→→ Requiem 2

 やっぱりピザは、耳が一番だろう。
 いや全部美味いが、でもやっぱり耳があってこそのピザだ。


「……む……あ、ウェイターサン」
「はい?」
「このピザ、耳ないよね?」
「いえ、この外周の部分がそうです」
「コレ?ぺったんこだよ」
「当店のピザは、薄めで食感が売りですので」
「……へー……」


 ——黒い雲が立ち込める空の下。お世辞にも晴天とは言えないが、西の大国バルディアでは、コレが精一杯の晴天だった。
 バルディアのビアルド郊外。この空の下だとあまり嬉しい気がしないオープンカフェで、立ち去るウェイターを見送る二ノ瀬夕鷹は、不満そうな顔で頬杖をついた。

 激しい跳ねっ毛の菫色の髪を苛立ったように掻いて、金の瞳で目の前のピザを睨みつける。普段はあまり表情が変化しない青年だが、この時ばかりは怒った顔をしていた。


「……やっぱピザは耳でしょ」


 赤いトマトソースが塗られた平たいピザを見て、夕鷹は拗ねたように小さく呟く。最後にあの部分を食べるからピザなのに……と、よくわからない理屈を内心で並べ立てる。
 辺りを見てみると、自分の他にもピザを食べている人々がいた。そのピザを見てみると、やはりそれにも耳はない。自分だけではないらしい。

 他人が食べているのを見ると、なんだかおいしそうに見える。耳がないピザなんてピザじゃないと思いながら、一切れ手に取った。ひとまず食べてみる。


「…………む……結構美味い」


 散々心の中で貶したが、意外と美味だった。食感が売りとか言っていたが、確かになんとなくパリパリサクサクしていていい。あっという間に1枚食べ終え、また一切れ、手を伸ばす。


「コレで耳があれば最高なんだけどな……」
「……相変わらず、ピザにはうるさいね」
「そりゃ好物だからな」


 真横から唐突にかかった声は、少女のものだった。聞き慣れない声だったが、相手の接近を察していた夕鷹は、大して驚かずにさらっと答えた。
 ピザを食べながら、声がした方を見ると、傍に、何処か悲しげな表情をした少女が立っていた。15歳くらいに見える。
 切り揃えられた灰色の髪の左右から、褐色の肌の長い耳が生えている。彼女の全身をざっと見てから、夕鷹はその桃色の眼と視線を合わせて言った。


「ふーん。魔族は初めてじゃないの?」
「……うん。初めまして夕鷹。ボクは更凌季逢花。……47回目の再会だね」
「逢花、か。うん。よろしく」


 ピザのチーズを伸ばす夕鷹に答えながら、少女——更凌季逢花は、彼の向かいのイスに座る。そして、まだ何枚か残っているピザを1枚とった。


「……確かに、耳がないね」
「うん。けど、なんか食感良くて美味いから合格」


 ぱくっと食べる逢花に、早くも2枚目を食べ終わった夕鷹が言う。ピザを食べている時の夕鷹は、いつも幸せそうだ。普段はキョトンとした顔ばかりなのに、その時だけは物凄く人間らしい。
 3枚目のピザを満足げな顔で食べる夕鷹を見ながら、逢花は自分に意識を向けた。……夕鷹に対し、自分は、だんだんと人間らしさを失っている気がする。


「……夕鷹は……どんどん人間らしくなってるよね。最初の頃は、なぜかピザばっかり要求してきて……しばらくしてから大好物だって気付いたよね。何と言うか……自分の心を処理するのが下手だった」
「今もわからないことばっかだけどな。人の心って、複雑でよくわかんないよ」
「……そうだね。怒り、悲しみ、喜び……感情を表す単語はいくつもあるけど、心はそんなきっぱり分かれてない。本質的には、もっと複雑だから。……そう急くことはないよ。人間でも、自分自身がわからない時はたくさんあるから」


 諭すように言う逢花の話を、もぐもぐ口を動かしながら聞いていた夕鷹は、ごくんっと飲み込むと、何処か納得行かなさそう顔で尋ねてきた。


「ふーん……お前も?もう何百年も生きてるお前でも?」
「……もちろん」
「……そうなの?」
「……うん」


 ——むしろボクは……時が経つごとに、自分がわからなくなっていく。
 純粋に疑問そうな夕鷹を見つつ、心の中で付け足して、逢花は食べかけのピザに噛みついた。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 バルディア首都ビアルドの街は、夕鷹から見れば、何と言うか厳めしかった。
 街並み自体は、さほど他国と変わらない。違うのは、その生活に根を下ろし始めた仕掛けだった。
 近付くと自動で開くドア。白い光を放つ明かり。雷をもとにした電力という、フェルベスやイースルシアとは根本から動力が違う故に当然だったが、驚きの連続だった。


