exodus

96 命運を握る手

 ぼんやり、私は前を見つめていた。
 ちょうど正面には、上半身が映るくらいの大きさの鏡台が置いてあった。たった今起きたところで、あちこち髪を跳ねさせた半眼の自分がそこに映っている。
 左側に腰窓があって、昼間の明るい光が差し込んでいた。外では鳥がチュンチュン鳴いていて、朝だなって思う。
 理想的な、穏やかな朝。
 だけど、最近はこういうことがなかったから、しばらく、夢かも?ってぼんやりしてた。

 ……あ、そっか。私、ユグドラシルから脱出したんだっけ。
 ちょっとずつ、霞がかっていた頭がはっきりしてくる。なんだか随分ぐっすり寝た感覚……。
 ユグドラシルから飛び出して、飛んで飛んで、アルフィン村まで来て。
 ノストさんが見えたから、思わず呼んで……、
「…………………………………………」
 そこまで思い出して、頭の中にかかっていた霧がぱっと消滅した。
 ……な、なんか私、飛び込んだんじゃなかったっけ。もう飛ぶの疲れてて、ノストさんに……抱き留めてもら………………お、覚えてない覚えてない覚えてないっっ!!!
 寝起きのベッドの上で、一人で頭を抱えてブンブン振る私。それに追い討ちをかけるように、私の頭はさらに続きを思い出す!
 そ、そういえばノストさんがやけに優しかった……ような……つ、疲れてたくせに何でここまで覚えてるの私!?
「ふふふ、眠る前のことを思い出してるの?」
「はひっ……?! あ、アルトさん!?」
 顔を挟み込んで鏡を見たままいろいろ考えていたら、誰もいないと思ってた室内から声がした!というか私の真横から!ひ、人いたの!?!
 思わず上半身を引きながら見てみたら、ベッドサイドのテーブルで、リンカティーらしい紅茶を淹れているアルトさん。傍には、こんがり焼けたクッキーがのったお皿。
 その様子が絵になっている彼女は、くすくす笑って続ける。
「貴方たち、本当に心が通い合ってるのね」
「へっ?ど、どういう意味ですか?」
「あら、私もあの場にいたのよ?」
「え?えっ……!?」
「ふふ、ノストはしっかり抱き留めてくれたわね?」
「いやぁああーーっ!?! し、しーっです!! ぜ、絶対、誰にも言わないで下さいぃぃい!!!」
 アルトさんが微笑ましそうに淡々と語るもんだから、私は余計恥ずかしくなって、自分の立てた膝にしがみついた。
 う、うそ……アルトさんもいたんだ!? き、気付かなかった……だ、だって凄い疲れてたし……!! うわぁぁぁ恥ずかしいぃぃぃ!!!
 顔を真っ赤にしてうろたえる私に、アルトさんは湯気の立つリンカティーのカップをはいっと差し出した。
「誰にも言わないわ。ほら、落ち着いて」
「は、はい……」
「私がわざわざ言わなくても、もう知れているでしょうけれど」
「なっ、何がですか?!」
「本人はバレていないつもりなのね、ふふ」
 おかしそうにニコニコ笑うアルトさんが何を言っているのかイマイチわからない!何のことかドキドキしながら考えてみたけどわからない!! な、なんなの……!?
 と、とりあえず私は、手渡された紅茶を飲んで一息吐いた。
 ふぅ、いい香り……アルトさん、世間から離れて暮らしてた割に、紅茶淹れるの上手いな。もしかして森の中でお茶してたりしたのかな……想像できるから怖い……。
 とか思いながら、私はアルトさんを改めて見てみた。
 金色の波打つ長髪はツヤツヤしてて、黒いドレスによく映える。大貴族のノストさんも文句つけられないくらい、紅茶を飲む様は優雅だ。
 神様だって言われても信じそうな……まぁ神様みたいなものだけど、そんな女の子。
 神の寵愛を受け、しかしエオスのために背を向けた、初代聖女。
「……あ、そうだ!」
「?」
「アルトさんの好きな食べ物ってなんですか?」
「え?」
 私の突然の話題転換に、アルトさんはきょとんと目を丸くした。
 自分でも突然だったとは思ってたから、私はえへへっと笑って、
「だって私、助けてもらってばっかりで、何もお返ししてませんし。せめて、何かできたらなって」
