exodus

95 心のカケラ

 人間だった頃を、覚えてる?
 ——実は、ほとんど覚えていない。

 神は感情を持たない。
 それは超越者ゆえか。
 それとも、不死ゆえか。

 人間であったはずの自分は、何百年もの月日を経て、人としての感情が薄れているのを自覚している。
 不死の神さえも、気が狂うほどの長い時を生きる故に、感情が霞んでいってしまったのかもしれない。
 ——ならば自分は、すでに人間ではないのだろうか。

 

 

 

「神の干渉を制限する術式を、また構築するのは無理よ。500年前、私が10年かけて作ったものだもの。今はもっと短い時間でできるかもしれないけれど、術式に使うオースを確保するのが難しいわ。昔と今は違うの」
「そう……ですか……」
 それだけでも絵になる、波打つ長い金髪と黒いドレス姿の少女は、さらに絵になる動作でカップをソーサーに置く。
 アルフィン村のヒースの家に、アルトミセアはいた。綺麗な木目のテーブルについてリオティーを飲む彼女のほかには、同席しているノストとフィレイア、残りは皆、壁際に立っている。
 神々しいまでの存在感を放つ少女を前に、皆が畏まっている。彼女が伝説ともいわれる初代聖女アルトミセアと聞いて、主に神官から成るメンバーは恐縮している。
 皆が押し黙る中、臆せずに口を開いたのは、やはりというかルナだった。
「ねぇ、アルトミセア様。グレイヴ=ジクルドは神が持っていっちゃったんだよね?それってさ……」
「様はいらないわ。私はもう、聖女じゃないもの」
「へ?? えーっと……じゃあ、アルトミセアさん?」
「ふふ、アルトでいいわ。本当、あなた、ステラとまったく同じ返答するのね?」
「あ、そう?あはは、そりゃ同じだからね〜」
 アルトミセアがつい笑みを綻ばせて言うと、ルナはむしろ嬉しそうに笑った。
 それから顔を緊張させて。
「で、アルトさん。私は思うに、現状ってすっごくマズイんじゃないかな?」
 ——深刻そうではない口調が、この場の空気を張り詰めさせた。
 その返答は無意味だろう。アルトミセアは黙したまま、向かいに座るノストを見た。
 いまだに本調子ではない彼は、青白い顔でイスの背もたれに寄りかかっている。悟った様子のダークブルーの瞳と目が合う。
 グレイヴ=ジクルドは神に奪われ、ユグドラシルに持っていかれた。
 ステラは破壊されるだろう。——そして、それ以上に、神の手に神剣があるという事実。
 創生、壊死、破壊、再生の四属性が神の手に揃ったということは、神はより高度な術式を構築できるようになる。
 単純な破壊をはじめ、因果律をも壊し、そして新たに創り、自分の都合の良いように改変できる。過去から未来までを支配する、箱庭の主人マスター
 己の剣が手元に戻った今、神は、世界の秩序を敷くだろう。一体、何が起きるかははたして予測はつかないが。
 答えないアルトミセア。その後ろの方に立つスロウが、代わりに静かに口を開いた。
「……術式がない今、神にはこちらの動きは、すべて筒抜けだということだろうな。こうしている今も」
 場に、緊迫した空気が満ちる。
 サリカが顎に手を添え、珍しく気弱に呟いた。
「動きづらいね……こっちは、神の動向なんてわからないのにさ。どうしたら……」
「もともとは、ノストさんに術式を与えて、グレイヴ=ジクルドでユグドラシルにステラと乗り込む予定でしたよね?グレイヴ=ジクルドも、ステラもいませんし……考え直さなければ……」
 席についているフィレイアも、自分の分のリオティーを見下ろし、何処か憔悴した様子で言う。
 するとルナが、少し怒った足取りで「ちょっとー!」とフィレイアに近寄ってきた。
「フィアもサリカも、何でもう諦めモードなの?! まだ何も起きてないじゃん!だから何か、ちゃっちゃとやっちゃおう!」
「さすが、ルナ君は……自然体で前向きだから、凄いよね……」
「で、何かやろうって、何をやるんだよ?」
「う……それはこれから!!」
「おいおい……」
 落ち着いているようにしか見えないミカユと、やはりいつも通りなセルク。恐らくアルカの彼らは、自分の生死にはあまりこだわっていないのだろう。
 切り札をなくし不安そうにする者と、それを根拠なく叱咤する者と、それら以上に冷静な者と。なんとも言いがたい混沌とした雰囲気がわだかまる部屋の中。
 アルトミセアは、カップの赤い水面を見下ろした。
 ——エオス。
 神が生み出した魂の舞台。私が愛した神界の庭園。
 輝いては消えていく命を、宿っては還る魂を、ずっと見守ってきた。
 言わば、私のエゴで守られてきた、愛しい世界。
 白い指が、そっとカップの縁をなぞった。
 皆が口々に言い合う中で、アルトミセアはぽつりと呟いた。
「……私は認めない」
「え?」
 わざとらしく、大きな音を立てて席を立った。その拍子に、金の長髪がさざなみのように揺れる。
 一斉にこちらを見た皆を、アルトミセアは見渡した。
 かつて自分が立ち上げた、グレイヴ教団を継ぐ者達。
 偶然により、意識を持ち得た高位のアルカの二人。
 最も稀有な成り行きでこの場にいる、ノスト。
 皆が、自分に注目している。

