→→ Largo 3


「階段を上って廊下に出ると、すぐ横が非常口です!アタシも後を追いますから、早く逃げて———ッ!?」


 背後にかすかな大気の揺れを感じた瞬間、ガッと髪を掴まれて後ろに引かれた。痛みに頭を押さえる未亜を、容赦なく引きずる力。
 そのまま部屋を出て、廊下に出された。顔をしかめて、かろうじて片目を開くと、耳の近くで声がした。


「やっぱりな。なんかおかしいと思ったんだよ。今、この管理室辺りには、緊急事態を除いて近付くなって指示があったはずだろ?」
「俺達も人のこと言えないがね。近道のために通ってるなんて言えるか?」


 声質、距離感、声量が異なる、2つの男の声。片方は、さっき聞いたばかりの男の声だ。それを聞いて、未亜は自分の浅はかさを知った。
 ——男の言う通り、現在、この管理室付近の区画には、立入禁止の指示が出ていた。最近、開発部が、生きていれば、ほぼ無尽蔵に安定して電力を供給することができる玲哉の力を応用しようと、その研究に明け暮れているらしい。そのために、突然電力を断たれて研究が頓挫しないように、そんなつもりはなくても、遮断器ブレーカーのある管理室には近付いてほしくないのだろう。
 当然、それは未亜も知っていた。だが、たった今、それを聞くまで忘れていた。

 もう一人いた金髪の男が管理室に入り、軍基地の部屋には必ずある、緊急事態をしらせるサイレンのボタンを押す。非常電力で動くサイレンは、低音で唸りながら部屋を赤く染め上げた。


(……アタシ、馬鹿だ)


 金髪の男がブレーカーを元に戻す様を眺めながら、髪を掴まれたまま、未亜はただ無力感に苛まれていた。


「ブレーカーを落とした女を捕縛した。情報部の人間だ。ひとまず牢屋に入れておく」


 金髪の男は、サイレンボタンの傍にあったマイクに向かって短く言うと、マイクをオフにしてこちらを振り返った。すると、未亜の髪を掴んで拘束している背後の男が、「おいおい」と声を上げた。


「牢屋に入れるのかよ。どう扱ってもいいんじゃないか?」
「そう言っておいた方が無難だろう。なら、お前はどうしたいんだ?」


 なぜか食い下がる自分の背後の男に、金髪男が呆れたように問うた途端。
 腹部を、衝撃が突いた。


「かはっ……?!」


 体内から追いやられた空気を、身をくの字に曲げて吐き出す。状況理解ができずにいる未亜の頭を、ぐっと何かが引っ張り上げる。
 視界に入ってきた、自分の髪を引っ張り上げているらしい緑髪の男は、ニヤリと笑う。


「おっと、まだだぜ?」
「っあぐ……!」


 彼は、髪を掴まれて体を上げさせられた未亜の腹部に、今度は膝を突き上げた。手加減など微塵もない一撃に、吐息と一緒に口の中に鉄の味が広がる。


「まったく、だろうと思ったよ。女殴るの好きだよな、お前」
「お前にゃわかんねぇだろうよ」
「ぁ……、ぐっ……!」


 会話しつつも、男は攻撃の手を休めない。鳩尾、腹、背中、ありとあらゆる方向から暴行される。
 痛い。
 痛い。
 痛い。
 痛すぎて麻痺してきた。
 痛くない。代わりに、意識がぼんやりしてきた。
 ——悪意のある攻撃をこんなに受けたのは、生まれて初めてだった。驚愕と激痛と疑問とがない交ぜになって、頭の中を吹き荒れる。
 民間人よりは鍛えてあるとは言え、非戦闘員の未亜には、一撃一撃が致命的だった。

 やがて、ガッと壁に叩きつけられた。おぼろげだった意識が覚醒させられる。
 全身に鈍い痛みが戻ってきた。まだ生きていると感じつつ、薄目を開いて見ると、自分の首を掴んで壁に押し付ける緑髪の男が下卑た笑みを浮かべていた。


「お前、あの悪魔を逃がすつもりだったみたいだな。はははっ、妙な魔術でもかけられたんじゃねえか?」
「さすがの悪魔も、血を抜かれちゃ動けないだろうがね」


 ぼんやりと霧がかかったような頭で、その言葉達を時間をかけて呑み込む。
 ……この二人は、玲哉がこの軍基地で飼われていると、知っているらしい。他の人間達には、「悪魔は神によって裁かれた」と知らされている。……ということは、どうもそうには見えないし見覚えもないが、軍上層部の人間か。

 ——悪魔。
 <紅き悪魔>と……人はわらう。
 何も知らないクセに——!!

