→→ Pastoral 5
「……来たな」
「……だね。やっぱり、多いなぁ……」
空は曇天で、昼前なのに暗かった。得物の槍を肩に寄りかからせたラシルカが呟いた言葉に、隣に立っていたサレスが、遠く地平線を眺めるように目を細めて言った。
地平線に現れた大軍勢——ダグス帝国軍。その数は……目では数えることはできないが、コチラよりも明らかに何倍も何十倍も多い。ダグス軍の背後には、巨大な影の魔戦艦も何隻か見える。
「来てよかったのか?」
「え?僕?」
「違う」
「あ……私?」
ラシルカの意識は、サレスの横にいたリリアに向けられていた。彼は前を向いたまま喋っていたから、誰に向けてかすぐにわからなかった。リリアは確認をとってから、小さく自嘲するように笑った。
「……うん……大丈夫。ふふっ……心配してくれてありがとう」
「ラスは意外と他人思いだからね〜」
「足手まといになれば困るからな」
「うんうん、そうだね〜、ははっ」
「ふふ、頑張るね」
「………………」
サレスもリリアも、ラシルカが他人思いであることは知っていたから、同時に、それがごまかしであることもわかっていた。何もかも自分のことを知っているように笑い合う二人に、ラシルカは黙り込むしかなかった。
フィルテリア=ダグス間の前線。ありったけの兵を集めたサレスは、これからの戦争の最前線となるマルド砦で、頻繁に襲ってくる小さな師団を相手していたラシルカとナタに合流し、砦前でダグス軍を待っていた。
(……くそっ……なんなんだ、一体……)
その最前線で、サレスはやはり、黒い嫌な気配に襲われていた。近付いてくるダグス軍は、コチラとは比べ物にならないくらいの軍勢。人数はともかく、コチラだって強さとしては負けていないつもりなのに、晴れない黒いモヤ。
空を見上げると、天は紫色に渦を巻いていた。ところどころ斑点のように、白色も混じっている。コレは、聖王バルストと魔王ルトオスの争いのせいだ。
以前から両者は戦っていたが、ここ最近、その争いが激化し始めた。空がこうして変化してしまったのは、恐らく、聖と魔の力の影響。それも、彼らが直々に使うような、そんなレベルの強い力だ。
——つまり両者は、今、この空界の何処かで争っている。
今の自分達には、あまり関係ないことのようにも思えた。しかし、この胸のモヤのせいか、もしかしたら……という妄想が付きまとって、すべてが悪いものに見えてくる。
「サレス」
表情には出さないようにして、心の中でその黒い気配を打ち消そうとしていたサレスの耳に、ラシルカの声が聞こえた。自分の世界から引きずり出されたサレスが、気が付いたようにリリアを挟んで隣のラシルカを見ると、リリアも心配そうな顔をしていた。ラシルカは相変わらずの仏頂面だが、コチラの様子を窺うように目を向けている。
「……どうしたの?二人とも」
「サレス……不安だったら、ちゃんと言ってね。我慢するなんてダメなんだから」
「え……」
「貴様がそうだと軍全体が困惑する。吐き出すことも覚えろ」
リリアの不安そうな優しい言葉と、ラシルカの偉そうなぶっきらぼうな言葉。顔に出していない自信があったのに、どうやら二人とも、それを見抜いてしまったらしい。サレスは参ったように笑って、頷いた。
「うん……大丈夫。嫌な予感がするだけだから」
「嫌な予感……?」
「よく、わからないけど……不思議と、自信がなくなるような……そんな予感」
「………………」
「でも、もう大丈夫だから。ほら、敵が近付いてきたよ」
納得行かなそうな顔をした二人を見て苦笑してから、サレスは正面に目を戻した。さっきより、ダグス軍の先頭が間近に見える。もうすぐ、コチラにまでやって来るだろう。
駆けてくるダグス軍の最前線で、目立つのは……真ん中。長剣を腰に引っさげた、燃えるような赤い髪の、肌の浅黒い——魔族。
「エナ=リェイプス……」
小さくその名を呟いてから、サレスはすっと上に片手を上げた。その動作を見て、背後のフィルテリア軍の兵達は構え、ラシルカはすっと姿勢を低くし、リリアはぐっと手を握り締めてサレスの後ろに下がる。
その場の全員が、知っていた。それが、開幕を示唆するものだと。
「第12章、発動」