(……もう少し、見てみたかったけどな)


 ふぅ……と、嘆息がこぼれる。少し残念に思いながら、逢花は横目で隣を見た。そこでは夕鷹が、手に持った明かり——懐中電灯を付けたり消したりしながら歩いている。

 ——数十年前から、バルディアは、己の国の環境……雷を活用する機械工学に取り組み始めた。
 今、夕鷹とは、大陸を歩いて回っている最中だ。ちょうどいいからと、半年前くらいから、個人的に興味があったバルディアに来ている。

 ……ふ、と。小さく嘲笑の吐息がもれた。


(……人間らしさは失ってるクセに、好奇心は衰えてない、か……)


 己の体があった頃のことを思い出した。魔術師で研究者だった自分は、知らないものには深い興味を持っていた。何百年も経つのに、それだけは衰えていないのか。
 ぼんやりそう思っていると、ふと気が付いたように、夕鷹が懐中電灯から目を離してコチラを見た。


「そーいや逢花、機械、調べてみたいんじゃなかったっけ?」
「………………」


 ……思わず溜息が出た。ビアルドから出て、もう数十分経っているのに、今気が付いたのか。それだけ、そのオモチャに夢中だった……ということにしておこう。


「……もういいよ。何処かの誰かさんのせいで、それどころじゃなかったし」
「ふーん。それって何処の誰?」
「……さぁね」


 わざと引っかかる言い方をしたつもりだったが、まだ「相手の言葉を疑う」ということを十分にできていない夕鷹には通用しなかった。呆れたように言い捨て、逢花は、また懐中電灯オモチャに熱中する夕鷹を見やる。

 常に天上が黒い雲に覆われているバルディアで育つ人々は、みな色白だ。そんな中、希少とはいえ魔族の自分はともかく、バルディア人より焼けた肌の夕鷹はとても目立つ。一目で外国の者だと悟られるだろう。現在、バルディアの国境に15章の護りゲイルアークという城壁ならぬ国壁が建設中らしく、それが完成したら、恐らく外人は入国した時点で捕まるだろう。
 とは言え、自分も種族が違うため、似たようなものだ。善意で他種族に技術を見せてくれるわけがない。国が保管する重要かつ精密な機械は、お目通りすら叶わないだろう。
 だからひとまず、街にもあるような簡単なものでいいから眺めてみようと思ったのだが、ビアルドで、夕鷹が自動ドアに驚き感動して遊び始めた。あのキョトン顔のまま。ただでさえ目立ったら動きづらいのに、周囲の注目をたくさん集めてくれたので、さっさと街を出ることにした。

 パチっとライトを点けて、何気なく空を仰いだ夕鷹は、そのままの格好でぽつりと言った。


「逢花」
「……何?」
「この国、何で太陽出てないの?というか空、真っ黒だけど、何で?」
「……今気付いたの?」
「うん。他の国は青かったはずだろ?」


 不思議そうな顔で、夕鷹は逢花を見て聞く。バルディアに入ってから、すでに半年は経っていた。それなのに、彼は今、空を見て初めて気が付いたと言う。


「……日光、出てないって感じてなかったの?眩しいとか、熱いとか」
「…………さあ?何それ?」
「………………」


 逢花が慎重に問うと、夕鷹は少し悩んだ後、わからなくなって放り出した。ということは、「眩しい」も「熱い」も感じなかったらしい。

 ——二ノ瀬夕鷹。彼の体は、器だ。彼の魂ではなく、聖王バルストを封じておくための器。そして彼という人格は、聖王バルストの片鱗から成っている。
 そのせいか、いまいち意識と体とが連結されていない。最初の頃は、視覚・聴覚はまだともかく、他の刺激にはめっぽう鈍かった。特に触覚は、未だに完全に掌握しているわけではないらしく、平気な顔をして血をダラダラ流している時もあった。きっと自分がいないと、彼は間違いなく野垂れ死ぬ。

 どうやら今の夕鷹の五感せかいは、視覚と聴覚と味覚で成り立っているようだ。思っていたより、時間がかかりそうだ……と、夕鷹の体の状況を整理してから、逢花は話を戻した。


