→→ Pastoral 4

 ……まずい。

 相変わらず、聖界の住人・<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>は、魔界の住人ガリアテイルから魂を守り続けている。それはいい。しかし、このままでは、自分の方が持たなかった。  魔の勢力が、また強くなってきていた。何処かで致命的なミスを犯したらしい。なかなか互角にまで持ち直せない。

 自分が負けたら、今よりもっと多くの魔界の住人ガリアテイルが干渉してくるだろう。そうなったら、今度こそ<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>はお手上げだ。それだけは、避けなければならなかった。



 ———下りよう。
 それは、直感にも等しい決断だった。



 戦場に下りるのだ。下手をすれば、自分も消滅するかもしれない。それは百も承知だ。
 だから自分や魔王は、自分の世界から遠く離れた空界に、自分の指先のような力——聖子ラトネルを放って戦わせる。しかしそれは、非常に神経を使う。何と言ったって、1万は優に越えるコマを操るのだ。しかも戦況は目まぐるしく変化する。
 自分達は、神ではない。全知ではあるが、全能ではない。戦況は一度にわかるが、一度に指示を出すことは難しいのだ。

 自分が下りれば、聖子ラトネル達に直接指示できる。何よりも、聖子ラトネル達とは比較にならない強い力を持った自分が下りれば、相手の力達は完全に圧倒できる。そうなると、恐らく魔王も魔界から下りてくるだろう。
 そこが、狙い目だ——!


  <流れを御する者オーフェラーグ・リデル>、我は下りる———


 真珠色の世界に響いた思念こえに、聖界の何処かで、<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>が頭を下げるのが感じられた。
 体を持たぬ自分は、聖界を体として存在している。いわば、聖界が自分。自分が聖界。つまり自分は、己自身の中に、《オーフェラーグ・リデル》も無数の魂も内包しているということになる。



 聖界から、意識を切り離す。自分の感覚が、一瞬、ひどく狭くなるのを感じて、そして聖界のことが何も感じられなくなった。
 真っ白な世界から抜け出た小さな金色の光は、ふわふわと、静かに飛んでいく。

 聖界と魔界の間にある、空界。実際に下にあるわけではない下界の境界に、光は呑まれるように消えていった。


 ……………………





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





「うーん……」


 軍基地の奥にある、自分の執務室。窓からちょうど弱い日光が差し込む、机の上に広げた地図を見て、サレスはうなり声を上げた。
 ふと、コツンと机に何かが置かれる音がして顔を上げると、すぐ横にリリアが立っていた。


「はい、サレス」
「あぁ、ありがとう」


 リリアが淹れてきてくれたコーヒー。とりあえず一息つこうと、サレスは温かそうな湯気が立つコーヒーカップを取って、ふんわりとしたイスの背もたれに寄りかかった。
 窓の外を見ると、日光の中、ちらついてきた雪がキラキラ光っていた。四角に切り取られた綺麗な景色に悲しげに微笑んで、サレスは熱いコーヒーに息を吹きかけた。


「……静かだよね。前線とは大違いだ」
「……うん、そうだね」


 サレスの静かな一言に、リリアも少し悲しそうに頷いた。

 リリアが軍基地にやってきてから、3ヶ月ほど経った。
 早く出ていくつもりだったのに、なぜ自分がココにいるのかと疑問を抱かないほど、気が付いたら周囲に馴染んでいた。いつの間にか、こうしてサレスと一緒にいることも当たり前になってきている。

 この3ヶ月、何度も戦いがあった。その度に、必ずリリアはサレスとともに赴いた。そしてその度に、涙を流した。それが幾日も続いた。
 戦場へ行って、毎度涙を流しているリリアの噂は、瞬く間に軍内に広まった。
 強いわけでも、特別な力があるわけでもないが、その優しい心は皆の心を打ち、同時に、戦場は悲しいものだと、皆が再確認した。
 「鎮魂の涙」——人々は、彼女をそう呼んだ。


「サレス、うなってたけど……問題でもあるの?」
「うーん……ココ最近、大して強力な部隊でもないダグスの師団が、しょっちゅう攻撃してくるだろ?」
「あ……そうみたいだね。でも、ルカとかナタとかの武将さん達に頑張ってもらってるんでしょ?そんなに苦戦してないって聞いたけど……」
「うん、そうだろうね。……ちょっと最近、嫌な噂を聞いてさ」
「嫌な噂……?」