「………………」
「見てると、アルトさんはクッキーが好きそうですよねっ。紅茶飲んでる時、いっつもセットですし、今だって」
「………………」
「食べ物が一番わかりやすいかなって思ったんですけど、私にできることなら何でもいいですっ」
 そりゃ料理が得意分野だから、食べ物の方が助かるけどもね。
 内心で付け加え、驚いた顔のままのアルトさんを見て、私も驚いた。
 見開かれた彼女の金の双眸から、透明な雫がこぼれ落ちたから。
「え?えっ!? あ、あのっ、アルトさん!わ、私、何か悪いこと言ったんでしょうか!?」
「え……?どうしたの?」
「へ?? だ、だってアルトさん、泣いて……」
「あら……どうりで視界がゆがむと思ったわ」
 涙を指先で拭って、アルトさんは濡れた瞳で微笑んだ。ってことは、自分でも気付いてなかった……?
 呆然とする私に、アルトさんは何処となく嬉しそうな声で言った。
「涙を流すなんて何百年ぶりかしら……ええ、そうね。きっと、嬉しかったからなのよ」
「嬉しかった……?」
「ふふ、ノストの言う通りね……ありがとう、ステラ」
「え?? 私、何も……」
 なんだかお礼を言われちゃったけど、まぁ……アルトさんが嬉しそうに笑ってるなら、いっか。何がノストさんの言う通りだったのかも、よくわかんないけど。
 アルトさんは、お皿の上にのったクッキーを一枚、手に取った。丸いバタークッキー。……ところで誰が焼いたんだろう。
「ええ、そうね……言われてみればそうなのかも。森にいる間は、主に果物を食べていたし、きっと甘いものが好きなのね」
「甘いものですか!なら今度、私の好きなお菓子を作りますね♪」
「楽しみにしておくわ。ステラが作るものなら、何でもおいしそうだもの」
 えへへ、嬉しいこと言われちゃってる。これは期待を裏切らないように頑張らないとっ!
 クッキーを一口食べたアルトさんが、ふと何かを思い出した様子で、くすくす笑った。
「それにしても、まさか貴方が自力で神のところから脱出して来るとは思わなかったわ。かなり無理をしたでしょう?」
「あ、あはは……ちょっとつらかったですけど、でも、もう大丈夫です」
 助けを待っているだけの囚われのお姫様は、もう卒業したかったから。
 微笑してからリンカティーを飲んだら、湯気の向こうでアルトさんの表情が陰ったのが見えた。
「……貴方が神の手の内から抜け出てくれただけでも、光明と言えるのかしら」
「え?」
「神に、グレイヴ=ジクルドを奪われたわ」
「……そうですか」
 神様が私の姿でエオスに下りた時から、あの人の目的はグレイヴ=ジクルドを奪うことだってわかってたから、あまり驚かなかった。現実感が薄かったのもあるのかも。
 私達は、最大の切り札を失った。
 神の手に神剣があるという、今までにない危機に瀕しているんだ。
「でも、計画は予定通り行うわ。貴方とノストでユグドラシルに乗り込み、神を圧倒する。ノストの剣技だけでは、神には到底及ばないわ。ステラ、貴方の行動が命運を分ける」
「は、はい」
 な、なんか命運を分けるとか言われると凄いプレッシャー……!私は何処の世界を救っちゃうヒーローなの!?
 なんとなく、持っていたカップをテーブルに置いて、布団を蹴っ飛ばして慌ててベッドの上で正座すると、アルトさんは少しおかしそうに笑った。
 ……それに、グレイヴ=ジクルドが神様の手にあるってことは、今までノストさんと私にあったアドバンテージが、すべて神様に移ったってことだ。
 つまり、破壊ロア再生ラシュファも、私達じゃなく神様が使ってくる。
 神子の私には、あまり関係のないけど……ノストさんが危険だ。半分は私と似た存在だから、普通の人間ほどの負荷は受けないと思うけど、気を付けた方がいい。
「………………」
 ……私の働きが命運を分ける。
 私の力で構築した剣をノストさんに渡して、私は彼の横で補助をすることになると思う。その補助は、当然クロムエラトの力で……その度に私は、ボルテオースを消費する。

