→→ Canon 7

 知らなかった。
 普通ならいるはずの、両親という名の存在を。





 気が付いた時には、すでに両親はいなかった。
 「両親」という言葉の意味を知って、初めて思った。
 なぜ、自分には「両親」がいないのだろうと。
 しかし、いないのが当然だと思っていたから、あまり気に留めなかった。それは今も同じである。

 いたのは、弟一人。

 そのたった一人の肉親さえも、ある日、突然、離れていった。


  『姉さん……ボク、この国を出る』


 今まで見たことがないくらい、怜悧な光を宿した目。
 一瞬、誰なのかと疑ってしまったくらい、別人のような瞳。

 冗談だと思っていた。まさか、何も知らないあの子が、国を出たいだなんて。
 しかし、翌朝——彼の姿は、家の何処にもなくて。





 その現実を、すんなり受け入れた。
 根から冷静だったせいか、あまり取り乱すことはなかった。
 しかし——想いは、徐々に心を蝕んでいった。



 そんな時に響いた、異界からの声。


  ———ハハッ、可哀想になぁ!





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 魔導唄グレスノーグを唱えながら、攻撃してきた〈フィアベルク〉から〈ガルム〉で大きく距離を置いた梨音は、珍しく焦りが濃く滲んだ表情だった。

 ——正直、勝つ予感がしなかった。
 動きの素早い〈フィアベルク〉と、百発百中のスナイパー・天乃。これほど最高で最悪な組み合わせはない。
 対してコチラは、戦闘向きではない〈ガルム〉と、動きのトロイ魔術師の自分。そういう点から見ても、自分達はあまりに不利だ。

 幸い、天乃の針は本数が限られている。恐らく、確実に仕留められる時——ほとんどかもしれないが、その時しか使わないだろう。
 そして自分は、時間が許す限り、魔導唄グレスノーグが必要となる高等の魔術を使える。その時間さえもないかもしれないが。


≪堅物って有名な、番犬の〈ガルム〉がお相手とはなぁ!! ハハッ、ツイてるぜ!!≫


 〈フィアベルク〉は、挑発のつもりなのか高らかにそう言うと、背中の上の天乃を気遣うことなく、コチラにまっすぐ突っ込んでくる。寸前で魔導唄グレスノーグが終わっていた梨音は、少し体を起こして叫んだ。


「〈ガルム〉、下がって!第12章、『煌然の軌跡』発動ッ!!」


 迫り来る〈フィアベルク〉の爪攻撃を〈ガルム〉が飛び退いて間一髪でかわし、その隙に〈ガルム〉の上で梨音が別の魔術を発動させる。手前にかざした両手の前に肩幅くらいの白い魔方陣が展開し、そこから無数の白光が放たれる。攻撃用の聖術だ。


≪しゃらくせえッ!!≫


 真っ白に染まる景色を見ておきながら、〈フィアベルク〉はそう吐き捨て、無謀にも眼前の純白に飛び込んだ。同時に、漆黒の爪を振り下ろす。その一閃で、群がっていた『煌然の軌跡』はあっさりすべて両断され、消えていく。
 〈フィアベルク〉は、退いていく白から飛び出してきた。自分の術を逆に目くらましに利用したのだとはすぐにわかったが、まさかあんなにあっさり術を潰されると思っていなかった梨音は反応ができない。

 代わりに、あれくらい〈フィアベルク〉は朝飯前であることを知っていた〈ガルム〉が、それを迎え撃とうと、開いていた顎から黒い衝撃波を放つ。
 魔の属性を持ったその攻撃は、〈フィアベルク〉の胴体に直撃した。威力はさほど強くないはずだが、人間で言うところの鳩尾にでも入ったのか、〈フィアベルク〉の動きが目の前で少々鈍る。〈ガルム〉がそこから離脱すると同時に、先ほどいた地面に天乃の針が深々と突き刺さった。

 標的をスカした針を名残惜しそうに見て、天乃は溜息を吐いた。


「……馬鹿、単純すぎ。1本、無駄使いした」
≪あァ!? だったら何か指示しろよ!≫
「契約時に、指図するなと言ったのは貴方」
≪それとこれとは話が違うだろ!?≫
「どう違うの?わかるように説明して」
≪ぐっ……!≫


