→→ Finale 2

 自分の目の前で、ターコイズブルーの髪の毛先が、青紫色のマントの上で揺れている。相変わらず綺麗な髪だなぁと思いながら、彼の後ろを行く。
 と、その背がくるりと振り返った。部屋の前まで来たのだと悟る。そこの両開きの扉の片方を開け、彼はコバルトグリーンの眼でこちらを見て言った。


「どうぞ、姫様。お部屋です」
「うん。篝、いつもありがとう」
「いいえ、当然のことですから。では、私はこれで」


 自分が部屋に入り、そこから先ほどまで護衛していた氷室 篝に言うと、彼は小さく微笑んで扉を閉めた。ぱたん、と控えめな音がした。


(……篝、大変そう……)


 壊滅状態にまで追い込まれたイースルシア軍を1日も早く立て直すために、篝や波留は奔走している。その中で、篝は自分の護衛までしてくれている。
 部屋の中を歩き出しながら、少し伸びた桜色の髪の上にのっているベールを取る。部屋の隅の扉を開くと、そこからまた別の部屋に繋がっていた。その部屋には、数え切れない量の服が整然と並んでいた。
 それを空色の瞳に映し、つい困ったように息を吐く。一般に言うところのクローゼットなのだが、こんなにあると困ってしまう。


(ドレス、綺麗だけど……歩きづらいんだよね)


 王女ともあろう自分がこんなこと言ったらまずいだろうと思って、周りには言ったことがないが、本音はこうだ。きっと、夕鷹たちと旅した記憶が色濃いからなのだろう。記憶がなかった自分にとって、あの出来事こそが初めての想い出だったから。
 ……そう思って、イースルシア王女・朔司椅遊は、柔らかく微笑んだ。それから、ベールを部屋の脇のテーブルに置き、着慣れた服を探して着替え始める。

 ――1年前。気が付いたら自分は、魔界に来る前にいた場所にいた。六香や梨音が心配そうな顔をしていたのを覚えている。
 魔界から、夕鷹の聖術によって弾き出された。そう理解して、銀の〈扉〉を見上げたら、〈扉〉は銀雪になって散っていくところだった。
 ルトオスも、夕鷹も――彼らの言った通り、消えてしまった。自分とシンクロしていたはずの、ルトオスの声も聞こえなくなった。呼びかけても、あの平坦な声は返ってこない。



 皆に、事情を説明した。采と楸、天乃は、ルトオスが消えたということを聞いてホッとした様子だった。玲哉は一人、愕然とした。
 そして、六香と梨音は、夕鷹バルストが消えたということを聞いて――悲嘆することはなかった。


  『あのお調子者が、黙って消えるわけないでしょ?』
  『……夕鷹のしぶとさは、よく知ってますから』


 二人とも、自信満々にそう言い切った。二人とも、信じてくれた。夕鷹は絶対、帰ってくると。
 心強い言葉を胸に、自分も、願うようになった。



 イースルシア城に帰ってきてから、教会に行くようになった。
 教会は、神に祈りを捧げる場。玲哉が滅そうとした神もまた、聖王魔王と同じ、思想の存在だ。教会から願えば、今はいない彼らにも、この願いが届くような気がした。
 少し前から、礼儀作法やら勉学やら、王族には必須のことを学ぶ日々が続いているが、それでも教会に行くことは欠かさなかった。昼頃、食事後に休憩時間があるので、それを充てている。

 ――ただし、自分は王女なので、外出は止められている。どうしてもする場合は、護衛をつけるようにしろと言われた。
 以前だったら、夕鷹たちがいれば事足りた。しかし今、彼らはいない。
 ……だから、必然的に、こっそり城を抜け出すことになる。


「……うん、やっぱりこの服だよね」


 着替え終わった椅遊は、鏡の前に立って自分の姿を見た。さっきまでの青いドレスとは打って変わって、シンプルな浅葱色の礼服だった。夕鷹達と旅している時、着ていたものだ。やはりこれが一番動きやすくて落ち着く。
 さらに、前に城下町で買ってきた、淡い緑の帽子をかぶる。丸まったつばを掴んで簡単に位置を調節して、よしっと頷いた。
 そうそう人々の前に顔を見せたことはないが、前、何も考えずに城下町に下りたら、この帽子を買った店のおばさんにバレた。見破る人は見破るらしいので、念のためにかぶるようになった。