 ——つい、笑みがこぼれそうになった。
 自分は術式によって、永遠に誰とも話すことはない。自分は傍観者で、永遠に彼らと同じ場所に立つことはないのだと、そう思っていたのに。
 二大術式が壊れてしまった今は、決して良い状況ではないのに。
 皆が自分を認知してくれるというのは、なんて奇跡なのだろう。

 ユグドラシルで見てるであろう、神にも聞こえるように。
 少女は、宣言した。
「術式を創るわ。ノストを、ユグドラシルに入れるようにする術式を」
「ということは……作戦は続行ですか?ですが、こちらには、グレイヴ=ジクルドもないですし……」
「剣なんて創ればいい。オースで創れば、グレイヴ=ジクルドの斬撃には耐えられるわ。それでユグドラシルに乗り込んで、神と戦う。できたらステラも助けてしまいたい。ノスト、それでいいわね」
 フィレイアの不安そうな声を一蹴し、有無を言わさぬ強い口調でアルトミセアは告げる。異議のないノストは、無言でアルトミセアと目を合わせた。
「今のエオスを改変なんてさせないわ。絶対に……」
 続けて少女が呟いた言葉は、この場にいる誰もが思うところだった。
 しかし、その言霊に込められた想いは、きっと誰よりも深く——狂おしい。
 言葉を失っていたフィレイアが、ふと、小さく微笑を口元に刻んだ。
「……アルトミセア様は、本当にエオスを愛していらっしゃるんですね」
「だから、『様』は……」
「いえ、こう呼ばせて下さい。アルトミセア様。貴方は、本当に……聖女の中の聖女です」
 エオスを愛し、エオスのために生きる、神のような少女。
 皆が眼差しを向ける。
 期待に満ちた目。遥か昔にも受けた視線。
 少女は、懐かしくて——少しだけ、曖昧に微笑んだ。

 

 

 

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「500年前もそうだった」
 イスから腰を上げようとしたアルトミセアの耳を、淡々とした少年の声が撫でた。
 皆がおのおのの目的で外に出て、小さな家の中には、自分一人が残されたと思っていた。
 声のした方を見ると、最初と変わらぬ位置の壁に寄りかかる黒い少年と、その傍らに浮いている白い少女がいた。セルクは無表情のまま腕を組んで、ミカユは腰の後ろに両手を回している。
 人とは違うアルカの彼らには、気配らしい気配はない。どうりで気付かなかったわけだ。
 セルクは壁から体を起こし、立ち上がったアルトミセアに近付く。
 テーブルの幅だけの距離を置いて、彼は言う。
「術式を編む聖女と、神剣を持つ人間と、アルカが2つ。その四人で立ち向かっても、神にはまるで敵わなかった。『立ち向かえてすらいなかった』」
「………………」
「そもそも……聖女も、アルカも、神の管轄範囲だから。……ボクらの力は、神には通用しなかった……」
 ミカユは透き通った水色の目でアルトミセアを見て、遠い過去を紡ぐ。
 自分と同じように、500年を経ても変わることのない黒と白の二人に、アルトミセアは小さく答えた。
「……そうね。……あの時は、とても浅はかだった」
 神からの解放を望み、臨んだ星屑の世界。
 神の前に膝を折ることしか許されなかった過去の記憶は、長きを経た今でも色褪せることはない。
 ——この時を、ずっと待っていた。
「でも、今回は違う。神と同等、もしくはそれ以上の力を持つ神子と、破壊ロアさえ扱える、神剣を持つ、人間ではない人間」
 そう語る自分の声には、普段よりもほのかに力が宿っているのがわかる。
 これは、期待だ。
 身勝手だと自覚している。勝手に願望を託し、自分達は最前線の彼女らを見守っているのだから。
 過去の願いの残骸のような自分達が望むのは、幾星霜を越えようとも変わらない。
 すでにこの世にはいない二人に託されたこの願いを、果たすために。