「……バルディアには、〈燈鳥〉ラースンがいるって言われてるからだよ。空が暗雲に覆われてる理由」
「らーすん……?」
「……神獣の一体だよ。天候を操るって言われてる」
「……シンジュー?」
「……神が、空界を身近に見守りながら、空界を守るために生み出した、不死の五体の獣のことだよ」


 自分が挙げる単語を問い返してくる夕鷹。そういえば夕鷹には、こういう一般常識もないのだった。神獣の話はしたことがなかったから、知らないのは当然だった。


「天気を操る鳥が住んでるから……影響されて、真っ黒なの?」
「……まぁ、そんなところ。ラースンを見たって噂もあるらしいし、他に理由も考えられないし、そうじゃないかな。……ボクは半信半疑だけど」
「はんしんはんぎ……」
「……半分信じて、半分疑って見てるってことだよ」
「ふーん……」


 自分の知らない言葉を、キョトンとした顔で問い返してくるさまは子供だ。傍から見れば、逢花の方が子供なのに、実際は逆だ。
 夕鷹はすでに百年単位の時を過ごしているが、熟語や慣用句などにはまだ疎い。特に慣用句は、感情の起伏が乏しい彼には、イマイチ理解しがたいようだ。

 逢花が視線を前に戻すと、この道と、別の道が合流する岐路が見えた。そこの分かれ道で、大きな荷物を背負って困った顔をしている女性がうろついていた。
 その女性と、目が合った。すると彼女は、途端に安心したように笑顔を綻ばせた。


「あっ、いいところに!あの、すみませーん!!」


 コチラに向かって駆けてきたが、背中の荷物が重いらしく、楽に歩いていても追い抜けそうなくらい、その速度は非常に遅い。結局、二人と女性とが近付いたのは、分かれ道から数歩進んだ辺りだった。
 足を止めた逢花と夕鷹の前で、女性ははーひーと息を整えてから、体を起こした。年は20代半ばくらいに見えたが、随分と若々しい……むしろ、子供っぽい人だと感じた。


「わたし、ビアルドに行きたいんですっ!でも、分かれ道があって困ってたんです〜!あなた方は、この道通ってきたんですよね?この道は、ビアルドに続いてますかっ??」


 恐らく、夕鷹と逢花とを比べて、夕鷹の方が年上に見えたからだろう。女性の金の瞳、、、が夕鷹に向いて……ぱっと大きくなった。


「あれれっ?? お兄さんも、金眼者バルシーラなんですね〜?わたしもなんです〜!」
「……ばるしーら……」


 嬉しげに微笑む女性の言葉に、夕鷹は、自分の目元に手を当てて呟く。金眼者バルシーラのことは前に教えたから、意味はわかっているはずだ。


「わたし、お仲間さんに初めて会いましたっ!嬉しいです〜」
「……ビアルドなら、この道をまっすぐ行けば着きますよ」
「あっ、本当ですか?? ありがとうございます〜!じゃあわたしは、この辺で失礼しますね〜」


 自分以外の金眼者バルシーラに会って喜ぶ女性に、逢花はそれとなく話を戻し、立ち去るように仕向けた。女性はそれを聞いて、ペコリと頭を下げると、重い荷物を背負い直して歩いていった。
 その大きな後姿を振り返ってから、逢花は歩き出した。一緒に背後を見ていた夕鷹も、遅れて彼女に続き、隣に並んで……相変わらずの無垢な感性で、不思議そうに聞いてきた。


「逢花。金眼って、珍しいの?」
「……うん。珍しいよ」
「何で生まれるの?」
「………………」


 ——すぐに答えを出せず、逢花は黙した。
 金眼者バルシーラが生まれる理由。……それは、自分が生まれる前からの疑問だったから。

 夕鷹は、すでに遠く離れて小さくなっている、さっきの女性の背を振り返ってから言う。


「俺は体が聖力でできてるから当然だけど。たまに会うけど、他の奴らは何でなの?」
「……それは、ボクだって知りたいよ。だけど……少し、思い当たる節がある」
「ふーん?」


 興味深そうに、歩きながら夕鷹がコチラを見る。数百年の時の中で、それを考えていた逢花は、静かに自分の考えを口にした。


「……金眼者バルシーラ……先天性異常構成症。生まれる前から通常の構成比率が反転した人に顕現する」
「うん」
「……つまり、生まれる前の命にかかわれる、、、、、、、、、、、、、者の仕業だって考えるのが、妥当だと思う」


