→→ Largo 2
世話役も、意外と頭を使う仕事だ。
あの長い階段を下っていくから、ロクな飲み物を持って行けない。液体を持っていくのは非常に骨が折れるのだ。
だから必然的に、ハイキングなどで使う、持ち運びが簡単な道具での運搬になる。スープなどはどうしようか、いまだに悩んでいる。
持ってきた携帯用のポットから、やはり携帯用のカップに中身を注ぐ。黒い水面を覗き込んで、玲哉は少し驚いた顔をした。
「もしかして、これ……コーヒー……?」
「……はい。……持ってきといてなんですけど、飲めますか?」
「うん、むしろ好きだよ……凄く久しぶり。単純に、1年ぶり……かな……」
カップを手に取って、玲哉は嬉しそうに微笑んだ。浮かぶ笑みが寂しげなものでないことに、未亜は少し安心する。
定位置にあるパイプイスに座って、トレイの上の今日の朝食を見る。ポテトサラダとフレンチトースト。基本的に、自分の好みと手軽さを基準に作ってきている。それに、あまり数多くメニューはここまで持ってこられない。
自分が世話係になって、数日が過ぎた。相変わらず自分は、この部屋で朝食をとっている。
玲哉が食べている間、自分は時間を持て余す。あの長い階段をまた上って一度戻るのも億劫だ。なら、自分もここで朝食をとればいいじゃないかという考えに至ったのが、この行動の始まりだ。——何より、玲哉一人で食べるのも寂しいだろう。
「未亜のご飯……いつもおいしいね」
「……よかったです」
フォークに刺したトーストを一口食べた玲哉が笑う。簡単な料理とは言え、褒められて、未亜もつい頬を緩める。
料理は、人並みにはできる。レシピ通りに作ったり、前に朱羽に教えてもらった通りに作れば、それなりのものができる。まだ模範の域だから、自分流の料理とは言いがたいが。そのうちいろいろと挑戦してみたいと思いつつ、何処に手を出したものかはかりあぐねている。
「———そういやさ……未亜は……どうして、俺の傍にいるの?」
「……え?」
昼食は何を作ろうと、早くも先のメニューを考えていた未亜の耳に届いたのは、思いがけない問い。
顔を上げると、玲哉は食事の手を止め、本当に不思議そうな顔で自分を見据えていた。
金と銀の瞳が、未亜を閉じ込めている。
「未亜、俺の眼……見ただろ?初めて会った時……」
「あ……は、はい」
「皆……それ見た後は、俺から距離を置くんだ……」
それは、言われるまでもなく、未亜自身も感じていた。
あの眼は、見る者の恐怖を煽る。刃を喉元にあてがわれているような恐怖に、誰だって近付きたくないだろう。
「……でもそれは……私が、玲哉さんの副官になったから……」
「距離の問題じゃないよ……何て言うか……俺のこと知ろうとして、近付いてきてる」
——あの眼が何か、相手に恐怖を与えることは知っていた。皆、それを見た後は、自分と関わろうとしなかった。そうして、自分は世間と一線を画して生きてきた。
確かに、未亜が副官に任じられたことも一因としてあるだろう。しかしそんなことよりも、彼女は、最初から今まで、接し方を変えたことはなかった。
命を握ることで引き止めていた、かつての三人。しかし彼らとは違い、未亜には引き止めるものがなかった。当時は、彼女を殺したら地位剥奪だったからだ。だから彼女は野放し同然だった。
そんな相手は、遠ざかって当然だ。……なのに、遠ざかるのではなく、逆に近付いてきているような感覚。むしろそれが、通常の「人との関わり」だと、彼は知らない。
思い返せば、だから自分は、彼女相手に、妙な対応ばかりしてきたのかもしれない。己自身、理解に苦しむ行動は幾度かあった。
他の三人のように、冷淡に切って捨てることはしなかった。心の何処かで気を遣っていた……と言ってもいいかもしれない。
「……俺って……ずっと一人だったんだな。……気付かなかった」
「………………」
世界に、人はたくさんいる。猟犬の総帥だとかバルディア中佐だとかで、大勢の者と関わってきた。……だが今、周囲を見渡してみると、傍には誰もいない。
今更それに気が付いて、玲哉は自嘲した。それから、切なげな表情で自分を見てくる未亜に微笑む。
「だから俺……今、未亜が傍にいるの、嬉しいよ」
「……!!」
その笑顔が紡いだ言葉に、未亜は、心臓が跳ねるのを感じた。
……違う。
