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「な……」  ……言葉が、上手く出ない。驚愕っていう言葉は、こういう時のことを言うんだと何処かで納得した。  立ち止まった朱夏の小さな後ろ姿。あのとにかく長い黒髪が、白い暴風に掻き乱されている。  しばらくして風がやみ、黒髪はストンとその背中に落ち着いた。そうしてから朱夏は、口を開いた。  最初に口を突いて出たのは、溜息。 「2日連続とは、随分と急いておるな」  俺に向けられた言葉かと思った。だけど違った。  よく見てみると……いつの間にか、朱夏の正面、少し離れたところに人影があった。  ――白かった。白い肌、白い服、白い髪。  特に服は、学生服を白くしたようなもので、髪型は、なびいているのかと思ったら右側から風を受けたまま停止しているような、妙なものだ。そのせいで右眼が隠れてしまっている。そしてなぜか、その周囲はキラキラと煌いていた。  そこにいたのは、文字通り、凍るような冷ややかな美貌を持つ男だった。外見年齢は、20歳くらい。コイツを見た女子達は、たちまち騒ぐだろうけど……その水色の左瞳を向けられた瞬間、きっと全員黙り込む。それほどに冷え切った眼をしていた。 「……だ……誰だ……?」  ようやく絞り出した声は、我ながら弱々しかった。それでも聞こえたらしく、男のあの冷たい左眼がこちら向く。ひやりと首筋に氷を当てられたような、そんな錯覚を覚えた。  男が何かを聞いてくる前に、朱夏が男に言う。 「ただの人間じゃ。……もっとも、わたしの存在を知った人間じゃ、『ただの』……というのは、少し語弊があるじゃろうが」  それを聞いた男は、興味をなくしたように俺から視線を外そうとした。 「ちょ、おい待て!!」  自分だけ蚊帳の外だっていうことと、「ただの人間」に興味を示さない男とに腹が立って、気が付いたら再び男の気を引いていた。朱夏が少し驚いた顔で振り向く。 「朱夏のこと知った時点で、『ただの』人間じゃないんだろ?そんな俺から聞く」  そこまで言った時、男の左眼が少し細められた。何だ?と思ったけど、そのまま続ける。 「お前、まさかっ……」 「いいだろう」  ……男が、初めて声を発した。その声は、さながら厳酷な北風。妙な重圧を感じて、俺は言葉を止めていた。  男の周囲のキラキラしていたものが、不意に白く、そして強い風になる。目を開けていられないくらいの強い風に、思わず声を上げて俺が顔を覆った時、  シャーン―― 「……!?」  前にも聞いた、鈴の音。  それが聞こえた途端、風は急激に弱くなった。俺は腕を下ろし、すぐに何が起きたのか状況を確認した。  同じところに立っている男。周囲のキラキラも元通り。相変わらず後ろ姿の朱夏。その周囲を回る光冠。 「え……?」  光冠……1つ、足りなくないか?  代わりにあるのは、初めて会った時、朱夏が持っていた虹色の光。 「身の程知らずの人間に教えてやろう」  その虹色の光が、夜空に溶けて消えていく。寂しげな様子で、それを見届ける朱夏。  残り1つになった光冠。朱夏の身を守るもの。  男は、それを壊した。つまりコイツは―― 「我が名は冬将軍。白き季節の者だ」  朱夏と対を成す……冬だ。   *  ※  *  寒い。外も風が当たって寒かったけど、部屋も空気がひんやり冷え切っていて寒かった。  擬人法とかそんなんじゃなくて、冬が、文字通り近付いてきていたということを思い出して、俺は部屋の電気ストーブの前に小さくなっていた。 「冬将軍……か」  朱夏といい、冬将軍といい……勉強していれば、自ずと知る単語だ。  朱夏は、中国の五行説が元の、夏の異称。冬将軍は、ナポレオンが苦しめられたっていうところから来た冬の異称。 「その名も、わたしの名も、後につけたものじゃ。互いが互いをいつからかそう呼ぶようになったから、そういう名前になっておる。遥か昔は、夏、冬としか呼び合っておらんかったのじゃがな」  俺の上の方から、朱夏の声が降りかかる。顔を上げると、朱夏は机の上に座って足をプラプラさせていた。そういう仕草は普通の子供に見えるから、なんだかおかしい。 「なぁ……アイツ、一体何なんだ?