→→ Aubade
世の中には、不思議なことが絶えない。
聖王や魔王といった、人々の思想から生まれ落ちた存在がいたことを考えれば、もしかしたら、これらの不思議な事象も、人々の思想が形になったものかもしれない。
いつものように部屋の中は、中央に垂れ下がるシャンデリアによって、優しい明るさに包まれている。
左手に見える大窓の外は、夜の帳が落ちた後で、紺色が何処までも広がっている。小さな星達が煌いているのが見えた。
その輝きを称えるように、ポロン、ポロンと、流麗な優しげな音色が、少し大きめの部屋全体に広がって、染み入っていくのだ。
いつも自分が寝ている、天蓋のあるベッドに腰掛けて、ハープを奏でる蒼い少女。
部屋に一歩入って、まず椅遊が見たのは、そんな光景だった。
「では、椅遊姫。私はこれで」
「え……か、篝!」
背後で、この部屋まで送ってくれた氷室篝が去ろうとする。頭で理解しながらも、椅遊はつい振り返って彼を引き止めた。その際に、桜色の長い髪が大きく跳ねる。
廊下の灯りを受け、やや逆光の彼は、椅遊の背後にいる蒼い少女を目に映しておきながら、怪訝そうに問うた。
「どうかなさいましたか?」
「…………う、ううん……なんでもない。あの……ゆっくり休んでね」
「もちろんです、姫様のためにも倒れるわけには参りませんから。それでは、姫様もゆっくりお休み下さい」
この会話の間にも、美しい曲調は途絶えることはない。何食わぬ顔で演奏を続ける少女を気にしつつ、椅遊は動揺をねぎらいの言葉に隠した。優しい姫君の一言に、篝は淡く笑んで、そっとドアの向こうに消えた。
——パタンと、世界と自分の部屋とが隔たれる。
そう、これでいい。これは自分が視ている異次元だ。他の者を巻き込んではいけない。
そのことを確認し、ホッとしてから、すぐ気持ちを切り替える。意を決し、イースルシア王女・朔司椅遊は、くるりと後ろを向いた。
その空色の双眸に映すのは、人影。いつの間にか演奏は終わっていたらしい。片手で抱えられる大きさのハープを持った蒼い少女は、王女の椅遊顔負けの優雅な動作で立ち上がった。
まるで、その一挙一動が、神へ捧ぐ舞の如く。彼女がそこにいるだけで薫る、不思議な包容感、優しい風、その内に隠れた神々しさ。
サラサラとなびく淡い蒼の髪を舞わせて、紫の双眸が微笑む。
「こんばんは、椅遊さん。ふふ、驚かせたことと、勝手に入ってしまったこと、それとこんな時間に、ごめんなさい。でも、貴方が一人になるのはこの時間しかなかったから」
「……貴方は……」
吟遊詩人と聖歌隊の間をとったような少女だった。一目で吟遊詩人だとわかる風貌をしているが、寒色系のシンプルな淡い色合いの服装は、何処となく神聖な雰囲気を醸している。彼女自身、それに見合う、優しげな微笑を浮かべていて。
外見は、17歳の自分より少し下に見える。しかし、服装や落ち着いた立ち振る舞いから漂う雰囲気は、遥かに年上のように感じられる。
——彼女には、見覚えがある。一度だけ……いや、一瞬だけ、垣間見えた姿。
「そういえば、まだ名乗ってませんでしたね。私は、天華玻璃と申します」
「……貴方……昨日、夕鷹のところまで、導いてくれた人……」
「ええ、そうですね。その時、貴方には、『私』は見えていなかった。自分の望みしか見えていなかった。でも、今はどうですか?望みが叶った貴方には、『私』の姿が見えるでしょう?」
澄んだ音色の声で、奇妙な言い回しをしてくる少女——天華玻璃は歌うように言うと、ハープを抱いた。その拍子に弦に指先が触れ、ポロン……と転がるような優しい音がする。
「私は人々の鏡。光でも闇でも、聖でも魔でもない、理の守護者だからこそ、理の調和を取るために人に不足している分を映し出す。だから満たされていない人は、私に幻を視るんです」
——部屋の中、壁に掛かる絵画。イースルシアで神像とされている、白と黒の羽を持つ虹色の光球が描かれている。
それとなく示唆される彼女の正体を確信して、椅遊は慎重に問いかけた。
「そんな貴方が……私に、ご用?」
明らかに警戒している様子の椅遊の緊張を解すように、玻璃は「大したご用じゃないですよ」と、上品にくすくすと笑う。
「バルストとルトオスを救った貴方と、ちょっとだけお話しがしたかっただけです。人の身で私の姿を認識できる人も初めてで、興味があったので」