 ぐっと男の太い腕をかすかな力で掴んで、未亜は、力の限り声を上げた。


「玲哉、さんは……悪魔なんかじゃ、ないっ——!!!」
「このアマ、まだ言うか!! 牢屋にブチ込む前に、そのひねくれた認識直してやる!!」


「—————へぇ……悪魔、怖いんだ」


 荒っぽく言う男が空いている手を上げる動作に重なるように、声がした。
 未亜から見て、左側からした。男二人はそちらを見て……明らかに顔を恐怖に強張らせた。
 未亜は首を掴まれたまま、目だけを向ける。霞む視界に見えたのは——唸る紫の雷を背にした、黒い影だった。

 足が竦んでいる男二人に、<紅き悪魔>は微笑む。


「囚われてた悪魔が……地獄から這い上がってきたよ。———さてと……死にたがりは誰かな?」


 周囲の電灯を破壊してしまうほどの圧倒的な紫電をまとった玲哉が、そこに立っていた。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





(はは、「悪魔」か……「化け物」より、ピッタリだな)


 先ほど男が言っていた言葉に、玲哉は内心で笑った。肌も少し濃いし、耳も少し尖っているし、悪魔っぽくはあるかもしれない。


「囚われてた悪魔が……地獄から這い上がってきたよ。———さてと……死にたがりは誰かな?」


 瞬間的に気に入ったそれを組み込んで、テキトウに思いつくまま脅しをかけてみた。すると効果絶大で、二人はひっと短い悲鳴を上げる。しかし、足が硬直して逃げ出せずにいるらしい。
 玲哉としては、さっさと立ち去ってほしかった。この膨大な紫電は、かなり無理をして放出している。単なるこけおどしだ。ボロが出る前に、早く逃げてもらわなければまずい。

 ふらつく重い足で、できるだけしっかり一歩を踏みしめながら、男達に近付く。


「はは……怖い?じゃあ、そこにいなよ……今、楽にしてやるから!!」
「ひ、ひいいい!!!」
「た、助けてくれぇええッ!!!」


 玲哉が声を絞り出して凄みをかけると、二人の呪縛が解けたらしい。男達は未亜を置き、情けない声を上げてたちまち逃げ出した。
 二人の姿が角に消えるなり、玲哉は紫電を収めた。その反動で襲ってきた強烈なめまいに、一度、だんっと壁に体を預ける。


「っ……はあ、はぁ、っく……未亜ッ!!」


 血が足りていないことで、寒さに震える肩。真っ青な顔で、そのまま折れようとする膝をなんとか奮い立たせ、未亜に駆け寄った。同じく緊張の糸が切れたのか、ふらっと前に倒れかかった未亜を抱き留める。そのまま二人は座り込んだ。
 腕の中の息遣いと体温を感じ取って、玲哉はやっと息を吐いた。


「よかった……未亜……よかった……っ……」
「……玲、哉……さん……?」


 ようやく見つけた少女を強く抱き締めながら、玲哉は両腕の中の未亜の体温と、胸の内に広がる温かなものを感じていた。
 さっきの不安とは正反対な感じ。太陽の光に包まれているような、ふわっと気が抜けるような、優しい温かさだった。

 玲哉がここにいる理由を理解できない。自分は、彼にひどいことを言ったのに。逃げるように言ったのに。
 夢でも見ているような心地の痣だらけの未亜は、途切れ途切れ問う。


「どう……して……ここに……」
「未亜が……心配だったんだっ……」
「アタシのことは……いいですからっ……玲哉さん、早く……逃げて下さい……!!」
「未亜も、一緒じゃないと嫌だ……!!」
「子供じゃっ……!」