 小さく音を立てて、サレスが飲み途中のコーヒーカップを地図の上に置いた。リリアも隣から地図を覗きこむ。
 ダグスとフィルテリアの境に線が引かれた大陸の地図。いつでも書き替えられるように、鉛筆で引いてある。それから見ても、フィルテリアは、ダグスに比べると、とても小さな勢力だ。
 その線——つまり前線の辺りを見たまま、サレスは言う。


「エナ=リェイプスって知ってるかい?」
「え?ううん……」
「まぁ、知らなくて当然さ。ダグスにうろついてた盗賊で、つい最近、ダグスの武将に採用されたらしいんだ。長剣で容赦なく敵を葬る、魔族の剣士らしくてね……ダグスは彼一人に、武将が三人いた城を、1ヵ所落とされてる」
「……!!」
「コッチで言う、ラス級の強さだよ。そいつが、正式に前線の武将に任命されたらしくてさ。ラスだけじゃ、荷が重い。……そろそろ、僕も前線に行かないと」


 この3ヶ月で、それを聞いただけで力量が大体わかるようになっていたリリアは、サレスの言葉に驚愕に声をなくした。サレスは厄介そうに溜息を吐いて、コーヒーを飲む。
 少ししてだんだんと落ち着いてきたリリアは、飲み終わったコーヒーカップを机に置くサレスに、小さく呟いた。


「……また、戦いになるんだね」
「……そうだね」
「私も、行くからね」
「わかってるよ、いっつもおんなじこと言うからね。それに止めても、どうせ聞かないだろ?でも、」
「僕の傍を離れないでね、でしょ?ふふっ、サレスだって、いっつもおんなじこと言ってるよ」
「あれ、そうだっけ?」


 自覚はなかったが、言われてみればそんな気もする。思わずサレスが小さく笑うと、リリアも釣られてクスクス笑い出す。不思議と、張り詰めた気持ちが和らぐのがわかった。
 二人が笑い合っていると、部屋のドアがコンコンとノックされた。遠慮がちに小さく開かれたドアの隙間から顔を覗かせたのは、サレスの副官を務めるシェイだった。


「あ……す、すみません」
「ん?あ、大丈夫だよ。何か用?」


 自分の隣に立つリリアを見て、慌ててドアを閉めようとするシェイを引き止め、サレスは彼に聞いた。シェイは「本当にすみません」と苦笑しながら、ドアの隙間から出てきた。そして彼はサレスの前に立つと、いつも穏やかな表情を静かに緊張させた。


「サレス。先ほど、ダグスから使者が来ましたよ」
「!」
「正式に宣戦布告してきました。明日、貴公の国を落とさせてもらう……だそうです」
「……ついに来たか……」


 シェイの報告を聞いて、イスの背もたれにもたれたサレスは目を伏せて呟いた。
 フィルテリアを落とさせてもらう——つまり相手は、明日、ありったけの兵力をぶつけてくる。いつか来るだろうと思っていたが、自分はまだ、最高指揮官になって約9ヶ月。あの強大な勢力を前に、自分は一体、どう指揮をとればいいのか……。


「……前線は今、どういう状況?」
「ご存知だと思いますが、それほど強力ではないたくさんの師団を順番に相手しています。ですが、やはり数が数で、兵達も疲れが溜まってきているみたいです。この状態で、さらに援軍が来たら……」
「まずいね」
「ええ」


 となると……前線に、新しい軍勢を送らなくてはならない。しかし、今から発たないと、明日までに準備が整わない。


「よし……シェイ、今すぐ、前線に送れるだけの武将達を結集させてくれないかな。すぐに発つ」
「サレス自身も向かうのですか?」
「僕が行かなくちゃ始まらないだろ?ラスとナタのことも心配だし……シェイ、君は残るんだ。もしもの時は、ルーディンと一緒にこの基地を守ってくれ。だけど、無理はしないこと」
「はい、わかりました。では武将達は、基地の前に集合させておきます」