何処となく楽しげな声で答える玻璃は、終始ずっと笑みを浮かべている。二人の王のように、感情が乏しいというふうには見えない。
——そういえば、ルトオスが、以前言っていた。
聖王と魔王は、一側面だけを求められた存在。故に、感情などは持ち合わせていないと。
しかし、神は……不可避の完全な神の夢を紡ぐ傍ら、光と闇を有するという点で不完全だ。故に、人間的であるとも。
自分の紡いだ通りに進むすべてを、ありのままに見守る、文字通りの傍観者。
ポロン、と彼女の細い指が弦の上を滑る。優しい、でも何処か力強い、爽やかな朝日のような旋律を爪弾きながら、少女は歌う。
「ルトオスのこと、頼みますね」
「え?」
「彼は、とても狭い世界に住んでいました。わかりますか?ルトオスには、契約者の貴方しかいなかった。貴方に依存していたところがあるのです。貴方がいなければ、彼は自分の存在理由を見失うでしょう。貴方は、ルトオスの行動の中心でもあるのです」
「………………」
「だから貴方が、広い世界を見せてあげて下さいね。まだまだ感情に乏しいルトオスに、たくさんのことを教えてあげて下さい。夕鷹さんと一緒に」
温かい曲調が流れる中、微笑む少女。そこにいるのは、『母』だった。すべての母なる存在の、優しい教え。
さらに蒼い少女は、目を閉ざし、少しイタズラっぽく言う。
「今お届けしている、この朝の歌。数時間後の貴方に向けた、ちょっとしたヒントです」
「朝の……歌?今、夜だけど……」
「ふふ、そうですね」
椅遊が訝しげに問いかけても、意味深に微笑むだけで、玻璃はそれ以上何も言わなかった。
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どうしてピザとオムライスを、一緒にメニューに加えてしまったのだろうかと、パテルレストランの店長シェフ・彰は思った。
そもそも、国内の食事だけではなく、各国の食べ物を積極的にメニューに取り込んだのが売りなのだ。今更後悔することは、世界各国の食事を味わってほしいという願いでレストランを開いた初心を否定することになり、だから反省はしても後悔はしない。
ただ、オムライスを取り入れたのがつい最近で、そして今日、あの二人が来店したのが悪かっただけなのだ。
「オムライスか〜。まぁ確かにうまいけどさぁ、子供っぽくない?」
「偏見による判断ほど、くだらぬものはないな。大体、何千年かは忘れたが、それほどに生きている余の何処が幼稚か述べてみるがいい。ピザなど油っこいものを食べて満足している貴様こそ真に子供だろう」
「なにおう?わかってないな〜、この香ばしさは万人の好みだぞー?ほれほれ〜、特に耳とか耳とか耳とか」
「ならば己の耳でも食らっているがいい。って寄越すな!その油の照りが好かぬと言っている!皿に載せるなそして一口勝手に食らうな!!」
「んん〜、オムライスもうまいよねぇ。でもやっぱピサだろ〜」
双子、と言ってもよかった。
どちらも癖の強い短髪。背格好も同じだし、声も同じ、やはり顔立ちも同じだ。だが、細かな違いを始め、二人はあまりに雰囲気が違った。
片方は菫色の髪の、片方は白髪の青年。
菫色の髪の青年は、穏やかというより締まりがないマイペースさで、ピザを食べている。服装も、きっと大して気を遣っていないのだろう、少し薄汚れた白いジャケットとジーンズ姿だ。
一方、白髪の青年は、不思議な物言いをする上、無表情で皮肉を垂れている。闇をまとっているような真っ黒のマントを羽織った彼は、隣の青年に比べるとなんとなく上品に見える。
髪の分け方が逆だったり、利き手が逆だったり、なんとなく鏡のような二人だと、彰は思った。
左手でスプーンを持った白髪の青年は、その無表情で、自分の皿の隅に置かれたピザを見下ろす。表情は変わらなかったが、その銀の瞳はなんとなく呆れ切っているように見えた。
そのピザを押し付けたピザ党の菫色の青年が、ピザの耳を食べながら幸せそうな顔をする。
「うまぁー。やっぱピザだって」
「断じてオムライスだ。……なるほど、このピザは余に対する宣戦布告というわけか。よかろう、スプーン1杯分の恨みを受けるがいい」
「お前、心狭いな〜……って、ちょっと待ったぁあーー!!?」
白髪の青年が淡々と告げ、おもむろに右手でピザを持ったかと思うと、その手をすっと自分の横に動かし、手のひらを返そうとする!
