→→ Sanctus 15 ………………静かだった。 何も聞こえない。 もしかして、空界は滅んでしまったのだろうか。 ……なら、自分は? 今、こう思っている、この自分は……何なのだろう。 目を開いた。……という感覚を、一瞬自分で疑った。 真っ黒だった瞼の裏の世界から出たと思ったら、外の世界も真っ黒だった。だが、視界の端に自分の髪が見えたことで、ちゃんと目を開けたのだと確信する。 ……椅遊は、身を起こした。と言っても、寝ていたわけではなく、自分の体はなぜか浮いているようだった。 足元を見るが、やはり真っ黒で何も見えない。足を伸ばしてみても、手応えはない。 ……辺りを見渡してみる。とにかく真っ黒で、何も見えない。しかし真っ暗なわけではないらしく、自分の手や体はちゃんと見える。不可思議な空間だった。 ……本当に、空界は滅んでしまったのだろうか。しかし、それでは、自分がまだ生きている理由に説明がつかない。空界を破滅させるほどの魔王召喚は、自分の命が対価のはずだ。死んでいなければおかしい。 だとすれば……空界は、まだ滅んでいない?そしてココは、空界ではない……? 「……ここ……どこ……?」 ≪魔界だよ≫ ——間髪入れずに、思わぬところから返答が来た。真正面だ。 周囲を見ていた椅遊は、ばっと前に向き直る。そこに、先ほどまではなかった姿があった。——その信じられない人物を見て、椅遊は目を見張っていた。 黒の中、その色を寄せ付けない白さを持つ、見慣れた姿の人物は。 「…………わた……し……?」 ——白い肌に、桜色の髪に、空色の瞳。服装まで同じだ。椅遊とまったく同じ顔をしたその少女は、驚愕する椅遊に、にっこり微笑んだ。その笑顔も、彼女によく似ていて。 ≪うん。初めまして、朔司椅遊。私は、前の貴方≫ 「まえ……?」 ≪今はまだこの姿でいるけど、ルトオスが先延ばしにしてるだけだから、あまり気にしないで。……って言っても、無理だよね≫ 「……あなた……だれ……?」 記憶がなく、あまり喋れない自分と比べ、明らかに大人っぽい『彼女』が言う通り、椅遊はぞっとしていた。まったく同じ姿をした自分が目の前にいて、しかも自分の意志で喋っている。椅遊が恐る恐る問うと、『彼女』は困った顔をした。 ≪私には……まだ名前がないの。だから、ドッペルゲンガーとでも呼んで≫ 「………………」 ≪形をもらって、それから名前をもらう。魔界の住人の高位の存在は、そうして生まれているの≫ 「……え?」 ——魔界の住人?梨音や天乃が召喚する、黒い獣達だ。 今の話の流れからするに、この目の前の『彼女』は、いずれ魔界の住人になる……? 椅遊が自信なさげに思ったことを察したドッペルゲンガーは、≪そうだよ≫と肯定した。 ≪高位の魔界の住人は、今までにルトオスが奪った、誓継者達の記憶が元になって生まれるの。ただの魔物と違うのは、そのせい≫ 「……じゃあ……あなたは……」 ≪うんそう、貴方がルトオスに奪われた記憶そのもの。以前の貴方の人格を構成していた記憶。だから私は、前の貴方なの≫ ドッペルゲンガーは自分の胸に手を当て、椅遊とまったく同じ声でそう言って微笑んだ。 ——ということは、梨音の〈ガルム〉や、天乃の〈フィアベルク〉も、過去の誓継者の記憶が元になっているというのか。 ≪ルトオスが記憶を元に、魔力で形を与えるの。だから魔の影響を受けて、魔界の住人って血の気が多いみたい≫ 「ルトオスが……つくる……?どうして……?」 ≪そこまでは、私は知らないけど……魔術で型を作るんだって。魔界の住人の体は、純粋な魔力でできているの。そして貴方も≫ 「えっ……!?」 思わぬ流れで、ドッペルゲンガーに指差されて、椅遊は思わず自分の胸を押さえた。 生物の体は、聖魔力から成り、基本的には魔力の方が多い。通常の場合は。 夕鷹の体は、すべて生粋な聖力でできていると言っていたが、自分の体は、すべて生粋な魔力でできている——!? 椅遊の驚愕ぶりを見て、ドッペルゲンガーはキョトンと目を瞬いてから、おかしそうにクスクス笑った。 ≪だって、ここは魔界なんだよ?ルトオス直々の魔力が渦巻く場所。それなのに貴方は、その影響を受けずに存在している。どうしてだと思う?≫ ——生粋な力でできているものは、その力の影響を受けない。 夕鷹が体に聖力をまとえるのも、玲哉の魔力の義手が魔力を突き抜けたのも、そして……今、自分が魔力の中に存在できているのも。 「……うそ……」 ≪ふふ、そんなに驚くなんて思わなかった。歴代誓継者は、みんなそうだから、あんまり気にしなくて大丈夫だよ。初代誓継者に誓約を破られた時、ルトオスが体の構成をそう書き換えたんだって。誓継者が、自分を召喚しても、その影響を受けないように……≫ —————喋りすぎだ ……不意に、真っ黒な世界が、わなないたような気がした。 