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exodus

92 夢の終わり

 ――ほんの少しだけ、罪悪感があった。  自分を蘇生させて、勝手に一人で神界に行ってしまった少女。  ただそれが気に食わなくて、自分のエゴで連れ戻した。  連れ戻して、安堵して、やっと冷静になって。――ふと、理性が囁いた。  もしかしたら、彼女は、帰ってくることなど望んでいないのではないか。  彼女は神子だ。  こちらに……自分たち人間の側に引きずり込んでいいのか?  ユグドラシルこそ、神子たる彼女のいるべき場所なのではないか?   『私、ここに帰って来られて嬉しいです。だから……ありがとうございました』  ――だから。何気ないあの一言に、こちらがどれほど救われたかなんて、本人は知る由もないだろう。  本当に、あの馬鹿は、わかっているんだか、いないんだか。  だから、それ以上、考えなかった。  思考を止めた。  考えることを、避けた。  これは……そのツケが、ひずみが、溜まった結果だ。  緩やかに、眠りから目覚める。  深い海の底から浮上し、眩しい水面が近付いて、視界が明瞭になっていく。  同時に、意識がはっきりするに従って、おぼろげに見えていた残像が遠くなっていく。  それを追うように手を伸ばし――  右腕に、鈍い痛みが駆け抜けた。  霞がかっていた意識が、否応無しに覚醒する。  寝起きで気が抜けていて油断した。漏れかけた苦悶の声を噛み殺す。  輪郭が鮮明に映るようになった視界に、天井に向けて上げられた自分の腕が見える。……包帯だらけだ。  そして、すべてを思い出した。   『私は……お母さんの子で、いられますか……?』  ――行かないと。  アイツが泣いていたのは、連れて行かれたのは、自分のせいだ。  考えることをやめたから。  自分達の間にあった、決定的な溝について。  あの馬鹿は、一人で思い悩んだらまずいのだ。  だから、行かないと―― 「っ……」  体を起こした途端、体幹に電撃のような激痛が走った。起きる際に支えにした右腕はもちろん、脇腹の裂傷が動く度に疼く。体に力が入らない。  特に、恐らく右腕の傷は、本来はもっと鋭い痛みなのだろう。破壊ロアを使ったこともあってやや感覚が鈍いのに、それでもこの痛みだ。 「ノスト君っ……!? 寝てないと……!」  突然、声がして誰かが傍にいることに気が付いた。白髪の少女が、いつもの無表情に少しだけ焦りの色を織り交ぜて、自分が起きるのを押し留めようとしている。  その手を振り払おうとしたら、今度は反対側から別の手が伸びてきた。不思議な腕力で押され、再びベッドの上に倒れ込む。 「大人しく寝てろ!お前には、まだ神とバトるって役目があるんだよ!そん時まで休んでろ!」  片腕一本で、起き上がろうとしたノストを押し返したのは黒髪の少年。力が入らないとは言え、赤子の手を捻るが如き力の差だった。  ――当然だろう。この少年は、千年近くの時を生きている遺物アルカなのだから。   『ステラは、オースで構成されたルナの複写物。そういう意味では、ステラはアルカと同じと言ってもいいわ』  ……その行動は、無意識だった。  唐突に胸倉を掴み上げられたセルクは、紺瞳を見開いてこちらを凝視する。 「何だよ?文句あんのか?」 「……………………………………」  ぶっきらぼうに、しかし純粋に疑問に思った声が尋ねてくる。しかしノストは、自分でもよくわからない感情の動きに当惑して答えられない。  なぜ苛立っているのだろう。  なぜ焦っているのだろう。  ――先ほど、脳裏を掠めた羨望は? 「……ノスト君は、焦ってるだけ。今まで自分が避けていたものが……今、ステラ君を苦しめてるって」  自分ですらわかっていない、そんな荒れた心の中を読んだミカユが、諭すように言う。  浅葱色の双眸が鏡のようにノストを映している。 「でも……そんなこと・・・・・、ステラ君は望んでないよ……」 「………………アイツは……」  ぼそりと声を発する。渇いた喉が痛い。 「……アイツは……いないのか」 「……行っちまったよ。ユグドラシルに」  一瞬口ごもってから、セルクは溜息とともに苦々しそうに吐き出した。いつの間にか緩んでいたノストの手を払い、続ける。 「ヨルムデルの境界は、前に言ったようにブッ壊れてて使いもんにならねぇ。かと言ってダウィーゼから入るっても、どっちにしろユグドラシルの拒絶は、今のお前には負荷がかかりすぎる。だから大人しく寝てろ……、って……」  少し視線を外した間に、ノストは再び起き上がっていた。ほぼ死人のような蒼白い顔で、荒い呼吸を繰り返しながら、ベッドから降りようとする。 「ったく、言ってるハナから……」  すぐに押し返すわけでもなく、黒い少年は、感心を通り越して呆れた様子で頭を掻いた。  右腕を中心とした裂傷と血液不足、過度の疲労、ひどい倦怠感など、さまざまなマイナス要素が絡み合った最悪のコンディション。