 —— 一歩、前に出た足は、それ以上進まなかった。

 足をついた瞬間、その足元に白い光が溢れたのが見えて、それっきりだった。気が付けば、逢花は、地面から這い上がってきた白い光のつるに、四肢を絡め取られていた。


「っ……?!」
「!?」


 夕鷹にも目視できなかったらしく、彼ははっとした顔をしてから、逢花を拘束する蔓に手を伸ばした。しかし刹那で地面から飛び出た別の蔓が、その動きさえ絡め取り、彼の腕を這い上がろうとする。それを振り払い、夕鷹は大きく身を引いた。



 危害を加えるつもりはないから、落ち着きなさい—————



 波紋のように響いた声を聞きながら、夕鷹は、標的を失った蔓が、さらりと砂のような粒になって消えていくのを見ていた。
 何もない道の真ん中に、白い陣が、ぐるりと回転しながら広がる。白い蔓に縛り上げられている逢花は、目の前で、自分の両手を広げたくらいの大きさで展開終了したその円から、何か白いものが盛り上がるのを見ていた。
 可動式の床を上がってきたように出現した、純白のシルエットは——


「…………〈ヘ……ル〉……?」
「いや……違う……コイツは……」


 逢花の瞳孔に映った白い影は、過去に一度だけ、見たことのある形をしていた。忘れもしない、魔界の紅き女王。
 無意識に唇にその名を乗せると、少し離れた場所で、夕鷹が静かに否定した。彼は白い影を凝視して言いかけたが、しかしその先がすぐに出てこない。だが、自分は確実にコイツを知っていると、何かが訴えていた。

 白い影の顔には、目も鼻も口もなかった。本当に、魔界の女王〈ヘル〉を、等身大かつ立体的に作って、すべてを白で塗り潰してしまったようだ。
 やがて、何もない顔で、白い影は逢花を見た、、。そして、口もないのに声を発した。


≪……ボクは〈ヘル〉ではありません。それは、貴方がよく知っているはずです≫
「な……」


 ……頭に直接語りかけられた声は、聞き覚えのある声だった。——自分、逢花自身の声、口調だった。
 自分自身と話しているような錯覚に逢花が唖然とすると、夕鷹が確信を持ってその名を口にした。


「じゃあお前は……<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>か」
≪うん。久しぶり、聖王バルスト。でも片鱗のお前じゃ、覚えてないか≫
「……俺の、声……」


 夕鷹が白い影——<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>に声を掛けた瞬間、リデルの声質が大きく変化した。逢花の声から、今度は夕鷹の声、口調を、余すことなく複写して返答する。夕鷹さえも、思わず言葉を止めた。


≪……ボクは普段、聖界に溶け込んでいて実体を持っていません。だから空界に来る時は、こーして〈ヘル〉の影を借りるんだ。また、己の自我も持たないので、相手の声や口調を複写して会話します。変な気分かもしんないけど、俺がこーゆー存在である以上、仕方ないことだから≫


 絶句する二人のために、リデルは、自分が二人の声で喋る理由を、丁寧に説明してくれた。
 それからリデルは、捕捉した逢花には目もくれず、夕鷹を振り向く。また蔓が伸びてくるかもしれないと身構える夕鷹に、リデルは諭すように言い出した。


金眼者バルシーラが生まれる理由は、お前が聖界にいた頃と、いなくなった後と、2つあるんだ≫
「……?」


 ——まるで、先ほどの自分達の会話を聞いていたような話の振り方。……いや、実際、聞いていたのだろう。リデルが干渉してきたのは、逢花が命を生む者リデルを示唆することを言った直後だった。いくらなんでも、タイミングが良すぎる。

 逢花を拘束した白い蔓とは別の蔓を、背後にゆらゆらと揺らしながら、リデルは言う。


≪お前がいた頃は、単純に、俺の作り上げた術式が、聖力そのもののお前に触発されて反転してたんだ。昔は、本当に偶然だったんだよ≫
「……『昔は』?」
≪うん。今は違う≫


 目敏く聞き分けた夕鷹が問い返すと、リデルは彼と同じ声で肯定した。そして、その白い指先ですっと夕鷹を指差す。
 刹那、背後に何かが蠢く気配がした。飛び退こうとしたら、足首を掴まれ掬われて、ガクンと膝をつく。その一瞬の空隙に、白い蔓は夕鷹に絡みつく。振り払おうと上げた両腕にさえも這い上がり、蔓は、両腕を上げた格好で夕鷹の自由を完全に奪い去った。

 その周囲で、うちの数本が、蛇が鎌首をもたげるように動く。緩やかな動作で夕鷹の胸付近に近付いてきて、その表面を撫でた……かと思うと、蔓の先端が、するりと体の中にもぐり込んだ、、、、、、、、、、


