→→ Pastoral 9

 死は、いつか来るって、知っていた。
 だから、彼女が死んだ今も、そんなに気落ちしなかった。
 最初から、そのことを知っていたかのように。——実際、知っていた。

 命は、あまりに呆気なく。運命は、あまりに残酷で。
 死は、あまりに近すぎ。祈りは、あまりに儚くて……



 だから、なのか。
 ——涙が、出ない。



 恋人が死んだのに悲しくないのだろうかと、囁かれていることを、知っている。
 悲しい……って、何だろう。
 自分を支配したのは、そんなものより、虚脱感。
 彼女が傍にいない——その、物足りなさ。欠けたモノ。


「サレス」


 ……名前を呼ばれて、自分がボーっとしていたことに気付く。ゆっくり振り返ると、黒ずくめの青髪の魔族が立っていた。


「ダグスが要求を聞いてきた。何て答える?」


 あぁ、そうだ……あの短くて長い戦争は、終わったのだと。ぼんやりした意識で、サレスは改めてそう思った。





 悪夢という言葉で括れないほどの、悪夢だった。
 きっと、歴史上、最も短い戦争だったに違いない。しかし、失われた命の数は、ずっとずっと多くて。

 たくさんの人が死んだ。たくさんの人を殺した。
 シェイも、ナタも、そしてリリアも……みんな、死んだ。

 〈ヘル〉によって、強制的な死が招かれた後。驚くほど早いうちに、ダグスが白旗を揚げた。
 恐らく、こう思ったからだ。あの大軍勢のほとんどを、一度に殺してしまった化物を飼っているフィルテリアには、勝てないと。
 ——つまり。東の小王国フィルテリアは、西の大帝国ダグスに勝ったのだ。
 国民達や兵士達は喜びの声を上げ、軍の指揮官であるサレスを、そのまま国王にと要望した。別に構わなかったから、頷いた。
 そして、2週間経った今に繋がる。投降したダグスは、その『化物』の怒りに触れないうちに、要求をのんでおこうとしている。


「……そっか……どうすれば、いいかな……」


 ラシルカの問いに、サレスは何も考えず、ただぽつりとそう口にした。
 ココに、シェイがいたなら。きっと、すぐにいい案を出しただろう。それも、ダグスにもあまり負担をかけない案を。
 だけど……彼は、いない。


≪ダグスのウィオール地方を譲渡してもらえば良い≫
「……ルーディン」


 足元からした声。サレスが下を見ると、いつの間にか自分のすぐ横に、黄金の毛並みを持つ虎がいた。
 〈金虎〉ルーディンは、ラシルカを見上げて言う。


≪ウィオールには、ダグスで最も規模の大きい鉱山がある。加えて、フィルテリアとの国境に近い≫
「ウィオールを押さえておけば、ダグスの戦力が削げる……か。確かに、《グレシルド》も造れなくなるだろうな。……どうする?」
「……うん、じゃあ……そうしよう」


 ほとんど勧められるまま頷いたサレスを、ルーディンが気遣わしげに振り向いた。


≪サレス……≫
「哀しくは、ないんだ……はは……何でだろうね。……なんだか……カラッポなんだ。頭の中も……心の中も……」


 引き攣ったような笑いを浮かべたサレスを見た途端、ひどく感情的なモノが込み上げたのがわかって。
 ——次の瞬間、気が付いたら、その頬を思いっきり殴っていた。
 気の張り方も、俊敏さも、素人以下。まともに食らったサレスは、よろめいて、ドサっとそこに座り込んだ。彼は呆然と、驚いた顔で親友を見上げた。


「不幸なのはお前だけじゃない」


 いつも冷静すぎるほどに冷静なラシルカが、暗い怒りを宿した金の瞳でサレスを見下ろし、低く言い放った。
 ……そうだ。ラシルカだって、旧友を手にかけた。ナタを失った。それに、仲間であったリリアとシェイが死んで、悲しくないはずがない。
 それに、恋人を失った者なんて、兵や兵の家族の中には大勢いるだろう。
 そう、自分だけじゃないのだ。自分だけじゃ……


「…………そんなの……わかってるよ……」


 うつむいて、震える声で言った。
 わかっている。そう、わかっている。でも、わかっているだけ、、

 この痛みは、自分にしかわからない。「リリア」という恋人を、失った痛みなんて。
 それと同じく、自分には、恋人を失った他人の痛みなんてわからない。この痛みとその痛みは、同じじゃない。
 きっと、リリア……君にも、わからない。
 僕を残して笑顔で死んでいった君には、僕の痛みなんてわからない。





 ………………はっとした。
 今、自分は……何を考えた?