 子供じゃないんですから、と言いかけたが、彼が本当に子供であることを思い出し、言葉が止まっていた。何と言い返せばいいのか悩んだ一瞬に、玲哉が先に動き出す。


「とにかく……ここにいるのは、まずい……逃げよう……!非常口……何処だっけ」


 壁に手をつきながら立ち上がった玲哉が、未亜を見下ろして問う。彼に腕を引っ張られて立たされながら、未亜はその瞳に釘付けになった。


「未亜……!!」
「……ど、動力室の……隣です……」
「あっちか……!」


 ガクンと揺さ振られて我に返った未亜が答えると、玲哉は彼女の腕を掴んだまま、来た道を壁伝いに戻り出した。

 ——刹那、目を奪われた彼の双眸は、自分が知っているものだった。
 ……いや、少し……違う。
 以前は、昏く、残酷なまでに純粋な黒い思想が宿していた光。それとはまた違う、力強い輝きだった。


(……眩しい)


 自分を連れて先を行く彼の背中を見つめて、思いついたのはそんな言葉だった。
 前に宿していたものが黒い光だったなら、今は白い光のように見えた。

 自分が惹かれた黒い光。
 自分の心を縛りつけた光。
 それが今——正反対の光輝となって、それまで以上に自分を惹きつける。



 ……不意に、玲哉が立ち止まった。
 はっとした未亜の目の前で黒い背中が丸まり、彼は肩で大きく呼吸をする。


「玲哉さん、大丈夫ですか……!?」
「はぁ、はぁッ、はっ……」


 先ほどの暴行でアチコチが痛んだが、気に留めず未亜は玲哉の横に移動し、彼を支えるように立った。膝に手をついた玲哉は、蒼白な顔で忙しなく肩を上げ下げする。
 普段の貧血に加え、さっきの見掛け倒しの放電、さらには激しい運動。玲哉の体には、凄まじい負荷がかかっている。しかも血が足りないせいで、寒くて寒くて仕方ないだろう。いまだに倒れずにいるのが不思議なくらいだ。


「さっきの人達……アタシを牢屋に入れるって、放送してましたから……多分、この辺りには誰も来ません。……近くの部屋で……一度、休んだ方が……」
「……ダメだ……勘が良い奴は……来るっ……」


 少なくとも、自分なら念のために来るだろう。未亜の提案を掠れた声で跳ね除け、玲哉は顔を上げて、その金と銀の瞳を押し開いた。

 未亜の言う通り、今、人通りは皆無だ。現在、この辺りには近付かないように言われているから尚更だったが、玲哉はそれを知らない。
 しかし、さっき放送されたのは、男達が言った、「未亜を牢屋に入れる」ということだけではない。その前に未亜が、悪魔の自分に「動力室から逃げるように」と放送で指示している。
 その直後に未亜は捕縛されたから、大概の人間は事故は収束したと思っているだろう。……しかし実際には、ブレーカーが落ちたあの数秒間で、自分は脱出した。勘が鋭い人間ならば、勘付いていてもおかしくない。

 ——例えば、今、正面に立つ男。


「……やはりな。たかが数秒、されど数秒。<紅き悪魔>五宮玲哉なら、それくらい活用するだろうと思ったぞ」
「…………儀煉の……オジサン……」
「中将……」


 廊下の中央に立つ、軍服を着た一人の老軍人。褪せた青髪のバルディア帝国軍中将・儀煉 然は、1年前と変わらぬ佇まいで、そこにいた。

 ……最悪だ。
 儀煉の腕を知っているからこそ、玲哉はそう感じざるを得なかった。
 ボロボロの自分達。どう足掻いても、この男の前からは逃れられないと、悟ってしまった。

 愕然とする二人のうち、儀煉の橙瞳が未亜に向く。


「……貴様が、芽吹未亜か。五宮玲哉の世話役になったと聞いていたが、こやつを逃がすなど、何たる愚行か!」
「……わ、私はっ……」


 前に進み出かけた未亜を、横からすっと差し出された玲哉の腕が遮った。二人の目を集めた玲哉は、浮かぶ冷や汗を隠せないまま、儀煉を見据えて、カラカラの喉から声を絞り出す。