ほのかに明るい曇天に手をかざし、サレスが小さく詠唱すると、その広げられた手のひらの前に、肩幅くらいの大きさの白い魔方陣が展開した。聖術の『煌然の軌跡』。その魔方陣から、無数の光の針が天へと放たれる。それは、薄暗い空にはよく映えた。
近付いてきているダグス軍が、それを訝しむ様子が何となく伝わった。それもそうだろう。『煌然の軌跡』は、攻撃用の聖術。その攻撃範囲は直線上だ。そんなものを上に放っても、誰にも当たるはずがない。
そう、当たるはずがない。当たらなくていい。コレでいい。
なぜなら、それは、開幕の合図を合図する合図なのだから。
誰にも、気付くことができなかったはずだ。
いや、それ以前に、誰にもわかるはずなんてなかった。
上空に、フィルテリア軍がいるなんて。
「よーっし、張り切っちゃうぞー!!」
大きなダグス軍の、遥か上空。小さすぎて誰にも見えるはずがない、合図を受けたナタはそう言って、短いというか小さいというか、そのミニマムな腕を横に差し出した。
するとそこに、金色の凝った装飾の鍵が背景から滲み出るように現れ、鍵を持つところを上に、ナタはその真ん中を掴んだ。人間ならば指の長さくらいの大きさの鍵だが、ナタが持つと杖のように見える。
「『聖界開門』っ!」
その鍵を振り抜き、ナタが張り切った様子でそう言うと、彼女の足元の遥か下、地表に、巨大な金色の魔方陣が高速で広がった。自分達の足元に突如開かれた召喚陣に、ダグス軍全体に動揺が走る。
陣は、一定の大きさの円を描いたところで真上に駆け上がり、天にも陣を描いた。円柱状の召喚陣が展開され、ダグス軍の兵達は、驚いた顔で、天空のあまりにも大きい召喚陣を見上げる。
「行っけぇー、ゴーストたちぃ〜っ!!」
陣の展開が終わると、ナタが、手に持った金色の鍵を振り上げて笑顔でさらなる指示を出す。すると、天空に描かれた巨大な召喚陣から、ゆっくり下りてきたのは……眩いばかりの金色の、巨大な〈扉〉。
ゴゴゴ……と低音を響かせながら開かれた〈扉〉の向こうは、真っ白な光だった。その〈扉〉の向こうの世界から溢れ出てきたのは、無数の、半透明の幽霊達。
妖精は、別名「聖門の管理者」と呼ばれる、聖の種族だ。
遥か昔、聖王は、己が世界の〈扉〉を封ずる〈鍵〉を棄却し、それを妖精の先祖に渡した。なぜ妖精だったのかは、当時仲が良かったからだとか、たまたまだとか、さまざま言われている。ちなみに、魔界の〈扉〉の〈鍵〉は、魔界の女王〈ヘル〉が持つとされる。
妖精の一族に代々伝わってきたその〈鍵〉は、当然だが、聖界の〈扉〉を開く。聖界は、死者の世界。妖精は、その〈鍵〉で聖界の門を開き、その世界にいる死者の魂を喚び寄せることができるのだ。要するに、小さなネクロマンサーというわけだ。
「やっちゃえーーッ!!」
そのネクロマンサーが声を張り上げると、ゴースト達は雪崩のように、ダグス軍の頭上から彼らに襲いかかっていく。
それが、開幕の合図。
地表で、体勢を低くしていたラシルカがサレスの隣からバネのように前に跳躍し、ダグス軍の先頭部隊に切りかかった。上のゴースト達に気をとられていた兵達は、彼の槍の前になす術なく、くずおれる。それが引き金となって、フィルテリア軍兵士達が雄叫びを上げて前進し始めた。
こうして、後の歴史に残る、フィルテリア動乱が始まった。
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遥か地上。大軍が見えた。
何処かの国同士の戦争か、と思ったのは刹那で、すぐにそれは忘れ去られる。
迫り来る、白い光。聖力達——聖子。
それを統括するのは、その後ろで燦々と輝く、金の光——聖王バルスト。
———余を舐めるな
低い思念とともに、銀の光球の姿をした魔王ルトオスを中心に、紫色の波動が放たれた。魔の統率者直々の力強い魔力は、殺到してきていた聖子達を、瞬く間に消滅させる。
この言葉、そっくりそのまま返そう———
嘲笑にも似た笑いは、背後から聞こえた。ルトオスは振り向かぬまま、そこを離脱し、そして振り返りざま魔力を叩きつける。その頃には、バルストも聖力を放っていて。
バシュンッッ!!!