背を預けていた背もたれから、がばぁっと起き上がり、飛び込む勢いでダッシュをかけようとしたピザ党に、オムライス党は薄く笑った。
「ならば認めるがいい、オムライスが一番だと!」
「人質……ピザ質?なんてずるいぞー……ああでもやっぱり、ピザが一番ッ!!」
「いーえっ、絶対ケーキが一番!!」
——唐突に、別の高い声が割って入った。
二人の青年が、その体勢のまま、同じ方向を振り返る。彰を始め、他の客もそちらを見ると、そこに、何処かで見たことのある少女が腰に手を当てて立っていた。
つややかな、桜色の長い髪を持つ少女だ。服装は、首元の露出が目立つシャツに、膝丈のスカートという、年頃の女の子が着そうな可愛くも落ち着いたテイスト。しかし、少女が放つ不思議な気品は、そんな服さえも改まった服に見せた。
彼女は、ぴっと人差し指を立てて、唖然としている二人にきっぱり言い放つ。
「ピザはサクサクしてるけど甘くないし、オムライスはちょっと甘いけどサクサクしてないもん!どっちも兼ね備えてるケーキがやっぱり一番っ!!」
「「………………」」
——二人の時が止まる。いや、その言葉を聞いた、その場の全員が硬直した。
この場にいる誰もが、今までの二人の口論を聞いている。その争点は、もちろん、ピザとオムライスの優劣。
しかし、少女は予想外の方向から切り込んできた。ケーキという、スイーツの王者と比較しての講評、そしてそれらはケーキが一番だと言う裏付け。完璧な論理展開に……というか、そもそも何か根本的におかしいはずなのに、誰も言い返せなかった。
世界が停止した中を、少女はすたすた二人の傍まで歩いていく。店の全員の目が、彼女を追う。
傍若無人に騒いでいた二人。白髪の青年が降参したように息を吐き、空中に持ち上げていたピザを皿の上に戻す。その口元には、小さく笑みが浮かんでいた。
「ケーキか。悪くないな」
「ほーい、俺も賛成。うまいよね。やっぱお菓子には敵わないっか〜」
小さく手を上げて笑う菫色の髪の青年も、何処となく高貴な空気をまとう少女の言葉に、笑って賛同する。少女は、二人が口論をやめたことか、もしくはケーキが認められたことか、ともかく空色の瞳を細めて笑った。
通常、三、四人用のピザを一人で食いつくした青年は、背もたれに寄りかかって伸びて、何気ない口調で言った。
「そんじゃ、いゆの……」
「し、しーっ!!! 夕鷹、気をつけて!!」
青年が何か言いかけた瞬間、少女が急に慌てた様子でその先を遮った。甲高い声が、これまでで一番大きく響く。
それから彼女は、さっと周囲を見て、顔を強張らせた。店中の注目が、見事に彼女らに向いていたからだろう。ただしこれは、双子らしき二人が言い争いしている時からだ。少女は自分達がずっと注目を集めていたことに、今ようやく気付いたらしい。
一方、注意された青年はキョトンとしてから、「あぁごめんごめん」と苦笑した。それでも彼は、その視線に気付いていなかったようだが。
「提案通り、ケーキ食べに行こっか?ルト……ブッ!!」
そして気を取り直して喋ろうとしたら、今度は彼の向かいからピザが飛んできた。それが青年の顔面にストライクするのを、彰が見ていることしかできなかった。あああ、自分が作ったピザが。
モロに食らったピザ党青年に、少女が慌てて布巾を差し出す。青年が張り付いたピザをとったら、丸いサラミがほっぺみたいになっていて、少女と同時に、彰は思わず噴き出した。
