→→ Canon 2

 思い出すのは、あの日の、赤い赤い、夕暮れ時。
 まるで世界が嘆いているような、鮮やかな血の色。
 当然か、と思った記憶が蘇る。

 夕陽をバックにした、人影。

 流水のような、柔らかな浅葱色の眼。
 後に、次第に氷へと変わっていくその瞳が、弱々しく微笑んだ。


『君に、名前をあげよう』



  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪



 今度こそ、死んだと思った。
 意味のない「自分」という存在に、終止符が打たれたと思った。
 それなのに——


「……何で俺、生きてるんだよ」


 遥か彼方の水平線。意識を失う前も見たそれを忌々しげに睨みつけ、夕鷹はうめくように呟いた。

 采に負わされた傷は、乾いた血がジャケットに張りついているだけで、もうそれほど痛くない。つまり、あれから少なくとも1日は経っているということになる。
 周囲には、草花の咲き誇る野原。何事もなかったように、白い蝶が花に群がっている。柔らかな太陽の下、爽やかな風が髪を揺らしていった。


(魔王が、召喚されてないってわけか……?)


 そう考えるのが普通だろう。しかし、なぜ?
 少なくとも、梨音ではないだろう。梨音は、〈ヘル〉を召喚して消耗していたし、『拒絶の守護』も張っていた。その2つだけで、彼はすでに目一杯だ。
 なぜ召喚されていないかなんて、とりあえず今はどうでもいい。

 ただ、全部が嫌だ。
 こうなった世界も、自分を変えた記憶の人物も、全部。
 その中でも、一番自分が嫌だ。
 生きる目的もないのに、のうのうと世界を見つめるだけの自分が。
 見飽きた夜空。見飽きた風景。見飽きた世界。

 もう、嫌だ。

 ポロン、と心地良い音が鼓膜を叩く。後ろの方からした、聞き覚えのあるその音に振り返った。


「また会いましたね」


 ハープを奏でる少女——玻璃は、振り返った夕鷹にニッコリと微笑んだ。
 彼女の立っている辺りには、気絶している梨音と六香と神獣二匹。夕鷹だけが起きている時をまるで狙っているように現れる、この少女。
 その指先が響かせるのは、「七光歌」。流れるような美しい曲調が、繋がるように溢れ出す。

 なぜ彼女がココにいるのかという疑問が浮かんだが、聞いたところで前と同じやり取りになるだろうと予測して、夕鷹はあえて聞かなかった。いや、それよりも強い想いがあったから——の方が正当な理由かもしれない。


「お前の、仕業かよ……」
「はい」


 睨んでくる夕鷹に臆することもなく、事実を隠す素振りもなく、玻璃はすぐに肯定した。


「さっきの言葉ですが、夕鷹さんは、死にたいんですか?」
「……めんどくさいんだよ、もう。全部嫌だ」


 慣れた手つきで「七光歌」を弾きながら聞いてきた玻璃の問いに、夕鷹は率直に心の内を明かした。聞かれていたならもういい。そんな開き直ったような口調だった。
 玻璃は紫水晶アメジストのような瞳で、ハープを弾く手元を見ながら、答えからは程遠い助言をした。


「ならまず、自分を好きにならなきゃダメですよ。自分が嫌いだと、目に映るものも、すべて嫌に感じてしまうんです」
「好きに……?」


 玻璃が言った言葉に、夕鷹は少し意表を突かれたように目を開いた。

 好きになれ?
 誰を?
 ……自分?


 ——何を言っているんだ?


 せせら笑いが浮かぶのを、堪えられなかった。



「—————なれるわけないだろっ!!!」



 飛び出してきたのは、自分でも驚くくらい冷たい言葉だった。ポロン、という余韻を残して「七光歌」が途中で音を紡ぐのをやめる。


「お前、わかってるんだろ!? 俺が誰なのか!! 視えてるんだろ!? 複雑なこの中、、、が!! 俺の不安なんかわかんねぇよ誰にも!!」


 コチラを静かに見据えてくる玻璃を、激しい怒りの宿る目で強く睨みながら、夕鷹は荒々しい口調で吐き捨てた。
 ひどく感情的になっているのが、自分でもわかった。彼女のかけてきた、ただ飾り立てただけの無責任な言葉が、物凄く不快だった。
 知っている、、、、、クセに。

 自分が嫌だから、すべてが嫌に見える。
 すべてが嫌だから、自分も嫌に感じる。
 どっちなんだ?
 それとも、どっちもか?