 〈フィアベルク〉が単純だからか、天乃の辛辣なセリフは『彼』には効果抜群らしい。なんだか口喧嘩とも言えないやり取りをし始めた二人を見ながら、梨音は〈ガルム〉に言う。


「……〈フィアベルク〉は、確かに強いけど……考えが浅い気がする」
≪というか馬鹿だ。そこにつけこんで、上手く奴を誘導するといいだろう≫
「……そうだな……」


 梨音はふと、今、自分達が岩場の絶壁の真下にいることに気付いた。見上げると、今にも崩れ落ちてきそうな岩のカタマリが、黒い天を浸食している。


「………………。……なら〈ガルム〉、よく聞いて」


 体を前に倒して〈ガルム〉の上に寝そべるような格好で、今、思いついた作戦を、コソコソと〈ガルム〉の大きな耳に囁く。話を聞き終わると、〈ガルム〉は≪わかった≫と了承した。


≪だああっ、うるせえアマノ!! 勝ちゃいいんだよ、勝ちゃ!!≫


 天乃の冷静で痛い指摘がこたえたのか、〈フィアベルク〉は声を荒げてそう叫び、突然、腕を振り上げてコチラに向かって飛翔してきた。背中の上の天乃なんて意識の外である。
 〈ガルム〉は横跳びして、まるで猪のように突っ込んできた〈フィアベルク〉を避ける。爪は、無抵抗な絶壁の壁を抉り取った。
 〈フィアベルク〉の攻撃を回避した〈ガルム〉は、口に黒い波動を溜めていた。それに遅く気が付いた〈フィアベルク〉が構えた直後、その衝撃波は放たれた。
 自分の上へと。


≪なっ!?≫
「……!」


 〈フィアベルク〉と天乃が、黒い衝撃波の進路を追って、上を見る。
 ドォン!!と何かが砕ける音を耳にした。見上げた彼らの目に入ってきたのは、幾多の大きな黒い影。
 砕かれたたくさんの絶壁の岩が、二人に容赦なく降り注いだ。


≪ぐああッ!!?≫
「うあっ……!!」


 瞬く間に、岩は〈フィアベルク〉の大きな翼や尾に乗り上がって、『彼』の自由を奪う。天乃はボールのように〈フィアベルク〉の背中から吹っ飛び、岩の雨の降らない固い地面の上に投げ出される。
 それだけでは終わらない。岩の山に埋もれている〈フィアベルク〉に向かって、


「第7章、『罰の執行』発動」


 梨音が、最初に詠唱していた魔導唄グレスノーグを解き放った。
 〈フィアベルク〉の真下の地面に、大きな円とその四方に小さな円が描かれた白陣が浮かび上がる。4つの小さな円から光を散らしながら白い光球が現れ、瞬時に、細く鋭い光の槍となる。4本の槍先は、一斉に、大きな円の中心の〈フィアベルク〉を向く。


≪っそ、この犬がァッ!!!≫


 光の槍が、〈フィアベルク〉を貫くその寸前。〈フィアベルク〉が凄まじい怒号を上げたと思うと、『彼』を呑み込んでいた岩達が吹き飛んだ。
 同時に、動けるようになった〈フィアベルク〉は、その速度でコチラに向かってくる。気が立っているからか、先ほどよりも速い——!


≪死ねェッ!!!≫
≪があッ!!≫
「くっ……!?」


 速すぎて動作が追いついていない〈ガルム〉に、〈フィアベルク〉は鋭い爪を切りかかる。爪は〈ガルム〉の顔の横に直撃し、攻撃にふらついた〈ガルム〉の上から梨音は振り落とされた。
 うつ伏せに落とされた梨音は胸を強く打って、ゴホゴホと咳をしながら体を起こし、


「ッ!!」


 例えようのない鋭い視線と殺気を感じ、とっさに飛び込むように横に前転する。頭の天辺で空気が掠るのを感じとりながら、さらに前に転がる。
 しかし、風を切る音がすぐ近くでした途端、何かに背中から服を引っ張られてそこで動作が止まる。梨音が驚いて肩越しに振り返ろうとした時、突然肩口に痛みが走った。