「未亜は……悪くない。俺が……脅したんだ……。だから、未亜は……見逃してほしい……」
「玲哉、さん……?!」


 ……玲哉は、すべての罪をかぶろうとしている。未亜が思わず目を見張るが、玲哉は無視して続ける。


「……俺が……戻れば、いいんだろ……?その代わり……未亜の行動は、見逃してほしい。……じゃないと……」
「ふん、たわけ。真っ青な顔しおって、死人同然の貴様がわしを殺す?今の貴様なら1万回は殺せるわッ!!」
「………………」


 荒い呼吸に交えて紡がれる弱々しい声を、くだらなさそうな儀煉の声が一蹴した。自分自身も騙し切れていないのに、そう喋りかけた玲哉は、口を閉ざすしかなかった。


「そんな死人に、そこの女も脅されるはずなかろうが。貴様はロクに嘘も吐けぬのか」


 呆れたように儀煉に言われてから、ふと玲哉は気が付いた。
 ……今、自分は、嘘を吐こうとしていた。しかし考えてみれば、今まで嘘を吐いたことがない。自分の世界にいた以上、吐く必要もなかったからだが、明らかに経験不足だ。

 ……となれば、1つしかない。そう考えついて、玲哉は未亜の手を固く握り締めた。
 恐らく自分は、再びあの牢獄に戻ることになるだろう。しかし、未亜を逃がすためにも、足掻けるところまで足掻きたい。
 ——儀煉を相手取って、逃げ切るしかない。



 バチッ、と小さな火花が散った。


「玲哉さんっ……!? こ、これ以上、力を使ったら……!!」


 火花が連なり、ようやく一筋の紫電と化す。

 ……足りない。
 殺すまでの力は出なくとも、痺れさせるくらいまで——!!


「っぁぁあああぁあッッ———!!!!!」


 咆哮。
 力を、血を捻出する。
 目の前の、男を——


「……!?」


 改めて見た時、儀煉の姿は跡形もなかった。玲哉が息を止めた直後、何かが腹を貫いた。


「がはっ……!?」


 威力自体はそれほどなかったが、的確に鳩尾を狙い打った一撃は、弱っている体にはこたえた。意識を持って行かれそうになりながらも、前に倒れかけた玲哉を未亜が慌てて支える頃、紫電も一緒に消えていった。


「余計な世話だったかもしれんが、貴様、死ぬ気か?それ以上、力を使ったら命に関わるぞ」


 刹那で玲哉の眼前に移動していた儀煉は、拳を下ろしながら言う。それから、背を向けて数歩歩き、おもむろに1つのドアを手で開けた。
 ……ほぼすべてのドアが自動化されている軍基地内で、手動のドアを開けた。


「逃げるなら、さっさとね」
「「……!?」」


 こちらを向いて淡々と発された一言。二人は、思いも寄らぬそれに声を失った。
 言われてみれば、玲哉が閉じ込められていた動力室へ続くドアはすぐそこだ。気が付かないうちに、非常口の傍まで来ていたらしい。


「中将……どうして……」
「ふん、わしは何も見ておらぬ。念のために様子を見に来たが、杞憂に過ぎなかったようだな」
「……オジサン……」


 逃亡する<紅き悪魔>と、その手引きをした主犯者を前に、儀煉はくだらなさそうに言う。……そういえば、儀煉は一度も剣を抜いていない。
 何と言っていいのか、そもそも信じてもいいのかと、まごついている二人に、老軍人は嘆息した。そしてスタスタ歩いてくると、玲哉の胸倉を引っ掴んだ。そのままドアの方へ歩き出し、玲哉と、彼を支える未亜もずるずると引きずられていく。


「さっさと行け」


 そして二人は、ドアの向こうにどんっと押しやられた。驚いた二人が儀煉を振り返るより前に、彼はドアを閉ざしていた。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





(……我ながら酔狂ではあるな)