「今度こそ、私達・・が勝ってみせる」

 今でも、両隣にいるような気がして。
 アルトミセアは目を閉じ、その気配に向けて微笑んだ。

 

 

 

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 薄闇に浮かび上がる、淡い蒼と山吹色。
 幻想的な光が、ぼんやりと地面から発せられている。
 日も沈み、闇が陰から攻めてくる頃。ヒース邸から少し離れた森の中、草むらに座り込む黒いドレスを軸に、蒼と山吹色の光で描かれた四角の陣がゆっくりと回転している。
 少女は目を閉じたまま、何処か別の世界に想いを馳せているようにも見えた。
 虫の声だけが響く静寂の森。
 その闇に蠢く、複数の影。
 やがて、草むらからぞろぞろと現れ、少女の周囲を回りながら様子を窺う狼の群れ。
 四方八方から放たれる低い唸り声にも、少女は気付くことなく——
 リーダー格の狼が地を蹴り、反応のない無防備な少女に飛びかかった。
 が、その一瞬前に、銀色の鋭い光が獣を弾き返した。
 弱々しい高い声を上げ、殴り飛ばされた狼が草むらへと消える。
 持っていた松明の火を振りかざし、狼の群れを追い払う。そうしてから、やっと少女の肩を掴んだ。
 はっと、少女がようやく目を開く。
 ノストは、松明を地面に突き刺してから、その場に静かに膝をついた。
 きょとんとするアルトミセアの足元からは、彼女が瞑想から戻ったせいか、蒼と金の陣は消えていた。
 ヒース邸にあった中では一番マシだった剣を鞘ごと傍に下ろし、ノストは疲れた息を吐き出した。
「無防備すぎる」
「ノスト……?」
「夜の森で傷を負っても自己責任だ。屋内でやれ」
「え?」
「……狼に囲まれていた」
 どうやら彼女は何が起こったのか本当にわからないらしく、ノストは仕方なく一言付け加えた。
 アルトミセアはやっと納得した様子で、少し申し訳なさそうな顔をした。
「そう……夜の森は危ないって、よく言うわね。術式はもう、ないのだから……気を付けないと。ごめんなさい。ありがとう」
 術式で何者にも認知されぬ自分は、ナシア=パントにいても危機を覚えたことはなかったから、ついその延長線上で考えてしまった。今はもう、その術式はないのだ。
 長く森の中だったせいか、どうも人工物の中にいるのは落ち着かなかった。だから森にやって来たのだが、軽率だった。ノストも本調子ではないというのに無理をさせてしまった。
 赤い火に照らされたノストの顔は、やはり貧血気味で青白い。
 自分は、そんな彼に……「神と戦え」と、そして「必ず勝て」と。凄まじいプレッシャーを与えているのだ。
 内心で自嘲した。アルトミセアは、座り込んだまま呟く。
「……ノスト。剣は、私でも創ってあげられる。ユグドラシルに入る術式もなんとかなる。問題は、貴方と神との技量の差」
「………………」
「貴方一人で解決できる問題じゃないわ。だから、ステラと上手く連携して。あの子の可能性を上手く使うの」
「………………」
「絶対に、神にエオスを改変させてはだめ。絶対に……」
「…………いいのか」
「え?」
 少女の言葉に対し、ノストが返したのはそんな一言だった。
 不思議そうな顔をするアルトミセアに、彼は言い放つ。

「お前はそれでいいのか」

 エオスを愛し、エオスに執着する少女。
 エオスのために生きる、神のような少女。
 エオスのためにしか、生きられない少女。
 本当の少女は——少しだけ、垣間見えた曖昧な微笑。