強大な聖と魔の力がぶつかり、余すことなくお互いに相殺される。そこの空間がねじれ、渦を巻いていき、やがて、ゆっくりと正しい形を……
———かかったな
取り戻していく、と思った時。まだ若干、歪みが残る空間から銀の光が飛び出してきて、バルストはぎょっとした。まさか、歪んだ空間に身を隠していたなんて。
至近距離でぶつけられた魔力。とっさにコチラも聖力で相殺しようとしたが、反応が追いつかず、相殺できたのはほんの一部分だけだった。
強烈な魔力を食らい、金の光は弾かれるように吹き飛んだ。その先に着いてすぐ白い衝撃波を飛ばすが、苦もなく消される感覚。
……まずい。
ルトオスの方が上手だと、瞬時に理解した。
聖と魔、その力は対等だ。しかし、血の気の多い魔界の住人を統率するのもあってか、明らかにルトオスは戦い慣れていた。
つまり……戦闘経験では、自分はルトオスに劣る。
ぐおん、と。
視覚できる紫色の魔が、銀の光の上で渦を巻く。
……………………
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「第8章、発動」
前線から少し離れた場所。蒼き壁の『拒絶の守護』を展開したまま、サレスはすっと人差し指を上げ、ダグス軍の頭上の空に向けた。もう片手は、はぐれないように、リリアと手を繋いでいる。
第8章、『日輪の裁き』。その指定された場所に、曇天を照らすかのように、ほのかな黄金色の大きな光球が膨れ上がる。その光球から無数に光が降り注ぎ、その範囲にいたダグス軍達を一掃していく。
初めて見た時よりは、いくらか落ち着いていられるようになったが、それでもこの光景は悲しくて、リリアは強く目を瞑って、今にも泣きそうな顔でうつむいていた。悲鳴が小さくなっていくのを聞きとってから、リリアはそっと顔を上げた。数え切れないほどの、倒れているダグス兵達。フィルテリア兵も少数だが混ざっていた。
ふと、ずっと向こうの地平線にいる、魔戦艦が目に入った。少なくとも5隻はいるうち、手前の2隻が、2つ合わせて合計20個の砲台に、白の魔方陣を展開させている——!
「さ、サレスっ、魔戦艦が!!」
「くっ……!魔導隊、外を『拒絶の守護』!死ぬ気で防げ!」
思わずリリアがサレスの服を掴んで揺さ振ると、目を向けるだけでそれを理解したサレスは、すぐさま周囲の魔導隊に声を張り上げた。自分の目が確かなら、第3章、『五神聖霊の舞』。攻撃用の聖術中最強の術だ。サレスと同じく後衛の魔術師達は、それを聞いて指示に従う。
恐らく魔戦艦の狙いは、中衛のクランネ達と、後衛の魔術師だ。あの戦艦にとって脅威なものは、クランネの力と魔術だからだ。しかし、魔戦艦の術は巨大すぎるため、後衛の自分達に向けて放たれても、前衛の兵士達を巻き込んでしまう。すべてはクランネと魔術師にかかっている。
しかし、1隻の魔戦艦の攻撃だけでも苦しいのに、それを2隻分も防ぎ切れるとも思えない。魔導隊にはああ言ったが、どんなに精神を集中させても、恐らく『拒絶の守護』では不可能だ。
どうすればいい?