 顔をしかめて梨音がそこを見ると、1本の針が生えていた。そこから流れた血で、黄緑の服が少し汚れていた。文字通り、肩の付け根に貫かれるような痛みが襲うが、抜くと逆に血が流れるのであえて抜かないでおく。
 それから、先ほど見ようとした背後を見ると、服の背の部分を、これまた細い針が、ちょうど梨音の背景にあった岩に縫いとめていた。コレで足止めを食った一瞬で照準を絞り、二撃目を確実に放ったらしい。崩れた絶壁の下を見ると、アチコチに土埃をつけた天乃が、肩を上下させて針を握っていた。


(……あの、目)


 いなくなる前も、彼はあんな目をしていた。
 まるですべてを見透かすような、聡く、賢明な瞳。年相応でないその瞳は、逆に嫌気を誘った。


「……〈フィアベルク〉……やめて」


 何処となく苦しそうな表情をした天乃は、さっきから〈ガルム〉に切りかかっていた、怒り心頭の〈フィアベルク〉に向かって、1本、手に握っていた針を放ちながら、とても弱々しい声で言った。
 針は、〈フィアベルク〉の固い体にカンッ、と当たって落ちる。それだけで、〈フィアベルク〉はフンッと鼻を鳴らして、仕方なさそうに攻撃を止めた。

 天乃は、そこに膝をついたまま針の生えた肩を押さえている梨音を見て、静かな口調で言う。


「……私達には……両親は、いない」
「……うん」
「だから……血が繋がっているのは、私と、君だけ……」
「…………うん」
「でも……君は……」


 掠れるような声で、確かめるように言う。
 確信に近付きつつある想いを、割り切ることができなくて。



「———君は……『梨音』じゃない」



 それは、拒絶にも等しい言葉だった。
 確かに血の繋がった——しかし何か違う、彼を拒む言葉。


「……君は、私の知ってる『梨音』じゃない……」


 理由なんてわからない。ただ……何かが違う。
 すべては、あの日から。


  『貴方は……誰?』


 彼がいなくなる前日。突然の、思いもしない一言。初めて自分を見たような、不思議そうな瞳。
 そう……あの日から、君は、『君』じゃなくなった。
 記憶がなくなったとか、そんな生温いモノじゃなかった。感覚的に、この子は違うと思った。
 まるで、それまでの梨音という少年が、別の存在に上書きされたような。

 その言葉を、梨音は黙って聞いて、


「……さぁ、ね……」


 小さく、消えそうな声で言い、瞳を閉ざした。
 寂しげで、哀しげで、悟っていたような、諦めたような、たくさんの感情が交じり合った、不特定な声音。


「……ただ……言えるのは」


 そう言い、梨音は再び目を開いた。想いが一切交わらない、静かな黒茶色の瞳で、天乃の常盤色の瞳を見据える。


「……ボクは、"梨音"であって……"梨音"じゃない。……だから、姉さんの『梨音』とは、違うかもしれない……それだけ」


 自分は"自分"であって、"自分"じゃない。
 「自分」というモノを定義するのは、一体、何なのだろう。
 意識だと言うのなら、自分は「自分」だ。
 魂だと言うのなら、自分は「自分」じゃない。

 少なくとも……ボクには、わからない。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 ——引き攣るような痛みに、目が覚めた。


(……生きて、る……?)


 皮肉にも、現実じみたその痛みがそれを立証していた。死んだというのなら、痛みなどないはずだ。

 閉じた瞼を赤く透かしてくる灯りは、頼りなさげに明滅している。静かに目を開くと、辺りは薄暗かった。
 目に映ったのは、少し明るめの色彩。2つの空色が、ぱっと大きく見開かれる。


「さいっ……!?」
「……椅遊……?」


 ぼんやりしていた視界が、次第にはっきりしてきた。輪郭が露になって初めてわかった、椅遊の驚いた顔。その顔が、だんだんと泣きそうに歪んでいく。


「よか……た……っ」


 ぽたっと、自分の頬に雫が落ちるのがわかった。その感覚で、ようやく椅遊が泣いているということに気付く。


「僕……は……」
「アイツの紫電食らって気絶したんだろうが」


 脳が麻痺しているのか、状況を理解するのが遅い。ぽつりと自問するように呟いた言葉に、少し離れた左側の方から、楸の声が答えた。だるくて体を起こす気にもなれない。采は首だけでそちらを見た。