「……っ!!」
「……サレス?」
≪どうした?≫
「うッ……」


 泣きそうな顔をしたと思ったら、サレスは口を押さえ、立ち上がって突然走り出した。後ろから二人の声が追ってきたが、それさえも聞こえないまま。

 ……最低だ。
 結局は、すべて自分が悪いのに。リリアは悪くない。彼女は、命をかけてまで、自分にできることをしただけなのに。
 ひどい自己嫌悪に吐きそうになって、逃げ出した。





 駄目だ。すべてが灰色に見えてくる。
 君といた時は、もっと輝いていたはずなのに。

 まずい。自分が音を立てて壊れていくのがわかる。
 わかっていても、歯止めが利かない。安定を失ったモノは、崩れていくしかない。



「—————死のう」



 口を勝手に突いて出た言葉に、電撃が走るような衝撃を受けた。一体それは、何の導きだったのか。
 いつの間にか、軍基地から飛び出し、外の荒野に立っていた。寂しげな大地に立ち尽くし、サレスは地平線を見て——いや、向いていた。

 ……そうだ。何で気付かなかったんだろう。
 死ねばいいじゃないか。
 あぁ、そうだ。死ねばいい。こんな最低な自分なんて。
 壊れる前に死ねばいい。僕が僕であるうちに。

 研究者であるが故に、死んだら天国で彼女に会えるとか、そんな根拠もない伝説信じちゃいない。
 ただ自分が無に帰る。事実は、それだけだ。
 しかし……、


 ———…………幸せだから


 続いてフラッシュバックした声は、何の導きだったのか。


 ———君が笑っていてくれるなら、わたしはそれだけで幸せだから


「……笑、う……?」


 血に塗れた彼女が、微笑んで言った言葉。ぼんやり呟いて……絶望した。

 笑うなんて、死んだらできない。

 彼女は……生きろというのか。こんな、壊れかけた人間に。


「…………は……はは、はははは……」


 力ない笑いがこぼれた。狂ったような笑い。
 わかっている。彼女が求めているのは、こんな笑顔じゃないと。


「そうか……」


 ——悟った。
 リリアを殺し、ナタを殺し、シェイを殺し、無数の敵兵を転生も許さず消し飛ばした己の大罪。
 それに対する罰なのだと。「神罰の運び屋」に……罰が落ちたのだと。


「……僕に下った罰は……生き地獄か……!」


 壊れかけた自分に、その苦しみを抱いたまま生きろと。
 そして自分が壊れても、そのまま生き続けろと。


「傑作だ……!」


 狂った笑い声が、誰もいない、、、、、戦場に響き渡る。


 ……………………





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 ……笑い声が聞こえた。
 狂ったような、壊れたような、おかしな笑い。

 無視しようと思ったが、存外その声が近い。閉ざしかけていた意識を奮い起こし、視ると、人影が1つ、自分の近くにあった。さらに視覚を研がせると、姿が見えるようになる。

 影は、そこに膝をつき、響かせるように天を仰いで笑っていた。
 羽織った深紅のマントと対を成すような、色素の薄い青年だった。薄く水色がかった白髪の間から覗く、見開かれた浅葱色の瞳は、ひどく虚ろで。
 人間。……いや、この潜在魔力の多さは……イーゲルセーマか。しかも、随分と大きい器を持った。


 ……なぜ、笑っている?—————


 気が付いたら、話しかけていた。その思念こえは青年の頭に直接響き、彼の笑いが、ピタリと止んだ。
 青年がキョロキョロと周囲を見渡し、やがてコチラに気付き、驚いた顔で振り返る。その瞳に映ったのは……手のひらくらいの大きさの、弱々しく輝く金の光球。