 ドアを閉め、そこに背を預けた儀煉は、口元を緩ませた。


  『未亜は……悪くない。俺が……脅したんだ……』


 他人を平然と殺してきた悪魔が、たった一人の少女をかばった。そう言う彼は、自分が知っている悪魔とは、まるで別人だった。
 瀕死寸前まで弱り切り、それでもなお、他人のために必死に可能性を追う姿勢。

 悪魔とは言え、玲哉も人だった。自分は1年前、常に悠然とした態度だった玲哉が、無防備にも戦場で倒れかけたのを見ている。
 その玲哉から、雷を吸収して飼い殺しにする——それを聞いた時、人を何とも思っていないような扱いに、内心で嫌悪を覚えた。
 参謀・雨見紫昏は、時に恐ろしいことを考える。この国で一番恐ろしいのは、彼かもしれない。と言っても、あのポーカーフェイスの下で何を思っているか、自分にはわからない。


「———して、わしの処分はどうなる?」
「……今すぐには、判断できません」


 近付いてきていた気配に、儀煉が目もくれずに問うと、返答があった。若い男の声。


「貴様が軍基地を訪れるなど、珍しいではないか」
「軍議で、たまたま来ていたんですよ。あの放送があってから、息抜きがてら、様子を見に来たんです」


 腕組みをした儀煉が相手を見ると、若い男は赤縁のメガネに触れながら答えた。
 肩口で先が揃えられたオリーブ色の髪の男性——バルディア参謀・雨見紫昏は、相変わらずの無表情で淡々と言う。


「確かに、中将としてはあるまじき行為です。このことが知れたら、国内はひどい大混乱に陥るでしょう。<紅き悪魔>は、国内の軽蔑と恐怖を一手に担う対象ですから。ある種、これは、彼の存在があってこその平和です」


 蒼瞳を伏せてアゴに手を当て、紫昏は語る。
 この国では、1年前、<紅き悪魔>五宮玲哉の手引きと圧倒的力によって、バルディアは内部から壊されかけた、ということになっている。大国バルディアの体面と国民の精神的安定のためとは言え、フェルベスに苦戦・敗北しかけたという事実を、軍部は隠蔽した。
 その後、神に——あの銀の〈扉〉のことだ——裁かれたと伝えられたその悪魔が、軍基地で飼われていたということを知っているのは、ごくわずか。玲哉がいなくなっても、まったく気付かない者も多いだろう。しかし、その「ごくわずか」の者達が、玲哉の脱走に恐怖して、不用意に言いふらしてしまう可能性もある。
 逆に、玲哉自身が国内で派手な行動を起こし、自ら名乗ってしまう場合を考えたが……これは、確率的に低いような気がした。


「……少しだけ、ホッとしました。他国や自国にとって危険だと判断したからこそ、五宮玲哉を飼い殺すことにしたわけですが……あの様子なら、もう以前のような危険性はないのかもしれませんね」
「ふん、あの悪魔、やけに人間臭くなっておったな」
「ええ。……今、あからさまに安心してしまいました。自分自身にです」
「わしには、いつもの能面にしか見えんぞ」


 儀煉の正直な感想に、紫昏は苦笑した。
 ——玲哉を飼い殺せと指示したのは、間違いなく自分だ。危険を封じ込めるためにとった策だ。
 しかし今、彼が逃げ出し、それを自分が追わずに見送っていることに、安堵している自分がいる。
 表情を作るようになってから欠落し始めた大切な何かが、まだ自分に残っているということを確かめて、安心しているのだ。我ながら幼稚だ。


「……潮時かもしれませんね」
「潮時?」


 儀煉が問い返して紫昏を見ると……彼は出し抜けに、ふわりと微笑んだ。思わず目が点になる。
 無表情でも苦笑でも冷笑でもない、温かな微笑を浮かべて、紫昏はおかしそうに言った。