 その曖昧な微笑を浮かべ、アルトミセアは困ったように言う。
「……術式で見ていたから、貴方の洞察力の高さは知っているわ。本当に、よく見てるのね」
「………………」
「”アルトミセア”という個は、もう存在しないのよ。識別のためにそう名乗っているだけで、私はただ、エオスを見守る者。それ以上でも、それ以下でもない。……そうすると決めた時から、”アルトミセア”なんて、もういなかったのよ」
 エオスを神から守らなければという使命感だけを抱いて、遥かな時を越えてきた。
 気が遠くなるほどの年数と、脳内を掻き乱す膨大な情報量のエオスの様子を見るうちに、自身の記憶は薄れていってしまったのだろう。
「……今の私はね、『祈りそのもの』なのよ。エオスを神から守るという願いと期待だけで定義された存在なの。遥か昔、大事な人にそう願いを託された。その時から、私はそれだけのために生きているの」
 エオスが愛しい気持ちだけは、聖女だった頃から変わらない。一貫してこの胸にある、ぶれることのない指針。
 その想いが、自分の道標。
 淡く微笑む少女が、炎に紅く照らされて暗闇に映える。その笑みが、少しだけ寂しそうに変化した。
「だから、エオスのために生きることは構わないの。ただ……」
 先ほどの、フィレイア達の視線が脳裏に蘇る。
 エオスが愛しいと思うのは、フィレイアをはじめ、教団メンバーは大体思っているところだろう。
 しかし、それを大きく上回る、時を経て神々しいまでに洗練された、アルトミセアのその想いを見て……彼らは、彼女を「聖女」と讃える。
 500年前と同じ。

「———『私』を、見てほしい」

 ——すでに自分は人間ではないのかもしれないと、『もう一人』が言っていた。
 しかし、認知の術式が壊れ、皆が自分を認知してくれたことが嬉しくて、でも、自分を神や聖女だと言って向けられる視線が怖くて。
 懐かしくて、でも、やはり怖かった。
 結局、私は、あの頃から何ひとつ変わっていない。
 ただの人間でしかないのだと。
 そんな、ただの人間の『私』を見てほしい。

 ノストにとって、それは聞き覚えのある言葉だった。

  『私、ずっとノストさんに助けられてきました。みんなが私にルナさんを見る中、貴方だけは、ずっと『私』を見てくれた。ルナさんじゃなくて、馬鹿な私を』

 ルナという圧倒的な存在感を持つオリジナルに対し、ステラはいつも、自分の存在が霞んでいくような危機感を覚えていたのだろう。
 一緒に旅をし始めた頃は、あまりアイツのことは気に留めていなかったから、今となっては想像でしかないが。
 今、目の前にいるのは、初代聖女という、実体からかけ離れた偶像とのギャップに苦しむ。人間の少女。

 

 

 

≪ノストさん——!!≫

 木霊するように、聞こえるはずのない声が脳裏に響いた。
 ノストが顔を上げる。
 夜の森の中、黒い木々を揺らし、冷気をまとった風が緩く通った。ゆらりと、枝の先の炎がもてあそばれる。
 冷風にアルトミセアが思わず両腕を抱いた瞬間、ノストが動いた。
 それが合図だったかのように。
 突如、彼目掛けて、何かが降ってきた。
 凍てついた強風が吹き荒れ、アルトミセアの長い髪を波打たせる。
 風が止むと、風音に掻き消されていた荒い息遣いが聞こえてきた。
「……ノスト、さん……よかった……無事でっ……」
 淡い蒼の光——空気中の水分が氷の粒と化したものが群れとなって構成する、幻のような蒼ざめた双翼。それが、端からはらはらと崩れて消えていく。
 空から降ってきた天使のような少女を抱き留めたノストは、落下時の衝撃に押されて座り込んでいた。
 その腕の中で肩を上下させるのは、ユグドラシルに幽閉されているとばかり思っていた少女。
「勝手に俺を使うな」
「ごめ、ん……なさい……疲れて……もう…………」
「もういい。少し休め」
 大きな手がステラの頭を撫で、存外穏やかな声音で紡ぐ。
 彼の腕の中でそれを聞いて安心したのか、ステラはその声に導かれるように眠りに落ちた。
「……私、お邪魔だったかしら」
 終始それを傍で見ていたアルトミセアは、しかし良いものを見れたとばかりに微笑んだ。
 脱力しているステラを抱き上げて立ち上がったノストは、ステラを一瞥してから、聖女の名にふさわしい慈母のような微笑を浮かべているアルトミセアを見た。
「馬鹿には見えてる」
「え?」
「お前自身が」
 おもむろにそう言い捨てるなり、呆然とするアルトミセアを置き、ノストはすっと背を向けて歩き出した。