 前に、ラルさんが言っていた。
 クロムエラトは、基本的にはオースを使って引き起こされる。
 だけどオースはナシア=パント以外にはほぼ存在しないから、それ以外の場所では、私は自分のボルテオースを使っているらしい。だから当然、度が過ぎれば疲れるし、限界が来る。
 その点、ユグドラシルにはオースが溢れてるから、燃料という点では無限大だ。
 でもオースは、ボルテオースより下位の力だから、それを使って引き起こした力はこれまでと違ってあまり強くないはず。正直、予測がつかないから不安でいっぱいだし、それに神様自身には私の力は効かない。
 何といっても神の領域に入って戦うんだから、利は向こうにある。長引けばこちらが消耗してしまう。
 やるなら、私はノストさんをサポートして、早めに片をつけるしかない……。

 私が深刻になっていろいろ考えていると、アルトさんは小さく笑ってカップを置いた。
「ふふ、私は事実を言ったまでよ?そんな殺気立たないで」
「……え?」
 いつの間にかうつむいていた顔を上げる。彼女の一言は私に向けられたようで、でもなんだか内容がズレていて。
 違和感に首を傾げると、ややあって、アルトさんの背後で部屋のドアが静かに開いた。
 ドアの向こうから現れたのは……なんだか眉間にシワが寄ってて、いつもより目付きが数段険しいノストさんだった!
「ノストさんっ?来てたんですか?な、何でそんなに怒って……」
「貴方が神に敵わないのは、以前の攻防で身に沁みているでしょう?ステラの援護なしには貴方は勝てないわ」
「……どうやって気付いた」
 金色の波がふわっと舞う。アルトさんが立ち上がって彼を振り返ると、ノストさんは低い声で聞いた。
 あ、確かに何でアルトさん、ノストさんがいることに気が付いたんだろう……もう術式もないのに。聖女の計り知れない神秘的なミステリーパワー……?
 アルトさんは、ふっと微笑んだ。……何処となく勝ち誇ったように。
「私は700年、生きているのよ?消しているつもりの気配くらい読めるわ」
「……………………………………」
 ……う、うっわー。
 アルトさん、わざとだと思うけど……そんなあからさまに見下したような態度とらなくても!ノストさん、多分プライド傷ついてすっごい怒ってるよ!宥める私が大変なんですからねっ?!
 ノストさんは、もう黒いオーラが背後に見えそうなくらいな険悪な目つきだけど、アルトさんはイタズラっぽく嫣然と微笑んで、その視線を受け止めている。