「っ……!!?」
「夕鷹っ……!!」


 暴れようとしたが、蔓の拘束力が思いのほか強い。ガッチリ両腕を拘束されていて、まったく微動だにしなかった。あっさりと侵入を許してしまう。
 自分の体内に入ってくる異物の感覚を、確かに覚えた。それはどんどんと奥へと入り込み、自分の中の意識の器——バルストを封じる器にまで接近するのがわかった。
 それの口は、普段は魔術で閉じられている。それを外せるのは、自分だけだ。しかし、聖力のみで構成される自分の体に、いとも容易く干渉してきた相手だ。

 もし、それを強制的に開けられたら……

 嫌な想像が脳裏を掠める。ぞっとして、生きた心地がしなかった。しかし抗うこともできず、夕鷹はただ体を硬直させて、嫌な汗を浮かべることしかできなかった。


≪ふーん、こーゆー作りにしてるのか。空界には限界があるから仕方ないけど、綻びがひどいな≫
「リデル……!!」
≪……落ち着いて下さい。危害を加えるつもりはないと言ったでしょう。ひとまず、バルストと片鱗の貴方、まだ少し繋がってるようなので、切りますよ≫
「……っ、?!」


 逢花の声に変わったリデルが、淡白な口調で告げた。夕鷹がぎょっと顔を上げた直後。
 ……急に、楽になった。今まで見えない重石に潰されていて、それがすっかり取り払われたように、身が軽くなった。


「……何、して……」
≪お前らは繋がったまま、器のフタに挟まれてたんだ。それを切った。これでお前とバルストは、完全に別人格。多分、コッチの方が、お前は成長しやすいと思うよ≫
「………………」
≪でも綻びは直してない。その綻びを直すには、お前に刻まれてない時制の術式が必要になるんだけど、年取るようになったら困るんだろ。構成上は問題ないから大丈夫≫


 リデルが夕鷹の声で丁寧に説明してくれたが、夕鷹にはその意味はよくわからなかった。逢花は理解していたが、何も言わなかった。
 体の中で、蔓がぞろり……と器のフタを、恐ろしいほど優しく撫でる。つまるところ、半開きだった器のフタをリデルがちゃんと閉め直してくれたのだとは理解したが、自分の爆弾とも言える器に触れられているということに、ざわざわと心が波立つ。落ち着かない。

 顔色が良くない夕鷹に、リデルは小さく声で笑って言う。


≪バルスト、お前、忘れてない?お前が片鱗でも、バルストであることは確かだ。なら、信仰がなくなったら、自分が存在し切れないって、わかってる?≫
「………………」
≪この器の中の存在は、たくさんの人達の思想の結晶だ。つまり、信仰が命そのもの。人々がお前を忘れたら、お前は消えるんだぞ?≫


 ——人々の信仰が基盤となって生まれた思想の存在にとって、人々の記憶に残るか否かは死活問題だ。ましてや、神という普遍的な存在はともかく、自分や魔王のような存在は、特に。
 忘れていたのかと問われれば、肯定も否定もできない。これまでは……今もだが、弱ったバルストの力を回復させる方が優先だったから。だが、リデルの言う通り、自分達の根源である信仰が失われれば、それどころではない。

 ……するり。
 凍結する頭の片隅で、そのことを淡く考えていた夕鷹の体から、白い蔓が緩やかな動きで退いた。一緒に、夕鷹を拘束していた蔓も緩み、彼を解放する。
 蔓が、彼の周囲から完全に消える。夕鷹は膝をついた格好のまま、呆然と、胸に手を当てた。蔓は引いたが、まだ寒気は消えない。それを振り払うように、夕鷹はばっとリデルを見た。


≪話を戻すけど、それで俺が、定期的に金眼の術式を組んでるんだ。お前が忘れ去られないように。金の瞳は、バルストの象徴だから≫
「………………」
≪ちなみに、銀瞳は存在しない。生物は元々、魔が多いから、もう慣れてるんだ。最後に命を狩る時に、〈ヘル〉が干渉しやすいように術式を組むようにしてるから。——で、俺の用事は、また別なんだけど≫


 すっと。そこでリデルはようやく、はりつけのように白い蔓に拘束されている逢花を向いた。
 これまで無言で話を聞いていた逢花は、桃色の眼で純白の存在を見据え、ゆっくり口を開いた。