何で来たんだよ」  アイツが「冬」だってことは、よくわかる。本人が言っていたのもあるけど、なんというか……まとっている、人あらざる不思議な空気が、何処となく朱夏と似ている。  あの後、白い男……冬将軍は、名乗るなり忽然と姿を消した。唖然とする俺に、朱夏は何事もなかったように「帰るぞ」と言って……ろくな説明もないまま、こうして家に帰ってきたところだ。  俺が聞くと、朱夏は足を動かすのをやめ、口を開いた。 「わかっておる通り、奴は冬じゃ。白、静、秩序、安定、死、夜、破壊。対してわたしは、夏。黒、動、混沌、変化、生、昼……そして再生。上げたらキリがない。わたしと奴は、互いに牽制しあって存在するもの」 「あ、あぁ、うん……」 「真夏はわたしが優勢、真冬は奴が優勢。春や秋は、ちょうどその境なのじゃ。春は、わたしが勢力を増す頃。逆に秋は、奴が勢力を増す頃。つまり春も、わたしということじゃな」 「へぇ……」  ここで初めて納得した。朱夏は夏だけど、春でもあるということか。だからあの花の山もつくれるわけだ。 「奴が来たのは……当然、ふゆを呼ぶためじゃ。秩序を重んじる奴じゃ、必ずふゆは来る。それには……わたしが邪魔なのじゃ」 「夏だから……?」 「そうじゃ。なつが去らぬ限り、真冬は来ぬ。逆とて同じじゃ」 「じゃあお前、ここからいなくなるのか?」 「そういうことじゃな。じゃが、冬至前に奴は大仕事を終えねばならぬ。それまでは、ここにおるぞ」 「何だよ……」  俺が内心残念に思いながら立ち上がると、朱夏は不満そうに頬を膨らませた。足ブラブラを再開して、立ち上がった俺に向かって蹴りを繰り出してくる。 「何じゃ、心配してくれぬのか?」 「別に。勉強がはかどるなーって思った」 「冷たい奴じゃのう」 「冬将軍よりはマシだと思うぞ」  俺がその蹴りが及ばない範囲に逃げながら思ったことを言うと、朱夏はぱたと足を下ろした。 「……聞き捨てならぬな。外見で判断するのは好ましくないぞ」 「え……あ、うん。ごめん……」  その幼い顔には似つかわしくない静かな怒りの表情を、一瞬覗かせた。といっても、俺を軽く睨んだだけだ。  それでも、天真爛漫かつ快活な印象を受けていた朱夏からは、全然想像もつかないその様子に俺は驚き、なんとなくその気迫に押されて小さく謝った。  ……沈黙。電気ストーブが唸る音だけが、俺と朱夏との間を通り抜ける。 「あ、俺……そろそろ夕食だから」  気まずい空気が居心地悪くて、俺はそう言って、逃げるように部屋を出た。  ……いや、実際逃げたんだ。廊下には暖房がないから、廊下に出た途端、世界が変わったように、肌に触れる空気が冷ややかなものになる。  夕食だとか言って逃げてきたけど、多分まだ母さんが作っている最中だろう。部屋に戻るわけにも行かず、俺はのろのろと動き始めた。  階段とは逆方向の、隣の部屋の前で立ち止まる。夏は開けっぱなしだが、冬になれば途端に頑丈に閉まるこの茶色のドア。軽く握り締めた拳で、コンコンとノックしてみた。 「いーよ〜」  入っていいという合図で、俺は初めてドアレバーを引いた。  部屋の中に入ると、健康的な肌の男子がいた。えらく巨大なクッションを下敷きに、電気ストーブの前で寝転んでいる。耳にイヤホンをつけて、腹には開いたまま伏せられている単行本漫画。どうやらちゃんと音楽を止めたらしく、携帯電話を右手に握っていた。 「あれ、颯馬兄?母さんかと思った」 「いや……ちょっと暇潰しに」  予想していた人物と違い、少し驚いた顔をしているこの丸刈り男子は、弟の昂真こうまだ。現在、中学2年生で、野球部だからこんな頭をしている。意外と実力者らしく、今年の試合は2年生でレギュラー入りしていた。  ただ、ひとつ問題があって……。  俺は昂真の傍を通りすぎ、勝手にベッドの上に座った。特に仲は悪くないから、こうして普通に話もする。どちらかと仲良い方かもしれない。 「颯馬兄、受験生のくせに勉強しなくていいのか〜?」 「……飯食ったらやるよ」  からかうように言う昂真に、俺は仕方なくそう言った。確かに、朝の数分だけじゃ足りないだろう。今日は遊ぶとか言ったけど、やっぱり全然しないわけにも行かない。 「あ、そうだ、颯馬兄」 「ん?」 