 火花が散っているように見える二人の間に、私は慌ててフォローに入った。主にノストさんの。もー、私ってば寝起きなのに!
「わ、私はノストさんのサポートですから!! ノストさんは無理しない程度に、思う存分、暴れちゃっていいんですよっ!?」
「凡人の大暴れなんぞ、たかが知れてるな」
「大暴れするのはノストさんもですよッ!? 私はノストさんが戦いやすいように、フォローの大暴れします!だから、ノストさんはその倍くらい……」
「ザコ神子の支援を倍にしても知れてるな」
「ザコ神子!? なんか手下みたいな言い方じゃないですかっ!? 私はザコの一員としてノストさんを援護するんですか?!」
「手下A、紅茶を持ってこい」
「それただのパシリですよねーーー!!?」
 ……要するに、途中で突然話題が変わったんだ。自分も紅茶飲みたいから、自分の分も作れってことだ。うう、相変わらず下僕とか言われてるし……。
「なら、少し待つことになるけれどいい?さっき作った分は、すでに皆にあげてしまったから」
 カップを置いて軽やかに席を立ち、アルトさんがノストさんに言う。
 あ、そういえばこのリンカティー、私じゃなくてアルトさんが淹れてきたんだった!! アルトさんに手間かけさせるの、なんだか凄く申し訳ない……!って私、完全にノストさんに下僕精神を刷り込まれてない?!
 それに、紅茶って大概ティーポットいっぱいに作るものだから、1杯分だけ作るのは逆に大変だ。このままじゃ、余った紅茶が凄くもったいないって私の庶民魂が叫んでる〜〜!!!
 私は、ノストさんの横を通り過ぎようとするアルトさんに声を張り上げた!
「アルトさん、新しく作らなくてもいいですよ!!」
「え?」
「下僕が逆らう気か」
「違いますってば!! 紅茶って1杯だけ作るの大変なんですよ!? だからノストさん、これあげます!」
 胡乱げなノストさんと、こちらを振り返ったアルトさんの前で私が差し出したのは……私の分のリンカティー。熱い紅茶がカップ越しに私の肌をじりじり焼いて、ちょっとつらかった。
 ノストさんはおもむろに近付いてきて、当然のようにそのカップを受け取った。
 手渡す拍子に互いの指がちょっと触れて、目覚めた直後のことを思い出して視線を横に流した。
 うう……思い出したら恥ずかしくなってきた……!大体この人、いろいろあってすっごい疲れてるはずなのに元気じゃない!?
 何はともあれ、一仕事終えて、ほっとベッドに座り込む私。ノストさんと言えば、さっきまでアルトさんが座ってたイスに我が物顔で座ってる。
 まったくもー、こういうところは全然変わらないなぁ……と思ってたら、私の隣にアルトさんがニコニコしながら座った。
 改めて近くで見ると、とっても綺麗だ。まさに絵に描いたような聖女なのに、にんまり笑みを浮かべている今は、なんとなくその神秘的な雰囲気が台無しだ。どっちかって言うと、恋バナとかではしゃぐ女の子……。
 何だろ?と首を傾げる私の耳に、彼女は笑いをこらえるように囁いた。
「貴方、あの紅茶、飲んだでしょう?」
「あ、は…………………………〜〜〜〜〜っっっ!!?!」
「ふふふ♪」
 言われたそれだけの言葉で、とんでもないことに気が付いた!!!
 愕然と、ノストさんがカップを傾ける様を凝視する!その白いカップの底を見てたら、紅茶の熱が伝播したみたいに顔が熱くなってきた……!!
 カップにたくさん残ってたし、なんとなくまだ飲んでないって勘違いしてたけど……わ、私そういえば、アルトさんに手渡された時に飲んだ……!う、うわぁああーー!!!
 顔を両手で挟みこんでうな垂れる私の後頭部に、コツンと当たる硬い感触。
 手探りで掴んで目の前に持ってくると、予想通り、空になったカップだった。
「甘い」
「……そういえばノストさん、ノンシュガー党でしたね……」
 ちょっと落ち着いたから顔を上げると、ノストさんは今度はクッキーに手を伸ばしていた。乱入して来たのにくつろいでるよ、この人……。
 サクっと食べたクッキーは甘かったのか、満足げ。彼は、紅茶は風味の問題なのかノンシュガーが好きなくせに、お菓子は甘い方が好きらしい。
「ステラ」
「は、はい?」
 お皿の上で、指についた粉を軽く落とし、ふとノストさんは思い出したように私を見た。私は、ちょっとドキっとして返事をする。
 じーっと、こちらを凝視するダークブルーの瞳。やっぱりこの目に見つめられると緊張するけど、少し慣れてきたし、それに今は……なんとなく、優しげな気がする。
 ……と。何の前触れもなく、ノストさんが目を逸らす。
「馬鹿は寝れば全回復だったな」
「あ……はいっ。えへへ、疲れてただけなので」
 なるほど、そもそも私の様子を見にここに来たんだって理解したら、嬉しくてつい笑顔になっちゃう。
「ご覧の通り、ぐっすり寝たら元気にな……もぐっ?」