 それから椅遊は、鏡の片方の縁に手を伸ばし、手前に引いた、、、、、、。すると、まるでドアのように鏡が開き、向こう側には薄暗い通路が伸びていた。火を入れたランプを片手に持つと、椅遊はその通路を進み出した。
 万が一の時のためとして、自分の部屋にある抜け道。一本道のここを抜ければ、城の後ろ側に出られる。少し郊外に出てしまうが、兵士達に見つかってしまうよりはマシだ。

 自分がこんなことをしていると知ったら、両親や使用人たちはどんな顔をするだろう。少し想像して、椅遊は小さく笑った。





  ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪ * ♭ * ♪





「こんにちは、おじいさん」
「こんにちは。また教会かい?」
「うん。日課なの」
「はは、そうかい。僕の水やりと同じだね」


 城下町の大通りを歩いていくと、いつもこの時間帯、軒下の植物に水をやっている年配の男性がいる。もはや顔なじみの、しかし自分の正体に気付いていないらしい男性に挨拶すると、彼は穏やかに笑った。
 それに笑い返し、教会を目指して歩く。その男性の隣家は、自分が帽子を買った衣服店だ。店先に、自分の正体を見破ったおばさんがいた。


「おばさん、こんにちは」
「あらぁ、姫さ……」
「し、しーっ!! おばさん、いっつも言ってるけど、気を付けてっ!」
「あはは、すみませんねぇ。何て呼んだものか悩んで、つい。お嬢さん、こんにちは」


 おばさんが言いかけた呼び方に、椅遊は口の前に人差し指を立てて彼女を咎めた。おばさんは済まなそうに笑って言い直す。
 椅遊が教会に毎日行っていることは、この辺りでは割と有名だ。当然、それを知っていたおばさんは、服を畳んでいた手を休めて聞いてきた。


「お嬢さんは、今日も教会にお祈りに行くんですか?」
「うん。大事な日課なの」
「以前伺ったら、神様に祈ってるわけじゃないんでしょう?こう言っちゃなんですが……毎日行ってますが、そんなに大事な日課なんですか?」
「うん」


 元々教会が、神への祈りを捧げる場所だと考えれば、おばさんが訝しげに聞いてきたことは当然の疑問だ。椅遊は、隠すことも迷うことも微塵もなく、すっぱり頷いた。



「―――会いたい人がいるの。その人達に祈ってるの。会いたいって」



 普通ならそれは、神に祈る。また二人と、再会できるように。
 しかし、椅遊は違う。神ではなく、二人に祈る。再会したいと。
 思念こえを二人に届かせないと、意味がないから。

 優しく微笑んで言った椅遊の言葉に、予想通り、おばさんは不思議そうな顔をした。その顔に、椅遊はもう一度だけ笑って、前を向いた。
 家と家の間には、細い路地がある。視線を正面に戻すと、眼前にあったその路地から、一人の男性が現れた。


「死ね王女!!」
「っ!?」


 黒い服をまとった男は、そう叫ぶなり、手に持ったナイフを構え、ダっとこっちに向かって跳んできた。思いもしない名で呼ばれ、しかもナイフを突き出してくる男に、椅遊がはっとした頃には、すでに男はナイフが届く近距離にいた。


(…………死……ぬ……?)


 ナイフの切っ先が、自分の胸に飛び込んでくる。
 時間が、引き延ばされていく。
 永遠にも似た一瞬の海で、椅遊はただそれを見つめていた。
 横から暗幕が引かれ、無音の世界が暗転した。

 ――やがて、
    がすっ!と音がした。

 それを皮切りに、音が帰ってくる。周囲に溢れ返る音が、一気に鼓膜に飛び込んできた。その外界の刺激の多さに、自分が生きているということを知る。生きているというのは、なんと騒がしいのか。


「ぐふあ……っ」


 椅遊が止めていた息を吐いた頃、苦しそうに鳩尾辺りを押さえ、奇襲してきた男が膝をつく。――その男の前、椅遊の前に、いつの間にか、一人の者が立っていた。


「身の程をわきまえるがいい。貴様が誰に刃を向けたのか、知らずともな」


 男と椅遊との間に滑るように割って入り、男の手首を掴んでナイフを無効化、すかさずその鳩尾に拳を叩き込んだ、その後姿。声は、少し高めの男のものだ。
 突然現れた、目の前に立つ背高の人物。椅遊が呆然と見上げていると、彼は奪っていたナイフを一瞥し、無造作にその左手を横へ振った。放たれたナイフは、離れたところの木材に深々と突き刺さる。