ピザを青年の顔に叩きつけた白髪の青年は、何事もなかったかのようにオムライスを完食し、静かに銀器を置く。
「軽々しくその名を口にするな、愚か者が」
「食べ物粗末にすんなよー……しかもなんか、ほっぺできてキャラクターみたいになってるし。ん、うまい。顔洗いたい」
「どうせ何処かのピザ党が食べるだろうと見越しての行動だ。だが、そろそろ場所を移した方が……」
顔についた脂を拭きながらピザを食べる青年を一瞥してから、白髪の青年は周囲を見る。そのやや無機質な銀の瞳と、彰は正面から目が合ってしまった。
そして彼は、微妙にその無表情を変化させた。……なんとなく、憐れみの色だった気がする。そんなにひどい顔をしていただろうか。
おもむろに少女の手を取り、白髪の青年は当然のように歩いていく。少女はキョトンとしたまま、彼に引っ張られていく。
店の入り口は、ドアらしいドアもなく、オープンなつくりになっている。そこを通って、二人は太陽の下に出た。
お帰りのようだ。何も言わずに見送ってはプロの名が泣く。実は後払いなのだが、その時、代金のことは頭から抜け落ちていて、とにかく、彰は慌てて声を上げた。
「あ、ありがとうございましたー!!」
「え?ちょ、ど、何処行くの?あのっ、夕鷹もちゃんと来てね!?」
「無用な心配だ。面倒なことに、切ってやりたいのだが余と奴には妙な気配の繋がりがあってな。元が同じ存在だからか、≪流れを御する者≫の仕業なのか……」
嘆息して言うと、闇色のマントの青年は屈んで、ひょいと少女を抱き上げた。お姫様抱っこなんて、生で初めて見た。
ぱちくり目を瞬く少女には何も言わず、彼は、ただ一人、テーブルについたままの菫色の髪の青年を肩越しに見た。
その口元に、薄く冷笑を浮かべて。
「後始末は頼んだぞ」
そして返答を待たずに、そのまま軽やかに跳躍し、彼の姿は見えなくなった。建物の上部へ跳んで行ったように見えたが、あの状態で可能な所業なのか。
いろいろ有り得なさすぎて、しばらくの間、店内の空気が停止していた。
だんっ!!と衝撃音が、唖然としていた彰を現実に呼び戻す。
「……むー……ちょっとムカっと来たぞ」
振り返ると、残されていた青年が、代金を持った手をテーブルに叩きつけた格好で呟いていた。
上げられた顔。それまで穏やかだった金眼に、憎悪でもない、怒りでもない、言い表しがたい苛立ちが灯っていた。
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自分は王女だから確かに姫なのだが、お姫様抱っこなんて初めてされた。
椅遊が呆然としているうちに、目に映る景色は、どんどん変わっていく。最初は、レストランがあった賑やかな城下街だったが、だんだんと郊外へと移動しているらしく、閑静な住宅街になっていた。
同じパセラ内とは言え、城下街の郊外に出たことはめったにない。というのも、郊外は居住地の分類になっているからだ。城下街は商業地区となっているから、賑やかなのは当然だ。
だから、辺りを見渡すと、この街の人々の生活風景が見られた。夫婦で洗濯を干す民家、走り回る子供たち、木陰で休む猫。ちなみに、パセラは全域が石畳で舗装されているから、地面は城下街と同じ。それでも、その上に立つものが違うと、こんなにも雰囲気は違う。
しばらくして、ようやく下ろされる。不思議体験だった浮遊感覚は終わり、なんとなく名残惜しいけども、足が地面についている慣れ親しんだ感覚にホッとする。