 どうやらココは、プロテルシア内の仮眠室のようなところらしく、布団もない寝台がたくさん並んでいた。自分もその中の1つに寝かされていたのだと、なんとなく悟る。楸は、自分の隣の寝台に座っていた。


「直撃は回避したらしいな。で、その余波で意識が吹っ飛んだんだ」
「……そ、か……」
「アイツは、お前にトドメを刺そうとした。それを、コイツ……椅遊がかばって、お前は生きながらえてるわけだ」
「……?? ひさぎ……さきに、」
「ああ?知るかそんなの」


 少しずつ、気を失う前のことを思い出す。
 玲哉が現れて、自分は玲哉に反抗して。それで……、


(気絶した、ってわけか……)


「……采」


 ふと、楸がそう呼ぶのが聞こえた。彼が名前で呼ぶなんて珍しいと思いつつ、楸を見ると、彼は赤い瞳でコチラを凝視していた。


「てめぇ、何でアイツに逆らった?確かにアイツは、根本的にいけ好かないがな。アイツに忠実だったお前が、何であえて勝ち目の戦いを挑んだ?」
「……間違ってると、思ったから。僕が……してること……」
「まぁ、それはどうでもいいがな」
「……なら……喋らせないでよ……」


 疲れた息を吐き出しながら、采は呆れたように言った。コッチは喋るのでも結構大変なのに、この男と来たら……。


「とにかく、これからはあんま逆らんなよ。その時はお前、次こそ殺されんぞ。それだけならまだしも、お前が死んだら、椅遊がその被害を受ける」
「……? 何で……」
「アイツは、椅遊に命を代価にした召喚をさせようとしてるだろ。で、お前の研究してた術で強制的にさせる予定だった……が、そのお前が死んだとする。それで召喚は不可能かと思いきや、誓継者ルース自身に強烈な絶望感を与えれば、お前がいなくてもできるんだと」
「強烈な、絶望感……? ……———!!」


 ……思い当たった予感は、最悪すぎた。


「そんなの……っ!!」


 思わず飛び起きかけたが、体が思うように動かず、その動作は寝台を少し揺らしただけだった。
 間髪入れずに襲いかかってきたヒリヒリした痛みに顔をしかめる采を、椅遊がハラハラした様子で見守る。


「それじゃあ、僕は……っ!!」
「とりあえず、黙って言うこと聞いてろ。アイツは多分、椅遊にお前の術をかけてから紫頭に返そうと考えてた。が、お前が反抗し、アイツは自分の手でお前を動けない状態にした。当然、お前は椅遊に術をかけることもできねぇ。そんな時に、紫頭どもはココに来た。……あの野郎、最悪な方にしたな」


 赤い瞳を伏せ、楸は玲哉の考えを読んで溜息を吐いた。続けざまにこれからのことも考え、楸は傍らに置いていた大剣を持って寝台から立った。


「采、てめぇはそれまでに回復してろよ」
「え……?」
「アイツの邪魔すんなら、その時しかねぇだろうが。アイツは、完全版の魔王召喚の目くらましに、バルディアを利用する気なんだろ。その時に、どさくさにまぎれて邪魔する。……あの紫頭を助けるみたいで気に食わねぇが」
「うん……楸、何処に行くつもり……?」
「テキトウに点数稼いでくる。……言っとくが、今から反抗してたんじゃ即バレんぞ」
「………………」


 図星を突かれたらしく、采は途端に黙りこくった。何も言い返してこない采を見て、楸は仮眠室から外へ出た。
 それとほぼ同時に、施設全体で切れかかっていた照明がぱっと明るくなり、薄暗い闇が物陰へと退いていく。先ほどまで明滅していたが、いきなり真っ白に輝き出した蛍光灯を見上げ、楸は呟いた。


「あの野郎……暴れ始めたな」





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