知っている声が世界を揺らす。はっとしてキョロキョロ見渡すが、やはり何処もかしこも真っ黒だ。そんな椅遊に、ドッペルゲンガーが言った。 ≪ルトオスは魔界に同化してるから、探してもいないよ。と言うより、私達が、ルトオスの中にいるって感じかな≫ 魔界とルトオスのことは大体把握しているらしいドッペルゲンガーに、椅遊が視線を戻すと、『彼女』はくるっと背を向けた。肩越しにこちらを見て、楽しそうに言う。 ≪ルトオスが、貴方と一緒に紛れ込んできた外敵相手に忙しいみたいだったから来たんだけど……それじゃあ、私はもう行くね≫ 「て、き……?それ、って……」 ≪ふふ、今の私と、少しお話してみたかっただけなの。じゃあね、私。いつかまた、会えるといいね≫ 「あ……!」 待って、と手を伸ばしたが、ドッペルゲンガーがふわっと歩き出したかと思うと、その背は、すぐに黒に溶けて見えなくなった。 あまりの一瞬の出来事に、椅遊は手を伸ばした格好のまま、少しの間、呆然としていた。その手をゆっくり手元に戻して、さっきの言葉の意味を考える。 ……さっき『彼女』は、「外敵」と言った。それも、「自分と一緒に紛れ込んできた」外敵。 ——それは、一人しかいない。 不愉快だ————— ふと、横の方から声がして、視界の隅がやや白味を帯びた。とてもよく知っている声だった。 見ると、いつの間にか、そこに白い光の球が浮いていた。それは、夕鷹が消えてなくなった後、彼の代わりにあったあの光だった。 つまり、この光球こそ……、 「……バルスト……」 椅遊が確かめるように呟くと、ふわりとその光が上下に伸びた。白い光が見る間に人のシルエットになっていき、やがて光が失せて露になったのは……思いもかけない姿。 「ゆ、たか……?!」 菫色の髪と言い、金眼と言い、それは間違いなく夕鷹の姿をしていた。椅遊が驚いて思わず声をかけようとした瞬間、その瞳がおもむろにこちらを向いて、喉が凍りついた。 服装や容貌は同じでも、その金の瞳だけは違った。いつもの温かい光ではなく、冷たい光。『開眼』時と同じ、あの冷酷な眼だった。 蛇に睨まれた兎の如く、声をなくして硬直する椅遊を見据え、バルストは少し不機嫌そうに言う。……やはり、夕鷹の声で。 ≪不愉快だ。意識の主は俺だ。なぜ感情部などと小さな部位に、力を制御されているのか。コイツに回している分を解除できれば、お前と対等に戦えるはずだ≫ 「……っ……」 ≪所詮、感情部と侮っていたな。どうやら小さいわけではなかったようだぞ。少なくとも、貴様の力を制御できるほどには影響力があったようだな≫ ……後半、視界に映るバルストは、口を動かしていない。つまり、先ほどの言葉は『彼』のものではない。 同じ声で、同じ平坦な口調で、間もなく発言してきたから、すぐに気付けなかった。バルストの金眼が椅遊の後ろに向く。つられて椅遊が振り返ると、そこに紫色のシルエットがあった。 紫の光が引いたそこに、この闇に溶け込むような黒衣をまとった青年が立っていた。夕鷹とよく似た顔、髪型の、白い髪、銀色の瞳の青年。 ……見たことがある。前に、夕鷹の『開眼』の時、ぼんやりとした意識の中で見えた人物だ。 「ルトオス……?」 ≪そうだ、我が誓継者よ。本来は姿を持たぬが、やはり身がないと不便なこともあるのでな。幻影ではあるが、それが余の姿だ≫ ≪幻影と言うより、聖子、魔子の一種だ。俺は今、己自身を変えているが、お前の意識は魔界に溶けたままだろう。そいつは魔子だ≫ ≪当然だ。魔界にいる以上、意識を魔界から切り離せはできぬからな≫ 椅遊の隣に並んで言うバルストの指摘に、ルトオスは淡々と答えた。 同じ声でやり取りされる会話。 同じ顔を見合わせる二人。 鏡のような、二人の王。 ……ところで、今更だが、最大の疑問がある。なぜ自分は、魔界にいるのか。 夕鷹が消えた時、魔王の召喚陣が開いて……扉から出てきた手に掴まれた。その直前に、確か白い光が……バルストが割り込んで。そのまま一緒に…… 「……ルトオス……わたし……どうして……」 今の状況を、ルトオスなら知っているだろう。正直なところ、ルトオスの方が話しかけやすかった椅遊は、『彼』に拙い言葉でそれを聞こうとした。が、やはり、思うように言葉が出ず、それ以上喋れない。 ≪……ふむ≫ 困った顔でうつむいた椅遊を見て、それを察してくれたらしいルトオスは、無表情のままアゴに手を当てた。と思いきや、スッと歩き出した瞬間、すでに椅遊の目の前にいた。そして、驚く椅遊の前に、紫色の光を放つ陣が開く。 「……!?」 ≪案ずるな、悪いものではない。貴様は我が誓継者。余計に危害を加えるようなことはせぬ≫ その陣の外円から、まるで円が糸でできていたかのように、するりとほどけていく。