 その金の光が、ただの光ではないと、すぐに悟った。濃厚な聖力が渦巻く、この存在——。


「…………君は……聖王、バルスト……?」


 青年——サレスは、魅せられたようにその光を凝視した。


「なんで……こんなとこに?魔王との戦いは……?いや……聖と魔のぶつかり合いがなくなったから、終わったのか……」


 ぼんやりと、一人で呟いていくサレス。先ほどのバルストの問いも頭に入っていないようだ。
 壊れかけた魂。


「なら、魔王は……どうしたの?それに……君は、何でココに……?」


 そう言って、サレスは黙り込んだ。……どうやら、コチラの返答を待っているらしい。初めてサレスが、返答を求めてきた。それに対してバルストは、静かに答えた。


 あるだけの聖力を引き出し、奴を魔界に封じた。今後、空界に現れることもない—————


「魔界に、封じた……?じゃあ……君の勝利?」


 否。我は、力を使い果たした。いずれ、このまま消えていく—————


「……消える?」


 直接頭に響く、バルストの思念こえが紡いだその言葉に、サレスは敏感に反応した。
 消える?消えるって?聖王バルストが、消える?


  『バルスト様は、悪い人じゃないよ。ルトオス様も。だって二人は、私たちの思想から生まれた、私たちの子供なんだもの』


 生前、リリアはそう言っていた。皆がバルストを嫌う中、彼女だけは、そう言って微笑んでいた。
 そんな彼女が慕っていた、バルストが……消える?


「—————許さない」


 その低い声は、一体、誰のための言葉だったのか。


「このまま消えるなんて、許さない」


 リリアは、君を慕っていたのに。
 僕は、死ねないのに。
 消えるなんて許さない。
 罰だ。僕と同じ、生き地獄だ。

 ……あぁ、また、他人に責任を押し付けて。
 自分が本当に、本当に……嫌だ。
 死にたい。死にたいよ、リリア……。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 その日から、サレスは姿を見せなくなった。
 自分の部屋に引きこもりっぱなしになり、食事の席にも現れなくなった。どうやら何かの研究に没頭しているようだった。
 いつか衰弱して倒れてしまうような気がして、何度か部屋を訪れていたら、そのうち鍵を掛けられた。それを盛大にブッ壊してやったら、諦めたのか、サレスは自分を拒まなくなった。


「サレス、メシだ」
「ん……置いといて」


 片手に夕飯が載ったお盆を持って、ラシルカは部屋に入った。大量の紙が積み上げられた机の上に広げられた大きな紙を睨んだまま、サレスはそう言う。
 ラシルカは無言で、部屋のソファ近くのテーブルにお盆を置き。スタスタとサレスの横まで歩いていったかと思うと、ばっと、幾何学模様の描かれた机の上の紙を取り上げた。


「あっ……!」
「メシだ」
「返せよ!」
「先に食え」


 リリアを失ってからのサレスは、別人のように反応が鈍い。紙はあっさりラシルカの背後に回された。
 まるでオモチャをとられた子供のようなサレスに、ラシルカは溜息混じりに言った。こうでもしないと、サレスは食事もせずに研究を続けるから、仕方なく面倒を見てやっている。
 サレスは、ラシルカを睨みつけた後、しぶしぶソファの方へ歩いていった。どうせ返せと言っても、ラシルカは返してくれない。それで時間を無駄にするくらいなら、大人しく従った方が利口だ。


「………………」


 座って夕飯を食べ始めたサレスを見てから、ラシルカは手に持っていた紙に視線を落とした。
 魔方陣。ただ、まったく見たことのない、奇抜なデザインをしていた。魔術にはあまり詳しくないが、恐らく、サレスお得意のオリジナル魔術を構築しているのだろう。呪術を参考に構築しているらしいから、厳密には魔術ではなく、呪咒アバルゲと言う名の呪いの部類らしいが。
 そして、コレが何の魔術なのか——ラシルカは、知っている。

 すべては、部屋の隅にいる、、、金の光。

 以前、何を研究しているのか聞いてみたら、サレスは隠すことなく答えてくれた。


  『人間の作り方』


 それは、あっさり告げられたからこそ、現実味をまったく帯びていなかった。


  『……でも……命を作るわけじゃない。命は……<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>が作った人型の術式と、1つの魂から構成される……人工的に作った命には、魂が足りない』

  『僕が、作ろうとしてるのは……人型。……<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>みたいに、魂と同調して成長していく時制の術式を刻み込むのは……無理だろうけど……』