「部屋に誰かいんの?」  ……この問い。俺はたっぷり8秒は停止していた。 「……な、何で?」 「ははぁ、ビンゴか」 「誰もいないよ」 「だれだれ?彼女か〜?部屋に連れ込みなんて大胆だなー」  時たま、コイツは沖澤と似ている。ニヤニヤしながら言ってくる昂真に、俺は弁解するのも面倒臭くなって額を押さえた。  そう、問題なのは……昂真は、有名人のスキャンダルなどを根掘り葉掘り取材する記者のような性格をしている、ということだ。  そうか、部屋が隣だから、内容は聞きとれなくても、俺と朱夏の話し声は聞こえるわけだ。くそ、厄介なことになった……。  まず、昂真に嘘は通用しない。かと言ってここでだんまりを決めれば、コイツは母さんに告げ口して仲間を増やし、秘密を暴きに来るだろう。はっきりした証拠を突きつけないと止まらない。なんともいい性格をした弟だと自分でも思う。  でも、なんとしても朱夏の正体は伏せた方がいい。コイツは、口が軽い。  答えを出せないでいると、唐突に、昂真が立ち上がった。そのまま部屋から出ていく。  半開きのドアから廊下を見つめてから、俺ははっとした。 「お、おい昂真!」  慌てて廊下に出ると、昂真は俺の部屋のドアの前にいた。俺は廊下を本気モードで駆け出し、下ろされようとするドアレバーを押さえた。 「何だ何だ、誰かいるのかー!? いないんならいいだろ別にー!」 「い、いないけど全っ然良くない!!」 「いいから、いいからっ……!!」  ガチャガチャとドアレバーを鳴らしながら、少しの間競り合っていたが、最後は昂真にずいっと左腕で後ろに押し退けられた。これが意外と強くて、俺はあっさり引かされる。  そりゃ、部活を引退して何ヶ月も経っている上に、足を鍛える陸上部と違って、野球部はピッチングやバッティングで腕の筋肉が鍛えられている。力の差は歴然としていたが、弟に力負けするというのはなかなか複雑だった。  俺の目の前で、昂真がドアを開く。もう終わりだ……と俺は抵抗するのをやめた。  沖澤風の言葉が来ると思って覚悟したが、聞こえてきたのは「あれ?」という声。 「誰もいないじゃん」 「え?」  俺も拍子抜けしながら中を覗いてみると……確かに、朱夏の姿がない。自分のことなのに俺は唖然して、隣の昂真を見ると……昂真は、蒼白な顔で俺から一歩退いた。 「ま……まさか颯馬兄……雄麻ゆうま兄の彼女の影響で、視えるようになったんじゃあ……っ?!」 「………………」  ……そう思われるのはなんとなく嫌だったが、他に言い訳が浮かばないので俺は黙っていた。  雄麻兄というのは、俺と昂真の、大学生の兄さんだ。確か先月、21歳になった。兄さんと俺と昂真で3兄弟。俺は真ん中だ。  兄さんは、その礼儀正しい好青年の外見に寄らず、オカルトとかそっち系が大好きだ。俺には理解できないが、神秘学の研究者なんてものを目指している。  夢がある分いいとは思うけど……兄さんのオカルト好きは筋金入りだ。まだこの家にいた頃の兄さんの部屋といったら……実際、幼い頃の俺は怖くて近付けなかった。テレビで、宇宙人スクープ映像の解説者として出演してても、絶対不自然じゃないだろう。  その兄さんは、交通の便が理由で街の方で暮らしている。年に何度か家に帰ってくるが、その時に、以前兄さんは彼女を連れてきた。  その彼女というのが、兄さんに負けず劣らず異色で……大人しい優しそうな女の人だと思ったら、突然俺の後ろを指差して笑顔で、『亡くなられたおじい様が見守ってくれてますよ』って言ってきた。護られてるんだとは思ったけど、無邪気な笑みでそう言うもんだから、妙な恐怖を感じてゾクリとしたのを覚えている。  その彼女の影響で、霊感を持ったんじゃないかって……昂真はそう言っていた。もともと幽霊が苦手──多分、兄さんのせい──だった昂真は、その彼女事件以来、それが軽いトラウマになっている。  硬直している昂真を、俺はなるべく刺激しないように小さく声をかけてみた。 「……昂真、あのな」 「ゥギャーーッッ!!!」 「うおっ!?」  俺が声をかけた瞬間、昂真は物凄い声を上げて俺を突き飛ばし、自分の部屋に駆け込んだ。バンッ!!と凄い音を立てて閉まったドアを見て、俺は息を吐いた。  