その紫色の糸は、動揺する椅遊の額に迷わず伸びていき、突き刺さった。しかし痛みはない。椅遊はただ、頭の中に何かが入ってくるのを感じていた。 ≪先ほど、貴様が失った記憶に出会っただろう。奴の言語知識を埋め込んだ。……ふむ、やはりルシアの血を引く者だな。体が生粋の魔力でできている故、非常に書き換えやすい≫ 陣の糸が椅遊の頭にすべて入ってから、ルトオスがそう説明してくれた。 魔術に関してはあまり詳しくないからよくわからなかったが、以前の采の《カルフィレア》のようなものなのだろうか。それなら……、 「……ルトオス……私、どうして魔界にいるの?どうして生きているの?空界は……?」 試しに口を開いてみたら、思った言葉がスラスラ出てきて、椅遊は話しながら内心で驚いた。しかも、前の采の時よりも、たくさんのことがわかる。 発言しながら驚いている椅遊に、一度にたくさんのことを聞かれたルトオスは、自分の方でわかりやすいように順序を整理して返答した。 ≪まず、空界は滅びていない。故に貴様が生きているのは、至極当然だ。あの時、余は貴様に呼ばれ、空界に出現した。そして対価を……貴様の命を取った≫ 「……取った?」 ≪ここは魔界。我が意識が満ちる、魔の領域だ。故に、その中にいる貴様は、余に命を握られているようなもの≫ 「……でも貴方は……まだ、私を殺していない。……どうして?」 ≪殺めていないのではない。殺められずにいるのだ。……そこに、我が片割れが関係してくる≫ 無表情だが厄介そうにそう言うと、ルトオスは椅遊の隣のバルストに視線を移した。椅遊が怖々、夕鷹の姿をしたバルストを振り向くと、バルストが後を継いだ。 ≪ルトオスは、今もお前を殺そうとしている。しかし、それを俺の力が牽制している。見てみろ、自分の体を≫ 夕鷹の顔をしたバルストにぶっきらぼうに言われ、椅遊は慌てて自分の体を見てみた。そこでようやく、まとわりつく白い湯気のような存在に気が付く。 ≪聖力の盾だ。それが、お前を殺そうとしている周囲の魔力を相殺している≫ 「……どうして、貴方が……」 ≪俺ではない。……俺自身ではあるが、厳密に言えば俺ではない≫ 「……どういうこと……?」 矛盾しているとしか思えないバルストの言葉に、さらに混乱する。あのバルストが、ルトオスから自分を守ってくれている?なぜ? 椅遊が信じられない思いでバルストをもう一度見ると、続きは『彼』ではなく、ルトオスが答えた。 ≪感情部……そう呼ばれる部位が、バルストの力を勝手に制御し、貴様を守護する盾を展開しているようだ。力への干渉もできないらしい。空界で、余が顕現した手と椅遊の間に割り込んだのも、感情部の仕業のようだ≫ 「感、情部……!? それって……!」 ≪貌の表面にできた、お前達が夕鷹と呼んでいた人格の、元となる我が部位だ。元々外部に位置する物で、俺はこれを通して会話し、力を制御する≫ ≪フン、相当重要な部位ではないか。本当に、たかが感情部と侮っていたな≫ ルトオスが嘲笑うように言うと、バルストは黙り込んだ。 魔の領域にいることと、感情部に力を制御されていること。バルストは現在、2つもの不利な点を抱えている。ルトオスに攻撃するだけ無駄だろう。 バルストが己の状況を呑み込み、少し大人しくなったのを確認して、ルトオスは改めて『彼』に話しかけた。 ≪後回しになったが、久方ぶりだな。我が片割れ、聖王バルストよ≫ ≪………………≫ ≪とっくの昔に消滅したものだと思っていたが、まさか空界で生き永らえているとはな≫ ≪……考えが浅いな。俺とお前は一対だ。俺が消えていれば、お前も消えているはずだろう≫ ルトオスは、久しぶりのバルストとの対面を、何処か喜んでいるように見えた。対するバルストは、自分が不利であることが気に食わないのか、何処か腹立たしげだ。 ≪しかし、どうやら性格は変わったようだな。自分で言うのもなんだが、今の貴様は、余に似ている。高潔であったはずの聖の守護者の貴様が、こうも穢れるとはな。なぜ攻撃してくる?余は、貴様に不利益は与えていない。故に解せぬ。答えよ、バルスト≫ バルストの行動の理解に苦しんでいるルトオスは、そう本人に問い詰めた。 確かに、ルトオスの疑問ももっともだ。 聖魔闘争で、総合的に大打撃を受けたのは魔王だろう。聖王は、瀕死まで追い込まれたが回復した。一方、魔王は、魔界に閉じ込められるハメになった。 ルトオスがバルストに復讐をすると言うのなら辻褄は合うが、バルストがルトオスに報復する理由はない。しかし今、魔界に来てすぐ、バルストはルトオスに攻撃を仕掛けていた。まるで、それが当然かのように。 やはり当然のように、バルストは口を開いた。 ≪お前を消せば、椅遊がお前の召喚に悩まされることがなくなる≫ 「…………え?」 ……その言葉を聞いて、黙って二人の話を聞いていた椅遊は、隣のバルストを思わず振り返っていた。その金眼は相変わらず冷ややかだったが、少しだけ動揺に揺れているように見えた。 さっきバルストは、ルトオスから椅遊を守るために展開している聖力の盾を解除できれば、ルトオスと対等に戦えると……そう言っていた。 だが今は、椅遊がルトオスの召喚に悩まなくて済むように、ルトオスを消すと言った。 ——矛盾している。椅遊の盾を解除すれば、椅遊がルトオスに殺される。それからバルストが魔王を消しても、その頃には椅遊はいない。 言っていることが支離滅裂だ。それはバルスト自身も気付いたらしく、何処か戸惑った様子だった。 困惑しているバルストを見て、ルトオスが考えるようにアゴに手を当てて言った。 ≪……ふむ。バルスト、貴様どうやら、感情部を否定しているようだな。感情部とは言え、己を構成する、欠けてはならぬ部分であるというのに≫ ≪感情など……我ら守護者には不要だ≫ ≪それに異論はない。が……どうやら、己の意識に戻ってきた感情部が独自に成長しすぎていて、貴様の意識と上手く噛み合っていないようだな≫ 「どういうこと……?」 今の言葉だけでは理解し切れなかった椅遊が、バルストの状態を悟ったルトオスに問うと、『彼』はバルストに言い聞かせるように、さっきより詳しく説明する。 ≪感情部は、言わば貴様の心だ。それが、椅遊を自由にしてやりたいと望んでいるようだな。そして貴様は、その心の訴える声に突き動かされるまま、頭でそれを実現しようとしているが……成長した感情部と、効率を取る貴様との間に、若干のズレがあるようだ。行動が矛盾しているのが証拠だ≫ 「……心と頭が……別々ってこと?」 ≪そういうことだ。元は同じ存在ゆえに大差はないようだが、上手く連携が取れていないのは確かだ≫ 驚きに目を見開く椅遊の問いに、ルトオスは頷いた。 理性をバルストが、感情を夕鷹が担っているのだろう。元は同じであっただろうに、内面で分割されてしまった不可思議な存在。 ≪性格が変わったというのは撤回する。全然変わっていないな。聖魔闘争の時のように、椅遊と同じで、他のために動くのか。守護者には、ほとんど感情はないとは言え、貴様は元からそうだったな。余には到底わからぬ、くだらぬ話だ。見ている分には良いがな≫ バルストと椅遊とを全否定するように言うルトオス。しかし、その言葉とは裏腹に、『彼』はなぜか楽しげに見えた。 守護者の二人は、感情を持たないはず。他人のために動いたり、必死になるバルストは滑稽だ。——そう言うルトオスこそ、少し楽しげだったり、椅遊に気を遣ったり、珍しいことに目がなかったり。聖王魔王がそれぞれの性格を持つとしても、感情がまったくないようには思えない。 このことに、ルトオスは気付いているのだろうか。『彼』のことだから気付いていてもよさそうだが、それを差し置いて、自分達を軽蔑するように言っているのか。それなら、なぜ? ——考え込んだ椅遊の脳裏に掠めたのは、さっきの『過去の自分』の言葉だった。 『高位の魔界の住人は、今までにルトオスが奪った、《ルース》達の記憶が元になって生まれるの』 『ルトオスが記憶を元に、魔力で形を与えるの』 『彼女』が言っていたことを思い出し、はっとした。 なぜルトオスは、わざわざ魔界の住人を生むのか。 その疑問と、さっきのルトオスの軽蔑した言葉と。 守護者たる『彼』が持ち合わせる、かすかな感情。 「……ルトオス……貴方、もしかして……寂しいの?」 ——その3つのことから、椅遊が考え付いたのは、その言葉だった。 不意に椅遊が口にした思いもかけない問いに、ルトオスは無表情のまま……間を置いた。 その戸惑ったような沈黙が、椅遊の確信を深くする。ルトオスが聞いてくる前に、椅遊は畳み掛けるようにさらに言った。 「魔界の住人を作ったり、最初の誓継者……ルシアを呪ったり。聖魔闘争以降なんて、特にそうだったんじゃない?魔界に閉じ込められて……一人ぼっちで。魔界に住んでいるのは、貴方と魔界の住人、魔物くらいでしょう?だから……誓継者の記憶で、魔界の住人を作っていたんじゃない?」 ≪……余が寂しい?なぜ、そのような話になる?何処に根拠がある≫ 「だって貴方、さっきから私とバルストを蔑むようなことばかり言ってるもの。それって……嫉妬って言うんじゃないの?」 ≪………………≫ 嫉妬。……自分にはよくわからなかったが、知識を得た今、少しだけわかる。昔の夕鷹の話をしている時の六香に抱いた、浮かんですぐに消えたあの気持ちのことだ。 羨ましかった。自分の知らない過去の夕鷹を知っている六香が。——だからきっと、ルトオスもそうなのだ。本当は……当然の如く他のために動く、感情を持つ自分とバルストが、羨ましいのだ。 