「悪魔としての五宮玲哉が脱走したということを、国民に知られるわけにはいきません。大混乱は免れないでしょう。……ですから、彼がここにいたということを知る者すべてを、事が広まる前に降ろします。私の最後の仕事にしましょう」
「何?道連れにするのか?」
「逆です。突き落とした後、私が追いかける形です。彼らも、一方的に降ろされたのでは納得しないでしょうから、私もともに降ります」
「ならば、わしも降ろされるのだな」
「いえ、儀煉。貴方は残って下さい。信頼における貴方には、頼みがあるので。どちらにしろ貴方は、今降ろされなくとも、もうすぐ引退を考えなければいけない年でしょう?」
「やかましい!! まだまだ若造に遅れなど取らんわ!!」


 変わらぬ口調で事実を言った紫昏に、つい儀煉は吼え立てた。とは言え、一応本人も自覚しているようだが。
 相変わらずの儀煉に苦笑してから、紫昏は胸に手を当てて言った。


「新たな参謀に代わった時は……どうか、私が隠蔽してしまった真実を公表するように進言して下さい。悪魔は存在せず、前参謀が体面を取り繕うために流した、まったくの虚偽だったと」
「それでは、今度は貴様が軽蔑の的になるぞ!? いいのか?」
「ええ。元はと言えば、悪魔の五宮玲哉を受け入れた私に責任がありますから」


 戦力を求めるあまり、軽率に玲哉を軍に招き入れたこと、事実を隠蔽したことなど、己の断罪の時が来たのだと、まともに宗教も信じていないがそう思った。

 紫昏は、もう一度だけ微笑んだ。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





 軍基地は、バルディア首都ビアルドの端にある。だから非常口を出て、そのまま街の外へ逃げるのは簡単だった。
 街を囲む外壁。そこに定間隔で作られた非常ドアを抜け、かろうじて歩いている状態の玲哉と、彼に肩を貸して歩く未亜は、寂しげな荒れ果てた大地を進む。

 ふと、足元に目が行った。その地面に、細い溝がずっと先まで伸びていることに気が付く。


「ここ……馬車が、通った跡があります……。これを辿っていけば、何処か……別の町に着くかもしれません……」


 未亜が切れ切れの息で言って、顔を上げると、地平線に何か影が見えた。気のせいかもしれないが、町並みのように見える。
 ホッと安心して息を吐いたら、油断して力を抜いてしまったらしく、急に玲哉の体が傾いだ。慌てて、少し前に出て支えようとして、出る途中で足をもつれさせた。


「ひゃッ?!」


 後ろにぐらっとよろめいた直後、支えを失った玲哉の体が倒れ込んできた。そのまま、固い地面の上に二人は重なって倒れ込む。


「っきゃあぁあ!!? ちょ、あのっ、玲哉さん?! お、重いっ……」
「……ごめん未亜……動けないから、自分で這い出て……」


 頭のすぐ横で掠れた声で言われ、顔が真っ赤になる。脱力した玲哉に否応無く押し倒されて、後頭部をしたたかに打ったがそれどころではなく、未亜は疲労もいずこへ、ばたばた手足をばたつかせた。
 ともかく、成人男性の体重に耐え切れないので、少し手荒になったかもしれないが、未亜は玲哉を押しのけつつ、彼の下から抜け出た。胸に手を当てて、いろんな意味で多い心拍を落ち着かせる。

 うつ伏せに倒れたままの玲哉を、仰向けにする。傍に腰を下ろして顔を覗き込んだ時、少し寒いそよ風が吹き抜けていった。
 玲哉は、自分の髪と、視界に映る未亜の髪が風にそよいだのを見て、確かめるように呟いた。


「外……なんだ……」
「……はい」
「……出られ、たんだ……。あの、牢獄から……」
「はい……」


 ふと、玲哉の視界に映る未亜が、暗くなった。彼女の後ろに見える曇天が、光を帯びたからだ。未亜も気が付いて、空を見上げる。
 黒い雲に覆われているバルディア。その黒い雲の間から、恵みのように一筋の光が差し込み、この辺り一帯を照らし出す。