「………………」
……鬼が出るか、蛇が出るか。
魔術が発射されるまで、まだ若干時間がある。まだ、間に合う。
「サレス……?」
突然、サレスができるだけ早口で紡ぎ出した魔導唄。聞き覚えがある。記憶が確かなら……第6章、『悪魔の隻影』。
魔術はあまり詳しくないリリアでも、防ぐといったら『拒絶の守護』しかないということはわかっていた。大体、『悪魔の隻影』は、無条件で魔界の住人の〈ダークルシフ〉を使役する、召喚魔術に似て非なるものだ。魔導隊にはそう指示しておきながら、サレスはどうして別の魔術を——?
その間にも、2隻の魔戦艦の砲台から、不可視の弾が放たれ、前線より少し奥、フィルテリア軍の中衛付近の真上に、2重の円から成る巨大な白の魔方陣が敷かれる——!
絶望的な光景。真上を見上げた兵士達が悲しげな声を上げ、それを防ぐはずの魔術師たちすらも、防ぎ切れるのかと絶望した目をする。
「第6章、発動」
隣でサレスが、その魔術を展開させた。いつもより、魔導唄が長めな気がした。リリアが振り向くと、サレスの足元の影が蠢いたのが見えた。
その影からぬぅっと現れたのは、サレスと同じ姿形をした立体の影。サレスを隅々まで真っ黒にしたような、上弦の2つの目、下弦の大きな口を顔に持つその影は、ケケケケケと下卑な声で笑いながら、サレスと背中合わせになるように立つ。
そのサレスの上で。その魔方陣が五角形だったなら、頂点だったろう点から、一直線に、地上へと5本の白い柱が走った。その真下にいた兵達は、天の裁きにも似た光にすべて消し去られる。光が降る瞬間に目を閉じたリリアは、耳をつんざくような悲鳴に、ぎゅっとサレスの手を強く握りしめた。
そして、その5本の白い柱を結ぶように、柱の真ん中で横に白い線が走り、円を描いていく。通常の『五神聖霊の舞』では、この横線が幅を増し、内側のものを消し飛ばす。
その前に。
「〈ダークルシフ〉、僕に従え」
スッと、サレスが軽く握った右の拳を、胸の前に上げた。〈ダークルシフ〉の宿った影も、邪な笑みを顔に貼りつかせたまま、鏡のように、左の拳を胸の前に上げる。
「「第16章、発動。第11章、発動」」
第16章『景の不動』、そして第11章『逆の理』。魔術の連用。なぜだか、サレスの声が二重に聞こえた気がした。
サレスの右手、影の左手の五指の間に、それぞれ4本ずつ黒い針が現れ。そして、続けざま詠唱された『逆の理』によって属性が反転し、合計8本の黒い魔の針が、白い聖の針へと変貌する。
聖と魔は相反するが、聖と聖、魔と魔は融合しあう性質がある。この聖の針が、あの聖の巨大陣に突き刺さった瞬間、属性が反転すれば……きっと、魔方陣は弾け飛ぶ。
憶測にしかすぎない手段。証拠なんて何処にもない。早い話が、ほとんど賭けだった。己の知る法則と知識が頼りだ。
ヒリッと、肌が引き攣るのを感じた。尋常じゃなく濃い聖力が引き起こす、強い圧力のせいだ。見れば、横の白線は幅がぐんぐんと増してきていた。
サレスは真上を見上げ、頭上の巨大陣に向かって白い針を放った。やはり影も同じ動作する。同時に素早い速度で放たれた8本の白い針が、白い魔方陣の外円、内円、そして中央に、
突き刺さった、瞬間。
「「『己が力、解き放て』ッ!! 第11章、発動!!」」
吠えるように叫んだ。『悪魔の隻影』の魔導唄と一緒に詠唱を済ませていた、術の属性をさらに強める自製の術とともに、再び唱えられる第11章『逆の理』。陣に突き刺さった聖の針が、再び魔の属性へと戻った直後。
—————キィィィィイイイインンンッッ—————
……涼やかな、高い音を立てて。
針が突き刺さったところに亀裂が走り、巨大な純白の魔方陣が、まるで薄氷が割れるが如く、あまりにもあっさりと砕け散った。割れた魔方陣の欠片と、展開途中だった魔術は、虚空へと消え行く。割れた際に飛び散った小さな白い破片が、雪のように戦場にはらはらと降り注いだ。