 にやにやしながら答えてたら、突然、口に何か入ってきた。
 目を瞬く私の視界には、次なるクッキーを手にしているノストさん。くわえてるものを噛んでみたらサクっとした歯応え。
 ……おいしい。
「……おいしいからお前も食えってことですか?」
「お前の言葉は聞く価値がないと判断した」
「む〜、まぁそれでもいいですけど……クッキーおいしいですねっ。アルトさんが焼いたんですか?」
「あら、ありがとう。ええ、もう長い間こういうことはしてなかったから、サリカに教えてもらいながらだけどね。よかったわ」
 隣のアルトさんに話を振ると、嬉しそうに微笑む。久しぶりに作ったとは思えないくらい、とてもおいしかった。もともと、料理とか得意だったのかも。
 残り半分のクッキーを食べる私に、アルトさんはその微笑をもう眩しいくらいキラキラさせた。千年生きてるとは思わせない、若い女の子の光です。
「貴方たちも見せつけてくれるわね?」
「い、いやそんなわけじゃっ……!!」
「ステラが帰ってきて、幸せそうで何よりよ」
「し、幸せそうって……うう……」
 そんな顔してたかな……で、でも確かに、またノストさんのところに帰ってこられたのは素直に嬉しいから、無意識にそんな雰囲気出してたかもしれない……は、恥ずかしい……!!
 私は顔を両手で挟んで言うと、アルトさんはきょとんとしてから、さらに楽しそうににっこり微笑んだ。
「あら、私はノストのことを言ったつもりだけれど?」
「…………え?」
「今は大人しくしているけれど、貴方がいない時のノストは無茶ばかりして、ミカユの精神侵食で強制的に眠らせていたくらいなんだから。ステラが帰って来た途端に、目覚ましく回復してこの状態よ?」
 『無茶ばかりして』の辺りで、三日月のような銀の軌跡がアルトさんを脅すように傍を過ぎったけど、彼女は恐らく華麗に無視した。
 逆に私がヒヤヒヤしながら見ると、席を立ち、グレイヴ=ジクルドを振り抜いた格好で静止しているノストさんがいた。
 黙ってアルトさんを睨むノストさんを、アルトさんもようやく見やる。不敵に口元に笑みをうっすら浮かべて。……さ、さすがアルトさん、長年生きているせいか、あのノストさんを物ともしない……!
 ノストさんは……私はもうなんとなくわかるけど、あの顔は悔しがってる。けど、傍目には怒ってるようにしか見えないからやっぱり怖い。
 私はアルトさんが話してくれた内容に驚きたいところだったけど、状況がそれどころじゃなかった……。
「あ、あのノストさん……無茶はダメですよ?! 人間は体が資本なんですから!体、大事にしてくださいよ!?」
「神子はそのおめでたい脳味噌が資本か」
「た、確かに、心が壊れたら全部壊れるってことを考えると、ある意味頭が資本かもしれませんが!! っていうか神子で括ったらカノンさんまで入っちゃいますよ!」
「ユグドラシルで精々頑張るんだな」
「一人で戦えって言うんですか!? 頭が資本だからって頭を失うまで戦えるわけないじゃないですか!! 私が神様とタイマンなんて無理ですよ!ノストさん来てくれなきゃ行かないですよーだっ!」
「所詮、底辺以下のドベ神子か」
「て、底辺以下……下に限界突破してるんですか私……」
 うう、もうドべ神子でも底辺突破でもいいよ……とにかく、人間でも神子でも体が資本っ!
 こんなやり取りで落ち着いたのか、グレイヴ=ジクルドを下ろし、再びイスに腰掛けるノストさん。ホッと胸を撫で下ろす私。アルトさんがおかしそうに笑った。
「ふふ、相変わらず面白いわね」
「面白くないですよ、もう……」
「でも、少し、引っかかるの」
「え?」
 アルトさんの神妙な声音に私が隣を見ると、彼女は釈然としない面持ちでベッドから立ち上がった。
 アルトさんは、金髪の流れる背中をこちらに向けて窓辺へ近寄り、窓から外を眺める。
 窓からは、開けた青い空が見えた。ここはヒースさん……森の中のお父さんの家だけど、窓の外は木々が生い茂る森の景色ではなく、澄み切った空の青が見える。
 それもそのはず、この家は、アルフィン村のはずれの森の中、ちょっとした斜面にある平地に建っている。家の正面に木々がなく開けていて、そこからはそう大きくないアルフィン村が見渡せる。
 アルトさんは、まさにその村を眺めていた。
「神は、グレイヴ=ジクルドが戻ったら、すぐにでもエオスを改変させると思っていたけれど……まだ動いていない」
「……確かに……妙ですね」
 念願の神剣を手にしたはずなのに、何の動きもない神様。静かすぎて不気味だ。
 神様の目的は相変わらず、私の破壊と、世界の真実の隠蔽のはず。グレイヴ=ジクルドが戻った今、それはいつでもできる。
 でも動いていない……。その上、神様には、こちらの動向はすべて見えているはず。
 それって……、