おぼつかないつま先を床につけた時、その痩せた両の頬に、そっと白い指先が触れた。  気が付けば、白い儚げな少女の顔が、真正面にあった。  何処までも見通してしまいそうな、水面のような、透明な水色と目が合う。 「だから……ボクらがノスト君を看る役なんだよ……?」 「……ッ……」  不意に、目の前が霞み始めた。景色が遠ざかる。生闇イロウの力のことを思い出し、焦って意識を繋ぎとめようとするが、すればするほど指の間をすり抜けていく。  どんどんと、意識の海の底に沈んでいく。暗くなっていく。  真っ暗になる寸前に、水中を揺らす泡のように声が響いた。 「自分の心配をした方がいいぜ、ディアノスト」   ////////////////// 「自分たちの心配をした方がいいかもしれないね」  黒い水面が張ったカップを揺らして、サリカが告げる。ヒースの家内、壁に寄りかかり、意味深に口元に笑みを刻んだ。  ――数日前、ステラが連れ去られてから、神の軍の奇襲がぱたりと止んだ。神が真実の隠蔽を目的としている以上、このままでは終わらないと思うが……これまでが嘘のように、今は平穏だ。  まるで、嵐の前の静けさのような不気味さ。 「敵は一人もいない・・・・・・・・……制約に引っかかってリズが消えてしまったことを考えれば、真実であることは間違いないが……仮に神の軍は敵ではないとしても、間違いなく神は敵だ。少なくとも、私にとっては」  近くの食卓についていた黒ずくめの男が、目の前のコーヒーカップを見下ろして言う。その横顔には、妹の言葉の謎にまつわる怪訝さはあっても、迷いはない。 「そりゃそうだろうさ。この現状を見て、誰も、『神は敵じゃない』なんて言えるわけがない。私だってそう思ってるよ」 「だろうな」 「――だけどね、面白いことに、私はこの現状を疑え・・・・・・・って言われてるんだよね」  まるで言葉遊びのような一言に、スロウの紫瞳が上がる。説明を求める視線に対し、サリカは、自分でもわかっていないから曖昧に笑うしかなかった。 「私達に襲撃してきた神の軍も、一言言って制約に引っかかって消えた。まぁ、それは知り合いだったんだけど……そう言われたのさ」 「……ほう。確かに、自分達の心配をした方が賢明だな」  攻撃しておきながら、『敵は一人もいない』。そして、『この現状を疑え』。  ――つまり、恐らく。  自分達は、何か、大切なことを見落としている。  それも、根本的な、重要な何かを。 「皆目見当がつかないな」 「そうだねぇ。まず、何処から洗い出そうかってところだ」 「現状を疑えと言われている上で、現状をどう洗い出すか、困ったものだな」  理屈で物を考えるから頭は柔らかい方ではなく、正直お手上げなスロウは、おもむろにカップを手に取った。そして一口飲んでその手が止まる。コーヒーを一瞥し、ぽつりと一言。 「……まさか、ここの村人の貧しい生活は演出なのか?」 「はは、そりゃ手の込んだ演出だねぇ。村でとれたものじゃないよ、私らが買ってきたフェルシエラのお土産」 「観光気分とは、随分と余裕だな。……教団の面々では、いつものことだが」 「スロウは逆に、もっと肩の力を抜いた方がいいんじゃない?」  在りし日を思い出しているのか苦笑気味のスロウに、サリカはくすくすと笑んだ。   //////////////////
  //////////////////  ……夢を、見てたんだ。  彼の隣にいて、当たり前のように一緒に過ごして、旅して。  すべてを知ってなお、それは変わらなくて。  ごく普通の人間みたいな、そんな幸せな日々。  でも、夢はいつか醒める。  ああ、そうだった。  全部……夢だったんだ―――  夢から醒める。  暗い瞼の裏から現れた世界は、同じく真っ暗だった。でも、その中に小さなきらめきが見えて納得する。  星空に浮かんでいるような世界。  神界ユグドラシル。 「………………」  すべての魂の墓地であり、胎内でもある空間。何度来ても、この場所はこの世のものじゃないように綺麗だ。……確かに文字通りの別世界だけど。  緑石の円盤の上に倒れていた私は、ゆっくり体を起こす。大分長い間、神水に浸っていたらしくて体が冷えていた。  神水は、冷たいという感覚はあっても濡れることはないから、髪はさらさらと肩に落ちる。起きる際に揺れた頭が少しだけ痛んだ。  よく見ると、私の周囲には、山吹色の雷が飛び交っていた。それらが構成するのは山吹色の檻。私は、その中に閉じ込められている。神水にも雷が飛んでるけど、不思議と水を伝って感電もしない。  何気なく手を伸ばしたら、指先に雷が掠った―― 「……ッ!?」  瞬間、視界も感覚もすべてが真っ白になった。理解が追いつかない空白の一瞬があって、直後、『激しい雷撃が脳裏に落ちた』。 「―――うぁぁああっ!!?」  激しい頭痛が襲ってきて、頭を抱えた。その瞬間、雷から手が離れ、同時に痛みは嘘のように引く。その余韻が、私の頭を侵食する。  ……痛い……この感覚……知ってる。