→→ Largo 1

 歴史なんて、勝者の人間達が都合良く作り上げるものだ。
 その中で、消されていく事項は山のようにあるだろう。自分達が知っている今までの歴史だって、嘘か本当かわからない。

 ———でももし、この世界自身が綴る、真実の歴史があるのなら。
 俺の名前も、そこにはあるのだろうか。


(……何考えてるんだろうな、俺……)


 らしくもない思考に、これまた、らしくもない嘲笑がこぼれた。漏れた息に、臙脂色の前髪が浮く。
 大体、自分が壊そうとした世界ものに縋ろうとするなんて、虫が良い話だ。そう思って、金の右眼、銀の左眼を伏せた。
 ——バルディアの首都ビアルドにある軍基地。その地下にある動力室に一人、五宮玲哉はいた。
 灰色の部屋の中央に置かれたベッドに座る彼の他に、部屋には誰もいない。ただ無機質な機械達が、玲哉を取り囲んで静かな低音を響かせていた。

 この1年で、以前が嘘のように、自分が心身ともに衰弱しているのは自覚していた。理由は、自分でわかっている。
 まず、身体。これは、この動力室に、クランネとしての力——紫電をじわじわと吸収されているから。それは血を抜かれているのと同じなので、玲哉は常に貧血状態だ。ある程度は慣れてきたが、体にまとわりつく倦怠感は変わらない。
 そして精神だが……それは、1年前の出来事が原因だ。



 ——今まで、神に復讐するためだけに生きてきた。
 その唯一の可能性が、1年前、失われてしまった。己を支えていた、たった1つの目的が。
 ……それからというもの、ずっと無気力だ。貧血に慣れてきた今、この動力室から出ることもできそうな気がしたが、特に出る理由もなく、ただただこの地下にいる。

 自分には、生きる理由がない。
 でも、死ぬ理由もない。
 ……カラッポだ。


「……おはようございます、玲哉さん」


 ガチャ、と、ドアが開く音がした。音がした正面を見ると、紅桃色のセミロングの少女が部屋に入ってきていた。
 片手の後ろ手にドアを閉めて歩いてくる彼女の手には、四角いトレイ。その上に載せられているもの達から、いいにおいが漂う。

 少女——芽吹未亜は、ベッドのサイドテーブルにそれを置くと、玲哉を見た。その目が腫れているのを見て、少し困ったような笑いを浮かべた。


「……目、腫れちゃってますね」
「おはよ、未亜……うん。目、痛いんだよね……何でかな?」
「昨日、たくさん泣いたからですよ」
「泣くと……目、腫れるの?」
「そうですよ」


 だるさのせいで玲哉の声は気だるげに聞こえるが、彼は「何でだろうね」と、真剣に考え込む。
 未亜は、昨日、自分の腕の中で泣きじゃくっていた玲哉を思い出して、小さく笑った。初めて会った時は大人っぽい人だと思っていたが、実際は中身は子供っぽいのだと、今までを振り返って気が付いた。

 ふと、座る玲哉は、思い出したように未亜を見上げた。


「未亜……昨日はありがと。なんか……すっきりした」
「え……は、はいっ!」


 そう言って、穏やかに淡く微笑む玲哉には、前の不敵さは影もない。本当の意味で、玲哉自身の笑みを見た気がした。しかも、彼の口からお礼を言われたことなんてあっただろうか。
 ……でも何処か、かすかに寂しいような想いも漂う。まるで別人を相手しているような気持ちで、未亜は慌てて頷いた。それから、その動揺を悟られないように、わたわたと、自分が運んできたものの説明を始める。


「え、えっと……お世話役なので、私がご飯持ってきます。朝食です」


 未亜が持ってきたのは、薬草と一緒に焼かれたらしい鶏肉と、白い表面が軽く色づいたパンだった。……それらが載った皿が、各2つずつ。


「……多いね」
「それは……私の分もあるので……」
「未亜の分……?」


 世話役が自分の分まで持ってくるのか。玲哉が少し驚いてみせると、未亜は困ったように視線を泳がせてから、「その……」としばし口ごもった。


「……あ、アタシ、朝早いの苦手なんです。本当は、家でご飯食べてから基地に来て、玲哉さんのご飯準備しないといけないんですけど、時間なくてっ……」
「……未亜、時間はきっちり守るタイプだったよね……?」
「そ、そんなことないですよっ!? あ、アタシ、そそっかしいですからっ」