「……ボクに、何か用ですか」
≪……そうです。ボクの用は、貴方にあります。更凌季逢花……いえ、サレス・オーディン≫
「………………」


 ——今、身体を支配している魂。久しく呼ばれていなかったその名で呼ばれ、逢花はわかっていたように口を閉ざした。


≪……何百年も前の話です。貴方の命を生んでから、今この時まで、ボクがもたらした命は、321億6748万です。ですが……〈ヘル〉は、321億6748万分、命を狩りはしましたが、魂は321億6747万しか狩っていない。……1つだけ、ボクらの輪廻から外れた魂があります≫


 自分の口調に変わったリデルの淡々とした言葉と、自分の思考とが一致した。問わずとも言外で、自分が示唆されているのは明白だった。逢花自身も心当たりがあったから、動揺もしなかった。
 いつの間にかうつむいていた逢花に、リデルは続ける。


≪……ボクが生み出した数だけ、〈ヘル〉は命を狩る。魂の寿命を見て、狩るべきであるかどうか判断します。狩られるのは、同一人物ではありません≫
「………………」
≪……ですが、貴方は自ら輪廻の外に出た。すでに魂を持っている別の人に宿り、その者を我が物顔で支配する。……そしてその人の死期が来ても、〈ヘル〉が狩る魂は、支配されていた哀れな魂の方です。身体を失った貴方は、またさらに、別の人に憑依する……≫


 ……自分の行為がどんなものか、理解していたつもりだった。しかし今、リデルにはっきりと突きつけられた現実に、我ながら非道だとぼんやり思った。
 憑依された者達だって、されたくてされたわけじゃない。ランダムに選ばれた、不運な者達。……自分は、そんな彼らの命を食い潰して生き延びているのだ。



≪———サレス・オーディン。遥か太古の大賢者よ。……貴方は、自分がどれだけの罪を重ねているか、わかっていますか?≫

「…………わかってる……よ……」



 少なくとも、あまりの非道さに、吐き気がするくらいには。

 うつむいて嘔吐感をこらえる逢花の傍に、夕鷹が歩み寄ってきた。泣き出しそうに見える逢花の眼が彼に向くと、夕鷹はコチラを見上げて、抑揚が少ないいつもの声で言ってきた。


「お前だけのせいじゃない」
「……っ……」
「元々の原因は俺だし、俺も同罪だろ。リデル、あんま逢花を責めるなよ」
≪責めたつもりじゃないんだけどな≫


 夕鷹がリデルに視線を移しながら逢花を擁護すると、夕鷹の声に変調したリデルは、少し困ったような調子で言った。
 あれで責めたつもりじゃないとは、命の紡ぎ手は手厳しい。世界の循環を担うからこその厳格さなのかもしれない。

 ——しばし、誰も何も言わなかった。
 それは、逢花が落ち着くために必要な、沈黙の時間だったように思えた。


「…………わかっていても……やめることはできません……」


 やがて、絞り出すように逢花が呟いた。リデルと夕鷹が逢花を注目すると、逢花は顔を上げてリデルを正視した。
 その瞳には、すでに先ほどの痛切な気配はなく……代わりにあったのは、堅固なる覚悟と、背中合わせの諦観。


「……ボクは……バルストを守る。バルストの檻を作ったボクには……その責任があります……」
≪………………≫
「……それに、形になった信仰が、まだ信仰の途絶えないうちに消えてしまったら……人々の信仰を受け止める存在がいなくなります。バルストが消えたら、対のルトオスも消える。……一気に二人の王が消えたら……空界に支障をきたすのは、確かです」
≪……でしょうね。思想の存在は、空界の人々と強い繋がりがありますから。思想の存在が、空界の人々なしに存在し得ないのと同じように、人々は思想の存在なしに信仰し得ません≫


 空界の人々と思想の存在は、次元を隔てていても、強い関係性を持つ。
 空界の人々によって生み出されし思想の存在は、その信仰の圧倒的力をもって、人々の思考を支配する。逆に人々は、存在を忘却することで彼らを滅する。……とはいえ、そう簡単に忘却できるものではなく、それには長い年月が必要だ。
 故に、思想の存在は、その強大な存在感で人々を支配すると同時に、彼らに大きく依存している。逆も然りだ。それが、まだ信仰のあるうちに切れてしまったら、空界の変容は免れないだろう。


