃げ道がないなら、作ってしまえば?

 それができないから困ってる。
 閃光のように脳裏を駆け抜けた戯言を、一蹴して。
 一瞬後、はっと思い出したことがあった。

『なぜなら 貴方の想いは 叶えるためにあるのだから』

 いつかのラルさんの透明な声は、焦燥にかられていた私の胸を静めながら、染み渡っていく。
 ……ああ、そっか。
 大事なこと、忘れてた。
 私のこの力は、この神の軍を生み出した、神様と同じ力。
 神様が、このエオスを生み出す時に振るったはずの力。
 すべてを生み出す力だ。
 だから、叶える想いクロムエラトだって……忘れてた。

 できる?私。
 ……できる。
 信じる。信じてこその想いだ!

「ノストさんッ!!!」
 はっと、神の軍たちの顔に驚きが走った。膠着状態で静まり返ったその場を、私の声が無遠慮に踏み荒らしたからだ。
 でも、それでいい。響け、私の声!
 その場の全員が驚いて、私の行動に置いていかれている、今がチャンスだ!
 ノストさんの前に踊り出た私は、他の人達と同じように唖然としているノストさんに飛びついた。自分が知る限りの体当たりを、膨らむ力ルードシェオで増幅させて。
 疲れていたノストさんは抗うこともできず、あっさり突き飛ばされて、後ろへよろめく。
 それは、あっという間だった。
「っ……!?」
 ノストさんが驚愕するのが見えた次の瞬間。重力から解き放たれた私達は、宙を舞っていた。
 飛び込んだ蒼天。重力という束縛から逃れた刻は、なんだか自由でいられるような気がした。
 バサバサと、服が、髪が、風に悲鳴を上げる。
「私、諦めませんからっ!」
 自分に言い聞かせるつもりで言った声は、それらの悲鳴に掻き消されていく。
 ノストさんが打つ手なしって思っても、私、諦めないから。
 だから……ノストさん、私に、勇気を下さい。
 彼の背中に回した腕に、ぎゅうっと力を込めて、私は願う。

 クロムエラト。
 私の想いが力となって働く、恐ろしい力。
 今だって怖い。この力を使わずに済むなら、ずっと忘れていたいのに。
 だけど……それは、神子である自分から逃げているだけだ。

 逃げたくない。
 だってそうしたら、私を生んだ神様からも、逃げることになるから。

 立ち向かえ。
 この恐怖に。

『貴方の心は 翼のように広く散りやすいのね』

 私の心が翼だと言うのなら、この恐怖も広げてしまえ――!!

―――キ……ィィンッ―――

 澄んだ音色とともに、すべてが蒼ざめた。
 大気が凍りつく。緩やかに落ちる速度。
 寒気が走る背中を一瞥した私の瞳に、そこに広がる蒼く煌く翼が映った。

 ――氷翼カノンフィリカ

 雫が凍りついたような、小さな粒子の集まりの羽。
 思いもしない形で戸惑ったけど、私の体の一部だから使うのは簡単だった。
 細かな氷粒を散らしながら氷の双翼をざわりと蠢かせて、私は強く羽ばたく。

 翔ぶ。
 翔ぶ。
 翔ぶ―――