真っ向から自分の銀眼を見つめて言う彼女の言葉を、ルトオスは肯定も否定もしなかった。 自分達を否定するルトオス。それは……構ってほしいから悪さをする子供のような、羨ましくてねたんでいるような、そんな感じだった。 「寂しいなら、言ってくれればよかったのに。……ううん、私がもっと早く気付いてあげればよかった」 黙り込んだルトオスに、椅遊はスッと歩み寄った。自分の前にまで歩いてきた椅遊を、ルトオスが無言で見返すと、彼女は『彼』に優しく微笑んだ。 「私がお友達になるよ。ルトオス」 ≪……何?≫ 「私なら、貴方の声も聞けるし……寂しくないよね?」 自分の胸に手を当て、椅遊は言った。予想の範疇を超えていた椅遊の発言に、ルトオスは唖然と椅遊を凝視する。 ——やがて、緩やかに、その口元に小さく笑みが浮かんだ。今まで無表情だったルトオスの笑みを見て、椅遊が逆に驚くと、『彼』はおかしそうに言った。 ≪フン……本当に、不思議な娘だな、貴様は。むしろ愚かしいとも言える。誓継者とは言え、人間の分際で、余の友人になる?実に馬鹿げた話だ≫ 「……そうなのかな……」 冗談か何かのように受け止められているらしく、ルトオスは随分と楽しげに笑っている。 確かに、自分とルトオスは根源から違う存在だ。やはり無理なのかと、椅遊は少し残念そうな顔をしてから、今度はバルストを振り返った。夕鷹の顔をした王の、相変わらず怖いその視線に負けないように、その金眼を強く見つめて言う。 「バルスト、貴方も、お友達だよ。私、まだ貴方が怖いけど……貴方は、夕鷹でもあるから。もうお友達だよ」 ≪我が部位に戻ってきた感情部は、本来の役割に戻っている。すでに奴ではない。つまり俺は夕鷹とは違う。感情部は、ルトオスの言う通り、俺のようなものだ。心は……俺を形成する……っ……?≫ ≪……混乱しているようだな≫ 淡々と答えていったバルストの言葉が、途中からおかしくなり始めた。それに自分で気付いたバルストも、だんだんと自分が何を言っているのかわからなくなってきて、頭を抱えて言葉を止める。 ——ふと、椅遊はそれに気が付いた。 先ほどルトオスは、理性がバルスト、感情が夕鷹だと言っていた。そして、感情部がバルストの心だとも。 つまりそれは……、 「待って……感情部、夕鷹がバルストの心なら、最初から夕鷹は、バルスト本人だったってことじゃない?だって、理性よりも感情の方が、その人の人格を作るはずでしょう?ねぇ、答えてバルスト……ううん、夕鷹!!」 ≪違う!! バルストは夕鷹とは別人格だ!俺は俺のっ…………うあぁああああッッ!!!≫ 「っ……!」 混乱が頂点に達したバルストが、咆哮すると同時に椅遊に向かって跳んだ。振り上げた拳に聖力が集まったり散ったりしている。さっきの無表情は崩れ、ひどい動揺を浮かべたバルストは、その拳で椅遊に殴りかかる。 椅遊には、その姿は速すぎて見えなかった。はっとした頃には、バルストが目の前にいた。 ≪相手を選ぶことだ≫ 反射的に下がろうとした椅遊の前に、横からルトオスが踊り出た。瞬間、『彼』から膨大な魔力が放たれ、とっさに聖力で壁を作ったバルストを難なく弾き飛ばし、強制的に後退させる。 離れた暗闇に宙返りして着地した、愕然とした表情のバルストを見て、椅遊を背にかばったルトオスが静かな口調で言う。 ≪落ち着くがいい、バルストよ。貴様、誰に手を上げていると思っている。この者は、我が誓継者であり、友人だぞ≫ 「ルトオス……」 ≪その上、椅遊は貴様の仲間でもあるだろう。その相手を殺めるつもりか。……フン、我ながらくだらぬ言葉だ≫ 「そんなことないよ!ルトオス……ありがとう。私、嬉しい……!」 自分を鼻で小さく笑ったルトオスの後ろで、椅遊は強く首を横に振って、本当に嬉しそうに笑った。 さっきの「友達になる」と言うのは、受け流されたと思っていた。しかし、実は密かにちゃんと受け止めてくれていたことに、胸がいっぱいになった。 ルトオスとは友達になれた。なら、あとは……、 椅遊がルトオスの後ろから前を覗き込むと、バルストは、着地したところで膝をついて、うな垂れていた。抜け殻のように大人しくなったバルストに、ルトオスが声をかけた。 ≪少しは頭が冷えたか、バルスト。……否、夕鷹と呼んだ方が良いか≫ ≪………………≫ ルトオスは、『彼』を別の名で呼んだ。なぜかひどく緊張して、いつの間にか、ぎゅっとルトオスの服を掴んでいた。 その呼び名を訂正することもなく、バルストは顔を上げた。さっきまで冷たかった金瞳は、急に弱々しくなっていた。 ゆっくり立ち上がった夕鷹は、自分の手のひらを見つめて、噛み締めるように呟く。 ≪……俺は……夕鷹、でもあるんだな……≫ 「……バルスト……」 ≪俺の中には、二人いる。いや……部位が違うだけで、根は一人だ。対岸から、奴が言う……椅遊を守れと。