「———私達が動くのを、待ってる?」

 

 

———いかにも———

 

 

 脳内に響き渡った、教会の鐘のような、重々しく反響する重低音。
 思わぬところからの唐突な返答に、私とアルトさんは同時に表情を強張らせた。私は思わずベッドから立ち上がる。
 神様にこっちの動向は筒抜けだってわかってたけど、声が降ってきたことで途端に緊迫する。

———呪縛の術式を破壊して脱出したか———

———元より あの程度でそなたを縛れる道理はないのだが———

 ボルテオースを持つ者に届く、無機質で荘厳な響き。
 ノストさんには聞こえていないらしいけど、私達の様子を見て大体察したらしい。座ったまま私に視線を向ける彼に、ひとつ頷いてみせた。
 相手は、今やエオスの命運をその手に握る存在。もしかしたら返答次第では、取り返しのつかないことになるかもしれない。
 窓際に立つアルトさんと目を合わせて頷いて、私は唾を呑み込み、緊張で震える声で問うた。
「……どういう、ことですか。私達が動くのを、待ってる……って」
 私達に何かを望んでる?どう動けば神様の思い通りになる?私達はそれに従っていいの?
 一瞬で、脳内を疑問が駆け巡る。私でこれなんだから、私なんかよりずっと頭の良いアルトさんとノストさんは、もっとたくさんの疑問を覚えたはずだ。
 神様が、相変わらずの平坦な口調で告げた。

———最愛の娘に免じ 機会を与える———

———ユグドラシルにて待つ———

「…………え?」
「……どういうことかしら。何が目的なの?」
 目を丸くした私に代わり、アルトさんが警戒心に満ち満ちた露骨な声で問う。
 しかし神様はそれ以上答えることなく、ただ、一言告げた。

———今はエオスを破壊するようなことはしない———

———ステラよ ユグドラシルにディアノストと来るがいい———

 ……瞬間的に、今までの神様の言動を思い出した。その言葉が信用に値するかどうか。
 でも今まで神様は、いつも真実を語ってくれたとは言えないかもしれないけど、嘘は一度も言っていない。
 だからきっと、言っていることは真実。だけど……
「……罠?」
 どうせ神様にはすべて筒抜けだから、私は思ったことをぽつりと口にした。あんまり疑いたくないけど……一体、私達に何の用なの?
 今はエオスを破壊しない。これは信じてもいいと思う。
 でも逆に言えば、私達がユグドラシルに行ったら、さっさとエオスを破壊するかもしれない。
 ……わからない。これだけじゃ……。