椅遊は、くるっと傍らの青年を振り返り、彼の容貌を改めて見てみた。
——見れば見るほど、夕鷹と瓜二つ。
癖の強い白髪の髪と、鏡のような銀の瞳。黒いマント姿は、彼の以前の姿を彷彿とさせる。
魔界に住まう、圧倒的な魔力を持つ銀色の光球。
曰く、人々は、かつてその存在をこう呼んだ——
「ルトオス……じゃ、ダメかな?」
「人気がない今は構わぬ。だが先刻のように、人前でははばかられるな。それに、余はもはや魔王ではない」
と、人間になった魔王ルトオスは、大したことではないように言い捨てた。その声は夕鷹と同じだが、彼と比べると起伏はやや少ない。
今のルトオスの体には、魔力は、人間よりは多いが、精々魔族と同程度しかない。つまり、三国戦争時に展開したような規格外の魔術も使えないし、ましてや魔力を直接叩きつけることなどもってのほかだ。ルトオスは、もはや"ルトオス"ではなく、ただの人間である。
「魔術は使えないこともないが、それも人間が使用できる程度のものだ。……フン、夕鷹と同じ立場に下落するとはな。あのおめでたい愚者の目に見えていた世界がこれか」
「きっと、もっと楽しいことあるよ」
ルトオスのその皮肉が一応褒めていると読めるのは、椅遊くらいだろう。ルトオスが夕鷹に憧憬を抱いているのをなんとなく察していた椅遊は、くすくす微笑んだ。
ただの人になった魔王。しかし、その傲慢で、皮肉な態度は変わらない。それがなんだかおかしくて、嬉しい。
その元魔王が、明らかに人に物を頼む態度ではない態度で問う。
「ところで椅遊よ、余を傍に置いておく気はないか?」
「……え?」
「今のイースルシアは、非常に不安定だ。先日、貴様を亡き者にしようとした男を始め、民の不満は募るばかりだろう……軍もまだ完全に再生していない故、いつ何処で何が勃発しても不思議ではない」
「………………」
無邪気な子供たちの笑い声が、木霊する。
長い付き合いならではの夫婦の応酬が、反響する。
——それらは、1年前の、城のバルコニーからの光景を彷彿とさせた。
嬉々と手を振っていた民衆達。あの笑顔を、不安が食い散らかすまで、どのくらいだろうか。
ルトオスの危惧は、間違っていない。むしろ、的中すぎるくらいに的中で。
軍指令の篝が、四六時中、軍内に目を光らせているのを知っている。総司令の波留が、四六時中、国内の動きをチェックしているのも知っている。
何があっても即座に対応できるように。……そんな日々が、もう一年は続いている。
しかし、そんな過酷さをおくびにも出さずに、二人は自分に接してくる。自分の命が最優先だと言って、厳しい軍政の中、面倒を見てくれる。専門知識もない自分は、何も言えなくて。
「……だから、私の傍に? ……どうして?」
「理由は、三つだ。一つ、単純に、軍は人手不足だろう。貴様の護衛に精鋭を割くほどの余裕があると思えぬ」
「………………」
「二つ目は、貴様の無用心ぶりを看過できぬという、やはり単純な理由だ。椅遊、貴様は槍玉に上がりたいのか。先日の男が良い例だ」
「………………」
突きつけられる現実に、王女は喉を詰まらせる。
……言われて理解した。自分の存在が、軍に無理を強いている。
自分が、槍玉に上がれば。軍の代わりに、非難されればいいのでは……いや、それでは軍への負担がまた増えるだけだ。
篝や波留の苦労を軽減したいのに。どうすればいい?