魔方陣が割れるなんて、誰が想像しただろう。しかも、あの魔戦艦の魔方陣だ。降ってくる雪を見上げて、ダグス兵達には一気に動揺が走り、フィルテリア兵達は一気に活気づく。
前線では、そんなダグス兵達に向かって、青き死神ことラシルカが先頭を切って切りかかっていた。その後を追うように、ナタの召喚した幽霊達が続き、ダグス兵達を次々と薙ぎ倒していく。……恐らく、さっさと魔戦艦を潰せと言っている。
「わかってるよ……第6章、解除……っと……」
「大丈夫?サレス……」
「うん、大丈夫……なんてことない」
魔術を間を置かず連発したせいで、体内の魔力が短時間で激減し、体がそれに対応しきれていなかった。とりあえず、〈ダークルシフ〉が宿った背後の影を普通の影に戻してから、心配そうに聞いてきたリリアに、サレスは短い息を吐き出してそう笑いかけた。
自分は、このくらいでへばっていてはいけない。フィルテリア王国最強の魔術師として——フィルテリア軍最高指揮官として。
「魔導隊とクランネは、僕に続け!魔戦艦を潰すぞ!!」
声を張り上げ、攻める勢いの増した軍を追って進む。リリアと、手を繋いだまま。
———あの時
どうして、その手を離さなかったのだろう
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自分は、死というものに疎い。
一体、何人殺しただろう。始まってからそれほど経っていないというのに、いつもとはケタ違いの人数を殺した気がする。自分の周辺では、ナタの幽霊兵達が、大刀やら槍やらを持って奮闘している。
愛用の槍を容赦なく振り回し、自分の約半径3メートルに近付いた者達を次々と葬っていく。槍を通じて命を断っている感覚はするのだが、あまり心に響くものがない。
それは——血の気の多い魔族だから、だろうか。
「どきやがれッ!!」
「!」
イラだったような、そんな男の声とともに、研ぎ澄まされたナイフのような殺気が近付いてきた。
柄を長く持って振りかけた槍で、とっさに片手を移動させ防御態勢をとった瞬間、突進するような勢いで重圧がぶつかってきた!
交差された長剣の刃と、自分の槍の柄。その向こうに見えた相手は、同い年くらいの、燃えるような赤い髪の魔族——エナ・リェイプス。
双方が同時に、反発するように押し合って後退する。青き死神と、赤き将軍の睨み合い。その二人の間に渦巻く強烈な殺気に、両軍兵達は攻撃することはおろか、近寄ることすらできなかった。
「—————……マジだったんだな、フィルテリアにいるって」
無言の睨み合いが数秒続いた後、喧騒の中、エナがうめくように呟いた。そして、昏い怒りを宿した瞳でラシルカを見据え、右手に持った長剣の先をまっすぐ彼に向けて、
「自分が何したか、わかんねぇだろ?お前にとっちゃ、他のことなんかどうでもいいからな!なぁ、ラシルカッ!!」
——かつての旧友に、そう叫んだ。
「……何でお前が、軍に所属している」
「ハッ、当たり前だろ。お前がフィルテリアにいるって聞いて、殺しに来た」
敵意が剥き出しなエナを、ラシルカが睨みを利かせて牽制しながらそう聞くと、エナは当然のように答えた。久しぶりに見た旧友の豹変ぶりに、ラシルカは混乱するばかりで。
なぜ、こんなことになっているのか——それが、わからなかった。
それがわかっていたように、エナは荒い語気で言う。
「族長が死んでから里を去ったお前は、知らねぇだろうがな。族長の息子のお前が去ったせいで、みんなが族長の座を争って殺し合いしてんだぞ!」
「何……?」
「みんな、死んでった……!親父もお袋も、殺された!お前のお袋さんも、姉貴もだ!全部、てめぇのせいなんだよっ!!」
「……母上と、姉上が……死んだ……?」
……そんな……馬鹿な。
族長である父には敵わずとも、母だって強かった。姉だって強かった。
その二人が……殺された?