 サレスの指示を了承し、シェイはすぐに行動に移ろうと部屋を去ろうとした。しかし、その背後で、サレスが小さく息を吐くのを聞きつけて、振り返る。気付かれたと苦笑いするサレスに、シェイは少し考えるように間を置いてから、彼に向き直った。


「……サレス、貴方も、つらいのなら無理はしないで下さい。貴方だけでは判断しきれないのなら、他の誰かに聞いてみるのもいいでしょう。大変かもしれませんが……どうか、国民のためにも、この国を守って下さい」
「うん……わかってる。ありがとう、シェイ」
「いいえ」


 シェイは小さく微笑むと、部屋から出ていった。サレスは閉じられたドアをしばらく見つめて——そして、やはり小さく長く息を吐いた。
 ふと顔を上げ、気遣わしげなリリアと目が合う。自分を心配してくれているのだとわかると、サレスは自嘲した。


「……今までにとったこともない大軍勢の指揮を、一度にとるんだ。僕のミス1つで、きっと、たくさんの命が左右される……全軍を統率しきれるかどうか……情けないけど、それが少し不安なんだ」
「大丈夫だよ。サレスが的確な指揮をするのは、私もよく知ってるもの。だから、きっと大丈夫」
「でも……勝てるのかな、あんな巨大な国に」
「………………サレスの馬鹿」
「え……」


 ぽつり、とリリアが言った言葉は、サレスが予想しなかった言葉だった。
 リリアがそんな言葉を使ったのは、初めてだった。そのことと、なぜそう言われたのかに驚いてリリアを見ると、今にも泣き出しそうな顔で彼女は言った。


「みんな、サレスを信用してるから、君の指示に従うんだよ。それなのに君は……みんなを信じられないの?今まで、ずっとそうだったのに……信じられないのっ?」
「………………」


 リリアの必死な言葉は、不思議と後ろ向きだった心を立ち直らせてくれた。サレスは、おかしそうに笑い出した。


「はは……そうだね。今までも、そうだったね。そうだよね。フィルテリアだって、強力な勢力だ。ダグスを追い返すことなんて、いっつもやってきたことじゃないか。……らしくなかったかな、僕。……ごめん、リリア」
「ううん、いいの。きっと、大丈夫だよ」


 いつもの自信を取り戻したサレスに、リリアは安心したように優しく微笑んだ。
 リリアの微笑は、人を安心させる綺麗な笑顔。だからその分、眩しくて、儚くて……今にも消えてしまいそうで。


「よし、じゃあ基地の前に行こうかな。そろそろ集まってるだろうし」
「うん、そうだね。あっ、でも私、カップ片付けなきゃ」
「あ、よろしく。いつものことだけど、おいしかったよ」
「ふふっ、ありがとう」


 カラのコーヒーカップを両手で持ち、リリアは嬉しそうに笑って部屋を去った。パタン、とドアが閉まるのを見届けて、サレスは自分の胸に手を当てた。


(……なんだろう……)


 シェイの報告を聞いた時から、ずっと胸にわだかまる、嫌な、黒い気配。
 マイナスな方向に働きかけるこの気配のせいで、なんだかすべてが上手くいかない気がする。


(いや……きっと大丈夫だ。リリアも言った。僕らの国は、ダグスなんかに負けない)


 そう……ダグスになんて———





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





「……私ね……何で私は、水のクランネなんだろうって、ずっと思ってたんだ」


 白い月明かりで、一段と白く見える手。マルド砦の屋上の手すりを掴んでいる自分のその手を見つめて、リリアは言った。


「水は、他の属性に比べて攻撃が不得意だから。私が、地や火、風のクランネだったら……もしかしたら、あの時、父さんを救えたのかもしれないのに」
「リリアの父さんは、どのクランネだったの?」
「父さんは、地のクランネ。とっても強い人でね、憧れてたんだ。属性干渉タイプリレイスだって自由自在で、もう、四大属性を全部使えた感じだったの」
「本当に?はは、それは凄いな」