 何気なくそれを見届けていたら、不意にぐっと手を掴まれた。軽い混乱を起こしていた椅遊は、そのまま引っ張られて走り出す。
 視線を正面に戻すと、さっき助けてくれた青年が、振り返らずに自分の手を引いて前を走っていた。


「己の身分を忘れぬことだ。国民全員が、王女の貴様を歓迎しているとは思わぬ方が身のためだな。中には、先刻のように、理由をこじつけて貴様を憎んでいる者どももいる。それが人間だろう」
「え……ちょ……貴方はっ……」
「まぁ余は、貴様がそのようなお人好しだからこそ、気に入ったのだがな」


 知っている声が、思ったより優しい声音で、ふっと小さく笑うのが聞こえた。旅装のような黒いマントを羽織った、クセの強い白髪の後姿は、椅遊の問いを遮断するように言葉を重ねる。
 さらに椅遊が口を開こうとしたら、途端に彼は走るのをやめた。気が付くと、何処かの建物の前にいた。そのドアを開くと、彼はふわりと身を翻して椅遊の背後に回り、彼女を中へ突き飛ばした。


「きゃっ!?」
「ひとまず、あの男を搾り上げる必要があるな。貴様はの指示に従うがいい。――また後でな、我が友人・椅遊よ」


 結構な遠慮ない力で突き飛ばされ、たたらを踏みながら中に入る椅遊の背中に、淡々とした青年の声がかかる。はっとして、椅遊が慌てて振り返った頃には、扉は閉まった直後だった。


「ねぇ、待って!! ルト――」


 すぐに扉の取っ手を掴んで押し開けたが……そこに、黒と白の後姿はなかった。ポカンとしてから、思わず数歩、外に出て辺りを見渡すが、それらしい人影は何処にも見当たらない。
 ――まるで、さっきの青年は、幻だったかのように。


「………………」


 ……夢から覚めた気分だった。
 それでも、青年に掴まれた手にはまだ、彼の手の感覚は残っている。
 一体、何処までが夢で、何処までが現実なのか。



「―――全部、現実だよ」



 ……自分の心を読んだように、声がした。
 椅遊は、背後を振り向いた。気が付かなかったが、ここは自分が目指していた教会だった。
 荘厳と神聖なる静寂に満たされるその中は、あまり明るくない。祭壇の上に燭台もあるが、今は、正面のステンドグラスからの差し込む光が唯一の光源だ。

 ただ……いつもと違う。教会内に、誰も人がいない。ここは首都だし、神の信仰者は多いはずだ。神官さえも誰一人として教会にいないということなんて、有り得ない。
 ――いや、一人、いた。
 正面奥の祭壇の前に立つ人影。背後にステンドグラスを背負っている関係上、逆光で、ここからよく見えない。
 その影が、ひらひら手招きして、穏やかに言う。


「とりあえず、中においでよ。こんな離れて立ち話もなんだから」
「………………」


 誰もいない教会にいる人物。その時点で怪しいが、その気配はとてもあたたかで、穏やかだった。誘われるまま、椅遊は言われた通り、歩を進めた。
 扉を静かに閉め、長イスに挟まれた通路を歩いていく。一歩進む度に、人影の影が薄くなっていく。人影の後ろに、白と黒の羽を持つ虹色の光球が描かれた、大きな絵画が見えた。イースルシアに伝わる神像だ。
 通路の真ん中辺りまで近付いた頃に、ようやく椅遊はその人物の容姿を見て――声も出せずに目を見張った。

 彼は、微笑う。


「初めまして、朔司椅遊。こうして挨拶するのは初めてだね」
「……貴方、は……」


 微笑んでそう言うのは……青年だ。柔らかな目元の金の瞳と、アチコチが跳ねた白髪。黒いスーツを着ているが、前はボタンを1つも掛けずに開けていたり、締まりがない。
 ぱっと見て脳裏を掠めるのは、先ほど助けてくれた青年の姿。しかし、彼の雰囲気や言動は、明らかにのものだ。