何はともあれ、やり過ごせたらしい……変な誤解を持たれたのはともかく。あと、壁に勢いよくぶつかったから背中が痛い。  俺は改めて、自分の部屋のドアを開いてみた。すると、さっきはなかった朱夏の姿がベッドの上にあった。 「何やら騒がしかったのう。兄弟か?」 「……誰のせいだと思ってんだよ……弟。お前、さっき何でいなかったんだ?」 「厄介なことになりそうじゃったからな、一度外へ出た」 「外へ出たって……瞬間移動とかできるわけ?」 「ネーミングセンスが乏しいのう。まぁそうじゃな。冬将軍にできて、わたしができぬはずがなかろう」  ……どうやら、俺がドアを守る意味はなかったらしい。頑張った自分が馬鹿馬鹿しくなって、俺が肩で溜息を吐いた。  そういえば冬将軍は、突然現れて、突然消えた。確かに、朱夏にもできて当然なのか。  ……って、あ。  そこで俺は、自分が部屋を出た理由を思い出した。  朱夏が怒って、俺が謝って、なんとなく気まずくなって……俺が逃げた。だけど今、まるで何事もなかったように会話した。俺はただ忘れてたからだけど……朱夏は、どうなんだ?  俺がそう思っているとは思っていないらしく、朱夏はいつも通りの様子で訊いてくる。 「ところでソーマ、夕食は終わったのか?」 「え、あ……まだだったから、昂真の部屋に……」 「コーマ?弟の名か?」 「あぁ、うん……」 「ソーマ。そのコーマは、どんな奴じゃ?」 「え?」  唐突な問い。何で、そんなことを訊くのか。 「えっと……ゴシップ好きで、ホラーがダメで、人をからかうのが好きだけど……意外と家族思いなんだよな。母さんの手伝いも結構やってるし……」 「ふむ、そうか。ドア越しでの貴様らの会話を聞いて、わたしは、人のぷらいばしーにズカズカ踏み込んでくる、失礼極まりない最低な奴じゃという印象を受けたのじゃが」 「な……」  まるでそれを何とも思っていないように、淡々と朱夏が言った言葉に、俺は声を忘れた。  一瞬の間があって、強い怒りがこみ上げる。 「おい、言いすぎだろ!! 確かにアイツは、迷惑な記者みたいな野次馬根性してるけど、でも根は……!!」 「ソーマ」 「……な、何だよ」  俺の文句さえも聞く気がないのか、朱夏は途中で俺の声を遮った。  たった一言。それだけで、俺はその先の言葉を忘れてしまう。  睨みつける俺の視線の先で、朱夏は……安心したように微笑んだ。その思いも寄らぬ態度に、俺は今度こそわけがわからなくなって、ポカンと朱夏を見つめた。  ……何でコイツ、笑ってるんだ?今、俺が怒鳴ったっていうのに……。 「身内のことを悪く言われて、腹が立ったじゃろう?」 「あ、あぁ……」 「それと同じなのじゃ。奴は……冬将軍は、わたしの敵であると同時に、親兄弟のような欠けてはならぬ存在でもある。奴のことを悪く言われたら、いくらわたしでも怒るぞ」  「それはわかってほしかったのじゃ」と、朱夏は俺に言い聞かせるように言った。  ……そうか。夏と冬は、牽制しあって存在しているって聞いて……仲が悪いのだと何処かで決めつけていた。むしろ話を聞く限り、関係は良いように聞こえる。 「……ごめん、俺……何も知らないくせに」 「もう怒ってはおらぬ。わたしも、コーマのことをわざと悪く言ってすまぬな。そこまで悪い印象は受けておらぬから安心せい。貴様を試すためじゃったが、これでちょうどおあいこじゃ」 「ははっ……俺が身内のことで怒るかどうか、試したわけね。計算づくかよ……参った」  してやったりというふうな笑みを浮かべて言う朱夏に、俺は肩を竦めた。しかし、自然と口元は緩んでいる。……そういえば、朱夏の前では初めて笑った気がする。 「颯ちゃーん、昂ちゃーん、ご飯よ〜!」 「じゃ俺、今度こそ夕飯だから」 「うむ」  階下からの母さんの声に、俺は背中を向け片手を上げた。朱夏がなんとなく嬉しげに頷くのを見て、ドアを閉める。  そこで一度、ドアに寄りかかって、天窓がある高めの天井を仰いだ。  天窓の向こうの黒い夜空からは、白い雪がしんしんと舞い降りてくる。窓には、それを微笑んで見上げている自分が映っている。多分、昂真に見られたら「一人で何笑ってんの!? ま、まさか視えてんの……!?」とかまたビビられるな。  さってと、今日の夕飯、何かな……。