 何に使うつもりなのかと聞くと、サレスは部屋の隅の金の光球を指差した。


  『型を……あげようと思って……』


「………………」


 ——金の光。聖王バルスト。しかし今、あの闘争で弱っていて、そのうち消えてしまうらしい。
 それを防ぐために、サレスはバルストを、聖力で作った型に入れ、その中で『彼』の力を少しずつ回復させようとしている。
 しかし、生物の体は基本的に、大半が魔力で構成されている。聖力は、ほんのわずかでしかない。その、わずかしか宿せないはずの聖力だけで人型を構成する術式を研究しているのだ、サレスは。



 しかも、神が詠み、世界に刻んだとされる、聖王と魔王の創生から終末の17の予言——『聖と魔の予言神話ガリカエス』の時効が来たらしい。一般的に神話書と呼ばれる形なき神典だ。
 『聖と魔の予言神話ガリカエス』は神の力で刻まれており、また、その力を帯びている。故に、《ガリカエス》の一節は、神の力の片鱗。
 その大いなる力の一端を掬い上げ、詠むことで、己の聖力・魔力と同調させ、その力の形を現に喚ぶもの。それが、魔術。サレスの祖先——イーゲルセーマ族が構築した現象だ。

 その宿る神の力は、『聖と魔の予言神話ガリカエス』が有効な間しか効力がないと伝えられていた。
 『聖と魔の予言神話ガリカエス』では、魔王が魔界に閉じ込められるまでしか予言していない。つまり、それが現実になった今、《ガリカエス》は無力となり、そして、その力を元にしていた魔術も、理ごと呆気なく崩壊してしまった。
 サレスは、その魔術の力の源や理を、逐次、試行錯誤しつつ再び自力で構築し、作り変えながら、研究を進めている。恐らくサレスでなければできない芸当だ。



 確かにバルストが消えたら、世界の均衡が崩れ、大変なことになるだろう。しかし、サレスは……もっと別の理由で動いているように見えた。
 憑かれたように研究に没頭するサレス。
 異常なまでのバルストへの執着。
 ……心を何処かに置き忘れてきたような自分が、恐れていた。その理由を聞くことを。





 ——なんてことはない。忘れていただけなのだ。
 光と闇は、
 聖と魔は、
 愛と憎は……いつだって表裏一体で、ちょっとしたきっかけで反転するのだと。





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 そして、月日は流れ…………





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 いつものように、夕飯を片手に、廊下を歩く。
 いつものように、サレスの自室のドアを、ノックもそこそこに開く。
 いつものように、机に向かっているサレスに声をかけようとして……


「……サレス?」


 ……今日は、違った。机のところに、サレスの姿がない。
 部屋を見回して、人影を見つけた。

 ソファに座っていた。虚ろな目で、正面を見つめている。
 ラシルカが来たことに気付いたらしく、金の瞳、、、がコチラを向いた。

 ……初めて見る顔だった。年は、18歳前後に見える。頭部を飾る菫色の長い前髪の間から、意志の欠けた金の瞳が彼を見据えていた。
 ——金眼。先天的に聖力の強い者が宿す、稀有なあかし
 自身も金眼であり、その事情をよく知っているラシルカは、驚くと同時に、ストンと納得していた。


「……バルストか?」


 彼は、兵士達が鎧の下に着ている服をまとっていたが、将軍という地位故に兵達をよく見るラシルカも、こんな顔は見たことがなかった。何より、決定的なのはその金眼だった。


「…………そうだ」


 沈黙の後、菫色の髪の青年は、静かに口を開いた。重々しい口調とは裏腹に、少し高音の声だった。
 ラシルカが何者なのか知らないが、自分の正体を当てたところを見ると、恐らくサレスから事情を聞いた者なのだろうと、青年は冷静に推理した。
 手のひらを見つめ、握り締める。それから辺りを見て、青年は、ラシルカよりもずっと平坦な口調で言う。


「この型は居心地がいい。しかし、意識がひどく狭い。感覚は5つもあるというのに、なぜ、こんなにも入ってくる情報が少ないのか……精々、把握できてもこの空間だけだ。体を持つというのは、不便だな」
「……全知だろうが何だろうが、意識は1つだろう。世界中のすべての事情を知っても、それに対応できる数の意識は持った存在はいない。なら、把握できる世界が狭い方が気が楽だろう」
「……なるほどな。それは一理ある。だからこそ、人は目の前のことにまっすぐなのか……」