 玲哉が何気なく聞いたら、未亜は慌てた様子で両手を振った。動揺しているらしく、一人称も、それが素なのか微妙に変わっている。しかも回答も微妙にズレている。
 何とも言えない違和感に玲哉が首を傾げると、未亜はその視線から逃げるように、サイドテーブルの傍にパイプイスを引っ張ってきた。


「だ、だから……朝ご飯、私もここで食べますけど、気にしないで下さい」
「……あ、うん……」


 一方的に未亜はそう言うと、イスに座り、自分の分のパンに手を伸ばした。彼女の言動が気になったが、きっぱり妙だとも言い切れず、解せない思いを持て余しながら玲哉はひとまず頷いた。
 血が常時足りない自分は、急な運動をするとすぐに酸欠で苦しくなる。ゆっくりフォークを手に取って、焼いたチキンをパンに挟みながら、玲哉は未亜を一瞥して言った。


「……昨日から気付いてたけど……未亜、髪、切ったんだね……」
「……はい。結構、バッサリ……」


 パンを片手に、未亜は、軽くなった自分の髪に触れた。
 1年前は、高くツインテールに結っても腰辺りまで伸びていた紅桃色の髪。今は、下ろした状態で肩を少し越すくらいの長さにまで縮んでいた。ツインテールをやめてセミロングにしたことで、彼女は随分大人っぽく見えた。

 チキンサンドを一口食べていた玲哉は、飲み込んで……理由を問うた。


「何で……?」
「………………」


 ——未亜は、答えず。
 彼女はこちらに目を向けることもなく、黙々とパンを食べていた。
 ……そういえば未亜は、ここに来てから、自分とまともに目を合わせたことがあっただろうか。


「……似合ってるから、いいけど……」


 虚空に漂ったままの質問を終わらせるために、玲哉はぽつりと言った。
 瞬間、ばっと未亜は顔を上げた。その勢いに驚く玲哉に、彼女は何かを言いかけ……しかし、寸前で押し留めた。再び顔をうつむけ、食べる作業を再開する。

 ……しばらく、無言で食べる時間が続いた。
 機械の低音、振動音が、静寂を震わせる。この音達に1年間囲まれていたせいか、その音に黙って耳を傾けていると落ち着く。


「…………玲哉さんは……」


 ——やがて、低音以外の音がした。
 未亜の方は、沈黙に耐えかねたらしい。玲哉がサンドを食べながら未亜を見ると、彼女は手を止め、うつむいていた。
 ぎゅっと、パンを持つ両手を少し握り込んで。


「……玲哉さんは、ここにいるの……嫌じゃないんですか……?」
「………………」


 ……玲哉はすぐに返答しなかった。また、機械の静かな駆動音が、二人の間を通り抜ける。
 サンドを持つ手を、下ろした。駆動音を聞きながら、口を動かしながら、ゆっくりと返答を考える。しかし、口の中の物を飲み込んでからも、しっくり来る答えは浮かんでこない。

 ぐるりと部屋を見渡して、玲哉はまた顔を前に戻すと、ぽつりと呟いた。


「……よく……わからない……」
「………………」
「だって、ここってさ……他の誰でもない、俺専用の……俺のためだけの部屋なんだよ。……馬鹿らしいって、わかってるけど……」


 それ以上は言えずに、玲哉は口を閉ざしてしまった。

 認めてほしかった。許してほしかった。
 ここに在ることを。
 だからこそ、1年前、神を滅そうと躍起になって、それを打ち砕かれて。

 自分のためだけに改造された部屋。ある意味での、自分の居場所。
 ……存在してはいけない自分を唯一認めてくれるのが、牢獄であるこの部屋だなんて皮肉だ。



 寂しげに自嘲する、玲哉の横顔。未亜は何も言うことができず、彼から視線を外した。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 初めて玲哉に会った時、あの黒い思想の渦巻く瞳に釘付けになった。
 良くも悪くも、まっすぐな瞳。邪悪なまでに強い衝動を秘めていた。

 あの双眸が頭から離れなくて、しばらく、玲哉といる時は緊張しっぱなしだった。
 良くも悪くも、自分はあの目に心奪われてしまっていたのだろう。



 昨日再会して、彼のあの眼の理由がわかった気がする。
 玲哉は、まがうことなく純粋だったのだ。聖王の如く、気高いまでの純粋さと、魔王の如く、無慈悲なまでの残酷さ。
 たくさんの刺激に囲まれている生物では、決して見ることのないだろう、白くて黒い心。