「—————だから……例え貴方に言われても、ボクは死ねない」


 さっきの揺れた瞳の様子は微塵もなく、逢花は言い切った。
 彼女の強い眼をしばらく無言で見返していたリデルは……やがて、純粋に不思議そうに尋ねてきた。


≪……サレス。貴方がそこまでバルストに肩入れする理由は、なんですか?世界のため……なんて綺麗な理由ではないでしょう。ただのエゴにしか見えません≫


 さすがは命の紡ぎ手か。人の内面を読んだ聡い指摘に、逢花はふっと小さく笑った。自嘲とも嘲笑ともとれる、呆れ果てたような笑みだった。


「……逆に聞きますが……リデル、貴方は、この世に、エゴ以外の理由があると思っているんですか?」


 ……確かに自分の行動は、エゴだ。利己主義。自己満足。それを否定はしない。
 しかし、これまで生きてきて、自分はエゴ以外の理由を持って行動したことはないだろう。いつもそこには、何処かで見返りを求める気持ちがあった。それが物質だろうが非物質だろうが、関係なく。

 悪あがきのつもりで口走ったセリフだった。こんなことを口にした自分に、馬鹿らしいとさえ思ってしまう。
 しかしそれには、思わぬところから返答があったのだ。


「……ふーん。確かに。全部、自己満足だな。バルストと別人格の俺がこうして生きてるのも、元々サレスの気まぐれだしな」


 自分の傍で。夕鷹がアゴに手を当てて、納得したように頷いていた。まさか納得されると思っていなかった上に、それが夕鷹だったことに、逢花は驚きを隠せなかった。
 彼女の驚愕した視線に気付かないまま、夕鷹はリデルに言う。


「けど、他人がそれを喜んだら、それは意味のある行動になるんじゃないの?少なくとも俺は、サレスに感謝してるよ。じゃないと俺は生まれなかっただろうし。他人の命食い潰して生きてるのにも感謝してる。じゃないと俺は、もっと昔に破綻してただろうから。だから、サレスの行動はエゴじゃない」
「……夕鷹……」


 ——高潔なる聖の守護者の片鱗は、なんて無垢なのか。
 いつもキョトンとしてて、知らないことばかりのあの夕鷹が、自分の意見を口にしたのは初めてだった。逢花は、純粋な驚きが、次第に温かなものに変わっていくのを感じていた。


「お前がサレスを殺すっていうなら、お前は俺の敵だ」


 景色を素直に映している鏡のようだった金の瞳に、感情らしい感情が浮かんでいた。明らかに敵意を含んだ目で、夕鷹はリデルを睥睨する。
 ……とは言え、リデルの方が上手なのは確かだ。恐らくリデルは殺傷能力は持たないが、強い弱いの問題ではなく、リデルはコチラの構成に直接干渉してくる能力を持つ。さっきみたいに構成に滑り込んで、内部から構成を破綻させるなんて簡単にやってのけるだろう。

 未知の相手を前にして体を緊張させる夕鷹に、リデルは穏やかな夕鷹の声に変えて言った。


≪落ち着けよ。どっちにしろ、俺も〈ヘル〉も、輪廻の外に出た魂に手出しはできないから、殺せない。だからお前と敵対する理由もない≫
「………………」
≪けど、サレス。いつかお前が、その輪廻に戻った時は……≫


 少しだけ気を緩めた夕鷹から視線を外し、リデルは逢花に顔を向ける。その言葉を先読みし、逢花は……確かな口調で頷いた。


「……はい。貴方達の好きなように裁いて下さい。覚悟は……できています」


 ……自分もきっと、その頃には肩の荷が下りているのだろう。この息苦しい生から逃れられるなら、死は優しいものにさえ思えた。

 それを聞き、リデルが小さく頷くのと同時に、逢花を縛り上げていた白い蔓が動き始めた。逢花を地面に下ろしながら、するすると彼女の体から離れていく。
 リデルの行動に驚く二人の正面で、リデルを軸に地面に純白の陣が展開した。


≪……サレス、ボクは、貴方がどんな覚悟で命を喰らっているかを確かめに来ました。バルストが失われ、空界が破綻するのは、ボクらも望むところではないです。貴方の覚悟は、〈ヘル〉にも伝えておきます≫


 逢花の声。まるで、もう一人の自分に告げられるような気分で、逢花はそれを聞いていた。

 陣に沈んでいくリデルの最後の言葉は、顕現する時同様、波紋のように広がる。


≪……では、サレス……いえ、逢花。どうかバルストをよろしくお願いします。———いつか、またいましょう≫



 ……………………





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





≪……エゴ、か≫


 白い陣が中央の一点に収縮し、消え行くさまを映す視界。ふと、意識の内側で、『彼女』の『声』がぽつりと呟くのが聞こえた。


≪深則だったら、夕鷹さんの言葉、わかってくれたと思う。深則、自分が好きでやってるって、毎日私の家まで遊びに来てくれてた。私……凄く嬉しかった≫

「……うん」

≪夕鷹さん、優しいね≫

「……うん。ボクの……自慢の、親友だよ」


 それは奇しくも、前に『彼女』が言っていた言葉とまったく同じだった。それに気が付いて、逢花は内心で思わず小さく微笑した。
 かつて親友の命さえ食い潰した自分に、また、親友ができるなんて思っていなかった。素直に嬉しくて……同時に、切なくて。