———判断するのはそなた達だ 無理強いはしない———

———だがこの瞬間も 我が軍が何処かで動いている———

 思いも寄らない一言に、私は息を呑んだ。
 えっ……!? 神の軍って、ヒースさんとユニスさん、リズさんとアグナスさんの三部隊だけじゃなかったの?!
「ええ、フィレイアがアノセルス大司教と連絡をとっているけれど、各教会から神の軍の襲撃報告が届いているそうよ。すでに全国規模ね」
「そんな……!」
 知らなかったっていうのが顔に出ていたらしく、横からアルトさんがさらっと教えてくれた。そういえばフィアちゃんも、神官さん達に、神の軍撃退の時だけって条件でアルカの使用を解禁したんだった……。
 じゃあ三部隊の彼らは私達の追撃をしていただけで、私たちが知らない間に、知らないところで、その間にも何処かで他の神の軍が暴れてたってことだ。そう考えると、ぞっとした。

 私とノストさんをユグドラシルに呼んでどうするつもり?
 わからない。
 私とノストさんを陥れる罠かもしれない。
 でも、この膠着状態を打破するためのきっかけがあるかもしれない。
 エオスでの神の軍との抗争を、終わらせるきっかけにもなるかもしれない。

 ……「かもしれない」ばっかりだ。
 神様は一体、何を考えているの?
 その無感情な声音から、思考は垣間見えない。
 何ひとつとして、確証のあるものがない。

 ……その時、クロムエラトのことが頭を過ぎったのは、奇跡だったのかもしれない。
 連想して浮かんだ考えは、ひどく単純で、ひどく現実とかけ離れた空想。
 でも私は、なんだかストンと納得してしまった。

 

 ——ああ、そうか。
 確証がなければ、私が決めればいいじゃない?

 

 窓際に立つアルトさんを見ると、逆光でやや陰をまとった彼女は、私と目が合うと、少しだけ申し訳なさそうに微笑した。どうやらアルトさんは、私達が神界に行った方が何かしらの展開があると考えたらしい。
 ベッド傍のイスに座るノストさんを見る。私はベッドから降りたところだから、ほとんど彼は真横だ。いつもと違って、ノストさんの頭が私の目の位置より下にあるから、なんだか変な感じ。
 鷹のような彼の鋭い目は、無言で私を見据えている。多分ノストさんのことだから、神様の術中にハマるようなマネは反対なんだろうな。
 だから私はわざと、彼に笑顔を向けた。
「ノストさん。私と一緒に、罠にかかってくれませんか?」
「断る」
「私だけじゃ敵わないのはわかってます。だから一緒に」
「断る。お前をかばい切れる保証がねぇ」
 二度、ノストさんは同じ言葉を返した。
 予想外の人物から放たれた、予想外の謙虚な一言に、私の方が唖然としてしまう。下方からこちらを睨め上げる目は真剣だ。
「……でも、行かないと」
「侵攻を止めるとは言ってねぇ」
「それは交渉次第です。私が、行かないと」
「馬鹿は誰にでも尻尾を振るのか」
「呼ばれてるからじゃないです。行かないといけないのは、私が——」
 ……その先の一言は、喉の奥で詰まって出てこなかった。中途半端に途切れた言葉が、所在なさげに虚空に漂う。
 事実に基づいた、至極単純な理由。自分でもわかってることなのに、私はそれ以上言えなくて。
 ノストさんはその先の言葉を待つように、諌めるように、ただ黙って私を見据えている。
 ……何を言おうとしたのか。ノストさんは、わかっちゃったのかな。
 私は、何事もなかったように顔を上げた。その時には、沈んだ表情は消して。
 傍のノストさんと、少し離れているアルトさんに、できるだけ明るく話しかけた。
「私、考えがあるんです。神様に会って、それを話したら、この現状をどうにかできるかもしれないです。だから、私を信じてくれませんか?」
 こうしている今、すでに神様には、私の心の内はわかっちゃっているんだろうけど。