 ——そして今、彼は、ようやくいろんなことを心に映している。良い意味で、純粋ではなくなった。
 しかし、子供と変わらぬ心には、現状はつらすぎた。希望を砕かれ、牢に入れられ、ロクな扱いも受けず。
 彼が唯一求めているのは、自分の存在を認めてくれるもの。


(……どうすればいいんだろう……)


 地下5階に相当する深みにある動力室から戻ってきた未亜は、一度、家に帰るつもりでビアルドの街を歩いていた。
 たまたま前を通り過ぎた店の自動ドアが、未亜を感知して開く。入るつもりはなかったので素通りするが、ちょっとだけ悪い気を覚えた。

 ……未亜は、自分が玲哉のことをどう思っているのか、よくわからない。自分もまた、玲哉と似たようなものだった。
 玲哉が、おびただしい数の人を殺してきたのは知っているし、空界をも壊そうとしたことも知っている。当然のように、それを聞いて恐怖を感じた。
 さらに、玲哉の副官になった自分は、彼にとって邪魔者だったろう。運が悪ければ、今頃、殺されていたかもしれない。参謀の雨見紫昏が玲哉に釘を刺さなければ、恐らく確実に殺されていた。

 ——しかし、それでも……


「……あぁもぉ〜……!!」


 頭を過ぎった思いを掻き消すように、未亜はくしゃっと、髪が短くなった頭を両手で抱えた。すれ違った人に変な目で見られてから、はっとして、慌てて髪を簡単に直して手を下ろす。
 横に目を向けると、ちょうどガラス張りのカフェの正面を歩いていた。そこに映り込んだ、セミロングの自分の姿を見て、未亜は少し残念な気持ちになった。

 髪を切った理由。……玲哉には、言わなかった。
 言えなかった。本人を前にして、言えるわけがなかった。

 あの純粋な強い瞳と……つまり、自分が玲哉に抱く、まやかしのような想いと、決別するためだった。あの三国戦争後、玲哉の悪行を聞いて、バッサリ切った。
 だが、その1年後、思いがけず、再び会うことになってしまった。軍基地を総括する帝国軍元帥からの指名だった。1年前、玲哉に昏倒させられていた自分に、もう一度だけチャンスをやると言われて。



 ——複雑だ。
 自分は、彼と距離を置いた。置くはずだった。
 なのに、変わってしまった彼を前に、距離を置くことができない。

 どんなふうに玲哉に接すればいいのか、わからない。


「……未亜?」
「えっ?」


 名前を呼ばれた。キョロキョロ辺りを見渡してから、最後に後ろを振り返ると、知っている人物を見つけた。
 バルディアの赤い軍服をまとっていることから、一目で軍人だとわかる。颯爽と歩いてくる、20代半ばの女性。つややかな漆黒の髪は、肩を少し過ぎたくらい……つまり、自分と同じくらい。むしろ、未亜が彼女に合わせたようなものだが。


「髪が短くなってたから、少し自信なかったのだけど……久しぶりね」
「教官……!お久しぶりです!」


 思わず女性に駆け寄り、未亜はぱっと笑みを綻ばせた。その変わりように、女性は藍の目を細めて微笑む。
 声を掛けてきたのは、未亜の育ての親であり、元教官でもある、陽城朱羽ヒシロ アゲハだった。


「教官、ここ数ヶ月、忙しかったですよね。やっと休みとれたんですか?」
「まぁ、少しはね。急に中佐に昇格させられたものだから、まだ忙しいわ」
「あ……」


 「中佐」と言う言葉を聞いて、未亜は玲哉のことを思い出した。1年前までは、彼がいた地位だ。少佐だった朱羽は、最近、空席だった中佐に上げられたらしい。


「でも今日は午後からだから、午前中は空いてるの」
「そ、そうなんですか……大丈夫ですか?ちゃんと休んでますか?」
「大丈夫よ、未亜じゃないんだから」
「あ、アタシはちゃんと休んでますよ!休み最優先ですから!」
「ふふ、頼もしいわね。少し、歩きながら話でもしない?」