ルトオスの言う通り、俺は、その言葉以外の感情を、心をすべて否定していた。けどそれは……俺自身を否定することにもなっていたんだな……≫ 葛藤の時に生じる、2つの対立する感情。夕鷹とバルストは、それとよく似た関係だった。 心の夕鷹と頭のバルスト。当然ながら、バルストの方が力が強い。だからバルストは、「椅遊を守れ」という言葉以外の夕鷹を一方的に抑圧し、効率をとった。 しかし、その人の性格を構成するのは、処理するだけの頭じゃない。何かを感じる心のはずだ。 ——バルストは、その金の瞳を閉ざした。 そして……小さく肩を揺らして、笑い出した。 ≪……はは……なんだ。そっか。俺が、ほとんどバルスト本人だったんだな……くだらないことで悩んでたんだな、俺≫ 「……え……?」 ≪普通は、感情が訴えることを理性で制御する……俺は、理性で感情を殺してたんだ。心は否定するモンじゃないな。わけわかんなくなるし、何言ってるか自分でわかんなくなるし。要するに、結局、心には嘘はつけないってことか≫ よく知っている口調で、声で、紡がれる言葉。椅遊が呆然と、菫色の髪の青年を凝視すると、彼は……微笑んだ。 泣き出しそうな笑顔で微笑んだバルスト——夕鷹は、言った。 ≪や、椅遊。さっきは、パニクってごめん。……まだ怖い?≫ 「……っ…………怖く、ないっ……こわく……ないよ……っ」 困ったような様子で言う、見慣れた笑顔。——それを見て、今までずっと張りっ放しだった緊張の糸が切れた。 そこに突っ立ったまま、ポロポロ大粒の涙をこぼし出した椅遊を見て、ルトオスが横の方へズレながら、自分の手前に魔術陣を開く。その陣から紫色の糸が、刹那の速さで夕鷹に伸びていく。 ≪へ?わわっ!?≫ その糸は、あっという間に夕鷹の両腕に巻きついたかと思うと、問答無用で彼をぐいっと引っ張った。魔力の糸に引っ張られて、夕鷹は強制的に二人の前に連れてこられる。 魔力の糸が消滅するのを見てから、夕鷹は頭を掻いて、距離が近くなったルトオスを見た。 ≪あーもう、なんなんだよ〜≫ ≪貴様が自分から近寄ってこなさそうだったのでな≫ ≪むむ……確かに、ちょっとどーしよっかな〜っては思ったけど……≫ ≪ならば感謝するがいい≫ ≪相変わらず、態度でけぇなぁ……≫ 遥か昔から、ルトオスはこうだ。いつも通りの傲慢な態度のルトオスに、夕鷹は苦笑いして言った。 「夕鷹っ!!」 ≪うわっと!?≫ それから椅遊に視線を移そうとしたら、それより先に、椅遊が突然抱きついてきた。よくわからず目をぱちくりさせる夕鷹のアゴの下で、しゃっくり混じりの椅遊の声がする。 「夕鷹……よか、った……よかった……っ……!」 怖かった。寂しかった。悲しかった。つらかった。 そんな想いの反動で、ぎゅうっと強く抱きついたまま、椅遊は止めどなく泣いていた。 目の前で、まるで幻だったかのように消えた夕鷹。 その代わりに解放された、彼の顔をした冷たい瞳のバルスト。 だから、もう……彼はいないのだと、そう思っていたから。 しばらく抱きつかれたまま呆然としていた夕鷹は、やがてゆっくり片手を上げると、ポンポンと椅遊の頭を撫でて笑った。 ≪……俺もびっくりだ。死んだと思ったのに、まだ生きてる。しかも実は、バルストの一部分だと思ってた俺が、バルスト自身でした〜なーんて展開になって……俺、嬉しくて泣きそう。ほんとに≫ ≪フン、その間の抜けた面のどの辺がか、具体的に述べてみるがいい≫ ≪顔じゃなくて中で嬉し泣きしてるんだよ。ほんとだって≫ 傍に立つルトオスの冷ややかな言葉に、夕鷹が苦笑いすると、どうやらひねくれた性分らしいルトオスは、≪どうだろうな≫と鼻で笑った。 しゃっくりなどで時たま小さく跳ねる椅遊の頭を、ゆったり撫でながら、小さく微笑んだ夕鷹は、誰にともなく言う。 ≪……俺、バルストのために生かされてるようなのが嫌だったんだ。生きててもしょうがないって思ってた。けど、俺自身がバルストって聞いて……なんか馬鹿らしくなっちゃったな。何悩んでたんだろ、俺≫ ≪何千年か損してたよなぁ≫と呆れたように笑い、夕鷹は、少し落ち着いてきた様子の椅遊の肩を掴んだ。ただただ溢れる涙を流している彼女に、夕鷹は言い聞かせるように、笑顔ではっきり言った。 ≪俺がここにいるのは、全部椅遊のおかげだ≫ 「…………え……?」 涙さえ流すのを忘れ、わけがわからずポカンと自分を見つめ返す椅遊。夕鷹は≪うん≫と頷いた。 ≪椅遊が気付いてくれなきゃ、多分俺は、理性で自分を殺してた。一応、理性がバルストだけど……すっげややこしいけど、アイツも俺だから。自分で自分を殺すことになってたと思う。だから、ありがとな≫ ≪……そうだな。それは余も同じだ。余は感情には疎いゆえ、己が嫉妬や寂しさで動いていることはわからなかった。