これは恐怖だ。
高鳴る鼓動。
この心拍の理由を、好意にすり替えて認知する——それが、怖い。
だから——それ以上、聞いてはいけない気がした。
恐怖が意思を上回って、体を拘束していた。不意打ちの一言に硬直している未亜の様子に気付かない玲哉は、楽しそうに穏やかに笑う。
「未亜がいると……一人だってこと、忘れるからかな……?一人の時も、よく未亜のこと考えてるんだ」
「……っ……」
「あ、そうだ……いろいろ、聞いてもいいかな?未亜のこと……もっと知りたいんだ」
——その時のことは、憶えていない。
あれほど動かなかった体が、いつの間にか動いたらしく、自分は立ち上がっていて、ポロポロと涙をこぼしていた。
玲哉が驚いた顔で自分を見ていて、自分は熱い胸を掻き抱くように胸に手を当てていた。
……憶えていなかったけれど、憶えていた。痛む喉が覚えている。
自分はたった今、叫んだのだ。
やめて、と。
「……ッ……!」
気持ちが入り乱れて、自分が何を考えているかわからない。何も言うべきことも思いつかず、未亜は途中の食事を残して身を翻した。荒い動作でドアを開閉して動力室を出て、涙を拭う余裕もないまま、あの長い階段を無心に駆け上がる。
「………………」
一方、残された玲哉は、ドアの向こうに消えた紅桃色の残像をぼんやり景色に描いて、数秒後、ようやく動き出した。
胸に手を当てる。手のひらが当たる。当然の感触だ。
しかし……
(……なんか……胸に穴が開いたみたいだ……)
『———やめてッッ!!!』
泣き出しそうな、切り捨てる声が頭を反復する。
それを思い出すたびに、やけに息苦しくなる。息を吸っても足りない。漏れているのかと思ったが、しかし胸に穴など開いていない。それでも苦しい……
(何でだろう……)
食欲も、すっかり何処かに行ってしまった。まるで未亜が、一緒に持ち去ってしまったみたいだ。
さっきまでは、食事を見て気持ちが高揚していたのに、急に沈静した。メニューを見て、気持ち悪いとさえ思ってしまう。
用のなくなったフォークを、皿の上に静かすぎるほど静かに置く。……ふと、視界が少しぼやけていることに気付き——、認知させられた。
(……そっか。俺は今……悲しいのか……)
思っていたより感情豊かな己の体に、玲哉は一筋、涙を流しながら、困ったように笑った。
♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪
苦しい。
苦しい。
苦しい。
「きゃっ……!」
「うわっ!?」
どん、と誰かにぶつかった。その感触で我に返った未亜は、しかし状況を把握できず、ドサっと座り込んだ。
目をうっすら開くと、バルディアの軍服を着た二人の男が傍に立っていた。うちの一人が、迷惑そうな顔で見下ろしてくる。
「まったく、ちゃんと前を見て歩けよな」
「あ……ご、ごめんなさい……」
反射的に謝ると、「気を付けろよ」と彼は言い捨て、男達は立ち去った。
「……っ」
二人が廊下の角を曲がったのを見届けたら、不意に、胸が痛くなった。
思えば、あの長い階段を休みもしないで上り切り、さらにここまで走ってきたのだ。胸を押さえ、未亜は屈むように座り直した。
思い出したように、忙しく鳴る鼓動。今まで殺していた呼吸が、慌ただしく自分の役目をこなし始める。
鋼鉄の床についた左手の甲に、透明な雫がこぼれ落ちた。浅い呼吸を繰り返しながら、未亜は、溢れ出した涙を服の裾で拭った。
——胸が痛い。
酸素が足りないということ以上に、自分の言葉が自分の胸に突き刺さっていた。
(ひどいこと、言っちゃった……)
——自分のことを知りたいと言われた時、やんわりと断ればよかったのに。
その先を聞くのが怖くて、無意識に直接的な言葉で叫んでいた。
自分は、玲哉が好きだ。
でも、叶うはずがない。彼は堅固な動力室の中で飼われている、バルディア最大の大罪人。
だから、忘れようと思った。この想いは幻。自分はただ仕事をすればいい。
そう思って、今日来たのに……まるでこちらが距離を置こうとしているのを見破ったかのように、向こうから近付いてきた。
……それだって、自分が静かに一歩離れればよかったのに、彼を乱暴に突き飛ばして距離を開かせてしまった。
(……どうしよう……顔合わせられないよ……)