 納得したように呟く青年の声を聞きながら、ラシルカは、ソファ近くのテーブルに夕飯をお盆ごとを置いた。すると青年が、物珍しげな様子でその上に載っていたスープとピザを覗き込んで。


「コレは……何だ?」
「…………食べ物、か……?」


 そういえば……彼は、食を知らない。ピザとスープと答えてもわからないだろうと思い、悩んだ末にそう答えた。
 すると青年は、じーっとピザを見つめて……随分長い間を置いてから、声を発した。


「……なぜだか、妙だ。……苛立ち……?」


 不思議そうに言った後。
 ぐ〜……っと、青年の腹の虫が鳴いた。

 ……あぁ、なるほど。腹が減って苛立っていたが、本人はそういうのがまだよくわからないから、気付けなかったわけだ。
 しかも彼と来たら、腹の音に、はっと周囲をキョロキョロ見てから、警戒した声で、


「何の音だ……?」
「………………」


 ……いや、まだ人の体に慣れていないから、仕方ないのだろうが。なんだか阿呆っぽくて、ラシルカは答える気にもなれなかった。

 ガチャ、と、ラシルカの背後でドアが開く音がした。青年はそれにも敏感に反応し、しかし今度はしっかりドアの方向を振り向く。
 振り返るまでもなかった。サレスの自室に堂々と入ってくるのは、サレス本人と自分以外に……すでに、いないのだから。


「あ……ラス、ココにいたんだ……探したよ」
「探した?」
「うん……話したいことが、あって……」


 サレスの方を向きながら、ラシルカが言外で理由を聞き返すと、サレスは小さく頷いて答えた。
 サレスが部屋にこもるようになってから、1ヶ月は経っていた。太陽の下にロクに出ない1月を過ごした彼は、以前より色素が薄くなったように見えた。地下に住んでいた頃は、これよりも白かったのだろうか。

 サレスは、どうやら本能的に「食べたい」と思っているらしい、ピザを見つめ続ける青年を一瞥して。


「彼、わかった……?」
「バルストか」
「うん……理が崩れてるせいで、思ったより……大分、時間食っちゃったけど。それで、さっき魔方陣から構築したんだけど……上手く行かなくて。……呪咒アバルゲをもう1つ付加して、ようやく落ち着いたんだ……」


 先ほど、あの大きな紙に描いていた魔方陣が完成し、発動させた。それによって聖力のみ宿した第一呪咒アバルゲソーンができ、早速バルストをそこに招いた。
 しかし、バルストという意識は、ソーンの意識の器には大きすぎたらしい。狭い意識の器に入った大きな意識は、器に入り切らず、あふれ、ソーンの体までも侵した。それに対してソーンが拒絶反応を起こし、そのままでは早くも死んでしまいそうで、急遽、意識を削る、、ことになった。
 ソーンの意識の器は、箱に例えるならフタがないモノ、袋に例えるなら口が開いているモノだ。つまり、その口を塞げば、バルストという意識の本流が途切れる。多少、無理やりだったが、それの口を、戒鎖ウィンデルという呪咒アバルゲで封じたところ、なんとか安定した。それと同時に、バルストも封印したことになってしまうのだが。


「でも、彼……自分がバルストだってことしか……知らないんだ」
「何?」
「多分……意識を封じちゃったのと、関係あるんだろうけど……」
「———我は、バルストのカケラほどもない感情部だ」


 二人が話していると、突然、淡々とした青年の声が会話に割り込んできた。二人が彼を見ると、ピザから目を離した青年は、彼らを見て続ける。


「我が、広大な意識を持ったバルストであることは知っている。しかし、それ以上のことはわからぬ。貴様は意識の器の口を塞いだが……隙間があった。そのほんの隙間から流れ出たのが、我……感情とも言えぬ感情部」
「自分のこと……わかるの?」
「当然だ。我は、全知であった存在の一部だからな」
「……つまり、君は……自分がバルストであることを知っているけど……バルスト本人では、ない……?」
「それは貴様の判断による」


 確認をとるように聞いてきたサレスの言葉に、青年は突き放すようにも聞こえる口調で答えた。
 つまり……バルストの記憶、思考は、すべて意識の器の中。転がり出てきた感情部は、何も知らない。人格は、記憶や思考から構成されるものだ。それを持たぬ感情部かれは、厳密に言えば、バルスト本人ではない。さしずめ、別人格と言ったところか。