「そして、三つ目は……さらに単純だ」
そう言うと。青年は、まるで硝子細工を扱うかのように、そっと椅遊の手を取り、すっと膝を折った。
片膝を立て、少女の片手をとる——それは、姫に忠誠を誓う騎士のようで。
「……否、単純ではないかもしれぬが……傍らに置いてほしいという、ただそれだけだ」
「え……?」
困惑する椅遊に、ルトオスは、なんとなく自信なさげに小さな声でそう言った。
青年の口から出た思わぬ言葉に、椅遊はまた別の意味で驚いた。感情の映り込みに乏しい銀瞳を見返して、呆然とする。
「奇異だというのは承知している。滑稽だろう?余とあろうものが、己の思考を整理できぬなど」
椅遊の驚きように、かつての魔王は、自嘲するように薄く笑う。これが性分と言わんばかりに、皮肉げに。
——これが、あのルトオスだというのか。
無表情で、無感動で、感情などいらないと言っていた魔王の変化。
そして恐らく、かつて聖王だった夕鷹も、通ってきた道。
脳裏に閃く言葉。
『ルトオスには、契約者の貴方しかいなかった。貴方に依存していたところがあるのです』
『貴方がいなければ、彼は自分の存在理由を見失うでしょう。貴方は、ルトオスの行動の中心でもあるのです』
「——椅遊の護衛?またそんなわけわかんないこと言っちゃって」
気の抜ける声が真上から降ってくるのと、ルトオスがはっと顔を上げるのは。
同瞬だった。
闇色のマントが椅遊から飛び退き、代わりに上空から降ってきた影が襲来する。
悪意のない攻撃——いや、8割くらい怒りがこもっていた気がしたが、割り込むのが目的だった踵落としは、一瞬前にルトオスがいた石畳に、ガツン!と突き刺さり。
「ったぁああーー!?! モロ入った!?」
——いろいろ計算ミスをしたらしく、物凄く痛そうな角度で入った。
器用に片足を抱いて飛び跳ねる青年。二人を追ってきた菫色の髪の彼の間抜けさに、ルトオスは沈黙し、椅遊は慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫!?」
「お、おう、大丈夫。おーいルトオス、お前も何か言うことないのかよ?」
「茶飯事の貴様の愚鈍さに、わざわざ一言言う価値もないな」
「無関心なお前に一言求めた俺が馬鹿でしたよーだ……」
はぁと溜息を吐いて、レストランから追いかけてきた二ノ瀬夕鷹は足を下ろした。これを、パフォーマンスでもなく本気でやらかしているのだから、コイツは人間になってから数百年でここまで馬鹿になったということだ。ひとまず、この先例と同じ轍は踏みたくない。
いつの間にか、背後に椅遊をかばうように立っている夕鷹は、ルトオスに金の瞳を向けた。……なんとなく、敵意を燃やされているような気がした。
「で、椅遊の護衛だっけ?」
「……余が感知できぬ範囲から芸を仕込んでいるとは、愚かしいほどに熱心だな」
「だからー、芸じゃないっての。護衛なら俺がやるって。そんじゃ、ルトオスは休んでていーよ〜」
「当然の如く横奪するな。貴様こそ、1年前に奔走したのだ、黙って休息するがいい」
「あーいいっていいって。マジで」
「そっくりそのまま返すぞ」
「……?」
なんだか違和感。二人の応酬を夕鷹の後ろから見ていた椅遊は、解せずに小さく首を傾げる。
この二人は、結構仲が良い。……いつも言い争っているという点で。
二人は真逆の感覚の持ち主で、いつだって価値観が噛み合わないのだ。先ほどのピザとオムライスもその一例だ。
だが、今は妙だ。お互いに休みを進め合ったりして、いつもと違い価値観が一致していて……おかしくて、落ち着かない。
——しかし、椅遊は気付いていなかったが、彼らにも共通した価値観が1つだけあるのだ。