気絶する前……エリナさんに捕まって、その時襲ってきたものと、よく似てる。  身体じゃなく、精神に向けた攻撃。脳髄に電撃が走るような、激しい痛みだ。完全に内部に向けた攻撃だから防げないし、何より頭を攻撃されると、何もできない。痛みが伝染して体も硬直、ひどい場合は、傷も負ってないのに痛みを訴える。  触れれば発動する術式なんだろう。私自身は、グレイヴ=ジクルドがなければ破壊ロア再生ラシュファもできないし、もし解除する場合は、術式を書き換えるしかない。でも……触れて解析してからじゃないと、書き換えはできない。  ―――身を滅ぼしたくなければ 妙な気を起こさぬことだ―――  暗闇の世界に荘厳に反響する、相変わらず年齢、性別何もかもが不詳の不思議な声色。  ―――それは オースを放つ術式―――  ―――触れればそなた自身のボルテオースと反発し 結果として頭痛となる―――  そうか……前、カノンフィリカのオースと、私自身のボルテオースが反発したことがあった。マオ山道で。  あの時は、カノンフィリカが体に吸収されてたから、息苦しくて……今は、真っ先に頭に来るようになっているらしい。そのせいで私は、クロムエラトを使えない。だってクロムエラトは想いの力だし、想わなければ使えない。この激痛は、感情すら食い潰してしまう……。  逆に言えば、この檻は、ボルテオースを持たない者には、まったく効力がない代物だ。  でも……私は、神子だから。 「………………」  少しの間を置いてから、私は檻の中で膝を抱いて座り直した。  ユグドラシルがすべて真っ黒じゃなくてよかったと思う。そうじゃないと……とても孤独で。  ……ずっと、見ないフリをしてた。  考えたくなかったから、気付かないフリをした。  あのまま、ノストさんと一緒にいられたら、もうそれでよかったから。  ……でも、因果は許してくれなかった。この現状が、答えだ。  私は、神子だ。  人間のノストさんとは、違うんだ。  人の形をしてるけど、人じゃない。  ……でも、変な力を持っているけど、神でもない。  人でも神でもない、中途半端な存在。 ≪……そうね。私たち神子は、とても中途半端≫  ……不意に、すぐ隣から、染み入るような優しい声がした。神様の声……じゃない。 ≪私なんて、もっと中途半端。中途半端に人間の姿をしていたからこそ、私は醜かった。境界に立つ者は……いつだって苦しいわ≫ 「……カノン、さん?」  それがカノンさんの声だって、すぐに気付けなかった。だって今の彼女の声色は、年齢と性別が不詳の、神様のものの響きに近い。  振り向くけど、そこには誰もいない。でも小さな吐息が頬に触れたような気がした。 ≪私の姿は見えないわよ。今は意識だけだもの。前に、アンタの体のボルテオースを組むために、私の体の力を使ったから。結構気楽よ?≫ 「あ……はい、ラルさんから聞きました。あの、ありがとうございました。でも……カノンさんが」 ≪アンタは、体の術式に意識が定着しないと覚醒しないから、他に手はなかったわ。私はこうして、体がなくても平気だけど。元が幽霊のような存在だから≫  そうして、カノンさんは微笑んだように思えた。全然見えないけど、確かに彼女はここにいる。体がないから、声帯もないってことで……響きが不思議なのかな。ということは、これは思念での声?  カノンさんの声が、虚空に向けられる。 ≪……母様。これからどうするつもり?≫  ……神様の目的は、私の破壊と、真実の隠蔽。  ということは、次は……  光が舞った。  唾を飲み込んだ私の目の前。檻の向こう側で、淡い山吹色の光が縦に渦を描く。  やがて、光の粒はふわりと舞い散った。その光のカーテンの裏側から垣間見えたもの。  見覚えのある、白と赤の服。  淡い茶の髪は、右側だけちょこんと結っていて。  開かれた双眸は、私と同じ色でこちらを見つめる。 「……わた、し……」 「……そう。前回は、カノンさんと同じ構成にしたせいで、再生ラシュファにやられちゃったけど……今回は、そうはいかないよ。神の軍と同じ構成だから」  私と同じ声で、少女はくすりと笑う。  寸分のブレなく、まったく同じ。年上以外には敬語は使わない、という癖まで一緒。  自分自身かと思っちゃうくらいに、同じ。……きっと、ボルテオースの配列からすべて、同じ。  ルナさんの写真を初めて見た時よりも、ずっとずっと不気味だった。  神様の意識で動く少女は、瞬時に構成した山吹色の剣を手に、私に背を向ける。嫌な予感が現実味を帯びて、とっさに声を張り上げた。 「ま、待って!何を……何をする気ですか!?」 「わかってるでしょう?」  少女は、肩越しに同じ顔の私を見る。ずっとその顔に張り付いている微笑は、見たことないくらい無感動な、形式的なもので。人間味がなくて、ぞっとする。  凍りついた私から目を離し、少女は無造作に、手前の空間を真一文字に一閃した。剣と同じ色の軌跡が、縦にがばりと口を開く。  その穴に飛び込む背中が、優しく囁いた。 「病んでいる、エオスを救いに」