 温かな、眩しい光に目を細めて……玲哉は、微笑んだ。


「……太陽……温かい。未亜と同じで……」
「……玲哉さんだって……温かいですよ」


 少し躊躇してから、未亜は玲哉の手を、胸の前で両手で包み込んだ。今は血が足りていないせいか、少しひんやりしていたが、それでも生きている肌のぬくもりがした。


「玲哉さんは……悪魔なんかじゃないです。化け物でも、ないです。ちゃんと……温かい血が流れてる、人ですよ」


 太陽の温かさに嬉しそうに微笑む少年、、は、一人歩きする<紅き悪魔>像とは程遠い。
 ぎゅっと、ぬくもりを分け与えるように、冷えた彼の手を握り締めた。それから玲哉の顔を見ると、キラリと光を反射するものが目に入った。


「……何で、俺……泣いてるんだろ……。いや……これ、さっき、感じた……嬉しい、から……?」
「きっと……そうですよ」
「……俺……人に、なれたのかな……?」
「アタシのこと……助けてくれたじゃないですか。さっきも……1年前も。……悪魔だったら……そんなこと、しませんよ」
「………………」


 淡く微笑んで言う未亜。……そういえば、これまで、彼女から微笑を向けられたことなんてあっただろうか。
 金と銀の瞳から、止め処なく涙が溢れる。拭いたかったが、体はまったく言うことを利かない。


「………………あり……がとう……」
「え……?」


 嗚咽の声に交じって、一言ようやく言えた。
 こんなに心を込めて言ったことなんてなかった。そしてまた、その言葉に込められる想いの容量がいかに少ないかを思い知って。


「アタシは別に……何も、してませんよ……?」
「……それでも……ありがとう……」


 ——傍にいてくれて。
 もし自分が人になれたのなら、それは、こんなゆがんだ自分をまっすぐ見てくれていた彼女のおかげだから。

 伝え切れない感謝の気持ちは、溢れる涙となってたくさん零れ落ちていった。





「あ……そうだ、玲哉さん。さっき……ひどいこと言っちゃって、すみませんでした……」


 玲哉の涙が落ち着いてから、ふと動力室での出来事を思い出し、未亜は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 それでも彼は、不思議と自分を助けに来てくれた。素直に嬉しくて、でも後ろめたくて。

 玲哉は、小さくふっと笑った。


「うん……凄く痛かった……」
「……ごめんなさい」
「じゃあ……」


 未亜がどう償おうか考えていたら、不意に、今まで脱力していた玲哉の手が弱々しくも、しっかりと手を握り返してきた。突然だったからドキッとして、未亜が目線を上げると、彼はこちらを見つめていた。
 あの、眩しい光が宿る、何処か不敵な双眼で。


「……俺と逃げない?俺……未亜と、離れたくない……」
「…………あ……あ、の……」


 何食わぬ顔で、さらっと言われた。玲哉の場合、深く考えずに思ったことをそのまま言っただけなのだろうが、あまりに直球すぎて、未亜は耳まで赤くなって黙り込んでしまった。

 元々、未亜は、自分は捕まる予定で動いた。だが幸か不幸か、捕まらずに逃げてこられた。
 こうなった以上、ビアルドには帰れない。最悪、バルディアから出ないと厄介かもしれない。もしかしたら追っ手がかかる可能性もある。
 恋した相手は逃亡者。恋した自分も逃亡者。
 ……なんだか、駆け落ちみたいだ。

 答えない彼女の様子に気付かない玲哉は、少し表情を曇らせた。


「……嫌?」
「そ、その…………い、嫌じゃ、ない……です……」


 慌ただしい心音を耳の奥で聞きながら、必死に声を絞り出した。だが、自然と次第に小さくなっていく声は、聞こえたかどうかわからないほど小さかった。
 ……恐らく聞こえていない。もう何も言えなくなってしまった未亜が、どうしようと悩んで、何気なく玲哉を見ると。


「…………よかった」


 差し込む光を真っ向から浴びて、彼は微笑んだ。
 感情を表にそのまま露出したかのような、柔らかな微笑だった。
 初めて見た無防備な笑顔に毒気を抜かれたように、未亜は言葉を失ってから。


「……はいっ」


 その笑顔に応えるように、彼女も、己の想像以上に素直に微笑っていた。





 とても温かくて、眩しくて。
 そこは、彼女が望んだ未来。






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