 二人の特徴がごちゃ混ぜになった、不思議な青年。戸惑いながらも、その雰囲気が懐かしいと感じるのは否めなくて。
 複雑な想いを抱きながら、椅遊は恐る恐る口を開いた。


「……貴方は……ルトオス、なの?ううん、夕鷹……?」
「あぁ、なるほど。今の君には、俺がそういうふうに見えてるのか。ルトオスが4割、夕鷹が6割の割合で混じり合ってるってところかな」
「どういうこと……?貴方は、一体……」


 奇妙な言い回しをする、夕鷹でも、ルトオスでもない青年。誰もいない教会の中には、彼と椅遊だけ。
 困惑した様子で投げかけてきた椅遊の問いには答えず、青年は、静かに別のことを話し始めた。


「覚えてる?俺は一度、君と会ったことがあるんだよ。女帝祭の時、迷子になってた君を助けてあげた」
「女帝祭で、迷子……? ……あ……もしかして、夕鷹に似た、小さい男の子……?」
「ふーん、その時はそう見えてたのか〜」


 かすかに残っていた記憶を思い出し、椅遊が言うと、青年はふんふんと頷きながらそう言った。
 あの時、確かに、夕鷹によく似た少年に助けてもらった。あの少年が今、目の前にいる青年になったというのか。しかし、どう見たって年齢差がありすぎる。半年、多く見積もっても1年で、これほど人は成長しない。


「それは多分、君が、夕鷹の過去を知りたいって思ってたからだよ。だから俺が、子供むかしの夕鷹の姿に見えたんだ」
「……じゃあ、今は……夕鷹とルトオスに、会いたいって思ってるから……貴方が、そう見える……?」
「うん、そーそー。相手の望みが影響するんだ。上出来〜」


 椅遊が手探りに出した結論を言うと、青年は夕鷹のように喋って笑った。

 それから彼は、すっとこちらに歩いてきた。目の前で立ち止まった青年を見上げ、椅遊は思わず表情をゆがめた。
 夕鷹ではないとわかっていても、その雰囲気はとても彼に似ていた。自分の思い描いたものだから、当然なのかもしれないが……その分、夕鷹がいないのがつらく感じる。


「……貴方は……誰……?」
「うーん、それは後回しかな。それより、ちょっとついてきてほしいんだ」


 さっきから問うている最大の疑問を、青年はまたもやひらりとかわし、椅遊の横を通り過ぎていく。教会の外に出るとわかった椅遊は、慌てて彼を振り返って呼び止めた。


「ちょ、ちょっと待って!でも私、さっきの騒ぎで……」
「大丈夫大丈夫。えっとまず、俺は人の五感せかいに映らない存在なんだ。ま、たまーに第六感で察する人はいるけど。でも大体、俺の姿は誰にも見えない。けど、俺から誰かに干渉することはできる。それで、干渉を受けた人は、俺の影響を受けて、俺と同じように人の五感せかいから外れちゃうんだ。……む〜、今のでわかった?」
「えっと……うん。じゃあ……外に出ても大丈夫、ってことだよね?」
「うん、そーゆーこと。じゃ、ついてきて〜」


 よくわからない小難しい説明をしてから、青年は扉を開いた。彼に招かれて、椅遊も小走りで彼の後ろへつく。先を歩く青年の後を緊張しながら歩いていくが、不思議と誰も自分に視線を向けることがない。いつもは笑顔で挨拶しあう店先の人々も。彼の言った通り、誰にも見えていないらしい。奇妙な感覚だった。

 世界から隔離されたような感覚の中を、青年を追って歩いて、にぎやかな城下町を出た。城の者を引き連れずに一人で町の外に出るのは初めてで、ドキドキしている椅遊に、青年が振り返って笑った。


「お城は楽しい?」
「うん。今は、毎日お勉強。いろんなことを知るのが楽しいの」
「はは、君の場合、以前の記憶がないんだもんな〜。新しいことばっかりだろうね」
「うん。六香もたまに遊びに来てくれるし。幸せだと思う」