静まり始めた胸に手を当てたまま、未亜は床についている左手を握り締めた。
玲哉の世話役である以上、食事の時間になったら、行かなければならない。しかし、どんな顔をして彼の前に出ればいいのかわからない。
……近付いてきた玲哉を、拒みたかったわけじゃない。彼はようやく、人らしく進み始めたのに。
ただ、怖かったのだ。今以上に自分が彼を好きになって、苦しむだろう未来が。
子供と変わらぬ純粋な彼を、自分は、身勝手な理由で傷付けた。
「…………アタシだって……玲哉さんのこと、もっと知りたいですよ……」
好きな食べ物とか、趣味とか、そんな些細なことでいい。
現状とか、身分とか、何もかも忘れて、ただずっと話していたい。
こぼれた本音を自分の耳で聴いて、切なくなった。
——そういえば、やけに人通りが少ない。
そのことをようやく察し、整ってきた息を吐いて、未亜はゆっくり顔を上げた。
自分は、鋼鉄の廊下に座り込んでいた。
辺りを見渡し、ここが、軍基地の動力室——玲哉の部屋で蓄積された電気を制御する、同じ中枢エリアであることを確認する。
軍基地は、3つのエリアに分かれている。
軍上層部の人々が会議などをする軍事エリア。
開発部が強く関わる、兵器などを開発・製造する開発エリア。
軍基地内の電力の管理を始め、セキュリティシステムでの人々の監視や膨大な情報を管理する中枢エリア。
軍事エリアでは名の通り軍部が、開発エリアも同じように開発部が。
——そして、中枢エリアでは、情報部が強いかかわりを持つ。
目の前には、ドアがあった。
中枢エリアの、その最たるものとも言うべき扉だった。
ほとんどが自動ドアの中、1つだけ手動の開閉ドア。
鍵はかかっていない。この部屋には、鍵がかかっていては困るからだ。その一方で、軍基地を統制する、ある種で源とも言える場所でもある。
「………………」
——瞬間、舞い降りてきた直感に、未亜は電撃が走ったような衝撃を受けた。
……自分は、何を、悩んでいるんだ?
彼はバルディア最大の大罪人。
——だから?
そんなものは詭弁だ。言い訳して逃げているだけじゃないか。
選べばいい。
最初から、その選択肢はあったのだから。
この生温い生活に漬かって、変動を恐れるあまり、見えないフリをしていた。
立ち上がり、ドアの前に立つ。まるで未知なる世界への入り口のように思えた。……いや、実際そうなのだろう。
過ぎる不安。失敗が怖い。
それでも、進め。
私の望む世界は、不定形なこの未来にあるのだから。
未亜は、ドアノブに手をかけた。
……………………
♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪
———基地内に、放送が流れた。
♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪
ガタン。
形容するなら、そんな様子だった。
「……何だ……?」
——未亜が出て行ってから、さほど時間は経っていない。
動力室。放心状態だった玲哉は、突然視界がブラックアウトしたことで、ようやく周囲に注意を向けた。
……真っ暗闇だった。光源は何一つあらず、漆黒のフィルタでもかけられたような気分だった。自分の手さえ見えない。
恐らくここが地上だったなら日光である程度は見えるのだろうが、残念ながらここは、太陽の恩恵から隔絶されている地下だ。これほどの暗闇を、玲哉は初めて見た。
(……そうでも、ないか)
何一つない、真っ黒な世界。……それは何処となく、自分と重なった。
物心ついた頃には、すでに周りは敵ばかりだった。
だから生き延びるために、他者は邪魔……敵であると認識した。
自分はずっと一人で、こんな真っ暗な道を歩いていた。
その道が「暗い」ということさえ知らずに、ずっと歩いてきた。
その道が「ゆがんでいる」ということにも気付かずに、ずっと歩いてきた——
(…………あぁ……そうか)
「……だから俺は、化け物なのか……」
薄い笑いが口元に浮かんだ。
——強大な力を持っているから、化け物なわけじゃない。それなら、聖の守護者を飼っていたあの青年の方が化け物だ。
しかし彼には、自分とは違って仲間がいた。鎖で繋いでいるわけでもないのに決して裏切らない、自分から見れば不思議な因縁で彼に連れ添っていた三人。