 おかしそうに朱羽は笑って、人もまばらな道をすっと歩き出した。「そうですねっ」と、その隣に未亜は並んで歩く。


「あ、そうだ!だったら私……教官に聞きたいことがあります」
「あら、何かしら」


 妙に真剣な未亜の声に、何を問われるのか期待しながら、朱羽は楽しそうに先を促す。
 何について聞かれるかといろいろ想像していたが、未亜の口から飛び出したのは、完全に予想の範疇外だった。
 子供のような、でも一蹴できない素直な問い。



「恋って、何なんでしょうか?」



 ………………。

 ……まず朱羽は、自分の耳を疑った。しかし停止した頭とは別に、体は歩行し続けている。
 未亜を見ると、彼女は到って真剣な目で自分を見ている。対して自分は、唖然としていることだろう。

 未亜は今年で18歳。美少女とまでは言い切れないが、朱羽は、未亜は可愛い方に分類されるだろうと思っている。……だから余計、その言葉は信じがたい。
 ひとまず、慎重に聞いてみた。


「……えっと……未亜?もしかして……恋、したことないの?」
「ないです!」
「……きっぱり断言するところじゃないと思うわ」


 ぐっと拳を握り締めてすぱーんと言い切る未亜に、朱羽は苦笑した。
 考えてみれば、自分はこの子の育ての親だ。もし未亜が初恋なんてしたら、自分のところに相談に来てもよさそうだ。そんなことは一度もなかったから、ということは本人が言うように、恋はしたことなかったのだろう。

 年頃なのに……と淡く思ってから、朱羽は人差し指をアゴに当てた。


「そうねぇ……っていっても、私も恋愛経験が豊富とは言えないけれど」
「教官はあるんですかっ!?」
「まぁ、人並みにはあるんじゃないかしら?けど私の場合、どうしても軍を優先させてしまうから、そう長続きしなかったわ」
「確かに教官、仕事熱心ですもんね」


 参ったように小さく嘆息して言う朱羽の言葉から、容易に想像がついて、未亜は思わず笑った。仕事はきっちりこなす朱羽には、恋人のために時間を割く余裕がなかったのだろう。何と言うか、彼女らしい。


「軍属の人なら、どうなんですか?都合合うんじゃないですか?」
「それはダメね。きっと私が仕事に集中できなくなるから」
「……きょ、教官が乙女なこと言ってるっ……!」
「あら、どういう意味かしら……?」
「……ご、ごめんなさぃい……」


 朱羽の背後に、幻覚だが黒いオーラが見えた直後、未亜は小さくなって謝っていた。
 しかし、それくらい衝撃的な言葉だった。仕事に集中できなくなる朱羽なんてまったく想像つかない。……もしかしたら、自分は知らないが、こういうことを防ぐために、軍内恋愛禁止とかあるかもしれない。

 朱羽は「恋、ね……」と呟いて、小さく笑みを浮かべて言い始めた。


「そうね……その人を中心に、世界が回ってるという感じ……かしらね」
「へ??」
「もっと単純に言うなら、何かあるごとにその人と繋げて考えるとか、そんなところかしら。真っ先に思い浮かぶのがその人、とか」
「う……そ、そうですか……」


 まるで今の自分の状態をズバリ言い当てられたようで、ドキっとした。体が勝手にカチンと硬直するが、気付かれていないだろうか。

 玲哉の悪行を聞いてから、この1年間、よく玲哉のことを考えた。聞かされたことは事実なのだろうとはわかっていたが、どうもしっくり来ない思いを持て余していた。
 彼には、優しい面もあった。基本的に自分は、彼にひどいことをされた覚えはない。

 ——三国戦争が始まる直前、玲哉に昏倒させられて、2日後くらいに目覚めた。
 自分が所属する情報部は、3分の2ほどが戦場へ駆り出されていた。まだ敵兵が来ていない遥か後方で、前線から無線で伝えられる敵兵の情報分析などをしていたらしい。飛空艇や戦車の機械士も一緒にいて、砲弾切れや調子が悪い時は、ここに戻ってきて用を済ます。
 本当は、未亜もその部隊の一員として行くことになっていたらしい。が、彼女は気絶していたので、急遽、代わりの者が向かったそうだ。
 そして、未亜を含む残りの情報部員は、首都での情報処理に追われていた。前線から送られてくる状況報告、兵器の製造状況、その他諸々。……自分は、玲哉によって戦場へ向かわずに済んだのだ。
 しかし、本当にそれが狙いだったかどうかはわからない。彼の真意は、いまだにわからない。