 本当に、憧れていたのだろう。父親のことを話す隣のリリアがとても嬉しそうだったから、サレスも穏やかな気持ちで笑った。


「でもね、最近気付いたの。泡って魂の象徴でね、私が戦場で泡を飛ばすのもそれが由来なんだけど……泡を使えるのは、水のクランネだけだから。もし私が水のクランネじゃなかったら、こんなことできないもの。だから、きっと、私が水のクランネなのは、みんなの魂を癒すためなんだって思ったの」
「うん……そっか」
「それから、父さんには悪いんだけど……私がもし父さんを助けていたら、私は国から出なかったし、当然君と会うこともなかった。……そう考えると、私、やっぱり水のクランネでよかったって思えるの」


 そう言うと、小さく微笑んで、リリアは空を見上げた。丸くて綺麗な満月が、雲の間から自分達を見下ろしていた。

 明日、ダグス帝国が攻めてくる。そうは考えられないほど、辺りは静かで、風は穏やかで、空の月は優しくて。時が止まったような、不思議な感覚を覚える。
 いや……本当に、このまま時が止まってしまえばいいのに。
 そうしたら、誰も、死なずに済むのに。誰も、悲しむことなんてないのに。


「だから……明日からは、私も頑張るよ。私が、サレスの盾になる」


 水のクランネでも、それくらいはできるから。リリアは、シェイの報告を聞いた時からひそかに決めていたことを話した。
 反対されるかと思ったが、サレスは考えていたのか、短い沈黙の後。


「……君がなるのは、盾だけだからね。剣は僕。だから、君は攻撃しちゃダメだ。絶対に。間違っても」
「え……どうして?」


 確かに、自分には誰かを傷つける勇気などない。しかし、サレスはなぜ、そこまで自分に攻撃してほしくないのか。
 困惑した目で隣のサレスを見て問うと、遠く暗い空を見つめていたサレスは、リリアを向き微笑んで、「手、出して。両手ね」と言った。言われるまま両手を差し出すと、サレスはリリアの両手を自分の両手で包み込んだ。少しびっくりした顔でリリアが顔を上げると、サレスは微笑を浮かべたまま目を閉じた。


「君の手は、汚させない。絶対に。君の代わりに、僕が汚れてあげるから。いくらでも、ね」
「でも……それじゃ、サレスが……」
「いいんだ。僕が決めたことだから」


 月下、夜闇に淡く浮かび上がるサレスの微笑。リリアは困ったような顔をしていたが、不意にクスリと笑った。包まれていた手を動かし、サレスの右手と自分の右手の小指を絡める。


「サレスは、いっつもそうだもんね。自分を犠牲にして、他人を守った気でいるの。ずるいよ」
「でも……君には、汚れてほしくないから」
「うん、わかってる。だから……約束ね。つらくなったら、いつでも私に言ってね。いつでも、いくらでも、聞いてあげるから」
「え……」
「一人で我慢するなんて、許さないんだから」
「……わかったよ。約束する」
「絶対だからね」
「うん、絶対ね」


 何度か確認しあってから、二人の手は自然と離れた。満足そうに小さく笑うリリアの淡い桃色の髪が、緩やかな夜風に揺れる。
 ——その風がやんだ時、世界から音が消えた。笑っていると思っていたリリアも、いつの間にか笑うのをやめていた。静かな凪が、ただ世界を支配する。


「—————リリア……」


 遠慮がちなサレスの声が、凪を揺らした。優しい月明かりが微笑う中、少し言うか言うまいか躊躇した間を置いて。


「……僕は……君が」
「ダメ」


 その瞬間、すっと自分の口の前に人差し指が立てられた。少し怒った顔をしたリリアは、驚いて思わずサレスが言葉を止めたのを見てから、微笑んだ。


「何も言わないで」
「……リリア……」
「私、嬉しいの。天法院セオディスから追放されて、この国に来て……君に会えて、本当によかった。私は、こんなに幸せだよ」
「……うん……僕も。……僕も……君に会えてよかった」


 真っ白に輝く月に濃い雲がかかり始めて、だんだんと薄暗くなっていき、真っ黒に、お互いが見えなくなっていく。
 何も見えない闇の中、伸ばした手と手の、確かな温もりだけが感じられた。

 ——物凄く、長い時間のように思えた。
 黒い雲が白い月をようやく解放し、白い月光が砦の屋上に降り注ぐ。眩しい光の中、2つあった影は、1つに重なっていた。


 ……………………






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