 数秒して少し落ち着いてきた夕鷹は、玻璃にひどい言葉を言ったことと、本心を喋ってしまったこと、2つのことに対し、悔んだように自分の髪を片手で掻きむしってうつむいた。


「……好きになんか……なれないよ……俺に、良い所なんてないよ……」


 吹き抜ける風に掻き消えてしまいそうな、小さな弱々しい声。
 今まで静かに夕鷹の言葉に耳を傾けていた玻璃は、思い出したように、再びハープを弾き始めた。先ほどとは違う、のどかな旋律が踊り出す。


(……コレも、知ってる……「パルトラの夢」、だっけ……)


 「パルトラの夢」は、元々童話のタイトルだ。この童話を読んだある作曲家が、その世界観を音楽にした。それが今、玻璃の演奏している「パルトラの夢」。割りと最近のものだが、あまり知られてはいない。
 主人公のパルトラは、画家になるのが夢だった。とある日、たまたま出会った貴族に彼は絵の腕を認められ、その貴族付きの画家になる。しかしそれは夢が描いた『夢』で、目覚めたパルトラは残念がる。人生はそう甘くはないという教訓を含めた、童話にしては皮肉な内容となっている。


「貴方は、一人のままでいるから、そう感じるんですよ」


 だんだんアップテンポで軽快な曲節になってきていたメロディが、突然、ふつっと途絶えた。童話でいうと、パルトラが夢から覚めた辺りだろう。
 余韻が完全に消えてから、再び玻璃の手が静かに動き出す。さっきとは打って変わった、少し悲しげな旋律だ。


「自分の良い所なんて、自分で見つけられると思いますか?探したって出てくるのは、自分の嫌な所ばかり……探すのも嫌になって、無意識に探すのを諦めてしまうんです」


 玻璃は諭すような口調で、その音楽に唄のようにセリフをのせた。
 残念がるパルトラのように、哀愁漂うゆっくりとした節。それが次第に、明るい曲調になっていくのには、そう時間はかからなかった。

 童話「パルトラの夢」には、まだ続きがある。
 夢から覚め悔しい思いをしたパルトラは、今度は必ず、現実で夢を掴んでみせると意気込んで、それから絵の鍛錬に打ち込むようになった。いつか、自分の才能が認められるようにと。結果的にパルトラは、『夢』で見たような展開で現実でも画家になる。「努力すれば夢は叶う」という希望を残し、物語は終わるのだ。
 聞いているコチラも元気付けられてくるような、楽しげな音符達。


「それに、良い所を見つけなくても、自分は好きになれると思いますよ」
「え……?」
「自分だけじゃ、自分を好きになることはできません。でも自分が、誰かに大切だと思われているなら……ただそれだけで、自分を好きになれるような気がしませんか?」


 ポロロロ……ン。
 最後に玻璃は、ハープの弦の上にゆったり手を滑らせて、すべての弦を鳴らした。わずかに残った音も、だんだんと無に帰っていく。


「だからそのうち、好きになれますよ」


 まるで凪のような静寂が、辺りに満ちた。風景は同じなのに、そこだけ世界から隔離されたような、不思議な感覚。玻璃の言葉だけが、よく通る。

 ヒュウと風が耳元で鳴いたと思ったら、次にさわさわと草木が踊る音が帰ってきた。蒼い綺麗な髪を風になびかせ、玻璃はゆっくり後ろを振り返った。
 その彼女の動作で、ようやく気付いた。いつからそうしていたのか、蜜柑色の髪の少女が、そこに屹立きつりつしていた。


「ね?」


 玻璃は、呆然とした表情の六香に向かって微笑んで言った。それから、再び夕鷹を向いて、


「それでは、機会があれば、また会いましょう」


 そう言うと、玻璃は歌を口ずさみながら、森の深緑の中へと消えていった。

 歌声が遠ざかっていく代わりに、そこに訪れたのは沈黙だった。夕鷹は、まだ驚愕した顔をしている六香となるべく目を合わせないようにしながら、小さく声をかけた。


「……えっと、六香…………いつから、起きてた?」
「……夕鷹が、叫ぶちょっと前」
「あー……うん……そっか」


 まさか聞かれていたなんて、全然気が付かなかった。そんなに我を失っていたのかと、夕鷹は二度目の後悔をした。

 ——みんなには、聞かれたくなかった。
 椅遊にも、六香にも、フルーラにも、そして梨音にも。
 梨音にも話したことがなかった、心の内。
 話せるはずがなかった。梨音のことだから、恐らく勘付いていただろうと思うが。

 自分が嫌いなんて。そんなこと、言えるわけがなくて。
 それでも自分が嫌いで嫌いで、どうしても好きになれなかった。
 黙っていた分、溜まっていたそれを突付いた玻璃に、すべて吐き出してしまった。しかも、かなり乱暴な口調で。


「……あ、あのさ、夕鷹」


 何を言えばいいのかわからなくて黙っていた夕鷹に、六香が控えめに声をかけた。コチラを見た夕鷹と目が合い、六香は慌てて目を逸らしてから言う。


「その…………あ、アタシもイオンも、椅遊だって、アンタがいないと、すっごく嫌なんだからねっ!そんだけ!」


 早口で一方的に喋り終え、六香はくるりと身を翻し、逃げるように、まだ倒れている梨音達の元へ行く。


  『自分が、誰かに大切だと思われているなら……ただそれだけで、自分を好きになれるような気がしませんか?』


(…………あぁ……そーゆーことか)