それほど動揺しない自分が、愕然としていることに動揺した。いつもピンと張っている緊張が、一瞬だけ緩んだ刹那。はっとした時には、すでに眼前にエナがいた。
「ッ……!?」
横に振られてきた長剣を、身を引いて槍で受けようとしたが、反応が遅かった。手首に力が入らないまま長剣が真横からぶつかり、槍が一瞬手のひらから浮く。
その衝撃で感覚を取り戻したラシルカは、もう片方の手で倒れかけた槍を掴み、すぐさま両手で構え直した槍の間を縫ってこようとする刃を、柄の端で跳ね上げて、大きく後ろに飛んだ。
その自分を追いかけるように迫ってきたエナに、ちょうどスピードが合うタイミングで槍を振るう。振り上げかけた長剣がすぐに防御に回り、エナは剣の腹で槍を押し返して少し下がった。
「……十分、強ぇクセに」
その受けた槍の威力に、ぽつりと、エナが呟く。
「お前は昔っから、十分強かったクセに……お前がいなくならなきゃ、こんなことにはならなかったっ!! お前が族長になってれば、こんなことになんかッ……!! 何で……何でお前は、いなくなったんだよ……!!」
そう叫ぶエナの表情には——先ほどまでは見られなかった、何処か悲しそうな、つらそうな、そんな感情が顔を見せていた。
かつての友。そいつが去った途端、自分の身の回りの者が死んでいった。だから、そいつを恨まずにはいられなくて。
だが——友であった者を、心の底から恨むこともできなくて。過去の残像に惑わされて、憎むこともできなくて。
なんで、こんなことになってしまったのだろう
何を恨んだら、何を憎んだら、自分は自分でいられるのか、わからなくなる。
「……俺は……」
エナの悲痛な叫びに、ラシルカはぼんやりと呟くしかできなかった。
魔族同士の殺し合い。そんなことになるなんて、予想してなかった。できるわけがなかった。
一族を去った理由?
ただ、自分の最大の壁が、大陸中で恐れられた父だったというだけだ。
その父が、3年前に死んだ。それも、病で。その時の理不尽な気持ちを、今も覚えている。
だが、理由はどうであれ、通路を塞いでいた壁がなくなったところに、なぜ留まる必要がある?
だから自分は、すぐに一族を去った。最初から、族長なんて地位に興味はなかった。
たった、それだけの理由だったのに。
今、自分の前には、敵意を持った旧友が立ちはだかっていた。
なんで、こんなことになってしまったのだろう
「なぁラシルカ……昔の手合わせ、何勝何敗だったか覚えてるか?」
「……俺が54勝55敗のはずだ」
「あぁ、俺も、55勝54敗で、俺が1勝勝ち越してると思った」
一族にいた頃までは、よく二人でやった手合わせ。性格は反対、強さは同等な二人。
だらんと下げた右手の先の長剣を構え直し、エナは、感情を断ち切った無表情で告げる。
「だから、今回も俺が勝つ。魔族として、一族のために」
将軍として、ダグスのために、ではなく、魔族として、一族のために。
まとう空気が変わったエナを見て、臨戦体勢に入ったラシルカ。エナはそれから体勢を低くして、いつでも飛び出せるようにする。
そして、同じように低い声で紡いだ。
「……死んでいった奴ら全員の仇、とらせてもらうぜ」
瞬間。
両者の足が、同時に地面を蹴った。
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