化け物を分ける境界は、その心の有り様だと……自身に大した心もないのに思った。
他者は敵。利用はするが邪魔なら殺す。——ゆがんだ道を歩いてきた自分は、きっと通常から見れば、やはりゆがんでいるのだろう。
あの青年は、自分から見ればひどく愚かしかった。他者を優先する、馬鹿げているとしか思えない行動。……どうやら世界は、愚かしいものが好みらしい。
あの愚直さは、自分にはないものだ。呆れると同時に……自分には手が届きそうにない故か、憧れている自分がいる。
……ブツン、と。天井から、引っかかるような音が降ってきた。ノイズだ。
暗闇に順応し始めた目で上を仰いで、この部屋にも放送が届くのかと、玲哉はぼんやり思った。この1年間、この部屋にまで放送が入ったことはないが、一体何事か。
『玲哉さん、逃げて下さいッッ!!!!』
突然の大声は、大きすぎて音がこもってしまうほどの音量だった。
かろうじて聞き取れた言葉と、この声とを一瞬反芻した。——この声は、間違いなく、未亜のものだった。
「……未亜……?」
『軍基地内の電気を司るブレーカーを落としましたっ!動力室の機械も止まってるはずです!すぐに動けるかどうかわかりませんがっ、とにかく逃げて下さいッ!!』
「なっ……!?」
『階段を上って廊下に出ると、すぐ横が非常口です!アタシも後を追いますから、早く逃げて———ッ!?』
はっと息を呑む音がして、未亜の声はそれっきりしなくなった。代わりに、ヴー、ヴーと警報が鳴り始める。
答えは1つ。——未亜が早くも捕まったとしか考えられない。
「未亜ッ!!」
その結論に至るなり、玲哉はベッドから飛び降り、走り出していた。
未亜が言っていた通り、機械はすべて停止中らしく、重かった体がいつもより軽い。しかし、ついさっきまで血を抜かれていたという事実は変わらず、貧血はまったく治っていない。
手動のドアを開けて階段に差し掛かった頃に、早くも息が切れ始めて、めまいがした。それを無視し、手すりで体を支えながら駆け上がる。
胸がざわざわして、落ち着かない。
夜に木々がざわざわと不気味に揺れるような、そんな感じ。
動かずにはいられないような、衝動と裏表の、不安定な気持ち。
恐怖?
……少し違う。
真の意味で恐怖したのは、あの金眼の青年。本当に消されると思った時、全身が凍りつくような寒気を覚えた。アレはむしろ、すぐには動けなかった。
(…………不安……?)
……気が付けば、階段の半ばで、這い上がるような格好で倒れていた。
犬のような浅い呼吸を幾度繰り返しても、息は整わない。貧血のめまいで、倒れていても天地がわからない。ぐるぐる回っているような感覚とふわふわ浮いているような感覚が混じり合って、さらに気持ち悪くなってくる。
それでも動こうと手に力を入れるが、まるで指先は動かない。体が鉛か何かに変じてしまったみたいだった。
——視界に、かすかな光が差す。階段のフットライトでもついたのか。ブレーカーが元に戻され、電力が再び供給されるようになったのだろう。
自分が動力室から出たことは、バレているのだろうか。
……その手引きをした未亜は?
「……っ……!!」
脳裏を掠める予感に突き動かされるように、玲哉は顔を上げた。上下左右もおぼろげな混沌とした世界の中を、前へ進み出す。
なぜこんなに必死になっているのか、自分でもわからない。
あの牢獄は、自分の存在を認めてくれていた。自分の存在を否定する外の世界と隔離された、自分の居場所。
そんな安寧の場所から飛び出してまで、この居心地の悪い外の世界まで、一体何をしに?
——いや、違う。
(……逃げていただけなんだ)
外の世界は自分に都合が悪いからと、自分の世界に閉じこもって、逃げていただけだ。
世界がこんな自分を生んだから、育てたから、だから世界は拒絶する。ゆがんだ自分に言い訳して、逃げていただけだ。
こんな自分をちゃんと見ていてくれた彼女のような者もいると、知っていただろうに。
生きづらい世界でも、苦しくても、その痛みを受け入れよう。
その痛みこそが、生きているという証。
……きっと、応えは返ってくる。
幼子は、殻から飛び出した。
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