「……それで、どうかしたの?気になる人でもいるの?私でよければ、聞くわよ?」
「…………えっと……じゃ、じゃあ……」


 養子の恋話を聞くのが楽しみらしく、楽しげに聞いてくる朱羽に、未亜はコクンと頷いた。
 朱羽は、自分の一番の理解者だ。親身になって聞いてくれること間違いなし。そう思って、未亜は前を向いた。


「まず……その人、怖いんです。今まで平然と、結構ひどいことたくさんして来たみたいだし……人も、たくさん殺してきたらしいです」
「……ええ」
「でも、見かけは全然そう見えないんです。凄く爽やかに笑うし……」
「………………」
「けど……最近、久しぶりに会ったら……前みたいに笑わなくなってたんです。凄く寂しそうに笑うんです……」


 きゅっと手を握って、未亜はうつむいた。

 ——今朝の、玲哉の寂しげな自嘲を、まだ覚えている。
 人間らしいと思うと同時に、不釣合いだと感じた。
 純粋な彼。
 ……そんな笑顔は見たくない。


「……彼は、悪い人だってわかってるんです。でも……また、前みたいに笑ってほしいんです。……教官、これって恋なんでしょうか?」


 自分の気持ちを整理しながら口にした、ぐちゃぐちゃの想い。
 不安げに、未亜は答えを求めて、朱羽を見る。黙って聞いていた朱羽は、ふぅ……と小さく息を吐き出して。
 ナイフの刃先のように断言した。


「違うわ。それは恋じゃない」
「……教官?でも、教官が言ったことにも当てはまるし……」
「未亜、その相手、五宮玲哉でしょう?」
「——!!」


 すっとこちらに動かされた鋭い藍の瞳に射抜かれた未亜は、その冷ややかな目と、相手を当てられたことに、びくりと身を強張らせた。相変わらず嘘をつくのが苦手で、すぐに表に出る未亜のわかりやすい反応に、朱羽は「やっぱりね……」と呟く。
 未亜から視線を外した朱羽は、軽蔑した口調で続ける。


「無数の人間を平然と殺してきた悪魔なんて、思い当たるのは一人だけよ。今は軍基地の地下動力室で飼われているそうね。……未亜、貴方、最近あの男の世話役になったらしいじゃない」
「……あ……は、い……」
「いい?貴方もわかっているように、五宮玲哉は極悪人よ。<紅き悪魔>って呼ばれてるわね。きっと、あの男に抱いている恐怖心を取り違えたに違いないわ。あんな非人道な男のことなんて——」


 ——その先は、すでに聞いていなかった。
 その頃、未亜は、心のずっと奥底で、何かが砕け散る音を聞いていた。
 今まで信じていた、固いはずの大事なそれが砕ける音は、あまりにも軽かった。



「玲哉さんはそんな人じゃないですッッ!!!!」



 喉がひりついたと思ったら、あらん限りの声を張り上げていた。
 我に返ると、自分は足を止め、2歩ほど離れている朱羽を睨みつけていた。
 育ての親であり、師でもあり……最良の理解者だった、、、彼女を。

 その名を口にし、さらにはその者を擁護する発言をした未亜は、道行く人の目を集めていた。
 五宮玲哉。この国の民ならば誰もが知っている、悪魔の代名詞。
 バルディアを操り、空界をも破滅させようとし、そして——神によって裁きを受けた者。そう言われている。

 ——誰も知らない。
 そんな悪魔が、実際は、ひどく脆い、ただの子供だなんて。


「……未亜……」
「……っ……」


 周囲の人々が、信じられないという顔で自分を見る。朱羽もまた、彼らと同じ目をしていた。そして、そう言った未亜でさえ、自分自身の反応に言葉を失っていた。

 玲哉を貶されて、一瞬で頭に血が上った自分。
 玲哉を蔑まれて、一瞬で朱羽に絶望した自分。


(……どうしよう)


 ……ダメだ。
 なんてわかりやすいんだろう。


(…………アタシ……玲哉さんが好きなんだっ……!)


 ……気が付いたら、走っていた。
 こぼれる涙をそのままに、走っていた。
 ただただ切なくて、未亜は泣いていた。



 気付いてしまったことと背中合わせに、悟ってしまった。
 ——この恋は、叶うことはないと。






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