 いつか彼は、ボクがこの手で壊すのに。


(……そんなの、親友なんて言わないか)

「……しんゆー?」


 外界から、夕鷹が不思議そうに言ってくるのが聞こえた。目の前に立っている夕鷹を見上げると、彼は首を傾げて見下ろしている。
 自分の呟きが聞こえたのだと察すると、逢花は手短に教えてあげた。


「……親友。とても仲の良い、友達のことだよ」
「とも、だち……」
「……それは……難しいね。仲の良い人とか、お互いに助け合ってる人のこと、かな……」


 そういえば、こういう言葉も全然教えていない。夕鷹のことを指す時は、大体「連れ」とか言っていたような気がする。
 しかし、定義が曖昧な言葉を教えるのは難しい。大体、自身も、長き時を経て忘れかけている言葉だ。
 逢花が悩みながらそう言うと、夕鷹はぽんっと手を打った。


「じゃ、逢花のことか」
「……え?」
「だって、お互いに助け合ってる人のことって。俺達、違うの?」
「………………」


 キョトンと、夕鷹はコチラを見返してくる。その目を、逢花もまたポカンとした様子で見返していた。
 ——いつか壊す相手を、親友だなんて言えないかと思った直後の言葉だった。夕鷹がそんなことを言うと思っていなかった逢花は、しばらく動けなかった。


「……でも、俺、助けてもらってばっかりか。逢花を助けたことないかも」
「……そんなことないよ」


 アゴに手を当てて言う夕鷹の言葉を、逢花はゆっくり首を振って否定した。
 嘘でもお世辞でもなく、本心からだった。先刻、彼がかばってくれたことを忘れていない。

 自分は、夕鷹の体の構成を管理する。
 そして夕鷹は……


「……夕鷹……ありがとう」
「……? 何が?」
「……何でもないよ。うん……そうだね。ボクらは……親友だね」
「しんゆー……凄く仲良い、友達……?」
「……うん。……お守りの石、夕鷹にあげてもいいかな」
「?」


 さっき教えた言葉の意味を思い出して問うてくる夕鷹に1つ頷いて、逢花は内界にいる魂に問うた。『彼女』は、嬉しそうに微笑んだ。


≪好きにしていいよ。それは貴方にあげたものだし。それに、夕鷹さんにあげたら、きっと役に立つと思うから≫


「……うん。夕鷹、手出して」
「何?ピザ?」
「……違うよ。コレあげるよ」


 真っ先にそう聞きながら差し出された夕鷹の手のひらに、逢花は、ズボンのポケットから取り出した白い石をのせた。淡い白光を帯びた、不思議な石——ラトナ。
 逢花は胸に手を当て、石を人差し指と親指で摘み上げて観察する夕鷹に言う。


「……この子から、お守りってもらったんだ」
「コレ……聖力のカタマリ?」
「……わかった?キミの方が使うと思うから、あげるよ。いつもボクが傍にいられるわけじゃないと思うから……緊急事態の時のために」
「うん、わかった」


 同じ属性の石だからか、何か感じるものがあるらしく、しげしげとラトナを見る夕鷹。子供と大差ないその様子を、逢花は瞳に映していた。
 『彼女』のお守りに、願う。


 キミが、いつか切り離されるように。
 ボクが、キミを見守っていられるように。
 キミの中の存在が、力を取り戻さないように。


 ……祈ってすぐ、柄じゃないなと思った。現実主義の自分が、こんなことを望む日が来るなんて。
 都合の良い祈りほど届かないものはないと、知っているはずなのに。
 大体、現状と相反する祈りばかり抱いてしまうなんて、一体、何のためにバルストに手を貸したのか。そう自分に問いかけたくなってしまうような願望ばかり。
 すべて統計してみると、自分は気付かぬ間に、今のこの関係が続くように祈っていた。

 ……エゴばかりだ。
 夕鷹に見えないように自嘲して、それらを振り払い。あまり変化しない夕鷹の顔を見て、逢花は聞こえぬように囁いた。



「—————キミが、たくさん、笑っていられますように」



 幼子のように、無垢なままで。






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