感情を否定していた余にも、感情らしい感情があったなどと滑稽な事実に気付いてくれたこと、感謝するぞ、椅遊よ。気付かずにいたならば、余は貴様を躊躇なく殺していただろう≫ 「……ほん、とうに……?」 夕鷹の言葉に同意して、ルトオスも横からそう言ってきた。涙を拭って、椅遊が二人の王を交互に見て問うと、≪もっちろん≫≪偽りなど言わぬ≫と同時に返ってきた。 ——みんなを守りたい。助けたい。でも、何も守れなかった。……そう思って落胆していた自分に、彼らはそう言う。そう言ってくれた。 「……うんっ……どう、いたしまして……!」 二人の言葉を聞いて、ふわりと、椅遊の顔に微笑が浮かんだ。涙目で、彼女はただ嬉しそうに微笑む。 私は……二人を助けてあげられた。あの召喚も成功しなかったから、世界も守れたことになる。 ……なら……それだけで嬉しい。私は……誰かを守れたんだ。 温かい気持ちで椅遊が夕鷹を見て、それからルトオスに目をやると、白い『彼』の顔が一瞬霞んだ気がした。え?と思って凝視するが、それはもう起こらない。しかしルトオスは、自分の手のひらを見て呟いた。 ≪……そろそろ限界が近いようだ≫ 「……限、界……って、どういうこと……!?」 嫌な予感を察した椅遊が問い詰めると、ルトオスは視線を上げ、銀の瞳で椅遊を見据えた。何処か言いづらそうに沈黙を置いてから、ルトオスは口を開いた。 ≪……椅遊よ。誓継者としての貴様に、対価を要求しなければならぬ≫ 「え……!? 完全版の召喚は、されてないはずでしょう?どうして……?!」 ≪今までのツケだ。4度目は神の牽制により不発だった故に、勘定しない。余が要求するのは、2、3度目の召喚の分だ。3度目は、ひとまず抑止力を奪ったが、空界の魔術如きでは足りぬ。2度目は、夕鷹に邪魔されて強制送還された回だ≫ ≪あ〜、初めて椅遊に会って、楸に追っかけられて逃げてた時のかぁ……≫ 夕鷹が懐かしそうに言い、頭を掻いて申し訳なさそうに椅遊を見た。まさかあの時の代価が、今頃になって請求されるなんて思ってもなかった。 ルトオスの思わぬ言葉に、声も出せずに驚愕する椅遊。そんな彼女に、ルトオスは諭すような静かな声で言う。 ≪聖と魔の守護者への信仰が薄れ行く今、余らは、過去ほどの絶対な力は持っていない。故に、いかに余とは言え、対価なしにあれほどの力を振るえば魔力が尽きる。存在を維持し切れなくなる≫ 「……私が、等価交換に背いたから……そのせいで、貴方が消えてしまう……?」 ≪……対価は、今までと同じだ。貴様の、今までの記憶すべて≫ 泣き出しそうな顔になった椅遊を見てみぬフリをして、時々霞んだりするルトオスは、何処となくすまなさそうな様子で言った。 今の自分の記憶が、対価。 夕鷹達と過ごした日々を覚えている、今の自分の記憶が、対価。 つまり——それを差し出したら、自分は忘れてしまう。 夕鷹の笑顔や、六香とのお喋りや、冷静な梨音の姿や……彼らのことを。 ルトオスと友達になったことも、夕鷹を助けてあげられたことも、記憶を奪われたことさえも。 ——優しい、大切な、大切な想い出。 忘れたくない。でも、その代わりにルトオスが消えてしまう。 まだ友達になったばかりなのに、消えてしまう—— ≪……えーっと……あのさ、ルトオス≫ 考え込んでしまった椅遊の横から、この悲しげな空気を裂くように、夕鷹がひらっと手を上げてルトオスに話しかけた。こちらを見たルトオスに、夕鷹は……何処となく不敵に笑った。 ≪俺、さっき混乱して言ってたけど、でもあの話、割と本気だから≫ ≪どの話のことだ≫ ≪『お前を消せば、椅遊がお前の召喚に悩まされることがなくなる』、って話≫ ≪………………≫ 「えっ!?」 夕鷹が躊躇うこともなく言い放ったその言葉に、椅遊がびっくりして彼を見た。その夕鷹の見る先で、ルトオスは悟ったような沈黙で彼を見返す。 ≪俺は元々、お前から椅遊を解放させたくて、椅遊に手を貸したんだ。けど、椅遊の体が生粋な魔力ってんじゃ、俺は干渉もできないから書き換えなんてできないし。ってなると、やっぱ根源のお前を潰すしかないっしょ?≫ ≪フン、貴様に余を消せるとでも言うのか?まぁそれは、逆にも言えることだがな。いくら余が弱っているとは言え、ここは魔の領域だ。貴様の勝ち目は薄いぞ≫ ≪うん、だろーね。多分、俺も力使い果たして消えちゃうな≫ 「え……!?! だ、ダメ!二人が消えちゃうなんて……そんなのダメだよ!!」 夕鷹の軽い口調が紡いだ、聞き捨てならない一言。椅遊はガシッと、夕鷹とルトオスの服を両手でそれぞれ掴んで、ブンブン首を左右に振った。 交互に二人を見ると、ルトオスは少しだけ驚いたように目を丸くしていた。一方、夕鷹は、こちらの反応がわかっていたかのように、笑いかけてきた。 ≪空界の人達が俺らを信仰しなくなったってことは、もう、俺らは役目を終えたってことなんだよ。だったら、脅威はサッパリ消えるべきっしょ?≫ ≪……一理あるな。遅かれ早かれ、人々の信仰が完全に途絶えれば、余らは消え行く。その日はそう遠くないだろう。……それに余らはもう、純粋なる守護者ではなくなっている。確かに、潮時かもしれぬな≫ 「……そんなこと、言わないでっ……私、貴方達と、一緒にいたいよ……!」 せっかく友達になれたのに。せっかく再会できたのに。 また……いなくなってしまうの? 自分の服を掴む椅遊の手をやんわり離し、夕鷹はその手を両手で握った。 温かな、自分より小さい手。きっと——自分達を繋ぎとめてくれる手。 先刻は嬉しさに。今は悲しみに再び泣き出す椅遊に、穏やかな笑みを浮かべて、まるで父親が子に諭すように夕鷹は言う。 ≪大丈夫だよ。椅遊が覚えててくれれば、きっとまた会える≫ 「うそっ……!やだよ、ゆたかっ……!!」 ≪嘘じゃないよ。人達の思想が、形になる世界なんだぞ?椅遊が会いたいって思っててくれれば、また会えると思わない?俺は、そう信じてるから≫ 「…………っ……」 涙をポロポロこぼしながら、椅遊は優しく微笑んだ夕鷹を見た。温かい金の双眸は、キラキラ煌いて綺麗で。 守護者の二人。人々の思想が、彼らを生んだ。 二人にとって、人々の信仰が生命。命綱。 ——自分の思念は、ルトオスに届き、自分は『彼』と同調した。 つまりそれは、想いは、確実に思想の存在に届くということ。 それなら…… 「……わたしも……信じてるっ……」 つっかえる喉から、掠れた声を絞り出して、椅遊は泣く。 「わたしが……私がっ、貴方達を、絶対に……繋ぎ止めるからっ……!!」 ……消させなんてしない。 人々の想いが貴方達の存在を維持するのなら—— 私は、ずっと願う。 バルスト、ルトオス……貴方達に、会いたい。 ただ、それだけを。 言葉とは裏腹に、心は素直で、涙は止まらない。それでもそう言い切った椅遊に、夕鷹は≪よろしい≫と、彼女の頭に手を置いた。 瞬間、椅遊の足元に小さな白い陣が広がった。夕鷹の組み上げた聖術の陣の外円から白い壁が構成され、動揺してこちらを見る椅遊の姿をあっという間に覆い隠す。椅遊を呑み込んだ白い壁は、彼女もろとも小さな光になって消えた。 魔界の一部に聖力で穴を穿ち、そこから椅遊を空界に転移させた夕鷹は、残滓の細かな光を眺めてから、ルトオスを向いた。 ≪……貴様はそれで良いのか、夕鷹よ≫ 別れの言葉も満足に言っていない夕鷹に、今まで黙って二人のやり取りを見ていたルトオスは問う。 思いもしない人物の気遣いに、夕鷹は苦笑した。感情に疎いはずのコイツに心配されるなんて、妙な気分だ。 ≪んまぁ……確かに、消えたくないっては思うけど。でも、椅遊に忘れられちゃうよりは、コッチの方がいーかなって。お前こそ、いいの?椅遊と友達になったばっかなのに≫ ≪構わぬ。貴様と違って、余はこの魔界にずっといたからな。存在していようがしていまいが、大して代わりはない≫ ≪確かに、暇そうだよなぁ……お前も、また椅遊に会えたらいいな≫ ≪…………期待はしない。しかし、また邂逅できることを願うとしよう≫ 思想から生まれた存在が、それだけのことを願うなんて、我ながらおかしかった。夕鷹が笑って言ってきた言葉に、ルトオスも小さく笑って言った。 夕鷹からは白、ルトオスからは紫の、湯気のようなものがゆらりと二人の体から立ち上る。 夕鷹はふーっと肩の力を抜いてから、ずっと屹立しているルトオスに言い放った。 ≪そんじゃ……ルトオス。派手にバトってサッパリ消えよーぜ!!≫ ≪いいだろう、夕鷹よ。聖魔闘争でしてやられた分、受けるがいい!!≫ 聖と魔。二人の王は、ただ一人を信じて、己が力を解き放った。 …………………… ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ 心地よい柔らかな音が、世界を揺らす。 たおやかな手つきが紡ぐ、彼女が今、即席で奏でる音色。 魔界の門がサァっと、下から銀の雪になって散っていくのを見上げて、曲を奏でながら、天華玻璃は微笑んだ。 「お疲れ様、ルトオス、そしてバルスト。……いえ、夕鷹さん」 蒼いセミロングの髪が、ふわりと風にそよぐ。微笑んだまま紫瞳を閉じ、玻璃は嬉しそうに呟く。 「バルストの心の貴方が生まれたのは、私の夢にも刻まれていない、間違いなく奇跡の出来事です。貴方の存在自体が、予定運命外でした。本当に、こんなに嬉しいことはありません。ささやかですが、私からプレゼントを捧げます」 ハープの弦を爪弾き、彼女は祈る。 「貴方に、この聖なる歌を。どうか、貴方の未来がありますように———」 ←Back ↑Top Next→ |