いがみ合っている二人の間くらいに進み出て、椅遊は両者を落ち着かせるように微笑んだ。
「じゃあ、二人ともなろうよっ。私はその方が安心だもん」
「「………………」」
邪気のない微笑で諭されて、二人ともが詰まる。一瞬、互いに相手を批評する言葉を考えようとしたが、「二人ともがいれば安心」という彼女の一言を崩す言葉は出てこない。
——やがて、二人同時に、降参の意で息を吐いた。文字通り息ピッタリに呆れる二人の反応は、少女を笑顔にした。二人が納得したらしいというのを察し、椅遊は微笑む。
「うあー……椅遊には敵わないや。なんかどーでもよくなってきた……」
「……同感だ。椅遊がそう言うのなら、それで良いだろう」
睨み合っていたのが馬鹿らしいと言わんばかりに、夕鷹は頭を掻き、ルトオスは肩から力を抜いた。
彼らが椅遊に敵う日は、来そうにない。
『だから貴方が、広い世界を見せてあげて下さいね。まだまだ感情に乏しいルトオスに、たくさんのことを教えてあげて下さい。夕鷹さんと一緒に』
昨夜の、朝の歌をバックに聞いた、玻璃の言葉を思い出す。
空を仰ぐと、すでに朝とは言えない時間帯だった。晴れた青い空を、1羽の白い鳥が飛んでいく。その隻影が、なんだか眩しくて。
——彼女が言わんとしていたことが……わかった気がする。
「ねぇ、ルトオス!」
ぱんっと手を打って、椅遊はルトオスを振り返った。彼の闇色のマントが、吹き抜けた爽やかな風に舞う。
「やっぱり新しい名前、必要だよね?だって貴方は、もうルトオスじゃないもの。だからやっぱり、新しく始める名前って必要だよ」
「呼び名には苦労しているからな。確かに必要だ」
「なら——燕朝、なんてどうかな?」
ばさり、と。蒼穹の空を目指して、傍の家の屋根に止まっていた鳥が飛び立った。
彼の白髪が風に掻き乱され、ふわふわとなびいて、まるで——羽毛のように。
「貴方は、魔界から飛び立つ白鳥。人間のすぐ傍で過ごす鳥」
「——————」
「新しい朝が来て、みんな飛び立つんだよ。翼を広げて、新しい世界に旅立つの。だから……燕朝」
呆気にとられている青年に向けて、歌うように紡ぎ、椅遊はすっと右手を差し出した。
「ようこそ、世界へ。貴方の知らない、綺麗で大切なたくさんのことが、ここにはあるから」
透明な色で、淡く微笑む少女。
鏡のような銀の瞳に映し出されたその姿は、気が遠くなるほどの太古に映された一風景と重なった。
———消えるのが怖い?
それは、貴方が世界を知らないからよ。
私が教えてあげる。
こんなに美しくて、こんなに愛しいものが、ここにはあるって———
そう言って、手を差し出してくれた、初めての人間。
優しい空色の双眸は、あの時から自分を捉えていたのか。
(ルシア——)
——人間は、嫌いだった。短い命しか持たないくせに、すぐに忘れてしまうから。自分は、それが何よりも怖かった。
そんな不可視の恐怖に脅かされている自分に、『彼女』は手を差し出してきた。
でも自分は結局、裏切られたと思って、『彼女』のその血を穢した。今ならわかる。単なる嫉妬、でも最悪な所業だった。
——そして、今。
その血を受け継いだ少女が、自分に手を差し出している。また。
遥かなる時を越えてまで、自分を救おうとする血筋。
「ってことは……"旅立ち"の意味合いかぁ。俺は、"帰る"意味合いで名前つけられちゃったからなぁ……しかも聖界に。むー、ちょっとうらやま」
空を舞う鳥を、羨ましそうな目で見送りながら夕鷹が言う。
彼の名は、サレスがつけたものだ。いくらかかっても、聖界に、聖王に戻るようにと意味を込めて。それを知ったのは、玻璃に言われてからだが。