 先ほどの玻璃の言葉を思い出し、夕鷹はぼんやりと、その意味を噛み締めた。

 大切なものを失うのが嫌なのは、なぜなのか。
 それはきっと、それが、大好きなものだから。
 失ったら自分が傷ついてしまうほど、大好きなものだから。
 その、大切だいすきなものとして認識されているなら、自分を嫌いになんてなれない——玻璃は、そう言いたかったのかもしれない。

 ——気付かぬうちに、微笑がこぼれていた。


「……六香、さんきゅ」


 梨音の意識の有無を見ていた六香にギリギリ聞こえる程度の音量で言うと、六香はギクッと背中を震わせた。何処となく横顔がほんのり赤い。照れていると見ると、夕鷹は「あはは」と笑いながら六香の近くまで行く。


「さすがだなぁ、アイツの言葉の意味、わかってたんだ」
「な、何よ?おだてたって何もあげないわよ?」
「あはは、うん。はは、面白いなぁ〜」
「あーもう!何なの!? 『自分わかっちゃってます』みたいなその笑い方、ムカつくからやめて!」
「あははは〜〜♪」
「わざとやんないのッ!」





 今はまだ、このままでもいいかもしれない。
 大切だって、思われているだけで。それが嬉しいって、思えるだけで。
 ずっと、こんな日々が続けばいいのに。
 何も知らない今は、まだ、このままで。


 欲張りだと、自分でも思うけど。
 この関係を、壊したくない。
 カラッポな俺の唯一の願いは、それだけ。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





「……見っけ」


 カンカンと音を立てながら、鋼鉄の階段を上がって薄暗い空が見える場所に出た采は、辺りを見渡し、栗色の長い髪を見つけて言った。
 以前、玲哉が乗っ取ったルセイン要塞の屋上で、背後の、暗雲の立ち込めるバルディア方面とは正反対の、日光に照らされたフェルベス方面で、その風景をぼんやりと眺めていた天乃は、その声に振り返った。
 いつも持ち歩いていた鎌は、今は持っていない。アレさえなければ、普通の男の子に見える。その采の額が赤いことに、天乃は気付いていた。


「采」
「今、帰ってきた……」
「オデコ、どうかした?」
「あ……うん……フリア神創術カルフィレア に……失敗、して……かなり、派手に……」


 天乃に言われて、采はオデコの赤い部分を押さえ、ごもごもとそう答えた。
 それもそうだろう。フィスセリア島から、ここルセイン要塞まではかなりの距離がある。あの不安定な転移術で成功する方がまず無理だ。


「あぁ……そう。もう、作業に入るところ?」
「………………」


 天乃がそう聞くと、采は突然うつむいて、黙り込んでしまった。天乃が訝しげに采を見ていると、彼はゆっくり顔を上げ、かすかに憂いだ表情で、下ろした手の位置にある服を握り締めた。


「…………天乃……、僕は……間違ってるの?」
「……どういうこと?」
「あそこにいた時は……思ったことなかったけど……いろんな人達を見てると、思うんだ……僕は、間違ってるんじゃないかって……」


 反抗期の年頃だからだろうか。彼の親ともいえるような存在である玲哉の言うことが本当に正しいのか、信じ切れていない。天乃が采を初めて見た時は、玲哉を信じて疑わない子だったというのに。子供ならではの良心が、彼に訴えているのだろう。
 天乃は屋上の手すりに手をかけ、困ったようにふぅと息を吐いた。


「……私に、それは愚問」
「あ……そうだった……」


 返ってきた言葉を聞き、采は自分の抜け目に呆れて緊張を解いた。

 天乃は、玲哉に忠実だ。采以上かもしれない。間違っているとわかっているような行動でも、天乃はただ彼のために力を行使する。


「そう思うのなら、君はココにいるべきじゃない。……でも、もう後戻りは効かない」
「うん……」
「今更やめるなんて言ったら、あの人は、迷わず君を殺す」
「………………」


 やはりそうかと、采は内心で唸った。

 玲哉は、確かに自分の親代わりだ。しかし恐らく、そう思っているのは自分だけで、玲哉にとって自分は『使える手下』でしかないのだろう。その自分が裏切るなんてしようものなら、天乃の言う通り、玲哉は躊躇いなく殺す。自分が、敵に回って厄介になる前に。
 ——そういう人だ、玲哉は。
 一緒にいたからこそ、わかる。邪魔だったら消す。それだけ。他には何も考えない。


「……私も、君みたいな子は殺されてほしくない。……我慢は、つらいかもしれない。それでも、裏切らないで」
「……うん……」


 現実を突きつけられて悩む采の心中を悟り、天乃が静かにそう言うと、采は小さく頷いた。その反応を見て、天乃は少し考えた後、彼の近くまで歩いていって、唐突に采の頭に手を置いた。
 頭の上の手を采が見上げると、天乃は何処か懐かしむように、あまり見ない柔らかい笑顔を浮かべて彼の髪を撫でていた。


「……君は、あの子によく似てる」
「あの子……?」
「何でもない」


 自分のことを話さない天乃の、ポロリとこぼれた言葉。采がオウム返しに聞くが、やはり話してくれなかった。





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