 来月が、誕生日。おおよそ17歳の自分には、通常ならば誰もが持っている16年分の記憶がない。だから、子供でも知っているようなことさえ知らない時がある。今は、その失くした分の記憶を学ぶので大忙しだ。
 六香も、兄達とともに何度か城を訪ねてくれる。相変わらずの気の強さで、猟犬ザイルハイドもどきの采と楸を追い回していると聞いた。それが目に浮かぶから、つい笑ってしまう。
 前には、梨音が天乃と一緒にやって来た。サレスではない梨音と会話した。サレスのことを楽しそうに語る少年を、傍で天乃が小さく微笑んで見守っていた。優しいその光景に、椅遊も微笑んだ。
 ――自分は本当に、幸せだ。あの時死ぬはずだったのに、今こうして生きている。

 そんな想いを詰め込んで、微笑むように言うと、青年も笑った。


「ふーん、そっか。でも、満足してないよね?」
「…………え?」


 ――あっさりと、彼は椅遊の言葉を否定した。椅遊が驚いて目を瞬くと、青年は正面に顔を戻した。


「祈るの、好きっしょ?」
「……うん。大事な時間。祈ってると、凄く心が落ち着くの」
「うん、知ってるよ、、、、、君はいっつもそうだから、、、、、、、、、、、。何も考えずに、ただその想いだけで祈ってる。――だって、考えたら、苦しくなるから。『まだ会えない』って」
「………………」


 彼の白髪の後姿を見つめてから、椅遊は視線を足元に落とした。穏やかな口調で的確に言い当てられて、思わず胸を押さえる。

 ――今、自分は、幸せだ。それに変わりはない。
 でも、満足かと問われると、言葉に詰まる。
 帰ってくると信じていても、それは一体いつなのか。
 それまで、自分は耐えていられるのか。
 埋まらない胸の空洞。
 彼がいない、この寂しさ。




 下に向いていた視界に、ひらりと何かが過ぎった。
 顔を上げると、目の前は淡い薄紅色に染まっていた。一瞬何かと思って、その色の向こうに垣間見えた樹を見て、風に舞い散る桜の花びらだと知る。
 前がよく見えないくらいの桜吹雪の中、青年を見失わないように、少し距離が開いていた彼に駆け寄ると、彼は悠長に立ち止まった。


「ほら、ピザなんか食べてないでおいでって」
「腹減ってたんだから仕方ないだろ〜?腹が減ってはなんとやらだよ」


 ―――え?

 風が止み、桜の風花が一時的に収まる。いつの間にか自分達は、1本の桜の木が生える草原にいた。
 足を止めた青年は、その桜の木の陰を向いて、呆れたように溜息を吐いた。


「だからって、真っ先に『ピザ食いたい』はないっしょ」
「お前と違って、俺は人間だから腹減んの。それに、ひっさしぶりのピザだしさ〜。しっかしまー、よく<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>も悪ノリしたよなぁ〜」
「本人曰く、同じ聖界の住人だったよしみで、だそうです。<流れを御する者オーフェラーグ・リデル>に掛け合ってみたところ、貴方の型は以前見て、すでに記憶済みだったそうですよ。空界で組める術式なんて限られているから、覚えるのも模すのも改良するのも簡単だと言っていました」
「ははっ、サレス形無しだなぁ。ま、リデル相手じゃ仕方ないっか〜」


 途中から青年の声が、少女の声に緩やかに変化していたことに、椅遊は気付けなかった。

 ……一歩、前に出る。
 三歩で歩けそうな距離。ひどく、遠い道に見えた。

 一歩。
 足元が、ふわふわして落ち着かない。まるで、夢の道を歩いているかのようで。

 一歩……

 蒼い少女が立つ位置より、少し手前から。桜の木の陰に座る人を覗き込む。
 ピザを片手に、幹に寄りかかって座る青年がいた。

 こちらを向いた、彼の金色の瞳と目が合った。


「や、椅遊。思念こえ、よく聞こえてきたよ。最後の1枚、食べる?」


 心の大事な部分を開けっ放しにしたような、無防備な笑顔。
 1年間、会っていなかったなんて思わせないそんな笑顔で、彼は片方の手のピザを差し出した。





 ……駆け出した。
 桜吹雪で、陽光で、滲んで見える青年に。
 びっくりしてピザを取り落としかける彼に飛びついて、詰まる喉で精一杯の声を張り上げた。





「―――――おかえり、夕鷹っ……!」






















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