元々、聖王バルストのために自分という器を作ったのだから当然なのだが、バルストの代替物のような感覚が否めなくて、ずっと嫌いだった。今はバルストじゃないし、それにバルストは夕鷹自身でもあったから、なんとも言えないのだが、その時の気持ちはまだ残っていて、若干コンプレックスである。
複雑な心境で語る夕鷹に、椅遊はくすりと笑った。
「そんなことないよ?私は夕鷹の名前、好き。夕鷹は、ちゃんと私のところに帰って来たもの。終わりが近付く夕方になったら、絶対帰って来るんだよ」
「マジかっ!!? おおお、なんかそれすげーいい!! そっか、そーゆー取り方もあるか〜!椅遊すげー!」
「ふふふ〜♪」
感動のあまり、金眼を比喩的にキラキラ輝かせ、思わず椅遊の肩をガシィ!と掴む夕鷹。それほどまでに、椅遊の見解は目から鱗だった。椅遊は驚くこともなく、得意げに笑う。
それから夕鷹は、さっきから黙り込んでいる白髪の青年を振り向いた。銀眼は相変わらず、呆然と椅遊を見たままだ。
「ルトオス、お前、椅遊に名前もらうとかうらやまー。……って、おーい聞いてる?もっしもーし?ルトオス?」
ひらひら手を振ってみると、応えるように鏡の瞳に手が映り込む。
風がそよぎ、彼の闇色のマントがなびいて、一瞬視界が真っ黒になった。
暗幕が退いた世界。白髪の青年は——つい綻んだような、淡く笑みを浮かべて。
「貴様、誰に話しかけている?そのような名の者は、もうこの空界には関与しておらぬ。我が名は——燕朝だ」
黒い翼にも似たマントを翻し、白い羽毛にも似た綺麗な白髪の間から、銀の目を覗かせて。
この瞬間から燕朝となった青年は、不敵に告げた。
夕鷹と椅遊は、一緒になって目を丸くした。合わせるでもなく顔を見合わせて、同時に噴き出した。
「はいはい、そんじゃ燕朝、椅遊。ケーキ食べに行こっか?」
「うんっ!あ、城下街の南区においしいケーキ屋さんがあるの!あとね、東区のカフェのケーキもおすすめ♪」
「椅遊……貴様、無用心に出歩きすぎだ」
足を城下街の方へ向ける夕鷹に続き、何かと詳しい椅遊と、呆れ気味の燕朝も行く。
何気なく並んだ夕鷹と燕朝の間で、椅遊は二人の腕をそれぞれ取って、笑った。
「でも、もう大丈夫。二人の護衛さんがついたから。よろしくね!」
「おう、任しとけ〜」
「当然だ」
いつも通り気だるげに返事をする夕鷹と、いつも通り素っ気無い返事をする燕朝。
双子なのに、まったく違う二人。これから傍にいてくれると思うと嬉しくて、でもいなくなったらと思うとちょっとだけ怖くて。
でも今は、三人でケーキを食べて、三人でなんでもない日々を過ごしたい。
幸せは、すぐ傍にある。
——故に、不足分なんてない。
楽しそうな三人が通り過ぎた曲がり角。だから三人は、そこに佇む、蒼い人影に気付くことはなかった。
途絶えることなく、そこからは音が溢れているのに、周囲の誰も彼女を振り返ることはない。彼女は、人の五感には映らない存在。彼女に意識されない限り、誰も、彼女の存在を認知できない。
「バルストとルトオスは、私の夢の範囲内。でも、生まれ変わった『夕鷹さん』と『燕朝さん』は、『私の夢の範囲外』。通常とは異なる手法で生み出された存在には、私との因果が結べませんから」
それは、二人の未来には何も視ることができないということだ。しかし玻璃は、むしろ嬉しそうに語る。
「私にも見えないお二人の先を、導いてあげて下さいね……椅遊さん」
運命の紡ぎ手は、何の力もない一人の少女に、ひそやかに願いを託す。
演奏されていた朝の歌が、緩やかに終わりを告げ。
最後の余韻が消える頃には——少女の姿は消えていた。
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