「……それで、俺に何の用だ」
「あっ……うん」


 どうやら忘れていたらしいサレスが、ラシルカに言われ、彼を探していたことを思い出した。その途端、何処か寂しげな表情になったサレスを、ラシルカが内心で訝しむと、


「……外で……話すよ」
「……?」
「バルストも……一緒に。君にも……知っていてもらわないと、いけないから……」










 この季節は、太陽の日照時間が長い。いつもなら夕飯を食べている宵の時間だが、空はやっと茜色になったところだ。
 真っ赤な空。それは鮮やかで、美しくて。幸せな人間なら素直に見とれただろう輝きは、自分には鮮血を思わせるものだった。まるで、あのフィルテリア動乱を、遅ればせながら空が嘆いているようだった。
 自分ですらそう思うのだ。きっと今、目の前で、その空に同化しそうな深紅の背を向けたサレスには、もっとひどく見えただろう。


「……昔……ラスと戦ったこと、あったね」
「……そうだな」
「しっかり……覚えてるよ。ずっと……これからも……忘れない」
「……サレス?」


 ひやり、と冷たいものを当てられたような感覚に襲われた。
 その言葉は……まるで、別れを告げるようじゃないか。

 サレスは、天を仰いだ。赤と紺が絶妙なグラデーションを生み出している、境界。1羽の鳥が飛んでいた。アレは……鷹だろうか。この辺りに住んでいるのかもしれない。
 鷹は、昼行性の鳥だ。となると……夜と昼の境の今、あの鳥は、巣に帰る途中なのかもしれない。
 巣に……


「……聖界に帰ろうとしてる、君と同じだね……バルスト」
「何がだ」
「……何でもないよ。……うん、そうしよう」
「?」


 一人で納得して頷き、サレスは、ラシルカの横に立っていた青年を振り返った。虚ろな浅葱色の瞳が、真っ赤な空を背にして、小さく微笑んだ。


「君に、名前をあげよう」
「……名前?」
「真名は……絶対に、言わない方がいい。だから……今日から、君の名前は……『夕鷹』だ。夕暮れの……鷹」


 ——夕暮れの鷹。せいかいへ帰る途中の君には……ぴったりじゃないか。
 青年——夕鷹は、一瞬、キョトンとしたように間を置いて、


「ユタ……カ? ……構わんが」
「……発音しづらいな。漢名か」
「うん……エルフ族や……僕ら、イーゲルセーマは……大事なものには、漢名をつけるんだ」


 夕鷹と同じことを思ったラシルカが言うと、サレスはそう答え。そして、ラシルカの方に向き直った。ラシルカが彼を見ると、サレスは幾分か真剣な顔つきで、口を開いた。


「……前、少し話したかもしれないけど……。夕鷹には……人の型を与えた。だけど……本当に、形だけなんだ……」


 そう……形だけ。ずっと、年をとらない。外見が、変わらない——つまり、永遠に生き続ける。


「バルストの力の回復には……計算上、気の遠くなるような時間がかかる。でも、ソーンも、戒鎖ウィンデルも……自作の術だから、きっとそのうち不具合が出る……。だから僕は……夕鷹を、見守らなくちゃいけない。だけど……人の命なんて、永遠には続かない……」
「………………」
「だけど、1つだけ……方法があるんだ」


 ——それは、魔術の一部でありながら、呪咒アバルゲとされた禁術だった。
 歴史上、魔術の創造者を除き、二人ほどしか辿り着いたことのないという境地。術者の魂が、他人の命を喰らいながら永遠に生き続ける———第1章、『永遠転生輪廻の環』。
 しかも、生物の体にほんのわずかしか宿らない聖力で行使する魔術。つまり、聖術の分類だ。


「発動した途端……僕の魂は、この体から抜け出して……この世界の誰かに憑依する。そして、その人が死んだら……また、新しい誰かに憑依する。解除リリースするまで……僕は……たくさんの命を、喰らう」
「……背負い切れるのか、お前に」
「……どうだろう……でも……仕方ないよ。与えられた寿命をまっとうしないで、ずっと生き続けるなんて……罰が下って当然だ」


 自嘲。そうでなくても自分は、〈ヘル〉で無数の魂を滅して、生き地獄の中にいる。今更、罰が1つ増えようが、構うことはない。
 リリアの約束に縛られて壊れながら、たくさんの命を喰らってその重さに潰れかけながら……僕は、生き続ける。


「だから……実質、僕自身は、死ぬことになるんだ。……だから、ラス……後のフィルテリアを」
「断る」
「………………え?」


 自分の静かな言葉を遮って、かぶさってきた言葉は、予想だにしないものだった。理解が追いつかず、サレスはキョトンとラシルカを見ると、腕を組んだラシルカは、短い沈黙の後。


「その術、憑依する相手は自分で決めるのか」
「……え……あ、うん……最初だけ。後は、勝手に誰かに憑依する……みたいだけど……」
「なら、俺に憑依しろ」


 なぜそんなことを聞くのだろうと訝しげだったサレスの思考が、体が、一瞬にして凍りついた。
 理解したからこそ硬直しているはずなのに、迷いなく放たれた抑揚の欠けた声の意味が、すぐにわからなかった。


「フィルテリアに興味はない。俺は、お前を越すために軍に入った。お前が死ぬなら、俺にはやることがない」
「…………興、味……ない、って……ば、馬鹿言うなよ!何で君までっ……!それじゃあっ……誰がフィルテリアを支えるんだよ!」


 かろうじて声が出た瞬間、頭が動き始めて、サレスはようやくラシルカに反論した。しかしラシルカは、冷酷としか思えない態度で言う。


「何度も言わせるな。俺はフィルテリアに興味はない。気になるなら、お前が残ればいいだろう」
「っ……!」


 言い返せずに、ぐっと、拳を握り締めた。信じていた者に裏切られたような気分だった。
 しかし、ラシルカの言う通りだ。彼が最初からフィルテリアに興味がないことは知っていたし、すべては浅はかだった自分の責任だった。

 自身に対する怒りで歯を噛み睨んでくるサレスに、ラシルカは宥めるように静かに口を開いた。


「……お前も、厳密にはフィルテリアの人間じゃない。自分のことくらい、自分で決めさせろ。残った奴らも、そこまで馬鹿じゃないだろう」
「…………僕に……親友の命を背負わせるつもりかよ」
「『仕方ない』んだろう」
「………………」


 ……先ほど、「背負い切れるのか」と問われ、答えた自分のセリフだった。うつむくように視線を外したサレスは、思いつめた顔で黙り込んだ後、浅葱色の瞳を閉ざして、うめくような声で呟いた。


「……馬鹿、野郎っ……」


 それはラシルカに対してだったのか、こんなことにさせた自分自身に対するものだったのか。


「……第1章、『永遠転生輪廻の環』……発動」


 すでに先に終えていた魔導唄グレスノーグが、魔導名グレスメラによって緩やかに解き放たれる。向かい合った二人のところから、夕焼けに照らされて赤く染まった荒れた地に、白い燐を舞わせながら白い魔方陣が広がった。
 空の紅さえも飲み込むような白の中、金色と浅葱色の視線が正面から交わった。
 彼は、自嘲するように、小さく口元を緩め———










 ……気が付いて、目を開いたら、相手の姿はそこになかった。視線を下ろすと、深紅のマントの背が、うつ伏せにそこに倒れていた。
 屈み込んでみると、自分……であった者は、まるで眠っているかのようだった。——魂が欠けた、外傷のない死体。


「……サレスか?」


 横から声がしたと思ったら、夕鷹だった。それに対し、自分はゆっくり立ち上がり……そして、訂正した。


「……それは、魂の名前。は…………ラシルカだ」
「……そうか」


 ——乗っ取った体の主の名を名乗る。それは彼に対しての、せめてもの償いだった。

 夕鷹がそう了解するのを見ると、「ラシルカ」は視線を前に向け、悠然と歩き出した。夕鷹が見つめるその黒い背中は、一歩一歩遠ざかりながら、陽がほぼ沈み、紺に支配されようとしている黄昏の空に、歌うように言った。


「……夕鷹、行こう。見に行こう。この世界の……綺麗なところ、穢れたところ。善と悪。表裏一体の……この世界を」


 この世界のすべてのものには、光と影がある。
 聖属性……一面だけしか持たない君は……この世界を、どう思う?


 ……………………






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